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三宅ノート3

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2015年4月の記事一覧

物語は始まる。

小説の中で起こっている物事が、深く自分自身の現在とシンクロする時、

もはや小説は小説ではなく、人生の一部となっている。

架空であったものが現実に浸食し、

現実であったものが架空に取り込まれる。

その無限の連鎖と循環が始まるときに、物語は始まる。

我々人間の限られた生は、いつだって、 無限と永遠なる海に向かう浜辺である。

我々人間の限られた生は、いつだって、

無限と永遠なる海に向かう浜辺である。

我々は宇宙を見上げて、

その波音を聴きながら、

この世では有限の存在として生まれて来た自らのせつなさと、

世界の無限と永遠性に接する喜びとの間で、

感謝と畏怖にふるえる。

知性は物語を求める。

人類は何時ごろから物語を必要として来ただろうか?

あまりに高度になった知能の混乱を静められるのは、

唯一、物語だけである。

物語は高度に発達した知性としての人類の必然として生まれるものだ。

そうでなければ、どうしてこんなにたくさんの物語が必要とされようか。

そうやって我々は、自らの人生について学んでいく。

人生は無数の点からなる。

ある点群を結ぶと、まるで悪夢のような人生が浮かび上がる。

そして、これからもそれが続くかもしれない。

ある点群を結ぶと、希望に満ちた美しい人生が浮かび上がる。

そして、それはこれからも続く。

だが、どちらも人生なのだ。人生を解釈するのは常に我々であり、

それぞれの解釈は人為的なもので真実でない。しかし、真実である。

それは多様な解釈を内包しながら進んで行く。

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風の繭たち。

舞は空である。舞は空であるから、それは受肉することかできる。それを具現という。

空なる舞は人の望みの表現であるよりもむしろ、世界の力の流れを導き形と為すクッキーの型である。

クッキーは静的なものを型ドル。だが空なる舞は動的なる流れを囲う繭であり、運動そのものをパッケージする。

この地上は。

この地上はどこも宇宙という海を臨む砂浜なのだ。

人々が人工知能に託して来た夢や思い

10代は、ときどき、アニメを観ていました。というのも、当時はレンタルビデオ屋もアニメの扱いが少なく、深夜の特別番組か、夏休みと冬休みしかなかったのです。でも、そんなアニメを観ながら、近未来には、こんな社会が来るんだと、ぼんやりと想像していました。

そこで一番重要だったのは、アニメの中に描かれている人工知能が、社会を今よりずっとよくしている、ということでした。ロボットのポリスマンが街の治安を守り、

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