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格差が出来るメカニズム

大谷翔平の活躍は、日本人の想像をはるかに超えたものであることは、誰もが認めることであろう。

僕は、高校生の時、ホームステイに行ったことがあるのだが、その時一緒に行った同級生が、現地のアメリカ人に対して

Japanese baceball is low level(日本の野球はレベルが低い)

と言っていた。

文法的に正しいかどうかはわからない。

それはともかく、手のひらを下に向けて、上下に動かすジェスチャーをしつつ、自虐的にそう言っていたのが、なぜか印象に残っている。

当時、日本人がメジャーリーグで活躍するのは、夢のまた夢であり、野茂英雄がロサンゼルス・ドジャーズに移籍したのが、それから8年後であった。

巨人の星という漫画で、主人公の星飛雄馬は、大リーグボールという魔球を駆使して、日本のプロ野球で活躍するが、大リーグ(メジャーリーグのこと)に行くことはなかった。

その後、数々の野球漫画が描かれたと思うが、あらゆる野球漫画の主人公の活躍は、大谷翔平ほどではないだろう。

仮に大谷がいなかったとして、今の彼の活躍をそのまま漫画にしたとしたらリアリティがなさ過ぎて、興ざめしてしまうと思う。

「そんなことはあり得ない」と。

少なくとも日本の野球がローレベルだと思っていた、僕らの世代は、そう思うことだろう。

大谷の活躍以外にも、イチローや松井、そしてWBAの優勝など、日本人の野球は、もはや、どう見てもローレベルではない。

東京オリンピックでは、地元開催とはいえ、メダルの数の多さに驚いた。

他にスポーツの世界では、大阪なおみ選手が、テニスの4大大会で4度の優勝を果たし、2019年には一時世界ランキング1位となった。

また八村塁選手のNBAでの活躍。

バスケットボールは、もしかすると野球よりもハードルが高い。

日本人選手が全盛期のマジック・ジョンソンがいたロサンゼルス・レイカーズで活躍するなんて、これまた、昔は夢のまた夢であった。

ボクシングでは、現在、井上尚弥選手が無類の強さを見せている。

バンダム級と、スーパーバンダム級の2階級で、4団体統一王座を獲得したのは、史上2人目の快挙である。

大阪なおみや、八村塁はフィジカル的に、日本人と言ってしまうと、反論もあるとは思うが、井上尚弥選手はフィジカル的にも日本人らしい。

ボクシング漫画と言えば、あしたのジョーがある。

ジョーは世界チャンピオンホセ・メンドーサと対戦し、ギリギリまで追い詰めるが、判定で負けてしまい、試合終了後には、力尽きて死んでしまった。

テニス漫画では、浦沢直樹のHappy!がある。

主人公の海野幸は、ウィンブルドンで世界ランキング1位のニコリッチを倒して優勝するが、ひざを壊して、選手生命がそこで終わる。

いずれも、日本人には、井上尚弥や、大阪なおみのようなことは、体や命を削っても出来ないだろうという、大前提に立ったストーリーではないだろうか。

漫画なのだから、現実よりも少し夢を見させるという設定だったことだろう。

ふと興味を持ったが、若い人が、今初めて上記の作品を読んだとしたら、どういう感想になるのだろうか?

スポーツ以外の世界でも、将棋界の藤井蒼汰は15才で史上最年少優勝を果たし、21才で前人未到の八冠独占を達成。

あくまで国内ではあるが、今のところ少なくとも比較する人間がいないほど、ずば抜けた能力であることは間違いない。

またしても漫画の話になるが、将棋の漫画に能條純一の月下の棋士がある。

主人公の最大のライバル滝川幸次は、史上最年少の21歳で名人となる設定だが、藤井蒼汰の21歳で八冠達成には遠く及ばない。

このように、いろいろな分野において、昔は決していなかったような「天才」が現れるようになった。

これは、なぜなのだろうか。

話は変わるが、最近読んだ本に「学校というものは、原理的に管理教育を行うところである」と書いてあった。

ふーんそうなのかと思って、管理教育というワードで検索してみたら、驚くべきことがわかった。

いや、わかったというか、あくまでもウィキペディアの情報であることを、先に断っておく。

それによると、管理教育とは、1969年から1980年頃まで、義務教育の現場で行われていた、学校が一元的に児童・生徒の在り方を決定し、これに従わせる様式の教育方法だそうだ。

具体的には髪型の強要や、体罰、運動会における組体操、部活動の強制加入、連帯責任などによって、指導を行う。

今だとマスメディアや、SNSのコメ欄で袋叩きに遭いそうな教育方法である。

これが、1980年ごろに反管理教育運動がはじまって、徐々に改められていったということのようである。

つまり、僕が小学校に通っていた、1976年から1981年ごろは、管理教育真っ只中だったということだ。

確かに、誰かが悪いことをすると、先生が連帯責任だと言って、全員を立たせたりしていた。

あれは管理教育だったのか…

反管理教育運動がどのようなもので、どれぐらいの期間続けられてきたのかわからないが、その後、ゆとり教育などがはじまったり、最近でも、理不尽な校則を批判するテレビ番組があったりすることを考えると、ずっと続いてきていると言えるかもしれない。

今では体罰や連帯責任などもってのほかだろうし、組体操なども危険だということでやらなくなったと聞く。

管理教育なのかどうかわからないが、前述のスポーツに関していうと、部活動の間は水を飲ませないという謎のルールもあった。

ゆとり教育などと時を同じくしてか、ある時期から、発達障害というものがクローズアップされるようにもなった。

クラスに1人か2人は、発達障害の子がいて、他の子が容易に出来ることが出来ないので、配慮が必要だということになった。

最近、SNSを見ていると、発達障害の人が、自分はこういうことが出来ないと列記したり、あるあるネタを投稿したりして、それが同じ発達障害の人から、たくさんのいいねやコメントを得ている。

ところが、そのアカウントを見に行くと、べつだん貧困にあえでいるとかではなく、自由気ままにフリーランスの仕事を楽しんでいたりする。

むしろ、幼少期にそのような配慮を得たことによって、才能が花咲いて、豊かになっている可能性をも感じるのである。

もしかすると、前述のスポーツ選手たちも、反管理教育や、ゆとり教育、あるいは発達障害への配慮の方針などによって、のびのびと成長して、天才ぶりをいかんなく発揮するようになったのではないだろうか。

僕は最近、高校生に何かを教えることが増えている。

最近の高校生は優秀なんだろうなと思って、自分が高校生の時より、ちょっとレベルが高めの指導をしようとしていた。

ところが、実際に接してみると、別にレベルが高いということはないし、コミュニケーションが難しくて、思ったようにいかない。

就職してもすぐやめてしまう若者や、残業をしない若者などの話を聞いていると、自由や権利の意識が高いのはわかるが、一方で社会への適応能力がないのではないかと思う。

このまま年齢を重ねたとして、ちゃんと仕事をして自立していくことが出来るのか、やや疑問である。

どうやら管理教育を受けたらしい、僕らの世代は、突出した能力を伸ばさず、あらゆる分野に均等な能力と、同じ価値観を持った人間たちになった。

若い世代になるほど、そのような思想は否定され、自由と権利、弱者保護、多様性を伸ばすという思想が強くなっていく。

得意なことをがんばって、得意でないことはやらなくてもいい(あくまで昔の比べて相対的にである)。

その結果、自分が好きで得意なことを、たゆまぬ努力をもって磨いていく、大谷翔平のような人が生まれた。

でも、一方で自分の仕事を見つけられない、モラトリアムな若者が増えてる。

昭和の後期は、一億総中流と言われたが、これからは格差が広がると言われているのも、そのような原因なのではないだろうか。

すなわち、それぞれ管理教育と、反管理教育によるものなのではないか。

実はこれまで、総中流とか格差とか言われても、あまりピンと来ていなかった。

話は少々飛躍するが、コロナ禍で植物を育てるようになって、植物がどういうものか、少しわかるようになった。

土があるところには雑草が生えるものである。

育てたい植物があれば、雑草を全部取りのぞいて、それだけを育てる。

そういうことをせずに、ほおっておけば、雑草がどんどん生えてくるが、雑草はいつも同じではなく、ある年は多かった植物が、翌年にはなりを潜めて、違う植物が繁茂したりする。

そのうちに、ススキかセイタカアワダチソウのような、比較的大きい雑草が生え始める。

すると他の雑草は生えにくくなってくる。

次に樹木が育ってきて、だんだん大きくなってくると、ススキやセイタカアワダチソウも生えなくなってくる。

または、竹が繁茂するパターンもある。

樹木も竹も、大きくなると、地面に日が当たらなくなるので、雑草はほとんどなくなる。

管理教育は、この例でいうと、育てたい植物の種をまいて、管理して育てている状態。

予想される範囲の結果しか出ず、みな同じような大きさで、大木(=天才)は生えない。

これを一億総中流の状態と考える。

一方、反管理教育は、特定の植物を育てることなく、多様性のある、自然の状態に近いのではないか。

大きくなる植物は、どんどん大きくなって、最終的には他の植物の栄養や、日の光を奪ってしまう。

これを格差のメカニズムと考えると、理解しやすいような気がするのである。

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