番外――再び、安倍元首相襲撃事件

 7月9日に、事件についての感想を「番外」として書いた。

 事件後の経過を自分なりに追っているのだが、容疑者の生い立ちや家庭環境、事件に至った経過などを知るほどに苦しくなる。

 その苦しさのひとつは、一般的可能性として「自分が容疑者のような境遇に置かれなかったとは限らない」こと、もうひとつは、同じ日本に容疑者より先行して生まれ、社会人として多少なりとも先に歩いてきたのに、容疑者のような境遇に置かれている人、その境遇を生んだ(という)社会的問題などを自覚することなく――簡単に言えばのほほんと――生きてきたことへの悔悟、からくるものかもしれない。

 別の言い方をすれば、自分はよりよい社会を作るために何かしてきたか? という問いでもある。

 いろいろな社会問題に無頓着だったわけではない。自分自身の生活、学業、仕事にもそれなりに真剣に向き合ってきたとも思う。

 でも、多くの人が「生きづらさ」を抱えるいまの社会を作ってきた責任の一部は、自分(たちの世代)にもある、とも思う。個人は社会から離れて生きられない。個人は否応なく社会の一部であり、社会は個人の思考や行動の総体なのだ。そしてわたし(たち世代)は、少なくとも容疑者世代より先行して社会に関わってきた。

 そのことが、思いの外堪えている。

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