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ヘタレな家族

今わたしはある大学病院に入院している。低温火傷を負ってしまい、皮膚移植をすることになったからだ。

入院生活は思わぬことも起きる。手術した足は1週間は平行を保たないといけないそうで、不便この上ない。トイレも片足である。昨日は隣の女性のいびきで眠れなかった。でも毎日病院食もモリモリ食べている。

期間限定だし重体ではないから、我慢できるのだろう。この状況を珍しがり、楽しんでいたりもする。

もともとヘタレで、病弱で、すぐに痛い、つらいと、泣き言をいうたちである。学校では欠席日数も多かったし、社会に出てから休業はもう3回目だ。普段も何かあればすぐに休む。

一方で、「意外と何でも平気だもんね、あんたは」と熊本の叔母は言う。この「意外と平気だもんね」は一応褒め言葉らしく、いざとなると何でも食べられるとか、誰とでも話すとか、そういう意味らしい。 


自分で言うのもおかしな話だが、我が家はお嬢様育ちの人間ばかりで、環境への適応力が圧倒的に低い人が多かった。とにかく衣食住にうるさい。

小さい頃から祖母、母、2つ下の妹の叔母がわたしの生活の中心であった。祖父や兄の男性陣は、食事が終わるとすぐに自室に引っ込む。女系家族である。

叔母は子供の頃、修学旅行だか林間学校だかに行ったとき、何も食べれない、食べたくないと、1口も食べないまま帰ったことがあるらしい。迎えに行くと、駅でフラフラになりながら待っていたと、祖母が話していた。いくら口に合わないからといって、数日間も食べないなんて、どうかしている。わけのわからない意地を張る人である。

そんな娘を呆れて見ていた祖母もワガママで有名な人であった。加賀生まれ、華やかな時代に女学校に通い、京大生と俳句のサークルでキャッキャッと過ごした女子は肉体労働がきらいだ。話す相手は選ぶし、化粧品も洋服も高いものばかり。そもそも家事をほぼしない。まったくしない。話す人も選ぶ。入院したときに見舞いに行くと、誰とも話さずツーンとお姫様のようななりで、高校生だった孫のこちらが申し訳なくなった。

母もしとやか、控えめに見えて大差ない。食べ物の好き嫌いが多すぎる。肉も野菜も全般的に嫌いで、食べられる食品を数えた方が早い。百貨店で買ったパンかお菓子ばかり栗鼠のように食べている。夫に言わせると、「あんたのお母さんはどうやって生きてるの?仙人?」ということらしい。

祖母は大正、その娘たちも戦前生まれである。3人とも戦火をくぐっている。「昔の人が我慢強い」という言葉は、わたしの身内を見る限り、嘘らしい。

こんな人たちと育ったわりには、わたしは、いたってフツーである。

そんな彼女たちであるが、驚くほど力強いところもある。

仕事についてた祖母と叔母は、重病に倒れたことがあるが、そのまま老齢まで職務はまっとうした。祖母は自宅の前で喀血までしたらしい。

母は結婚生活14年程度で離婚したが、その間の生活は娘時代と大きく違ったことは想像がつく。それなのに、そのあと1度も父のことを悪く言わない。

こういうふうに書くと、責任感の強い、真面目な、男勝りの女性たちに思われそうだが、ケロッとしている。なにしろケロッとしていて、毎日笑っている。話のレベルはいたって低い。怒るわ、泣くわ、ケンカも多いが、あきれるほどケロッとしているのである。

叔母が75歳すぎても仕事に向かうので、「もういいんじゃない」と言ったら、「お金がもらえたら、バッグやら、靴やら、それで好きな物が買えるでしょうが」と言っていた。おしゃべりなくせに、深く思っていることを言葉にしないから、使命感とか楽しさとか口に出さない理由があるのかもしれないし、言葉どおり、ただお金のためなのかもしれない。そこに大した意味はない人なのだ。もう「はあ、そうですか」という感じである。これさえも、お互いに深い話はしないから勘違いかもしれない。


昔は反発を感じて喧嘩した。小さいときからことごとく逆らった。近所の人があまりの声の大きさと泣き声に心配して見に来たことが、何度もある。3日に1度は大喧嘩をしていた気がする。大人になってからもそれなりに喧嘩する。

でもたまに「こんなところもあるのか、へえ」と感じるときがある。「へえ、やるじゃん」と思ったあとに、別のことが起きて腹が立つ。そしてまたおかしなことが起きて笑う。毎日一緒にいるのは正直しんどいが、たまに会いたくなる。辛いことがあれば一番に思い出す。とうに鬼籍に入った祖母はいつも近くにいて守ってくれているような気持ちになる。

なんだかなあとお互い思いながら気になる。だから家族なのかもしれない。ヘタレだが、何があってもケロッとしたDNAに感謝。

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