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村八分とシェアリングエコノミー

借りパクする人は驚くほど多い。

借りパクとは、借りたものを返さない(パクる)ことだ。

僕の周りにいる人がたまたまそうなのか、国民的、全人類的にもそうなのかわからないが、まず本を貸すと9割方返ってこない。

借りパクしそうな人には、初めから貸さないのだけど、この人なら大丈夫そうだと思って貸しても、返ってこない場合がほとんどである。

本を人に貸してはいけない。

いらない本ならその限りではないが。

僕は釜石市で、co-ba kamaishi marudaiというコワーキングスペースを運営しているが、コワーキングというのは共有というか共用のサービスである。

そこでは、いろいろなものがなくなり、壊される。

断っておくが、会員は善良な人ばかりである。

よくなくなったのが、プロジェクターに使うHDMLケーブルだ。

スペースの貸し切り利用やイベント利用で、プロジェクターを貸し出していたのだが、その際、ケーブルを持っていってしまうようなのだ。

故意なのかうっかりなのかわからない。

ある時などは、会員ではなく、当社から業務委託している管理者が友達がゲームに使うからといって、持っていって、返すのを忘れていたことがあった。

仕事場の備品を持ち出して、ゲームに使うのは、そもそも問題がある行動であるが、100歩譲ったとしても、すぐに返せば、僕も気づかないし問題はない。

忘れるということは、そもそも備品を大事に思っていない証拠である。

スマートキーの蓋は、2か所とも割られてしまった。

スマートキーは1台5万円である。

割った蓋が、そこらへんに置いてあったが、「私が壊しました」という自己申告はなかった。

ある時ふと見ると、ファンヒーターは上部がへこんで、灯油を入れるところの蓋も曲がっていたが、それも誰からの自己申告もない。

トイレの手洗いが、インクで汚れていたこともあった。

扇風機は2台あったが、1台が行方不明。

カセットコンロのガスを持っていく人もいる。

いろいろ秘めていた不満をぶちまけてしまったが、人というのは他人の物を、決して大事にしないということが、ようやくわかってきた。

考えてみると、ものを貸す業態は、いくつかある。

レンタルCDやDVD、レンタカーなどだ。

お金を貸す金融業もある。

いずれも、返すのを忘れたり、壊したりすると、多大なペナルティを負うことになるようになっている。

レンタルDVDなどは、1週間借りるのは安いのに、さらに1週間返すのを忘れたりすると、時には何十倍もの延滞金を支払うことになる。

借りたお金に利子がついて増えていくというのは、よくできたシステムである。

レンタカーで事故をすると、保険は降りるかもしれないが、故意であったり、善管注意義務違反だと認められる場合、降りない可能性もあるだろう。

そうまさに、スマートキーを壊すのは善管注意義務違反である。

このようにして、ものの貸し借りについて、ルールでかなり厳しく縛らないと、人は自ら善良なふるまいをしないものなのである。

シェアリングエコノミーという概念、あるいはビジネスが最近、注目されている。

かつては自動車にしても、ひとり1台持っていたが、今は日本人もそれほど豊かではなく、さらに資源を無駄遣いしない「エコ」の意識も高まっている。

であれば、使っていない自動車を、使っていない間、人に貸すというのは理にかなっている。

とはいえ、使いたいときに、人に貸してしまっていて、自分が使えないのでは本末転倒なので、そのような調整を、インターネットやコンピューターを使って行うというものである。

物を貸し借りしたり、共有したりするのは、別に目新しいことではないのだが、新しいテクノロジーが、それを可能にしているところもあるのだ。

その一見、メリットばかりに見えるビジネスにも、やはり他人のものを大事にしない、人間の特性が邪魔をしているらしい。

つまり、車を持ち逃げしたり、売ってしまったりする人がいるらしい。

昔、小学校だったか、中学校だったかの授業で、「村八分」のことを教えられた。

村八分という言葉を検索すると、次の説明がトップに出てきた。

村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。 (デジタル大辞林)

なんとなく、絶交された家が被害者で、村全体が加害者というのが一般的な解釈ではないだろうか。

説明には続きがあり、

「はちぶ」については、火事と葬式の二つを例外とするところからとも、また「はずす」「はねのける」などと同義の語からともいう。

とある。

後者はともかくとして、注目すべきは前者である。

火事と葬式の二つを例外とするという。

つまり、前者の解釈に従えば、共助サービスの8割が受けられないという意味なのである。

昔は現代ほど、公共サービスも、民間のサービスも充実していなかったので、冠婚葬祭や、清掃、インフラの整備や維持管理も、村人の共助で行われていただろう。

例えば、柳田国男の遠野物語に、家を建てる人がいたら、村人みんなで土の締固め(堂突き)を手伝うというくだりがある。

そういったサービスを受けられないとなると、なかなかの死活問題である。

差別や、いじめの方法としても使われていたらしい。

しかし、前述のようなシェア(モノだけでなく、労働も含めた)を、ちゃんと出来ない人が、ペナルティとして村八分にされたと考えることは出来ないだろうか。

例えば、村の共有物、例えば農機具などを、壊して直さなかったり、取り込んでしまって返さなかったり、村人みんなで従事するべき労働に、用事があるとか、体調が悪いとか言って、参加しなかったり。

そのような人がいることで、共用物が失われて不経済であったり、不公平に感じた人が不満を持ったり、同じようにさぼる人が増えてしまうかもしれない。

そうなれば、村そのものの危機である。

そういう人は、多くはないが、少ないとも言えないぐらいの出現率で、周りにいるのではないだろうか。

それも、ペナルティがあれば、出現率は下がるだろう。

そのペナルティの最終段階が、村八分だったのではないだろうか。

物や場所や労働をシェアしようと思ったら、まず、その意識が薄い人間を排除する必要がある。

銀行は信用がない人間には、お金は貸してくれない。

さらに、並みの意識の人間であっても、ペナルティがないと共有物を大事にすることが出来ないのである。

シェアリングエコノミーを設計するなら、シェアする相手の審査と、ルール違反した場合のペナルティを組み込む必要がある。

やや悲しいことではあるが、性善説は通用しないと考えるべきである。

そういえば、小学生のころは、誰かにおもちゃとか、文房具などを貸してと言われた時「(貸すけど)壊したら弁償な」と、みんな言っていたものである。

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