重い話をしようと思う。

タイトルの通り、私自身についての事を。自己紹介の続きじゃないけど、決して楽しいものではないです。むしろ重いです。閲覧注意。

未だにトラウマとなっている事と、私の体のこと。



まず、出生時の後遺症で聴力が人より弱いです。

1ヶ月以上の早産、逆子、へその緒が首に絡まり帝王切開で産まれ、肺炎を発症。

2ヶ月程ICUで面会すら出来なかったらしいです。


まぁ順調に回復して今は健康ですが、聴力だけは弱いまま。

普通の人が聴こえる周波数の、低音、高音共に半分くらいしか聴こえていません。常にキーーーンと耳鳴りがしています。

特に電話越しの声がとても聞き取りにくく、テレビも字幕を出さないとセリフなんかが聞き取れないです。声の低い男性俳優さんとか特に。

周りが静かなら、普通に聴こえるんだけど、生活音とか他の人がお喋りしてたり、一番聴こえないのは水の音がしている場所では殆ど聴こえない。

お風呂はもちろん。食器洗いなんかしながらジャーっと水を出していると、周りの音は殆ど聴こえていません。

ただ日常生活には支障はないので、障がいとはなっておりません。


そんな私なので、小さな頃は周りがガヤガヤしている中で名前を呼ばれても気が付かない事が多く、それが原因で良く怒られたりしました。

今でも覚えている言葉があって。「お前の場合は聴こえないんじゃなくて、聴いてねぇんだよ!」って暴言。

実の兄に言われ、とても傷付いた。

私が幼稚園生の時、母が入院していた時期があったんですが、その間のお手伝いで、皿洗いをしていた時でした。

水の音で聴こえなかった、と伝えたら、こう返されたんです。

後ろから何度も呼んだのに、無視したと。

いきなり頭をぶたれてとても驚いた。

幼稚園の頃は特に、耳の手術をする前だったので、今より聴こえが悪かったのだと思います。

突然の暴力に、ただ驚いて泣くこともせずに、聴こえない私が悪いんだと考えてしまい、初めて自分の存在が否定されたような気持ちになりました。

母がその場に居たら、もしかしたら怒ってくれたかも知れませんが、その時は2人の兄と、私しか居なかったし、子供ながらに母の居ない寂しさを八つ当たりする気持ちもあったのかも知れません。


私は、昔の記憶があんまりありません。

楽しかった記憶より、寂しかった、怖かった、と思う記憶が強いです。

それは、父の存在でした。

父は、キレるとすぐ手が出る人でした。

現場仕事の人で、力もあって、身長も高くて身体も大きい。

私からしたら父は恐怖の対象でしかなかったように思います。

悪いことをして、怒られるのは当たり前の事ですが、その怒り方が尋常ではないのだと、ある程度大きくなる迄気が付かないで育ちました。

殴られるなんて当たり前だし、殺すぞ、と脅される事だってあった。

逃げられないように壁際に正座で座らせ、目の前に父が壁のように陣取り、ひたすらに殴られる。

足が痺れて感覚が無くなっても、崩したら余計に殴られる。

顔中アザだらけで、どれだけ泣いても許されず、殺してやろうかと脅される。

殺して欲しかった。

こんな思いをずっとするのかと思ったら、死にたかった。

その頃の私は早く死にたい、そんな事ばかり考えていた。

中学生の頃に、何かの授業で将来設計を書いてみようって言う課題に「早く死にたい」って書いたのを覚えてる。

当時は虐待とかそんな言葉なかったのかな。

そういうSOSを出しても無駄だった。


まだ祖父が存命の頃、唯一、祖父が安らげる人だった。

寿司職人をやっている人で、いつもは泊まり込みで働いてるけど、たまに帰って来るおじいちゃん。

それが嬉しくて、おじいちゃんが帰って来た日はずっとおじいちゃんと過ごしてた。

買い物に行くと、お菓子を買ってくれた。兄には少年漫画を買ってくれた。嬉しかったのに。

それすら父の逆鱗に触れた。

当時住んでいた家は、少し古くて、お風呂を沸かすガス?みたいなやつを、適温で止めないとずっと温度が上がってしまう仕様でした。

その、どんどん沸いていく高温の風呂に、ずっと入れられました。

熱くて、頭がクラクラする、気を失いそうなのに許して貰えず「勝手に物を強請るな」と鬼の形相で肩まで浸かれ!と怒鳴られ。

父の気が済むまで、水を飲む事も許されずグラグラ沸く風呂に入りました。

ようやく解放された後も祖父に謝罪して来いと、買って貰ったお菓子や少年漫画を持って、ボロボロに泣きながら「ごめんなさい」と謝りました。

もう意味が分からなかった。

なんでこんな事になっているのか。


その日の深夜、私は初めて自分の手首を切りました。


こんな所に居たら、本当に死んでしまうかもしれない。それでも、家を出た所で行く場所も、生きていける保証も無かったから、死のうと思った。

そうするしか無いと思ったから。

殴られ続けるより、こんなものは痛くないはず。

こんな傷じゃ私の今まで感じて来た恐怖は、痛みは消えないって、何度も何度も切りました。

それだけじゃ足らず、硬い物を手に取って、自分自身を殴り続けました。

それが自傷行為だと言われる行為だと知ったのは大人になってからでした。


そんな私だったので、当然周りの人間は気持ち悪いと引いていきますよね。

学生時代に友達と呼ばる人はいませんでした。

ゲームと、ライブだけが唯一の楽しみだったかな。

学校に行ってもイジメと言うか、存在自体がスルーの感じだし、家に帰れば、いつ父の逆鱗に触れるかとビクビクしながら過ごし…。

精神がどんどん病んでいったと思う。

学校にも行きなくなかったから、高校へは行かずに働こうと思ってた。

そしたら家を出れるかも知れないと。

勉強も出来なかったし…と言うか家で安心して眠れないから学校で殆ど寝てた…当然成績は悪い。行ける高校なんて無いんじゃない?って感じだったし。

早く死ぬ事を目標に生きてたから、やりたい事や夢なんて何も無いし。

私が自傷行為をし始めた頃から、父は殴って来る事も無くなった。それが原因かは分からないけど。

ただ無気力で何もしなかったから、ただ黙って呼吸してるだけだったから、怒るポイントも無かったのかも知れない。

勉強が出来ない事を怒る人じゃなかったのが唯一の救い。


「働くにしても、高卒の資格くらい無いと何も出来ない」って担任に言われ、私でも行けるような学校を探してくれた。

進路表に死ぬ予定。と書くくらいヤバい生徒だったのに、ちゃんと話をしてくれた良い先生だったと思う。多分自傷行為も気が付いてはいた思うけど、どうしていいか分からなかったんだろうね。

今ほど精神病が問題視されてない、自傷行為なんて言葉も無かった時代。

今考えれば、私がされた事は立派な虐待行為だったけど。食う寝るに困る生活ではなかったとは思う。金銭で困った事もないし。

本当に私より酷い人なんてもっと居るだろうし、私なんて幸せな方かも知れないけど。

それでも心の傷は未だに癒えないし、高圧的な雰囲気を持つ男性が居ると動悸と冷や汗が止まらなくなるし、手が震える。怒られると怖くて何も言えなくなる。少しでも手が動くと身構えてしまう。自傷行為の跡は消えないし、見る度に思い出して辛くなる。

私は結婚はしないし、子供も望まない。

きっと自分の子供にも同じ事をすると思うから。

本当に、まともになんか生きてないけど、今は楽しいと思える事も増えたし、死ななくて良かったかな、くらいなは思えてるよ。


長々と痛々しいものを読んでくれてありがとうございました。

ここまで読んで、私の事を無理だと思ったらそっと離れて下さいね。


みやび。


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