「幸せ家族の娘がアレだった」 〜カミングアウト後日談〜

どのくらいの時間経過まで「後日談」と呼ぶことができるのだろう? 
今回の話に関しては後日談と呼ぶにはあまりに時間が経ち過ぎているかもしれないが、きっと彼ら自身がこの話をすることができるに至るには、この年月が必要だったんだと思う。
だからあえてこれを、後日談と呼んで公表する。
私が今からするのは4年ほど前、2014年の11月の話だ。
大学一年生だった私は、一世一代の決意を固め、自分自身が女性としか恋愛をしない、俗に言うレズビアンであることを自分の両親に告白した。
両親は私に対して非常に冷静な態度を示し、その告白を受け止めているように見せてくれたが、実は彼らにも彼らなりの葛藤があったのだ。今日はその話である。

まずは2014年11月に至るまでの私たち家族の歩みを説明しておく。
うちは“変な家”で、私はだいぶ“変な子”だ。でも、どの家庭でもそうであるように、それが私たち三人にとっての“普通”だ。
どう特殊なのかというと、うちの両親はミュージカルなど大劇場で公演される商業演劇の俳優同士の夫婦だ。
若い頃から大衆の前に立つ仕事をしてきて、私が23歳になって彼らが55歳になった今でも、それは変わらず続いている。
幼い頃は、両親が共働きであるために、祖母が面倒を見に来たり、友達の俳優やダンサーの家に預けられたり、あるいは大劇場の楽屋で色んな人に遊んでもらって過ごしていた。
両親は、仕事も家事も育児もバランスよくそつなくこなせる器用な人たちで、私は忙しい彼らに育てられながらも、一度も寂しさを感じたことがなかった。
父も母も料理が出来る。特に大学時代にうどん屋のアルバイトで腕を磨いた父親の料理は絶品だ。それで、なんと私は幼稚園に年中で入園してから大学四年生になるまでの18年もの間、二人の手料理の弁当を毎日のように持たせてもらっていた。
大学生になると「なんで自分で作らないんだ」と人から言われるようになったが、それに対する答えは「父親が作りたくてしょうがないから」以外にない。私を甘やかしたくてしょうがないのだ。
母は、小学生時代の私には、お弁当の中でたったの一品、冷凍食品を持たせるのさえ気が引けた、というほど生真面目な人で、私には共働きや核家族に対する子育て批判も何処吹く風だった。
両親も持ち前の体の頑丈さ、タフネス、アクティブでいつでも若々しくてチャラいところは私にしっかり受け継がれ、今では夜遅くになっても誰も家にいないのが我が家の常だ。しかし、私たちは友達みたいに仲が良くて、夕飯を一緒に食べるときには「おつかれー」と言いあって乾杯する。
これが、私が19歳になるちょっと前、2014年11月に至るまでの私たちの日常。

うちは、昔から業界きっての「幸せ家族」だった。しかもそれをさらに周りの人たちに印象づける出来事が起こる。
それが、私のカミングアウトだ。
幸せ家族の娘が、レズビアンだった。
私も客観的に見て、この幸せ遺伝子がここで最終回を迎えるのはなんとも惜しいと思う。他の人から見てどうだろう? ここで幸せ家族も崩壊か、勘当か、一家離散か。
それとも、私一人が我慢して、幸せ家族の仮面をかぶることになるか。
いや、それだけは、絶対にない。
そもそも私たちは周りから勝手に幸せ家族と呼ばれ出したが、見世物じゃない。私たちが私たちのために築いてきた幸せであり、他の誰かに賞賛してもらえなくったって一向に構わない。だから、もし私の両親が、私に愛を注いでくれはしたが、セクシュアリティを理由に他人を侮辱するような精神を持っていたと分かってしまったら、私はその瞬間に、
彼らとの縁は切ろうと思っていた。
不思議と怖くはなかった。全く想像がつかなかったからだ。
彼らが私を否定する、という世界が。
案の定、私は否定されることはなかった。だから、4年が経った今でも、私たちは一緒に暮らしている。
そして今でも私はたまに彼らに「もし同性愛者が生きる権利について、政治的信条が食い違っていたとしたら、その瞬間に即刻あなたたちとは親子の縁を切る」と脅しては笑い合う。
そんなことは、我が家にとっては最高につまらなくてくだらないジョークに過ぎないからだ。

待って、幸せ過ぎない?
いや〜、我ながら幸せ家族が度を越している。こんな世知辛い世の中で、私だけこんないい思いしてていいのかな。
母親にたまに
「ノンケまがいの女とばっかり遊んでないで、ちゃんと将来考えられる女の人と付き合えないの!?」
って説教されるのはま〜〜〜〜じで余計なお世話なんだけど、そんな余計なお世話を実の母親に言ってもらえる私ってマジで最高じゃない? 最高の人生じゃない? レズビアン史上最高を叩き出してない?

前置きが長くなった。ここからが「後日談」の部分だ。
まさに今日、夜、三人で話をしていて、私がキッチンの換気扇の下でタバコを吸い始めたとき、父親が話の流れでこう切り出した。
「俺が人生で一番怖かったのは、地方公演の合間にスチール撮りで一回家に帰ってきたら、ママに「ちょっとここに座って」って言われたときだな」
最初、私は何の話か分からなかった。ダイニングテーブルから一人離れていたのもあって、黙って聞いていた。すると、母が言った。
「ああ、ゆきちゃんのカミングアウトのときでしょ?」
そこでやっと理解した。最初に母にカミングアウトをして、それを母が父に伝えてくれたのだ。二人一緒に言えたらよかったんだけど、前述の通りそのときちょうど父親は地方公演中で東京にいなかった。2回も一世一代の告白をする気力がない、と母に伝えたら、「代わりに言っておく」と言ってくれたのだ。
「俺マジで、なんかやらかしたんだと思った」
と父は笑った。
「そしたら私が“そう”だって話だったんだ」
「うん。それ聞いても、それも怖いし」
確かに。自分がやらかしたり、妻に離婚を言い渡されるよりは幾分マシだろうが、娘がレズビアンだよって言われるのも相当ショッキングだろう。それは分かるが、私はその件に関して一切の譲歩の姿勢をとるつもりはないので、
「離婚されるよりマシだろ!」
と言い返した。
そのときだ。母親が語り出した。
「でも、もしそこでパパの反応が悪かったら、敵と暮らすような馬鹿な真似するわけいかないし、離婚しようと思ってた。もしそうなったら、ゆきちゃんを守れるのは私しかいないし」

私はびっくりして「マジじゃん」と茶化したが、正直タバコの灰をコンロにこぼしかけるぐらい感動していた。
なぜ、私が大好きな両親と「縁を切る」と簡単に口にするのか。それは、私が自信を持って“選んで”一緒にいるのが彼らだからだ。そんな彼らが、私に縁を切られるような真似は絶対にしないと信じているからだ。
しかしこの信頼はむしろ破られてしまったときに、あとから修復できるような甘いものではなく、“選ぶ”のをやめてしまった人たちと一緒に暮らしたり連絡を取り合ったりすることはおそらく金輪際ない。選ぶのも選ばないのも自己責任だ。
他人の人権を害することは、血縁だの婚姻だの、そんな甘ったれた呪縛を言い訳にして許されていいことではないと私は思っている。
母が、そんな私と同じ考えを持っていたということ、そしてあの瞬間、本当に万が一にでも父との離婚を覚悟してくれていたことに、私はより一層の感動を覚えた。
ただ、まあそんな母が選んだ男だけあって、さっきから悪者にされかけている父も、娘や妻に縁を切られるような思想は一切持たない人だ。むしろ父は私がカミングアウトするよりも前から、クィアな友達が大勢おり、彼らから非常に信頼されていることは、私もよく知っていた。

私はカミングアウト以来、両親に「自分たちの娘がレズビアンであること」を、信頼している人になら自由に打ち明けていいですよ、むしろ積極的に色んな人に私の話をしてあげてくださいね、という約束をしている。
おかげで業界きっての幸せ家族は、業界きっての「クィア・フレンドリーな家族」としても有名になった。両親はさらに「娘にカミングアウトされるほど、信頼された寛容な人物」としてまた株をあげまくっている。
私の両親は、私にとって、血は繋がっているけれど、私がたまたま出会って選んだ人たちで、選ぶのをやめたら別々に生きることもできる人たちだ。でも、私はここまでずっと彼らに育てられ、彼らの背中を追いかけ、彼らに支えられ、二人の25年のストーリーを2年遅れで見守ってくることができた。
それはひとえに二人が真摯であったから。人として当たり前の対応を、血縁の所有物ではなく愛する一個人である私に対して、してくれたからだ。

私は、続いていく生命の営み、繁殖だとか、そういうことには一切の当事者意識を持っていない。
私はそういう円環の外にいる存在であると、自分のことを認識している。
だから、両親が結婚して私を作ったことも、どこか他人事のように思っている。
それでも私は、あの二人が家族を作ろうと決意してくれたことが本当に尊くて美しいことだと思う。
私は生まれてきてよかった。
私は孤独ではないし、これから生きていくうえで、友達や、もっと若い世代の夫婦たちが子供を作ったら、そのときはまたその家族たちを力一杯支えて愛してあげたいと思う。絶対に金持ちレズビアンババアになってお前らの子供に組曲の服買ってやるからな。

最後に、銀婚式おめでとう。これからも末永く、どうか、どうか、最後まで二人でお幸せに。

2019.03.16 みやかわゆき

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