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一分間のイルミネーション、と生活


生活には体力がいる。そう言い始めたのは誰だったろう。

仕事帰り、家に帰るたびに散乱するあれこれを一瞥しては目を背けるということを繰り返しているうちに、現実逃避が得意になった。人を迎え入れることが滅多にないものだから、自分がケチをつけない限りその状態であり続ける。他人に甘く自分に厳しい人を尊敬していながら、他人に適当で自分に甘い自分を見て見ぬふりしている。「だいたいみんなそうだよ」と笑う友人はまさに尊敬する当人で、その無邪気なやさしさに息が詰まりそうになる。

生活には体力がいる。世の中にはそのことに気づかないくらい自然に生活をこなす人がたくさんいる。ましてや丁寧な暮らしというものをそつなくこなす人が一定数いて、その人らの話を聞くたびに「人それぞれ」という無責任な言葉にすがりつく。どんな人のどんな悩みでも「人それぞれ」という言葉で処理されてしまう、便利で残酷な世の中を生きている。

2023年11月30日
生活から目を背けているうちに、2023年も終わりに近づいていた。日の当たらない部屋に住んでいるからか、眠りから覚めても起きたという感覚になれず、わざわざ外に出て日光を浴びることで一日を始める生活が続いていた。この日もそうで、いつの間にやら足場のなくなった部屋から慎重に玄関に向かい、サンダルを履いて外に出ると、隣に住む大学生がちょうど部屋の鍵をかけているところだった。彼とはときどき一緒に煙草を吸うくらいの間柄だったけれど、一か月近く姿を見ていなかったのでお互いにぎこちない会釈をした。
「海外でインターン受けてたんです」
彼はそう言ってポケットからおどろおどろしい小箱を取り出し、現地で買ったという煙草を一本手渡してくれた。まだ目覚めた感覚のない私はなおもぎこちなくお礼を言い、大学行ってきますと言う彼の背中を見送った。少し間をおいて日光の差すアパート前の道路に出てようやく目を覚ます。たまたま出くわしただけなのにごく自然に煙草を手渡してくれた彼の行動を思い返し、「生活うまいな」と独り言を零しそうになったところをもらいたてのニコチンとともに吸い込み、得体の知れない味にせき込んだ。

部屋に戻ると、スマートフォンがけたたましく鳴り続けている。画面を見てようやく今日はまだ平日だということを思い出し電話に出ると、前日送ったはずのデータが届いていないという連絡だった。慌ててメールを開くと送信履歴に確かにそれはあって、もう一度確認してもらうと迷惑メールの中に紛れていたと謝られた。確認お願いしますとだけ伝えて電話を切り、コンビニパンをかじりながら支度をして会社に向かった。

生活が不得手な私にとって、自由出社の今の職場はとてもありがたい。在宅でも出社でもいいし、きちんと仕事の期日を守っていれば特段時間で拘束されることはない。朝がどうも苦手なので、夜中まで作業をして朝はギリギリまで寝ていられるこの環境から私はもう逃れられなくなっている。とはいえ部屋は散乱していて、日も入らないのでどうにも在宅だと集中できず、ほとんど出社することにしている。

会社に喫煙所はない。会社が入るビルの中にもそれはなく、煙草を吸うには外に出てとある並木道まで歩く必要がある。頭を整理したいときや息抜きしたいとき、5分弱かかるその移動時間が私にとって大切なものになりかけている。

この日も仕事は夜遅くまでかかった。正解のないものと向き合い続けてもう一日が終わりに差し掛かっている。会社には私の他に誰もいない。そのことを意識してから途端に寂しくなり、人の気配を求めて逃げるようにエレベーターに駆け込んだ。ビルのドアを開けるとひんやりとした風が私の頬を瞬時に赤らめる。灯りの少ない、それでいて静けさが五月蠅いこの夜から逃れるように喫煙所まで足早に歩を進めた。

並木道に出ても、心なしかいつもよりも灯りの広がりが少なく感じた。喫煙所にはときどき見かけるタクシードライバーがひとり、背を丸めながら立っている。素性の知れない赤の他人がいるという安心感にもたれかかるように、背を向けて煙草に火をつけた。仕事が終わらないことに焦りながら、友人らの幸せそうなSNSを無心でスクロールする。今の生活では私に本当の意味での幸せは訪れないような気がして、そのことに悲観するでもない私の無情さに心の中で嗚咽を繰り返す。

ふと、視界の端が明るくなる。光の出所を目で追うと、すぐにそれは並木道に装飾された電球によるものだと知った。イルミネーション。今の私には無縁のはずのそれに、心ごと上に引っ張られた感覚を持った。私とタクシードライバーの他に人はいないように思えたけれど、並木道の少し先から女性たちの「キレ―」という言葉がこだまする。車通りもほぼない推定無音の世界で、何かに感動する声だけが響くこの空間に思わず笑みがこぼれた。タクシードライバーと目が合い、照れ隠しをするように「綺麗ですね」とおどけてみせる。
「点灯式は明日のはずだけど」
タクシードライバーはそう言って首をかしげながら、「ラッキーですね」とはにかんだ。それから一分もしないうちに光は消えて、また先ほどの女性たちの「えー」という声がこだまする。のちにそれがイルミネーション点灯式前日の試点灯だとわかったのだけれど、私たちはそのたった一分弱のボーナスタイムのようななものに心ごと持っていかれたのだった。

タクシードライバーに軽く会釈をして会社に戻る。心が少し上に向いた気がしたけれど、だからといって仕事がうまくいくわけでもない。フィクションにありがちな、夜景を見ながら語らった後の省略された帰り道のように、ドラマチックなものはドラマチックなだけで尾は引かないものなのだ。

もう何も浮かばない。そう悟った頃には終電はなくなっていて、帰り支度をして会社をあとにする。とぼとぼと喫煙所に向かうと、先ほどのタクシードライバーがひとり、煙草を咥えながら耽っていた。目が合ったので軽く会釈をすると、少し間をおいて話しかけてくる。
「ここ、休憩場所のひとつなんです」
聞くと、私とまた出くわすまでの間も何人か乗せたけれど、どれも近場までだったのでその度に戻ってきていると言う。
「しばらく休憩ですか?」
「乗っていきますか?」
問いかけの意図を汲み取られたようで少し恥ずかしく、申し訳なくも思いながら、「お願いします」と軽く頭を下げる。
「でも近場じゃないですよ」
「ありがたいです。ちょっと準備しますね」
タクシードライバーはそう言ってはにかみ、煙草の火を消してタクシーの中
に入っていった。

「もうあっという間に年末ですね」
毎秒移り変わる景色をぼうっと眺めていると、静かに、でも確かに聞き取れる声でそう語りかけてきた。そこでようやく、いつの間にか日を跨ぎ12月になっていたことに気付いた。とはいえまだクリスマスすら遠いように感じるから、そのセリフに効力はないように思える。
「ですかね」
先ほどのイルミネーションを思い返す。東京の12月は視覚的にも聴覚的にも装飾され、私の中で賑やかしいものと解釈していたから、タクシードライバーの少し悲観的ともとれる声質で発せられた“年末”という言葉にどこか新鮮みを感じた。

「ほうふとか掲げてましたか?」
「ほうふ」
イントネーションが少し変わっていたものだから、理解が追い付かずオウム返しをしてしまう。
「はい、今年の抱負です」
「あー。掲げてたかもしれないですけど、忘れちゃいました」
「じゃあ、来年掲げるとしたら?」
「・・・生活、ですかね」
「生活?」
「はい。生活をこなす」
問いかけの意図はわからなかったけれど、なんとなく適当に返したら見透かされるような気がして、真剣に考えてみてもそれ以外に思い浮かばなかった。
「仕事のこととか掲げた方がいいかもですけど、それ以前に自分、恥ずかしながら、生活があまりにも下手で」
気付けば、私がどんなに生活に向いていないか、生活と向き合ってこなかったかを赤裸々に語っていた。互いの視線の先にはしきりに信号の点滅が繰り返されている。アクセルとブレーキの使い心地がこんなにもやさしいタクシードライバーに初めて会った。そんな感想を抱いた頃には気づけば自宅の傍まで近づいていた。

「なんかすみません、大した話でもないことをつらつらと」
「いえ。生活をこなす。すてきな抱負だと思いますよ」
「そうですか?」
「生活って、気付けばできるようになるものじゃないと思うんです。“大人になる”と同じことですね」
「大人になる」
「はい。成人して、他人から大人と呼ばれる年齢になっても、自分は自分が大人になったとは思えない。そういう人って、意外といるでしょう」
「はい」
「生活はただ流れるものだと思っている人、自分のことを大人かどうかなんて疑うことすらしない人がいる中で、お客さんはそれに気付き、そして向き合おうとしている。その時点で、僕はとてもすてきに思えます」
 私はこれまで、寡黙か饒舌か、どちらかに極端なタクシードライバーにしか出会ったことがなかった。だから彼の、映画の中でしか聞かないような間を重んじる言葉の紡ぎ方に、つい聞き惚れてしまう。

「このあたりで大丈夫ですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
タクシーを降りたらこの夜が終わってしまいそうな気がして、なんとなくいつものタッチ決済をやめ、クレジットカードを手渡す。彼はそれを手に取り機械を操作しながら、「イルミネーション」と呟いた。
「はい」
「あれ、試点灯だったそうですね」
「そうなんですね」
「毎年この時期は装飾された並木道を運転していますが、正直心が動いたことなんてありませんでした。むしろ人が多くて、写真撮るために道路に入ってくる人もいて、あまり好きじゃなかったんです」
「へえ」
「でも今日のたった一分弱のあの時間、なんだかとてもいい気分になって」
「わかります」
「あの時間を共有していたあなたに、最後に乗ってもらえてよかったです」
「最後?」
「はい。親の介護で、実家に帰るんです」

タクシーを降りると、身体が火照っていたことを風の冷たさに気づかされる。仕事の所為ですっかり引いていたあの余韻が、いつの間にか戻ってきていることに驚いた。角を曲がるタクシーの車体を見送りながら、ドアを閉める瞬間に見えたタクシードライバーの表情を思い返す。家に帰り、部屋を一瞥する。脱ぎっぱなしのスウェット、数ページで脱落した小説、買ったことに満足して手を付けていない積読たち、ポストから取り出したまま放置していたチラシの束。散乱するあれこれをひとつひとつ認識することから始めてみる。2023年はもう、年末に差し掛かっている。

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