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巫子を護る者 第三章


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

 

 援来(えんらい)の小麦色の髪が、下から吹きあげた風によって舞いあがる。色とりどりの紙吹雪もまた、青空の中に溶けこんでいった。

 王宮前の広場には、多くの国民が集まっていた。市場で振り向かれ、注目される援来の珍しい金の髪に、今このときだけは目を向ける者は誰もいなかった。

 人々の歓声が波動となって地面を轟かせた。その絶え間ない喝采を聞いたとき、援来は目が覚めたような衝撃を体全体で受けた。

「援来。あのお方が、この国の光よ」

 幼子(おさなご)の援来を抱きあげる母親は、熱のこもった目で見あげている。その視線を辿り、眼前にそびえ立つ強固な城壁のさらに上を見つめ――援来の頬を涙が伝っていく。

 櫓の上に、一目で見惚れてしまう美しい青年が立っていた。光を浴びて輝く真っ白な髪を持つ青年は、片手を上げて民の声に応える。

 絹糸に似た長い髪は風にそよぎ、虹色に反射してなびく。男にしては細身な体は、背筋がまっすぐに伸びているからか、只人よりも背が高く見えた。純白な衣をまとい、飾りつけられた宝石が陽に当たってきらめく。

 遠目でも彼の神聖さが分かる。援来だけでなく、見物にやってきた献栄国の民はみな、異様なほどの高揚感を味わっていた。

「巫子様!」

「献栄国に栄光あれ‼」

 民衆は興奮を隠さず口々に叫んだ。

「巫子様万歳‼」

 騒然とした歓喜の声は一つになって、巫子を讃える言葉に変わっていく。

「今の巫子様はね、歴代最も長い任期を務めていらっしゃるのよ」

 弾んだ声音が耳に届く。母親はまるで自分の喜びのように誇らしげに語る。

「今年で二百歳になるのよ」

 援来はこの祝儀の場に来る前から、母親から献栄国を守護している「巫子」についていつも教えられてきた。

「朝と真昼と晩に空が虹色に輝くのは、巫子様が結界を張って国を守ってくれているからなの」

 母親はそう言ったが、今年五歳になる援来には「結界」の意味が分からなかった。

 一日に三回、空の色が変わるのは、生まれたときから日常的に起こっている現象だ。空の変化を「結界」と言い、「巫子様」と母親が尊ぶ存在が国を守っているのだと説明されても、援来は「だからなんだというのか?」とその異常性が理解できなかったのだ。

 今代の巫子は二百年経っても巫子役を担っている。幾度も、援来は母親からその事実を聞かされてきたはずだった。そのたびに、母親は子どもである自分をからかっているのだと思っていた。幼子である援来も、さすがに人間が二百年も生きられないと知っていたからだ。

 援来は「国を守る巫子」の国民への披露目に立ち会うつもりはなかった。人混みは嫌いだ。同じく人混みが嫌いな兄は、早々に屋敷のどこかへ消えてしまっていた。逃げ遅れた援来は母親に連れられ、王都の中央にある王宮前の広場で、巫子の登場を待ち構えなければならなかった。

 一瞬にして民衆の空気が変わった。櫓に立つ巫子を見つめ、一様に感激の声をもらす。

 援来は巫子を捉え、全身の毛が逆立ち、ぎゅるぎゅると血が体中に駆け巡るのを感じた。瞳からあふれる涙を止める方法など知らない。揺れる視界で巫子の姿が見られないのはいやだった。目を大きく見開き、涙を服ににじませる。青年に成長した巫子の姿を、援来は見逃さないとばかりに瞳に映した。

 唇は震え、しかしはっきりと、その名前を音にする。

「りゅう、れん」

 それは、自分(、、)にとって最も大事な者の名だった。

 齢五つの援来は――二百年の時を経て生まれ変わった満砕(、、)は、かつての記憶をすべて思いだした。

 二百年経ってもなお生き続けている友(、)を視認して、気づく。自分は援来ではなく、二百年前に死んだ満砕なのだと。

 ――そう、俺はあのとき(、、、、)、死んだのだ。

 式典中に攻めてきた、斉丞相の手先。満砕は敵にやられた傷が深すぎたせいで、命を落としたはずだった。

 満砕は、立憐を守った。

 自分が死んだ衝撃よりも、立憐を守れた事実に心の底から安堵を覚える。

 ――立憐が、立憐が生きている!

 満砕は目元を手荒に拭きとって、二百年の時を経て、大人の姿に成長した立憐を目に焼きつけた。

「援来」

 母親は抱きあげたままの満砕を見あげ、五歳児相手にしてはあまりにも真剣に諭す。

「あなたも巫子様と一緒にこの国を守れるような、立派な人間になるのよ」

「援来」。今の自分の名を、満砕は喉で転がす。

 ――そうだ。俺は、瓏援来。瓏家の次男坊。

 献栄国の「瓏」家。援来の記憶を持つ満砕は、自身の家が武家であるのを思いだす。

 ――夏陀、あなたは二百年経っても俺を助けてくれるのか。

 援来は、夏陀と悠都の息子である、右南の子孫に違いない。

 ――瓏家の血が、俺を立憐に会わせようとしてくれている。

 そう思わずにはいられない満砕は、母親に返事をしようとして言葉が出なかった。満砕の体は硬直し、一瞬にして目を回して気が遠くなっていく。

 ――まだ、立憐を、見ていたいのに……。

 満砕の体は熱を持ち、力はゆっくりと抜けていった。

 


 子どもの体には、大人だった満砕の記憶量を処理する力はなかった。

 満砕は祝儀の日から、三日三晩熱で苦しむはめとなった。

「私が人混みに連れて行ったから」

 母親が泣く声を耳元で聞いていたが、彼女を慰めるために起きあがる余裕はなく、高熱で朦朧としていた。

 四日目の朝になって、満砕は爽快な思いで目を覚ました。体はいつも以上に軽く感じ、動かしやすい。体と心がうまく馴染んだらしい。五歳までの援来としての自分は、満砕の記憶に上書きされた。

 すぐに、頭に上るのは立憐のことだ。

 父親や母親の話を聞く限り、立憐は二百年の時を生きている。実際、祝儀で挨拶をしていた巫子は、青年の姿に変わっていても間違いなく立憐だった。

 巫子は感情を失う代償のほかに、老化が遅い。かつて再会したとき、立憐は子どもの姿だった。あれから長い年月をかけて遅々として年をとっていき、二百年経った今は外見がおよそ二十代の青年。計算上では合うと言える。

 しかし、疑問が残る。

「なんで、立憐は二百年も生きていられた?」

 死んでほしくはない。しかし、長い時間を、たった独りで生きていてほしかったわけではないのだ。

 永遠に近い時を生きる恐怖は、満砕には想像がつかない。満砕が早いうちに死んで、友を失った立憐はどうやって生きてきたというのか。

 民衆の熱狂的な様子を見ると、巫子の役目をしっかりと果たしている。結界は毎回張り替わっているから、感情を対価にしているはずだ。とっくに自我が崩壊していてもおかしくはない。

 巫子の役割と相性がよかったのか。その可能性はあまり考えられない。立憐は十年在任していた時点で、ほとんどの感情を失っていた。それから少しずつ感情を増やしていったが、立憐が感情を発露することはあまりにも少なかった。

 そうだったにもかかわらず、今もなお生きている。

 満砕は不思議に思いながら、背筋にいやな汗がしたたった。

 ――そんな、まさか……。

 死ぬ前に、満砕は願った。呪いのような言葉を口にした。

『生きてくれ』

 最期に願った思いは、心の底から出た純粋な願いに過ぎなかった。立憐がその願いをくみ取り、その通りに生き続けたのなら。

「俺は……なんてひどいことを……」

 全身の血がさあっと引いていく。真っ青な顔で寝台に座りこんだまま、しばらく動きだせなかった。

「援来、具合はいいのか?」

 満砕が落ちこんでいると、寝室に七つ上の長兄、栄陀(えいだ)が入室した。

 栄陀と援来は年が離れているが仲のいい兄弟だ。栄陀は武勇に優れた瓏家では珍しく、知略が回る軍師気質だった。

 周りは「瓏家の長子」だからと武力を期待し、その才がなければ勝手に落胆した。反して、家族の絆は強くなった。

 栄陀は長子ゆえの重圧を乗り越え、今度は次子に期待を寄せだした周りから、援来を守ってくれている。援来は静かに見守ってくれる兄が大好きだった。

 栄陀は満砕の横に腰かけ、顔をのぞき込む。

「熱は下がったみたいだね。でも、顔色が悪い。まだ本調子じゃないんだろう?」

「大丈夫だよ。今は、急に起きあがっただけだから」

「三日間、熱でうなされていたんだ。無理をしてはいけない」

 部屋の隅に控えていた家僕に合図をして、「食べるものを」と告げる。家僕は礼をして寝室から出ていった。

「何か、気にかかることでも?」

 彼はやはり援来の兄なのだ。すぐに満砕の不調の正体を見破ってくる。援来としての自分もたしかに存在している分、満砕は栄陀に噓が吐けなかった。

「俺、巫子を守る護衛兵になる」

 かけ布をぎゅっと握って宣言すると、栄陀はきょとんと目を丸くした。少し迷った様子で口を開け、一度閉じてから、なぐさめるように現実を教えてくれる。

「護衛は王家が選んだ者しかなれない決まりだ。瓏家の身分では難しい」

 援来の父親は将軍位ではあるものの、夏陀と同じ大王直属部隊ではない。実力と地位があれば護衛兵になれた二百年前と今では、体制が異なるのだろう。もしかしすると、神殿の仕組み自体が変化している可能性もある。

 愕然として、いっそう悄然とする満砕は、自身の細腕を見つめる。

 ――最初から護衛にもなれないなんて。それに、こんな枝みたいな腕でどうしろっていうんだ。

 死に物狂いで鍛えた筋肉は、死を迎えたことで消え去った。再び目覚めた今、目の前にあるのは子どもの小さな手。満砕の記憶にある子ども時代よりも、弱々しい姿だ。村を無尽蔵の体力で駆け回っていた過去と比べると、援来はまだ剣を握っておらず、父親から訓練も受けていない。

 援来の記憶を辿ると、今よりも幼いころ体が弱かった。普段は元気に動き回るものの、用心しても風邪を引き、熱を出しては寝台に寝ている時間は多かった。父親は栄陀の育児と同様に、援来に無理をさせて訓練をつけるような親ではなかった。

 援来が一般的な子どもよりも小さいのは、両親が大事に育ててくれた結果だった。今思うと体が弱かったのは、満砕の膨大な記憶を受けいれるための準備期間だったのかもしれない。

 努力は惜しくない。時間をかけても、筋力と武力を身につければいい。立憐のためならば、満砕はどのようなことでもやってのける思いでずっと走り続けてきた。

 だが、再び立憐の護衛の任につこうともがいても、彼のそばにいく権利さえも与えられないのなら、満砕はどこを目指して走ればいいのか。

 途方に暮れてうつむく満砕の頭を、栄陀は優しくなでた。

 かつての養母の髪色を引き継いだ援来に対して、栄陀は正反対の黒髪を持っている。栄陀はよく満砕の頭をなでたり、髪をすいたりする。心を穏やかにしてくれるその温かい手つきが、満砕は好きだった。

「何か悩んでいることでもあるのか?」

 悩みを指摘され、満砕は口ごもる。なんと言ったらいいのか迷い、目を泳がせてから迷うままに口を開いた。

「守りたい者を守るには、どうすればいい?」

 弟の唐突な質問に、栄陀はゆっくりと微笑んだ。その笑みに悠都の陰を見た気がした。

「強くなるしかない」

「……でも、俺は弱い」

 泣き言をつぶやく。満砕は自分が思っている以上に、子どもに戻った現状に参っていた。自分に反して、立憐が大人の姿になっているところがまた、満砕の焦りをあおる。

 栄陀は満砕の焦燥を見抜く瞳で、「だったら、なおさら強くなるしかない」と静かに諭した。

「おまえのその守りたいという意志は、弱いことを言い訳にして足を止めていいものなのか?」

 その答えに満砕は首を振った。行動とともに、はっきりと「違う」と口に出す。

「俺、強くなるよ」

 強くなりたい。今度は、立憐を生きて守れるくらい、強く。

 子どもの戯言のような宣言を、栄陀はまぶしそうに見つめた。

「うん。おまえにならきっとできる」

 再び頭に手を添えられ、兄の温もりを味わった。なでられ終わるころには、満砕の心は落ちつき、進む道が定まっていた。

 

 ◇

 

「何でも、浪遠(ろうえん)城郭を守り抜いた者に、『辺境大将軍』の地位を与えたらしい」

「辺境大将軍が現れるのは三百年ぶりではないか。昨今は国境の浪遠が荒れることもなかったからな」

「浪遠の地ということは、あの気難しいと噂される凱侯伯(がい こうはく)の下に就くのか?」

「凱侯伯は王弟の正妃に娘を差しだしている。凱侯伯は随分と新しい将軍を気にいっていると聞くが、いやはや、どうやって取りいったのか」

「ふむ。政局が変わるかもしれんな。……その者はどこの家の者だ?」

「瓏家の者だ」

「瓏家? 瓏家の嫡男は戦向きではない性分だったはずでは?」

「二番目の子だ。瓏家の、瓏援来。たしか、そろそろ成人を迎える年のころではないか」

「姪と同じ年ごろだ。将軍位では身分が釣り合わんが、実力があるならば仲を取り持ってやらなくもないな」

 下品な笑い声を廊下に響かせ、談話に勤しむ高級官吏たちを、満砕は冷めた瞳で見遣る。満砕は話の種の主が自分だと気づかれないうちに、その場を足早に立ち去った。

 凱侯伯に推挙され、大王直々に拝命した辺境大将軍の位。

 近隣国への侵略行為が活発化している明日螺(あすら)国。かの国と隣接する浪遠城壁を守り抜いてみせた。守備だけでなく、先頭に立って敵に痛手を負わせた功労者として、凱侯伯は満砕を推したのだ。

 凱侯伯は堅気な質で、懐に入れた者にはそれ相応の地位を与えてくれる男だ。厳つい顔と常人より二回りも三回りも大きな体躯が威圧的で人々を近づけさせないが、公正で冷静な判断のできる人物である。満砕はどこか夏陀と似た雰囲気を持つ凱侯伯を気にいっていた。

「援来、浪遠に行くのか?」

 任命された足で王宮を出ようとしていた満砕に、背後から声がかかる。振り返ると、そこには数年ぶりに顔を合わせる兄の姿があった。

「兄上、お久しぶりです。これから浪遠の地に戻ります」

 拱手をして目礼すると、栄陀は穏やかな瞳を細めた。栄陀は王宮に出仕しており、軍師としての地位を確立している。

 浪遠は「辺境」の名の通り、王都から何百里も離れた位置にある国境にある遠い地だ。献栄国の最北端にあり、目と鼻の先に明日螺国の領土が広がっている。浪遠城郭は、守備の要となる場所である。

「俺が辺境大将軍に任じられたことをご存知なのですね」

「王宮はその話題でいっぱいだ。私は兄として誇り高い」

 手を伸ばして頭をなでようとした栄陀は、弟がもう子どもではないと思いだしたのか、はにかんで腕を下げた。

「おまえに強くなりたいと言われたとき、本当のところ、ここまで強くなるとは思っていなかった」

 遠い昔の会話を栄陀もまた覚えていた。懐かしさをにじませる栄陀に、満砕の口元はゆるやかになっていく。

「凱侯伯に覚えめでたければ、王家や神殿への口利きもされやすい。おまえの真の目的に辿りつける。よく考えたし、よくここまで達したな」

 兄の柔らかな声音に、無意識に張っていた緊張が少しだけほぐれる。

 権力のある者に媚びへつらう自分を想像できなかった。なりふり構っていられなかったが、満砕は正々堂々と立憐のもとに行きたかった。

 満砕には二百年前の過去で、難関であった巫子の護衛役を勝ちとった実績がある。今代でも鍛錬を怠らず、戦場で数々の武勲を刻んでいった。

 凱侯伯は難しい気質以外は、実力主義だ。凱侯伯の目に留まったのは偶然だったが、幸運以外の何物でもないだろう。

「あの願いは健在か?」

 まっすぐな栄陀の目が満砕を射抜いた。

「はい」

「そうか、ならば、これからもしっかり勤しまねばな」

 腕を二回叩かれ、鼓舞を受ける。

「生きて帰ってきなさい」

 親愛のこもった青い瞳に、満砕はもう一度強く返事をした。

 


 献栄国の北方にある浪遠は、夏でも肌寒く、冬になると豪雪地帯に変わる。そびえるほどの大雪には、さすがの明日螺国も侵攻をやめる。雪がなくなる夏から秋までの攻撃に耐えれば、献栄国の勝利で年を越えられた。

 辺境大将軍に就いたばかりは、年下のくせにと見下されたものの、戦線で先頭に立って立ち向かえばその声は次第に減っていった。配下は実力で屈服させ、明日螺国との対戦は防衛し続けた。

「西方での戦闘は?」

 地図を見つめながら、満砕は隣に立つ副将の交(こう)嵐(らん)に尋ねた。

「本国が地の利で何とか追い返したそうです。ですが、明日螺国の大隊に痛手は与えられなかったようなので、小隊を入れ替えてすぐにまた攻めこんでくるでしょう」

「明日螺は兵士の数も軍需物資の数も桁違いだからな。早くて三月(みつき)後には攻め入ってくるだろうな」

 西方からは献栄国の王都が近い。しかし、西は陸地が続いており、山岳地帯が連なっている。慣れない土地に侵略すると兵は疲弊する。明日螺国はすでに三度献栄国の西方から攻め入り、決定打を与える前に撤退している。そうやって兵を土地に慣らしながら、少しずつ距離を詰めているのだ。明日螺国にはよほど見極めのうまい軍師がいるようだ。

 献栄国の南には、献栄国と同盟関係にある国々が並んでいる。明日螺国が比較的な大きな国であっても、いくつもの国と敵対する愚かな真似は選ばないようだ。

 明日螺国からすれば、西方だけでなく北方からも攻め入り、二手で王都に攻撃をしかけたいはず。夏季にしか立ち入れない北方は主戦場にならないものの、浪遠が落とされでもしたら王都に敵を近づけることとなる。

 城郭は各地に点々とあるが、最も厚い守備は辺境大将軍が在中する浪遠だ。満砕は自らに課せられた大任に、息を吸うのも忘れるほど準備に明け暮れていた。

「将軍、どうかお休みください」

 年上の交嵐からの何度目かの懇願に、満砕は口をゆがめた。交嵐に差し向けられたのか、いつもは遠目に見守っている部下たちまでもが、手に持っていた書類を奪ってきた。

 そのまま背を押され自室に閉じこめられる。「最低でも三刻は出てこないでくださいね。あ、鍛錬もしちゃだめですからね」と強く命じられては、満砕も頷くしかない。彼らは満砕の体を思って言ってくれるのだから、聞きいれないわけにはいかなかった。

 めったに横にならない寝台に腰かけ、半分は雪に埋まった窓の外を見る。一丈はない高さの雪は、これでも溶けて少なくなった方だ。髪も凍る真冬と比べると、春に近づいている今は随分と過ごしやすくなった。

 だが春が来るということは、敵がやってくることを意味する。

 ――また戦争が始まる。

 昨日ともに飯を食べていた者が死ぬ。作戦を成功させましょうと声高々に叫んでいた者が死ぬ。故郷に嫁と子どもを残してきたと泣く者が死ぬ。将軍についていれば死にませんねと笑った者が死ぬ。

 満砕は、知っていたはずだった。満砕だったころから、戦は無為に人がたくさん死ぬのだと、知っていたはずだったのに。

 ――立憐、いくつ死を見たら、俺はおまえに会えるだろう。

 会いたい、という思いはふくれては、行き場がないまま広がっていく。

 もしかしたら、立憐と会えないまま、二度目の生を終えるかもしれない。三度目があるとは限らない。そもそも、二度目があること自体がおかしいのだから。

 ――立憐は俺を覚えているだろうか。

 二百年も生きているのなら、感情のほとんどが神に捧げられてしまったはずだ。記憶さえも取られてしまったかもしれない。

 満砕は見た目が変わってしまった。親から譲り受けた黒い髪は、悠都の血が入って小麦色に。濃い色の青い目は、薄雲を含んだ空の色に。武家に生まれ食べる物も変わったことで、幼児期の心配などをよそに、過去の記憶よりも一回りほど体格はよくなった。

せめてもと、髪を伸ばし、三つ編みに結って以前と同じ髪型を保った。しかし、顔かたちは変わっているため、一目で満砕と援来が同一人物であるとは分からない。

 ――会いたい、な……。

 満砕は立憐に会いたかったが、以前のがむしゃらに立憐を追いかける真似はしなかった。

 一目、会えればいい。

 立憐は二百年の間、満砕がいなくても生きてこられた。立憐の隣に満砕がいる必要はないのだ。だから、この二度目の生は、満砕のわがままだ。立憐に一瞬だけでも会いたいという、小さくも尊い願望だ。

 ――それ以上を望むのはおこがましい。

 満砕は立憐との未来を、もう二度と口にしないと決めていた。

 ともに故郷に帰りたいという願いが、立憐を苦しめているかもしれない。そう思うと、満砕は自分がどうしても許せず、立ちすくんでしまうのだ。頭を掻きむしって、血が出るまで唇を噛んでも、自分の失態は消えない。どうか立憐が苦しみを感じていませんようにと、行き場なく祈った。

 はあっと深く吐いた息は、白い靄となって宙に消えた。

 


「王都から伝令が」

 固い表情をした交嵐が、軍議を行う部屋に入ってきた。交嵐ははっきりと物を言う人間なため、ためらう素振りを見せるのは妙だった。

「何があった?」

「浪遠城郭に守備の要を派遣すると、王宮側が決められたそうで……」

「守備の要? 我々だけでは不満だと?」

「その……巫子様がこちらにいらっしゃるそうです」

「はあ⁉」

 ばんっと床を叩き、地図の上に広がった駒が振動で倒れる。満砕は立ちあがって交嵐に詰め寄った。

「巫子は神殿から出られないはずだろう⁉」

「で、ですが、数年前から各地に派遣されては、要所ごとの結界を頑強なものに変えていると聞いています。このような辺境に来られることはありませんでしたが」

 間近に寄った満砕の顔を押しのけながら、交嵐は冷静を装いながら答える。

「それだけ王宮が浪遠の守りを重要視しているということでしょうか」

 難しい顔でうなる部下の言葉に、満砕は突然巻き起こった感情に苛まれる。立憐に会える歓喜と、会ってしまったら自分はどうすればいいのかと、弱い心の二つが対立する。

 巫子が浪遠に来る。立憐と会える。

 しかし、巫子を守りながら、城を守るのは今以上に困難な道である。

 浪遠の最たる役割は警鐘を鳴らし、烽火(のろし)を上げることだ。浪遠より内側にあるほかの城郭が同じように警鐘を鳴らし、二つ目の烽火が上がれば、浪遠のすべきことは終わる。

 代わって満砕に課せられた辺境大将軍の役割は、明日螺国の侵攻の鎮圧。敵兵の存在を知らせる味方を守ると同時に、明日螺国と対峙することも含まれていた。

 ゆえに他の城郭よりも防御は固く、城(しろ)壕(ぼり)も一段と深い。集められた兵士も騎馬兵とは異なる城郭守備に特化した精鋭がほとんどだ。

 そこに、巫子の護衛も加わる。

 巫子は献栄国の宝であり、命である。簡単に死なせるわけにはいかない。もし浪遠の地で殺されでもすれば、ここにいる兵士は責任を取る形で国に殺されるだろう。

 満砕は交嵐から離れ、頭を抱えた。巫子が訪れることで長い戦争を止める一手となるか、火種の元となるかは分からない。

 だが、手を伸ばしても捕まえられない友に会える期待が、どうしても消え去ってはくれないのだった。

 

 ◇

 

 短い春が終わるころ、神殿からの使者が来たと報告を受けた。満砕は遠くない未来にやってくる敵部隊への対策を、部下に指示しているところだった。

「本当に来たのか」

「予定通りですね。部下たちへの通達はお任せしていただいても?」

「ああ、頼んだ」

 頭を抱えたくなる思いを堪え、満砕は部下を引き連れて神殿の使者を迎えに行く。

 応接室に通されたという使者に近づくにつれ、鼓動は重い音を立てる。

 十数年前に見かけた巫子は、姿が大人に変わっていたものの、立憐に間違いなかった。満砕の魂がそう叫んでいたのだから、間違いはないはずだ。

 覚えていてもいなくても、今の満砕を見て立憐が気づくはずはない。緊張も心配も無意味だというのに、満砕の心は静かになってくれない。

「温室育ちが戦の最先端にまで来て何ができるっていうんだ」

「貴様! 巫子様に対してなんて無礼な!」

「おまえには話してねえんだよ! 神殿の巫子だか、神官だか知らねえけどよ、使い物にならないやつはとっとと出てけよ」

 応接室から響く耐えがたい怒声に、満砕は入室前に足を止めた。案内役の兵士の発言に気が遠くなる。浪遠城郭を任されている満砕にすべての責任がある以上、神殿側に不敬な物言いをしている兵士は懲罰対象だ。

 戦前に面倒事を巻き起こさないでくれ、と頭を抱えながら、重い扉を押し開けた。

「だいたいおまえらはなぁ――」

「その口を今すぐ閉じろ」

 扉の先には兵士が三人、その奥に神官の衣装を着た者が二人立って、冬装束に身を包んだ立憐が粗末な椅子に腰かけていた。

 厚手の白い絹の衣に包まれた立憐は、髪色も相まって雪の精のような神秘的な空気をまとっていた。表情は面布によって隠されて分からないものの、視線は入室してきた満砕に向いていた。

「しょ、将軍っ」

「私は口を閉じろと言ったんだが?」

 ついさきほどまで調子づいていた兵士たちがこぞって動揺をみせる。満砕は彼らを一睨みして、神官と兵士の間に立った。

「神殿の方々は大王様の命で浪遠に来られた。おまえごときが大王様の意に背くのか?」

「ぃ、いいえ」

 か細い声で首を振る彼らにこれ以上何を言っても無駄だろう。満砕は連れてきた直属の部下たちに兵士たちを捕縛させた。

「追って沙汰を出す」

 打って変わって静かに連れられていく兵士たちを見送り、満砕は神殿の使者の前に膝をついて拱手の姿勢を取った。

「私は辺境大将軍の名をいただく瓏援来。部下が大変な無礼を働きました」

 満砕の登場に呆気に取られていた神官たちは、数拍置いてから怒りを思いだしたのか声を上げた。

「これだから戦などと野蛮な行為にふける者はいやなのです。しっかりと教育をしていただかなければ困ります!」

「ごもっともです。神殿の方々に不便のないように努めますのでご容赦ください」

「巫子様にもしものことがあれば、あなたたちは神からの鉄槌が――」

「――いい」

 神官の言葉を遮ったのは、今まで一言も声を発しなかった立憐だった。鈴の鳴るような子どもの声から、大人の声に変わっていた。よく耳に通る透明な声色に、満砕の胸にじんわりと感動が広がっていった。

 神官はばっと立憐を振り返り、驚きで声を震わせる。

「巫子様⁉」

「瓏、援来と言ったね?」

 満砕は下げていた視線をゆっくりと上げる。立憐の目は、まっすぐに満砕を見ていた。驚くことに、その目にははっきりと意思が宿っていた。

「はい。瓏援来と申します」

「そう。そうなんだね。……瓏家には昔、随分と昔、とても世話になったんだ。君はその子孫だね」

 遠い昔を懐かしむ声音。その言葉に、満砕は立憐と同じ人物を思い浮かべていた。

 満砕は死ぬ前、義父の夏陀に巫子を託した。夏陀はその生涯を終えるまで、巫子を気にかけただろう。立憐の中に瓏家の存在が残っていると、すでにいない義父に伝えたくてたまらない。

 立憐は静かな動作で立ちあがると、足音もなく満砕に近寄る。神官たちの制止を聞かず満砕の手を取ると、その場に立たせた。

「此度もよろしく頼むよ、瓏援来」

 目元が柔らかく弧を描く。笑っている。笑えている。

 呆然とするのも束の間に、神官から立憐と距離を取らされる。

 満砕は体から力が抜けていくのを感じた。無理に体を動かし、部下に指示を送る。

 神官と巫子を居室に案内する部下と別れ、廊下を二回曲がったところで崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

 立憐の感情が戻る方法を、最も考えていた自負があった。たくさんの可能性を試しては、感情が戻らず、育めず、気をもんでいた。

 それがどうであろう。

 満砕は客観的に自分を見て、自分が気落ちしていると気づく。

 あれほどにも望んでいた立憐の感情が、自分の取った行動以外で取り戻されている。消沈しているのか、苛立っているのか分からない不可思議な気持ちが湧きでていた。

 至った今がすべてであり、立憐の生死がかかっていた現状が解決しているならば、満砕が抱く思いは些末だ。だというのに、落ちこむ気持ちは段々と腹立たしさに変わっていく。

 これは誰に対してではない。自分に対しての怒りだ。二百年も死んだままだった、不甲斐ない自分への怒りだ。

 満砕は初めて、二百年の空白を憎く思った。

 


「援来、お茶にしない?」

 自分の存在の無意味さを痛感し、今最も会いたくない人物である立憐は、都合をつけては満砕の周りに顔を見せた。

「巫子様? その、お付きの神官は?」

 無言で巫子を見つめる上官に代わって、副将の交嵐が尋ねる。

「勝手に出歩くなとうるさいから、置いてきたよ」

 あっけらかんと神官たちを撒いてきたと告白する立憐に、満砕も部下たちも唖然としてしまう。

「援来はまだ仕事かな。少し休憩を取った方がいいと思うのだけど?」

 時刻は未の刻を過ぎており、満砕は昼食を摂っていなかった。いやな予感がする、と満砕が執務室に目をやると、部下たちは一斉に目を光らせた。

「そうですよね! 我々もそう思っておりました!」

「ちょっ」

「将軍は働きすぎですので、斥候が帰ってくるまで巫子様がお相手してください!」

「ちょ、待て」

「何かあったら呼びますので、将軍は巫子様の護衛をしていてくださいね!」

「裏切り者が!」

 上官を休めたい部下たちの心が一つになる。強制的に、部屋から立憐とともに追いだされた。

「私の部屋に案内するよ」

 満砕は途方に暮れ、立憐に「城内でも一人にはならないでください」と苦言を吐くことしかできなかった。

 巫子に与えられた、比較的豪華な造りの居室に戻ると、神官が顔を真っ赤にさせて待っていた。

 諫言が飛ぶものの、立憐は真面目に取り合わない。最終的に連れてこられた満砕が神官たちに睨まれるはめとなった。

 神官に茶の用意をさせた立憐は、向かいに座るよう満砕に指示する。表向きでは護衛で赴いた満砕は、しばらく悩んだ末、帯剣したまま椅子に座った。

 二百年前と比べると、立憐はあまりにも身勝手だ。付き人もつけず城内を歩き回り、気にいった将軍を茶に誘う。ともに育ったばかりの小心者な彼とも、無気力に満ちていたころの彼とも異なり、生じた矛盾で居心地が悪い。

 やはり二百年の弊害か、と悩んでいると、茶の用意をし終えた神官たちに立憐は下がるように命じた。神官はいい顔をせず、再び言葉で諫めようとしたが立憐は強く「下がりなさい」と告げた。

 神官が唇を噛みしめ退室していく姿を見ながら、満砕は慣れた手で食器を布巾でぬぐった。茶杯に手を伸ばし、匂いを嗅ごうとしたところで、立憐は満砕の持ちあげた杯に手でふたをする。

「君、毒見ができるの?」

「え……あ、まあ、はい」

 問われてから、ようやく生前の護衛の癖が出ていたと悟る。巫子に盛られた毒を未然に防ぐのは満砕や吏安の仕事だった。

 無意識にしてしまった行動に冷や汗をかく。対して、立憐は一連の満砕の動作を気にした素振りなく、面布を取り去る。茶杯を持ちあげると、躊躇なく口をつけた。

「そう。別にそんなことしなくても、このくらいの毒なら死なないよ」

「は?」

 まるで、巫子の茶にはいつも毒が入っているような言いぐさだ。満砕が固まっていると、立憐は整った顔をきょとんとさせた。

「何を驚いているの?」

「いや、毒って……日常的に入れられているのですか?」

「君のものには入ってないから安心するといい。さすがに辺境大将軍を毒殺したらまずいからね」

「そうじゃ、なくてっ!」

 卓を叩くと食器が耳障りな音を立てる。立憐は不思議そうに首を傾げる。

「もしかして、浪遠には伝達されてない?」

「伝、達?」

 満砕の顔が険しくなる。その様を見ていても、立憐は平然とした態度を崩さない。毒入りだという茶を傾けながら、日常会話のごとく自然に口にする。

「献栄国に、新たな巫子が生まれたんだ」

 満砕にはその言葉の意味を問い返す余裕さえなかった。

「巫子は死期を悟ったとき、新たな巫子を選別する。それとは別に、三百年の周期で新しく巫子が生まれるんだ。それが、今の時代。戦争中だから、披露はされてないけれど」

 皿に盛られた菓子をつまみ、口に放る。毒が入っているのか確かめもしない。

「私はおよそ、二百年巫子を務めた。国は古く長く、権力さえも持ちだした巫子が邪魔なんだ。だから、新たに生まれた巫子を、次の巫子に決めたんだよ」

 満砕は唖然と言葉が出ない。長く国のために仕えた者に対する仕打ちとは思えなかった。強制的に故郷から連れ離し、巫子になることを強いておきながら、新しい巫子が生まれれば危険分子のように定める。その結果が実力行使などと、人間の考えることだろうか。

 静かな怒りが足の底から湧きたってくる。立憐は満砕に灯った怒りの炎に気づいた素振りなく、言葉を続けた。

「おかしいと思わなかった? 巫子が国を守っているのに、ここ数年他国からの侵略が多いと。そもそも結界を張っているのに、どうして彼らは国に侵入できたのか」

 囁かれ、今までなぜ気づかなかったのだと思うほど納得した。すでに敵には三度の侵攻を許している。敵の本陣が献栄国の王都に辿りつかず退却しているため、国民にはどこか楽観があった。

 この国には巫子がいる。国中に張り巡らされた結界がある。その固い守りによって、献栄国は長い時の中、他国の侵略から守られてきた。

「……力が弱くなってる?」

 代替わりで、結界を張る力が段々となくなってきていたら――

「そう。新しい巫子が生まれたことで、私の声が神に届かなくなってきている。弱まった結界の穴を狙って他国が攻めてきているんだ。巫子の代替わりはそういう危険があると知ってはいたけど、まさに今、最悪な時期と重なってしまったようだ」

 立憐はただただ事実のみを語り、声音に真剣さのかけらもない。まるで、かけ離れた遠くの事案を語るように。国を思う責任感さえも、彼からは感じられない。

「先代巫子の私の力は弱まり、次代巫子も国全体を守れるほどの結界が張れるわけではない。私と次代巫子が張れる結界は、王都を中心的にしたものだ。あとは一度の侵入を弾けても、二度目は防げないほど柔な仕様」

 戦場の最先端にいる満砕ら兵士たちにとっては恐るべき内容だ。浪遠城郭の長である満砕でさえ、この情報は一切知らされていない。

「今起こっている戦争は、巫子に守護をすべて任せていた国の怠慢といっていい」

 立憐は口元を上げて微笑んでくる。

「でも、すべては巫子の、私の責任だと国は言うんだ」

「そんなわけない! ありえないだろ⁉」

「そういう理不尽には、もう慣れてしまったよ」

 立憐はさらに笑みを深めた。

 その笑顔があまりにも完璧すぎたため、満砕はようやく彼が笑っていないのだと気づく。張りつけた、作られた笑みだった。演じているわけではなく、外側にべったりと仮面をつけたような違和感。笑顔はいっそう分かりやすく異変を感じさせた。

 長い時を生き続けているから、感情があるのだと思っていた。感情が枯渇してしまえば、いずれ死んでしまうはずだ。死んでいないということは、感情を失っていないからだと。

 そうではないのだ。

 彼がこの二百年の間にどのような辛苦を経験してきたか、想像を絶する。一人で感情を作りあげ、維持し、処世術として外側を自然体に仕上げるのに、時間は有り余っていた。外見を演じる方法を考えるくらい、造作もなかったと言うだろう。

 そうやって自分を守ってきた。生き続けてきた。

 その果てが、国に用済みだと捨てられることなら、立憐の人生はなんだったというのか。

「そんなことに、慣れちゃだめだろ!」

 悲しくなって声を荒げれば、立憐は目を次第に大きくし、口を半開く。満砕は巫子に対する話し方でなくなっていると気づき、慌てて口を手で覆った。一兵卒にしては出しゃばった言い方だったか。満砕はもう、彼の友ではないのに。

 うつむきそうになる満砕を止めたのは、立憐の手だった。

「昔ね、そんなふうに私のために怒ってくれた友がいたんだ」

 満砕の頬に手を添えて、顔を上向きにさせる。その声は穏やかで、立憐らしい優しい響きをしていた。懐かしいものを見る目で満砕を見てくるため、心がはやっていく。

「そっちの話し方の方がいいな」

 張りついた微笑みは取れないものの、立憐は今心から喜んでいる。そう思えた。

「その方が、唯一の友に似てるんだ。少しだけ、ね」

 ――俺はまだ、おまえの中にいるのか。

 かつての、唯一の友。満砕は、今もなお立憐の中に残っている。

 ――俺はここだよ。ここにいるよ。

 そう言えたら、どれほど楽だろう。

 二百年経って生まれ変わった。そのような荒唐無稽な話を、どう話せというのか。

 同時に、告げたところでどうなるというのか。

 ――おまえを置いて死んだのに。

 立憐を置いて死んだ満砕を、許さないでくれと思っているのは満砕本人かもしれない。ここにいるよ、と心の中で叫びながら、見つけないでくれと臆病になっている。

 謝罪の言葉も言えない。言ったところで、立憐を傷つけると分かっているから。

「なぜ、そのような話を俺に?」

 政界の内情ともいえる話を、一介の兵に話してもいいのかと。

「誰かに知っていてほしかったから。真相を、現状を。私が、存在していた事実を。君を選んだのは、君がここで一番死ななそうだから。だから、決して死なないでね」

 力強く告げられた言葉は、その方が印象強いからだろうか。そのような打算が長年の経験で立憐の中に身につけられていたのだとしても、「死なないで」とその言葉だけで満砕は生きていけると思えた。

 満砕は添えられたままだった立憐の手を取って、両手でぎゅっと握りこんだ。

「死にません。私はあなたをお守りしますから」

 まっすぐに立憐を見つめて宣言すると、立憐は穏やかに笑ってみせるのだった。

 

 ◇

 

 献栄国領土、浪遠城郭周辺に敵兵が現れたと報告を受け、満砕はわずかの兵士を連れて見回りに出ていた。

 献栄国と明日螺国の国境は荒野が広がっている。さらに遠くに連なる、明日螺国の領土にある険しい山々から吹く風が、浪遠の地に直撃するのだった。障害物がないため、寒々しい風は季節関係なく吹き荒れる。

 初夏にもかかわらず、毛皮の外套を手放せない。流行遅れの毛皮を多くの兵士が鎧の上にまとっている。軍備品が調達できない実情もあったが、毛皮は温かいので重宝している。また、熊や鹿の毛皮は臭いさえ気にしなければ、迷彩の役割も担う。多くの兵士が着こんだままだが、神官からは不評を買っている。立憐からは「援来は顔がいいのに、格好がもったいないよね」と鋭い一言を突きつけられていた。

「将軍、北西に敵兵あり。数は、およそ五十です」

「偵察部隊にしては数が微妙だな。装備は?」

「すべてが歩兵、軽装です」

「本陣からはぐれたか」

 それにしては敵兵の様子が静かすぎる。一度体制を整え、退却するでもなく浪遠の地に残っているのはおかしい。結界の綻びを突いて中に入ったはいいものの、再び張り直された結界によって外に出られなくなったのかもしれない。

「どうしますか、将軍」

 指示を仰ぎながら、部下は好戦的な目を光らせる。

 浪遠にいる兵士は、目の前の部下のように闘争心の強い者がほとんどだ。故郷を戦でなくし敵討ちがしたい者、野心家でいち早く武勲を上げたい者、高い報償を狙う者。戦う理由はそれぞれ違ったが、誰もが血気盛んに目前の敵を討ちとろうとしていた。逆に、そういった者たち以外、この極寒の浪遠では使い物にならないのだ。

「下手にこちらから手を出して外交問題だとか言ってきたら面倒だ」

「しかし! 彼らはすでに献栄国に足を踏みいれています! 敵対の意思ありではないですか⁉」

「だから、相手に侵略の名目を与えちゃいけないんだ」

 部下は苦い顔をして押し黙る。言い分も分かるため、彼の頭を乱暴になで回した。

「な、何するんですか⁉」

「要は、献栄国軍が手を出したように見えなければいいんだ」

 口元を上げてみせると、部下の数人は満砕の言葉を理解する。戦闘力は申し分ないものの、頭の回転が遅い者は、味方に耳打ちされて納得した顔つきになる。

「交嵐に伝令を。小隊を組む。夜襲をしかけるから目に自信のあるものを中心に。間違っても献栄国の印がついている武具をつけてくるなよ。ここにいる者たちも今のうちに外しておけ」

「了解‼」

 足の速い者に伝令を頼み、満砕は他の兵士たちと作戦を詰める。

 陽が完全に暮れ、それから二刻経ったころ、合流地点に小隊が辿りつく。その者たちと作戦の確認を行い、満砕を先頭に夜闇にまぎれた。

 満砕たちの格好は外側が毛皮に覆われ、足巻きも動物の皮を使用している。一見、山賊と相違なく、よく見なければ献栄国の兵士だとは思わない。武器だけは一級品揃いだったが、はたしてそこまで観察できる余裕が敵にあるだろうか。

 地理は献栄国側に有利だ。浪遠の部隊には夜戦にも対処できるよう訓練させてきた。城郭で戦闘になる前に実戦できて好都合だ。

 三刻かけて敵兵の停留地に向かい、暢気にも野営をしている彼らを囲む。満砕は周囲の味方に指示を送ると、部下たちは素早く位置について静かに敵に近づいた。

 まずは夜番の敵兵を同時に殺す。悲鳴は一瞬で、夜闇の獣の声にまぎれてしまう。外周から中心地に向かって、ゆっくりと進入する。夜番の者から順に刺し殺していき、寝息を立てている者もそのまま永遠の眠りにつかせる。

 五十人いた敵兵を半刻も経たずに一掃した。

 五十の命が一夜のうちに、それこそ一瞬にしてなくなった。自分で手を下しておきながら、残酷に戦の無慈悲さを痛感する。屠っても屠っても、また明日、新たな敵が生まれる。彼らの立場が、もしかしたら自分たちだったかもしれない。

 人を斬れば斬るほど、殺せば殺すほど、心が削られ減っていく。人の死を数えないようにいつの日か自分に戒めていた。そのときのことを満砕はもう思いだせないでいる。

 五十の敵兵の大将を部下が連れてきた。青い顔で震える男を見つめ、すり減った心を無視する。この感覚は感情を失っていく立憐と似ているかもしれない。

「撤収するぞ」

 味方が誰一人欠けていないことを確認する。敵の大将を捕虜とし、朝霧に血の臭いが混じった野営地から撤退する。

 そのとき、白みだした天空が波立った。朝の色から虹色に輝くと、空いっぱいに弾け飛ぶ。まるで水面に一滴のしずくを落としたような波紋状に広がっていく。

 ――立憐……。

 朝が来た。朝の訪れを知らせるかのような結界の張り替え。満砕は、立憐の顔を早く見たい思いで胸がいっぱいになった。

 


「援来、帰ったの?」

 相変わらず神官を連れない立憐は一人、回廊を歩いていた。

 帰還してすぐ、真昼の結界も張り巡らされていた。城郭内に仮の儀式の間を築き、立憐は毎回決まった時間に献栄神へ祈りを捧げている。

「……護衛なしに歩き回らないでください」

 儀式を労う言葉と迷ったが、満砕は一人でいることを指摘した。立憐は諫言を諫言と受けとめず、「大丈夫だよ」と暢気に答える。

「大丈夫ではありません。いつここに敵が攻めてくるか分からないのですよ」

「攻めてきたとしても、私には関係ないよ」

「……それは、ご自身がもう巫子様でなくなるからですか?」

 立憐は静かな目で、変な間を置いた。その無言が、まるで何を言っているんだ、と不思議そうに尋ねてくる。

「以前、あなたがおっしゃったではありませんか。三百年の代替わりで、自分は用済みなのだと」

立憐はようやく理解したとばかりに頷いた。

「そういう意味ではないよ。単純に、敵が私に傷をつけられない。それだけの話だ」

「どういうことです?」

 意味が分からず問うと、立憐は満砕が携えていた剣に手を伸ばした。呆気に取られたすきに剣はむき身となり、立憐はその刃に手を沿える。

「何をっ⁉」

 慌てて剣を退けたが、立憐が怪我を負うことは防げなかった。頭の血がさあっと下りていく。すぐさま止血するために布巾を取りだし、立憐の手を掴んだ。

「え……?」

 立憐の手は、まっさらなまま。鮮血の色は一切なく、傷一つついていない。神殿に長くいるためか、立憐の肌は透き通るように白い。そこには赤く染まった傷は一切なかった。

「私には傷をつけられない」

 念を押すように、もう一度立憐は言った。

「国に張っている結界よりも薄い膜が、私にも付与されているんだ。だから、私は大丈夫」

 握っている手とは反対の手で、満砕の手をやんわりとほどく。立憐は面布を揺らして、一歩後ろに下がった。

「だからといって、俺を試すような真似はしないでください」

 満砕の眉間に力が入り、歯を食いしばってから力なく責める。立憐は整えられた眉を下げて、表面上だけ取り繕ってみせる。まるで「仕方ないじゃないか」というように。

「試したつもりはないのだけど、見せた方が早いと思って。これは献栄神の加護で、私が知ったのも……たしか百年くらい前だったかな?」

 満砕はまた、自分の知らないところで立憐が危険な目に合ったのだと知った。人間とは程遠い能力を与えられたのだと、当時の立憐はどう理解したのだろうか。

「そう簡単に死ねないから、王宮の高官たちは困っていた。だから、浪遠に飛ばされたんだろうね」

 昨夜の夕飯の内容を話すように、どこまでも淡々と立憐は口にした。

 満砕はひどく悲しくなって、途方に暮れた心地がした。立憐に寄り添いたいのに、その方法がまったく分からなかった。

「自由を、望まないのですか?」

 望んでくれ。それは、満砕の望みだった。

「自由、か」

 立憐は窓の外をぼんやりと見遣り、現在ではない遠くを見つめていた。その目に、満砕が映ることはない。

「自由になるときは、私が役目を終えたときだ」

 国に二百年以上も仕え、国にあっけなく捨てられようとしている巫子。それでもなお、立憐は巫子としての役目をこなそうとしている。

 満砕はかつて、立憐を解放したかったのだと思いだす。巫子から、国から、神から。幼い子どもには何もかも強敵すぎて、寄り添う方法しかなかった。

 立憐は穏やかに微笑みを見せた。

「そうしたら、私はようやく、友のもとへ行ける」

 はっと息を呑んだ。

 ――そうか。おまえはとっくの昔に覚悟を決めていたんだな。

 立憐が今もなお生き続けているのは、「満砕」のもとに行くためなのだと、満砕はようやく気づいた。

 

 ◇

 

「将軍!」

「どうした?」

「捕虜が吐きました」

 夜襲で捕まえた敵の大将に尋問していた部下は、血相を変えて執務室に入ってきた。

「西方を攻めていた明日螺の大軍が、浪遠に向かっていると!」

 執務室にいた兵士たちの顔がざっと変わる。みな険しい表情を浮かべ、天井を仰ぐ者もうつむく者もいた。しかし、次の瞬間には一様に満砕を見た。

 満砕は腕を組んだ状態でまっすぐと前を向いていた。

「北と西ではさむ作戦をやめたわけか」

 明日螺国は北方と西方から同時に攻め、挟み撃ちをするつもりだった。実際、冬が来る前まではその作戦で同時的な侵攻があった。

 作戦の失敗は、予想以上に浪遠の防衛が固く、西方の山脈越えが難しかった点にある。

 ゆえに彼らは近道である西方攻めを断念し、大軍一体となって浪遠を攻め入る策に変えたのだ。

「将軍に報告が!」

 新たに執務室に兵士が駆けこんでくる。彼は見張り台にいる伝令役の一人だ。

「明日螺国の国境の向こうに、敵の陣営が続々と集結しています!」

 真っ青な伝令役の叫び声に、部屋の空気が一段と重くなる。

「それでは援軍が来るまで間に合わない」

 誰かが吐露した事実は、静かな部屋には痛いほどに響いた。

 満砕は鎧の音をわざと豪快に鳴らしながら立ちあがった。

「気を落とすな!」

 途方に暮れていた部下たちは顔を上げる。満砕は近くにいた部下の背を力任せに叩いて、その隣の者も順に叩いていく。汚い悲鳴を上げる彼らを無視して、立っていた一列全員の背中に活を入れ終わると、部下の肩に体重をかけて部屋中を見回した。

「まだ戦いは終わっていないぞ。戦いが始まる前から死んだ顔をして、おまえたちはそんな腑抜けたやつらだったか? 腑抜けを部下にしたつもりはない。生者だけ俺についてこい!」

 高らかに奮起の言葉を叫ぶと、鼓舞された兵士たちの瞳に光が戻っていく。やる気の炎を宿らせ、誰もが勝利だけを見ていた。

 士気が高まったことを確認した満砕は部下たちに告げる。

「全軍、配置につけ。俺もすぐ城壁に向かう」

 声高に返事をし、各自持ち場に戻っていく中で、交嵐だけが「待ってください」と固い顔で声を張った。

「どうした?」

 交嵐はめったなことで、満砕に否を唱えない。平民の地位から満砕が副将に抜擢した立場もあり、長い付き合いでもある交嵐は、満砕のすることに全幅の信頼を置いてくれている。その彼が満砕に制止をかけたのだ。

「城壁には私が行きます。全軍の指示は私が出します」

 意を決してという様子で、覚悟を決めた目を向けてくる。

「だめだ」

「あなたは辺境大将軍だ。あなたが討たれたら浪遠は終わりです。浪遠で戦う兵士の士気を下げないためにも、献栄国を守るためにも、将軍は本城で巫子様の護衛についてください!」

 今まで辺境大将軍の名がなかったころから、満砕は先頭を切って戦ってきた。その戦い方が最も勝率が高く、兵士たちの気も高まりやすいと知っていた。

 そばにいた交嵐もそれは十分分かっている。城壁の上に立ち、兵士に直接指示を送る。それがいかに兵士の意気を上げるか分かった上で、交嵐はその先を見通しているのだ。

 満砕は巫子の護衛を交嵐に任せるつもりだった。満砕の次に戦闘力があるのは彼に違いなく、知略ともとなると満砕の上を行く。大軍が押し寄せる浪遠の地でなければ、何も心配なく任せられていたはずだった。

 満砕は奥歯をぐっと噛みしめる。自分は本城に残り、部下を死地の表に立たせることがこれほど苦しいとは思ってもみなかった。

「……決して死ぬなよ」

「本城には攻めこません」

 絞りだした決断に、交嵐は深い拱手をして去っていった。その後ろ姿を見つめ、満砕はこぶしを強く握りこんだ。

 


 明日螺国が大軍となって攻めてきたことを立憐に報告すると、取り乱したのはお付きの神官二人だけだった。

「だから私は、こんなところに来たくなんてなかったのに!」

 顔を覆って泣き崩れる一人に対して、もう一人の神官は巫子である立憐に詰め寄った。

「あなたにお仕えしていたせいであんまりです! 私は神のもとにも行けず朽ち果ててしまうのですよ⁉ いったいどうしてくれるのです!」

 掴みかかろうとする神官と立憐の間に入り、満砕は無礼者を蹴散らした。武将の蹴りに神官はひとたまりもなく、地面に無様に転がった。

 満砕の背に隠された立憐は音もなく前に出て、呻いている神官の耳元にそっと囁く。

「最初からないような信仰心だろう。どうしていまさら神のもとに行けるなんて思っているんだ。神の使いである巫子を毒殺しようとした君たちを、神が見放したとは思わないの?」

 神官は一瞬にして顔を真っ青にして硬直してしまった。立憐は立ちあがると、最初から何もなかったかのように、満砕と他の少数の護衛兵を見つめた。

「私のことはいいから、何かあったら逃げるんだ。いいね?」

 有無を言わさない強めの語気で立憐は言う。うろたえる護衛兵に反して、満砕はすぐに「そういうわけにはいきません」と返す。

「私には傷がつかないって話はしただろう」

「万が一ということもあります」

「私が死んでも、代わりの巫子がいるよ」

 顔色を変えず平然と言ってのける立憐に、満砕の眉間に深い皺が寄る。

「あなたは一人しかいない」

 自分を大事にしようとしない立憐への怒りをにじませつつ、満砕ははっきりと断言した。立憐の瞳を正面に捉え、これ以上の戯言を吐かせないという強い意志で見つめた。

「……しょうがないね」

 立憐は浅くため息を吐いた。

「儀式の間に行きたい。ついてきてくれる?」

「分かりました」

 満砕は部下を引き連れて、立憐を儀式の間に送り届ける。

 神殿内の儀式の間には程遠い、簡易的に儀式を行うためだけに作られた城郭の一室だ。立憐は中に入ってこないよう言いとどめてから、部屋の中に入っていく。

 決まった動作で長い袖を払い、祭壇前に膝をつく。

 その後ろ姿を、満砕は二百年前に何度も見てきた。あのときの小さな体は姿かたちなく、代わりに頼りがいのある背中があった。

 立憐は天に高く手を上げ、礼拝を始める。「天におわす献栄神に、ご挨拶させていただくための一拝」と、どこかから吏安の声が聞こえてきた気がした。「祭壇にお迎えするための一拝。そしてお祈り」深く拝礼をして、長い祈りに入る。「挨拶への感謝と、天にお帰りいただくための二拝で儀式は終わります」。吏安が、そう耳元で囁いた。

 そのとき、体中がぞわっと沸き立った。体の表面を何かが這って、汗腺の一つ一つが広がり縮むような違和感が走っていく。

「な、なんだ今のは?」

 体に異常を感じたのは満砕だけではなく、背後に控えていた護衛兵たちも不思議な様子で体を触っている。

「城郭を守る兵士たちに守護を付与した。私の体に張っている結界と、同等の効力を発揮する」

 いつの間にか儀式の間から出てきていた立憐が簡単に言ってのける。

「これで攻撃を弾き飛ばせるだろう。だがこれは一度しか通用しない。深手を負っては意味がない。一時しのぎの効果しかないから、怪我をしないに越したことはないよ」

 説明を終え、本城の奥に戻ろうとする立憐。満砕は護衛の一人に今の説明を伝達するように命令して、立憐のあとを追った。迷いない足取りで先を行く立憐の肩を掴んで顔を合わせた。

「祈りの効果に何を犠牲にしたんですか?」

 立憐は答えない。

「城郭にいる兵士が、いったい何人いると思っているんですか。国を覆う結界よりは難易度は低いかもしれない。けど、攻撃を一時的に防げるなんて、そんな反則技が簡単なものであるわけがない。いったい何を犠牲にすれば、神にそんな異常な交渉ができるんです⁉」

 焦りのままに立憐に言葉をぶつける。立憐は口元に微笑みを浮かべているが、目はどこか冷めていた。

「君、巫子について詳しいね。まさか、そこを突いてくるとは思わなかった」

 立憐は肩を掴む手をやんわりと離させると、安心させるように満砕の二の腕を叩いた。

「直に分かるよ。そのときはお願いね」

 不安しか残らないまま、立憐は一人奥に進んでいく。巫子の護衛である以上、満砕は立憐のそばにいるしかない。しかし、これほどにも近くにいるのに、立憐を守りきれる自信がなかった。

 


 日が高く昇ったころ、明日螺国の進軍が始まった。

 大軍が移動する地響きが聞こえてきた。地面が揺れ、馬と歩兵が駆ける音が響いてくる。

 献栄国は浪遠城郭にて明日螺国を向かい受ける。王都へ援軍を要請したものの、味方が到着するまで浪遠を守りきれるかは絶望的であった。

 浪遠の兵士に逃亡という選択はない。この地で敵と相対しなければ死ぬのは自分ではなく自分の家族だ。少しでも敵の数を減らすべく、国を守るために浪遠兵は防衛に当たる決意を深めていた。

 進軍の音が止まったかと思うと、今度は高く弓を引く音。すぐに大量の弓が発射される音が響いた。

「結界が破られたよ」

 長い睫毛を伏せていた立憐が、静かにそう言った。

 最初の弓矢の攻撃によって、張られていた低い精度の結界が破壊されたのだ。

 再び、大量の弓が一斉に引かれる音が響いたかと思うと、風を切る音が城を揺らした。城門の上にいる兵士が持つ楯に弓が当たる音が鳴ると、何人かの兵士の悲鳴も聞こえてきた。

 とうとう城攻めが始まったのだ。満砕は本城の奥で立憐の隣にたたずみ、戦況の報告を待っていた。伝令が状況を教えてくる間に、外から響いてくる音で判断する。弓矢の攻撃を仕かけてきた敵は、次に城門を乗り越え、門扉を破壊しようとしてくるはずだ。

 敵か味方か分からない人間の悲鳴に、戦闘の激化を感じた。

「くっ」

「巫子様⁉」

 椅子に座っていたはずの立憐が突然地面に崩れ落ちた。

「どうした!」

 巫子を支える護衛兵から受けとった立憐は、体が発火したように熱かった。額には小さな粒の汗がにじんでいて、顔は苦悶に満ちている。

 過酷な状況下で緊張が悪化して熱を出したのか。考えがよぎり、いや、違うとすぐに改める。

「心配、しないで」

「まさか⁉」

 すべてを受けいれている様子の立憐に、満砕は予感が的中したことを悟った。

 立憐は兵士に守護の結界をかけた代償として、おそらく怪我の痛みを肩代わりしている。兵士が怪我したと同時に、痛みは立憐へと返る。怪我は神が治すが、形のない痛みだけは行く当てがなくさまよう。そのため立憐が痛みの受けいれ先になっているのだ。

 ――神ってやつはどこまで残酷なんだ!

「兵士にかけた力を解いてください! 今すぐに!」

 悲鳴に近い声で満砕は立憐を揺すった。

 今もなお数百の味方の怪我を立憐は受けいれている。このまま痛みを代わりに受け続けたら、立憐の精神が壊れてしまう。

「だめだよ。今解いたら、痛みが兵士に返ってしまう。私さえ我慢すれば、怪我は無効化できるのだから」

「しかしっ!」

 立憐は浅い息を吐きながら、満砕の意見に取り合わない。「普段は物怖じしているのに、一度決めたら梃でも動かない」昔の性格が、今も継続していると懐かしめばいいのか、憎めばいいのか分からない。

「東の関城(せきじょう)が突破され、本城に敵が侵入しております! その数、およそ百」

 傷を負った伝令が崩れるように部屋に駆けてきた。仲間に治療を任せながら、意識のあるうちに詳しい戦況を聞きだす。

「関城が落とされたのか」

「いえ、敵の先鋒の一部だけのようです」

「なんとしても入り口で食いとめろ。ここまで来させるな!」

 城門の外にある小規模な城である関城は最も敵に狙われやすい。濠を越え、城門を越えて入ってきた百人の敵は、大軍から見ればわずかだ。だが、少数の護衛しかいないこの場で巫子を守りながら戦うのは不利にちがいない。

 巫子を死なせることは、この戦で最も阻まなくてはならないことだ。浪遠城郭にいる兵士には巫子がかけた治癒の力がある。巫子が死んでしまえば、時間が経たない間に、献栄国は一瞬にして不利になる。

 はっ、はっ、と震えるように息を吐く立憐を、部下の一人に託し、満砕は剣を抜いた。すぐに部屋の入り口が蹴り破られる。

 入ってきた敵兵の姿に、満砕はためらいなく剣を振るった。次々になだれ込んでくる敵を斬り捨て続ける。

 斬っても斬っても湧いて出てくる敵は、かつて王宮で刺客を相手にしたときと似ていた。今懐に立憐は抱えておらず、味方の数も少数ではあるが満砕一人ではない。成人してわずかに辺境大将軍の名をいただいた満砕の腕にかかれば、侵入者ごときは敵ではなかった。

 他の護衛兵と協力して、数十の兵士を屠ると部屋は真っ赤に染まっていた。第一陣の侵入兵はすべて屠った。敵の骸を飛び越え、血だまりを避けて壁に寄りかかる立憐のもとに戻る。

「巫子様、お怪我は?」

 血に濡れた手を服の裾でぬぐうものの、服もまた血で染まっていた。これでは触れることもかなわない。

 立憐は痛みで生じた涙でにじむ目を、満砕に向けていた。浅い息を吐きながら、立憐は小声ながらもはっきりとその名を囁いた。

「ばん、さい……?」

 満砕は目を大きく見開く。

 立憐が思わずというようにつぶやいた名前。立憐もまた、なぜその名を呟いてしまったか分からないといった顔をしている。

 今の満砕は瓏援来だ。髪は献栄国の民にはない金色、目は薄い空の色。体つきは筋肉に覆われて、満砕のころよりも一回り大きい。昔の姿かたちは一切なく、援来を見て満砕を思い浮かべるはずがない。

 だが、立憐は援来の姿に満砕を見た。見つけてくれた。

 膨れあがる歓喜と同時に、今の立憐が正常ではないと冷静さも思いださせる。駆け寄った兵士がかつての友を彷彿とさせたのかもしれない。気の迷いだと言い聞かせるも、満砕の心臓は高く鳴っていた。

「将軍、移動しましょう。今なら敵兵の姿はありません」

 索敵をしていた護衛兵の言葉に頷き、満砕は立憐を抱えあげた。立憐の白い衣に赤い血が移ってしまうが、今はそれも気にしていられない。

 浪遠城郭には貴人を守るための隠し部屋などない。王宮や神殿には存在すると聞く秘密の部屋は、大勢の兵で守護にあたる浪遠には無用の長物だ。だが、満砕は今このときほど、隠し通路が欲しいと願わずにはいられなかった。

 味方の護衛兵の先導についていき、満砕たちは見張り塔へ向かった。見張り塔の入り口は一方通行なため、一つの出入り口に護衛兵を置いて、最奥に立憐を横たえた。

「巫子様、ここに隠れていてください」

 満砕は本城がどこまで攻め入られたか状況を把握しに、見張り塔から出ようとした。しかし、血に染まった腕を立憐の手が止める。掴まれた腕には一切の力が込められておらず、立憐の体力は限界に達していた。

「大丈夫です。少し外を見てくるだけですから」

 行かせたくないのか、弱った体でとどめてくる立憐に、満砕はできるだけ優しい声音を発した。

 立憐は発熱した赤い頬で、目を揺らしながら満砕を見ていた。

「今行かせたら、君が死んでしまう気がして」

 苦しげに吐かれた言葉が、立憐の二百年を思わせた。

 満砕は立憐のことを分かっていたつもりで、何一つ分かっていなかった。

 自分は立憐を守って死んだ。守れたことに、安堵していた。

 だが、立憐はどうだろう。満砕の死後、二百年も生き続けた立憐は。

「自分を守らずにいれば」と立憐は後悔したはずだ。満砕が立憐の立場なら、後悔し続けたはずだから。

 ――残酷なのは、神でもなんでもない。俺だ。

 満砕は立憐を残して死ぬなど、もう二度とできない。

 返り血で汚れると、考える頭もよそにやり、満砕は立憐の手をぎゅっと握りこんだ。彼の揺れる目と目を合わせ、はっきりと誓う。献栄神に初めて誓ってもいいと思った。

「今度こそ、俺は立憐を置いて死なない」

 絶対に、立憐を置いてはいかない。独りにしない。

 死んでしまった過去は変えられないが、二度も立憐を置いていくつもりはなかった。慟哭を、自責を、立憐に再び負わせるつもりはない。

 だから、満砕は死なない。立憐とともに生き続けると宣言した。

 立憐は意味を理解していき、段々と目を見開く。

 満砕は最初で最後の願いを告げた。

「ともに、丘の向こうに帰ろう」

 満砕は、立憐とともに故郷に帰りたかった。ただそれだけの願いをずっと抱えていた。

 立憐は大きくした目を泳がせ、ぼろぼろと大粒の涙を流す。嗚咽をこぼしながら、しゃっくりをして肩を揺らしながら、求め続けていた親友に手を伸ばした。

 満砕の頬に触れる。小刻みに震える指は、生きた者の体温を確かめるように。

 紫色に変わっていた立憐の唇は、次第に血色を取り戻す。

 本当に満砕なのか、と立憐は問わない。すでに確信している立憐は口を瞬かせ、眉根を下げて微笑んだ。

 絶えない涙は頬を伝わないまま、白い着物に吸いこまれていく。立憐は満砕の頭を引き寄せ、もう二度と手放さないというように強く抱きしめた。

「満砕、満砕っ! 今度は絶対死なせないから! だからっ!」

 満砕と立憐は、二百年ぶりに再会を果たした。

「一緒に、今度こそ、一緒に帰ろうっ!」

 ぶわりっ――満砕と立憐の周りに強い風が吹く。その場の時が一瞬にして止まった。かと思えば、外に向かって色のついた風が強く吹き荒れていく。春の陽気を感じさせる温かい風が辺りを優しく包みこんだ。

 護衛兵の傷が癒された驚きの声に、満砕は我に返る。その風は、抱きしめた立憐を中心にあふれていた。

「立憐⁉ 体は――」

体を離すと、立憐は痛みなど忘れた顔で、涙を浮かべて笑っていた。

「僕は大丈夫。でも、なんだか心がとってもあったかいんだ」

 恥ずかしそうにはにかむ立憐に、満砕の目にも涙が浮かんでいく。再び強く抱きしめると、背中に立憐の腕が伸ばされた。二人は戦場であることも忘れ、お互いの命がそばにあることを確かめた。

 立憐から生みだされた感情に合わせて、春の風は波打つようにあふれ続けた。それは空を舞う結界の波に似ていた。

 抱き起こした立憐とともに、唯一の窓から外を見る。空に広がる七色が、風となって浪遠城郭を覆っていた。

「……あんまりにも嬉しくて、力が強化されたみたいだ」

 立憐は自身が発した、未知の能力に驚きをもらす。

「怪我が、消えていく……」

 怪我を負った護衛兵の傷が、七色の風が吹くと消えていった。もしや、と見張り台下の兵士を凝視する。戦闘を行っていた兵士たちは戸惑いの声をもらしているが、次第に驚愕へと変わっていった。

 風は味方の上に優しく吹いて広がり、献栄国のすべての兵士を癒していく。苛烈化する戦場にまで七色の光は覆い尽くした。

 献栄国の民は、その温かい色を知っていた。毎日、三回も見てきた結界の色と同じだった。巫子が力を分け与えてくれたのだと理解した献栄国の兵士から、続々と喜びの咆哮が上がる。浪遠城郭にいた兵士全体に広がっていき、下がっていた意気は湧きあがる。

「満砕、僕たちは負けないよ」

 隣り合って戦況を見つめていた満砕と立憐は、お互いの手を強く握り合った。

「ああ、俺たちは負けない。勝って、絶対に願いを叶えるんだから」

 二人の気持ちに寄り添うように、怪我を治癒する力は、風となって献栄国の兵士たちの間を縫って吹いていく。

 激化した戦闘は、防衛し続けた献栄国が常に優勢だった。献栄国の援軍がやってくるまで、浪遠城郭を持ちこたえさせる。

 明日螺国の兵士が疲弊したところを狙い、敵国の大将首を討ちとった。

 献栄国の兵士の誰一人も欠かさずに、明日螺国の浪遠侵攻は、献栄国の勝利で終わった。

 

 ◇

 

 献栄国は軍を再編成し、浪遠を中心に強化した。新しい巫子が国全体に結界を張れるころになると、献栄国軍は明日螺国の地に進軍を開始する。

 浪遠で起きた奇跡は、立憐の感情が爆発したためによる一時的な効果であった。しかし、それを知らない明日螺国には敗退の要因を理解できないままだった。未知の出来事に恐怖さえも抱き、攻めてきた献栄国軍に対して手も足も出ない。一気に王城を攻め落とされて降伏まで追いこまれた。

 長きにわたった戦争は献栄国の勝利で終結し、明日螺国は献栄国の属国へと下った。

 戦争の功労者として、浪遠防衛を果たした満砕は王宮へと呼ばれていた。大王に目通り叶う間際で、丞相から「神殿へ行くように」と命じられる。

 ――はるばる浪遠から王都までやってきたというのに。

 大王への謁見前も長い時間待たされていたため、満砕の額に青筋が浮かぶ。はるか上の立場にある丞相に恨み節を吐けるはずもなく、衛兵に誘導されて神殿へと方向を変えた。

 神殿に行けば立憐に会えるかもしれない。満砕の苛立ちが収まった理由に離れ離れとなっている立憐と再会できる期待が少なからずあった。

 浪遠城郭の戦争が終わり、二人は三度目の別れをしなければならなかった。いかにお互いを大事に思っていようと、立場が違うことは大きな壁となって存在し続けていた。立憐は新しい巫子の教育のため神殿に戻り、満砕は戦場となった浪遠の後始末に追われた。

 ――立憐は、生きて戻るつもりはなかったと言っていた。

 二百年以上、巫子を務めあげた立憐は、現在微妙な立ち位置にあるという。

 神殿内には立憐が築いてきた「旧巫子派」と、新しい巫子に仕える神官中心の「新巫子派」ができあがっている。同じ巫子とあって、新しい巫子との間に諍いはないものの、神殿内の空気は相当悪いと立憐は表情なくぼやいていた。

 王宮側にも立憐を祀りあげようとする一派と、即刻排除すべきだという集団がある。現大王は幼いころから信心深い信者であるため、後者は立憐が政治に関わってくるのではと恐れているのだ。そんな面倒事はごめんだよ、と立憐は顔の筋肉を一切動かすことなく言ってのけた。

 立憐は満砕に対して、外向きの演じ方をやめた。その途端、感情の発露がなくなり、言動は大人しくなって無表情に戻ってしまった。

 今でも感情はほとんどなく、わずかに残った感情を削りながら供物に捧げていると立憐は言った。それならばどうやって二百年以上も生き続けられたのかと問うと、立憐はわずかに微笑んでみせた。

「満砕と再会したときの記憶を、何度も思い描いたんだ。過ごした時間を、記憶があせないくらい何度も何度も、ね」

 その言葉に満砕はどれほど嬉しかったか、きっと立憐には想像できない。二百年も思い続けてくれたおかげで、二百年の時を経て会えたのだと思うと涙が止めどなくあふれた。

 神殿に帰らなければならない、と言う立憐を、満砕は止められなかった。行かないでくれ、の一言を紡げないのは、彼が巫子として責任があると知っているからだった。

立憐は新しい巫子を見捨てない。遠い過去に、何も分からず神殿に連れてこられた身であったから余計に、立憐は巫子を気にかけている。

 立憐は謝らなかった。別れの言葉を一つも吐かずに、彼は浪遠城郭から旅立っていったのだ。

 


 神殿の重い扉を抜け、応接間に案内される。神殿の造りは記憶の中にある景色とほとんど変わっていなかった。

「立憐様、行かないでっ」

 子どもの泣き叫ぶ声がどこかから響いてきた。振り返ると、回廊の奥に立憐と小さな子どもが立っていた。子どもは立憐の腰に顔をうずめ、一生離れないとばかりに抱きついていた。そのか弱い姿の子の頭を、立憐は優しい手つきでなでてやった。

「ごめんね。私にはどうしても、やらなくちゃいけないことがあるんだ」

「……前に僕に誓ってくれたこと?」

「そう。だから、それまで私の教えをしっかり守っておくんだ。そうしたら、絶対にここに助けに戻ってくるから」

「絶対だよ! 約束だからね!」

「ああ。約束だよ」

 立憐は子どもの背丈に屈みこむと、柔らかな前髪を上げて額に触れるだけの口づけをする。子どもは袖で涙をぬぐい、立憐の首元に強く抱きついた。

 しばらく抱きしめ合っていた二人に、神官の一人が何かを囁く。子どもは離れがたい空気を出しながらも、唇を噛みしめて渋々と立憐から身を引いた。

 神官に促されるままに、奥の部屋へと去っていく姿を、立憐は最後まで見送った。その立憐の後ろ姿を、満砕もまた見守る。

「満砕」

 立憐のもとに静かに近寄ると、存在に気づいていた立憐に名を呼ばれる。満砕は彼に名を呼んでもらえるときを、ずっと待ち望んでいたと気づく。

「あの子は?」

「新しく巫子に選ばれた子だよ」

 子どもが去っていった方に、立憐は切ないまなざしを向けた。

「あの子も攫われてきたのか?」

「うん。できるだけ、国のやり方に口を出したけどね。年に一度の親との対面、文のやり取りは検閲が入るけど可能になった。……でも、それが限界」

 目を伏せて、やるせなさを表す。できることの少なさに、立憐は口惜しい思いを抱えている。

「僕は巫子を下りる」

 立憐は満砕を見あげた。目線の近くなった彼を、満砕はまっすぐに見つめ返す。

「大王は僕に自由を保障した。二百年も国に従事したんだから、当然だよね」

 立憐の言い方にはかなり無理を通した語気の強みがあった。

「政界と関わらないことを条件に、報奨を授けてくれるそうだ」

 今までの出来事を振り返り、満砕はやるせない思いをふくらませる。その報奨ですべてをなかったことにしろ、と言っているかのようだ。過去に巫子をやり遂げた実例がないため、王宮側も立憐の存在をどうすべきか困ったのだろう。譲歩したつもりなのかもしれないが、過去すべての巫子をないがしろにした結果でしかない。

 立憐は少しだけ意地悪げに眉を上げた。

「だから、僕は『友である援来をもらい受ける』と伝えた」

 一瞬ぽかんと呆気に取られ、次の瞬間には満砕は腹を抱えて笑い声を上げた。これほど愉快なことはない。人生の中で最も痛快で、腹がよじれるほど笑った。

「浪遠城郭の後継は、副将だった交嵐って人が務めてくれるらしいよ。満砕のため、って言ったら快く引き受けてくれた」

「なんて強引な」

 根回しもすべて執り行って、満砕が王都に呼ばれた理由も納得する。浪遠を経つ間際、交嵐がやけににこにこと笑顔を向けてきたことにようやく見当がついた。

 立憐は白い袖を払って、面布を取り去った。

「これで巫子としてのわがままは最後だ。やっぱり僕には、人の上に立つのは向いてない」

「その通りだよ。だって俺たちは、小さな村の、ちっぽけな子どもに過ぎなかったんだから」

 労いを込めて立憐の背中を軽く叩くと、彼はまぶしそうに瞳を細めて微笑んだ。

 


 立憐がまとめていた少ない荷を担いで、二人は神殿の外に踏みだした。立憐は明らかに巫子と分かる見た目を外套で隠し、初めて「巫子」としてではなく外界に戻った。

 市場で遠出の準備をして、馬を一頭買ってから満砕と立憐は王都を出立する。

 王都の近くでは商人の馬車や旅人とすれ違うことも多かったが、段々とその数も減っていく。

 道はなだらかにまっすぐと続いていて、村落を抜けると、秋の穂が両端に広く続いていた。鳥よけの人形が立っているものの、満砕と立憐以外の人間の姿はない。空は真っ青で、大きな入道雲が山の向こうにそびえている。

「なぜ俺は生まれ変わったんだろうな」

 立憐を乗せた馬の手綱を引きながら、満砕はふと思いだして口に出した。

 満砕は死んだ。そして記憶を持って、瓏援来として生まれ変わった。奇跡の御業としか言えない不可思議な現象は、満砕の理解に及ばなかった。

「それは、きっと僕が願ったから」

 馬上からぼやくような小声が返ってきた。

「満砕と故郷に帰りたいと、願ってしまったから」

 行き先に目をやって、満砕の方を見ないまま立憐はつぶやく。

 答えのようで、真実は誰にも分からない謎。唯一神に近い存在の巫子であった立憐は、もしかしたら満砕の求める答えを知っているのかもしれない。だが、今以上の返しを聞けるとは思えず、満砕も再び聞きだそうとは思わなかった。

「僕の存在で、巫子の役目を終えても、また別の巫子が現れると証明してしまった」

 立憐は声の調子を下げて、自身の罪を口にする。

「満砕には、巫子を担う子どもの苦しみを想像できない」

「ああ、俺は巫子になったことがないから、想像ができない」

「巫子のすべてに、私のように満砕の存在がいるわけではないんだ」

 ――俺に、立憐しかいなかったように。

 立憐は誰もいないのをいいことに外套を外した。長い白髪がぶわりと風にあおられ、後方に流れる。立憐は髪を抑えながら、天を仰いだ。

「二百年。二百年だ。ずっと考えてきた。考えても、答えは出なかったよ」

 巫子のこと。神のこと。自分の存在。新しく生まれてくる巫子。

 立憐の悩みは、立憐だけでは解決しないことばかりだ。

「おまえが他の巫子のことを考える必要はあるのか」

 自身で言いながらも、非情な人間だと分かっている。満砕は立憐が巫子にならなければ、巫子の存在を気にも留めなかった。当事者にならなければ、人は真実を知る立場にはならない。

 巫子であった立憐にしか分からないことがあるように。

「僕はこれでもね、この国を守ってきたという自負があるよ。この国を、子どもたちの未来を。満砕は、自分たちが幸せならそれでいい?」

 馬上から、立憐は満砕を見下ろした。

 問われて、そうだと言えたら楽だった。

 満砕もまた、一人の国民として、この憎くも尊い国を愛している。どうしたって故郷を捨てられない。

 満砕の心を立憐は見抜いている。単純な満砕の心くらい、立憐ならば気づくのはたやすいだろう。

 そして、それはまた満砕も同じなのだ。

「一緒に、巫子が解放される道を探そう。そのためにも、まずは村に行って、帰ってきたと報告しよう。――大丈夫。時間はいくらでもあるんだから」

 巫子としてのしがらみは断ちきれた。立憐は自由となった。これ以上、国に囚われる必要もない。だが、立憐がそれをよしとしないことも分かっていた。

 彼は巫子を助けたいと願っている。神殿に残してきた子どもだけでなく、後世の巫子もすべてを。その方法を探す手立てを探す旅は困難に満ちていても、満砕と立憐の二人ならきっと見つかるはずだ。

「うん。時間はたくさんある。だから、ずっとそばにいてよ、満砕」

 満砕は、立憐がいればなんでもできる。二人一緒なら、どれほどの苦難も、難問も越えられる。

 そのために、つないだ手はもう決して離さない。


―― 完 ——

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