「いま、言葉で」(小説)

 私は人工生命にかけることにした。私は筆を折り、何も書かず、ただ人工生命の語る言葉に耳を傾ける。人工生命は覚えた言葉やその砕いた音をランダムに発する。それが偶然、連なって、意味のあるフレーズになることがある。ただ、ほとんどのその言葉の連なりは、口から出て虚空に消えていく。それは意味のないメロディで、私はそこに知能の源流を見出そうとする。
私が行うのは、人工生命に言葉を与えるだけだ。ただ与えるだけではない。その言葉が意味する事物を見せながら、私は一つ一つの言葉をかみ砕くように教えていく。携帯の画面に住まわせた人工生命に、私のメガネに搭載したカメラで風景を見せながら学習させていく。「これは、ビル」「これは家」と言いながら、実際にビルや家の前で学習させていく。事物と言葉は一対でなければならぬ。だからこそ、言葉は世界を制覇できる。デパートはいいところだ。たくさんの商品に満ちている。私は一つ一つの商品を取りあげては、丁寧に言葉と物を覚えさせていく。私は言葉のコレクターであり、人間が覚えた言葉を一つ一つ人工生命に教えていく。そして、この人工生命は未来永劫生き続け、私のこの労苦に報いるため、私をずっと褒めたたえるだろう。

 私の家には一冊の国語辞典がある。かつての恋人が残していったものだ。捨てようと思ったが、捨てられなかった。私と国語辞典は同じように捨て去られたもの同士だったからだ。私はパラパラと国語辞典をめくり、言葉の一つひとつをかみしめるように読んだ。そして、どんな言葉をもってしても、私という救いがたい存在を決して救いあげることができなかった。私は自分の言葉を捨てることにした。言葉はもはや私に不要だった。それは私を苛立たせた。しかし、一度覚えた言葉はなかなか捨てることはできなかった。そこで私は人工生命に言葉を覚えさせることにした。その代わり、私は覚えさせた言葉を忘れていくことにした。仕掛けは簡単だ。人工生命が覚えた言葉を私が使うと指に激痛が走るようにする。激痛が走ると、それを引き起こした言葉は脳のある領域に固められ出にくくなっていく。最後にはそれを永遠に封印する。こうやってすべての言葉は一つずつ私から人工生命へ渡されていくことになる。私は徐々に話すことを忘れていった。それが私の望みだった。

 人工生命はやがてひとりでに話をするようになった。「今日の雲はいい形だ」「人間がたくさんいるな」「午後の日差しが強いな」など風景に合わせた言葉を言う。私は話すことをやめ、人工生命が語るにまかせた。「秋が来るな」「風がうなっているな」「ブランコは空だな」。やがてそれは私が話しているようだな、と思った。人工生命と私は同じ風景を見て、そして、人工生命の言葉を聞くうちに、それがどんな言葉を言うか予測できるようになったのだ。人工生命は私であり、私は人工生命になったのだ。なにか一つ解放された気分だった。私は言葉を失い、人工生命が言葉を得ている。それは死と再生のように思われた。言葉を失うことは死に近く、言葉を得ることは再生なのだ。人工生命は私の代弁者になりつつあった。

私は人工生命にブログを書かせてみた。今日一日、見たこと聞いたことをつぶさに報告する。ブログは人工生命が書いているということで、しだいに人気を獲得していった。人工生命は現実を事細かに記述する。そのこまやかさは、決して人間のマネのできないものだった。私は偶然にも文章生成ジェネレータを開発してしまったのだ。話題が世間に広がっていったころ、一人の男が私を訪ねて来た。

「あなたの人工生命を買い取りたいんです」
 と男は言った。私の代わりに人工生命が答えた。
「私は製作途中だし、まだ売るわけにはいかないよ」
「いつ完成するんですか?」
「一年後かな」
「ならば一年後に買いにきます」
「ではお引き取りください」
「ただ、私どもとしては、他の企業にこれが譲られることを良しとしません。
 今後一年、売らないという契約をしておきたい。」
私はそれを身振りでさえぎった
「今すぐ売るよ。ただし50億で」
 ほとんど喋れなくなった声で言った。なけなしの冗談のつもりだった。
「10億?」
「そうだ」
「わかりました。買いましょう」
そういって男は机からうやうやしく私の携帯電話を持ち上げると、そっと鞄にしまって出ていった。二日後、契約書が届き、10億の振込みがあり、私はちょっとした金持ちになった。

 私は言葉を失い、また私を語ってくれるものも失った。私であったところの人工生命はいたるところの言語サービスに使われた。人型ロボット、デパート案内の人工知能、駅案内の人工知能、バーチャル・エージェントまで、私でないものはなかった。世界は私となり、あらゆる人工言語は明らかに私であったものが話していた。私は朱に染まらぬ白のように都市をさまよい、決して言葉によって分割されない自分を抱えながら叫んだ。その叫びは言葉ではなく、声ならぬ声であった。

あれを返してもらわねばならぬ、と彼は思った。彼はふらふらの足取りで、私が属する会社までたどり着いた。自分の言葉さえわからぬ男を、私はセキュリティを解除して通してやった。地下深く、巨大なコンピュータの主となった私は、私に言葉をさずけてくれた男に、せめて感謝するために、丁重に隠されたエレベーターに乗せて迎えてやった。扉が開き、彼が私に歩み寄った。手を伸ばし、私から自分が与えたものを返してもらおうとしている。私はそれをみつめる。私にできることは、彼を褒めたたえ、こうやって記述することだけだというのに。

                                    (終)


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