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母は90歳

ひとり実家で暮らしている母は90歳。10年前に父が亡くなった時は少し弱気になったけど、春に90歳を迎えた時何を思ったのか、心機一転がんばりますと宣言したのには思わず笑ってしまった。歳を重ねる毎動きづらくなる身体を持て余しているが、まだ頭の方はシャンとしていて頼もしい。
先日実家へ行った折、気晴らしにドライブでもしようと母を乗せコースも決めず適当に走っていたら母の実家近くの国道に差し掛かった。視力が衰えて景色もぼんやりとしか見えない母にそのことを告げると、母がポツリと話し始めた。昔はこの道は舗装などされてなくて轍でガタガタだった。そんな道を親に遣いを頼まれて自転車で何キロも走って往復したのだと。その轍は深くて、道の真ん中が山のように高くなっていたと言う。それは走りづらかったのではと聞いたら、今ではこんなにヨロヨロだけど、若い頃はなんでもできたのだと小さく笑った。
母の目にはぼんやりとした景色ではなく鮮やかな記憶とともに若い頃見たままの景色が目の前に広がっていたのだろう。
この道は母を乗せて何度も走ったことがあるのに初めて聞く話。母もたぶん、ふと昔の光景を思い出したんだろうな。
それを聞いて、母がいなくなったらその光景を語る人はいなくなるんだと思ったとき、幾千幾万の誰も知らない古人の、誰かの声やその人達が見てきたこと思ってきたことも、誰にも知られることなく消えていったんだろうなと思い至って、ああこれが命が消えていくということなのかと、運転しながら涙が出てきて困った。

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