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巫子を護る者 第一章


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

あらすじ

献栄国(けんえいこく)の王都から離れた村に住む少年・満砕(ばんさい)は、親友の立憐(りゅうれん)とともに平穏な日々を過ごしていた。しかし二人が八歳のとき、王都からやってきた兵士によって立憐が連れ攫われてしまう。「結界を張り、他国から国を守る『巫子(みこ)』」に立憐が選ばれてしまったのだ。もう助けられないことを突きつけられた満砕だったが、そばにいるために巫子の護衛の任を勝ちとろうと決め、武術を磨いていく。そして十年の時が経ち、願いは叶うが――。






 爽快な青は罪を知らない顔で、献栄国(けんえいこく)の上空に広がっている。時が真昼に差しかかったころ、天空は色を変えた。視覚化された空間のゆがみが、波立って空を覆う。

 満砕(ばんさい)はいつもその光景を見るたびに、布を綺麗に張るときの揺らめきに似ていると思っていた。人によって見え方の異なる虹色が全体に満ちると、また元の青空へと戻る。

「この国は『巫子(みこ)様』がお守りしてくれているの」

 亡き母親が教えてくれた、唯一の記憶。献栄国全体に結界が施され、空の色が変わるのはその合図なのだと。満砕は結界が張り替わるたびに、母の教えを思いだす。

「巫子様が真昼を知らせたぞ!」

「昼飯にするか」

 村人たちは口々にそう言って、仕事の手を止める。何事もなかったかのように、青空の下では日常が続く。そよ風が麦の穂をなでた。

「満砕、そろそろご飯の時間だよ! 遅れると、また母さんに怒られる!」

 立憐(りゅうれん)が大きな声を放つ。

 立憐は言いつけを守る素直さがある。だが、その顔は台詞に反して、八歳の子どもらしくまだ遊び足りないと言っている。おそらく満砕も同じ顔をしている。立憐は母親に怒られるのを恐れているが、満砕は立憐の母親に怒られ慣れていて怖くはなかった。

 手伝いと称して麦の穂をずっと駆け回っていたから、二人の黒髪は熱を帯びていた。うなじに汗が伝う。「巫子の守り」の合図ももちろん気づいていたが、満砕は立憐の手を引いて、再び駆けだそうと足に力を入れた。

「立憐! 満砕! 家に戻るぞ!」

 立憐の父親である亞侘(あた)が、作業を一旦終えて二人を呼んだ。長く世話を焼いてくれる亞侘は、満砕の悪知恵を見逃さなかったようだ。

 満砕の足はぐっと止まり、ふてくされた声で返事をした。立憐は満砕と父親の顔を行ったり来たりさせてから、溌剌と声を響かせた。

 汗ばんだ手を放し、麦畑から少し離れた集落に体を向けた。穂先に隠れて見えづらい方向に、二人の集落はある。

「立憐、村まで競走だ!」

「え⁉ 待ってよ、満砕!」

 満面の笑みで先頭を走る満砕。それから少し遅れ、立憐は置いていかれないよう必死で追いかける。ほとんど変わらない身長の二人だったが、満砕の足は速く、あっという間に差は開いていく。

 村一番俊足の俺について来られるかな、と内心ほくそ笑む満砕だったが、優れた聴覚は風に運ばれてきたすすり泣きを捉えてしまった。

 急いで足を急停止させる。辺りに土埃が舞い、速度を押し殺す。やりすぎたか、と思いつつ、ぐるりと体ごと振り向いた。

 牛車五つ分離れた後ろに、黒い髪の小さな体が体勢を崩しながら、懸命に足を動かす姿があった。

 足を止めている満砕に安堵したのか、それとも悔しかったのか、立憐は口を一文字にきつく結んでいる。ようやく辿りついた立憐の青い目は揺らめいていた。

「ったく、こんなことでいちいち泣くなよ」

「だ、だって、満砕がどんどん先、行っちゃうから」

「競走だって言ったろ? 仕方ないから引っ張ってやるよ。ほら、一緒に行こう」

 手を差しだすと、さきほどまで泣きかけていた立憐は一瞬にして笑顔になった。単純なやつだと思う。だが、自分も大差はない。最初から置いていくつもりはなかったと立憐が知ったら、頬をふくらませて怒りそうだと、満砕は心中で含み笑う。

 二人は手を握り合い、揃って家路を辿った。

 


 朝日を浴びて起床したあと、満砕と立憐は家の手伝いと村内でのこまごまとしたおつかいをこなす。二人が本格的に畑仕事をするにはまだ幼く、子守りをするには元気すぎた。村の中で年の近い子どもはいないため、満砕と立憐はいつも二人で過ごしていた。

 真昼を過ぎて山に入る。自然が生みだす恵みを少しだけいただくためだ。立憐の母親の優蘭(ゆうらん)に持たされた籠を背負って山道を進んでいった。

「獣道に入ってはいけないよ。戻れなくなるからね」

 口を酸っぱくして言われた注意に、二人は素直に従う。

 なぜなら、以前に注意を守らず、立憐とともに真夜中の森で野宿するはめとなったからだ。遠くで聞こえる野犬の遠吠えや、まるでこちらを狙っているかのような梟の鳴き声に二人は抱き合って怯えた。あのときは火の起こし方を知っていた立憐と、総出で探しに来てくれた村人たちのおかげで事なきを得たのだった。

 道を逸れようとそそのかした満砕を、立憐は責めなかった。自分も反対しなかったと、村人たちの叱責を一緒に受けてくれた。

 自分一人が怒られるのはまだしも、立憐や、親代わりでもある亞侘と優蘭に迷惑をかける行動は慎もうと、満砕は心に決めたのだった。

 麦畑とは逆の方向にそびえる山に入ると、早速道なりに山りんごがなっていた。

「今が食べごろだよ。母さんが喜ぶ」

 嬉しそうに微笑む立憐に、満砕の心も温かくなった。

「俺がのぼるから受けとってくれ」

「山りんごの木は幹が太いけど、枝は弱いから気をつけてね」

 のぼり始めながら返事をして、満砕はするすると器用に中程までよじのぼった。赤く熟していそうなものから、下に待っている立憐に向かって落としていく。服の裾を広げて、立憐は受けとっていった。

「黄色のはどうする?」

「また今度取りに来よう。そのころにはきっと食べごろだよ」

「おばさんに菓子作ってもらおう」

「砂糖が高くなったから難しいかも。畑のさとうきびも、今年は多くできなかったから都にほとんど持ってかれちゃうらしいよ」

 耳聡く村人の話を聞いている立憐の情報に、満砕は木から飛びおりて顔をしかめた。

「貴族のやつら、何でもかんでも持ってくよな。あんなにたくさんある麦だって、ほとんどがお貴族様のもんになんだろ? それから都へ、王宮へって、俺たちから取りすぎなんだよ」

「気持ちは分かるけど、どこで聞かれてるか分からないんだから、貴族の悪口は言っちゃいけないって母さんが」

「へいへい。最近おばさんに似てきたな、立憐」

 困った表情で注意してくる立憐に、貴族への苛立ちを少しだけ八つ当たりした。

 立憐だって、それこそ大人の村人たちだって、みんな同じ思いを抱えている。抱えていても黙っている賢い者のようにならなければならない。頭では分かっていても、満砕はまだ子どもだった。立憐みたいに聞き分けのよい、いい子にはもうしばらくなれそうになない。

 茸(きのこ)や山の果物を採りながら、山の中腹まで差しかかると、空は段々と暮れていった。陽は完全に落ちていないが、下山する時間を考えると帰路についた方がいい。

「立憐、そろそろ帰ろう」

 重くなった籠を背負い直し、来た道を戻ろうとしたときだ。地響きに似た音が鳴り、何かがこちらに迫ってくる振動を感じた。

 瞬間的に立憐の手を引いて、茂みの中に飛びこんだ。

 時間を置かずして、一度も行ったことがない王都があると言われている山の向こう側から、三台の馬車が勢いよく村の方へ走り抜けていった。一瞬の出来事に、満砕も立憐もぐっと息を呑む。草の陰になって気づかれなかった二人は、しばらく静かに身を縮めるしかできなかった。

「……今の馬車、村に行ったよね」

 顔を真っ青にした立憐に何も言えない。満砕は恐ろしい予感が頭からぬぐえなかった。

 満砕は立憐の手を引っ張った。しかし、いつもよりも重い体に、彼が背負ったままの籠に目がいく。立憐の背中から籠を強引に引きはがし、中身が転がるのを無視してその場に放った。

 再び立憐の手を取り、いつも以上に足を広げ、腕を大きく振った。

「満砕! ちょっと、待って! 速すぎるよ!」

 足を絡ませながらも走る立憐は、必死に満砕についていこうとする。満砕もできるだけ立憐の限界の速度に合わせながらも、心ははやるばかりだ。小刻みに吐きだされる立憐の浅い呼吸を耳にしているときも、満砕の頭には優しい村人たちの顔が浮かびあがってきた。

 さきほどの馬車は、月に一度集落にやってくる商人の車ではなかった。去り際にめくれ上がった幌(ほろ)の奥に、鎧をまとった兵士が何人も乗っていたのだ。立憐は幌の奥が見えていなかったはずだが、昔から空気にさとい。鳥が声を潜めているのも、村の異様な静けさも感じとっているはずだ。

 兵士が村に何かしに来た。証拠はない。だが、平穏が崩れそうな気がしてならない。体が強張るような、反対にすくむような、いやな予感に囚われている。

 ――俺の、俺たちの村に何かさせてたまるか!

 立て続けに親が病気で死んだ満砕を、村人たちは面倒を見てくれた。特に同じ年齢の男の子がいた立憐の家は、満砕を本当の家族のように迎えいれてくれた。八つになるまで健康に生きてこられたのは、村人たちの優しさがあったからにほかならない。

 今までの幸せを、これからの幸せを壊されてたまるものかとはやる胸を抑えて、とにかく足を動かし続けた。

 麓まで来ると、立憐は肩を激しく上下させている。このまま一緒に村の道を走らせるのは酷でしかない。

「俺は先に行く。立憐はあとからついてきてくれ」

「いやだ! はあ、んぐっ、置いて、行かないでよ」

「村が何ともなかったらすぐ戻ってくるから。俺と一緒に走ったら、今度こそ気を失っちまうよ」

 立憐の額に浮かぶ汗をぬぐってやり、「満砕!」と叫ぶような制止の声を振り払って一人で集落へと走った。

 ぽつぽつと灯っている明かり。いつもなら、野犬を追い返すためにもっと火を焚いているはずだ。

 異常事態はやはり村で起きている。集落の入り口に辿りつくころには、さすがの満砕も息が上がっていた。夜の夕飯時にはない恐ろしい静けさに、焦燥感が増していく。気配はあるものの、村人の姿はまったくといって見えない。

「やめて!」

 悲愴な叫びを耳にして、満砕は反射的に走りだした。今の声は優蘭のものだ。いやだ、何も起こらないでくれと祈りながら、立憐たちと暮らす家に向かう。

 見慣れた家の前に止まった三台の馬車。山の中で見かけた、兵士が乗っていた馬車だ。家の中から漏れた明かりによって、十人以上の兵士が取り囲んでいる光景が目に入ってくる。抵抗しているのは亞侘と優蘭だ。二人は兵士によって取り押さえられていた。

「ごたごた言ってないで、早く差しだせ! 隠し立てするならば容赦はしない!」

 叫ぶ兵士に二人は力強い瞳を向けている。その姿に腹が立ったのか、兵士は腕を振りあげた。満砕は怒りを燃えあがらせ、殴ろうとした兵士の腕に飛びつくと歯を突き立てた。

「な、なんだ、このガキ?」

「満砕っ!」

 勢いよく振り払われた拍子に、満砕の体は軽々と飛ばされる。一回転しながらも空中で体勢を整え着地し、もう一度兵士に飛びかかろうと構えた。

「満砕、お願い! あの子(、、、)を連れて逃げて!」

 優蘭の叫びに、満砕は一瞬だけ静止して、足の向きを素早く変えた。次の瞬間には、今まで走ってきたばかりの道を駆け戻っていた。

「おい! あのガキを追え!」

 背後で兵士の叫ぶ声が聞こえてくる。下山の疲れも忘れて、とにかく足を動かし続けた。

 ――おばさんは言った、「あの子」を守ってと。

 やつらの目的は「立憐」なのだ。山の中に立憐を置いてくればよかったと後悔した。いつも行動をともにしてきた癖が、このようなところで仇となるとは誰が予想できただろうか。

 大人の足は速く、兵士ともなれば村人たちとの脚力と比べ物にならない。満砕の後ろにすぐ追いついた兵士の掴みかかろうとする腕をかいくぐり、満砕は方向転換すると、集落の入り口ではない方へ向かった。

「ここは内緒の通り道だよ」

 どこか照れくさそうに立憐が教えてくれた、草木でできた通り穴をくぐる。そこは子どもの体が通る大きさしかない。体格のいい兵士は入ることもできず、絡み合った蔦でできた格子は兵士の目を撒くのに適していた。

 山に向かう道のりに戻れば、立憐は足を引きずるようにして駆けていた。立憐は戻ってきた満砕を見つけると、ほっとした様子で手を振る。しかし、満砕の切羽詰まった血相に、すぐに顔色を変えた。

「満砕、どうしたの? 村は――」

「そんなことはいいから、早く逃げるぞ!」

 後ろから馬の足音が響いている。満砕の姿は見られていないだろうが、逃げるとすれば、麦畑か山間だと思われているはずだ。

 森の中に逃げこむしかないだろう。満砕はそう判断して、再び立憐の手を引いて山の中に入った。

 村人たちに怒られてから入らなかった森は案の定不気味でしかない。さきほどまで驚くほど静かだった野生動物の声が、やけに騒がしい。

 手元に火がない以上、辺りは真っ暗だった。体の端々は木の枝によって傷つけられていく。それでも進む足を止められない。獣道と言われるような道なき道を、草木をかき分けながら強引に進んでいった。

「こんなに奥に入ったら戻れなくなるよ!」

 泣き叫ぶように告げてくる立憐に、満砕は言葉を返せない。「待って!」「説明して!」と嘆く立憐に、強く手を握り返すことしかできなかった。とにかくどこか安全なところに立憐を隠さなくてはと、息の足りていない頭の中はそれしかなかった。

 もっと闇が濃くなれば、恐ろしい獣の時間となる。だが、今は獣よりも同じ人間の方が恐ろしい。兵士が来るよりも早く、どこか遠くに立憐を連れていかなければならない。

 木が開け、目前に崖がそびえていた。裸の岩場の足元には、草木に隠れて洞穴がある。どこに通じているか分からないが、一旦立憐をこの場に隠し、兵士の動きを確かめた方がいいだろう。

 考えついたばかりの作戦を告げようと、満砕は立憐の方へ振り向いた。

 ドガッ!

 音とともに衝撃で目が眩む。何が起こったのか分からないまま、頭への激しい痛みが遅れてやってくる。

「満砕っ!」

 立憐の声と、複数の草木を踏む音。ぶれた視界は正しい情報を届けてくれない。

「こいつ、悲鳴も上げねえ。可愛くねえなぁ」

 前髪をむしられるように掴まれ、体を乱暴に持ちあげられる。頭から頬へと流れる熱い感触とともに、がんがんとゆすぶられる頭の痛み。

「おまえが強く殴りすぎたんだろう? 可哀相に、目を回してる」

「可哀相なんてこれっぽっちも思ってねえだろうが。さっ、ご所望の『巫子様』は手に入れたんだし、さっさとこんな辺鄙な土地からおさらばしようぜ」

 目の前の兵士は満砕に興味をなくして、力任せに放った。満砕の体は巨木に当たり、体勢を整えられないまま根本に崩れ落ちる。

「御上が首を長くしてお待ちしている。急がなければ」

 耳からしか入ってこない状況に、満砕は自分が殴られたのだとようやく悟った。

「放して! 放してったら!」

 抵抗する立憐の声。複数の知らない大人の声。血の巡りがかあっと頭の中でうごめいている。段々と戻ってきた視界は赤く濡れていて、その向こうで兵士に捕縛された立憐がいた。

 立憐が捕まってしまった。痛みも忘れて、立ちあがろうともがく。しかし足は震え、ただ立つこともできない。その姿を嘲笑う兵士の声が響き、立憐の悲鳴が遠ざかっていく。

「満砕‼」

 助けを求めるような立憐の叫びに答えられないまま、満砕の意識は暗闇の中に沈んでいった。

 

 

 温かな布団の上に寝かされている。目を覚ました満砕に気づいた優蘭は、「あなただけでも無事でよかった」と言った。彼女にその言葉を言わせてしまったことに気づき、満砕は目の前が真っ白になる。

最後のあやふやな記憶は夢ではなく、現実に起きた最悪な出来事なのだと、状況を置かずして知るはめとなった。

「どうして?」

 満砕は問わずにはいられなかった。立憐の両親こそ、その答えを知りたいはずだろうに。問わなくても、分かっているのに。

「立憐は、選ばれた(、、、、)の……?」

 満砕の昂った感情で揺れた声に反応して、優蘭もまた赤くなった白目から涙をこぼす。亞侘が支えるように優蘭をかき抱き、二人して体を小刻みに震わせた。彼らの悲哀が全身に伝わってきて、ただ呆然と布団の上で途方に暮れるしかなかった。

 頬を流れ、顎を伝い落ちる水滴に意味などない。満砕はまだ立憐が「『巫子』に選ばれた」のだと正しく認識できていなかった。

「巫子なんて、使い勝手のいい生贄と同じじゃない!」

 優蘭が耐えられないとばかりに叫んだ。

「やめなさい! どこで王都の連中が聞いているか分かりやしない」

「あの子は、あの子はそんな大それた存在じゃない! 普通の、どこにでもいる、ただの優しい子なだけなのに!」

 優蘭はその場に崩れ落ちて慟哭した。

 巫子は国の宝。国民の誰もが、その存在を尊いものだと認識している。

 神官だ、奉仕だと言いながら、巫子は国のため、神に捧げられる。

 巫子の力によって、献栄国全域に結界が施される。不可侵の障壁が張り巡らされ、他国からの攻撃を防ぐ。朝と真昼と夜の三回に渡り、作り直される障壁は巫子が国を守っている印だ。

「立憐は、……もう帰ってこないの?」

 塩辛い口を動かして出てきた言葉に、自分自身でがっかりする。立憐の両親を傷つけると分かっていながら、安堵したいがための疑問を無責任に投げた。答えを分かっていながら、もしかしたらと希望を口にする。

 亞侘は力なく首を振った。

「私が生きている間に巫子は三回代替わりした。王都では三回の国葬が執り行われたそうだ」

「国葬って、何?」

「亡くなった方への、お別れの儀式だよ」

 神に捧げられた者は、神のもの。

 巫子になってしまったら、もう二度と会えない。巫子とはそういう役割だと、今まで知らないはずはなかったのに。

 色が変わる空を見て、「昼飯の時刻だ」と喜んだ。人生の中で身内が巫子になると、少しも予想してこなかった。

 自分の中のちっぽけな世界に満足していたのだ。その世界が、壊されると少しの予想もしていなかった。考えなしの自分に吐き気がこみ上げる。巫子に、その家族に対して、ほんの一片の同情も与えなかった心の狭さ。今ごろになって気づく無情を、いったいどう整理しろというのか。

 新しい巫子が決まり、自分の子どもではないと安心する親が、この国にどれだけいることか。「献栄国の当たり前」の慣習を、憎まずにはいられなかった。

 立憐は友であり、兄弟である。ずっと、ずっと一緒に過ごしてきた。今までがそうだったように、当然と、これからも一緒だと思ってきた。同じ飯を食べ、同じ床で眠り、同じ時を過ごしてきた。

 半身だった。

 立憐は、もう一人の自分だった。

 半身を失ったままで、生きていけるわけがない。

「満砕?」

 亞侘はよく満砕の仕草を見ている。満砕の気配が変わったのをいち早く感じとってきた。いぶかしむような亞侘の声に、満砕はうつむいていた顔を上げた。

 十歳以上老けてしまったような亞侘の瞳を捉え、そしてむせび泣く優蘭を見る。育ての両親に、満砕は誓った。

 ――俺は、半身を取り戻す!

 痛む体を叱咤して立ちあがる。

 大きな背負い袋を掴むと、食糧庫から日持ちする食材を詰めこめるだけ詰めこんだ。井戸から水筒に水を入れて、ようやく自分が寝間着に着替えさせられていると気づく。

「満砕、何を……?」

 様子を見に外に出てきた亞侘を放り、部屋に戻って動きやすそうな格好に着替える。靴が脱げないように、布を巻いて足に固定する。これでいくら走っても、足を止める理由はないだろう。

「何をしているの? やめなさい!」

 顔を涙で濡らした優蘭が立ちふさがった。

「そんな格好でどこへ行く気?」

 狂乱気味に叫ぶ彼女に、後ろめたさなど一切ない真っ直ぐな瞳を向ける。

 心は決まっていた。優蘭も、その覚悟が分かっているから、行動を止めようとしてくるのだろう。満砕は一歩も引くつもりはなかった。

「俺が立憐を、おばさんたちのところに帰すよ」

「そんなことができるはずないじゃない!」

「なんで言いきれるの? 俺は諦めたくない!」

「ここから王都までどれだけかかるか分かってるの? おまえが帰ってこられる保証もないのよ!」

「けど! このまま立憐のいない村で生きたくない!」

「満砕!」

 優蘭は唇を震わせて感情を抑えると、満砕の肩を鷲掴みにした。その力強さによろめきながらも、一瞬も瞳を逸らさず見つめ続けた。

「満砕……お願いだから、おまえまでいなくならないで……」

 掴まれた肩から、優蘭の心の叫びが伝わってきた。

 ――選ばれたのが、親のいない俺であればよかったのに。

 自分が彼らに愛されていると自覚しながら、そう思わずにはいられなかった。

 段々と熱を増す優蘭の手を優しくなでる。

「お願い。行かせてよ」

 目が溶けてしまうのではと、心配になるくらい涙を流す優蘭。顔の皺を伸ばすように、そっと手で触れる。何度も何度も涙をぬぐって、彼女の悲しみを取り除いてやりたかった。

「必ず、帰ってきなさい」

 背後に立っていた亞侘が、優蘭の体を満砕から引きはがす。

「二人で、必ず」

 青い目で射抜かれる。立憐と同じ青い瞳に力強く頷き返した。

 悲鳴のように「行かないで!」と泣く優蘭を振りきって、荷物を背負うとそのまま家を飛びだした。外にまで響く制止の声を鼓膜に焼きつけながら、足を前へ、前へと踏みだす。

 後ろは一度も振り返らなかった。



 
「放せ! 何するんだ!」

「うるせえガキ! ここはおまえのような薄汚いガキが来るとこじゃねえんだよ!」

 屈強な男に首元の服を掴まれ、満砕はそのまま城壁の外に投げ飛ばされる。背中を強く打ちつけ、弾むように地面を転がった。

 見たことも行ったこともない地を、自分の足で駆け抜け、感覚が麻痺していた。打ちつけた背中は腫れあがり、体中あちこちに擦り傷ができている。

 血が流れてもなお、目に力を灯したまま立ちあがった。

 長距離の走行で靴は擦りきれ、むき出しの指が見えている。まめがいくつも割れては固まった血の痕ができていた。もちろん服も土埃や泥で汚れており、大きな穴があちこちに開いている。

 持ってきた食糧は七日で底をつき、それからは道中に育つ木の実や野草で食いつないだ。体力を越えた運動量も相まって、満砕の見た目は骨の浮いたみすぼらしい容貌だった。

「おい、ほどほどにしとけよ。城壁前を血まみれにしたら、連帯責任で俺らも怒られるだろうが」

「わぁってるよ!」

 仲間の兵士たちは愉快げに、満砕がなぶられる姿を見ている。

 薄汚れた貧相な少年が、王都を囲う城壁の検問を通ろうとして追いだされようとしている。その光景は王都を利用する者にとって、そう珍しいものではないのだろう。孤児が物乞いをしていると、商人の格好をした者たちは、嘲笑を浮かべて悠々と検問を過ぎていった。

 検問を担う兵士は、ふらふらと立ちあがった満砕の腹を思いきり蹴りあげた。つま先が地面から浮かびあがり、泡を吐いて崩れ落ちる。体に力は入らず、ぴくぴくと痙攣を起こす。視界が点滅しながらも、満砕は立憐が連れ去られたときを思いだした。

 ――俺は、なんでいつも無力なんだろう。

 立憐のいる王都に入ることさえできない、ひ弱なガキ。これでは、気持ちを押しこめて満砕のしたいようにさせてくれた亞侘に示しがつかない。

 ――こんなところで死んでたまるか!

 唇を強く噛みしめると、口の端に生温かい感触が通る。舌を伸ばすと鉄臭さが広がった。血の味を確かめて再び足に力を入れる。

「こいつ、まだ起きあがる気か?」

 なぶる行為を楽しんでいた兵士だったが、何度も立ちあがる満砕を不気味そうに見つめた。周囲で野次を飛ばしていた他の兵士たちも、冗談のつもりで言った地面の血だまりに気づくと、次第に口を閉ざしていく。

「なんだよおまえ、気持ち悪ぃな!」

 血まみれの足を動かして検問を越えようとする満砕に、兵士は大きく腕を振りあげた。風音を立てて落ちてくるこぶしに、これを受けたら死ぬだろうと思った満砕は反射的に体をのけ反らせた。

「いつから献栄国の兵士は、弱い子どもを虐めるようになったのか?」

 体勢を崩した満砕は足をもつれさせ、尻餅を突く。いつになっても痛みはなく、恐る恐る目を開けると、目の前に大きな背中が立ちふさがっていた。満砕へ振りあげられたこぶしは、体格のいい兵士よりも、さらに屈強な男によって受けとめられていた。

「ろ、瓏(ろう)将軍!」

 震えた声は裏返り、兵士は怯えた様子で後退する。明らかに年少な者をなぶり続けていた兵士は、男の登場に完全に畏縮しきっている。

 将軍と呼ばれた男は、身にまとった鎧の重さを感じさせない足さばきで距離を詰めていく。そして、周囲にもはっきりと聞こえる声で「それで?」と詰問した。

「弱者を痛めつけるおまえたちは、献栄国の兵士と言えるのか」

「ぃ、いえ……」

「では、おまえたちは献栄国の兵士ではないということだな。いつから王都の検問によそ者が入りこんだのか。詳しい話は、基地でじっくり聞こう」

 将軍は片手を上げて合図を送ると、控えていた部下らしき者たちは検問していた数人の兵士たちを連行していった。抵抗する兵士を問答無用で黙らせていく部下の姿に、満砕は頭からの血も忘れて、呆気に取られてしまった。

 半開きになった口に血が流れこみ、むせ返る。将軍は外套をひるがえすと、満砕の目線にしゃがんで膝をついた。同じ目線に立ってくれる存在に、全身に入っていた緊張がほぐれていく。

「俺は瓏夏陀(ろう かだ)。おまえの名は?」

「……満砕」

「満砕、なぜ王都へ?」

 夏陀の声音は兵士を威圧していたときとは真逆に、低い声の中にこちらを気遣う響きがあった。

 村を出てからずっと張りつめていた気はゆっくりと緩まる。そうすると痛覚がにわかに浮かびあがり、ほとんど休みなしで走ってきた溜まりに溜まった疲労は限界に達していた。血を出しすぎて回らない頭は口を勝手に動かす。

「立憐と、一緒に帰るんだ」

「立憐?」

「連れてかれた……早く会わないと、立憐は巫子になってしまうから。だから……」

 絶対に帰るんだ。

もう一度宣言しようとして口は回らなくなる。ぐるんと視界が一回転して、それから何も考えられなくなると、あっという間に意識を失った。

 


 

 大きな窓から、燦々(さんさん)と明るい陽射しが入りこむ。

 どこが一番痛いか分からないほど、体は弱りきっていた。頭にきつく何かが巻かれている。感覚から、それは包帯である気がした。体を見れば、傷を負っていた箇所すべてに手当てがされている。

 随分と立派な寝台に寝かされており、顔を少し動かすだけでも、部屋の内装は今まで見たことのないものばかりだった。

 ――どこだ、ここ……?

 不安よりも、当然な疑問が頭を埋め尽くす。薄雲のような思考の先に、立憐の後ろ姿がよぎった。すぐに閉じそうになる目蓋をこじ開けて、麻痺した体を叩き起こす。

「ああっ! だめだよ!」

 満砕はそのとき初めて、部屋に自分以外がいたのだと知る。

「起きあがらないで。本当なら起きあがれる力なんてないはずだろうに。いったいどこからその気力はあふれてくるの? 頭の傷も癒えてないし、足の怪我だって治ってないんだから」

 そう諭したのは、少年から青年に足を踏みいれたくらいの男だった。男は満砕の肩を軽く押して寝台に戻す。元から力の入っていなかった体は簡単に寝かされて、満砕は大人しくせざるを得ない。

「立とうだなんて思わないでね。足にはひびが入っていたんだ。あと少しで骨折していたかもしれないって医者が言っていたよ」

 小さい子どもに注意する口調に、渋々と頷く。青年は寝台近くの椅子に腰かけると顔を覗きこんできた。

「私は琉架(るか)。瓏将軍の部下で、君のお世話を任された」

 あまりにそつのない名乗りに、満砕は自分が名乗るのも気づかず問い返す。

「瓏、将軍?」

「大王直属の兵団、第一部隊を任された指揮官。その方が瓏夏陀将軍。検問で暴力を振るわれていた君を助けてくれたんだ。覚えてない?」

 意識を失う寸前の記憶を辿ると、おぼろげな視界の中で誰かと会話をした気がする。その内容をはっきりとは覚えていない。

 力なく首を振ると、琉架は最初から期待していなかったのだろう。仕方ないと微笑むだけだった。

 将軍位にある、それも大王直属部隊の指揮官が、見た目が孤児の自分を助けてくれた。その事実を聞かされ、少なくもその記憶がうっすらとある満砕はただ疑問だけが残った。

「あんたたちは仲間なんだろ。なんで俺なんかを助けてくれたんだ?」

 将軍位に就く夏陀にとっては末端の検問兵だとしても、彼らは同じ軍に所属している。満砕の味方になるよりも、検問兵と一緒になって排除に回った方が士気も高まる。

 琉架は柔らかな相貌を真剣なものにして、間違いを正していく。

「私たちは国を守り、民を守るために存在している。君も、守られるべき一人だ。彼らの判断は献栄国の兵士たる自覚がなかった。ただそれだけの話だよ」

 その言葉に嘘の色はなく、琉架は心からの信条を語っていた。

 半月以上前、立憐を攫っていった兵士の姿を思いだし、検問時の暴力を振り返る。今まで虐げてきたやつらは献栄国の兵士だ。

 しかし、満砕を助けてくれた者もまた、献栄国の将軍だった。

 改めて、体中に巻かれた包帯を見つめる。医者へ治療を指示した者は夏陀にちがいない。固く結ばれた頭部の包帯に触れながら、怒りや憎しみをどこに向けてよいのか分からなくなっていた。

 じっと向けられていた視線がなくなる。座っていた琉架は寝台脇にある吸飲みに水をそそぐと、優しい手つきで満砕の口にそっと近づけた。意識がどれほどなかったのか知れないが、乾ききった口内に爽快さが広がっていく。

 水を飲みきる姿を確認した琉架は、吸飲みを遠ざけてから目線を合わせてきた。

「私は君の事情を知らない。だけど、これだけは言えるよ。瓏将軍が助けた時点で、私は君の味方だ」

 どこまでも誠実な姿勢。平和な村にいた満砕であれば、手放しで信じきっていた。だが、兵士の暴虐と、王都の人間の酷薄さを知ってしまった以上、疑いの目を逸らせない。

 水を摂って、少しばかり落ちつきを取り戻した。失った血はいまだに足りず、痛みも相まって視界が揺れている。

 現状、将軍である夏陀に保護、もしくは軟禁されている事実に変わりはない。夏陀の意図が見えない以上、早く立ち去った方がいい。だがそれも、怪我が治らない限り無理がある。

 夏陀の部下だといった琉架は、今まで見た兵士とは違って見えた。鎧姿ではなく、着ているのが軍服だからかもしれないが、短い間でも丁寧な言葉遣いや仕草から彼の善人さが際立った。

 こちらが助けられた側であるのだから、いつまでも不愛想なのは礼儀に反する。優蘭が言っていた。受けた恩は返しなさい、と。兵士への抵抗を呑みこんで、真摯な態度をとってくれる琉架に向き直った。

「……満砕、です」

 名乗られるとは思っていなかったのか、琉架は一瞬少年らしさを見せたが、すぐに穏やかな笑みを返した。

「満砕だね。よろしく。今は安静にして、怪我を治すことだけに集中しようね」

 深く眠って治しなさいと、琉架は満砕の目元を手で覆う。視界が真っ暗になると、程よい温かさからゆっくりと意識は遠のいていった。

 


 どれだけの時が経ったのか、闇をたゆたっていた満砕に知る方法はなかった。再び意識を浮上させたきっかけは、光の先から聞こえるにぎやかな音だった。段々と近づく音は大きくなっていき、気づけば目を開いていた。

 気絶したときと変わらずに、心地のいい寝台に寝かされている。喉の渇き具合から、この前からそれなりに時間が経過しているようだった。

 窓の外は明るく、今は朝か昼なのだろう。それにしても外が浮足立ったように騒がしい。眠りを妨げた音は、外部から響いてきた人の歓声によるものだった。

「目を覚ましたんだね。怪我の具合はどうだい?」

 ずっとそばで見守っていたのか、琉架はすぐに満砕の目覚めに気づいた。吸飲みを傾けられ、勢いよく吸いあげる。からっからの喉に、甘く冷たい救いが通っていった。

 どくどくと血液が体の中を流れている。水を飲む動作に集中していて遠ざかっていた聴覚が、再び窓の外の異常な歓喜の声を拾いとった。

「外が騒がしいけど、何かあったの、ですか?」

 口からこぼれた水を袖でぬぐいながら、たどたどしい敬語で尋ねると、琉架は吸飲みを片づけながらさらりと答えた。

「ん? ああ! 今日は新しい巫子様のお披露目があるんだ。王都の外からも巫子様を一目でも見ようと人が集まっているんだよ」

「え……」

 新しい巫子。その単語にぞわりと全身の肌が粟立った。体温がなくなってしまったのか、背中を寒気が走っていく。

「……行かなきゃ」

 口の中でつぶやいた本音は、脳に「すぐに行動しろ」と信号を送ってくる。

「行かなきゃ」

 もう一度声に出し、布団を飛ばしてはぐと、寝台から転がるように下りた。体勢を崩したものの、素早く体を起こし、足を踏みだす。体が振動するたびに痛みが足に響く。

「何してるの⁉」

 驚愕を浮かべた琉架が走り寄ってきた。琉架の体を押しのけて前に進もうとし、尋常ではない痛みが全身を駆け抜ける。

「つぅっ――」

「ひびが入ってるんだよ? 立てるわけないだろう?」

 体を支えてくる琉架が今は煩わしくて仕方がなかった。痛みのせいで思い通りにならない体も、満砕の焦りをかき立てる。

「放してくれ! 行かせてくれ!」

 はやる気持ちが悲痛な叫びとなって飛びでた。

「だめだ! 絶対安静って言っただろ?」

「行かなきゃ! 早く行かなきゃ、立憐が巫子にされてしまう!」

「巫子様? あっこら、行ってはだめだって!」

 這いずってでも進もうとする満砕を、琉架は軽々と横に抱えあげた。手足を暴れさせるが、満砕の小さな体は簡単に取り押さえられてしまう。

「お願いだ、放して! 立憐のところに行かなくちゃ、早く、行かなくちゃいけないのに! 俺が、助けるって誓ったのに!」

 琉架の体を押して逃れようともがくが、琉架は細身に反して一切力を弱めない。さすがは将軍の配下というべきか、彼より十以上も年下で、怪我をしている満砕に勝ち目はなかった。

 ――助けなくては、助けるためにここに来たんだ!

 思いがふくらめばふくらむほど、いったい自分に何ができるのか。何とか王都に辿りついても、検問一つ越えられない。何の権限もない満砕は立憐の元に向かう手立てもない。

 亞侘が送りだした理由も今なら分かる。子どもの足では王都には行けない、運よく行けたとしても王都の中には入れないと分かっていたのだ。自分から行動し諦めがつけば、村に帰らざるを得ない。彼にとっても賭けだっただろう。結局、村で兵士に気絶させられたときと変わらず、満砕は無力の子どものままだ。

 ぼろぼろになったのは体だけではなく、心もすり減っていた。会いたい、救いたいと、わがままにわめいているガキでしかない。

 段々と抵抗する力もなくなって、荷物のように横に抱えられたままうなだれた。ぽたりぽたりと頬を通過せずに、目からあふれた水滴が床に落ちていく。心にぽっかりと開いた穴はどんどん広がる。埋めてくれる存在を求めて、気持ちばかりがはやった。

 麦穂の束のように横脇に抱えられていた満砕は、いつの間にか琉架の腕の上に抱きあげられていた。真正面から静かに泣いている顔を見られたが、羞恥心は湧いてこない。その感情さえも抱く余裕がなかった。

「その立憐って子は、満砕のなんだい?」

 琉架は憐れむように瞳を向けていた。

 王都にまで追いかけてくるほどの、かけがえのない存在。それは何かと、琉架は問う。

「友達だ」

「友達、ね。友達のために、たくさんの怪我を負っても助けようとしてるの? それは、どうして?」

 再びの問いに、満砕はうまく答えられない。「友達だから」、それ以外の答えを持っていない。だが、琉架が求めている答えはそれではない気がした。

 満砕がすぐに返せないでいると、琉架は切なそうに目を細めた。

「巫子様はもう神殿に入られた。だから、君が助けだすことは不可能なんだ」

 残酷な事実を教えられ、現実を叩きつけられる。満砕は今すぐに目を瞑って、現実から目を背けてしまいたかった。

 琉架があまりにも同情的な視線を送るから、満砕は絶望に浸れない。

「巫子様のお披露目、私とともに見にいく?」

 予想もしなかった申し出に、目から大きな一滴を落として見開いた。

「……いい、のか?」

「いけないだろうね。瓏将軍には怒られるだろうな。私は君の見守りを頼まれただけなので、本当なら巫子様の元に行かせられない。広場で逃げようとしてもいいけど、おすすめはしないよ。それでも、行きたいかい?」

 琉架も、満砕に妙な提案をしていると分かっている。分かっていながらも、満砕に訳ありの巫子を見せようとする、彼の心根の優しさが伝わってきた。

「行きたい」

 今の自分にできることはないと、満砕もまた痛いほど理解していた。無力さをさらに痛感するはめになる。そうであっても、満砕は立憐に会いたかった。最後に見た光景が、泣き叫んで連れ去られる姿にしたくない。

 まっすぐな思いの丈を受けとめると、琉架は力強く頷いた。用意してあった真新しい服装に着替えさせられ、歩けない満砕は琉架に抱きあげられる。琉架の首に腕を回し、初めて部屋の外に出た。

 長い廊下が前にも後ろにも続いていた。手入れされた庭からは温かな日光が照らしている。堅実な屋敷の造りにしては、庭は華やかな花々で彩られている。

「ここは将軍のお屋敷だよ」

好奇心をはやらせ、辺りを観察していた満砕に琉架は教えてくれた。

 屋敷を出て、いつの間にか用意されていた馬に乗る。

 ――ここが、王都……。

 人の多さに満砕は改めて王都の中にいるのだと実感した。商家が連なる大通りには、地面を覆いつくす人と品物の山があった。商人が品を安く売ると声を張り、身なりのいい男がその前を通りすぎる。露店が立ち並び、おいしそうな匂いを漂わせている。派手な外見の軽業師が曲芸を演じているかと思えば、どこかから講談師の声が聞こえてきた。山ほどに荷を積んだ車が横を通っていく。様々な目的を持つ者たちが入り混じる空間に目を剥いた。

 人の流れを追っていると、一定の方角に向かう人々の姿があった。どの人も高揚とした表情を隠せずに、連れの者と会話を弾ませている。その先が、満砕の目当てであると気づくのに時間はいらなかった。

「……巫子っていうのは、そんなにもすごいのか」

 嫌味のようなつぶやきは、琉架の耳にも届いていた。

「巫子の存在は誰しもが知っている。満砕も、小さいころに教わらなかったかい?」

「教わったよ、育ての親に」

「巫子様が結界を張ってくださるおかげで、私たちは平和に生活できている。巫子様とお会いできる機会は少ないから、祝儀のときは盛大に、国民の誰もが感謝と称賛を送るんだよ」

「……巫子だけが無理をして守られてる国なんて、なくなっちゃえばいいんだ」

 本音をもらせば、琉架は体を一瞬だけ強張らせた。怒られる覚悟もあったが、琉架は諭すように静かな声を発するだけだった。

「それは今までに巫子を勤めあげた、数多の巫子様に失礼だ。私たちは彼らの献身のおかげで、今も生きながらえているのだから」

 満砕は国民の多くが巫子の犠牲があると知った上で、それでもなお国を守る道を優先しているのだと認識しなくてはならなかった。

 ――そんなの間違ってる!

 国を否定し、歴史を否定し、慣習を否定したい。国の平和よりも、満砕にとっては立憐の命の方が大切だ。

だが、満砕もまた、犠牲になる人が立憐でなかったなら、口をつぐんで巫子の制度に賛同していただろう。当事者になって初めて、人は被害を実感できる。

 ――気づいてからでは遅いのに。

 王宮を覆う、そびえたった石壁に近づきつつあった。正門の、さらに上の櫓に兵士が立ち並んでいる。

 正門前の広場に到着して、琉架は道の端に馬を止める。すでに集まった民衆の波に流されるように混ざり合った。

 広場に集まった都の民は、正門の櫓から新しい巫子が挨拶に出てくる姿を今か今かと待っていた。すさまじい熱気が空間を覆っている。

 群衆のざわめきに押されながらも、琉架は傷に障らないよう配慮してくれている。抱えられているため、他の人間よりも頭一つ分視界が開けている。王宮から距離は離れているものの、櫓の位置はしっかりと確認できた。

 人々の口に上る言葉は「新しい巫子様」について。みな、頬を上気させて、巫子の偉大さを語りあっている。そこに一人の人生を縛りつけている罪悪感はない。巫子とはそういうものだと思いこんでいるのだ。

 満砕は立憐の心を思った。恐怖に怯えていないだろうか。責任に圧し潰されていないだろうか。立憐は大人しく優しい性格の子だから、使命だと言われたなら「いやだ」とは決して言えないはずだ。わがままも、我慢も、口にしていないだろう。一人で、苦しみを抱えているだろう。

 ――立憐の苦しみは、俺の苦しみなのに。俺は、今何もできていない。

 ただ無為に傷を負って、立憐に駆け寄れない自分が情けなかった。

 一瞬にして湧きあがった盛大な歓声に勢いよく顔を上げた。

 白い衣装を着た神官に手を引かれ、王宮に通じる扉から出てきた小さな体。汚れや陰の一切ない真っ白な装束に身を包み、服と同じ生地で作られているだろう面布で顔を隠している。陽の光に反射してきらめく装飾は、巫子の神聖さを際立たせていた。

 歩を進めるごとに国民の歓声は大きくなっていく。新たな巫子の誕生に喜びの声を上げる民の声や姿は、満砕の視界に入ってこなかった。

「立憐……」

 満砕の目は、被り物が揺れるたびに覗く、立憐の表情をはっきりと捉えていた。ふわりふわりと、焦らすように揺らめく面布。その奥の、諦観と消沈の混ざりこんだ顔を目にした。

 そして、一瞬だけ交わる視線。時が止まったかのように感じた次の瞬間に、視線は明らかに逸らされた。

 満砕と立憐には距離がある。目が合ったと勘違いしたのだと思えばそれでしまいだ。

 しかし、生まれたころからずっと、立憐と満砕は一緒だった。満砕は立憐の動揺を感じとる。意図的に目を逸らされた。そう理解して、愕然とする。

 立憐は自分の立場を理解している。巫子に選ばれ、巫子として生きていかざるを得ないと教えこまれたはずだ。立憐を救いたいと無謀な道を進んだ満砕よりも、彼は現状を分かっている。

 満砕は勝手に、置いていかれた寂しさで目元が揺れた。短い間に、立憐だけが大人になってしまったかのような疎外を感じる。お門違いな感情だと思うも、ただ事実であるのは、満砕は必要とされていないのだ。

 立憐を助ける選択肢はなくなった。最初からなかった選択肢は、熱狂的な国民の姿によってかき消されていく。手を振って挨拶を返した新たな巫子は、再び王宮の奥に消えていった。そこに満砕の手が届くはずはなかった。

 巫子の姿がなくなると、琉架は人混みをかき分けて広場から抜けだした。その間、満砕は琉架の声に反応を返す余力はなく、呆然と下を向くしかなかった。

 広場での光景が目の奥にこびりついている。耳には献栄国の繁栄を祈る国民の叫びが残っている。

 ――立憐は、受けいれてしまったのか。救われる道を諦めてしまったのか。

 立憐は決めざるを得なかった道を進んだ。

 それでは、ちっぽけな自分にいったい何ができるのか。

 その答えを欠片も思いつけなかったが、一つだけ、満砕の心に残った覚悟があった。

 見捨てない。一人にさせない。

 生まれたときから変わらず、立憐の運命は満砕とともにあった。ならば、満砕の進む道も決まっている。

 

 

「先代巫子は、私の従姉だったんだ」

 広場からの帰り道、馬に乗りながら琉架は静かに言った。見あげると、琉架は満砕を見ておらず、ただ前を向いていた。行き先を見ているというよりか、どこか遠い昔を思いだしているようだった。

「従姉はね、優しい人だったよ。兄弟の中で一番年下だった私のことを、随分と可愛がってくれた。平民だったけど、ひどく貧しいわけではなかったから、私たちは平和に日々を過ごしていた。つもりだったんだ」

 すべてを過去で言いきる琉架に、満砕は先代巫子である琉架の従姉が、もうこの世にはいないのだと遅れて気づく。

「満砕が知っての通り、王都から兵士がやってきて、無理やり姉さんを連れていこうとした。抵抗したおじさんおばさん、それから父さんを斬り捨てて、私は姉さんに庇われた。……姉さんは、連れてかれてしまったんだ」

 悲しそうに目を細める琉架に、満砕は何と言っていいか分からず、そのまま口を閉じていた。琉架は満砕が聞いていると分かった上で、落ちついた声音で独白を続けた。

「私も、満砕と同じ。王都まで遠くはなかったから、幼い足でも辿りついたよ。運がよかったのはそこまでで、帰り道が分からなくなってね。村の名前も言えない子どもだったから、どうしようもできなくて。姉さんを助けることよりも、まず自分の命が危うくなった」

「……それから、どうしたんだ?」

「君と変わらないんだよ、私は。命尽きそうなところを、瓏将軍に拾ってもらった。将軍は満砕を見つけたとき、おまえの再来だなって言ったんだ。まさか本当に満砕も、巫子様を追ってきたとは思わなかったけどね」

 遠くを見ていた視線を、琉架は現実に戻した。前に乗せている満砕を見下ろして、優しい瞳で見つめてくる。

 琉架は先代巫子のことをすでに整理をつけている。その穏やかな目を見て、満砕はそう思った。それは巫子が亡くなったからか、と聞けるほど、満砕は無神経にはなれなかった。

「私は諦めてしまったけれど、満砕、君はどうしたい?」

 まだ自分に選択をくれるのか、と満砕は少しだけ救われた。

 琉架は長く話してしまった、と自嘲して、それから話しだすことはなかった。

 満砕の頭の中に、ぐるぐると問題が回っている。馬の硬いたてがみが風にそよぐ様子を見つめながら、混乱した頭で考えを巡らす。

 立憐は、巫子になってしまった。神殿に入ったら、助けだせない。では、満砕ができることは?

 その答えを知る可能性がある人を、満砕は一人だけ思いつく。

 屋敷に到着して、部屋に運ばれながら満砕は琉架に頼みこんだ。「瓏将軍に会わせてほしい」と。

「将軍はお忙しい方だから、すぐには確約できないけれど、それでもいいなら。将軍も君の怪我を気にしていたしね」

「ありがとう、琉架」

「さっきより顔色がよくなってる。何か、決めたんだね」

 満砕は寝台に乗せられて、琉架に頭をなでられた。子ども扱いするなと払うところが、今は温かな手の感触が心をゆっくりと落ちつかせた。

「満砕が何を決めようと関係ない。怪我が治るまで、私は君を手助けするよ」

「……将軍の命令だから?」

「そう。将軍が君を生かそうとしたんだ。私も、将軍の立場だったらそうしただろうね。だから、私は私のできることをするんだよ」

「将軍も琉架もお人よしだ」

「お人よしはね、困っている人間を見捨てないんだよ」

 今度は豪快に頭をかき混ぜられる。その揺れに身を任せ、彼らを頼ることを決めた。それしか道がないと思いながらも、彼らを少しでも信じたいと思ってしまったからだった。

 

 琉架は宣言通り、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。鍛錬で抜けるものの、ほとんどの時間を満砕の介護に務めていたらしい。満砕は長い時間、深い眠りについていた。睡眠をとることで、体が治癒に向かったというのが医者の見立てだった。

「動物的な回復力だと医者が褒めていたよ」

「それ絶対褒めてないよ」

 顔を歪ませた満砕に、琉架はくすくすと笑った。

 眠ってばかりだったため、久しぶりに顔を合わせた琉架に世話の礼をする。琉架は仕事だからという姿勢を崩さず、礼さえも受けとってはくれない。

「瓏将軍が今夜帰ってくる」

 夕飯に粥を用意してもらいながら、思いだしたとばかりに琉架は言った。

「今夜って、これから?」

「食べ終わったら将軍の部屋に行こう」

「心の準備をする時間がほしかった」

「君、結構図太いから大丈夫だよ」

 けなされているのか、からかわれているのか。粥の皿を受けとりながら、じとりとした目で琉架を睨みつけた。琉架は子どもの責める目などお構いなしに、にこにこと表面上の笑みを浮かべている。

 重湯を腹に流しいれ、琉架に抱えられて将軍の待つ部屋に移動した。

「琉架です。満砕を連れてきました」

 幕が垂れさがった部屋の前で琉架がうかがうと、中から「入れ」と一言だけ端的に返ってくる。部屋に入ると、瓏夏陀将軍は巻物から目を上げず、敷物に腰かけていた。

 質素ながらも上品な造りの調度品。高級そうな敷物と文机が置かれているだけの部屋だった。満砕は夏陀の向かいの敷物に座らせられる。琉架は目でささやかな合図を送り、そそくさと部屋を出ていってしまった。

「俺に会いたいと、琉架から聞いた」

 二人きりにして置いていくのかと、去っていく琉架を二度見していた満砕に、夏陀が口を開いた。相変わらず巻物から目を離さず、視線は合わない。忙しい方なのだと事前に琉架から聞いていた満砕は、大して不快に思わずに答える。

「兵士から助けてくれて、それから怪我の手当もしてくれて、あの、ありがとうございます」

 今の状況が当たり前ではないと分かっている。自分がどれほど恵まれた立場にいるのか知らないわけではなかった。

「話はそれだけか? ならば、これで話は終わりだ。退席を――」

「将軍が、どういうつもりで見ず知らずの俺を助けてくれたのか、分からないんだけどっ! 俺に、巫子について教えてくれませんか?」

 普段敬語を使い慣れていない満砕は、噛みながらも言いきった。

 初めて、夏陀が巻物から顔を上げた。献栄国の民特有の青い目が、見極めるかのように凝視してくる。

 戸惑いが体中を駆け巡った。たじろぎそうになる心を、すんでのところで押しとどめる。自分は顔を背けるような意気でこの場にいるのではない。澄んだ色の目で、まっすぐ夏陀を見つめ返した。

「知ったところでどうする?」

「新しく巫子になったやつは、俺の大切な友達なんだ。巫子を知って、あいつのそばにいられる方法を探したい、んです」

「そんなことは不可能だと言ったら?」

「方法を知っていそうな人を、また探します」

「そしてまた怪我を負うのか」

「そしたらまた、あなたのような善人に助けてもらいます」

「結局、人任せではないか」

「人は一人では生きられないから。俺が助けてもらったのと同じように、俺も誰かを助ける。その初めの一人は、立憐でないと意味がないんだ!」

 夏陀は一切目を逸らさなかった。そのため、満砕も目を逸らさなかった。逸らしたらきっと、夏陀は話を終えると分かっていたから。

「はあ……何を知りたい?」

 深いため息を吐いて、敷物の横に巻物を放った。夏陀の話を聞いてくれる姿勢に、体の緊張がゆるまる。すぐに顔に力を入れ、真剣な眼差しに戻した。

「巫子は役目についたら最後、家に戻れないと聞いた。それは本当ですか?」

「事実、とするならば、そうだな。正確には、戻った者が過去に一人もいない」

 亞侘の言う通りの返答に、奥歯を噛みしめる。

「巫子は死期を悟ると、次代の巫子を予知する。そうやっておよそ十年ごとに代替わりをしてきた。ほとんどの巫子が、神殿に入ったら最後、神殿の中で死んでいく」

「それは、なぜ?」

「おまえは巫子の姿を見たことがないんだな」

 立憐のお披露目に連れていってもらった件は、おそらく琉架から伝達されているはずだ。それを踏まえて、満砕は首を縦に振る。

「巫子は神殿に入ったときと、変わらない姿で居続ける」

 夏陀の言葉の意味が分からず、満砕は眉間に皺を寄せる。

「実際は老化が極端に遅くなっているらしいが、長く生きた者がいないため、成長するかは誰も分からない。時を止めたように、五年、十年と、変わらない姿のままだ」

「待ってよ! 老化が遅くなるんだろ? だったら、なんで早死にするんだ?」

 約十年ごとに代替わりをしているならば、巫子は子どもの姿のまま。肉体にしても精神にしても、老衰するには早すぎる年齢だ。

 頭に警報の鐘が響いている。いやだと、聞きたくないと、耳をふさいでしまいたかった。

「体に負荷がかかるからだ。老化が遅くとも、子どもの姿であっても、力を使えばそれだけ別の何かを代償にする」

「だい、しょう……」

「巫子は力を発揮する際に心をすり減らす。結界を張る力をいただく代わりに、感情を捧げる。感情を喪失すると、心が死んでいく。体は生きているのに、心が生きることを放棄する」

 段々と血の気を失っていく。どこにも血が通っていないかのように冷たい体は、凍りついて固まってしまう。

「力を使い果たして、巫子は死んでいく。巫子が死ぬと、代わりの巫子が現れる。三百年に一度、巫子が生きていても新たな巫子が生まれるらしいが、それも定かかどうか分からない」

 頭が夏陀の言葉を理解することを拒否していた。知りたいと言ったのは満砕自身にもかかわらず。

「立憐、いや、巫子はそれを知って――」

「初めに説明がされるだろうな。もちろん、拒否はできないがな」

「そんなのって……」

 言葉をなくしてうつむく。治りかけていた足が、ずきずきとした痛みを発していた。

 立憐はすべてを知ってどう思ったのだろう。泣かなかっただろうか。いや、泣かないはずがない。立憐はいつも満砕の後ろに隠れているような子どもだった。満砕が手を引いて、道を作って、一緒に歩いてきた。彼を笑顔にさせるために生きてきた。泣いているとき、隣に座ってなぐさめる存在であったはずだったのに、今のていたらくはどうだろう。

 悔しくて、悲しくて、顔を上げられない。満砕の心を突きさすように、夏陀は事実のみを淡々と告げる。

「最初の話に戻るが、巫子は特別な者しかそばに置けない」

 巫子に近づく手段が閉ざされていく音が聞こえてくる。

「平民の子どもがそばにいく手段はありますか?」

「無理だな。神に仕える者でも、巫子の侍従に選ばれる者は数少ない。あとは護衛兵くらいだな。武勇に優れた者が選ばれる決まりだ」

 平民がおいそれと神聖な巫子に近づけるものではないのだと、暗に伝わってくる。夏陀は意地悪に話しているつもりはない。ただ現実を突きつける。無謀な子どもの覚悟を一つ一つ噛み砕いて、現実を教えこむ。

「分かっただろう。おまえにできることはない。怪我が治り次第、生まれ育った村に送ってやる。だから巫子は諦めろ」

 諦めろ、と直接言葉にされて、気づく。自分は一切諦める選択肢を求めていないのだと。

その瞬間、満砕は決めた。

 夏陀は、口や態度は悪いが、誠実な心根の持ち主だ。怪我をした子どもを放りださず、今も満砕の行動を馬鹿にせず、説き伏せようとしている。その善意を、満砕は利用しようと心に決めた。

 顔を上げたその先に、悲愴感はない。

「将軍、お願いがあります」

「……だめだ」

「俺を弟子にしてください」

「今だめだと言っただろう。聞いてなかったのか」

 顔をしかめる夏陀に、まっすぐとした瞳を向ける。夏陀が頷くまで、頑としてこの場から立ち去るつもりはなかった。

「お願いします!」

「だめだ」

 満砕と夏陀の攻防は深夜を過ぎても続いた。途中、あまりに合図がないと琉架が入室したが、満砕の一歩も引かない姿勢を見て、休憩の茶を用意しだした。

 怪我をしている満砕を、夏陀は強引に連れださないだろうと予測していた。それは的中し、夏陀は口では恐喝めいた言い方をするものの、実行しようとはしなかった。ゆえに長々とした、「弟子にしてくれ」という訴えが続いたのだった。

 深夜から早朝に差しかかったころ、先に折れたのは満砕だった。折れたというよりも、子どもの弱った体に長時間の緊張は堪えたのだ。最後の最後まで頼み続けた満砕を、夏陀は無下にできなかった。

「弟子は取らない。……あとは、勝手にしろ」

 それは夏陀にとっての譲歩で、満砕の粘り勝ちといえた。

 


 二つの月が経過すると、足のひびは完治した。琉架の介助と医者の良薬のおかげもあって、感覚を掴んでしまえば歩行も可能となった。

 療養の間、満砕は夏陀の気配を察知するたびに「弟子にしてくれ」と叫んだ。そのためか、夏陀は満砕の周りに姿を見せなくなってしまった。

 将軍の弟子という箔をつけることで巫子の護衛に選ばれる道。その方法しか満砕にはなかった。頼みの綱に夏陀を選んだが、夏陀は弟子を取るつもりはまったくないようだった。

 ――なんで将軍は俺を無下にしないんだろう?

 どこの村の子どもかも知れないガキなど、屋敷の外に放ってもいいはずだ。それこそ外城壁で見放したてもよかったのだ。怪我の治療を施され、歩けるようになった今、満砕は夏陀の保護下でいる必要もなくなってしまった。

 そう気づいた満砕は、屋敷にいてもいい価値を自分に作らねばと考えた。

 琉架からは走るなと注意を受けていたが、つまりは走らなければ何をしてもいいということだろう。屋敷の主からも勝手にしろと言われている。地に足をつけると、まずは家僕の姿を探した。

「仕事を分けてほしいんだ」

 主人である夏陀の食客とされていた者に、突然「仕事がほしい」と言われた家僕はたいそう慌てた。発言した当事者である満砕はその様子に、順序を間違えたのだと苦い顔を浮かべる。

 家僕は困惑しながらも、満砕の世話と、夏陀への伝令役を務める琉架に確認を取った。琉架は満砕の突飛な行動に頭を抱えた。

「君は今、一応でも瓏将軍の食客なんだよ? 怪我が治っても、将軍の慈悲で庇護下にあるんだ。その意味を分かってるの?」

「分かってる。だからこそ、ただ飯食らいの居候でいたくないんだ」

「主人の客に雑事をさせられるわけないだろう」

「俺は平民だ。身分は元から低いんだから、気負う必要はないはずだろ?」

「そういうことじゃないんだけどなぁ」

 さらに頭が痛いとうなる琉架だったが、少しも譲るつもりはないと分かると、最終的に折れてくれた。夏陀に許可をもらいに行くと、「好きにさせろ」と投げやりに言われたと報告する。こうして、満砕は仕事を得たのだった。

 子どもにできる仕事など限られている。掃除と洗濯、炊事の下処理など、一つの仕事が終わればまた次の仕事を与えられる。

 朝から晩まで働いて、「今日はもう上がっていい」と言われるまで体を動かした。部屋も客用から家僕らが寝泊まりする大部屋に変わり、親しくなった家僕たちからは「なぜ恵まれた待遇を自分から放棄したんだ」と呆れられた。満砕からすれば、雑事をこなしている方が性に合っているのだが。

「それに、ただ意味もなく働いてるわけじゃないんだ」

「ああ? 仕事に意味も何もねえだろ。俺たちは働いて金をもらうだけだぜ。ここはいい。旦那様のおかげで待遇はいいし、飯も寝床も与えられる。それで十分だ」

 満砕より二十も年上の家僕は、満足そうに安酒をあおった。彼らのここでの生活を否定するつもりはなく、頷いた上で自分の主張を口にする。

「俺はなりたいものがあるんだ。そのために将軍の弟子になる必要がある。けど、将軍には会えないし、ここにいつまでいられるかも分からねえから」

「食客から家僕になったら、いっそう会えなくなるんじゃねえか?」

 壮年の別の家僕にそう言われ、きょとんとすると目を見開いた。

「それもそうだな!」

 家僕たちは幼い思考だと笑って、満砕の頭を豪快になで回した。

「そういう考えなしなところもおまえのいいところだぜ。おまえのおかげで俺らはだいぶ楽をさせてもらってる。ちゃんと仕事をこなすし、思った以上の働きをする。おまえがよけりゃ、ずっとここにいてほしいくらいだ」

「おいおい、じぃさん。こいつにはやることがあんだよ。俺らはそれを応援しようぜ」

 家僕の大人たちに代わる代わる頭をなでられ、満砕は故郷の集落で可愛がられていたことを思いだす。変わらない人の温かみに触れ、寂しさと心地よさの両方を感じた。

 居候でいるわけにはいかないと焦った結果だったが、家僕の仕事自体は悪くない。怪我で弱った体は完全に回復し、家僕たちから請け負う仕事も難易度が上がっていった。言われた以上の仕事ぶりを見せると、彼らは「みんなには内緒だよ」と言って少し長い休憩をくれるのだ。それがどの家僕も同じであるため、一つの仕事を終えると休憩時間、その次もまたといった傾向ができあがっていった。

 時間ができると、満砕は周りの大人の優しさに甘え、武道場に向かった。屋敷の表門の近くにある立派な建物からは、男の野太い声が響いていた。木刀を打ち合わせる音、足を踏みこむ音が建物を揺らすほど重なり合う。

 瓏将軍の配下が鍛錬する場所なのだと、家僕は言う。武術を習う地位になかった満砕は、惹かれるままに武道場を覗いた。

 今まで経験してこなかった世界が広がっていた。血気盛んな命の取り合い。鍛錬と分かっていても、鬼気迫った戦いに目が離せなかった。

 ――この技術を盗めれば、立憐を守る力を身につけられるかもしれない!

 時間が許す限り、満砕は武道場の陰から覗き見た。鍛錬に集中している夏陀の部下たちは気づかれていないのをいいことに、兵士の立ち姿を真似しては、剣を振りあげる動作を再現した。

「ここで何してるの?」

 その日も長い休憩をもらい、満砕は兵士たちの打ち合いを観察していた。あまりに熱心に見ていたため、背後からの人の気配にまったく気づいていなかった。「ぴゃっ!」と跳ねあがって、後ろを向くと、そこにはおかしそうに笑いをこらえる琉架が立っていた。

「満砕、こんなところでどうしたの? 仕事は?」

「……今は休憩中」

「仕事を放ってるわけじゃなくて安心したよ」

 琉架は楽しそうに頭をなでてきて、他の大人とは違う、からかう手つきに手を振り払った。

「おい、琉架。ひどいじゃねえか。せっかく可愛い猫が秘密の特訓をしてたのに、茶々を入れるなんて」

 さらに琉架とは反対方向からの声に、満砕の体は再び跳ねあがった。ばっと振り返ると、今の今まで武道場で鍛錬をしていた兵士たちが、揃って満砕と琉架を見ていた。

「そうだよ、琉架! 俺たちの動きを見て、何度も何度も練習してるんだよ? それがもう可愛くて可愛くて。俺たちがせっかく気づいてない振りしてたのに、琉架のせいで台無しだよ!」

 他の兵士が真剣に暴露すると、周りの兵士たちは肩を震わせて笑いだした。

 今までこっそりと覗き見していたつもりが、武道場にいた兵士にはすべて見抜かれていたと知り、満砕は顔を真っ赤に染めた。

 居たたまれなくなって下を向くと、肩に手を置かれる。見あげると、琉架が微笑んでいた。

「剣術、興味あるの?」

「……立憐を、守れる力だと思ったから」

 いたずらがばれたときと同じ気持ちになりながら、嘘偽りなく告げた。すると、肩に置かれた手に力が込められた。

「そう。だったら彼らに指南を受けるといい」

 新しい提案に、ぽかんと口を開けた。琉架を見て、そして見守るかのように集結している兵士たちを見た。

「いいのか?」

「家僕の仕事をさせるよりも、許可は下りやすいだろうね。それに将軍は勝手にしろ、としか言ってないでしょ?」

 将軍は君のこと気にいっているから、だめとは言わないよ、と真偽が分からないことを告げられる。そのまま背中を押され、満砕は初めて武道場の中に入った。

 満砕はまず剣の持ち方、構え、振り方を学んだ。小さな体には竹刀でさえも振るのに力を必要としたが、基礎を習わないまま、真剣を握るのは不可能だと教えこまれた。

「まずはこの竹刀で一日千回。それから毎日数を増やしていこうね」

 物腰柔らかく、琉架が優しい口調で酷なことをさらりと言う。

 一振りするのさえ、竹刀に重心が持っていかれるほどだ。千回も振ったら、腕がどうなるか分かったものではない。

 だが、満砕に初めから「否」と言うつもりはなかった。大きな声を張りあげて、一から数を叫んで、竹刀を振る。体幹が曲がっていれば、その都度、周りから指摘が入った。

 まっすぐ前を見定めながら、竹刀を構え、振りあげる。大量の汗が背中を伝っていく。振りおろしては、はじめの構えを取り直す。次第に周りからの指摘も入らなくなり、腕の疲れも感じなくなっていった。

「千!」と声が響いて、はっと息を吐く。「お疲れ様」と琉架から手ぬぐいを渡され、武道場の外が赤く染まっていると気づいた。それほどにも長い時間を無意識下で集中していたのだ。

「今日はこれで終わり。また明日、一から頑張ってね」

 琉架がまたしても簡単に言ってのけ、周りはそれを「おっかねえ」とはやし立てる。他の兵士たちから労いの言葉をかけられる。満砕は震える手から竹刀を放そうとしたが、力のこもった手は硬くなって開かない。はぎ取るように竹刀を手から外し、ふらつきながら家僕の大部屋に戻った。

 ――千回振っただけで腕が震えている。

 兵士たちが戦う姿はこの疲労の比ではない。満砕はいまさらながら先の長さを痛感し、麻布の寝床に顔を押しつけた。

 今のままでは立憐を守れない。もっと、もっと頑張らなければならない。

 ――それは、あとどのくらい?

 途方もない確定しない未来への絶望と、最初からめげている自分を恥ずかしくなる思いが混在する。

 満砕は立憐を思い浮かべた。お披露目に現れた、巫子の姿を思い浮かべる。背けられた顔、すべてを諦めた表情。一人で、神殿に挑む後ろ姿を思いだす。

 ――一人にしたくない。俺は、立憐のそばに行くんだ。そのためには!

 震えて感覚のない手を握りしめた。竹刀の柄を握りすぎて手の皮は向け、血がにじんで赤く変色していた。こすれた手は熱を持っている。この熱を忘れてはいけない。始まったばかりのこのときを忘れてはいけないと頭に刻みつけながら体から力を抜いた。


◇ 


 琉架や夏陀の部下たちは翌日も約束通り、満砕の特訓に付き合ってくれた。素振りは千回から日ごとに数が増えていった。「泣き言をいつ言うか」と兵士らが賭けをしている横で、満砕は懸命に竹刀を振り続けた。

 朝のうちに任された雑務をこなし、家僕たちから声援を送られて、武道場に通う。琉架たちが遠征で姿が見えない日もやることは変わらない。彼らが帰ってくるまで一人でも訓練に勤しんだ。

「随分と様になってきたね」

「ほんとか!」

 遠征から帰ってくると、剣術においてめったに褒めない琉架が、満砕の乱れのない素振りを見て言った。表情を華やかにすると、さらに極めようと鼻息を荒くして挑む。

「瓏将軍も、前より型がしっかりしてきたなっておっしゃってたよ」

「しょ、将軍が⁉ いつ、どこで⁉」

 本来、夏陀の弟子になることを目標としているため、竹刀を下げて詰め寄った。琉架は興奮した様子の満砕を腕で遠ざけながら、武道場の扉に視線を向ける。

「ほら、今も見ていらっしゃるよ」

「え⁉」

 驚愕とともに振り向くと、夏陀の後ろ姿が屋敷の奥へ消えていった。せっかくの機会を失って、満砕は唇を尖らせた。舌打ちをすると、琉架はくすくすと笑って肩を叩く。

「満砕のここでの特訓は許されてるんだ。気長にいきなよ」

 優しくなぐさめた口調のあと、琉架は「それじゃあ、次は二千回頑張ってね」と、さも簡単そうに告げてきた。唇を前に尖らせる満砕に、琉架も周りの男たちも愉快げに笑うのだった。

 型にはまった素振りをひたすら行い、季節が一つ移ろうころに竹刀が木刀へと変化する。その間も夏陀へ接触しようと奮闘した満砕だったが、夏陀はこの国の将軍だ。他国との戦や王族の護衛と忙しく、そもそも屋敷内にとどまる方が少なかった。

 剣だこが硬くなったと言えば、「熟練の剣士の手は硬くなるだけで、たこはできない」と兵士たちに笑われる。背が伸びたと言えば、「俺の胸にも届かないだろ」と家僕の男につむじを押される。屋敷では誰よりも年少の満砕は、からかわれながらも兵士や家僕たちに支えられながら、毎日地道に剣の腕を磨いて成長していった。

 夏陀と接近する機会をうかがっているうちに、さらにまた季節と年が変わり、満砕は真剣の重さを知る。

「木刀と全然重さが違うだろ? この重さを忘れるなよ、満砕。戦場ではこれを持って駆け回る。最後まで剣を持っていた者が勝者だ」

 剣を貸してくれた男は、真剣の重さに顔をゆがめる満砕の頭をなでた。無骨な手は子どものなで方を知らない。満砕はその乱暴な手つきが嫌いではなかった。

 その男は、翌年の隣国との争いに赴き、仲間を庇って命を落とした。彼に命を救われた仲間は男の剣を持って帰ると、「形見分けだ」と言って満砕の目の前にかかげた。

「あいつの仇を取れなんて言わない。仇を取るのは俺らの役目だし、そもそも負の連鎖に意味はないんだ。あいつはおまえを気にかけていたからさ、この剣でおまえのしたいことを成し遂げてくれよ」

 瞳を揺らす仲間の兵士から、男の訃報を聞いて目を充血させるほど号泣していた満砕は、両手で剣をもらい受けた。その重さを、満砕は生涯忘れないだろう。

 素振りだけでなく、体幹を鍛える鍛錬を始めた。どれほど崩れた体勢であっても、素早く起きあがり、敵の急所を狙えるように。兵士の特訓の片手間に、打ちこみの体勢から勢いよく突撃する。兵士の動きは速く、あっという間に地に転がされる。「早く立て!」と怒鳴られ、何度も何度も打ち合って転がされては、すぐに姿勢を立て直す。気づけば体中が痣だらけになっていた。

 医療担当の家僕に手当てを受けるたび、「まだやめないのか?」と憐れみの目を向けられる。

「俺が決めたことだから」

 決まって答えるたびに、満砕自身がその言葉にはっとさせられる。つらい鍛錬は自分が自分に課したこと。誰かに命令も、強制されてもいない。自分がどれほどの自由にいるかと再確認して前を向き続けた。

 

 前日に打った頭に大きなたんこぶができたため、琉架からその日の鍛錬を禁止された。強く反論したものの、「頭の傷を甘くみるな」と諭される。それ以上、文句は続けられなかった。最初から面倒を見てくれている琉架に、満砕は頭が上がらない。

 「他のみんなに仕事をもらいに行ったらだめだからね」と、満砕の行動は琉架に先読みされる。彼の言う通り、家僕らに仕事をもらおうと心の中で考えていた満砕は、強制的に一日の休息を命じられたのだった。

 不満を顔に張りつけて、屋敷を歩く。屋敷にいるかもしれない夏陀に会うため、執務室に向かうつもりだった。

 中庭を通り抜けようとしたとき、ささやかな音が鼓膜を震わせた。耳を澄まさなければかき消えてしまいそうな、鈴を鳴らすかのような音だ。それは流れるような旋律で、まるで子どもを寝かしつけるための歌だった。

 歌に誘われるまま、中庭の奥へ奥へと入りこむ。この柔らかな真綿にくるまれるかのような音に吸い寄せられる。切なくも優しい歌。近づくにつれて聞こえてくる歌詞は、異国の言語であった。透き通る聞き心地のいい音は、満砕の心を刺激した。

 今すぐ歌をうたう主にすがりついて、泣きわめいてしまいたかった。

 大好きな存在がそばにいないのだと。立憐はもっと心細いだろう。そのことを思うと、心臓をかきむしりたくなるのだと。このあとどうすればいいのか、暗い闇に足をすくわれそうになるのだと。

 満砕は拙い足取りで、歌のもとに引きこまれていった。

 普段は行くことのない屋敷の南側に面した中庭に、慎ましやかに建てられた四阿(あずまや)。声の主はそこに一人で座っていた。

 献栄国では見たことのない、金色の長い髪。麦の穂に似た明るい色だ。差しこんだ日が髪に当たると、きらきらと輝きを増す。烏の羽の色をした自分の髪とは大違いだった。

 じゃりっ。満砕が砂利道に踏みこんだ足によって、流れるような歌はやんでしまう。ゆっくりと振り向いた顔は、やはり献栄国の民とは雰囲気が異なっていた。

 ――綺麗な人だ。

 呆けたまま、素直な心情でいっぱいになる。

 金の髪色を持つ女は、満砕の姿を目に捉えると、薄い桃色の唇を柔らかく上向きにさせた。手に持っていた裁縫道具を机に置くと女は袖を抑えて、おもむろに手招きした。

 導かれるままそばに寄り、なぜかひどく悪いことをしているような、居心地の悪さを感じた。

「ここに人が来るのは珍しいわ。どうしたの? 道に迷ってしまったかしら?」

 異国の歌を歌っていた女の口から出た言葉は、献栄国の言語だった。歌と変わらない彼女の穏やかな声は、記憶の底に眠らせていた母を思いださせた。すぐにでも膝に飛びついて、甘えてしまいたいような、泣いてしまいたいような思いがふくらむ。

 唇を噛んでそれを耐え、大げさに首を横に振った。体は変に緊張していて、ぎゅっと自分の服の裾を掴んだ。

「あなたは、もしかして満砕?」

「……俺を知ってるの?」

 女の口から自分の名前が出るとは思いもよらなかった。初対面である大人の女性への礼儀も忘れて、驚きのままに尋ねた。

「そう。あなたが満砕なのね。夏陀から、話は聞いているわ」

 屋敷の主人の名にいっそう目を見開いた。

 女は座っている横の開いている部分を軽く叩いて、「こちらにいらっしゃい」となおも勧めてきた。誘いを断れる勇気はなく、花の蜜を吸う虫のように大人しく従う。

 彼女の隣に腰かけると、ふわりと優しい花の香りが鼻をくすぐった。

「夏陀が会わせてくれなかったから、あなたから会いに来てくれてよかったわ」

 目を細めて微笑む女が、満砕にはまぶしくて目を瞬いた。

「あなたは、誰?」

 不思議な夢を見ている心地のまま、たくさんの疑問の中から一つを選択した。

 女は一瞬だけきょとんとしてから、また優しげに口角を上げた。

「自己紹介がまだだったわね。私は瓏(ろう)悠(ゆう)都(と)。瓏夏陀の妻よ」

「将軍の奥さん?」

 あの野性味あふれ気骨のある男の、細君。可憐という言葉が似合う悠都は、とても軍人の妻には見えなかった。

 悠都の体は細く、肌は透き通るほどに白い。たおやかな芍薬の雰囲気がある彼女の横に、威圧感の強い夏陀が立っている姿が似つかなかった。

「将軍の奥さんが――」

「悠都、って呼んでちょうだい」

「……悠都様が、さっき歌ってたのって、なんて歌?」

「この歌?」

 悠都は長い睫毛を下げて、すっと息を吸いこんだ。

 

《 道端に咲く花を 

母に届けに帰りましょう

母は喜ぶかしら 

笑顔を向けてくれるかしら

日が暮れていく 

鳥が巣に帰っていく

優しい温もりに 

早く包まれてしまいたい  》

 

 異国の言葉を献栄国の言語に直して、悠都はのびやかに歌った。帰路を急ぐ子どもの情景が、満砕の頭の中に広がっていく。

 一節を歌い終わり、悠都の青い目に見つめられる。「いい歌だ」「素敵だった」とあふれるままに感想を言った。もっと秀でた言葉で伝えたいのに、満砕の持ち合わせる語彙力では形容できない。

 悠都は喉をさすって声を落とした。

「私の祖国の子守歌よ」

「祖国の……。俺でも知ってる国?」

 特に考えずに尋ねた質問に、悠都は目を伏せた。

「いいえ。今はもう存在しないの」

 それは切ない声だったが、悲しみを伴ってはいなかった。悠都の中で整理のついた記憶を呼び起こしてしまったと気づき、満砕の中に罪悪感が広がっていく。

 どうにかして悠都を元気づけたい一心で、「じゃあ、俺に教えて!」と弾けるように言った。急に大声を出したからか、悠都は元から大きい目をさらに見開く。

「悠都様以外に覚えている人がいれば、祖国の歌を継いでいけるでしょ!」

 満砕は自分が発した提案が、かなりの名案だと思った。

 だが、驚きで目を大きくさせた悠都が固まってしまい、とんでもない失態を犯してしまったのではないかと不安になる。

 悠都は目をぱちぱちとさせると、やがて眉と目尻をゆるやかに下げた。

「嬉しいことを言ってくれるのね。あなたはいつもそうなの?」

「そうって?」

「誰かのために一生懸命になってしまうみたい。満砕はつらくない?」

 案じるような瞳に、満砕は息を呑んだ。膝の上に置いたこぶしを力なく握る。

 思い浮かんだのは、立憐のこと。追いかけても、掴めない友の手。こちらを振り返ってくれない友が、今何を考えているのか分からない。それが、今一番恐ろしい。

「つらくないって言ったら、たぶん嘘になる。つらいって思ってる自分も、たしかにいるんだ」

 友は、満砕を必要としていないかもしれない。運よくそばにいけたとして、満砕ができることなんてたかが知れている。

 自分にできることを探しているが、そのようなものはこの世に存在しない。その事実を突きつけられたら。

 満砕はそのとき、本当の意味で足を止めてしまうかもしれない。

「けど、つらいのは俺だけじゃないから」

 立憐は、きっと泣いている。

「俺よりももっと、つらいはずだから」

 満砕も、父も母もいない神殿で、一人心細さを抱えている。

 ずっとそばにいたから、満砕には分かる。

「一緒にいたら、つらくなくなると思うんだ」

 つらさを半分ずつ分け合えば、空いたもう半分は優しさで埋まる。満砕は立憐と一緒にいて、村人たちに育てられて、その温かみを知っている。

「夏陀が、あなたに会わせてくれなかった理由が分かったわ」

 心臓が飛び跳ねた。こぶしを解いて、服の裾を握って責めの言葉を待つ。

 悠都は満砕の頬にそっと手を当てた。恐る恐る開いた目の先に、優しい青い瞳が入りこんだ。

「あなたといると、あなたのことが好きになっちゃうから。きっと夏陀も、近いうちにあなたのことを無視できなくなるわ」

 これは予言よ、と含み笑いをする悠都に、ぽかんと呆けてしまう。

 そうだったらどれほどいいか。満砕が今まで夏陀に会えずにいるのを、悠都は知らないから言えるのだ。

 困ってしまった満砕に、悠都は語りかけるように歌いだす。

 

《 丘の向こうの宝物

あなたとの出会いを祝福して

一緒に手を握りましょう

同じ道を歩きましょう    》

 

 異国の曲調ながら、歌詞は満砕でも分かる言葉だ。「丘の向こうの宝物……」と、口の中でつぶやく。その一節が、なぜか満砕の胸に響いた。

 丘を越えた先に、満砕と立憐の暮らした村がある。「宝物」はまさしく、二人の故郷だ。

 悠都の白い手に手をすくわれ、満砕ははっと彼女を見あげた。

「一緒に歌いましょう。覚えてくれるのでしょう?」

 あまりにも悠都が嬉しそうに笑うため、満砕も自然と同じ表情になる。

 悠都に続いて歌詞を紡ぎ、歌声を合わせて流れるように風に乗せた。二人は時間も忘れて、何曲も何回も歌い続けた。

 一人で歌いあげると、悠都は心の底から喜びを表すかのように笑う。その顔が嬉しくて、満砕は「次の歌を教えて!」と促した。

「悠都っ!」

 物覚えは悪くない満砕が気にいった歌を完全に習得したとき、悠都の夫である夏陀が砂利石を蹴るようにこちらに駆けてくる。

「あら、夏陀。もうお仕事はいいの?」

 いつも威風堂々とたたずんでいる夏陀が、慌てた様子で悠都の前に立った。

「いつから外にいるんだ? また体を壊したら――」

「今日は暖かいから大丈夫よ。それに、今とっても気分がいいの」

 言い負かされた夏陀は眉間に三本も皺を寄せて、口をへの字につぐんだ。怒るよりも心配が表にあふれ出ている夏陀の様子に、満砕の焦りも大きくなる。

「どこか具合が悪いの? 俺、長く歌わせちゃって……」

「気にしないで、満砕。ちょっと体が弱いだけなの。夏陀は心配性なのよ」

 優しい人でしょう、とさりげなく惚気をする悠都と、さらに眉間に皺を寄せる夏陀を交互に見て、満砕は押し黙った。

「ねえ、夏陀?」

 外からまっすぐにこの四阿に来たのか、夏陀は外套を羽織ったままだった。悠都は外套の裾の端を掴むと、夏陀の顔を覗きこむように見あげた。

「お願いがあるの」

 ごくっと唾を飲みこんだ夏陀の喉音が、満砕の方にも聞こえてきた。夏陀は奥歯を噛みしめたような声で「……なんだ?」と問う。

「私、満砕をとても気にいったの。この子を私たちの養子にしましょう」

 突然の進言に満砕は目を剥いた。悠都と二人きりであれば、彼女にどういうことかと詰め寄っていただろう。

「……こいつはただの家僕だ」

「元食客でしょう? それに、部下との鍛錬も許していると聞いたわ。あなたにしては珍しいほど待遇がいいわね。そうしたくなる気持ち、短い間だけど私も分かるわ」

「それとこれとは……養子なんて、平民の子を瓏家の名に連ねさせるわけには」

「瓏家も元を辿れば、武勲によって名を上げた武家でしかないわ。そう教えてくれたのはあなただったはずだけど?」

「しかしっ!」

「ねえ、夏陀」

 声の調子を落とした悠都は、笑みの中に切なさを込めた。

「私はあなたの子を産んであげられるか分からない。だったら、満砕みたいな子を、あなたの跡継ぎにしたいわ」

 射貫くような悠都の目が、夏陀に刺さった。その視線を真正面から受けとめる。しばらく見つめ合っていた二人は、夏陀が視線を逸らすことで終わりを告げた。

 きつく寄せられた眉を親指で押し、夏陀は沈黙する。心配がふくらみ続ける満砕を安心させるように、悠都が笑いかけてきた。

「――満砕」

 夏陀に呼びかけられ、素早く顔を上げる。満砕は今まで自分が座ったままだったことに気がつき、慌てて立ちあがった。背筋を伸ばして見あげる満砕に、夏陀は頬をかきながら、しかし言葉ははっきりと口にした。

「俺たちの子になるか」

 夏陀は満砕が弟子になりたい理由を理解しているはずだ。にもかかわらず、弟子よりも、さらに立場のいい養子にしてくれるという。おそらく、満砕の事情を悠都も知っているのだ。だからこそ、願いを叶えられる状況にしてくれようとしている。

 夏陀から顔を逸らし、悠都を見つめた。悠都は変わらない優しい笑みを浮かべている。

 この雰囲気の異なる夫婦の子になる。そのことに、満砕は少しの不安も感じていなかった。

 再び見あげた先の鋭い目に、満砕は大きく声を張った。


続き


第二章
第三章


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