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ガルーダの飛翔 第二部 吹き抜ける呪術師(長編小説)

                            
   一
早朝の山寺はうっすらと白い靄に覆われ、小鳥たちのさえずりがこだましていた。
――ガルーダが祝福してくれた。
弦太郎は嬉しくて仕方がなかった。苦しい修行の末、とうとう呪術師に到達したのだ。胸の内に自信と誇り、そして優越感が芽生えていた。
「師匠、これからどうしますか?」
 弦太郎は自信にみなぎった表情で師匠のタムに言った。
「お前は呪術師になり、今日から新たな旅が始まった。お前にワシのファミリーを紹介しよう」
「ファミリー? 師匠に家族がいたんですか?」
「呪術師のファミリーだ」
「さあ、山を下りるぞ」
 タムはスタスタと歩き出した。弦太郎は彼の背中を追うようについていき、廃墟の寺院を出る手前ちょっと足を止めて振り返り、朝陽に照らされた境内を改めて見渡した。
「あれ、おかしいな・・・・」
 そこには、いつも見ていた当たり前の風景が居座り、ガルーダと戯れたときに感じた透明感、生命のきらめき、森羅万象の鼓動はことごとく消え失せていた。
「なにがおかしんだ?」
 タムが振り返って訊ねた。
「いや・・・・、何だろう。ガルーダが現れたときに感じた、あの新鮮さが何も感じられないんです。周りが当たり前になっている」
「空があり、雲があり、大地があり、草があり、虫がいる。当たり前じゃなかったら困るだろ」
「そりゃそうですが。――あっ」
 弦太郎は足のくるぶしに痒みを覚え、さっと手を当てた。すると掌に赤い血痕とともに蚊が潰れていた。蚊はよほど血を吸うのに夢中になっていたらしく、手を当てても逃げもしなかった。
「チッ、痒いなあ・・・・。呪術師になったというのに蚊に刺されるなんて」
 弦太郎は愚痴をこぼした。
「呪術師は蚊に刺されないとでも思っていたのか、ハハハハ。肉体に血が流れている以上、蚊に刺されて当然だろ。蚊は呪術師を特別扱いなんかしない」
「そうですか・・・・」
弦太郎は先ほどまで感じていた自信と優越感が多少萎えた気がした。
「行くぞ」
 タムが歩き出した。
「はい――」
 山を下りると靄は晴れ、静謐な空気が漂う中、オレンジ色の袈裟をまとった僧侶が裸足で托鉢に回っていた。
「師匠――」弦太郎がタムの背後から声をかけた。
「何だ」
「ファミリーはどの辺に住んでいるんですか?」
「この近くだ」
「えっ、この近く? こんな街中に? 郊外じゃないんですか」
「どうして郊外なんだ」
「呪術師は山の中でひっそりと生活している方が呪術師らしいじゃないですか。とくに、山奥で暮らしていた師匠が、排気ガスにまみれた街中で生活するなんて想像しにくいです」
「前にも言っただろ、呪術師は街だろうと山だろうとどんな場所にでも適応できるって。呪術師は人間よりも柔軟な存在だ」
「ま、確かに、都会で生活する呪術師というのも、それはそれで面白いかもしれませんね。呪術師は呪術を使えば人間なんか恐るるに足らず、負けることなんかないでしょうから」
 弦太郎は、習得した呪術〝透明の術〟を得意げに使って、姿を消したり現したりした。
「弦太郎、以前呪術師の掟でも説明したが、呪術を使って人間に危害を加えたらどうなるか忘れちゃいないだろうな」
「ええ、もちろん覚えています。力を失って何度も死にかけましたから」
「気をつけろよ」
「ええ、人間に呪術を明かすことも、呪術を使った悪巧みをすることも絶対にしません。でも、人間に呪術をまったく使えないというのも、何か面白くないですね」
「面白がるために呪術があるわけではない」
「そりゃそうですが・・・・。じゃあ、人間に危害を加えられそうになったとき、自己防衛手段として呪術を使ってもダメなんですか」
「自分を守るためならとくに問題はないだろう」
「自己防衛がよくて、悪巧みはいけない。状況にもよると思いますが、正不正の基準って何なんですか」
「要するに行為の動機の問題だな」
「行為の動機・・・・。ウーン、まだよくわかりませんね。じゃあ、一体誰がその正不正のジャッジをしているんですか。師匠ですか? 神様ですか?」
「どちらでもない。ジャッジはお前自身だ」
「えっ、ぼく自身?」
「そうだ、もっと正確にいえば、行為者自身が自己の行為に対して、やましさや、慢心や、焦り、欲情を感じれば力を失う。意識的にせよ、無意識的にせよな」
「不思議な法則があるんですねえ」
 二人が歩きながら話していると市場が見えてきた。市場は早朝であるにも関わらず、多くの人が行き交い賑わっていた。
「朝飯でも喰うか」
「そうしましょう」
 お粥の屋台のテーブルに座り、肉団子の入った粥を注文した。弦太郎はコップに飲料水と氷を入れ、一つのコップをタムに差し出した。しばらくすると熱々の粥が運ばれてきた。
「ああ、お腹がすきました――」弦太郎は粥を目の前にして顔をほころばせた。「いただきます」
市場の早朝のざわめきの中、二人は粥をすすった。
「ああ、ウマイ」
 弦太郎はしみじみと呟いた。空っぽになった胃袋に粥の滋養が染み渡った。
「弦太郎、住まいは決まったのか?」
 タムは粥をすすりながら訊ねた。
「いや、まだです。アパートの契約では明日中には引っ越さないといけないことになっています。今日中に決めないと。どこにしようか・・・・」
「ファミリーの家で一緒に共同生活してもいいんだぞ」
「えっ、ファミリーの家で一緒に? 泊めさせてもらえるんですか?」
「お前次第だ」
「本当ですか。どうぞよろしくお願いします」
弦太郎は合掌して頭を下げた。
「知識もない、力もない、生活力もない、そんな新米呪術師はファミリーと共同生活したほうが安全だろう」
「そんなことならもっと早く、ファミリーとの共同生活のことを教えてくださればよかったのに。危うく他のアパートと契約するところだったじゃないですか」
「お前は今日呪術師になったばかりだ。呪術師になれたからこそ、他の呪術師と共同生活する資格が得られたんだ。いつ、お前が一人前になるか、もしくは途中で挫折するか、そんな未来のことはわからないだろ」
「ああ、確かに、そう言われてみれば・・・・。じゃあ、ぼくは、アパートの契約が切れる直前のちょうどいいタイミングで呪術師になれたということですね」
 弦太郎は粥をかき込むように食べ切ると、うっすらと青みがかかった早朝の空をボンヤリと眺めた。小鳥たちのさえずり声がいつも以上に新鮮に聞こえた。
「師匠、ぼくはようやく呪術師になれたわけですが、これから先、呪術師として、どのように生きてゆけばいいんですか?」
弦太郎はこれから始まる新しい生活について、タムの顔色を窺いながら慎重に訊ねた。
「さらに力を高めていくんだ」
 タムはそっけなく答えた。
「力を高める、ですか。それはやっぱり、太陽のメディテーションでですか?」
「太陽のメディテーションは力を失ったとき、それを回復するため一時的に使う呪術だ。さらなる力を得ていくために使うものではない」
「じゃあ、また新たな呪術を教えてくださるんですね」
「特定の呪術だけを繰り返していればそれでいいというものではない。もっと複合的に、呪術師同士の生活を通じて、徐々に力は高まっていく。そうして力が高まってゆけば、また新たな呪術が使えるようになるだろう」
「いろんな呪術が使えるようになるのは楽しみですね」
「だが、間違った解釈はするなよ。呪術を身につけることが呪術師の目的ではない。前にも言ったが、〝呪術〟というのは真理に到達するための足場に過ぎない。足場を目的と勘違いするな」
「呪術を身につけることは本当の目的ではない、か・・・・・」
「呪術は結果であり手段だ。さらにいうならば、お前の手近な課題は呪術を習得することよりも、もっと現実的な問題、一日一日をしっかり生き延びることにある」
「〝一日一日を生き延びる〟ですか? なんか大袈裟ですね、ハハハハ」
 弦太郎は気楽そうな笑顔を向けた。
「大袈裟じゃないさ。命を失うことは日常生活のそこかしこに転がっている」
 タムは弦太郎の目を覗き込みながら言った。弦太郎はタムの深い眼差しにふっと不安を覚え、コップの冷たい水を一口一口、ゆっくりと口に含みながら考えた。
「〝壁抜けの術〟が自由自在に使えるようになったというのに、そんな危険なことが日常生活で起こるものでしょうか?」
「呪術師の生活は危険がいっぱいだ。壁抜けが使えるようになったからといって関係ない。油断していると命なんぞ簡単に落としてしまうだろうよ」
 タムに言われ、弦太郎は呪術師に到るまでの危険に満ちた道のりを回想した。苦しい記憶の数々が蘇り、すがすがしい朝が重々しいものに感じられてきた。両手のひらで頬をパンパンと叩いて気を引き締め、眉間に皺を寄せてタムを見つめた。
「そんなに硬くなるな――」タムがニッコリと笑って言った。「油断はしちゃいけないが、深刻になればいいというものではない。未来のことなんか誰にもわからないんだ。我々に与えられているのは〝今〟というこの瞬間だけだ。この瞬間の中で気づき、判断し、行動していくだけだ」
「この瞬間ですね」
 コップに入っていた氷はすっかり溶けて水になっていた。弦太郎は氷の溶けきった水にチビチビと口をつけた。
「じゃあ、行くか」
 タムが席から立ち上がった。
「ファミリーの家ですか」
「ああ、我々のホームだ」
「ここから遠いですか」
「いや、すぐ近くだ」
二人は勘定を済ませ、ファミリーが住んでいるホームに向かって歩き出した。

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