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巫子を護る者 第二章


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

  

 三つ編みに結った長い髪を後ろ手でいじりながら、満砕は暇を持て余していた。夏陀に付き添って呼ばれた宴の席で、貴族の何のためにもならない自慢話を聞かされている。

 このようなきらびやかな場に、戦闘を生業とする者が出席するのは無粋だが、瓏家は歴史ある武家である。将軍であり当主である夏陀と、養子でありながら長子の満砕が招待された。貴族の機嫌取りが重要な任務であり、次の戦においての軍需物資をいかに彼らから絞りとれるかがかかっている。

 表立って話をするのは夏陀だけ。満砕は夏陀の背後に立って構えているだけでいい。そうであっても、貴族も宴も好きではない。命令さえあれば、すぐにでもこの場から退却してしまいたかった。

 宴の空気に慣れず、ごまかすように息を吸う。肺に酸素が入りこんで盛りあがった筋肉が服を圧迫させた。

 着慣れた軍装は正装であるとはいっても、華やかな宴には似合わず、方々からの視線が突き刺さってくる。中でも若い女の視線が多い。盗み見ているつもりなのだろうが、いくつもの戦場を駆け抜けてきた満砕にとっては分かりやすいことこの上ない。視線を返すと、彼女たちは総じて「きゃっ」と声を上げ、顔を赤らめ目を逸らすのだった。満砕はなぜ見られているのか分からず、困惑するばかりだ。

 髪の房に触れていると、話題が自分のことになり、頭を集中させる。

「子息ももう十八に! いやはや、時が経つのは早いものだ。瓏将軍が平民の子を養子に取ったと聞いたときは、いったいどうなることかと思ったが、随分と立派になったものだ」

 要は「平民ごときが」と、目の前の貴族は言いたいのだろう。心のうちが透けて見えるが、養子に迎えられてから幾度も言われてきた台詞である。物資のためならば表面上で笑顔を浮かべることにも慣れてきた。

 いくら武勲を上げたところで、見方は早々と変わらない。満砕もまた、必要なのは身分であって、名前も知らない誰かの心証ではなかった。

「何でも巫子様の護衛役に選ばれたとか。何ともまあ、大役ではないか! 優秀な子息を持って、瓏家も安泰だな」

 夏陀は後ろ手に組んだ手を強く握りこむと、「ありがとうございます」と手本のように機械的な謝辞で応じた。

 夏陀と満砕は着座することも許されないまま、豪華な料理が冷めるほどの時間を、貴族によるほとんど誇大化した武勇を聞かされた。あくびをこらえるために、幾度も尻の肉をつねるはめとなった。

 宴もたけなわとなったころ、ようやく解放された二人は、酒を一滴も飲まないまま場を辞した。

「ご苦労だったな」

 顔に疲れをにじませないところが、さすが将軍である。満砕は前髪をかき上げて、深くため息を吐いた。

「戦場よりも疲れました」

「そうか。それにしてはお嬢さん方をうまくあしらっていたようだが」

「ちらちら見てきて、うっとうしいったらありません。分不相応とでも言いたいのか? 元平民だからって、見世物にしやがって」

 愚痴を吐き捨てる満砕に、夏陀は微妙な顔をして口をつぐんだ。

「おまえは俺の想像以上の存在になったよ、満砕」

 屋敷への帰路を辿りながら、夏陀と隣り合う。初めて会ったころと比べると、視線は随分と近くなった。育ちのせいか、夏陀の方が身長も体格も大きかったが、満砕はもう細身の子どもではなくなった。

 夏陀は過去を振り返るように言った。

「まさか本当に巫子の護衛役を勝ちとるとは思わなかった」

 目を細めて、どこか誇らしそうな夏陀に、満砕はくすぐったくて仕方がない。

 巫子となった立憐のそばに行くと決めて、およそ十年。何も知らなかった子どもは、最強の称号を手にする将軍の右腕にまで上り詰めた。

「全部、夏陀様のおかげです。護衛役だって、夏陀様が王家に推薦してくれたんでしょう?」

 養子に取ってくれただけでなく、夏陀は自分の武術のすべてを満砕に叩きこんでくれた。死なないように、守れるように、知識と技術を与えてくれた。夏陀への感謝と尊敬の念は尽きない。夏陀と、慈しんで見守り続けてくれた悠都がいなければ、今の満砕は存在していなかった。

 深い感謝の念を込めると、夏陀は仕方ない者を見るような目をして深くため息を吐いた。

「献栄国は長きに渡って、近隣国と戦の渦中にあった。領土拡大を目的とした大国に戦争をしかけられ、献栄国は対抗する手段として軍事に力を入れた」

「どうしたんです、いきなり?」

「まあ黙って聞け」

 夏陀は淡々と事実のみを語っていく。

「軍が攻撃の先陣を切っているなら、巫子の役目は守備だ。大国侵攻以前から国を守り続けてきた巫子は、今もなおその真価を発揮している。巫子を守ることが、この国を守ることにつながっている。だからこそ、巫子の護衛の役目は兵士にとって名誉職だ。――平民上がりのおまえがその地位を勝ちとるには、生半可な努力ではかなわない。そう、思っていた」

 大国侵攻の流れで脅かされた近隣国は荒れていた。統率の取れない国の内乱、不穏分子との争いは外国にも及び、成長した満砕も戦場に何度も繰りだした。夏陀に鍛えられた腕で武勲を上げ、十八歳の若さで念願の巫子護衛役を任命されたのだ。

「満砕、おまえはよくやったよ。謙遜は時に自分だけでなく周りも貶める。もう少し、自信を持て」

 夏陀の大きな手が頭に乗り、乱暴にかき混ぜられる。十八歳になっても、養父から与えられる温もりはこの上なく嬉しいものだった。

「父上! 義(あ)兄(に)上(うえ)!」

 屋敷の門をくぐると、軽やかな足音が近寄ってきた。慌ててあとを追いかける家僕を引き放して、満砕の腰に小さな子どもが抱きついた。

「右南(うなん)、まだ寝ていなかったのか?」

 可愛い義弟の頬をなでながら、満砕は顔を下に向けた。

「えへへ! 義兄上たちが帰ってくるのを待っていました! 今日はもうお仕事はないでしょう? お歌うたって添い寝してくれる?」

「右南はもう七つになるだろう。添い寝は卒業したんじゃなかったのか?」

「母上からは卒業しました! けど、義兄上は別です!」

「まったく、随分と可愛いことを言う口はこれかぁ?」

 口元をにやつかせながら、右南の餅のような頬をつまむと、彼はたいそう嬉しそうに顔をほころばせた。

「夏陀、満砕。おかえりなさい」

 奥からやってきた悠都に、夏陀と満砕は揃って帰還を告げる。

 夏陀と悠都の待望の実子である右南の手を引いて、屋敷の中に入る。仲のいい二人の子を見つめる悠都の瞳に、満砕の心はゆったりと満たされていく。

 しかし、満砕の心にはいつも立憐がいた。

 巫子の代替わりは十年ほど。二人が別れて、すでに十年が経っている。感情を捧げて結界を張り替えている立憐には、もう時間がない。限界の時は刻一刻と近づいている。今もなお巫子の座にいる立憐を思うと、満砕は心臓を掴まれたような息苦しさを味わう。

 ――もうすぐ、そばに行くよ。

 柔らかな右南の手を握り、満砕は月夜を見あげた。

 

 

 巫子の住まう神殿に迎えられ、神官に案内される道中、満砕はどくどくと脈打つ心臓を抑えながら石畳の上を進んだ。厳かな雰囲気が漂う神殿内は、元平民の地位では決して立ち入れない場所だ。どうしても感慨深くなる心情のせいか、余計に空気を重く感じる。

 謁見の間に通され、一人その場に待たされる。しばらくして、奥から騒がしい音が近づいてきた。耳障りな怒声はけたたましさを増していく。

 巫子に仕えている証である白い服を着た者たち。神官に押されて出てきたのは、でっぷりと肥えた中年の男だった。ごてごてとした厚手の服装と、これでもかというほどつけられた装飾品を見る限り、相当の金持ち貴族のようだ。

「私を誰だと思っている⁉ おまえたちがうまい飯を食えているのは私のおかげだぞ!」

 神殿内に怒鳴り声を響かせる。汚らしく唾を飛ばす男に、面布で顔を隠した神官の一人が淡々と反論する。

「当然の行いです。巫子様に貧相な食事を摂らせるおつもりですか。巫子様はこの国の宝ですよ。貴殿こそ、献栄国が今もなお平和でいられるのはなぜかご存知ですか?」

「お、おまえ、誰に意見している⁉ 私はおまえらよりも地位が高いのだぞ!」

「私どもの主人は神であり、神の使いである巫子様です」

 言い返された貴族の男は顔を真っ赤にさせて、体を震わせた。

「このっ! どうせ余命幾ばくかの巫子のくせに調子に乗りやがって!」

「巫子様への暴言、とくと聞きとりました。このことは必ずや御上に奏上いたします」

 はっきりと言いきった神官の言葉に、真っ赤だった顔は一気に青白くなっていく。貴族の男に二の句を継がせる前に、神官は容赦なく「連れていけ」と命じる。衛兵はためらいなく男を担ぎあげ、神殿の外に追いだした。

「お待たせいたしました」

 一人残った他とは服装が異なる神官が、満砕に拱手の礼をとる。

 巫子と同じ性別の者が従事する決まりのため、彼は男であるはずだ。満砕の胸の位置までしかない小柄で線の細い男である。黒い髪に青い瞳は献栄国の民の特徴が表れており、顔の下半分が面布によって隠されているため、年齢や容貌の判断はつきにくい。

「神官長、吏安(りあん)でございます。見苦しいところをお見せいたしました」

「護衛の任に就く、瓏満砕だ」

 満砕も礼を返してから、「今の男は?」と尋ねた。

「巫子に目通りしたいと、無許可で神殿に侵入した愚か者です」

 神官はさらりとした口調で言いきった。

「ご案内いたします」

 話はこれで終わりだというように、神殿の奥を指し示す。巫子の余命の話について詳しく聞きたかったが、吏安は無駄のない動きで先に歩きだしてしまった。満砕は携えた剣を押さえ、あとを追った。

 神殿の内部に入るにつれて、全身に圧がかかる。石造りの建物がいっそう空間を圧迫しているのだろう。寒々しい空気が廊下に流れ、肌をしっとりとなでていく。昼にもかかわらず屋内は暗く、等間隔に松明が灯されている。神殿には神官が何人もいるはずだが、人の気配はまったくといってなかった。

 いくつの廊下の角を曲がっただろう。迷路のような神殿の造りに、満砕は目を回しそうになる。一人で最初の謁見の間に帰れる気がしなかった。神殿、それも巫子の住まう部屋が、この国で安全な場所と言われている理由が分かる。

 冷たい床に吸いつくような足底に、緊張も相まって飲みこまれてしまいそうだ。空間の重圧だけではない。もし、立憐が自分のことを忘れてしまっていたら。そう考えるだけで進む足を止めてしまいそうになる。

 それに加えて、さきほどの貴族の男の台詞が気になった。先が長くはない巫子。その噂は軍部にいた満砕の耳にも入ってきていた。「次代の巫子が決まるのも、そう遠い話ではないだろう」と上官が話していた。

 いったい、立憐の身に何が起きているのか。満砕が知っていることは、二人の間に流れている時間は同じでも、立憐の体の成長が遅れていることだけ。

 赤い敷物に覆われた通路に出ると、その奥まった先には閉じられた大きな扉があった。張り詰めた神聖な空気が漂い、おのずと神殿の主の住まう部屋なのだと悟る。

「さきほどの言葉は直接的でしたが、間違いではないのです」

 唐突に、吏安は声を発した。無機質かと思っていた声音には、幾分か感情が込められていた。それは、おそらく憐憫に似ている。

「どういうことだ?」

「あの男が言っていたでしょう。巫子様の余命の話を」

 面布で見えない顔が、しかめられた気がした。吏安は貴族の男の発した言葉に嫌悪感を示した上で、溜まった鬱憤をどこに吐いたらいいか分からないような息を吐いた。

「本当に、巫子様は――」

 せり上がってくる何かを呑んで、満砕は足に力を入れた。もしかしたら、自分は間に合わなかったのではないかと恐怖感に襲われる。

「会っていただければ、いやでも分かるでしょう」

 満砕の心の準備など知らず、吏安は無情にも扉に手をかける。重厚な音を立て、扉は両側に開いていった。縦一線の視界が、段々と広くなっていく。その先は透けた布に遮られている。

 幾重にもなった薄絹の垂れ幕の向こう側。薄暗い室内は数本の燭台による明かりしか頼りがない。吏安の辿る道を進んでいくと、最奥には垂れ幕に隠れるようにして寝台に似た大きな椅子が鎮座していた。

 肘置きにもたれかかり、力なく腰かけている人形があった。十にも届かない、小柄な子どもの人形だ。髪は玻璃のきらめきを持ち、蜘蛛の糸のごとく細長い。流れた一本一本の髪の毛が肩にかかって、椅子の面に広がり落ちている。頭部は数珠繋ぎとなった宝石の髪飾りによって彩られている。

 花糸の細さを持つ睫毛の奥に隠された薄紫色の瞳は、商人が自慢していた紫水晶よりも美しい。感情の一切が込められていない瞳が宝石らしい。肌は白く、陶器のようななめらかさで光を弾いている。

 平民が一生で稼ぐ金よりも高級だと一目で分かる白地の衣服は、燭台の明かりによって七色の輝きに反射している。人形は異質なほどに精巧で、神に捧げる偶像に似合いである。

 だが、満砕はそれをただ「美しい」と拝めなかった。

 その人形を知っている。

 そのあどけない顔を知っている。

 人形――その人を、満砕はずっと追い求めてきた。

 自分を忘れてしまっているかもしれない、という怯えは消えていた。その次元ではないと知ってしまった。

 ――立憐……立憐!

 人形のように硬直し、生気を感じさせない友は――記憶と同じ(、、、、、)幼い姿のままだった。太陽の陽を溜めた真っ黒だった髪色は、銀糸のような白髪へと変貌し、空の色をした青い目は無感動な紫をしている。あまりにも似つかない容姿だったが、顔形は面影を残したままだ。

 かつての彼は眉を困らせ、怯えのある顔を浮かべていても、満砕を見つけるといつも笑顔を絶やさなかった。満砕の目の奥には今もその笑顔が張りついている。

 目の前の友に一切の表情が見られなくとも、満砕が見間違えるはずはない。

「満砕殿、巫子様にご挨拶を」

 吏安の声にはっと我に返る。念願の立憐との再会に感極まり、抱きしめたい思いを抑えこむ。ぐっと歯を食いしばり、満砕はその場に膝をつき礼を構える。

「献栄国の宝に、お目にかかれて光栄にございます。瓏満砕、身命を尽くして巫子様に忠誠を誓います」

 覚えたままの建前の口上を述べ、巫子からの返答を待つ。しかし一向に待っても、巫子は言葉を発しない。吏安に隠れて目を上げれば、巫子は満砕を視界にさえ入れていなかった。

 どこを見ているのか定かでない目は、焦点が合っていない。吏安が「……巫子様」と促しても返事はない。本当に人形のようにたたずむ彼に、満砕は我慢の限界だった。

「失礼」

 端的に一言だけ告げて立ちあがる。吏安の制止の声と腕を無視して、満砕は立憐のすぐそばにしゃがんだ。間近に迫った満砕にも、立憐は微動もしない。浅い息しかしていないのか、呼吸の音さえ聞こえない。

 満砕は想像よりも小さな手をそっと取る。手入れの行き届いたすべらかな手をぎゅっと握り、立憐を見あげた。

「立憐、久しぶり」

 ずっと、ずっと言いたかった。

 兵士に連れていかれ、悲鳴を上げる立憐が去っていくのを、気を失う寸前まで聞いていた。ようやく、再び立憐と会うことができた。

 姿が変わっていても、年が変わらなくとも、目の前の者が立憐であることには変わりはない。

 ここに来るまで随分と待たせてしまった。一人にしてしまった。悔いがなかったとは言わない。だが今は、会いたかったとただそれだけを伝えたかった。

 立憐の睫毛がにわかに揺れる。一瞬だけ目が見開かれ、かくんっと首が振られると、虚空を見つめていた焦点が満砕に合う。満砕を直視した立憐は、空気を呑んだ。

「……ばん、さい?」

 いったいいつから声を発していなかったのか。見た目に反して嗄(か)れた声音に、満砕は涙が止まらなかった。

 覚えていてくれた。十年も経った今も、かつての親友の名を覚えてくれていた。込みあがる涙を笑顔に変え、握りしめた手をいっそう強くした。

「ああ、おまえの友の満砕だ。巫子の方じゃなくて、『立憐』の唯一無二の友だ。俺を、覚えてくれているか?」

 光の宿らない目、笑い皺の消えた目元、あのころと変わらない容姿のはずが、変わってしまった部分は多い。立憐の当時とは違う点が際立って目立つものの、変わったのは立憐だけではない。満砕も成長して、昔の見た目とはほど遠い。

二人とも姿は変わってしまったが、お互いが唯一の友にちがいなかった。

 ぎこちない動きで腕を上げた立憐は、片方の手で満砕の顔に触れる。ぺたり、ぺたりと力なく触れる手は、まるで目の前にいる満砕が現実のものか確かめているかのようだった。硬い腕を動かすような拙い動きの手は、段々と確信に至っていく。

「満砕……満砕……」

 何度も何度も名前を呼ばれる。その一つ一つに満砕は呼応した。視界を鮮明にするために涙を頬に落とし、立憐の姿を見つめ続ける。

 すると、立憐の感情のこもらない瞳からも、水晶のような透明な涙がこぼれ落ちた。表情はないものの、その白い頬に涙がつうっと伝う。

 背後で吏安の息を呑む音が聞こえてきた気がしたが、それも立憐の次の動きに頭から抜けていった。

 立憐は満砕の頭を抱えるように抱きしめた。大切なものから、もう二度と離されないように。乱暴とも受けとれるほど余裕なくかき抱かれる。

 小さな子どもの体は冷たく、その胸板の薄さもあって頼りない。だが、息さえも浅かった立憐の鼓動は、息を吹き返したかのようにどっくん、どっくんと強く命を主張していた。

 壊れたように名前を呼び続ける立憐に、満砕も応えて抱きしめ返す。

「立憐、会いたかった。一人にして、ごめんな」

 抱きつく力を強めれば、立憐は自身の腹にいっそう強く満砕を抱えこんだ。頭上で横に首を振った動きを感じとる。立憐が満砕の言葉を否定しているのだ。謝るな、と言葉にしないでも伝わってくる。

 顔を上げ、立憐の頬を節だった手で包みこむ。立憐の頬は涙で濡れていた。しかし、表情は友の再会にも、一切の変化を見せていなかった。体は衝動のまま動くのか、満砕に触れようともがいている。心と体が一致していないのだろう。

 再会は喜ばしいと感じているのに、嬉しいと感じる部分が欠損している。それがもどかしいとばかりに、立憐は満砕の服を強く握りこんだ。

 


 吏安はいつの間にか姿を消して、奥の間には満砕と立憐の二人だけとなっていた。

 隣り合って椅子に腰かけた満砕は、立憐の護衛になった経緯を話した。口数は少ないものの、立憐は満砕の言葉に必ず反応してくれる。献栄国の将軍の養子になったと告げると、一瞬だけ眉尻をぴくりと動かした。

「武功もたくさん上げたんだ。大王様から直々にお言葉ももらってな。ここに来るまで長い時間をかけちまったけど、おまえに会うために、会いたかったから俺、俺……」

 頑張ったんだ、と言ったところで恩着せがましい。褒めてくれとも違う。満砕は立憐に褒めてほしくてここに来たわけではない。

 昂った気持ちをゆっくりと落ちつかせ、満砕は最も伝えたかったことを思いだす。

「おじさんとおばさんな……おまえのこと、ずっと待ってる」

 握り合った手がびくりと震える。相変わらず感情の分からない目が揺れている気がした。

「村を出て、夏陀将軍のところに居座ってから、文のやりとりをしてるんだ。神殿に二人を連れてくることは、今の俺にはできないけど、文なら届けられると思う。だから――」

「いらない」

 泣いて喜ぶと思っていた。だからこそ、立憐の拒否は予想外で、満砕は間抜けな顔を晒してしまう。立憐は手を振りほどき、下を向いたまま淡々とした口調で再び拒絶する。

「ど、どうして……」

 目の前が真っ暗になって、前髪をかき上げる。ぐしゃりと潰した前髪の向こうで、立憐は視点を合わせてくれなくなった。

「……文を交わしたとして、なんと言えばいい」

 発し慣れてない声は震え、ときおり裏返りながらも言葉を紡いでいった。

「なんと言えばいいんだ。神殿で幸せに暮らしている。お役目をこなせている。国のために生きられて嬉しいとでも? そんな見え透いた嘘を吐けと?」

 力強く白髪を握り、下に引っ張る。立憐は手入れのされた髪を握りしめながら、声変わりのしていない声で絞りだすように発する。

「僕の姿を見てよ」

 十年前と姿は変わらないが、髪は真っ白。目の色も違う。年を取らないなんておかしいだろ、と言わんばかりに、自分の姿を自嘲する。

「ここでは誰もおかしいと言わない。でも、誰よりも、鏡を見た僕がおかしいって思ってる。あなたたちの息子は人間じゃなくなったんだと、そう書けというの?」

 悲鳴だと分かっているのに、立憐の声に色はなく、どこまでも単調だった。声に感情が乗っていない点も、立憐が自分を「人間じゃない」と形容している一つだった。

「今ではもう、両親になんと文を書いたらいいか分からない。どんな気持ちで文を読めばいいか、分からないんだ。――だから、いらない」

 きっと、この言葉は本音ではない。喉から手が出るほど、両親との繋がりを欲しているはずだ。

 だが、文を書くとき、筆を持ち、紙を見つめながら、立憐は止まってしまう。何刻も同じ体勢で、文机の前に座ったまま動けなくなってしまう。報告書のような内容を書いて、はたして両親はこの文を喜ぶだろうかと考えて、立憐にはその判断がつかない。

 なぜ落ちこんでいるのか、「落ちこみ」という感覚が体は分かっているのに、心が分かっていない状態に立憐は悩む。苦しむことも許されないまま、疑問だけが残るのだ。

 自分の考えなしの提案で立憐を傷つけてしまった。立憐は傷ついたことも自覚できないというのに。

 立憐は目線を下に落としたまま、「それに」と言葉を続けた。

「それに、僕の方が早く死ぬ。……分かるんだよ。僕の中にはもう、感情がないに等しい。段々と人形に変わっていく恐怖さえ、最近は緩慢だよ。君に会えた喜びの灯だけで、僕は今生きていられてる」

 感情が段々となくなっていく感覚を、満砕は推し量れない。立憐に残った欠片の感情にすがるしかない。

 だったら、と満砕は思いつきのまま立憐の腕を掴んだ。

「それなら感情を育むこともできるんじゃないのか?」

 髪を掴んでいた立憐の手は、ゆっくりと力を失っていった。驚いたような瞬きのあと、立憐は首を傾げる。

「なくなったんなら、最初からやり直せばいい。また思いだせばいいんだ」

 目を閉じて、見開いて、立憐は満砕を見つめた。満砕はなぜか嬉しくなって、力強く声を上げた。

「一緒に、感情を取り戻そう!」

 立憐の腕を掴んだまま、体を引き寄せる。

「俺とおまえなら、どんなことでもできるさ」

 はっきりと宣言して、その通りだと、自分の中で後押しがついてくる。

 立憐は無表情のまま呆け、満砕を見つめ続ける。喜々として感情を取り戻す方法を思案する満砕に、立憐は小さく頷きだけを返した。

 

 ◇

 

 満砕は神殿の衛兵ではなく、巫子専任の護衛兵だ。存在意義の最優先に巫子がいる。誰に邪魔されることなく、満砕は立憐のそばにいても問題ない地位に就いた。

 神官長の吏安は言った。

「前任の護衛兵は、満砕殿のように四六時中おそばについてはいませんでしたよ」

「なぜだ? 巫子の護衛は名誉職と言われているほどだろう? 巫子と懇意にする機会だろうに」

「みな、満砕殿と同じ視野をお持ちではないのですよ」

 皮肉じみた言葉は、ここにはいない前任を非難しているかのようだった。

「巫子様の外見が神々しく変化されるにつれ、そばにいると狂ってしまうとうそぶく者もおりました」

 立憐ほどではないものの、表情の乏しい吏安だったが、目に見えて憐憫を浮かべる。その視線の先には、「おつとめ」をこなす立憐の姿があった。

 朝昼晩の決まった時間。民が一瞬だけ変わる空の色を確認する時間に、巫子は儀式を執り行う。

 巫子しか立ち入れない「儀式の間」に一人進む立憐の背中を、満砕と吏安は見つめる。空洞となった天井は高く、室内の中央には、国が崇める「献栄神」の祭壇がある。立憐は慣れた動作で祭壇前にたたずんでいた。無垢な白に染まった着物の長い袖を払い、音もなく膝をつく。後ろに流れる白髪は禊で清められたせいでわずかにまだ濡れていた。

 立憐は天に高く手を上げ、礼拝を始める。

「天におわす献栄神に、ご挨拶させていただくための一拝」

 目の前の光景を吏安は声を抑えて説明する。

「祭壇にお迎えするための一拝。そしてお祈り」

 深く拝礼をした立憐は、頭を下げたままの体勢で身動きしなくなった。手を前に組み、神に祈りという名の一方的な願い(、、)を念じる。「どうか献栄国を守ってください」と告げ、国内に張り巡らされた結界を強固なものに変えるのだ。

「その代わりに、供物(、、)を捧げているんだな」

 それゆえの「祭壇」。吏安は無言で肯定する。

 巫子は唯一、神と交渉できる高位な存在だ。対外的にはそうなっている。

 実際のところ、巫子とは神への捧げものである。神に願いを叶えてもらう代わりに、巫子は感情を吸いとられる。とられた感情は戻らず、巫子は少しずつ感情を失い、果ては心が死んでしまう。十年で巫子が代替わりする絡繰りを、満砕はまさに今目の当たりにしていた。

「巫子は、どうやって神に選ばれるんだ?」

 小さいころ、ともにいた立憐に、巫子となる兆候を感じたことはない。何か特別な力があったとか、人や動物に好かれていたとか、そういった神に愛された「特別」を持っていたわけではなかった。

 なぜ、立憐が。彼はどこにでもいる少年に変わりなかった。幾度となく考え続けた疑問の答えを、教えてくれる人間は今までいなかった。

「私は献栄神ではありませんので、これは私個人の推測になりますが」

 吏安はそう前置きをした。

「過去の記録を振り返ったことがあります。どの巫子様も、おつとめを放棄されたことはありません。毎日、毎回、かかさずおつとめをこなしていらっしゃいました。それは今代の巫子様も変わりありません」

 それを信仰心と言うには気持ちが悪かった。

 中には国に家族を人質に取られた者もいただろう。つとめをこなさなければ、生きていけない強迫観念に駆られた者も。

 結界は巫子が祈らなければ、効力を段々と失って弱まっていく仕組みらしい。ゆえに一度役目を怠ったとしても、結界が完全になくなることはない。

 だが、巫子に選ばれた者は必ず役目をこなしてきた。

「献栄神は、献栄国を絶対に裏切らない者を選んでいるのではないかと思います。献栄国のために、献栄国に住まう、自身の大切な者のために尽くす巫子様を、献栄神は望んでいるのだと、私は考えております」

 その思考が真実ならば。満砕の視界が揺らいだ。

 立憐を神殿に閉じこめているのは、満砕や家族が献栄国にいるからだ。立憐のしがらみは、家族の存在によって生まれた。立憐の心の優しさを、献栄神は何もかも見透かし、手玉に取っている。

 満砕は己の存在に目が眩みそうになった。

 祈りをしたあと、挨拶への感謝と、天にお帰りいただくための二拝で儀式は終わる。立憐は大きく袖を外側に払い、髪飾りを揺らす。しずしずとあとずさりで儀式の間から退出する。満砕と吏安のところまで辿りついた立憐は、小さく息を吐いて振り返った。

「おつとめご苦労様です、巫子様」

 吏安の労いに立憐は頷くと、満砕を見あげた。

 また一つ、彼の中の感情が消えてしまったのだ。沈んでいく気持ちを表には出さないように気をつけて、立憐の小さな手をすくった。

「お疲れ。飯にしよう。腹は減ってないか?」

 変わらない調子で話しかければ、立憐は少しだけ考えるそぶりをしてから「分からない」と答えた。

「飯を前にしたら箸が進むかもな。吏安、今日の羹(あつもの)はなんだ?」

「羹ですか? たしか……冬瓜と麩を使用していますが?」

「そりゃあいい! 立憐は冬瓜が好きだからな。村では育ててなかったから、商人が持ってくるのを、寒空の下で待ったこともあったよな?」

 奥の間に戻りながら思い出話をすると、単調な声が返ってくる。

「満砕はなぜか風邪をひかなかったね」

「それはおまえの体が弱すぎるせいだ。外で待ち続けた翌日に熱を出すのが、毎年恒例になったよな」

「冬瓜はおいしかった」

 味覚を通じた「おいしい」という「喜」の感情を口にした立憐に、満砕は胸の内からじわじわと嬉しさが広がった。それは満砕だけでなく、二人の会話を聞いていた吏安も同じだったのか、目が合うと柔らかく目を細めた。

 感情を失ったのなら、もう一度感情を知って取り戻せばいい。儀式の回数を上回って感情を取り返していけば、立憐はまた笑えるようになるはずだ。

 それがどれほど困難な道だとしても、満砕にいまさら諦める選択肢はなかった。

 

 立憐は人並みに感情のある子どもだった。満砕のように「喜」や「楽」に振りきった性格ではなかったが、満砕とともにいるとき、口元には笑みをたたえていた。「怯え」や「恐れ」があまりない好奇心旺盛な満砕に比べると、それらを持っていた立憐の方が感情は豊かだったかもしれない。

 彼がどのようなときに喜んでいたか、悲しんでいたか、怒っていたかを思い起こす。

 村には子どもが遊ぶための玩具は少なかったが、すぐそばにある森や畑は遊びの宝庫だった。林の探検は東や西によって姿を変え、小川にはたくさんの生物が暮らしていた。子どもの発想は尽きず、あれをしようこれをしよう、あれがしたいこれがしたい、とやりたいことは絶えなかった。いつも笑っていたし、楽しかった。それはどの場面にも、立憐が一緒だったからにほかならない。

 満砕には勝算があった。

 自分が楽しんでいれば、必ず立憐も楽しさを思いだすだろう。逆の立場であったなら、満砕は立憐がいるだけで十分楽しかっただろうから。

 自分が笑っている限り、立憐もまた笑ってくれる。そう信じて疑わなかった。

「立憐、新しい玩具を持ってきたぞ! 見ろよ、これ。珍しいだろ!」

「よく検閲通ったね」

 神殿内に入れるものは厳しい取り締まりがある。想定外な事態で巫子が死んでしまった場合、新しく生まれる巫子を探すまでの時間が国の存亡を左右するからだ。危険がないか時間をかけて調べられ、許可が出たものをようやく中に入れられるのだ。

 試しに申請した玩具や書物を立憐の目の前に並べていく。首振り人形や左右に動かすと音が鳴る楽器、色のついた絵が載った書。中には、子ども時代に到底手に入れられなかった高価な品物もあった。

 立憐は満砕に促されるままに、近くに置かれた鳥を模した玩具を手に取る。足のつけ根の紐を引くと、両翼がばさりと左右に開く。開いては閉じてを手持無沙汰に繰り返す立憐に、満砕は他のものを一つ一つ見せては試していった。

 大人になって玩具で遊ぶ羞恥は遠くに置いてきた。そう思っていたが、いつの間にか、満砕は造りの優れた品物の数々を喜々として手に取った。

 しかし、明らかに楽しんでみえるのは満砕一人だけ。

 立憐は玩具に触れる動きは取るものの、興味にはつながっていないように見える。村にはなかった高価な玩具でさえも意欲を示す対象にはないようだ。

 見た目は子どもとはいっても、立憐も精神的には大人である。童心に返ってと玩具を並べたが、そもそも「興味・関心」が欠落した状態ではただ行動に移すだけだ。

 ないものから何かを作れないと証明されてしまった。

 ――これは、想像以上に難しいな。

 感情の増やし方の難題を、満砕は痛感する日々だった。

 すぐに諦める満砕ではない。それならば、と思考を変える。

 かつての立憐の喜怒哀楽だけでなく、新たな感情を生みだす方法。新しい物に触れ、景色を見て、未知の味を知る。そこから育むものが必ずあるはずだ。

 巫子は神殿から出られない。庭園はいくつかあるが、それも何人もの神官が監視のように周りにつく。巫子に自由になれる場所などないに等しい。

 屋上はどうだろう。塀の高い屋上ならば、少ない監視の目で済むのではないか。

 吏安に相談しようと歩きだす。段々と道順を覚えだした神殿の通路を進みながら、中庭に出たところで満砕は足を止めた。

 四方を囲まれ、光源はぽっかりと空いた宙の部分だけ。日差しが入る上空と、陰となった下方の陰影を見つめ、満砕の心に一瞬の懸念が生まれる。

 新たな感情を生みだせたとして、はたしてそれは――

「俺が好きだった立憐なんだろうか……」

 新しい感情を知った立憐は、昔の立憐ではなくなるかもしれない。感情が増えれば死なないで済むかもしれないが、その時点で生きている立憐は、満砕が追い求めていた立憐なのだろうか。

 かつて、麦畑の中で顔をほころばせた立憐が頭に浮かんだ。

「満砕殿」

 中庭を見つめ立ちどまっていた満砕は、反対側から歩いてきた吏安の声によって我に返る。

「そんなところで立ち止まってどうしましたか? 巫子様に、何かございましたか?」

「いや……ただ考え事をしていただけだ。問題ない」

「そうですか。それならよいのです」

 片時も離れず立憐のそばにいる満砕が一人であることが、吏安には不思議に思えたらしい。どこかに用事でもあるのか、と首を傾げる吏安に目的が達せられたと伝える。

「吏安に聞きたいことがあって探していたんだ」

「それはお手数をおかけしました。巫子様のためでしょう? 何でもお聞きください」

 揃って奥の間に戻る道を辿りながら、満砕は屋上で夜空を見ることは可能か、食事の変更はどのくらい融通が利くのかといくつもの質問をする。吏安が答えてはまた別の提案をする。それを繰り返すと、「ふふっ」ととうとう吏安は笑い声をもらした。

「何かおかしい点があったか?」

「いえ。いいえ。……ただ、満砕殿は本当に巫子様のことばかりで、それがとても嬉しくなっただけなのです」

 控えめに笑う吏安に、満砕は困惑した。すぐ顔に出る満砕の表情を読みとって、吏安は切なげに瞳を落とした。

「私は、巫子様――立憐様が神殿に入られたときから、ご奉仕をさせていただいております」

「そんなに長くから」

「ええ。先代巫子様のときはただの神官だった私が、初めて仕える主が立憐様でした。だから、最初から最期まで、思い残すことがないようにお仕えしようと張りきっておりました。――今思うと、なんとひどいことを考えていたんでしょう」

 回廊の吹き抜けに風が通り、二人の間を過ぎさっていく。

「立憐様は故郷を思っては、毎日のように泣いておられました。目を真っ赤にさせて、食事も受けつけず、睡眠も満足に取れない状態で、当時の神官長は苦言を吐いておられました。ただ私たちは巫子様にお仕えするだけで、立憐様の気持ちをおもんぱかるまで至れなかったのです」

 満砕が立憐を追いかけて王都に辿りついたころ、立憐は一人で泣いていたのだ。披露目のときには堂々と立っていた姿は、きっと彼にとっては諦めの表れだったのかもしれない。

「あるときを境に、立憐様はお泣きにならなくなりました。覚悟を決めたのか、そのときにはもう、悲しみや郷愁の思いが抜け落ちていたかは存じあげません。けれど、その姿を見守っているうちに、私はようやく事の重大さを思い知ったのです」

 子ども一人に国の守護を任せている現実。神に仕える神官長の吏安でさえ、現実がどれほど非情なのかと悟る。

 吏安が立憐を「巫子」としてではなく、「立憐」として大切に見守っていると、満砕は気づいていた。新しく就いた護衛兵の満砕にも好意的なのは、吏安も立憐を大事に思っているからだ。

 そこに同情や憐憫がないとは言えない。国の重要事項の責任を押しつけていると自覚しているからか、申し訳ない思いをつのらせた結果なのかもしれない。そこに親愛はあって、立憐もまた吏安に気を許しているようだった。

 吏安は陰を落としていた瞳を開き、高い位置にある満砕を見あげた。目を細め、どこか切なそうな声を出す。

「だから、神殿に、立憐様のそばに、あなたが来てくれてよかった。立憐様が一人にならないでよかった。どのような結末を迎えたとしても、あなたがそばにいてくれたことには変わりませんから」

 そう言って微笑んだ吏安の目元には、うっすらと涙がにじんでいた。

 吏安は神殿に仕えている期間が長いゆえに、「最期」の覚悟をしている。どれほど無視をしたくとも、立憐には万人よりも早い死期が近づいている。

 いつかのための覚悟を決めなくてはならないと分かっていても、満砕はまだその先を考えたくはなかった。

 

 ◇

 

 立憐は神殿から外に出るのを禁止されている。外の「穢れ」を神殿に持ちこまないため、とそれらしい表向きはあるものの、巫子に逃げられては困るのは献栄国だ。

 対して、巫子ではない満砕は神殿内に部屋を用意されているが、神殿外への出るのは自由であった。

 満砕はときどき気晴らしと称して王都に出ては、珍しい食べ物や道具、綺麗な装飾品などをこっそりと持ち帰っていた。食べ物は自ら毒見をし、品物も点検をしているが今のところ危険はなかった。

「これは……初めて食べる味だね」

 中に辛めの餡が入った饅頭に、立憐は目をチカチカとさせた。赤くなった口回りを拭いてやったそばから二つ目の饅頭に手を伸ばす。いつもよりも食指の動いている様子に、もしかすると立憐は辛い料理が好きなのかもしれない。「俺のもやる」と言えば、頬をふくらませてパチパチと瞬きを繰り返した。それが嬉しいという感情の表れの一片に見え、満砕はゆるやかに口角を上げた。

 

《 丘の向こうの宝物

あなたとの出会いを祝福して

一緒に手を握りましょう

同じ道を歩きましょう    》

 

 気分がよくなると自然と口は動いていた。立憐にその歌は届いて、食べるのを止めてこちらを見つめてきた。

「その歌は何? 献栄国の民歌とは違う曲調だ」

「これは悠都様――義母上の、故郷の歌らしい」

 そうなのかと口中でつぶやいて、立憐は食べかけの饅頭を見つめたままぼやいた。

「なんだか胸が温かくなる。そんな気がする歌だね」

 その反応が満砕を特別喜ばせると、立憐は自覚していないようだ。満砕は目を細め、泣きたくなるほどの喜びを噛みしめる。

「好きか?」

 立憐はなぜそう聞かれるのか分からない様子で、少しばかり考えてから頷いた。

「うん。好きだ、と思う」

「いつでも歌ってやる。だから、いつだって隣で聞いていてくれよ」

 唇の端に饅頭の滓がついているのを指でつまむ、些細な動作に紛らわせて、願望を口にした。

「うん、聞かせて」

 乞われるままに、満砕は歌の始まりから音を紡ぐ。特別歌がうまいわけではない。悠都のように美しい声色をしているわけでもない。それでもこの歌を立憐に聞かせてやれるのは満砕しかいなかった。

 いつか、歌詞の中の「丘の向こう」にある「宝物」を、立憐とともに見たい。そこにはきっと、満砕と立憐が望んだ過去と未来があるはずだった。

 


 謁見の間に通されたのは献栄国大王を支える最高官、斉丞相(さいじょうしょう)であった。

 ただの貴族位であれば、巫子は謁見さえも許されていない。初日に肥えた貴族の男が追い返されていたように、大王でさえも手順を踏まねば易々と会える存在ではない。巫子は神の一部と捉えられているからだ。

 献栄国では信仰と政治は遠くに位置する別のものと考えられており、政治を司る位の者は特に神殿内部に招きいれられてこなかった。

 政治をまとめる長といっても過言でない丞相もまた、その範疇にあった。半年後に控える式典に巫子が深く関わらなければ、謁見は許されていなかった。

 椅子に腰かけた小さな体の前に立った斉丞相は、立派にたくわえた髭を上向きにさせ、拱手(きょうしゅ)の姿勢をとる。

「久方ぶりにお目にかかります、巫子様。十年、いえ十一年ぶりでしょうか。あなた様が神殿に迎え入れられる前、宮殿で顔を合わせて以来ではありませんか?」

 多分に思惑を隠した笑みでへつらう斉丞相を、満砕は立憐の背後にたたずんで見つめていた。

「斉丞相、神殿にご足労いただき感謝いたします。巫子様はこのあと昼のつとめがありますゆえ、詳しい内容は神官長の私がお聞きいたします」

 巫子ではなく吏安が代わりに挨拶をすると、立憐は早々に退座する。面布を揺らして、高い椅子から下り立とうとする立憐に手を貸す。彼の長い裾を踏まないようにしながらあとに従った。

「まさかあなた様が最長の巫子になるとは、思いもしておりませんでしたよ」

 すでに場を退こうとする者に向かって話を続けようとする斉丞相は、さきほどまでのご機嫌うかがいの雰囲気を消し去っていた。不敬な態度に満砕の眉尻がぴくりと動く。

 斉丞相の言う最長とは、立憐の巫子となってからの在任年数を指す。半年後で行われる式典は、十二年間巫子を務めたことを大々的に祝すものだ。

「まあ、半年後も生きておられるかは分かりませんがね」

 聞き捨てならない台詞に満砕は勢いよく振り返った。足が止まった満砕のせいか、立憐も奥に続く戸の前で立ちどまる。

「丞相殿は巫子の死を軽んじておられるようですね。献栄神は巫子様以外の声に耳を傾けません。その意味を、今一度考え直すべきではないでしょうか。献栄国の丞相ともあらせられるお方が、信仰心がないとは思いたくありません」

 皮肉を込めながら強く咎める吏安。巫子である立憐は、立ちどまったまま振り返りもしない。その様子に、斉丞相は顔を醜くゆがめた。

「元平民の不老の化け物が、随分と偉そうに」

「何を!」

 侮蔑を吐き捨てた斉丞相に、満砕は携えていた剣に手をかける。斉丞相は完全に侮った様子で満砕を鼻で笑った。

「おまえも随分と巫子にご執心だな。そのまま囚われて生気を吸いとられぬよう気をつけよ」

「言わせておけばっ!」

「満砕」

 怒りのままに斬り捨てようと、剣を抜きかけた満砕を止めたのは、やはりこちらを少しも見ない立憐だった。

「行こう」

 静かにただ一言をかけ、立憐は戸の奥に消えた。

 煮えたぎった怒りは、目上である丞相に矛先を向けられない。憎々しげに口先を曲げる斉丞相を睨みつけ、満砕は立憐のあとを駆け足で追った。

 立憐は戸を開けた先の回廊を音もなく歩いていた。足音で満砕が辿りついたと分かったのか、振り返った立憐とようやく目が合う。その目に怒りの炎は一切灯っていなかった。

「おまえは怒っていい! なぜ怒らない⁉ 怒らないとだめだ!」

 立憐に怒鳴っても仕方ないと分かっていた。腹の底の憤りを止められない。身分が違う、地位が違う、丞相を斬り捨てれば満砕が不利になる。それでも、立憐を侮辱した言葉は、どうしても許しがたかった。

「満砕が怒ってくれたから、それでいい」

「よくない!」

 叫び返しても、立憐の瞳は凪いだまま。一人だけ怒っていることこそが間違いだと突きつけられる。怒りは冷めないものの、次第に共感してもらえない悲しさも生まれてくる。

 気持ちを発露しないために耐える満砕のこぶしは、力が込められ震えていた。

「くそっ!」

 微細に動くこぶしを怒り任せに壁に叩きつける。どんっと力強い音が回廊に反響した。

 こぶしを振るっても感情は収まらない。止まらない震えを見つめていると、その手をかけ寄ってきた立憐が握った。視界に立憐のつむじが入りこむ。

 それに、と落とされた声音に満砕の心は凍りつく。

「怒り方を、忘れてしまったよ」

 彼が感情を失っていると分かっていたのは、頭だけだったのかもしれない。満砕は本当のところで、まだその底知れない恐怖を知らなかった。とてつもなく悲しくなった満砕は、立憐の小さな小さな体を強く抱きしめた。

 

 

 立憐が役目を果たしているとき、満砕は暇を持て余す。その時間を使って、立憐が興味を引くものを見つけに神殿の外に出ていた。

 見た目が幼い立憐よりもさらに年若い少女から、束になった桔梗を買う。桔梗は立憐の母、優蘭が好きだった花だ。夫である亞侘から告白されたときにもらった花なのだと、優蘭は嬉しそうに語っていた。両親の思い出話は歯がゆいと頬を赤くしていた立憐は、今桔梗を見て何を思うだろうか。

「満砕」

 背後から呼びとめられ、振り向くと馬にまたがった夏陀の姿があった。

「夏陀様、お久しぶりです」

 満砕は今、神殿内で生活している。大王直属部隊にいる夏陀も屋敷に滞在する時間が少なく、連絡は密に交わしているものの、二人が顔を合わせるのはおよそ半年ぶりであった。

「悠都と右南が会いたいと嘆いていた。近いうちに帰ってやれ」

「とはいっても、月一で顔を見せているんですがね。夏陀様の方こそ、右南にもっと構ってやってください。あいつ会うたびに大きくなってる。すぐに『親父』呼ばわりされる日が来ますよ?」

「そういうおまえは、いつになったら『父』と呼んでくれるのか」

 まさか言い返されるとは思ってもみなかった満砕は目を瞬く。してやったりと口角を上げる夏陀に口を尖らせた。

 「父」と思っていないわけではなかった。むしろ、顔もおぼろげな実の両親よりも、養子に迎えいれてくれた夏陀と悠都を、本当の両親のように思っている。養子になってからしばらくして生まれた待望の子である右南にも、血のつながりなど関係ないとばかりに慕ってもらえている。

「……いまさら、恥ずかしいです」

「おまえの気質は理解しているつもりだ。だから、気長に待つさ」

 夏陀は手を伸ばすと、馬上から満砕の頭を乱暴になでた。十年以上の付き合いだというのに、夏陀のなで方は変わらないままだ。俺はもうすぐで二十歳になるんだ、と思う反面、手を払う気になれないのは、口には出さないものの嬉しいことに変わりないからだった。

 夏陀と別れ、服の下に桔梗を隠して神殿へ帰る。慣れた順路を進み奥の間へ入ると、立憐は椅子に全身を預け、満砕が持ってきた振り太鼓を手持無沙汰に回していた。

「立憐、ただいま」

 心在らずといった様子でぼうっとしていた立憐はゆっくりと顔を上げる。何拍か置いてから「おかえり」と力なく返ってきた。

「土産があるんだ。見てくれ、桔梗だよ」

 懐から粗布に包んだ桔梗を開いて見せる。濃い紫色の花は立憐の白い髪に映えていた。

 立憐はしばらくじっと桔梗を見つめ、一本だけ持ちあげるが、振り太鼓を手にしていたときと変わらない表情だ。もしかすると、優蘭が好きだった花であると忘れてしまったのだろうか。だとすれば、買ってきたのは失敗だったかもしれない。

 無感動に花を眺めている立憐に耐えきれず、満砕は椅子に腰かけた。ふと思いだして、悠都から教えられた歌の一節を音にする。

 

《 道端に咲く花を 

母に届けに帰りましょう

母は喜ぶかしら 

笑顔を向けてくれるかしら

日が暮れていく 

鳥が巣に帰っていく

優しい温もりに 

早く包まれてしまいたい  》

 

 悠都が初めてうたってくれた歌。あのときの感動は十年経った今でもよみがえってくる。

「この歌の花って、桔梗のことを指すんだってさ。なんだか、とっても心が温かくなる歌だろ?」

 気持ちを共有したい一心だった満砕は、立憐を見て目を見開いた。

 立憐は静かに微笑んでいた。

 他人が見れば無表情と変わらない。控えめというにも誇張しすぎなほどの、些細な変化。花でいうならば一分咲きでしかないその笑みを見て、満砕の目に涙が溜まっていく。

「僕も、そんなことを考えながら帰ったことがあったよ」

 母さんは元気かな。優しい瞳をしながら桔梗を見つめる立憐に、満砕の目は決壊した。

 隣でぼたりぼたりと大粒の涙を流す満砕に、立憐は体を大げさなほど揺らした。どう慰めるべきか分からないのか、さ迷った手が視界に入る。その手を反射的に掴みとり、満砕は自分が思いのほか震えていたのだと悟る。

 かつての立憐は、今でも立憐の中にあった。

 立憐はまったく変わっていない。感情を失っても、記憶はしっかりと残っている。

 なくなってしまった感情を別の感情に上書きすればいい。そう考えていた自分が情けなかった。満砕はどこかで怖気づいていたのだ。神に捧げた感情は、もう二度と返ってこないのだと無自覚に思いこんでいた。

 立憐の中の感情は、完全に消えていない。まだ間に合う。記憶を揺さぶることで感情を思いださせることは可能なのだ。

 満砕は袖で顔をぬぐい、立憐の両手を大きな手で包みこんだ。

「立憐」

「どうしたの、満砕」

 感情の乗らない声。満砕を気遣ってくれていることに変わりはない。なぜ気づかなかったのだろう。立憐は最初から満砕に、かつてと変わらない「立憐」を見せていてくれたのに。

「これからもずっと、俺はおまえのそばにいるよ」

「変な満砕だね。満砕がそばにいてくれるって、僕が一番分かってるよ」

「そうだ、そばにいる。忘れないでくれ。何があっても、俺はおまえを守るからな」

 巫子と護衛兵という主従の立場にいる今、友情を語るには出すぎた思いだ。

 だが、満砕と立憐の関係は、昔から何一つ変わらない。変わらないことこそが、立憐の感情を取り戻す近道になる。

 そして、目を背けていた事案を、満砕は考えなくてはならない。「丘の向こう」の「宝物(村)」に帰るために、感情を育むだけでは未来がないことを。巫子という問題がなくならない限り、立憐も満砕も縛られたままなのだ。

 


「将軍からの伝達だよ」

 日課ともなった外出を狙ったのか、露店を見ていた満砕の背後に人が立つ。満砕の後ろに立てる人間はそう多くない。声音ですぐに背後の人間が、夏陀の部下である琉架だと察する。

「ここは人が多い。今夜、神殿の裏手で」

 それだけを告げられ、気配はすぐに消えた。満砕は振り返る間もなく、頭の中で琉架からの伝言を反芻する。夏陀からの連絡。それも、おそらく内密の。人の立ち入れない神殿付近での密談を指定してくる辺り、重要事項である可能性が高い。

 はあっと深く息を吐き、大げさに頭をかいた。顔を上げると、ちょうど天空は虹色の波のように輝く。真昼の時刻を知らせ、結界が張り直された合図だ。満砕は大急ぎで神殿へと踵を返した。

「満砕殿、お待ちください」

 つとめを終えた立憐を迎えに儀式の間に向かって回廊を進んでいたところ、立憐についているはずの吏安が待ち構えていた。

 吏安は神官長を務めるほど、真面目を取り柄とした誠実な人間だ。神への信仰心だけで生きているような他の神官と比べて、彼は人の心を忘れていない。敬虔な信徒でありながら、巫子の役割以外の立憐を見てくれる存在に、満砕は陰ながら同士に近い印象を抱いていた。

 その吏安がいつも以上に強張った顔をして、真剣な瞳を向けてくる。ぴりついた空気に、満砕は背筋を伸ばした。

「ある神官から、あなたが巫子様に、検閲を通していない物を与えていると報告がありました。異論はありますか?」

 いつもより固い口調で問われた言葉に満砕は心当たりしかなかった。すぐには認められず、「あー」と無駄に声を伸ばす。はっきりと否定しない満砕の様子に、吏安は怒るのも疲れるとばかりにため息を吐く。

「私は神官長という立場にあるため、この問題を無視できません。満砕殿が今後も同じ違反を起こすならば、それなりの処罰を考えねばならないのです。お分かりいただけますか?」

 台詞の端々から、吏安が本意ではないと伝わってくる。彼には立場があり、満砕を咎めなくてはならない。

 おそらく吏安は、満砕の検閲を無視した行為を知っていたのだろう。もし満砕がもっと巧妙に行動し、違反が露呈しなければ、吏安は黙認し続けたはずだ。

 満砕は吏安に申し訳ない思いがつのった。

「違反行為は慎みます。申し訳ありません」

 普段使わない敬語を使い謝罪すると、吏安は目をつぶった。

「再び発覚したとき、あなたは護衛の任を外される可能性がございます。ただでさえ巫子様と距離の近いあなたに、反感を持つ神官がいます。自覚を持って行動してください」

 厳しくも与えられる情報に、満砕は深い頷きを返す。吏安はきつく尖らせた目を閉じたまま背を向ける。そのまま儀式の間の方へ歩きだす吏安のあとを、少しばかり距離を空けて追う。

「あの、今回の罰は?」

大きな図体を縮めながら尋ねると、吏安の横顔だけが見える。緊張した空気は和らいで、吏安は目元を緩めていた。

「立憐様の喜びを望んでいる者は、満砕殿だけではありませんよ」

 そう言ってまた前を向いてしまった吏安に、満砕は足元から上に向かって鳥肌が立つような心地を感じた。

 おまえのそばにはおまえを想う人がいるのだと、立憐に伝えたくてたまらない。

 ――俺だけではないと伝えたら、おまえはどんな顔をするだろうな。

自然と足取りは軽やかに感じられた。

 


 神殿の裏手にある糞尿を溜める場所にほど近いそこは、風に乗って鼻をつまみたくなる臭いが運ばれてくる。「穢れ」が最もひどいため、巫子の居室からは一番遠い位置にある。

 闇に背を向けて立ちながら、満砕は服についた臭いの処理をどうするか考えていた。

琉架が神殿を訪れたのは、巫子が夜のつとめを終えて二刻が経過してからだった。

「元気だったかい、満砕」

 風の流れが変わり、知った気配の方へ顔を向けると、琉架はさも当然といったふうにその場にたたずんでいた。諜報を任されることが多い琉架にとって、神殿への侵入はそう難しいものではない。

「神殿(ここ)、ちょっと警備が薄くないかな? ここまで来るのに誰にも会わなかったよ」

「これでも警備は見直したんだ。だけど、中に大人数の余所者はいれない方針だって、神殿側が譲らないんだよ」

「そんなので大事な巫子様が死んでしまったら、元も子もないのにね」

 琉架は形のいい眉を綺麗にゆがめた。

 神殿を囲う外壁に置かれた衛兵の数は、王宮を警備する衛兵の数と大して変わらない。対して、神殿内に衛兵は配備されておらず、巫子についているのは護衛兵の満砕だけだ。この配置は満砕がやってくる前も、先代巫子のときも変わりないという。神殿――神官が潔癖なほどに、外の人間を嫌っているのが要因だ。

 本来であれば、護衛兵も中には入れたくないのが本音だろう。満砕に近寄る神官は吏安以外にはいない。神殿側には武力に対応できる者がいないため、最低限の譲歩が一人だけ護衛を許すことだったのだ。

「でも、そうは言ってもいられなくなってきたんだよ」

「どういうことだ?」

 意味深な琉架の言葉にぞわりと毛が逆立った。

「きな臭い動きをしている人間がいるんだ。『反巫子派』と私たちは呼んでるけど、巫子のしくみに対して提起しているわけじゃない。現巫子様を亡き者にして、新しく生まれた巫子様を反巫子派が見つけることで自らの手駒にする。……巫子を政治の道具にしようと企んでいるようだ」

 顔が恐ろしいほど険しくなっていく。握りしめた両こぶしは力を込めすぎて細かく震える。琉架は静かに殺気を放つ満砕を見遣って片目をつぶった。

「この件に関しては、大王様も困っておいででね。近々王宮側から神殿に警備の増強が依頼されるだろう。まあ、神殿側が受けいれるとは思えないから、こうして護衛の満砕に直接話をしに来たんだけどね」

「……助かる。立憐には髪の毛一本も触れさせない」

「うん。献栄国のためにもそうしてほしい。本当は今度の式典も見直したいんだけど、こちらが勘づいているとばれてもいけないし、国民に巫子様のお披露目があると情報が流れてるから取り返しがつかないんだ」

 盛大にため息を吐いてみせる琉架に、満砕の眉間はさらに険しさを増す。満砕は奥歯を噛みしめ、教えられた情報を精査した。

 大王は現巫子の味方である。それに付随する直属部隊の夏陀たちも、現巫子を支持している。その大王が簡単に手出しがしにくい相手である反巫子派は、権力を欲している。それこそ巫子、神殿の力さえも欲する存在だ。

 そこまで助言が与えられれば、おのずと敵の姿は見えてくる。

「反巫子派が誰か、夏陀たちは分かってるんだろ」

 ざあっと不気味な風が吹き、いやな臭いとともに琉架はその名を口にした。

「献栄国、丞相――斉。彼が反巫子派の主導者だよ」

 

 ◇

 

 護衛を強化する案を練っていたときの、突然の訃報だった。

 立憐の父、亞侘が病死したという。

 定期的に交わしていた優蘭からの文が遅いことを心配して文を送り、その返信が亞侘の死を知らせるものだった。

 自室で文を開け、満砕は呆然と立ち尽くす。頬を伝っていく涙を、ぬぐう余力さえない。悲しみと、それに覆いかぶさるかのような動揺が押し寄せてくる。

 どう、立憐に伝えろというのか。死に目に会うこともできず、母に寄り添ってやることもできない。行き場のない消沈を彼に負わせるのは酷だ。

 乱暴に涙を手の甲でぬぐった。泣いたことを、立憐に悟られるわけにはいかない。満砕は急いで顔を洗うと、鏡で念入りに目の充血がないかを確認した。

 気落ちを隠して、呼吸を落ちつかせてから立憐の待つ奥の間に向かった。

「満砕、どうしたの?」

 満砕は亞侘の死を言わないことを選んだ。しかし、友の目は欺けない。立憐はすぐに満砕の不調を見破った。

「体調がよくないの?」

 添えられた手が満砕の頬を優しくなでる。元から気持ちを我慢することが苦手だ。抑えこんでいた悲しみは、勝手にふたを開けて噴きでてきてしまう。

「どうして泣いてるの?」

 立憐の変化のない顔を見つめながら、満砕はただ一言「ごめん」と告げる。何一つ知らないはずが、立憐ははくっと息を呑んだ。

「……そう」

 それだけをつぶやき、立憐はすべてを悟った瞳をした。

「少し……一人にしてくれないか」

 立憐は自分の体を抱えこむように抱き寄せると、小さな声でそう言った。その声に温度はなく、悲しさよりも困惑が強く現れている。

 満砕は涙を裾でぬぐうと、奥の間の外に出た。本当は立憐を一人にしたくはない。一人で抱えこまないでほしい。そう言えたなら、どれほど楽だっただろうか。

「満砕殿、巫子様は……」

「今は、一人にしてやってくれ」

 茶杯を運んでやってきた吏安に、奥の間の扉の前に座りこんだ満砕は伝えられる言葉が思い浮かばなかった。

「巫子様はだいぶ人間らしくなられましたね」

 何か察する部分があったのか、吏安は静かにそう言った。床に盆を置き、丁寧に茶杯を扱って、まだ温かい茶を注ぐ。黄金色の液体が銀杯にゆるやかに落ちていき、水面を揺らした。

「……そう見えるか」

「ええ。満砕殿がいらしてから、巫子様は楽しそうにされています」

 茶杯を渡され、拒否する必要もないため受けとる。温かい器の熱はじんわりと広がり、体温になじんでいく。茶の中に、自分の情けない顔が映っていた。

 悲しさを、教えたくはなかった。寂寥から無縁の場所で、笑っていてほしかっただけだった。泣き方さえも忘れてしまった友に、もどかしさを知ってほしかったわけではなかったというのに。

「ままならないな」

「それもまた人生であり、神が与えられた試練かもしれませんよ」

 吏安が信者でもない満砕に、神官らしいことを言うのは稀だった。

 神がいなければ、立憐が巫子になることはなかった。神を怨めしく思っても、吏安を責めるのは筋違いだと分かっていて、苦笑をこぼす。

「立憐が解放される日は来るんだろうか」

 立憐が巫子の役目を終えるということは……と考え、その先を考えたくはない。その先に未来は存在しないと痛いほど分かっている。もし、奇跡が起きて、立憐のほかに巫子が生まれ、巫子の任を解かれたら立憐は神殿を出るだろうか。

 それもまた、あり得ない。

 立憐は自分の苦しみを、ほかの子どもが味わうことをよしとしない。立憐とは、心優しく自己犠牲的な人間なのだ。

「嬉しい、腹立たしい、悲しい……あといくつ感情に名をつければ、立憐は生きやすくなるだろう」

 茶の湯気が段々と消えていく。温度もぬるくなって、手のひらだけが温かい。

 生きていてほしいと願うのは、満砕の身勝手な願望なのかもしれない。生を終えた方が立憐は安らかに眠れる。そう考えずにはいられない満砕は、ただただ立憐の笑顔を願っていた。

 満砕が巫子の護衛に就いてから、およそ二年が経過していた。

 

 ◇

 

 十二年という短くも長い、巫子の在任期間を祝した祭典が行われようとしていた。十年も経たずに亡くなってしまう巫子が多い中で、さらに二年以上も生きながらえる現状は稀であり、国民の期待値も高くなっている。

 ――斉丞相は、今の状況が面白くないだろうな。

 巫子の力は献栄国を代表するもので、その威信は献栄国を治める大王へと直結する。大王に代わって統治しようなど、おこがましいことこの上ないが、斉丞相の企みがどれほどのものか満砕は図れなかった。

 立憐は大王直下の兵によって護送され、王宮に参上していた。神殿から付き従うのは満砕と神官長の吏安のみだ。

 王宮内に設けられた豪奢な一室で、立憐は吏安によって飾りたてられていく。

 穢れのない純白の絹の衣をまとっただけでも神々しさがいっそう際立つ。いつも以上に念入りに髪をとかされ、光の反射によって星の瞬きのようにきらめいている。小粒の宝石が散った髪飾りでさらに髪を彩り、衣と同じ色の面布によって感情の乏しい顔を覆い隠す。神の使いと言われて申し分のない、作られた美が存在した。

「お披露目は初めてここに来たとき以来だ」

「緊張してるか?」

 薄い生地の面布の奥で、立憐はわずかに考えてから「そうかも」と告げた。

「これが緊張か。なんだか落ちつかないね」

 手を組み直す立憐に、満砕は頭をなで回してやりたい衝動に駆られた。飾られた宝飾に気づいて、すんでのところで抑えこみ、宙をさ迷った手で立憐の背中をなでた。

「こちらでしばらくお待ちください。今、案内の者を呼んでまいります」

 吏安がそう言って部屋を出る。

 大王への拝謁まで待たされている間も、満砕は警戒を怠らないでいた。ここは勝手を知っている神殿ではない。斉丞相の手のうちにあると思うと、気が気ではなかった。警護の強化は万全に練ってきた。王宮には、満砕が最も信頼を寄せている夏陀の部隊もある。そう思うことで自分に気負うなと言い聞かせた。

「満砕、隈がある。眠れなかったの?」

 立憐の手が伸びて、満砕の目元をなでた。彼の心配を寄せる声にはっとする。

昔から立憐は気配に敏感だ。体調不良を隠そうとしても立憐にはいつだってお見通しだった。満砕の張りついた気配を立憐が感じとれないはずがない。

「大丈夫だ。おまえは何も心配するな」

 不安にさせたくない一心で、気にするなと軽い言葉を投げる。

 立憐は面布の奥でわずかに顔をしかめた。

「心配するなって、何? 僕が心配するようなことが起きてるの?」

「そうじゃない。そうじゃないよ。ただ、今は式典に集中してほしいってだけで――」

「満砕はいつもそうだ。大事なことは秘密にして、僕には何も相談してくれない」

 淡々とした口調は怒気すらも孕んでいて、満砕は痛いところを突かれ胸が痛くなる。弁解のために口を回そうとして、的を射ているため即答できなかった。

「僕は君を心配しちゃいけないの? 僕だって君のことを大事に思ってるのに。僕には何も教えてくれないじゃないか。僕は守られるばかりの人形じゃないよ」

「そうだけど……」

「だけどなんだよ? 僕のためにっていうけど、僕はそれを望んでない。友達だって言ったのは満砕じゃないか。僕なんかのために、危ないことはしないでよ」

「僕なんか」。その台詞に、満砕の血の気が一気に引いた。

「そんなこと言わないでくれ。自分をそんなふうに卑下しないでくれよ」

 青い顔ですがり寄り、満砕は立憐の両腕を掴んだ。加減のつかない満砕の握力に、立憐は「痛い」と叫ぶ。反射的に満砕は手を放し、後退すると二人の間に距離ができる。

「僕が僕をどう言おうが、満砕には関係ないでしょう。僕が一番、僕のことを分かってる」

「立憐、違うんだ、話を聞いてくれよ」

「どうせ満砕を置いて早死にする運命なんだ。僕のことより、もっと自分のことを大事にしてよ」

「立憐っ!」

 掴みかかった拍子に面布が落ちる。立憐は波紋さえない静かな水面を思わせる、凍てついた顔を浮かべていた。声ほどの感情はなく、寒気を感じさせる雰囲気に満砕の体は硬直した。

 ――そんな悲しいこと言わないでくれよ。

 喉元にせり上がった言葉は、固まった空気となって外に出る。

 ――違う。言わせたのは、俺だ。

 血が上った頭は、一瞬にして冷えきって唇を震わせる。

 立憐は自分の運命を、最も理解している。今口に上った言葉が、立憐が溜めこんでいた本音なのだ。満砕は立憐を救う手立てさえも持っていないのに、それを否定するのは無責任だ。立憐を責めたところで、真実として「違う」と覆せる自信はない。

 立憐の肩を掴んだまましばらく放心していた満砕は、部屋の外から声がかかったことではっと現実に戻る。

 落ちた面布を拾いあげ、立憐に渡す。無言で受けとった立憐は、凍った表情を隠すように面をつけた。二人の間に気まずい空気が流れても、どちらからも言葉は紡がれなかった。

 巫子を呼びにやってきた吏安と文官のあとに従い、立憐と満砕は神殿とは異なる厳かな王宮内を進んでいく。

 政治を司る閣に参ると、中央の玉座には大王、両端には高級官吏たちがずらりと待ち構えていた。護衛の立憐が立ち入れるのは閣の入り口まで。立憐は満砕を振り返る間もなく歩みを進めた。各々の企みを多分に含んだ官吏たちが見つめる中、子どもの姿の立憐が堂々と中心を歩く姿は、異質と表現する以外になかった。

「献栄国の太陽にご挨拶申しあげます」

 大王の前にたたずんだ立憐は深く拝礼をする。大王は片手を上げてそれを受けとめ、側近により祝いの言葉が返された。

 立憐は始終、巫子としての威厳を兼ね備えた態度だった。巫子を初めて目にする官吏も多いだろう。ほとんどが畏敬の念で見つめる中で、満砕は斉丞相の視線が気になった。まさか大王の前で何かをしかけるとは思えない。しかし、この式典が無事に終えられる予感がしなかった。

 挨拶を終え、立憐と満砕、吏安は文官に先導され、国民への披露の場となる正門の櫓へと向かう。盗み見た立憐は落ちついていて、わずかに感じているだろう緊張をおくびにも出さない。子どもの形をとっていても、そこにいるのは十年以上「巫子」の立場を任されてきた貫禄があった。

「この先でお待ちです」

 櫓への入り口に到着し、衛兵二人が両扉を押さえている。外からは巫子の顔を一目見ようと集まった民衆のざわめきが聞こえてくる。十二年前、満砕が琉架に抱えられて見物に来たことが思いだされる。あのときの決意を、忘れた日は一度としてなかった。

 ――なのに、このていたらくはなんだ? 俺は、立憐のそばにいるだけじゃなくて、立憐の心を守りたかった。今、守れていると言えるのか? 俺はいったいどうしたい。

 立憐は、自分は、いったいこの先どうしたいのか。答えは今も昔も変わっていないにもかかわらず、その言葉を口の外にうまく出せない。

 再び、立憐を見つめる。凪いだ瞳だけが覗いて、その目はまっすぐと前だけを見ている。希望はなく、報われず、けれども二本の足で立ち、小さな体で人々の命を守っている。

 ――俺はそんなおまえを守りたいと思ったんだ。

 足を踏みだした立憐は、扉の外へ歩みを進める。満砕と吏安はぴったりと立憐の背後についたまま、あとを追う。

 櫓には三十名近くの兵士が立ち並び、辺りを警戒している。立憐は堂々とした佇まいで縁まで辿りつくと、城下を満遍なく眺めた。真っ白な衣装を身にまとった巫子の姿に、わあっと国民が沸きたつ。黒い頭の群れが眼下一面を埋め尽くしている。

 顔を上げると櫓の上からは、連なった屋根の上から色とりどりの花々が降っている様子が見えた。風によって花が巻きあげられ、甘い香りが王都中を舞っている。これまた染色のされた垂れ布が各所で吊りさげられ、優雅に宙を泳いでいる。その景色は巫子が国を守るために張る結界の色に似ていた。

 立憐が手を上げれば、民衆は両手を振って歓声を上げる。「巫子様―‼」と一段と大きく叫ぶ者がいて応えるように立憐は顔を向けた。みな歓喜に震え、熱狂的な声を上げ続けた。

 ――これが、立憐が守っている人々の姿なんだ。

 立憐を守るということは、立憐が守るものも守らねばならない。満砕にはその認識が足りていなかった。立憐の背中が遠くに感じられ、小さくも力強く見えた。

 ――ずっと、ずっとともにいたい。国民も守りたい。俺は……。

 ちりりっと肌が焼けたような気配を感じとる。戦場で幾度なく感じとったそれは、殺気だ。満砕は素早く立憐を抱きこんだ。

「吏安、伏せろ!」

 隣に立っていた吏安に叫ぶと、ぴゅううっと王都では聞きなれない異質な音が立った。かと思うと、烽火(のろし)が櫓に向かって飛びこんできた。満砕は立憐に覆いかぶさって、縁の陰に身を隠す。烽火は櫓の中央に着火し爆散すると、反動で燃え立つ薬が含まれていたのか、派手に炎が立ちのぼった。

民衆の歓声は一瞬だけ止み、次の瞬間には戸惑いの声、のちに悲鳴が上がる。一斉に逃げようとする人々の中から、烽火を上げた犯人を見つけることは不可能に近い。

櫓にいた兵士は鎮火する者、巫子を守るために囲う者に別れ、騒然と動きだした。

「巫子様、怪我はありませんか?」

「……大丈夫、何もないよ」

 急いで声をかけると、立憐は押しつぶされた状態でありながらも、くぐもった声で返してきた。

 吏安に視線を向けると、彼は頭を抱えながら立憐のそばでうずくまっていた。

 急遽運ばれた水をかけても炎はなかなか消えない。満砕は体を縮めた立憐を抱きあげると、すぐさまその場から立ち退こうとした。

 すると、視界の端で一人の兵士が懐から異物を取りだすのが見えた。その兵士は燃え立つ火の中に異物を投げいれる。

「貴様っ!」

 叫んだ瞬間、燃え移った異物によって、辺り一帯に白い煙幕が張られた。兵士の戸惑いの声が上がっていく中、満砕は立憐を左腕に抱きあげた状態で剣を抜いた。

「満砕、何が起きてるの?」

「敵だ。煙が目に入る。目をつむっていてくれ。」

 できるだけ平静を装って声をかける。「吏安!」と叫ぶと、吏安はすぐに立ちあがってそばに従った。

 立憐が指示通り目をつむったことを確認し、左腕に担ぎあげたまま駆けだす。扉の位置は把握済みだ。二丈ばかり先の楼閣に入れば、外からの攻撃はある程度防げるだろう。

 足音と煙のかすかな動きを読み、他の兵士を避けながら駆けた。怒号に近い上官の命令と、巫子を守れと最優先事項を叫ぶ者。きらりっと反射する光を目の端に捉えると、剣でそれを防いだ。

 ガキンッと刃が打ち合わさる音が響く。白い視界の中から兵士に扮した敵が現れ、巫子に向かって剣を振るった。それだけで反逆行為に違いなく、満砕は剣を押し返した動作のまま相手を斬り伏せた。

「ぎゃあぁぁ‼」

 汚い声を上げて崩れ落ちる敵を踏み台にして楼閣内に戻る。中もうっすらと煙が漂っているが、外ほど視界は悪くない。

「立憐、俺にしっかり掴まっていろよ」

「分かった」

 立憐がいっそう強く満砕の首に抱きついたころ、煙の中から脱した兵士が楼閣に入ってきた。中には傷を負った者もいる。彼らは巫子を担いでいる満砕を見て、巫子を案ずる声を上げた。

「今いる無事な者は?」

「四人です!」

「少ないな。とりあえず今いる者で王宮に向かう。ついてこい!」

 満砕は吏安に視線を送り、目だけでしっかりついてくるよう指示した。吏安は固い顔で深く頷いた。

 立憐を安全な場所に連れていくことだけを念頭に置いて走りだした。目指すのは大王がいる閣だ。そこには夏陀の部隊もある。騒ぎを聞きつけてこちらに向かっていることを祈りながら駆けた。

「うわっ!」

「ぎゃっ」

 悲鳴が背後から上がり、足は動かしたまま顔だけを向けると、複数の敵が追ってきていた。応戦する残った兵士に加勢しようと踏みとどまる。

「先を行ってください! どうか、巫子様を!」

 一人の兵士が敵と相対しながら叫んだ。満砕は一瞬だけ迷い、足の向きを素早く変えた。

「満砕、戻って! あの人数では無理だよ!」

「……だめだ。俺はおまえが生き残る道を選ぶ」

「そんなっ!」

 立憐の制止を無視して、満砕は楼閣を下りた。回廊を抜け、どこから侵入したのかあふれ出てくる敵を斬り捨てる。

「警備はいったい何をしてるんだ⁉」

苛立ちを込めて叫びながらも、主犯の正体は分かっていた。式典の騒ぎに乗じて、斉丞相が巫子を亡き者にしようと動いたのだ。事前の衛兵の位置を変更することくらい、丞相の権限があれば容易い。

「くそっ!」

 敵を斬り伏せ、あふれた血が立憐の白い衣装にかかる。髪にも返り血が付着してまだらの点がかかっていた。

「うっ」

 むせ返る血の臭いに立憐は吐き気をもよおす。戦闘とは反する場所の神殿で暮らしていた立憐にとって、人の死に直面して平常でいられるはずはない。

「そのまま吐いていい。もう少しの辛抱だからな」

 立憐を抱え直し、走りだそうとしたとき、どこからか弓矢の音が響く。満砕は矢を剣で叩き落とし、正面から迫る敵も続けて斬った。

「吏安、ついてきてるか⁉」

「大丈夫です、おそばにいます!」

 荒い息を吐く吏安を支えてやる余裕はない。満砕はあふれて出てくる敵を受け流しながら、立憐と吏安を守りながら戦う。

「満砕殿! 後ろから!」

 兵士を斬り捨て、追いかけてきた敵の姿に満砕は舌打ちをした。吏安を壁に寄せ、腕に乗せていた立憐を下ろす。

 およそ十人の敵に、満砕は剣を振るう。背中に立憐と吏安を庇いながら、右から左から迫ってくる敵を交互に相手取る。武装の甘い隙を狙って剣を刺し、血に濡れて刃が使い物にならなくなると腕力で叩き斬った。

 地面に敵の骸を埋め尽くし、新たな追手が来る前に先を急ごうと、立憐を抱えるために体勢を変えた。

「満砕っ‼」

 立憐の叫びに体をひねり、音もなく迫ってきた敵に集中する。目の前の敵の刃が立憐に迫ろうとしていた。相手の剣を力任せにへし折り、敵の心臓を一突きする。

 同時に、死角を突いた方角から弓矢が飛んできて、満砕の肩に刺さった。痛みに呻いた瞬間、視界の端で敵が素早く駆け、立憐に向かって剣を突き刺そうとしている姿が見えた。満砕は反射的に立憐の前に立ちふさがると、敵の刃を腹に受けた。

「うぐっ!」

「満砕‼」

 正面の敵が剣を抜こうとする。満砕は腹筋に力を入れて防ぐと、剣を持ったままの敵の腕を掴む。動けない敵が慌てる隙に、その首を撥ねとばした。敵は悲鳴を上げることもできず、その場に崩れ落ちる。

 腹に刺さった剣の柄。二本の足で踏みとどまると、体から地面にぼたりと血がこぼれる。満砕の腹には敵の剣が突き刺さったまま放置され、鮮血があふれ出ていた。

「満砕、血がっ」

 駆け寄った立憐は、満砕の傷口に手を当てる。満砕の血が移っていき、純白の衣が真っ赤に染まっていった。

 思考は段々と緩慢になっていく。痛みはなく、全身が熱い。満砕は立憐の声に反応することも忘れていた。立憐の肩を抱えると、足を前に踏みだした。

「止血して! 満砕っ、血が、止まってない!」

 立憐の声に感情が乗っていた。立憐が焦りと悲しみを含んだ声を出す。

 腹の剣は内臓を荒らし、傷ついてはいけない部位を貫いていた。筋肉に力を入れても血が止まらないのは内臓が傷ついているせいだ。

 自分の体を支えるのが限界になっていた。満砕の胸にも届かない小さな体の立憐を押し潰しそうになる。

「吏安、いるか?」

「はい、巫子様のおそばにいます」

 立憐と同じように満砕を支えようとする吏安の白装束にも、赤い血が移っていた。出血の量に、満砕は奥歯を噛みしめた。

「悪いが、立憐を抱えて先導してくれ。敵は俺が屠るから」

「はい。はい! 私が必ず、立憐様をお守りしますから」

 吏安の泣きそうな声が、いやに耳についた。吏安は立憐を満砕から引きはがすと、肩を抱きこんで支えた。

「満砕、待ってよ。満砕、返事して」

 立憐の戸惑いに満砕は微笑みだけを返す。

 前方に敵がいないことを確認して、吏安に先を進むよう指差す。吏安は立憐を引きずって駆けだした。満砕も周囲を警戒しながら、二人の殿を務める。

 足の先が血で濡れていく。王宮の廊下に血の足跡をつけながら、後ろから追ってきた敵を叩き斬った。満砕の体は軽く、いつも以上の反射速度が出る。

 閣はもうすぐそこだ。立憐に今のところ傷はない。追ってきた敵を叩き伏せると、立憐と吏安を守りながら、勢いを止めることなく走り抜けた。

 目前から大勢の足音が響いて、立憐たちの前に立ちふさがると満砕は剣を構える。剣は柄まで敵の血に染まり、手の中はぬめりを帯びていた。

「満砕、無事か!」

 兵士を引き連れて先頭を走ってくる養父の姿に、満砕はこの上なく安堵した。途端、満砕の体から一気に力が抜ける。膝ががくりと意思をなくし、その場に崩れ落ちた。

「満砕‼」

 立憐の悲鳴が遠い。表情をゆがめた顔が目に入り、不思議な心地がした。

 夏陀に体を支えられる。満砕は気力を振り絞って一度体を離すと、立憐と吏安を押しつけるように夏陀に受け渡す。かららんっと響く音。剣を手から落としてしまっていた。

 ――力が入らない。

 腹から下の感覚がなかった。

顔を青くした見知った者たちが、満砕たちを囲んだ。夏陀の屋敷で満砕に稽古をつけてくれた者たちばかりだ。彼らがいれば、立憐は無事だ。満砕は心の底からほっとして息を吐いた。

「満砕っ! 満砕、聞こえるか!」

「……聞こえてますよ」

 立憐を抱えた夏陀。いつもの余裕に満ちた顔は一変して、血相を変えている。それがどこか面白くて、満砕は口元を上げてみせた。

「満砕、しっかりしろ!」

「満砕っ」

 立憐が満砕の服を掴んだ。その手が震えていると分かり、立憐に怪我があったのかと心が穏やかでなくなる。

 ――立憐を、守らなくちゃ。

 満砕は落ちそうになる目蓋をしっかりと見開こうとした。それでも目はゆっくりと閉じていく。

 ――眠い。すごく、眠い気がする。だけど、守らなくちゃ。俺は守りたい。守れただろうか、俺は。立憐。

「満砕! おい、聞こえてるなら反応しろ!」

 焼けるような痛みが、腹から全身に移ろっていく。激しい痛みに反して、体の機能が段々と力をなくしていくのを感じとる。

「……父さん、頼みがあるんだ」

「っ! ……なんだ、言ってみろ」

 初めて夏陀を「父」と呼んだ。今呼ばなければ、一生呼べない気がした。

「立憐のこと、頼んでもいいか」

「ああ。ああ、分かった。俺に任せろ」

「ありがとう」

 夏陀は目元を赤くして、満砕の肩を強く叩いた。

 すぐに気を遣ってしまいそうだ。うごめく痛みに、満砕は眉間に皺を寄せて立憐を見つめた。

 立憐は大きな青い瞳から涙を流していた。そういえば、彼は泣き虫だった。昔はよく泣いていたのに、再会したときに泣いて以来、まったく涙を見せなかった。満砕は嬉しくなって、その涙に触れようとしたものの、腕は一向に持ちあがらない。残念だ、という思いがじわじわと広がっていく。

「立憐」

「んっ、……満砕、満砕っ!」

「お願いだ」

 きっと立憐なら叶えてくれる。立憐が満砕の願いを無下にしたことは、たったの一度もなかった。

「生きてくれ」

 願いを口にした。立憐を想っての願いだった。

 足元が温かい。血だまりが広がっていくにつれ、あれほど熱かった体は、徐々に冷たくなっていく。その感覚を味わいながら、満砕の中に心残りが浮かんだ。

 ――だって、まだ、

「一緒に……丘の向こうに……かえ――」

 丘の向こうにある故郷に帰りたかった。満砕と、立憐の願いは、ただそれだけだった。それだけのことを、満砕にも立憐にも許されなかった。

 叶えてやれなかった。満砕は、立憐にもう一度、村の景色を見せてやりたかった。

 満砕は大きな心残りを抱え、意識が抜けていくまま身を任せる。立憐の顔がゆがむ。笑ってくれ、と思うころには目の前は真っ暗になってしまった。

 満砕の命の灯は、音もなく消え去った。


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