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ガルーダの飛翔 第二部 吹き抜ける呪術師(長編小説)

                            
   一
早朝の山寺はうっすらと白い靄に覆われ、小鳥たちのさえずりがこだましていた。
――ガルーダが祝福してくれた。
弦太郎は嬉しくて仕方がなかった。苦しい修行の末、とうとう呪術師に到達したのだ。胸の内に自信と誇り、そして優越感が芽生えていた。
「師匠、これからどうしますか?」
 弦太郎は自信にみなぎった表情で師匠のタムに言った。
「お前は呪術師になり、今日から新たな旅が始まった。お前にワシのファミリーを紹介しよう」
「ファミリー? 師匠に家族がいたんですか?」
「呪術師のファミリーだ」
「さあ、山を下りるぞ」
 タムはスタスタと歩き出した。弦太郎は彼の背中を追うようについていき、廃墟の寺院を出る手前ちょっと足を止めて振り返り、朝陽に照らされた境内を改めて見渡した。
「あれ、おかしいな・・・・」
 そこには、いつも見ていた当たり前の風景が居座り、ガルーダと戯れたときに感じた透明感、生命のきらめき、森羅万象の鼓動はことごとく消え失せていた。
「なにがおかしんだ?」
 タムが振り返って訊ねた。
「いや・・・・、何だろう。ガルーダが現れたときに感じた、あの新鮮さが何も感じられないんです。周りが当たり前になっている」
「空があり、雲があり、大地があり、草があり、虫がいる。当たり前じゃなかったら困るだろ」
「そりゃそうですが。――あっ」
 弦太郎は足のくるぶしに痒みを覚え、さっと手を当てた。すると掌に赤い血痕とともに蚊が潰れていた。蚊はよほど血を吸うのに夢中になっていたらしく、手を当てても逃げもしなかった。
「チッ、痒いなあ・・・・。呪術師になったというのに蚊に刺されるなんて」
 弦太郎は愚痴をこぼした。
「呪術師は蚊に刺されないとでも思っていたのか、ハハハハ。肉体に血が流れている以上、蚊に刺されて当然だろ。蚊は呪術師を特別扱いなんかしない」
「そうですか・・・・」
弦太郎は先ほどまで感じていた自信と優越感が多少萎えた気がした。
「行くぞ」
 タムが歩き出した。
「はい――」
 山を下りると靄は晴れ、静謐な空気が漂う中、オレンジ色の袈裟をまとった僧侶が裸足で托鉢に回っていた。
「師匠――」弦太郎がタムの背後から声をかけた。
「何だ」
「ファミリーはどの辺に住んでいるんですか?」
「この近くだ」
「えっ、この近く? こんな街中に? 郊外じゃないんですか」
「どうして郊外なんだ」
「呪術師は山の中でひっそりと生活している方が呪術師らしいじゃないですか。とくに、山奥で暮らしていた師匠が、排気ガスにまみれた街中で生活するなんて想像しにくいです」
「前にも言っただろ、呪術師は街だろうと山だろうとどんな場所にでも適応できるって。呪術師は人間よりも柔軟な存在だ」
「ま、確かに、都会で生活する呪術師というのも、それはそれで面白いかもしれませんね。呪術師は呪術を使えば人間なんか恐るるに足らず、負けることなんかないでしょうから」
 弦太郎は、習得した呪術〝透明の術〟を得意げに使って、姿を消したり現したりした。
「弦太郎、以前呪術師の掟でも説明したが、呪術を使って人間に危害を加えたらどうなるか忘れちゃいないだろうな」
「ええ、もちろん覚えています。力を失って何度も死にかけましたから」
「気をつけろよ」
「ええ、人間に呪術を明かすことも、呪術を使った悪巧みをすることも絶対にしません。でも、人間に呪術をまったく使えないというのも、何か面白くないですね」
「面白がるために呪術があるわけではない」
「そりゃそうですが・・・・。じゃあ、人間に危害を加えられそうになったとき、自己防衛手段として呪術を使ってもダメなんですか」
「自分を守るためならとくに問題はないだろう」
「自己防衛がよくて、悪巧みはいけない。状況にもよると思いますが、正不正の基準って何なんですか」
「要するに行為の動機の問題だな」
「行為の動機・・・・。ウーン、まだよくわかりませんね。じゃあ、一体誰がその正不正のジャッジをしているんですか。師匠ですか? 神様ですか?」
「どちらでもない。ジャッジはお前自身だ」
「えっ、ぼく自身?」
「そうだ、もっと正確にいえば、行為者自身が自己の行為に対して、やましさや、慢心や、焦り、欲情を感じれば力を失う。意識的にせよ、無意識的にせよな」
「不思議な法則があるんですねえ」
 二人が歩きながら話していると市場が見えてきた。市場は早朝であるにも関わらず、多くの人が行き交い賑わっていた。
「朝飯でも喰うか」
「そうしましょう」
 お粥の屋台のテーブルに座り、肉団子の入った粥を注文した。弦太郎はコップに飲料水と氷を入れ、一つのコップをタムに差し出した。しばらくすると熱々の粥が運ばれてきた。
「ああ、お腹がすきました――」弦太郎は粥を目の前にして顔をほころばせた。「いただきます」
市場の早朝のざわめきの中、二人は粥をすすった。
「ああ、ウマイ」
 弦太郎はしみじみと呟いた。空っぽになった胃袋に粥の滋養が染み渡った。
「弦太郎、住まいは決まったのか?」
 タムは粥をすすりながら訊ねた。
「いや、まだです。アパートの契約では明日中には引っ越さないといけないことになっています。今日中に決めないと。どこにしようか・・・・」
「ファミリーの家で一緒に共同生活してもいいんだぞ」
「えっ、ファミリーの家で一緒に? 泊めさせてもらえるんですか?」
「お前次第だ」
「本当ですか。どうぞよろしくお願いします」
弦太郎は合掌して頭を下げた。
「知識もない、力もない、生活力もない、そんな新米呪術師はファミリーと共同生活したほうが安全だろう」
「そんなことならもっと早く、ファミリーとの共同生活のことを教えてくださればよかったのに。危うく他のアパートと契約するところだったじゃないですか」
「お前は今日呪術師になったばかりだ。呪術師になれたからこそ、他の呪術師と共同生活する資格が得られたんだ。いつ、お前が一人前になるか、もしくは途中で挫折するか、そんな未来のことはわからないだろ」
「ああ、確かに、そう言われてみれば・・・・。じゃあ、ぼくは、アパートの契約が切れる直前のちょうどいいタイミングで呪術師になれたということですね」
 弦太郎は粥をかき込むように食べ切ると、うっすらと青みがかかった早朝の空をボンヤリと眺めた。小鳥たちのさえずり声がいつも以上に新鮮に聞こえた。
「師匠、ぼくはようやく呪術師になれたわけですが、これから先、呪術師として、どのように生きてゆけばいいんですか?」
弦太郎はこれから始まる新しい生活について、タムの顔色を窺いながら慎重に訊ねた。
「さらに力を高めていくんだ」
 タムはそっけなく答えた。
「力を高める、ですか。それはやっぱり、太陽のメディテーションでですか?」
「太陽のメディテーションは力を失ったとき、それを回復するため一時的に使う呪術だ。さらなる力を得ていくために使うものではない」
「じゃあ、また新たな呪術を教えてくださるんですね」
「特定の呪術だけを繰り返していればそれでいいというものではない。もっと複合的に、呪術師同士の生活を通じて、徐々に力は高まっていく。そうして力が高まってゆけば、また新たな呪術が使えるようになるだろう」
「いろんな呪術が使えるようになるのは楽しみですね」
「だが、間違った解釈はするなよ。呪術を身につけることが呪術師の目的ではない。前にも言ったが、〝呪術〟というのは真理に到達するための足場に過ぎない。足場を目的と勘違いするな」
「呪術を身につけることは本当の目的ではない、か・・・・・」
「呪術は結果であり手段だ。さらにいうならば、お前の手近な課題は呪術を習得することよりも、もっと現実的な問題、一日一日をしっかり生き延びることにある」
「〝一日一日を生き延びる〟ですか? なんか大袈裟ですね、ハハハハ」
 弦太郎は気楽そうな笑顔を向けた。
「大袈裟じゃないさ。命を失うことは日常生活のそこかしこに転がっている」
 タムは弦太郎の目を覗き込みながら言った。弦太郎はタムの深い眼差しにふっと不安を覚え、コップの冷たい水を一口一口、ゆっくりと口に含みながら考えた。
「〝壁抜けの術〟が自由自在に使えるようになったというのに、そんな危険なことが日常生活で起こるものでしょうか?」
「呪術師の生活は危険がいっぱいだ。壁抜けが使えるようになったからといって関係ない。油断していると命なんぞ簡単に落としてしまうだろうよ」
 タムに言われ、弦太郎は呪術師に到るまでの危険に満ちた道のりを回想した。苦しい記憶の数々が蘇り、すがすがしい朝が重々しいものに感じられてきた。両手のひらで頬をパンパンと叩いて気を引き締め、眉間に皺を寄せてタムを見つめた。
「そんなに硬くなるな――」タムがニッコリと笑って言った。「油断はしちゃいけないが、深刻になればいいというものではない。未来のことなんか誰にもわからないんだ。我々に与えられているのは〝今〟というこの瞬間だけだ。この瞬間の中で気づき、判断し、行動していくだけだ」
「この瞬間ですね」
 コップに入っていた氷はすっかり溶けて水になっていた。弦太郎は氷の溶けきった水にチビチビと口をつけた。
「じゃあ、行くか」
 タムが席から立ち上がった。
「ファミリーの家ですか」
「ああ、我々のホームだ」
「ここから遠いですか」
「いや、すぐ近くだ」
二人は勘定を済ませ、ファミリーが住んでいるホームに向かって歩き出した。


   二  
片側二車線の大通りから路地に入ってしばらく歩くと、突き当たりは雑木林になっていた。雑木林の中に未舗装路があり、それをたどって歩いていくと古めかしい二階建ての木造家屋がポツンと林に溶け込むように建っていた。
「さあ、着いたぞ」タムが言った。
「ここですか」
 弦太郎は街中にこんな建物があることに驚いた。チェンマイはタイ第二の都市で、一般的な建物は鉄筋コンクリートやレンガで造られ、もう伝統的な木造建築などほとんど目にしない。それなのに年季の入った木造家屋がしっかりとした形で残っていた。建物だけではなく、こんな都会の真ん中に林に囲まれた静寂空間があることも不思議に思えた。
「ここが入り口だ」
 タムは玄関の扉を開けて中に入った。弦太郎もそれにつづいて薄暗い屋内に入った。屋内は薬草の香りが建物から分泌しているかのように漂っていた。
「自分の家だと思ってノンビリしたらいい」
 リビングらしい部屋に入り、二人は板床に腰を下ろした。
「――お帰りなさいませ」
 奥から痩せた老人と、小太りの中年男が顔を出した。弦太郎はそれを見て、「あっ」と声を漏らした。痩せた老人は、〝タイ伝統医学診療所〟にいた動作のゆっくりした老人だった。
「あなたもタム師匠のお弟子さんだったんですか」
「ハハハ、そうです。お久しぶりです」
 老人はゆっくりとした口調で言い、朗らかに微笑んだ。
「やっぱり、普通の人じゃなかったんですね。診療所でお見かけしたとき、ただならぬ気配を感じていました」
「私はそんな立派な呪術師ではございませんよ」老人は謙遜した。
「彼はエチンケ呪術師の“アディー〟だ」タムが紹介した。
「エチンケ? エチンケ呪術師とは一体どういうことなんでしょうか」
 弦太郎は老人の名前のことよりよりも、〝エチンケ〟という言葉が気になった。
「呪術師には様々な種類、もしくは特色がある」
「呪術師に種類がある? じゃあ、ぼくは何呪術師に分類されるんですか?」
「お前は〝レラ呪術師〟だ」
「レラ呪術師? えっ、ぼくはそういう種類の呪術師なんですか」
「そう。その人間の持つ性格や、気質、性質によって、生まれ変わる呪術師が決定される」
「いやあ、レラ呪術師なんてエリートですぜ――」小太りの中年男が口を挟んできた。「まったく羨ましい限りです。ワタシなんぞ、ありふれたセタ呪術師の身分ですから、イヒヒヒ」
 男は胡散臭い特徴的な笑い方をした。
「弦太郎、こいつは“ジョン〟っていうんだ。ホームで下働きをしている」
タムは男を指さして紹介した。
「ジョン、彼はレラ呪術師の弦太郎だ。今日からお前の親分だ」
「えっ、本当ですか。おお、とうとうワタシにも親分をあてがっていただけるんですか。そりゃあ、嬉しい。ありがとうございます」
ジョンはタムに合掌してペコペコと頭を下げた。
「弦太郎の言うことを何でも聞き、しっかりサポートしるんだぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください――」弦太郎は狼狽した。「この人の〝親分〟になるってどういうことですか?」
「どういうことも何も言葉どおりそのままだ。こいつは子分なんだから、お前の好きなように使ったらいい」
「えっ、ぼくは昨晩、呪術師になったばっかりですよ。呪術師のことなんか何もわかっていません。しかもジョンさんは見たところ、ぼくよりもずっと年上じゃないですか」
「〝ジョンさん〟なんて呼ばなくていい。〝ジョン〟でいいんだ。お前の子分なんだから」
「好きなように何とでも呼んでください、イヒヒヒ」
ジョンは弦太郎に媚びるように両手をすり合わせながら言った。
「ぼくが親分に・・・・」
「何歳だろうが、いつ呪術師になろうが、そんなこと気にするな。呪術師の世界には年功序列なんてものはない。お前はまだ呪術師の生活が全然わかっていない。だからこそ誰かからのサポートが必要だ。ワシもいつまでもお前一人にかまっていられないしな」
「えっ、師匠はここで一緒に生活するんじゃないんですか?」
「なんで一緒に生活しなくちゃいけないんだ」
「親分、甘えちゃいけませんぜ。タム師匠はとてもお忙しいお体ですよ。そんな滅多やたらここに来ていただけないですよ、イヒヒヒ」
「そうなんですか・・・・」
「だからこそ子分が必要なんです。呪術師の生活はアレコレ大変ですから、ワタシがきっちり親分をサポートいたしますぜ、イヒヒヒ」
 ジョンは早速弦太郎のことを「親分」と呼び、何が嬉しいのか知らないが常に奇妙な笑い方をした。
「師匠、もう一度、呪術師の種類について教えて頂けますか――」弦太郎は真剣な表情でタムに訴えた。「セタだとか、レラだとかよく理解できません。じゃあ、師匠は何呪術師になるんですか?」
「ワシはウペウ呪術師だ」
「ウペウ呪術師?」
「ウペウ呪術師の役割は弟子を作り育てること。ウペウ呪術師以外は基本的に弟子を作れない」
「そうですぜ、親分。ウペウ呪術師は呪術師ファミリーの中心で一番エライんですぜ――」ジョンがすぐに話しに割って入ってきた。「セタ呪術師のワタシなんか、ファミリーの末端に過ぎません。役割といえば雑用みたいなもんですから、イヒヒヒ」
「それじゃあ、レラ呪術師の役割とは何なんですか?」
 弦太郎は胡散臭そうなジョンと目を合わせず、タムを見つめながら訊ねた。 
「透明の術が使えるお前は、ファミリー内では攻撃的役割だな。他の派閥の呪術師から攻撃されたとき、ファミリーを守るのがお前の仕事だ」
「イヒヒヒ、セタ呪術師のワタシが雑用係なら、レラ呪術師の親分は〝傭兵〟ってところですか。ジャンジャン敵をやっつけてくださいよ」
「他の派閥からの攻撃? ということは、他の派閥の呪術師というのがこの世にいるんですか」
「もちろんだ」
「呪術師は我々だけではありませんぜ、親分」
「そうだったんですか・・・・。それに相手が攻撃してくるって?」
「中には攻撃的な呪術師もいる」
「いや、ちょっと待ってください。〝透明の術〟はぼくしか使えないんですか。ウペウ呪術師の師匠も使えるじゃないですか」
「ワシは特別だ。ワシは力に満たされているからいろんなことができる。ウペウ呪術師であれば誰でも使えるというものでもない。長生きしていれば芸達者になるるものさ、ハハハハ」
「姿を消せるというだけで〝傭兵〟って、武器も何も持ってないのに・・・・」
「さらに力が高まってくれば新しい呪術が使えるようになるって、さっきも言っただろ」
「ええ・・・・」
「親分、エチンケ呪術師のアディー爺なんかすごい呪術を使いますぜ、イヒヒヒ」ジョンが言った。
「ジョン、いちいち口を挟まなくてもいい。ワシが弦太郎に説明する」
 ジョンはタムに窘められ、「ヘイ」と言ってまたヘラヘラと笑った。
「エチンケ呪術師の重要な役割は、風の精霊の攻撃からファミリーを守ること。〝防壁の術〟というが使える。アディーが守ってくれれば、風の精霊が襲ってきても命を奪われることはないだろう」
「ん? その風の精霊って何ですか?」
「なんだい親分、風の精霊も知らないんですか。呪術師にとって最強に恐ろしい相手ですぜ」
 ジョンは弦太郎を見下すような言い方をした。
「風の精霊は呪術師にとって一番の敵だ――」タムはジョンに見向きもせず説明をつづけた。「風の精霊は呪術師に宿る〝呪力〟を捕食する。もし、風の精霊が我々の体内に入り込んだら即死だ」
「即死・・・・」
「そうですぜ、ワタシたちは虫けらのごとく簡単に殺されてしますぜ。怖いったらありゃしない。ものすごいスピードで襲ってくるからウカウカ外へも出れませんぜ」
「ヘェー、外出もできないほどなんですか」
「親分、なにを他人事みたいに感心してるんですか。まったく無知とは大胆ですね、イヒヒヒ。そんな呑気なこと言ってると、いまに怖い目に遭いますぜ。呪術師なんて鷲に狙われるウサギみたいなもので、風の精霊の前では無力な存在なんですから。いまは師匠がいるから無事なだけで」
「ウペウ呪術師だけは風の精霊に襲われないんだ――」タムが説明した。「ウペウ呪術師の呪力は熱く燃え上がっていて風の精霊は近づけない。だからワシと一緒にいるときは安全だ」
「ハァー、世の中には変な怪物がいるもんですねえ。でも師匠、ぼくには〝壁抜けの術〟がありますよ。術を使えばすべてを通過してしまうじゃないですか」
「風の精霊に透明の術は通用しない。風の精霊の目には、透明の術に入ったレラ呪術師の姿は輝いて見える。余計に標的になって危険だ」
「せっかく壁抜けをマスターしたというのに効果がないなんて・・・・。じゃあ、どうやって退治すればいいんですか?」
「退治はできない。防御するか、寄せつけないか、逃げるか、それだけだ。向うは精霊、言い換えれば神のような存在だ。呪術師と対等な立場ではない」
「そうそう、退治なんてめっそうもない。遭ってみりゃあ親分にも風の精霊が桁違いの恐ろしさがすぐわかりますよ、イヒヒヒ」
 ガタ、ガタ――
 誰かが入ってくる音が聞こえた。
「――あら、皆さんお揃いで、おはようございます」
伝統医学診療所の医者であるデーンだった。彼女はスラリとした体型にスタイリッシュな服装で颯爽と現れた。
「ああ! デーン先生!」弦太郎は目を見開き、大きな声で言った。
「あら、弦太郎君、久しぶり」
「やっぱりデーン先生も呪術師だったんですね。どおりで普通じゃないと思いました。もしかして・・・・、診療所の人たちはみんなグルになってぼくを騙していたんですか・・・・」
 弦太郎がそう言うと、皆は一同に笑った。
「騙してたって何よ。ちょっと言い方が悪いんじゃないの」デーンは笑って言った。
「もしかして、デーン先生はぼくの病気を治すためにタム師匠を紹介したわけではなく、最初からぼくを呪術師に仕立てあげるため、師匠のところへ送り込んだのでは?」
「あら、弦太郎君、タム師匠に何かご不満でもあるの?」
「いやいや不満だなんて。師匠にはもちろん感謝していますよ」
「弦太郎、不満があるなら何でも遠慮なく言ったらいいんだぞ、ハハハハ」
 タムが笑いながら言った。
「いやいや、師匠に出会えたことは本当にありがたいことです。師匠と出会うことによって、人生が一八〇度違う方向に向かって――。でも、そんな出会いが呪術によって、半ば意図的に仕組まれていたかと思うと・・・・」
「弦太郎君は逸材だったのよ」
 デーンが笑いながら言った。
「ああ、思い出した! 最初にデーン先生と出会ったとき、目の中に引き込まれるような奇妙な感覚がありました。もしかして、あれは何かの呪術だったんじゃないですか」
「気のせいかもしれないし、呪術かもしれないし、フフフフ」
「それじゃあ、もしかして、師匠のいるインタノン山にぼくが何度も足を運んだのも、自分の意思じゃなく、何らかの呪術によってそうさせられていたんですか?」
「そうかもしれないな、ハハハハ」
 タムが悪戯っぽく笑った。
「どこからどう呪術にかかっていたのかさっぱりわからない。自分で自分がわからなくなってきた」
 弦太郎は頭を抱えた。その様子を見たファミリーは愉快そうに笑った。
「それが呪術師のやり方だ」タムが言った。
「自分の意思で動いてきたはずなのに、どういうことなんだ? もしかして今も・・・・」
弦太郎は今もなお呪術をかけられ、操作されているという疑念に駆られた。
「冗談だ、全部冗談だ――」タムが真面目な表情になった。「最初から呪術なんか使っていない。すべてお前の意思だ。呪術師の条件で説明しただろ。呪術師になるのに強制はしないとな」
「確かにそうおっしゃっていましたが・・・・」
「フフフフ、よかったわね、弦太郎君、とにかく立派な呪術師になれて」デーンが弦太郎の顔をしみじみと見つめた。「レラ呪術師の試練は苛烈だって聞いたことがあるけど、本当によく頑張ったわ」
 デーンに褒められ、弦太郎は自分の苦しい修行が理解されたようで嬉しくなった。
「どうにか死なずに生き延びましたが」
「いつも生死のぎりぎりの線を歩いていたな、ハハハハ」
 タムが愉快そうに笑った。
「呪術師の教えから少しでも外れると、必ず大変な目に遭うんです」
「無駄な教えはない」
「親分、師匠の言うことはすべて意味があるんですぜ、イヒヒヒ」
「そんなことわかってるよ。――あっ、ひとつ思い出した。じゃあ、呪術師になる条件で、師匠は十万バーツを提示してきましたが、あれは何だったんですか。本当に生活のためにお金が必要だったんですか?」
「それぐらいの金が失われないと、お前は呪術師を軽いものとして侮ったんじゃないのか。あの額はお前が支払える精一杯の限度額だ。あの金が失われたからこそお前は修行に真剣に取り組んだんじゃないのか」
「ああ、確かに・・・・」
「師匠の教えは理にかなってるのよ」デーンが言った。「あたしたちも何から何もまで師匠にお世話になってるからよくわかるわ」
「ところでデーン先生は何呪術師ですか?」
「あたしはウペウ呪術師よ」
「師匠と同じですね。じゃあ、弟子を持てるんですね。じゃあ、もしかして、診療所の受付の二人の女子も呪術師ですか?」
「そう、ナッツとファン、彼女たちも呪術師よ。彼女たちは師匠の弟子じゃなく、あたしの弟子」
「彼女たちは何呪術師ですか?」
「彼女たちはチカプ呪術師」
「チカプ呪術師――。いろんな呪術師がいるんですね」
「チカプ呪術師は相手の気持ちを感じやすく、人に好かれやすいから受付の仕事にはピッタリなの」
「なるほど」
「親分、街にも変な呪術師はいますぜ。我われファミリー以外の奴らですけどね」
「ヘェー、そんな身近なところに他の派閥の呪術師がいるとは」
「ワタシがいろいろ案内しますぜ。同じセタ呪術師なら嗅ぎ分けられますから、イヒヒヒ」
「他の派閥の呪術師と友達になれるんですか?」
 弦太郎はジョンから目を逸らしタムに訊ねた。
「〝友達〟なんて平和なことを想像をするな。奴らとはまったく関わらない方がいいだろう。面倒が起きるだけだ」
「面倒が起きるとは、どうしてことなんですか?」
「力のない呪術師ほど攻撃的で、嫉妬深く、呪ってくるものだ」
「殺されたりはしないんでしょ?」
「時によってその危険はある」
「本当ですか? ぼくたちを殺して彼らに何のメリットがあるんですか」
「何のメリットがあるか、ワシはヨソの派閥のことは知らん」
「ワタシは知ってますぜ――」ジョンが得意げに言った。「他の派閥の呪術師の肉を喰らうと、力を得られるって伝承があるらしいですぜ」
「誰から教わったんだ?」
「風の噂ですが、イヒヒヒ」
「ジョン、変なことを弦太郎君に吹き込んで、混乱させちゃダメよ」デーンが言った。
「ワタシは嘘はつきませんぜ、イヒヒヒ」
「他の派閥の呪術師に会っても、自分が呪術師であるという秘密を漏らすべきではない。人間と同様にな。自分を守るためにも、ファミリーを守るためにも」タムが言った。
「わかりました。他の派閥の呪術師とは接触するメリットはないということですね」
「でも、親分、同じ種類の呪術師は、相手が同じ呪術師であると、臭いを嗅いでバレてしまうことがありますぜ、イヒヒヒ」
「そうなったら逃げればいいんだろ」
「イヒヒヒ、親分、よくおわかりで」
「他に何か聞きたいことはあるか?――」タムは弦太郎を見て言った。「何もないならワシは行くぞ。生活上のことはファミリーに訊くんだ」
 タムは床から立ち上がった。
「師匠は今日、ここに泊まらないんですか」弦太郎が言った。
「ワシは他に行くところがある」
「じゃあ、あたしも仕事に行きます」デーンが言った。「アディー爺、診療所へ行きましょうか」
「はい、行きましょう」
 アディーもゆっくりと立ち上がった。
「ぼくは引越しをします」弦太郎が言った。
「親分、ワタシが手伝いますぜ」
「ありがとう」
「弦太郎君、よかったら車を貸してあげるわ――」デーンが言った。「自由に使っていいわよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
弦太郎は呪術師ファミリーとの新しい生活が始まった。


   三 
タイ警察麻薬取締局のアーティット巡査長は、ビルマ国境近くの検問所の警察官に電話をかけた。
「忘れてたことなんだがね、どれぐらい前のことだっただろうか・・・・、夜中のこと。俺のところに電話をかけてきただろ? 一人の不審な男を留置所に放り込んだって。あれは今どうなっているんだ?」
「ああ、あれですか・・・・」
検問所の警察官はそのことを思い出したが、それは水に流してしまいたいことだったので言葉を詰まらせた。
「前の件だけど、ふと思い出してな。もう解放したのか?」
「いやあ、解放したわけじゃなくて・・・・」
「ん? じゃあ、まだいるのか?」
「もういませんが・・・・」
「どういうことだ?」
「どう説明したらいいんだか・・・・、実はですね、不思議なことなんですが、あの日の晩、留置所に鍵をかけて放り込んだんですよ。でも、朝になったら男はいなくなってまして」
「いなくなってったってどういうことだ。鍵をかけ忘れたのか」
「いや、きちんとかけました。朝確かめても、やはり鍵はきちんとかかっていましたし」
「どういうことなんだ?」
「だから、不思議なことで、まったく合点がいかないんです」
「逃げられたミスを隠そうとしてるんじゃないだろうな」
「そんなことありません。確かに留置所に入れましたから」
「じゃあ、幽霊だったとでも言うのか?」
「もちろん幽霊じゃありません。男から直接いろいろ事情を聞いておりますし、身体検査するために体にも触れていますし」
「IDカードは見なかったのか?」
「男が言うには、山奥で麻薬密売組織に拘束されて、そのアジトから急いで逃げてきたから財布もケータイもすべて置いてきたって言うんですよ。検問で会ったときは手ぶらだったんです」
「夜中だろ? しかも民家のない山の道路だろ? 手ぶらってどういうことだ」
「だから不審人物と思い、翌日詳しく話を聞くため留置所に放り込んだんです」
「どういうことだ? やっぱりそいつは幽霊だったのかもしれないぞ。名前は聞かなかったのか」
「確か〝ゲンタロウ″って言ってましたが。チェンマイ市内に住んでいると。体が細くて若い男でした」
「ゲンタロウ? 変な名前だな」
「確かにそう言っていました」
「――ん? 待てよ、その変な名前どこかで聞いたことがあるぞ・・・・。日本人の父親を持つチェンマイ大学の学生じゃないか?」
「そこまでは聞きそびれましたが、確かに肌の色は白かった気がします。彼が言うには、体の具合が悪くなり、この辺の地理に詳しい少数民族の老人に連れられて、湯治のために山にやってきたと」
「やっぱりあいつだ」
 アーティット巡査長は以前の記憶を呼び起こした。
「心当たりでも?」
「ああ。そいつは以前、チェンマイ市内のアパートで家宅捜査したことがある」
「じゃあ、チェンマイ市内で調査できるんじゃないですか?」
「よし、その件はこっちで調べておくから」
 アーティット巡査長は電話を切って考えた。
――あの男のアパートの部屋は何も異常なかったはずだし、人間の雰囲気も麻薬常習者という感じではなかったはず。どうして夜にそんなところを一人で歩いていたんだ? 湯治のため・・・・、何かウソ臭い・・・・。
翌日、アーティット巡査長は弦太郎が住んでいた安アパートに出向き、アパートの管理人に会った。
「ちょっと家宅捜査させてもらいたい人物がいるんだが、いいかい?」
「どなたを捜索するんでしょうか?」
「〝ゲンタロウ〟という大学生だよ。前にも一度会ったことがある」
「ああ弦太郎君ね。彼はつい三日前だか、引っ越して行きましたよ」
「えっ、三日前? どこへ行くって言ってた?」
「それは聞いてないですね」
「彼のケータイの番号はわかる?」
「いやあ、ちょっとわかりません・・・・・」
アーティット巡査長は次に、弦太郎のことを大学に問い合わせた。
「彼は退学しましたよ」
 大学の管理センターの女性はニベもなく言った。
「えっ、退学!?」
「もう大分前のことですがね。素行が悪いということで、大学側が一カ月の停学を処したところ、彼は自分から退学を申し込んできました」
「そうなんですか」
これで弦太郎に関する手がかりが何もなくなってしまった。
「怪しいな」
アーティットは捜査手帳に一度消されていた〝弦太郎″の名前を再び書き記した。


   四
 弦太郎は真昼間、床の上で大の字に寝そべって居睡りしていた。ジョンはそんな弦太郎を横目で見ながら、薬草の仕分けの作業に追われていた。ホームでのジョンの仕事は多岐にわたっていた。薬草の仕分けし、乾燥させ、分量を量って調合し、煮詰め、それから丸薬を作る。他にもホームの家事も炊事も買い物もこなさなければならない。
「親分はいいですね。ここに越してきてから三日間、寝てばっかり。睡眠メディテーションという呪術があるんですか、イヒヒヒ」
 ジョンが皮肉たっぷりに言った。弦太郎は朦朧と瞼を開けてジョンに視点を合わせた。
「なんだか疲れていたみたいなんだ――」弦太郎は上体を起こして床に坐った。「なんなら手伝おうか」
「いやいや、いいんですぜ、親分、ゆっくりしていれば。これは全部ワタシの仕事ですから、イヒヒヒ」
「そうか――」弦太郎はまたゴロリと横になって朦朧とした。「しかし、この家は薬草の強烈な臭いが充満しているなあ。二十四時間臭っている」
「いまもグツグツ煮詰めていますよ」
「臭いが体に染み付きそうだ」
「イヒヒヒ、でもこの臭いがないと危険なんですぜ。風の精霊を寄せ付けない臭いが混ざってますからね」
「風の精霊を寄せ付けない臭い?」
「そう、マガラの花ってのがありまして、風の精霊はその臭いを嫌がるんですよ。その臭いを抽出させた香水もありますぜ。外出するときにそれを体にふりかけておくと安心です、イヒヒヒ」
「その香水はどこで売ってるんだい?」
「そんなもん、人間界で売ってるわけないですぜ。もちろん自分で作るんですよ。ホームメイドです、イヒヒヒ」
「そうか、オレたちは風の精霊に気をつけなくっちゃいけないんだな」
 弦太郎はボソッと呟き、腕枕をしてゆっくり瞼を閉じた。そのとき、人の入ってくる足音を耳にし、再びノッソリと上体を起こした。
「こんにちは――」
 中年で小太りの女性が入ってきた。
「おっ、ハムか。ちょうどよかった。忙しいんだ、手伝ってくれ」
 ジョンが親しげに声をかけた。
「あら、このお兄さん新入り?」
 女性がジョンに訊ねた。
「〝新入り〟なんて気安く言ってもらっちゃ困る。この方は天下のレラ呪術師の弦太郎さんだ」
「どうも、はじめまして」
 弦太郎は自分から女性にペコリと頭を下げた。
「このおばさんは――」
 ジョンが言いかけると、彼女は言葉を制止させた。
「ジョン、あなたに〝おばさん〟呼ばわりされたくないわ」
「なんだよ、うるさい女だ。それ以外、呼びようがないじゃないか。――親分、こいつはセタ呪術師のハム、我われのファミリーですぜ」
「えっ? ちょっと、ちょっと、親分って何?」ハムが言った。
「イヒヒヒ、弦太郎さんはワタシの親分だ。もちろんタム師匠公認だぜ」
「どうしてジョンが子分なの。――あなたが子分として仕事なんかできるの?」
「できるにきまってるじゃないか」
「足でまといにしかならないんじゃないの」
「バカにしちゃいけねえ。ね、親分、ワタシは真面目な子分ですよね」
「まあ・・・・」
 弦太郎は苦笑しながら曖昧に答えた。
「でも弦太郎さんは若くて有能そうね――」ハムは弦太郎の顔を興味津々で眺めた。「弦太郎さんの才能を潰さないためにも、あたしが子分になった方がよかったのに」
「何を言ってるんだ。おばさんはひっこんでな」
「なによ、この役立たず男」
 ハムは箒を手に持ってジョンを叩く構えをとった。
 ガタ、ガタ、ガタ――
 床板の軋む音が聞こえた。また誰がホームに入ってきたようである。今度は男性二人が入ってきた。
「やっ、サム兄さん、お帰りなさい」
 ジョンとハムは小競合いを止め、男たちを丁重に出迎えた。この家にはいろんな人が出入りしているようである。
「いやあ、お疲れになったでしょう」ジョンが言った。
「すぐに食事の支度をしてくれ。腹が空いた」
 痩せている男がハムに命令した。彼はどこからきたのか、ずいぶん疲れているようで顔色が悪くなっていた。しかし、目だけは異様にギラギラしており、普通の人間でないことが一目で見て取れた。
「はい、今すぐ作りますね」
 ハムはそそくさと部屋から出て行った。もう一人の背の高い男は背負っていた大きなリュックを下ろし、中から薬草を取り出し整理を始めた。この男はがっちりとした体躯をしており、大人しそうな感じだった。弦太郎は二人の男性をポカンとして眺めた。自分から挨拶しようにも彼らは目も合わせてこない。弦太郎にまったく興味がないといった感じだった。
「サム兄さん――」ジョンが痩せている方の男性に声をかけた。「イヒヒヒ、紹介いたします。こちらが新しくファミリーになったワタシの親分の弦太郎さんです。兄さんと同じレラ呪術師です」
「あっ、そう」
 サムは弦太郎を見ようともしなかった。弦太郎は彼が自分と同じレラ呪術師と聞き、興味を覚えた。
「あなたもレラ呪術師なんですか」弦太郎が声をかけた。
「そうだが」
 サムは面倒くさそうに答えた。弦太郎はいろいろ訊ねたいことがあったが、サムの気が乗らない態度に何となく気まずさを覚え口を噤んだ。
「親分、こっちの人はサム兄さんの子分のトンです。彼もセタ呪術師ですぜ。サム兄さんとトンは、親分とワタシの関係と同じです、イヒヒヒ」
 トンは紹介されるとフッと小さく微笑んだ。
「ジョンが子分とは、それはスゴイな、ハハハハ」
 サムもハムと同じようにジョンを小馬鹿にした。
「ワタシも出世しましたぜ、イヒヒヒ」
 ジョンは、ハムのときとは違ってサムに歯向かおうとはしなかった。
「まあ、それはいい――」サムが言った。「ジョン、トンに倣って薬草を分類して乾燥させるんだ。マガラの花も採ってきたから」
「お、本当ですか。ちょうど在庫切れだったんですよ」
「たっぷりあるぞ」
「いやあ、それはそれは、サム兄さん、ありがとうございます」
 ジョンは大袈裟に礼を述べた。
「マガラの花?」弦太郎が不思議そうな顔をした。
「ほら、さっき説明したでしょ。風の精霊を寄せつけない花ですよ」
 ジョンが口早に説明した。
「あっ、あのことか」
 ジョンは一握りのマガラの花をリュックから取り出し、弦太郎の鼻先に持っていった。
「ああ、この臭いだ。この臭いは確かに家の中に染み付いている。あまり好きになれないなあ」
 弦太郎は顔をしかめた。
「強烈でしょ、イヒヒヒ」
「なるほど、これがマガラの花か」
 弦太郎は顔をしかめながら白い花を指で摘み、まじまじと見つめた。
「――ああ、飯が遅いな」
サムは、弦太郎とジョンの会話をまったく興味を示さず、イライラしながらゴロリと横になった。
「もうすぐお持ちしますぜ。ワタシたちは外に出ますね、イヒヒヒ」
 ジョンとトンは薬草を持って外に出て行った。弦太郎とサムは部屋で二人きりになった。弦太郎は静まった部屋の空気に何となく気まずさを感じサムに声をかけた。
「どこへ行ってたんでしたっけ?」
「・・・・・・」
 サムはしばらく沈黙し、小さな声で言った。
「山だ」
 一言だけ答えてまた沈黙した。まったく話が広がろうとしない。弦太郎は一呼吸おいて詳細を訊ねた。
「どこの山ですか?」
 サムは先ほどと同じようにしばらく間をおき、
「お前に言っても知らないだろ」
 と言ってソッポを向いた。弦太郎はサムの素っ気ない態度に苛立ちを感じ、意地になって問いただした。
「知ってるかもしれませんよ。何て山なんですか?」
「力の山だ」サムは面倒くさそうに小さな声で答えた。
「力の山?」
「俺のな」
「その山に薬草がたくさん生えてるんですか?」
「俺はウペウ呪術師じゃないからよく知らん」
「自分で採ってきて知らないんですか。薬草採りに行ったんじゃないんですか」
「いや、そんなのオマケだ」
「オマケ?」
「お前も呪術師だからわかるだろ? 山へ行く本来の目的といったら力を溜めに行くんだ。霊石メディテーションをしていたのさ」
「霊石メディテーション?」
「知らないのか? お前はまだ何にも知らないんだな。それじゃあ話にならん、フッ」
 サムは呆れたよう鼻を鳴らした。
「ぼくはまだ正式な呪術師になって間がないので知らないんです」
「だろうな、プハハハ」
「何が可笑しいんですか?」
「失敬、失敬。お前の将来が大変そうなんでな」
「どういうことですか?」
「お前みたいな力のない呪術師が生き延びてゆくことがさ」
「あなただって最初は力がなかったでしょ」
「まあな、どうにかここまできたんだけどな」
「じゃあ、馬鹿にしなくてもいいでしょ」
「ハハハハ、そうだな、それは悪かった」
 サムはここで初めて弦太郎と目を合わせ、鋭い眼光を投げつけた。
「レラ呪術師ってやつはな、他の呪術師と比べて一段と過酷なんだ」
「ここまでくるのも十分過酷でしたからわかってますよ、そんなこと」
「まあ、そんなにムキになるなよ。俺がこのホームに来てから、同志のレラ呪術師が三人死んだ。だから、どれほどレラ呪術師が儚い存在か、よく知っている」
「その人たちは、どうして死んだんですか」
「風の精霊に襲われたんだ。レラ呪術師は風の精霊の標的にされやすく、とくに初心者は防御を知らないから命を落としやすい。こうやって挨拶を交わしたはいいが、すぐに永遠のお別れとならないよう気をつけるんだ、ハハハハ」
「――どうぞ、お待たせしました」ハムが食事を持ってきた。「たくさん作ったから、どんどん食べてくださいね」
「ああ」
 サムが無愛想な返事をして、ご飯とおかずの盛られた皿を受け取った。
「弦太郎さんも食べてね」
「・・・・・・」
 弦太郎はハムから皿を渡されたがそれを受け取ろうとせず、無言で腕を組み座っていた。
「どうしたの?」ハムがキョトンとして言った。
「何でもない――」サムがハムに説明した。「俺が呪術師のイロハを少し教えてやったらヘソを曲げたみたいなんだ、ハハハハ」
「オレがすぐ死ぬっていう根拠を言ってくれよ」
 弦太郎はサムの高飛車な態度に我慢できなくなりぞんざいな言葉を使った。
「根拠なんてわからん。運次第だから。ハムの親分のレラ呪術師、名前は何だったっけ――、あっけなく死んじゃったよな?」
 サムに言われて、ハムは気まずそうに下を向いた。
「いい人だったんですけどね。あたしのサポートが悪かったのかもしれません」
「サポートなんて関係ない。俺たちレラ呪術師は常に死神に追われているんだから」
 ハムはあまりそのことに触れられたくないらしく、詳しい話は何もせず部屋から出て行った。
「お前、まだ風の精霊にも遭ったことがないんだろ?」サムが弦太郎に訊ねた。
「ああ」
「死にたくなかったら、常日頃、マガラの香水を体にふりかけておくことだ」
「ケッ、余計なお世話だ」
「それと」
「それと、なんだ?」
「攻撃の呪術を早く身につけることだな」
「どんなやつを?」
「〝電撃の術〟というのがある。知らないだろ?」
「知らないね」
「電撃の術があれば、風の精霊が襲ってきても一旦は追い払えるぞ」
「ケッ、その呪術がどれほどのものなのか」
 弦太郎は挑発的に言った。
「試してみるか?」
「どっからでも、どうぞ」
 弦太郎はニヤリと笑って牽制した。すると、サムは食事の手を止めた。
「いい度胸してるな。こっちにこいよ」
「アンタがこいよ」
「弱いくせに威勢がいいな」
サムは透明の術を使ってパッと姿を消した。弦太郎も負けじと姿を消しサムの姿を追うと、彼はすぐ間近にいた。
「近寄るな!」
 弦太郎がサムを突き飛ばそうとしたとき、サムは弦太郎の胸に手を軽く触れた。その瞬間、〝パン〟という破裂音と共に、弦太郎の体は吹き飛ばされて背後の壁にぶつかった。
「痛タタタ」
 弦太郎はあまりの衝撃に引っくり返ったまま目を白黒させた。
「ハハハハ、これでもずいぶん手加減してやったんだぜ」
 サムは何事もなかったかのように食事をつづけた。弦太郎はしばらく起き上がることができなかった。
「おい、お前、弦太郎っていったな。先輩には礼儀を守った方がいいぜ」
 弦太郎は格の違いを見せつけられ反抗するのを完全に諦めた。
「は、はい・・・・」
「今度生意気な口の利き方をしたら、これぐらいでは済まないからな」
 サムは威嚇するように睨みつけた。弦太郎は床にきちんと座りなおした。
「どうすればこんな呪術が使えるんですか?」
 弦太郎は今の段階では勝ち目はないと、すぐに態度を改め敬語で話しかけた。
「さっきも言っただろ、とにかく力を溜めるんだな。手っ取り早く強くなりたければ、落雷メディテーションってのがあるぜ」
「落雷メディテーション?」
「そうだ、落雷を手の平で受け止めて、力を吸収するメディテーションだ。俺はそれを二度も成功している」
「落雷がそんなにうまいこと手の平に落ちてくるもんですか? しかもそれをどうやって受け止めるんですか?」
「俺はお前の師匠じゃない。後は師匠に教えを仰ぐんだな」
 サムはそれ以上弦太郎を相手にせず、ご飯をもくもくと食べた。
「――ああ、腹いっぱいだ。それじゃあ、ひと休みしよう」
食事を終えたサムは満足げに腹を押さえ、二階の寝室へ消えていった。
「――失礼します」
 それからしばらくし、サムの子分のトンがひと仕事を終え、部屋に戻ってきて食事を始めた。
「トンさんっていいましたね」
弦太郎がおずおずと声をかけた。
「ええ――」トンは気さくに返事をした。
「サムって人は、いつもあんなふうに不機嫌なんですか」
「何か不快なことでも言われましたか、ハハハハ」
「いや、ちょっと、無愛想な感じの人だったので」
「今日は体力が低下していたからメンドくさかったんじゃないですか」
「体力が低下していたんですか。確かに顔色もよくなかったような気がします。どうしてですか?」
「ほとんど飲まず食わずで霊石のメディテーションをしていましたからね」
「どうして飲まず喰わずで?」
「レラ呪術師なのに知らないんですか? なんでも霊石メディテーションに集中すると、何も食べる気がなくなるようですよ」
「その霊石メディテーションって、どうやってするか、もう少し教えていただけませんか?」
「私はセタ呪術師だから詳しいことはわかりません。それは師匠に訊いてください。見てる限りでは、自分専用の霊石で、――これを見つけるのがまた大変なようですが、そこに張りついて力を吸収するようです」
「ヘェー」
「力を吸収する前と後ではまったく呪力が違うようですよ」
「トンさんは力を溜めないですか」
「セタ呪術師の私の役割はサム親分をサポートすることです。そうすることが私の力になるんです。呪術師の種類によって生き方が全然違いますから」
「ぼくは最近、壁抜けの術を身につけて正式な呪術師になりましたが、さっき、あの人に〝電撃の術〟を浴びせられ吹っ飛ばされました。同じ透明呪術師なのにこれほどまでに力に差があるとは・・・・」
 弦太郎はしょんぼりとした態度を示した。
「サム親分と弦太郎さんとでは年季が違います。そんなに落ち込まなくてもいいんじゃないですか。タム師匠に何も言われてないんでしょ」
「ええ、まあそうですが」
「必要なとき、師匠が教えてくださいますよ」
「早く師匠に戻ってきてもらいたいです」
弦太郎はサムから受けた電撃の仕返しができるよう、タムから早く新しい呪術を教わりたい気持ちが募った。


   五 
 ジョンは診療所に薬を納品した帰り、デパートに立ち寄った。
 デパートの地下駐車場に繋がる薄暗いスペースに『プラクルアン』を売るブースがあった。プラルクアンとは仏像や僧侶を形どったお守りの一種で、庶民の間では有名な高僧の作ったプラルクアンには霊力があると信じられている。本物は驚くほど高値で取引されているが、市場に売られているものは玉石混交、その多くが贋物であり、専門家でも真贋を見分けるのが難しい。そんなプラルクアンを売る商人は胡乱な者が多く、大方が詐欺師である。
「――バード、久しぶり」
 ジョンは、プラルクアンを虫眼鏡で観察している一人の商人に声をかけた。ブースには他に誰も人がおらず閑散としている。
「ん――?」 長い髪を後ろに束ねたバードは目玉だけをギョロリと動かしジョンの顔を確認した。「持ってきたのか?」
「ああ、持ってきたぜ」
 ジョンはポケットをまさぐり、目薬の容器のような小さな小瓶を取り出した。バードはそれを受け取ると険しい表情で容器を観察し、蓋を開けて注意深く臭いを嗅いだ。
「水で薄めたわけじゃないだろうな?」
「そんなわけない。百パーセント純粋だ」
 ジョンは顔色を変えずに言ったが内心ドキリとしてした。なぜなら男の言葉どおり水で二倍に薄めていたからだ。しかし、毎回同じように薄めていたので、今回だけが特別薄いというわけではない。
「一本しかないのか」
「あたりまえだ。マガラの花なんか、そんなに集められっこない。これだけ作るのにどれだけの量のマガラの花が必要だったことか」
「でも、こんな小瓶に一本っていうのもな」
「そんなに不満なら自分で集めて香水を作ってみろよ」
 ジョンはタムからの言いつけを守らず、他の派閥のセタ呪術師であるバードに近づきマガラの香水を横流ししていた。
 バードは意味ありげに薄っすらと笑みを浮かべた。
「なあジョン、もう少し安くならねえかな?」
「なるわけないだろ、これはものすごく貴重なんだ。値切るぐらいなら売らねえよ」
 ジョンは強気に言った。ここで弱気な態度を見せると相手につけ込まれる。なんせ相手にとってマガラの香水は絶対必要なアイテムである。必ず購入するに決まっている。だが、内心はヒヤヒヤものであった。もし喧嘩にでもなったら負けそうだし、かりに勝ったとしても、騒動になって香水を横流ししていたことがファミリーにバレたら大ごとである。
「早く金を出せ。買うのか、買わないのか。俺は忙しいんだ、モタモタするなら帰るぜ」
「わかった、わかった」
 バードは渋々財布を広げた。
「――バード兄さん、何を買うんだい?」
 そのときバードの後輩の男が二人やってきた。目つきが悪く、腕に刺青があり、一目で堅気の者ではないことがわかった。ジョンは「マズイ」と思った。
「コイツはセタ呪術師のジョンっていうんだ。他の派閥だぜ。前に言ったマガラの香水、コイツが売ってくれたのさ」
 男二人はニヤニヤしながら不躾にジョンを眺めた。
「これが二千バーツだってさ」
「これだけでかい?」
「なかなかいい商売してるだろ?」
 やくざな男たちに囲まれ、ジョンはこの場にいることに危機感を覚えた。
「要らないなら買わなくても結構だ」
 ジョンはバードから香水を取り上げようとした。
「そう焦るなって」
 バードはジョンの手を払いのけた。ジョンを脅して香水を奪うこともできるが、そうしたら今後香水を売ってもらえなくなる。マガラの香水を販売するのはジョンだけなのだ。
「じゃあ、ホレ、二千バーツだ」
 バードは代金を支払った。
「なあ、ジョン、前から訊いてることだけど、お前は一体どこの派閥の者なんだ? なんでこんなものを作れるんだ。俺たちの派閥のことも話すから教えてくれよ」
「イヒヒヒ、それは教えられないな」
「派閥のトップは誰なんだ?」
「俺はもう行くぜ、じゃあな」
 ジョンは、彼らにファミリーの情報を漏らしてはならぬと思い、話を切って疾風のごとく駆け出した。
「――もう大丈夫かな? ついてきていないだろな」
ジョンは数分間全速力で公道を走り、立ち止まって後方を確認した。セタ呪術師は驚くほど早く走ることができる。誰も追ってきていないことを確認すると二千バーツの現金をもう一度確認した。「いい小遣いが入ったぞ」、ホクホクした気持ちになった。だが、考えてみれば二倍の値段で売りつけても相手は買うはずである。いや、買わざるを得ない。だが、バードに値上げを要求するのは怖った。なんせ性質の悪い奴らだ。何をされるかわからない。値上げを要求するときは、やはり強い味方を一緒に付けて行きたい。ジョンは弦太郎の顔を思い浮かべた。
――親分は人がよさそうだ。ウマク言い包めれば仲間になってくれるだろう。
 ジョンは二千バーツをまじまじと眺め頬を緩めた。
「イヒヒヒ、今晩は久しぶりに遊びにいけるぞ――」
 その晩、ジョンは皆が寝静まっている夜中の十二時にコッソリとホームを抜け出し、カジノバーへ向かった。タイは賭博が法律で禁じられているが、違法で営業している地下カジノがある。ジョンは呪術師になる前、飲む・打つ・買うにドップリ浸かっていた時期があり、まだそこからきれいに足を洗えずにいた。呪術師になってからは時間を制限し、遊ぶ時間は毎回夜中の二時までと決めていた。三時にはアディー爺が起き出すので、それまでにホームに帰って寝ている状態を作っておかなければならない。
 カラン、カラン――
 ジョンがカジノバーの重たいドアを押し開けるとドアの鈴が鳴った。店内はタバコの煙が充満していて薄暗い。バカラの台の客たちは熱くなっており、その熱気が店全体に拡がっていた。ジョンはバーのカウンターでブランデーをロックで注文し、クビクビと一気にあおった。喉がカッと熱くなり、体中が火照ってきた。
「イヒヒヒ、さて始めるか」
バカラの台に向かおうとしたとき、
「ジョン――」
 後方から名前を呼ばれた。女の声だった。
「ん? 誰だ?」
 振り返ると、チャペ呪術師のレイが立っていた。レイはファミリーの一員で高級クラブのホステスをしていた。
「レ、レイ、なんでお前がこんなところに・・・・」
「それはコッチのセリフよ。あたしはお客さんの付き添いできたのよ――」レイは大きな瞳でジョンの目を射るように見つめた。「あなたがどうしてこんなところにいるのよ? 毎朝早いんでしょ? そもそもこんなところで遊ぶお金をどうしてあなたが持ってるのよ」
「ややや、ちょっと待ってくれ――」ジョンはシドロモドロになった。
「こ、今月の小遣いが出たんだ」
「少ないお小遣いでこんなところにこられるの? そんなわけないでしょ――」レイはジョンを睨みつけた。「本当のことを言いなさい。どこでお金を作ったの?」
「た、た、頼む。師匠にだけは言わないでくれ。な、な、な」
 ジョンはレイの手を握り締めて懇願した。
「穢い、触らないで――」レイはジョンの手を払いのけた。「あなた、この店初めてじゃないでしょ」
「は、初めてさ。いや、初めてみたいなものさ。呪術師になる前にちょっと来たことがあるだけだ。呪術師になってからは初めてだ」
「ウソ臭い」
「本当だとも」
 レイはバーのカウンターの女性に訊ねた。
「この男、よく来る?」
「フフフ、そうね、最近見なかったけど、よく来るわね」女性は笑いながら答えた。
「お、おい、お前、何てこと言うんだ!」
 ジョンはバーの女性に咬みつくように言った。レイはジョンを横目で見ながら、
「タム師匠にお仕置きをしてもらわなくっちゃね」
「ややや、やめてくれ、レイ。殺されちまう、な、な、な、これやるからさ」
 ジョンはポケットから千バーツ札を取り出しレイに握らせた。
「何よこれ」
「口止め料だ。取っておけ」
「いらないわよ」
 レイはお金をはね返した。
「な、な、頼む、言わないでくれ」
ジョンは合掌して頭を下げた。
「どうなることか楽しみね」
「今度さ、いい男紹介するから、イヒヒヒ」
「余計なお世話よ。さっさと帰りなさい。朝も早いんでしょ!」
 レイはジョンの尻をハイヒールの踵で蹴り押した。
「ギャーッ!」
 ジョンはカジノバーから弾かれるように飛び出し、一目散に走って帰宅した。


   六
 セタ呪術師のハムがホームの庭掃除をしていると、チャペ呪術師のレイがひょっこりとやってきた。セタ呪術師とチャペ呪術師は相性が悪く、二人はウマが合わなかった。
「あら、あなた何しに来たの?」
 ハムは久しぶりにやってきたレイに邪険な物言いをした。
「あなたこそ用もないくせに、何してるの?」
 レイも冷淡に言い返した。
「何言ってんのよ。あたしは忙しくって息つく暇もないの。邪魔しないで」
「あら、ずいぶんと要領が悪いのね」
 レイの言葉にハムはムッとした表情になった。
「だから、何しに来たの?」
「あたしがここに来ちゃ悪いの?」
「悪いなんて言っちゃいないさ――」ハムはレイの服装を薄ら笑いを浮かべながら見つめた。
「そんなに短いスカート穿いてさ。まったく恥ずかしくないの。みっともない」
「そりゃあ、おばさんは汚い太い脚を出せないわ、フフフフ」
「この女、腹立つわ――」
 昼寝をしていたジョンは、女同士の言い争いの声が耳に入り目を覚ました。隣には弦太郎が高鼾をかきながら気持ちよさそうに寝ている。
「あっ、レイがきたか」
 ジョンは跳ね起きて、女二人のもとへ駆け寄った。
「おいおい、何を言い争ってるんだ、お前たち。そんなんじゃ、いつまで経っても優秀な呪術師になれねえぜ」
 ジョンは二人を仲裁した。
「あなたに言われたくないわ。仕事もしないで昼寝していたくせに」ハムが言った。
「オレは朝早くから起きて働きづくめだぜ。そりゃあ眠たくもなるさ」
 その会話を聞いたレイはフッと鼻で笑った。
「ジョン、ずいぶん寝不足のようね。どうしてかしら?」
「ま、ま、ま、レイ、とにかく中に入れよ。紹介したい人がいるんだ」
 ジョンはレイの背中を押すようにしてホームに招き入れた。
「ハム、レイがせっかく来たんだ。お茶でも入れてやれよ」
「嫌よ」
 ハムは無視して掃き掃除をつづけた。
「――親分、起きてください」
 弦太郎はジョンに揺すられて目を覚まし、ムクリと上体を起こした。
「ダメですぜ、親分、そんなに寝てばかりいちゃ。水牛呪術師になっちゃいますぜ、イヒヒヒ」
「ん? 水牛呪術師ってのもいるのか?」
「真に受けないでください。もちろん冗談ですぜ」
「ん!?――」
 弦太郎はジョンの傍らに立つセクシーな美女へ目がいった。長い茶色い髪に魅力的な大きな瞳、セクシーなボディーラインが露になった黒いワンピースを身に着け、スラリとした白い脚が長くのびていた。
「ウッ」
 弦太郎は小さく声を漏らした。
「親分、紹介しますぜ。彼女はチャペ呪術師のレイっていうんだ」
「初めまして、レイです」
 レイは愛想良くニッコリと微笑んだ。
「初めまして、ぼくはレラ呪術師の弦太郎と言います」
「親分、なに鼻の下を伸ばしているんですか、イヒヒヒ。彼女は高級クラブのホステスさんですぜ」
「ヘェー」
「あたしはチャペ呪術師で昼間に弱いから、夜の仕事しかできないんです」
「チャペ呪術師というのは昼間に弱いんですか、なるほど――」弦太郎は感心したように言ったが、心中、違うことを思っていた。――呪術師にこんな美人がいるとは・・・・。
 レイは上目遣いで弦太郎を見つめた。
「弦太郎さんはおいくつですか?」
「ぼくは二十三です」
「あら、あたしと同い年」
「そうですか」
「いいですね、若い人同士、イヒヒヒ」
 ジョンは二人の様子を見て、意味深な笑い方をした。
「弦太郎さんはジョンの親分なんですか」
「ええ、そうみたいです。親分らしいことは何もしていませんし、何もできませんが」
「そんな謙遜しなくていいんですよ――」ジョンが言った。「親分はそばにいてくれるだけでいいんです、イヒヒヒ」
「弦太郎さん――」
 レイが一瞬チラリとジョンの顔を見て何かを話し出そうとすると、ジョンはレイの言葉を遮るように話し出した。
「レイ、今日はタム師匠は来ないぜ」
「そうなの? 今日、来るような予感がしたんだけど」
「いや、来ないと思うぜ」
「そうかしら」
――ピピピピピ
 レイのカバンからケータイが鳴り、彼女はそれを取り出した。
「あっ、今から。うん、わかった。じゃ、すぐ行くわね」
レイはケータイをカバンにしまった。
「突然仕事が入ったみたい。すぐに行かなくっちゃ」
「おっ、それは急がないと。仕事に遅れちゃマズイからな」
 ジョンはレイを急かした。レイが部屋から出て行こうとすると、そこにバッタリとタムが入ってきた。
「あっ、師匠、やっぱり今日いらっしゃいましたね」
 レイが笑みを浮かべて言った。
「帰るのか」タムが訊ねた。
「師匠、レイは仕事ですぐに出かけなくっちゃダメならしいですぜ、イヒヒヒ」
 横からジョンが口を挟み、レイの背中を押して早く出て行くよう促した。ジョンは昨晩の自分の行状を話されることを懼れ、どうしてもレイとタムを接触させたくなかった。
「師匠――」レイはタムの目を見て念を送った。
「仕方がないさ、セタ呪術師だからな、ハハハハ」
 タムは笑いながら言った。
「ん? 何ですか、師匠?」
 ジョンはタムの言った言葉の意味がわからずキョトンとした。
「それじゃあ、あたしは失礼しますね」
 レイはジョンの行状をタムに念で伝えると颯爽と出て行った。弦太郎はレイの後ろ姿のお尻の辺りをジッと見つめていた。
「体力は大分回復したようだな」
 タムは弦太郎の目を見入りながら言った。
「師匠、親分は寝てばかりですぜ、イヒヒヒ」
「ジョン、お前に訊いてない。弦太郎に訊いてるんだ。お前は向うへ行け」
「ヘイ、じゃあ仕事をつづけてきます、イヒヒヒ」
 ジョンは出て行った。
「師匠、さっき彼女に言ってた、セタ呪術師だからってどういうことなんですか?」
「あれはレイにたいする返答だ。ジョンの素行が悪いってことを念で伝えてきたんでな」
「ん? どういうことですか?」
「チャペ呪術師は思念で意思を通い合わせることができる。以心伝心の呪術だな」
「じゃあ、もしかして、こちらの心を読み取られてしまうんですか」
「彼女はそれが得意だ」
「チャペ呪術師とはそんなことができるんですか。それなら彼女の前で変なことは考えられませんね・・・。チャペ呪術師が心を読み取れるというなら、じゃあセタ呪術師は何ができるんですか」
「セタ呪術師は体力が優れている。とくに脚力がな」
「走るのが速いんですか」
「そうだ。他に特質として、人間の何十倍も臭覚と聴覚に優れている」
「すごいですね」
「そんな特質がある反面、欲深く、暴力的で、徒党を組んで争うのが彼らの生き方だ。彼らは仕える上司がいないとどこまでも身を崩していく。だから弦太郎もジョンの行動をいつも観察し、上手く教育してやらなくてはいけない。そうしないと道を外れていくだろうからな」
「だから〝親分〟が必要なんですか」
「セタ呪術師をしっかり躾ければ、忠誠的ないい部下になるがな」
「まったく油断していました。ジョンはぼくのことを、寝てばかりで何もしないって、逆に上から言ってきますから」
「あいつの言うことを気にするな。お前は自分自身に素直でいればいいんだ。眠たいときには好きなだけ眠ればいい。呪力が急激に高まるとき、逆に体力が低下することがある。お前は〝正式な呪術師〟となった反動で体力が著しく低下している。いまはしっかり体力を回復させる時だ。体力がないのに呪術を使うのは危険だ」
「でも最近、あまり眠たくなくなりました。師匠が言ったように、体力が大分回復してきたようです。だからそろそろ次の呪術を教えていただきたいんですが。例えば、〝電撃の術〟とか」
「サムから聞いたのか?」
「そのとおり、さすが師匠はお見通し。山から帰ってきた彼をジョンから紹介されました。そのとき電撃の術を浴びせられ、心身ともに衝撃を受けました」
「ハハハハ、なかなか荒っぽい指導だな」
「だからぼくも彼に仕返ししてやりたい」
「そういきり立つな。呪術は喧嘩のためにあるものではない」
「それはわかってますが・・・・。でも、ぼくにはまだ何も攻撃の呪術がないので、早く習得したいです」
「そうだな、体力も大方回復したようだし、教えてやってもいい頃だな――」
 タムは両掌を弦太郎の方に向けた。
「レラ呪術師にとって掌は吸収であり放出の場所だ。〝電撃の術〟というのは掌から力を放出する呪術――」
 それを聞いた弦太郎は自分の掌をまじまじと見つめた。
「まずは全身をリラックスさせろ。手の先から足の先までな。リラックスして力が抜けたら次に下腹部を意識しろ。注意深く耳をすませると微かなバイブレーションを感じるだろ?」
「ん・・・・。とても微妙ですが、何か振動してますね」
「そのバイブレーションを瞬間的に掌に集めるんだ」
「こうですか?」
 弦太郎は掌に力を込めたが何も起こらなかった。
「違う。肉体に力を入れるんじゃない。下腹部のバイブレーションを掌に呼び寄せるんだ。瞬間的に」
「はい――」
 弦太郎が下腹部のバイブレーションを掌に集めると、掌から一瞬何かが抜け出るのを感じた。
「それだ。それが電撃の術だ」
「これだけでいいんですか。何も見えませんが、何か出ているんですか」
「まだお前は力がないから威力は微弱だろうが、それでも普通の人間を失神させるだけのパワーはある。試してみるか」
「ええ、でも、どうやって?」
「ジョン、こっちにくるんだ」
 タムはジョンを呼び寄せた。
「ヘイ、師匠」
 ジョンは軽快にやってきた。
「弦太郎と握手をするんだ」
「えっ、何でですか、急に、イヒヒヒ」
 二人は両手で握手をした。
「弦太郎、あまり力を入れるなよ。今のお前の力でも下手すると致命傷になる」
「何の話ですか、イヒヒヒ」
 弦太郎はバイブレーションを掌に送った。
「ギャーッ!」
ジョンは奇声をあげてひっくり返り、うわずったような声を出した。
「痛タタタ、何するんですか」
「ゴメン、ゴメン、呪術の練習なんだ、ハハハハ」
「そうならそうと最初に言ってください。ビックリしたじゃないですか。痛タタタ」
「弦太郎――」タムが言った。「今の力加減でこの程度だ。力を思い切り込めたらどうなるか想像できるだろ。とくに相手の心臓や頭に向けたら危険だ」
「なるほど、これはスゴイですね――」弦太郎は自分の掌を眺めながら、新しい呪術を手に入れたことを喜んだ。「いつでもどこでも自由自在に使えるように練習しておきます」
「気をつけなけなければならないことがある。それは力の消耗だ。この呪術を使うと力を大きく消耗する。すぐに力を回復できるよう、太陽のメディテーションができる状況で練習した方がいい」
「随時、力を補給するんですね」
「親分、スゴイですね。いい呪術を習得しましたね。これでコワイものなし、イヒヒヒ」
 弦太郎は掌を見つめながら考えた。
「で、これが放出なら、吸収は掌から力を吸い取るんですね」
「そうだ、試してみるか――」タムは弦太郎と両掌を合わした。「今度はさっきと反対に、掌から下腹部へバイブレーションを送るんだ。いくぞ――」
 その瞬間、タムの電撃が弦太郎は掌に伝わり、それを下腹部に送り込んだ。
「何かが入りましたね」
「その何かが〝力〟だ」
「なるほど。――じゃあ、もしかして、サムの言ってた〝落雷のメディテーション〟というのは、このように掌から雷を吸収するということですか」
「そうだ。うまくできれば大きな力を与えてくれるだろう」
「ウハ、それは楽しみだ!」
「イヒヒヒ、親分、それができたら大出世ですね」
「――タム師匠、お久しぶりです」
 そのとき、出かけていたサムとトンがフラリとホームに帰ってきた。
「調子はどうだ?」タムがサムに訊ねた。
「はい、おかげさまで順調に力が高まっています。体力もほぼ回復したようなので、また明日から山に入ります」
「サム、弦太郎がお前のことをライバル視しているようだぞ」
「ハハハハ、ライバルですか。力に差がありすぎるような気がしますが」
 サムは弦太郎のことなんか相手にもならないといった感じで言った。弦太郎はそんなサムを見つめ不敵に微笑んだ。
「今、師匠に電撃の術を習ったぜ。今にギャフンと言わせてやるからな、サム」
 サムは後輩の弦太郎に呼び捨てにされてムッとした。
「師匠がいらっしゃるからって調子に乗るなよ」
 弦太郎に近づき襟首を掴んだ。
「おい、つまらない喧嘩をするな」
 タムが鋭い視線を投げかけて注意した。
「はい、すみません・・・・」
 サムはタムにいさめられ弦太郎から離れた。
「わかってるな。お前たちはファミリーと争うために呪術を学んでいるわけじゃない。ファミリーを守るために呪術を学んでいるんだ――」タムはサムと弦太郎を交互に見つめた。「くだらないことに力を浪費するな」
「申し訳ありませんでした」
サムは畏まって謝罪した。
「じゃあ、ワシは失礼する」
タムは振り返ることなくスッとホームを出て行った。弟子たちは固まったようにタムを後ろ姿を見送った。


   七
弦太郎は屋外に出て〝電撃の術〟の鍛錬に励んでいた。下腹部の微かなバイブレーションを感じることができれば、電撃を放つことは難しくない。しかし、タムから教わったとおり電撃の術を使うと力の消耗が激しく、太陽光のないところで使うのは危険なことがわかった。
「親分――」ジョンが声をかけた。「今日はずいぶん熱心ですね、イヒヒヒ」
「ん? 何か用か?」
 弦太郎は呪術の稽古中、集中力を切らされ不機嫌に言った。
「今日は昼寝をしないんですか、イヒヒヒ」
「もう、眠たくない」
「ワタシは今からデパートへ買い物に行きますが、どうですか、一緒に行きませんか」
「デパートへ買い物? そうだなあ・・・・」
弦太郎は考えた。そういえばジョンに訊きたいことがあった。
「行ってもいい」
「じゃあ、行きましょう」
 二人は歩いてデパートへ向かった。
「親分、実は相談したいことがありまして」
 ジョンは歩きながら言った。
「相談? オレに? 何だ? オレもジョンに一つ訊きたいことがある」
「えっ、ワタシに訊きたいこと? 何ですか」
「じゃあ、ジョンから話してくれよ」
「いやいや、親分の方から、どうぞ」
「そうか――。ま、些細なことなんだけどね。この前、チャペ呪術師の女子に会ったじゃないか?」
「レイのことですね」
「そうそう、レイって言ったっけ。彼女はどこに住んでるんだろう」
「イヒヒヒ、親分、レイのことが気になりますか。彼女はペッピンさんですからね」
「いや、そういうわけじゃないんだ。彼女の家はホームから近いのか遠いのかちょっと気になって」
「でも・・・・、親分の質問に答えたいんですが、彼女はファミリーにあまりプライベートなことは話さないものですから・・・・、ワタシも彼女の住まいは知りませんぜ」
「結婚をしているわけじゃないんだろ?」
「ええ、独身ですぜ。彼女は気ままな性格だから、多分一人暮らしじゃないんですか。ホステス稼業でけっこう儲けてるから、きっとどっかいいとこに住んでるんでしょう」
「よくホームに来るのか?」
「月に一度は来ますぜ」
「なるほど、月イチか」
「親分はそんなにレイのことが気になりますか、イヒヒヒ。よかったら、ワタシがその親分の想いを彼女にそれとなく伝えておきますぜ、イヒヒヒ」
「おい、余計なことはするな。絶対そんな先走ったことするなよ。オレは一言も気があるなんて言ってないからな」
「イヒヒヒ、親分がご迷惑ならやめましょう。ワタシは従順な子分ですから、何でも言うことを聞きますぜ。何かあったらご遠慮なく言ってください」
「ああ。――で、ジョンの方は、相談って何なんだ?」
「あっ、そうですね、ワタシからの相談といいますのは・・・・」
 ジョンは言いにくそうに、言葉を詰まらせた。
「ええ・・・・、それがですね・・・・、言いにくいことなんですがね・・・・。親分、怒らないで聞いてくださいよ、理由があるんですから」
「ああ、わかった。 で、何なんだ? もったいぶらないで早く言えよ」
「いやあ、あのお・・・・、実は、いまからデパートへ行く本当の理由というのは、買い物じゃなくて・・・・、マガラの香水を売りに行くんです」
「マガラの香水を? 誰に売るつもりなんだ?」
「ワタシの知り合いのセタ呪術師にです」
「何で売るんだ? あげればいいだろ」
「あげる? そんなのもったいないです。あんな貴重なものを」
「もしかして、知り合いのセタ呪術師って〝ファミリー〟じゃないのか?」
「イヒヒヒ、そうです、そのとおりです。ファミリーじゃなく、他の派閥の呪術師です」
「おい、おい、そんなことしてもいいのか。マガラの花というのは集めるのが大変なんだろ。それを他の派閥の呪術師に売るんて」
「もちろん、もちろん、それはイケナイことです。それは知っています。よく存じています。冷静になって聞いてください」
「それにオレは商人になるつもりはない」
「親分には商人みたいなことはさせません。マガラの香水の値段交渉はワタシがします。親分はただの付き添いです」
「付き添い?」
「一人では心細くてですね。誰か一緒にいてもらわないと。なんせ、連中はタチの悪い奴らなんで。率直に言えば、今日ワタシのボディーガードになっていただけないかと思って、イヒヒヒ」
「オレがお前のボディーガードだって? なんでお前に使われなくちゃいけないんだ。それに、師匠から、他の派閥の呪術師と接触するのは危ないって言われているじゃないか」
「だから、こうして無理を承知でお願いしていまして、イヒヒヒ」
「イヤだ。オレは帰る。面倒に巻き込まれたくないからな」
 弦太郎は足を止め、クルリと百八十度向きを変えた。
「ちょ、ちょっと親分――」ジョンは弦太郎の腕を両手で強く握り締めた。
「聞いてください。本当はワタシもこんなことしたくないんですぜ。でも、理由がありまして。理由を聞いてください」
「痛タタタ、手を離せ。言いわけは無用だ」
「ちょっとだけ聞いてください。ワタシの故郷メーホンソン県のお袋のことなんです」
「お袋の話を持ち出したからって、オレは情になんか流されないからな。何を言っても無駄だ。絶対協力しない」
「お袋が先日手術をしたんです」
「ん? 手術? それは大変だったな」
「手術後の経過は順調なんですが、経済面のことで、大分入院費用がかかったものですから。いま妹夫婦が術後のお袋の看病をしてますが、兄のワタシは何もしていない。ワタシはこうして呪術師になり、遠くチェンマイにいる。せめて、幾許かのお金を仕送りできないかと思いまして、ほんの少しだけマガラの香水を売りたいんです」
「・・・・・・」
 弦太郎は、いつになく深刻そうなジョンの表情に心が動かされ、話を聞き入った。
「いま、ワタシはありがたいことに、ホームで衣食住させてもらって、月々小遣いをもらっています。でも、それは僅かなものでして、それだけではとてもとても入院費用の足しになんかならなく――」
 ジョンはうなだれて見せた。
「先日、ヒョンなことで、他の派閥のセタ呪術師と接触する機会があったんです。聞くところによると、彼らはマガラの香水の製造法を知らないようなんです。彼らにとっても風の精霊は脅威の存在。彼らに香水が高値で売れることがわかりました。もちろん、ワタシもそんなことしたくないんですよ。呪術師のルールのことはわかっていますし、親の手術のことなんか、呪術師の修行に比べたら取るに足らないことです。だけど・・・・、考えてみれば・・・・、ワタシは昔から、肉親に迷惑ばかりかけてきまして、――酒に溺れ、ギャンブルに溺れ。そんな無頼なワタシがいまさら親孝行なんて手遅れなことと承知していますが、だけど、ほんの小さなこと、金のことぐらい、どうかしてやりたいんです。そこでマガラの香水を横流しすることを思いつき・・・・。あっ、なんてオレは罪深い男なんだ、オレは馬鹿者だ、本当に大馬鹿者だ」
 ジョンは泣き出さんばかりの表情になり、自分の頭をポカポカと叩いた。
「ジョン、落ち着け」
 弦太郎はジョンをなだめた。
「本当にワタシは馬鹿者なんです。大馬鹿者なんです。こんな馬鹿者のワタシのことなんて、親分にしてみたらどうでもいいことですが、それでも、いや、そうだからこそ、ワタシの、本当のワタシのことをもっと知って欲しい。今まで全然話しませんでしたが、ワタシの愚かな過去を聞いてください――」
 ジョンは長い述懐をはじめた。
「ワタシは呪術師になる前のこと、妻子もおり、故郷のメーホンソン県の片田舎でトゥクトゥクの運転手をしていました。収入は少なかったのですが、それでも妻と二人の娘を養うことはできました。そんな静かな日々を幸せに過ごしていたのですが、あるときから、ワタシの人生が狂っていきました。悪い仲間に賭博に誘われたのです。賭場に出入りするようになり、ギャンブルにのめり込んでいきました。だんだん仕事が手につかなくなり、収入が減り、酒の量が増えていきました。家には一銭も金を入れず、すべてギャンブルに使うようになりました。負ければ負けるほどのめりこんでいくもので、収入の範囲を超え、貯金を切り崩し、さらには借金を背負うようになりました。そんな生活に耐え切れなくなった妻は、ある日、娘を抱いて家を出て行きました。当然のことです。ワタシが百パーセント悪いんです。ワタシは毎日借金の取立てに追われるようになり、頭がおかしくなりそうでした。人生八方塞がり、どこにも行き場がなく、誰も救ってくれず、ワタシは自殺を考えるようになりました。ある日の夜、生きる気力がまったくなくなり、自暴自棄に酒を浴びるように飲み、自殺を決行しました。もう人生に未練も何もありませんでした。この苦しみから早く逃れたい。橋の欄干に立ち、身を投げようとしたそのときです。一人の老人が偶然通りかかり、やさしく話しかけてきました。――その老人がタム師匠だったのです。師匠は言いました。『ワシと一緒に人生をやり直さないか』と。ワタシは嬉しくて泣きました。誰からも相手にされなかったワタシを仲間に入れてくれると言うのです。しかし、ワタシには莫大な借金がありました。そのことを正直に話すと、師匠はワタシに一枚の宝くじをくれました。『これを返済に充てろ』と言うのです。ワタシは「まさか」と思いました。師匠は『また会おう』とだけ言い残し、去って行きました 。狐につままれた気持ちでした。後日、宝くじの当選番号を調べてみるとビックリ、本当に当たりくじだったのです。ワタシは手の震えがとまりませんでした。タム師匠のことを神様だと思いました。当選金はちょうど借金の返済額でした。ワタシはそれで借金をきれいに返済しました。『さて、これからどうしよう。あの神様にどうやって会おう』。毎夜、橋をウロウロしました。どこで会えばいいかわからず、そこしか思いつかなかったのです。ある日、やっぱりそこに師匠が現れました。ワタシは師匠の足にひれ伏しました。『どうぞ、おそばにおいてください。ワタシは何でもします。お願いします』。すると師匠は自分が呪術師であることを明かしました。師匠はワタシに『呪術師の道は厳しいが、お前は呪術師になる気はあるか』とおっしゃいました。師匠は命の恩人、神です。『どんなことがあろうとついていきます』とワタシは即座に返答しました。師匠はワタシを山に連れて行きました。誰もいない山奥でイニシエーションを受けました。怖かったですが、一度捨てた命です。ワタシは奇妙な草を二週間毎日食べさせられました。体はみるみる痩せ細ってゆき、クラクラ目まいがして、もう死ぬかと思いました。でも、ある日、目が覚めると体に力がみなぎっていることに気づきました。パワーが今までの三倍以上にもなっていたのです。こうしてワタシはめでたくセタ呪術師となりました。そしてチェンマイに連れてこられ、仕事、住まいを与えられ、今に到っているというわけです。だからタム師匠の言うことはワタシにとって〝絶対〟なのです。どんなことも決しておろそかにできません。でも、母親があんなことになり・・・・。しかし、ワタシは呪術師であり、呪術師の道を歩んでいます。親分もわかるでしょ? もう引き返すことはできないんです。人間には人間の生き方があり、呪術師には呪術師の生き方がある。だけど、だけど、母親にせめてお金だけも送ってやりたい。ワタシの小さな親孝行、いや、罪滅ぼしです。こんなふうに師匠の言いつけに背くことは、本当に、苦しいことなのですが、どうか親分、一回だけ、一回だけでいいんです。マガラの香水を横流しすることを、一回だけ目をつぶっていただけませんか。先ほども言いましたように、絶対親分には迷惑をかけません。横にいてくれるだけでいいんです。お願いします」
 ジョンはその場でひざまずき、両手を合わせて頭を下げた。弦太郎はそんなジョンを、腕を組み、眉をしかめ、口を真一文字に結んでじっと見つめた。
「ジョンに金をいくらか工面してやりたいが、いかんせんオレは大学を退学になった身で、働いたこともないし、金なんかまったくない。ジョンに何もしてあげられない――」
弦太郎はしばらく沈黙した。
「よし、わかった、ついていってやろう。お前のお袋さんのためだ。でも、こんなことは一回だけだぞ」
「おお、さすが親分、人格者です。慈悲深い。ありがとうございます」
 ジョンは涙ぐんで礼を言った。弦太郎はジョンの両手をガッチリと握りしめた。
 二人はデパートへ向かった。
「――やっと着きましたね」
 デパートの地下へ下り、プラクルアン売り場に向かった。遠くから、長い髪を後ろに束ねたバードと、彼の仲間らしき若い男が売り場にいるのが見えた。
「親分、あそこにいる男二人がセタ呪術師です――」ジョンが指を差し小声で言った。
「ここから見てもわかるでしょ。悪そう顔してるでしょ。まったく他の派閥のセタ呪術師はなってないですぜ。――親分、何度も言いますが、ただ黙って隣にいてくれるだけでけっこうです。ワタシがすべて話をつけます。親分に面倒を一切かけさせませんから」
 近づくと、バードは新聞を読んで、もう一人の腕に刺青のある若い男はスマートフォンを眺めていた。
「やあ――」
 ジョンが声をかけると、バードは睨みつけるように目で新聞からジョンに目線を移した。
「持ってきたのか?」
「ああ、新作だ、イヒヒヒ」
 ジョンはポケットからマガラの香水の小瓶を取り出しバードに渡した。バードはいつものように外観と臭いを確かめた。腕に刺青のある若い男がバードの肩口から小瓶を興味深げに覗き込んだ。バードは「これがマガラの香水だ」と囁き、若い男に渡した。
「今日はお連れさんも一緒かい?」
 バードがニヤッと笑いながら言った。
「この人はオレの親分さ」
 ジョンは自信満々に言った。
「ずいぶん立派な親分だな、ハハハハ」
 バードは、弱そうな弦太郎を見て笑った。
「なんだ、何が可笑しいんだ?」
「いや、何でもないんだ。ってコトは、親分さんはセタ呪術師かい?」
「いや、違う。親分は天下のレラ呪術師だ」
 ジョンは自慢げに言った。レラ呪術師のことを明らかにすると相手は怯えると思っていた。
「おい、ジョン――」弦太郎は小さな声でジョンに耳打ちした。
「相手にオレたちの正体を明かす必要はないだろ」
「すみません。つい、言っちゃいました、イヒヒヒ」
「――レラ呪術師? 聞いたことねえな。そいつはどんな芸ができるんだ?」バードが言った。
「本当に知らねえのか」
「まったく知らねえな」
 バードは若い男と目配せし、弦太郎を見て軽蔑するように笑った。
「レラ呪術師はだな――」
 ジョンがムキになってさらに説明を加えようとしたので、弦太郎はジョンの足を踏みつけ、「言うな」と睨みつけた。
「イタッ――。レラ呪術師とは、ま、所謂、珍しい存在なんだ」
「だから、何なんだ。具体的に言えよ」
「いいんだ、そんなことは。お前たちに関係ないだろ。で、どうするんだ。香水を買うのか、買わないのか」
「今日は千五百でお願いするぜ」
 バードは値下げを要求した。刺青男はイスから立ち上がり、薄笑いを浮かべながら上目遣いでジョンを挑発した。
「何を言ってるんだい――」ジョンは強気に言い放った。「値下げなんてするつもりは毛頭ないね。マガラの花は貴重なんだ。値下げするどころか、今回は五千にさせてもらうぜ、イヒヒヒ」
「五千?! ふざけるな――」バードの表情が険しくなった。「何で急に二倍以上に値上がりするんだ?」
「だから言ってるだろ。貴重だからさ。とっても貴重だからさ。どうだ、欲しいか、欲しくないのか」
 このやり取りを見ていた弦太郎はジョンに小さく耳打ちした。
「ジョン、喧嘩はやめるんだ。オレは揉め事には関わりたくない。あいつらと喧嘩になったらオレは呪術を使って姿を消しオサラバするぞ」
「ちょっ、ちょっと、親分、いま大切な交渉中です。そんな薄情なこと言わないでください。喧嘩なんかしませんから」
「おい、何をコソコソ話してるんだ。さっきから横で聞いてりゃ、ナメた態度をとりやがって」
 刺青男がジョンに近づき胸倉を掴んだ。
「おい、やめろ――」バードは刺青男を制止した。
「なあ、手出しはしねえから、もう少しなんとかならねえかな。いくらなんでも五千は高すぎるぜ」
「いや、五千だ。それがイヤならもう帰るぜ」
 ジョンは香水の瓶を取り戻そうとした。
「わかった、わかった、払ってやるよ――」
バードはジョンの手を払いのけ、財布を広げて札を数えた。
「一、二、三――、やあ残念、いま四千しかない。なっ、これでいいだろ」
 四千バーツを渡した。
「チッ、ケチな値切り方しやがって」
 ジョンは四千バーツを受け取り、念入りに札を数えていそいそと財布に収めた。
「――顔を写しておけ」
 バードはジョンのことをもっと探りたくなり、刺青男にそっと命令した。男はジョンの顔をスマートフォンで写した。
「じゃあ、また、今度」
 ジョンは交渉に勝利し、意気揚々とその場から立ち去ろうとした――。
「――あそこで何か揉め事があるぞ」
 タイ警察麻薬取締巡査長のアーティットは部下と見回りにデパートへやってきた。地下駐車場から中に入ろうとしたとき、四人の男が不穏な空気を漂わせているのが目に入った。地下駐車場へのガラス扉を開け、立ち去って行こうとする弦太郎とジョンを呼び止めた。
「おい、待て待て、お前ら、ちょっとこっちに来い。ちょっと身分証を見せてもらおう」
弦太郎は警察の姿を見て、嫌な予感がした。
――面倒から解放されたと思ったら、また面倒なことになったぞ。
 アーティットの部下の警官はプラルクアンを売る二人の男のところへ行き、身分証を提示させた。アーティット巡査長は弦太郎とジョンの顔を凝視した。
――あれっ、この男、どこかで見たことがある顔だな・・・・。
 アーティットは弦太郎の顔を見て記憶の糸をたぐった。――あっ、そうだ。
「君は確か〝ゲンタロウ君〟って言ったな。以前、家宅捜査したことがある」
 その言葉を聞いた弦太郎はこの警察官の顔を思い出しドキッとした。――あの時の。
「いいや、知りません。何のことか・・・・」
 弦太郎は身元を明かしたくなかったので、すっとぼけた返事をした。
――この男、嘘をついているな。
 アーティットは弦太郎の顔を覗き込んだ。
「じゃあ身分証を見せてくれ」
「今日は持っていません」
「じゃあ、名前は?」
「ケンです」
 弦太郎は嘘をついた。アーティットは弦太郎の顔をまじまじと見つめ、あの夜、家宅捜査したときの〝弦太郎〟であることを確信した。ビルマ国境近くの検問所で留置所に入れられたが、忽然と姿を消したのも確かこの男である。――こいつは怪しいぞ。
「ここで何をしていたんだ?」
「友人がプラルクアンを買うというので付き添いできました。値段交渉で折り合いがつかなかったので買いませんでしたが」
「仕事は?」
「ええと・・・・、失業中です」
「お前の方は?」
「ワタシですか、イヒヒヒ、ワタシは運転手です」
「とにかく、二人ともパトカーに乗ってくれ。詳しく取調べするから」
 アーティット巡査長は弦太郎とジョンをパトカーに連行した。身分証を見せて警官から嫌疑をかけられなかったプラルクアン売りの二人は、弦太郎とジョンがパトカーに連行されるところを薄笑いを浮かべて眺めた。
――どういうタイミングで姿を消そうか。
弦太郎は呪術を使うタイミングを狙っていた。警官に腕を捕まれているが、一瞬の隙があれば呪術を使って姿を消し逃げられる。もし、住所を正直に答えてホームの場所を警官に知られたら、ファミリーに迷惑をかけてしまう。呪術師は人間にその正体を明かしてはいけないのだ。
――オレが姿を消して逃げるのは簡単だが、ジョンをどうしようか・・・・。こいつ一人を置き去りにすればホームの住所を白状してしまうぞ・・・・。
 パトカーの前までやってきた。乗り込もうとしたとき、二人の警官は一瞬目を離した。その瞬間、弦太郎は呪術を使ってパッと姿を消した。
「――あれ、男がいない」
 二人の警官は弦太郎が忽然と姿を消したことにハッと気がついた。 
「どこだ、どこに行ったんだ?」
 警官はキョロキョロとあたりを見回し、車の下も覗き込んだ。
「おい、お前、仲間の男はどうしたんだ?」
 アーティットはジョンに詰め寄った。
「知りません。急にいなくなりました。蒸発でもしたんですかね、イヒヒヒ」
 ジョンは呪術を使った弦太郎を羨んだ。
――親分、ズルイ。一人で逃げるなんて。オレはどうやって逃げようか。
「蒸発だって? お前ふざけてるのか! どこへ逃げたんだ!」
 二人の警官は怒りをあらわにしてジョンに詰め寄った。弦太郎は二人の警官の背後からパッと姿を現し、ジョンに「逃げろ」というゼスチャーを送り、また姿を消した。
――逃げろって、どのタイミングで? 
 その瞬間、二人の警官は「ギャーッ!」と奇声をあげて後ろにひっくり返った。
「ヒャッ! ここのタイミングか! 失礼しますぜ」
ジョンは卒倒した二人の警官を跳び越し、一目散に駆け出した。
――ヒヒヒ、さすが親分、この場で電撃の術を使うとは。ワタシは逃げ足は早いですぜ。
弦太郎も姿を消した状態で立ち去ろうとしたが、体に力が入らないことに気がついた。
――ああ、力が出ない・・・・。
 弦太郎は人間に呪術を使ったことで力を失ってしまった。呪術が途切れ姿を現した。
「ジョ、ジョン・・・・」
 弦太郎は搾り出すように声を出した。
「ん?」
 ジョンは走りながら弦太郎の小さな声を聞き取った。振り向くと、卒倒している警官の間近で、四つん這いになっている弦太郎の姿を目にした。
「親分・・・・」
 ジョンは急いで舞い戻って弦太郎を介抱した。
「親分、どうしたんですか? 早く逃げないと。人が集まってきますぜ」
「呪術師の掟を破り、人間に呪術を使って力を失った。日の当たるところへ連れて行ってくれ」
「おお、今度はワタシが助ける番ですか。まったく手がかかる。しっかりしてください」
 ジョンは弦太郎を担いだまま走りだし、警官が見えない日の当たる場所へ連れて行った。
「ハア、ハア、ハア・・・・。さあ、日向ですぜ、親分。まだ追手は来てないですぜ」
 ジョンは息を荒げて言った。
「あ、ありがとう。オレはここでエネルギー補給するから、ジョンは先に逃げるんだ」
「了解」
ジョンはひとり駆け出した。弦太郎はそこでしばらく太陽のメディテーションで力を溜め、再び呪術を使って姿を消してその場から離れた。


   八セ
 セタ呪術師のゴフトはチェンマイを縄張りとしてセタ呪術師軍団を組織していた。チェンマイ市郊外の山の中に広大な邸宅があり、高い塀に囲まれた邸宅の外観は要塞さながらである。ゴフトは社会からあぶれた人間を見つけるとやさしく声をかけて組織に招き入れ、イニシエーションを受けさせてセタ呪術師に仕立て上げた。そうして多くの弟子を持ち、裏社会のボスとして君臨していた。
空が青く広がる穏かな日の午後、ゴフトは執事のブルに車椅子を押させて屋敷から庭に出た。芝生の緑が鮮やかに広がる庭園には、果樹の大木が涼しげな木陰をつくっていた。執事のブルはいつものように車椅子を押しながらゆっくりと広い庭園を回った。池の畔のきたとき、ゴフトは指示を出した。
「ここで止まるんだ」
「かしこまりました」
 執事は恭しい返事をして車椅子を止めた。ゴフトは緋鯉が泳ぐ池を眺めながら妄想に耽った。
「〝長老の呪い〟か・・・・」
 小さく呟き両手で顔をさすった。まだ五十手前だというのに、頬の肉は垂れ、皺くちゃである。頭髪は真っ白で、顔色は土気色、目の下には真っ黒な隈ができ、その容姿はすでに八十過ぎの老人のようである。容姿だけではなく肉体も老化しており、自力で歩き回ることができず、一日中乾いた咳が止まらない。病院で診察を受けても原因は不明で、どんなに高価な薬を飲んでも容態が改善することはなかった。
――金も権力も持ったのにこのザマだ。
 ゴフトは平屋造りの豪奢な白い屋敷を眺めた。西洋の美術館のような佇まいである。
――健康じゃなかったら、こんなものに何の意味があるっていうんだ。どうすれば呪いが解けるのだろう・・・・。
〝サロ呪術師の長老〟に仕えていた若かりし日のことを思い出した。真面目な働きぶりと機転のよさ、誠実な人柄が認められ、若くして長老の側近となった。セタ呪術師の最高幹部に抜擢され、催眠術を伝授され、イニシエーションの秘儀も教えられた。村での生活は質素であったが、安泰な生活を送ることができた。しかし、ゴフトはさらなる夢を見るようになっていた。
――俺には力がある、知識がある。アイディアがある。呪力を利用すれば、もっと大きな幸せを得られるだろう。独立すれば富も権力も思うがままだ・・・・。
 ゴフトは生活のさらなる飛躍を考えるようになった。
 ある日の夜、ゴフトは謀反を起こし、妻子を捨てて村から逃走した。チェンマイ市内に潜伏しながら身を立てて二十年余り、弟子を増やし、夢のとおり巨万の富を築いた。
――俺の人生の選択は間違ってはいはいなかった。唯一つの失敗は、〝長老の呪い〟の秘密を熟知していなかったことだ・・・・。
 ピピピピピ――
ゴフトのケータイが鳴った。美人秘書のヤンからだった。
「ボス、運び屋の部下がきましたが、どうしますか?」
「すぐそっちへ行く。――ブル、屋敷に戻るぞ」
「かしこまりました」
 車椅子を押されて屋敷に戻った。
「――ボス、メーサイからヤーバーの錠剤百キロの輸送に成功したようです」
 ヤンは、ゴフトが広いリビングのソファーに腰を下ろすと寄り添うように腰を下ろして言った。麻薬を輸送した部下の二人は部屋の隅で小さくなっている。
「ヤーバーはいつもどおりバンコクに流すんだ」
 ゴフトは気だるそうに指示した。
「それと、労働力用の男三人を拉致しました。イニシエーションはどうしますか?」
「んん・・・・」
 ゴフトは体力の衰えとともに、イニシエーションを施しセタ呪術師を増やしていくことに面倒を感じていた。いままでイニシエーションを施した弟子の数は千人を超え、いまも部下として百人以上が働いている。ゴフトの手を染めている非合法の仕事の数々は、体力があり、腕っ節が強く、度胸があり、物事を深く考えないセタ呪術師に適任だった。犯罪組織はゴフトを頂点として強固なものが出来上がっていたが、彼はもうガツガツ仕事をしていく気力も体力もなかった。
「どうしますか? いつにしますか?」
 ヤンが重ねて訊ねてきた。
「今は決めれん。また今度だ」
「わかりました」
 ヤンは静かに微笑み、ゴフトの太ももをそっとさすってソファーから立ち上がった。運び屋の部下たちは無言で部屋から出て行った。
「ボス――」今度は執事のブルが後方から声をかけた。「プラルクアン売りの〝バード〟という弟子が珍しいものを手に入れたとのことで、是非ボスにお目にかかりたいとのことですが」
「珍しいものって、何を持ってきたんだ?」
「なんでも風の精霊を寄せ付けない〝マガラの香水〟なるものを持ってきたとのことです」
「ん? マガラの香水だって? ほお、それは珍しいな。通せ」
「おいっ!」
 ブルが太い声で呼ぶと、長い髪を後ろに束ねたバードと後輩の刺青男が緊張した面持ちでリビングに入ってきて、ゴフトの前にひざまずいた。
「お久しぶりです、ボス」
「マガラの香水だって? 噂には聞いたことがあるが、本当か?」
「ええ、本当です」
 バードは媚びるような笑みを浮かべ、カバンからマガラの香水の小瓶を取り出した。ゴフトはそれを受け取ると蓋を開けて匂いを嗅いだ。
「ボス、ご存知ですか?」ブルが訊ねた。
「昔、俺が下っ端の呪術師の頃、長老もこいつを持っていた。確かにこの匂いだ。おい、これをどうしたんだ?」
 ゴフトが珍しく興奮しながらバードに問いただした。
「は、はい。これは他の派閥のセタ呪術師から買い取りまして」
「他の派閥だと?」
「はい、派閥の名前は知りませんが、ジョンという男です」
「ジョン? そいつはこんなものを作れるのか。ということはそうとう有能な呪術師だな」
「有能かどうかはちょっと・・・・。見た感じ、それほどとも思えませんが」
「でもこの香水は本物だぞ」
「本人も効果覿面だと自身ありげに言っていました。実際に風の精霊に遭って試してはいませんが、ずいぶん値が張りましたので本物かと思います」
「いくらで買ったんだ?」
「一本二万バーツで買いました」
 バードは買い取った値段を高く吊り上げて報告した。
「ボス、もう一本あります」
 バードはもう一本差し出した。これらの香水はジョンから受け取った状態からさらに水で三倍に薄めていた。
「全部で二本か?」
「はい、それですべてです。是非、ボスに使っていただきたく思いお持ちしました。男がいうにはマガラの花はずいぶんと貴重なものでなかなか採取できないようです」
「それはそうだろう。いいものを持ってきてくれたな、よくやった。一本二万バーツで買ったと言ったな。よし、二本で六万バーツで買い取ってやろう」
「ありがとうございます」
 バードは恭しく合掌しながら頭を下げた。
「もう一度聞くが、これを作った男は何者なんだ?」
「いやあ・・・・、彼は自分の派閥のことを何も語らないのでまったくわかりません・・・・。あっ、そうだ。そういえば、ジョンには親分がいました。若い男で〝レラ呪術師〟といっていました」
「レラ呪術師だって?」
 ゴフトはその名称を聞くのは初めてだったが、〝長老の呪い〟を解く鍵を何か知っている男ではないかと直感した。
「おい、バード、その男たちと連絡は取れるのか?」
「いいえ、残念ですがこちらから連絡はとれません。彼らが私の店に一方的にくるだけですから」
 バードは、ゴフトがこれほど興味を持つとは思ってもいなかったので戸惑った。
「じゃあ、今度お前の店にいつくるんだ?」
 ゴフトは強い口調で言った。
「いやあ、いつになるかはちょっと・・・。数カ月に一度の割りでフラリときますが・・・・」
「数カ月に一度? そんなの待ち切れん。そいつらをすぐに連れてくるいい方法はないのか」
「いやあ、どうしたものか・・・・」
バードは怯えながら言った。
「何か他に手がかりはないのか!」
 バードはゴフトに怒鳴られ、ふと刺青男にスマートフォンで撮らせた写真のことを思い出した。
「ボ、ボス、顔写真はあります」
 バードは刺青男にスマートフォンを出すよう指示し、ゴフトに渡した。ゴフトはスマートフォンを受け取ると、ジョンの画像をじっくりと眺めた。
「なるほど、こいつか・・・・。おい、ブル、いま邸内にいる部下をすべて集めろ」
「はい――」
 執事のブルは邸内にいる部下をすべて連れてきた。全員で十名集まった。
「この中で、この男を知っている者はいるか?」
ゴフトは部下全員に見せたが、彼らは不安げに首をかしげるばかりで誰も知らなかった。
「ヤン、どうにかしてこの男をすぐに捜すことはできないだろうか?」
「これだけでは・・・・、どうしたらいいものか・・・・」
 秘書のヤンは、先ほどの麻薬の運び屋の部下たちにも一応連絡を入れた。まだ屋敷から出ていなかったらしくすぐにやってきた。
「このオトコを見たことがある?」
 一人の運び屋の男がその画像を見ると、しばらく考える顔つきになった。
「どこかで会ったことがあるような気がします。――あっ、そうだ!」
「知ってるのか?」
「確か、カジノバーで見かけたことがあります。名前はジョンっていうでしょ?」
「そうだ、そうのとおりだ!」
ゴフトは興奮して声をあげた。
「そのカジノバーにはよく来るのか?」
「そこで何回か会ったことがありますが、私も頻繁に行くわけではないので、よくはわかりません」
「まあいい。毎晩見張っていれば、すぐに捕まりそうだ。――バード、そのカジノバーで毎晩見張るんだ。見つけ次第、捕らえてここに連れてこい」
「は、はい」
 バードは突然命令され、驚いたように返事をした。
ゴフトは久しぶりに興奮していた。
――この呪術師たちはサロ呪術師とは直接関係がなさそうだが、風の精霊を寄せ付けないマガラの香水を作れるぐらいだから、きっと〝長老の呪い〟を解く手がかりを知っているに違いない。
ゴフトの生気のない土気色の顔が薄っすらと赤らんだ。


   九
 エチンケ呪術師のアディーと弦太郎はホームの居間で向かい合って昼ご飯をを食べていた。
「弦太郎さん、新しい呪術を身につけたそうですね。ジョンから聞きましたよ」
 アディーがゆっくりとした口調で言った。
「はい、電撃の術というのを身につけました。瞬間的に力が放出されるので疲れますが、攻撃としてすごく威力があります。自分でもビックリです」
 弦太郎は得意げに言った。
「それはすごいですね。私なんか歳ですから、呪術の進歩なんてほとんど見られません、ホホホホ」
 アディーはおっとりと笑った。
「そうだ、アディー爺にずっと訊きたかったことですが、〝エチンケ呪術師〟とはどんな呪術を使うんですか?」
「そんなにすごいことはできませんよ。時間の流れを変える呪術と、風の精霊に対する防御の呪術、その程度です」
「〝時間の流れを変える〟とは、どういうことですか?」
「時間を長く使えます。そんなに長時間はできませんが」
「時間を長く使う? 何かよくわからないですね」
「ホホホホ、説明が難しいですね。要するに、私の主観では世界は何も変わったように感じませんが、客観的に動きが早くなったように見えます」
「亀のようなアディー爺の動きが早くなるんですか。ハハハハ、それは面白い。――ハム、ご飯お代わり」
 弦太郎はハムを呼んでご飯のおかわりをした。
「でも、ジョンのやつ、帰ってくるのが遅いですね。どうしたんだろう。配達に行くって言ってたのに」
「どこかで道草でも喰ってるんでしょう。弦太郎さん、しっかりジョンを躾けてくださいね。性格的なものだと思いますが、彼は見張っていないと放蕩に耽りますから」
「確かに、そんな気がします・・・・」
「ちょくちょくと夜中に抜け出して、出歩いているようですしね」
「夜中にですか? ぼくは寝ていて全然知りませんでした」
「――はい、弦さん、お代わり持ってきましたわ」ハムがご飯を持ってやってきた。
「ありがとう。ハムはジョンの素行をどう思う?」
「あのオトコは陰でコソコソ何をやってるかわかりませんよ。弦さんはやさしいから、ジョンに利用されやしないか心配だわ」
「そんなに甘やかしているわけではないんだけどね」
 弦太郎はそう言いながら、マガラの香水を横流しする現場に付き添ったことを思い出し、自分の甘さを苦々しく思った。
「でもね、弦さん、ジョンは頭が悪いから嘘も単純で愛嬌があるけど、レイには気をつけてね。あの娘はタチが悪いわよ」
 ハムはレイのことを心から嫌っているようだった。
「利発そうな娘じゃない」
「何言ってるの、あの娘は上手に嘘をついて男をたぶらかす悪い女よ。気のある素振りを見せて男を惹きつけ、うまく甘えてお金をふんだくる。本当に天才的なんだから。そんな才能があるのに、ファミリーには協力的じゃないし、自分勝手でわがまま、呪力もないくせに生意気だし」
「美人だから許されるのかな、ハハハハ」
「笑いごとじゃないわ。馬鹿な男はああいうのにひっかかるのよ、怖い怖い。毒ある花は美しいってね」
「そんな大げさな」
「弦さん、本当に大げさじゃないんだから」
 トン、トン、トン――
 小さくドアをノックする音とともに、噂をしていたレイがスッと部屋に入ってきた。
「――こんにちは。あら、何の話で盛り上がってるのかしら」
「ウワ、噂をすればなんとやら――」ハムはパッと態度を変え、素っ気なく応じた。「今日は何の用事があって?」
「マガラの香水が少なくなってきたから貰っておこうと思ってね」
「ご飯はお済み?」
「ええ、さっき食べてきたわ」
「じゃあ、ごゆっくりね」
 ハムはレイと会話するのは御免とばかり、使い終わった食器を持って洗い場へ行った。
「マガラの香水ですか? 新しいのを造りましたから渡しましょう――」
 アディーはゆっくりとした動作で立ち上がり、タンスの引き出しから香水の小瓶を取り出した。
「あれ、おかしいなあ。この前造ったのがもう少しあったと思ったんだが」
「もしかして、ジョンが持ち出したのかもしれないわ。変なところに売り飛ばしていなければいいんだけど」
 レイの呟くような言葉を聞いた弦太郎はドキリとした。
「弦太郎君、ジョンの何か変な素振り見ていない? 気をつけてね、あの男は裏表があるから」
「うん、気をつけるよ」
 弦太郎はあいまいに返事をした。
「あっ、そうそう、嫌な予感がするの。もうすぐ風の精霊がくるような気がしてね」
 レイは不安げに言いながら、アディーから受け取った香水を体に塗った。少量でも臭いが強く、室内に香水の臭いが拡がった。
「ホームの扉は全部閉めといた方がいいわ。暗くなるけど我慢してね」
 レイは部屋の扉を閉め出した。ハムがやってきた。
「あら、どうして閉めるのよ。くるかどうかなんてわからないわ。香水を貰いたいからって、変に皆なを怖がらせるのはやめてね」
「レイの言うことを信じようじゃないですか。チャペ呪術師は予知能力に優れてますから」
 アディーがレイを擁護する発言をした。ハムはちょっと不貞腐れたような態度を見せ、家中の扉を一緒に閉めて回った。
「弦太郎さん――」アディーが言った。「もし突然、風の精霊がやってきて身を隠すときは、ここの床の板を持ち上げてください」
 アディーが居間の床の板を持ち上げると、地面に土豪のような穴が掘ってあった。
「こんな仕掛けがあったんですね。忍者屋敷みたいだ」
「呪術師の最大の敵は風の精霊ですから、厳重に身を守る必要があります。それと、知ってますかね・・・・」
「何をですか?」
「風の精霊が襲ってきた時、防御する一番いい体勢です」
「いや、まだ習ってませんが」
「風の精霊がきたときは絶対正面を向いてはいけませんよ」
「正面を?」
「ええ、風の精霊は呪術師の臍から入り込みます。臍に手を当て体を丸くして地べたにうずくまる体勢をとってください」
「うずくまるんですか」
「そう。でも、この体勢をとっていても、屋外にいたらほとんどの場合は殺られてしまいます」
「怖いですね」
 弦太郎はうずくまる体勢の練習をした。
「――ただいま」ジョンが帰ってきた。「扉が閉まっていたから、みんな出かけたと思いましたよ、イヒヒヒ」
「風の精霊がきそうなのよ」レイが言った。
「へっ、そうですかい、怖い怖い。道理で空模様が薄暗くて、なんだか不気味だと思いました。早く帰ってきてよかった、イヒヒヒ」
「早くなんかないぜ。配達に行くって言ったけど、ずいぶん時間がかかってるじゃないか。どこで道草喰ってたんだ?」
 弦太郎が厳しく追及した。
「どうしたんですか親分、ワタシのことを何か疑ってるんですか。そりゃないですぜ。ワタシは真面目に仕事をしてるっていうのに」
「ジョン、あなたに訊きたいんだけど――」レイが話の間に入った。「今、マガラの香水をアディー爺から受け取ったんだけど、タンスに保管してる香水の数が少なくなってるっていうじゃない。もしかして、あなた横流しなんかしてないでしょうね」
「いや、いや、いや――」
 ジョンはあたふたと否定して、一瞬サッと弦太郎に目をやった。弦太郎は目を伏せた。
「そんなことするわけないですぜ。ワタシを疑ってるんですか」
「何となくだけど。あなたが一番怪しいから」
「アディー爺の気のせいかもしれない。爺はなんせ歳だから忘れっぽいだろ。なあ、爺――」
 ジョンはアディーに声をかけたが、アディーはジョンと目を合わそうとせず沈黙した。
「こんなこと言い合っても時間の無駄のようね――」レイはチラリと腕時計を見た。「そろそろ行かないと。香水も受け取ったことだし」
 レイが出て行こうとすると、
「そこまで送ってくよ」
 弦太郎も立ち上がった。
「いいわよ、こなくても」
「そこまでだよ」
 二人は一緒にホームを出た。空を見上げると、ジョンが言っていたように空が白く雲って薄気味悪かった。
「なんか嫌な空模様だな」弦太郎が呟いた。
「そうね、急いで帰らなきゃ。どうしてわざわざ出てきたの?」
「ちょっと空模様を見てみたかったし、それと・・・・」
「それと、何?」
 弦太郎はレイの瞳を意味ありげな視線で覗き込んだ。
「何よ」
 レイは弦太郎と視線が合うと含羞んだように笑った。
     *
 ピー――
 聴力のすぐれたセタ呪術師のジョンとハムは、屋内で笛の音のような音を感知した。
「風の精霊だ!」
ジョンは跳ね上がるように立ち上がって急いで玄関に行き、扉を勢いよく閉めてしっかり鍵をかけた。
「ひゃ、くるぜ!」
 ジョンとハムは床下に逃げ込んだ。アディーは部屋の隅で身を小さくした。
     *
 ピー――
 弦太郎も笛の音のような音を耳にした。その音は孤独な響きのする不気味な音だった。それと同時にホームの玄関の扉が勢いよく閉められた音を耳にした。
「あっ、扉が閉められた」
 弦太郎はホームを振り返っていった。
「音がする!」
 レイの顔色がパッと変わった。
「くるわ!」
「くる?」
「風よ、風の精霊よ! 弦太郎君、あたしと樹の陰に隠れて! 香水はかけてるでしょ」
「いや」
「え! たいへん!」
 レイはバッグを開けてマガラの香水を急いで出そうとしたが、香水はバッグの底に埋もれているらしくすぐに見つからなかった。焦りと恐怖から手が震え、香水を取り出せそうにない。
「すぐにホームに逃げ込んで!」
 レイは叫んだ。
「わかった」
 弦太郎は飛ぶようにホームに駆けた、壁抜けの術を使ってホームに飛び込もうとしたとき、ハッとタムの言葉を思い出した。
――そういえば、師匠は、透明の術を使うと風の精霊の標的にされるって言ってたぞ。
 そのとき生温い強い風が吹いてきた。弦太郎は強い風に足元をふらつかせながら、玄関の前に歩み寄り扉を引っ張った。しかし、押そうが引こうが扉は開かない。内鍵をかけられているようである。
「開けてくれ!」
 弦太郎は扉を思い切り叩いたが、何も反応がなかった。のっぴきならない危険な状況が迫っている。
――壁抜けの術を一瞬だけ使って中に入ってやれ。
 そう思った瞬間、弦太郎は強い突風で体勢を崩して地面に倒れた。
――ま、まずい・・・・。
     *  
「――ん?!」
 部屋にいたアディーはホームの扉を叩く音を耳にした。
――まさか。
 アディーは呪術を使って時間の流れを変えた。ホームの扉を開けて外に出ると、弦太郎が地面に倒れているのを目にした。アディーは弦太郎に覆いかぶさるようにして〝防壁の術〟を使った。その一連のアディーの行動は電光石火のスピードだった。
「弦太郎さん、体を丸くして臍を隠してください」
 アディーは弦太郎の耳元で言った。弦太郎は絶体絶命の状況で、自分の身に何が起こっているのかまったく理解ができなかったが、アディーが助けに来てくれたことだけはうっすらと理解ができた。
「アディー爺・・・・」
 そのとき凄まじい轟音を耳にした。その爆音はジェット機が至近距離に迫ってきたような音だった。弦太郎は体を硬直させ臍を隠した。凄まじい轟音だったが風圧は何も感じなかった。
「また来ますから、まだ動いちゃ駄目ですよ」
 轟音が過ぎ去り、アディーが言った。それから数秒後、再び轟音がが襲い掛かってきた。
「ウワッ、また来たあ。死ぬゥ・・・・」
 それが過ぎてまたすぐ、三回目の爆音が襲ってきた。弦太郎は轟音の迫力に意識を失いそうになった。
「ヒイイ・・・・・」
 ピー――
 三回目の爆音後、笛の音のような高音とともに風の精霊は去っていった。
「――弦太郎さん、大丈夫ですか」
 アディーが声をかけた。弦太郎は恐怖で顔面蒼白になっていた。
「は、はい・・・・」
「怪我はなかったですか」
「はあ・・・・」
 弦太郎は何か答えようとしたが、口から出てくる声はか細く、言葉が声にならなかった。
「弦太郎君、大丈夫」
 レイもそばに駆け寄ってきた。弦太郎は瞳孔の開いた目をパチクリさせた。
「もうダメかと思った・・・・」
「私が呪術を使って守りました――」アディが言った。「間一髪ででした。扉を叩く音が聞こえたので”〝まさか〟と思い、時間の流れを変えて動きました。音が聞き取れてよかったです」
「アディー爺が助けにきてくれなかったら、確実に死んでいました・・・・」
 ジョンがホームから出てきて言った。
「親分、どうしたんですか? 顔色が悪いですぜ」
 弦太郎は半身を起こしてジョンを睨みつけた。
「お前だろ! ホームの扉を閉めたのは。殺す気か!」
「イヒヒヒ、親分は外に出ていましたか。知りませんでした。てっきりトイレに行ったのかと思ってました」
「トイレに行くなんて一言も言わなかっただろ」
「何も言わずに出るからわかりませんぜ、イヒヒヒ」
「この野郎」
 弦太郎はジョンに飛びかかった。
「やめてください、親分。ワタシは無我夢中だったんです。外にいるなんて考えられませんぜ」
「扉を閉める前に確認するのが常識だろ」
「まあ、まあ、何はともあれ無事でよかったじゃないですか」
アディーが二人を仲裁した。


   十
「イヒヒヒ、今日はツキがいい。絶好調だ」
ジョンは夜中ホームを抜け出して、カジノバーでバカラに熱中していた。三千バーツほどあった手持ちの資金は十万バーツに達していた――。
「――今日こそは来るだろう」
 プラルクアン売りのバードはセタ呪術師の後輩たちとカジノバーにやってきた。
「今日で三日目ですが、来ますかねえ」
 若い後輩が退屈そうに言った。
「奴が来るまでここで網を張ってなきゃしょうがないさ。ボスの命令だ」
 バードがこたえた。
「カジノで遊ぶ資金も提供してくれりゃあ、もっと楽しい仕事になるんですがね」
「そう言うな。アイツをひっ捕らえりゃあ、ドンと小遣いが貰えるさ」
「それもそうですね――」
 バードがカジノバーの重たいドアを開けると、一台のバカラの台がひと際熱くなっているのが目に入った。その台を凝視すると、ジョンがチップを高く積み上げ、台の中心を陣取っていた。
「あっ、ジョンだ」
 バードは小さく声を漏らした。
「どいつですか?」
「ほら、真ん中に座っている小太りの男だ」
「アイツですか。とうとう見つけましたね。どうしますか? ひっ捕らえましょうか」
 後輩のセタ呪術師がパキパキと指を鳴らして喧嘩腰の態度を見せた。若さゆえ事を性急に進めがちである。
「おい、待つんだ。ここで騒動を起こしたら面倒が起きる。ポリ公がくるだろ」
「それもそうですね」
「アイツが勝負を終わらすまで大人しく待っていよう。捕らえるのは簡単だ」
 三人はバーのカウンターの隅に座り、ウイスキーグラスを片手にジョンの様子を静かに見守った。
「――やっ、いま何時だ?」
 ジョンが時計を見ると、規定帰宅時間の二時を三十分も回っていた。
「いけねえ、もうこんな時間だ。切り上げなきゃ。でもなあ、こんなにツキがいい日は年に一回もないぞ。ツキが回っているときには徹底的に勝負した方がいい。朝までとことんやり込むか。――いやいや、ダメだ、ダメだ。こんなところをファミリーに知られたら破門されちまう。人生が崩壊だ」
 ジョンは名残惜しそうに席を立った。積み上がったチップをカウンターに運び、すべてを現金に替え、分厚い札束を受け取った。
「こんな札束を見るのは久しぶりだ、イヒヒヒ。最高の日だなあ」
 ジョンは口元を弛ませながら店の外に出た。屋外はタバコの煙で曇った店内と違い、空気が清浄でひんやりとしていた。
「イヒヒヒ、爽快、爽快。俺も日頃の行いの功徳で、呪力が高まっているのかもしれないな」
 大きく深呼吸をして歩き出そうとしたとき、後ろからポンと肩を叩かれた。
「よっ、ジョンさん、ずいぶん景気がよさそうじゃないか」
 そこには不敵に微笑を浮かべたバードの顔があった。
「あっ・・・・」
 ジョンは自分が危険な状況にいることを本能的に感じ取った。バードの両脇には、いかにもヤクザ者といった感じの人相の悪い若い男がニヤニヤしている。
――まずい。
ジョンは咄嗟に駈け出した。
「待て、待て、待つんだ」
 あっけなく三人に取り押さえられた。
「おい、放せ。何をするんだ」
「そう暴れるな、ジョンさんよ。俺たちもお前を手荒に扱うつもりなんかないんだ。まあ、落ち着いて話を聞いてくれ」
「何の話だ?」
「ちょと頼みたいことがあってな――」バードがニヤリと笑い、顔を近づけた。「我われのボスのところにちょっときてもらいたいんだ。ボスはマガラの香水に非常に興味を持たれて、そのことでちょっと話がしたいらしいんだ」
「ボス――?」
「ああ、我われの組織のボスだ。何にも怖くないぜ。とてもやさしいお方だ、ヒヒヒヒ」
「組織のボス・・・・」
 そんなところに連れて行かれたら何をされるか、命の保障はまったくない。ジョンは額から冷たい汗が流れた。――逃げるんだ。
「ウオーッ!」
 ジョンは大声をあげ、捕まれている両手を振り払い、男たちを突き飛ばそうとした。
「この野郎、大人しくするんだ」
 三人は力が強く、ガッチリとジョンの体を押さえた。
「やめてくれ、放してくれ、俺は悪いことなんか何もしてないんだ」
「怖いことなんか何にもないって言ってるだろ。ちょっとしたお話さ。さあ、車に乗るんだ」
 ジョンの脳裏に金で解決するアイディアが浮かんだ。
「そ、そ、そうだ。お前たち、金が欲しくないか。な、な、一人に一万バーツずつ小遣いをやるからよ。だから、今日は見逃してくれ。お願いだ、イヒヒヒ」
「それは豪勢だな。だが、これはあいにくボスの命令なんだ。ボスの命令に背いたら、我われの身に危険が及ぶんでな。さあ、くるんだ」
「ギャーッ――」
ジョンは引きずられるようにして、車に引っ張っていかれた。
「――何かしら?」
 レイがカジノバーのドアノブに手をかけたとき、男の叫び声を耳にした。客を伴ってちょうど店に入るところだった。振り返って暗闇を見つめると、数人の男たちが絡み合い、一人の男を車に押し込めているところを目にした。
「ん? あの姿、ジョンじゃないかしら」
目を凝らしたがよく見えなかった。
男たちの乗り込んだ車は、何事もなかったかのように走り去って行った。
    *
 ゴフトは朝食を終え、いつものようにリビングのソファーに腰を下ろした。葉巻に火をつけ、ガラス越しから広い庭園を眺めて葉巻を燻らせた。
「ボス――」秘書のヤンがそばにやってきてひざまずいた。「プラルクアン売りのバードがきていますが」
「通すんだ」
 ゴフトは物憂げに返事をした。ヤンは、リビングの部屋の隅で小さく畏まっている三人に、小さく合図を送って近くに呼び寄せた。
「ボス、おはようござます」
 バードたちはひざまずいてゴフトに敬礼した。
「どうした?」
「この前お話しましたマガラの香水を売る男――、他の派閥の呪術師の男ですが、昨晩捕らえ、
今屋敷に連れてきました」
「ん?! 本当か。とうとう捕まえたのか」
 ゴフトは目を見開いた。
「いま、地下室に監禁しています」
「そうか、じゃあ、ここに連れてこい」
「畏まりました――」
 数分後、三人は後ろ手を縛ったジョンをゴフトの前に連れてきた。
「ウー」
 ジョンは小さく呻き声をあげた。屋敷に連れてこられてそれほど時間が経っていないのに、すっかり衰弱していた。
「ほら、敬礼するんだ」
バードはジョンを荒っぽく蹴飛ばした。
「ギャッ」
 ジョンは悲鳴をあげながら、床につんのめった。
「おい、あんまり手荒に扱うな。縄を解いてやるんだ」
 ゴフトはバードたちを注意した。
「はい――」
 ジョンは縄を解かれて幾分自由になった。しかし、ゴフトの後方には黒服の大柄な護衛が三人立っており、警戒の眼差しでジョンをジッと見つめている。まったく逃げられる状況ではなかった。ジョンは生きた心地がしなかった。
「君の名前は〝ジョン〟と言うらしいな。私は〝ゴフト〟だ。セタ呪術師最大組織のボスだ」
 ゴフトはジョンを興味深そうに見つめながら自己紹介した。ジョンは極度の緊張から言葉が出てこなかった。
「部下が君に暴力を振るったことを許してくれ。私はそんなことをさせるつもりはなかったんだ。君をここに呼んだ理由は他でもない、バードから受け取ったマガラの香水にちょっと興味を持ってな。彼から聞いたところ、君の属している呪術師の派閥が香水を造っていると。我われ呪術師にとっても風の精霊は脅威だ。しかし、我われはあのようなものを造る知識がない。君は一体、誰から香水の製造法を学んだんのか、ちょっとそれを訊きたいんだ」
「そ、そ、それはファミリーから・・・・」
 ジョンは、ファミリーの内情を他の派閥にあまり漏らしてはいけないと、言葉少なく答え、黙り込んだ。
「ファミリー? それは君の親分のことか?」
「いや、まあ・・・・」
「こんな状況で気楽になれというのもなんだが、そう頑なにならないでくれ。俺たちは君に暴力を振るうつもりなんか毛頭ないんだ。我われは友好的だ。少し知識を教えて欲しいだけなんだ。話したところで減るもんじゃないだろ」
「いやあ、ワタシは下っ端なもので・・・・。しょ、しょ、正直、なんかよくわからないんです、イヒヒヒ」
「あの香水は君が造ったのかね?」
「いや、無知なワタシなんかが造れるもんじゃありません。手伝いをしただけです」
「じゃあ誰の手伝いを?」
「それは、まあ、イヒヒヒ」
 ジョンは必死で笑ってごまかした。
「どうして答えてくれないんだ。組織から口止めされているのか?」
「いや、そういうわけではありませんが」
「それじゃあ、話してくれてもいいだろ。もし、情報提供してくれれば、それなりの謝礼は払うぞ」
「謝礼ですか」
「百万バーツぐらいでいいか?」
 ジョンは思ってもいなかった大きな金額を聞き、驚嘆の声を漏らした。
「ひゃ、百万バーツ!」
「それぐらいはお安い御用だ」
 ゴフトはニヤリと笑った。ジョンは咄嗟に頭の中でソロバンを弾き、一生楽に生きていける金額を考えた。
――一年間に三十万バーツは必要だ。とすると三年で百万バーツなんかなくなっちまうわけか。それじゃあダメだ。
「で、でも、それだけでは一生生きてゆけねえです――」ジョンは恐る恐る言った。「ファミリーから放逐されたら、ワタシはどうすることもできませんから、イヒヒヒ」
「確かにな、それは大変だな。じゃあ、こうしよう。もし、すべて情報提供してくれるなら、君を我われの派閥に迎え入れよう。ここで一生暮らすんだ。給料を毎月五万バーツ用意しよう。それでどうだ」
「給料五万バーツ!」
ジョンは目を丸くした。
――ファミリーと手を切って、ここで人生を送ろうか。経済的な問題はないぞ・・・・。
そんなことを一瞬考えたが、周りを見渡すと人相の悪い男たちばかりである。毎月五万バーツもらったところで人生が順風満帆に運ぶとは思えない。そんな条件に乗るのは危険だ。
「どうだ、情報提供してくれる気になったか――」ゴフトが言った。「マガラの香水の造り方はもとよりもっと知りたいのは、そういうものを造ることができる知性をもった呪術師のことなんだ。正直いうと、私は体の調子が悪い。そういうもの造れる知性のある呪術師に会って、体を診てもらいたいんだ。どうだ、君のファミリーの知者を紹介してくれないか」
「いやあ、イヒヒヒ――」
 ジョンは言葉を濁しながら考えた。
――タム師匠は呼べそうにないけど、親分なら頼めば来てくれそうだ。かりに、ここに親分が来たとする。親分なら透明の術を使っていつでも簡単に逃げられるだろう。親分に入れ替わって、先に自分を解放してもらう条件を飲んでもらえばいい。そういう方向に話を進められれば・・・・・。
「どうなんだ?」
 ゴフトが迫ってきた。
「まあねえ、イヒヒヒ――」
 ジョンは焦らすように笑った。このジョンの煮え切らない態度にゴフトが苛立ち始めた。
「俺はそんなに気の長い男じゃないんだ。お前とおしゃべりしたいわけじゃない。こんなに下手に頼んでいるのに、お前は返事をしない。なら、わかった。お前は金も要らなければ、命もいらない。ということだな」
「いや、いや、そういうわけじゃありません」
 護衛の男たちがジョンの周りをサッと取り囲み、体を押えて切れ味の鋭そうなナイフを喉元に突きつけた。
「お前の命なんて軽いもんだ。じゃあ、オサラバだ」
「いや、いや、いや、ちょっ、ちょっと、待ってください! ヒャーッ!」
「情報を提供するのか、しないのか、さっさと言うんだ。十秒以内に。十、九、八、七――」
「こ、こ、答えます。もちろん、答えます」
「マガラの香水を作った呪術師は誰なんだ?」
「と、と、トイレに行きたいです、ちょっ、ちょっと」
「この野郎、トボけたこと言いやがって。もういい、殺すんだ」
「ギャー! 言います、言います。親分が作りました。私の親分です。製造方法もすべて知ってます。弦太郎親分と言います。レラ呪術師でたいへん知識のある呪術師です」
「レラ呪術師――、この前言っていた」
 ゴフトはバードに鋭い目を向けた。
「はい、その男です。ジョンと一緒に店に来たことがあります」
「その男がすべての知識を持っているんだな」
「はい、ここに呼んだらわかります。親分に訊いてください。このとおりワタシは頭が悪く、マガラの香水のことなんか、本当にさっぱりわからないんです」
「今日、ここに呼べるのか?」
「はい、もちろん、親分はワタシの見方ですから。――で、もし、もしもですよ、親分をここに呼んだとします。そうしたら、ワタシを代わりに解放してくれますか?」
「ああ、そうしてやってもいい」
「本当ですか。じゃあ、早速電話します」
ジョンはケータイを取り出し、弦太郎に電話を入れた。
    *
「あれ? ジョンを見かけませんがどうしましたか?」
 早朝、弦太郎はアディーに訊ねた。
「私が早朝起きたとき、すでにいませんでした。どこか夜遊びに出かけたのでしょう」
 アディーは平静に言った。
「一体、夜中にどこへ行ったんだ。朝になっても帰ってこないなんて」
「弦太郎さん、前にも言いましたが、ジョンを甘やかさないでくださいね。どこまでもつけ上がりますから」
「ええ、甘やかすつもりはありません」
「――おはよう」
 早朝に珍しくレイが顔を覗かした。
「あ、レイ、こんな朝早くどうしたんだい?」
 弦太郎はレイがやってきて嬉しくなった。
「仕事の帰りなの。ちょっと気になったことがあってね」
「何なんだい?」
「ジョンいないでしょ?」
「どうして知ってるの? どうやら夜中にホームを抜け出したらしいんだ」
「やっぱり・・・・」
 レイは何かを思い出すかのような目つきになった。
「何か思い当たることでもあるのかい?」
「夜中、お客さんとカジノバーに行ったの。店に入ろうとしたとき、店の外で数人の男たちが争っている姿が見えて、一人の男を無理やり車に乗せていた。はっきり見えなかったんだけど、その男がジョンに見えたの」
「えっ、ジョンがカジノバーへ?」
「そう、彼はよく出入りしていたみたい。今まで話さなかったけど、それが初めてじゃなくて、前にもそこで見かけたことがあるの。ジョンが言わないでくれっていうから黙っていたんだけど」
「夜中に抜け出していたときは、いつもカジノバーに行ってたんですね」アディーが言った。 
「あいつ、まったく何をやってるんだ。なにかお仕置きをしてやらねば」
「いまはそのことよりも、男たちに拉致されたことが問題よ」レイが言った。
「そうだ、そうだ。じゃあ一体誰がアイツを拉致なんかするんだ? それにジョンはいつも、セタ呪術師は腕力が普通の人間の三倍も四倍もあるって自慢してたけど、数人の男に囲まれたぐらいでは簡単に逃げられると思うんだが」
「確かに、そうよね」
 ピピピピピ――
 弦太郎の電話が鳴った。画面を見るとジョンからだった。
「ジョン、お前どこにいるんだ」
 弦太郎は強い口調で言った。
「お、親分、すぐにきてください。助けてください」
 ジョンの声は今まで聞いたことのない弱弱しい声音だった。
「いや、お前なんか助けない。夜な夜なカジノに通っているんだってな。子分失格だ」
 弦太郎は突き放すように言った。
「お、親分、今それどことじゃないんです。殺されそうなんです」
「殺される?」
「いま、セタ呪術師のボスのところです。親分、すぐに来てください」
「セタ呪術師のボス?」
 弦太郎は意味がわからなかった。
「そう、派閥のボスです。今怖い男たちに取り囲まれて、たいへんな状況です、ギャーッ」
 ジョンの悲鳴と共に、「余計なことを話すな」という男の声が聞こえた。
「ジョン、大丈夫か。一体、どこに行けばいいんだ?」
「ウ、ウ・・・・、待ち合わせ場所は、市内のスワンドク寺院の駐車場で、今から三十分後に車が迎えに行くそうです。お願いします、来てください。親分、お願いします。このままではワタシは悪い奴らに殺されてしまいます。ギャーッ――」
 バードはジョンを殴って電話を切った。
「余計なことは言わなくていいんだ」
「何も余計なことは言ってないぜ。コン畜生!」
 ジョンは逆切れしてバードを押しのけた。すぐに若い衆がジョンを取り押さえた。
「畜生、放せ、この野郎」
「ずいぶんと威勢がいいじゃないか、ハハハハ――」ゴフトは愉快そうに笑った。「そいつを俺の前に連れてこい」
 ジョンはゴフトの座っているソファーの前に引きずられ、ひざまずかされた。
「ああ、命だけはご勘弁を」
 ジョンは震え上がった。数人の男に後ろ手をしっかり握られ、身動きがとれなかった。
「なあに、ちょっとした催眠術をかけてやるだけだ」
「催眠術? や、や、やめてください」
「何にも怖いことなんかない。さあ、俺の手をゆっくり見つめるんだ」ゴフトはニヤリと口角をゆがめ、ジョンの眼前に両掌を広げながらゆっくりとした口調で言った。「そう、手をじっと見つめて、じっとな――」
ジョンはゴフトの指の動きを見ているうちに体の力が抜け、意識を失った。
    *
「もしもし、もしもし――」 
 ジョンの悲鳴とともに電話が切れた。
「どうしたの?」レイが訊ねた。
「なんか大変な状況みたいだ。なにやらセタ呪術師のボスのところにいるって言ってた。そいつらに拉致されたみたいなんだ。すぐに来てくれと」
「セタ呪術師のボスって何?」
 弦太郎はプラルクアン売りのセタ呪術師のことを思い出していたが、マガラの香水を横流しした現場につき添ったことを口にするのが気まずく、詳細は知らないふりをした。
「とりあえず、今そのボスとやらのところに行ってくるよ」
「大丈夫?」
「大丈夫さ。セタ呪術師なんか全然怖くない。オレは透明の術が使える」
「私も一緒に行きましょうか?」
 アディーが言った。
「いや、いや――」弦太郎はアディー爺がくると、彼の逆に足でまといになるような気がした。「ぼく一人で十分です。電撃の術もあるし」
 弦太郎が出かけようとすると、
「ちょっと、待って――」レイが手を額に当てながら呼び止めた。「嫌な予感がするわ。今日、もしかしたら風の精霊が来るかもしれない」
「風の精霊が? また?」
「ええ、マガラの香水をつけていった方がよさそうよ」
「まったく厄介なことが重なるものだ」
 弦太郎は体にマガラの香水を首筋に塗りたくった。
「ああ、臭い、臭い。なるべくこんなものつけたくないんだけど」
「自分の命を守るためよ」
「そうだね。じゃあ、出かけるよ」
「本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫。お安い御用だ」
弦太郎は一人ホームを出て、待ち合わせの場所へ向かった。


   十一
 弦太郎が、待ち合わせ場所であるスワンドク寺院の駐車場に赴くと、デパートの地下で以前会った、長い髪を後ろに束ねたセタ呪術師のバードがすでに待っていた。
「親分さん、久しぶりだね」
 バードが不敵な笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「ジョンはどうなっているんだ」
「どうもなっていないさ。ピンピンしてるぜ」
「何の理由があってそんなことをするんだ?」
「詳しいことはボスのところに行ってからだ。さあ、車に乗りなよ、親分さんよ、ヒヒヒヒ――」
 市内から一時間ほど郊外に車を走らせ山道に入った。さらに奥に進むと、人影の見えない静かな山中に巨大な鉄の門が立ちふさがっていた。
「着いたぜ」バードが言った。
「ここか――」弦太郎は車の中から門を凝視し呟いた。「刑務所みたいなところだな」
鉄の門を囲む高い塀は広い敷地全体を囲っているようで、外からは塀の中がどうなっているかまったく見えなかった。
門番とバードが一言二言言葉を交し鉄の門が開かれると、中はゴルフ場のような緑の敷地が広がっていた。広い庭を車を走り、白い豪邸の前に連れて来られた。
「さあ、親分さん、到着だ」
 玄関に立っていた黒服の大男が車のドアを開けたので、弦太郎は車を下りた。
「初めまして、私はボスの執事のブルと言います。お待ちしておりました」
「ああ――」
 弦太郎は生返事をして屋敷を眺めた。呪術師が住んでいる建物らしく、風の精霊が襲ってきてもビクともしない頑丈そうな建物だった。
「どうぞ中をご案内します」
 執事の言葉遣いは丁寧だったがどこかに威圧感があった。しかし、弦太郎は呪術を使える余裕から、そんなレスラーのような大男を見ても恐怖を感じなかった。いつでも逃げることができるし、撃退することもできる。
 執事が屋敷内を案内し、ひと際大きなドアの前で立ち止まった。軽くノックをしてドアを開けると、そこは巨大なリビングだった。ソファーの前方は大きな一枚ガラスになっており、よく手入れされた庭が一望できた。
「ボス、連れてきました」
「おう――」葉巻を吹かしながらソファーに座っていたゴフトが返事をした。「ここまでお通しするんだ」
 弦太郎はゴフトの対面の連れて来られた。
「まあ、座ってくれ」
 弦太郎はソファーに腰を下ろした。目の前には老人と美女が座っていた。
「君が親分さんかね」
 ゴフトが訊ねた。
「ええ、まあ」
「私がセタ呪術師最大の派閥のボス、ゴフトだ」
 ゴフトは自己紹介しながら弦太郎の様子を観察した。親分と呼ぶからにはそれなりに風格のある呪術師がくるのかと想っていたら、目の前にはまだ世間知らずといった感じの青年が座っていた。ゴフトは思わず弦太郎に問いただした。
「君は本当に親分かね」
「ああ、そうだ」
「親分ねえ・・・・」
 ゴフトは疑わしい目つきで弦太郎の顔をまじまじと眺めた。
「ジョンがお世話になっているらしいが、一体どういうつもりなんだ」
 弦太郎は早速切り出した。
「ああ、ジョンね。一応呼ぶか。――おい、ジョンを連れてこい」
 ジョンは地下室からリビングに連れてこられた。
「ウッヒヒヒヒ」
 やつれたジョンが恍惚とした表情で笑っていた。すっかり様子が変わってしまったジョンを見て弦太郎は驚いた。
「おい、ジョン、大丈夫か」
 弦太郎がジョンに近づこうとすると、隣にいたバードにガッチリと腕を捕まれてそばに寄ることを制された。
「近づいちゃいけねえぜ」
「ジョン、オレのことがわかるか?」
 弦太郎は遠くから声をかけたが、ジョンは涎をたらしながら笑っているだけで反応がなかった。
「おい、ジョンに何をしたんだ!」
 弦太郎は声をあげた。
「ちょっと呪術を施してやったまでさ――」ゴフトはニヤリと笑って言った。「君が私の相談に真摯にのってくれるのなら、すぐにでも呪術を解いてやる。しかしだ、私の要求に応じてくれなければ二人とも命がないと思ってくれよ」
 ゴフトはそう言い、指をカチンと鳴らした。その音を聞いた護衛たちはジョンの喉下に鋭いナイフを突き立てた。
「親分さんよ。無事に帰れるかどうかは君の誠意にかかっている」
「――イヒヒヒ」
 ジョンは殺されかけているにも関わらず、焦点の定まっていない目つきで笑っていた。
「おい、暴力はやめろ。お前の相談にのってやるんだからな。――で、何なんだ?」
 弦太郎はゴフトを睨みつけながら言った。
「この状況ではちょっと話しづらいな。おい、お前たち、ジョンを連れて向うに下がっていろ」
 ゴフトは護衛たちをリビングの隅に追いやった。
「さあ、親分さん、立っていないでソファーにかけてくれ」
 弦太郎は再びゴフトの対面に腰を下ろした。ゴフトの隣には美人秘書のヤンが座っており、彼の背後には大柄な執事がいる。
「何の話があるんだ? オレたちは他の派閥の呪術師と話すことなんかないんだ」
「そう言わずに聞いてくれ――」ゴフトは執事から葉巻を受け取り、ゆっくりと燻らせた。「ジョンから聞いたところによると、君はマガラの香水の製造をはじめ、いろんな呪術に熟達しているらしいね」
「まあ、それほどでもないがな・・・・」
 弦太郎は肯定するかのように大きく頷きながら、別のことを考えていた。
――またジョンのやつ、デタラメなことを言ったな。
「マガラの香水を造れる技術がある君に是非相談したいこととは他でもない、私の健康のことなんだ」
「健康?」
「健康状態が思わしくなくてね」
「そんなことならオレを呼ばずに医者に相談したらいいだろ」
「ことはそんなに単純じゃないんだ。なぜなら私は〝長老の呪い〟を受けているのだから」
 ゴフトが〝長老の呪い〟という言葉を口に出した瞬間、目の色が変わった。
「長老の呪い?」
「まあ、話を聞いてくれ。――私はこうしてセタ呪術師のトップに立ち、多くの弟子に囲まれているが、最初はもちろん私にも師匠がいた。私の師匠はサロ呪術師の長老だった。彼からイニシエーションを受けて、私はセタ呪術師になったんだ」
――セタ呪術師が弟子を? それにサロ呪術師が師匠?
 弦太郎は不思議に思った。タムから教えられたことを思い出すと、ウペウ呪術師しか弟子は作れないはずである。
「イニシエーションを受けたとき長老に言われた。『私からは逃れることはできない。もし私から逃げるようなことがあれば、必ず災いを受けるだろう』と。私も最初はそれを信じ、長老に忠誠を誓い真摯に仕えてきた。そんな私の勤勉な働きぶりが認められ、いつしか私はセタ呪術師の最高幹部にまで上りつめた。最高幹部になったとき、セタ呪術師に授けるイニシエーションの秘儀や呪術を教えられた。イニシエーションとは、特定の薬草を食べさせるだけだったので、『長老の呪い』なんて脅しに過ぎないと思った。ある日私は新たな人生を求め、村から逃げ出し独立したんだ。それから多くの弟子を持ち、こうして巨万の富を築きあげた。だが――」
 ゴフトはそこでいったん話を止め、皺くちゃの顔をさすった。
「私はまだ五十手前だというのに、すでにこの老いぼれようだ。体はガタガタで一人で歩くこともできない。もちろん、君の言うように、最新の医療技術による治療を受け、多種の薬を飲んでいる。しかし決定的な効果は現れず、死はそこまで忍び寄ってきている。そう、長老の言う〝呪い〟というのは決して脅しではなく、実際に存在していたのだ。組織を裏切った呪術師は呪術によって葬られると言われているが、まさにその通りになっている。普通の人間はこんなに早く老いぼれたりしない。〝長老の呪い〟はなんとも恐ろしい呪術だったのだ」
ゴフトはフウーと葉巻の白い煙を口から吐き出した。弦太郎はその話を聞き戸惑いを覚えた。
――この爺、だから何なんだ。オレに何をさせるつもりなんだ。さて、ここからどうやって逃げよう。いや、ジョンをどうやって逃がすか。オレが逃げるのは簡単だが、ジョンを逃がすとなると、やはりこの連中を電撃の術で一人ひとり退治する必要がある。一、二、三、四――、ここにいるだけで九人か。屋敷の外にもまだ仲間がいるだろう。そんなにたくさん電撃の術を使って力がもつだろうか。相手は呪術師だから人間に危害を加えたときのように力を失うことはないだろうが、いかんせん数が多すぎる。どうしよう・・・・。
弦太郎は不安になってジョンをチラリと見た。ジョンは阿呆のようにポカンとしている。この調子だとジョンを担いで逃げないといけない。あの太ったジョンを担いで逃げるなんて・・・・。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ――」
 ゴフトが苦しそうに咳き込んだ。
「それでだ――、この前、プラルクアン売りのバードからマガラの香水を受け取った。私はそれを弟子時代に見たことがある。長老ですらも製造法を知っていたかどうか、とにかく貴重なものだ。このようなものを造れる呪術師がいるのなら、私がかけられた〝呪い〟も解くことができるのではないかと思いつき、今日、こうして君をここに呼んだというわけだ。君の子分のジョンが言うには、親分は呪術について何でも知悉していると言うんでな」
 ゴフトは澱んだ目で弦太郎を見つめた。
「そんなことならお安い御用だ。〝長老の呪い〟を解くことなんか簡単なことだ。もし、呪いを解いてやったら俺もジョンもここから解放してくれるんだな」
「もちろんだ」
「それからもう一つ、もう二度と俺たちのファミリーに近づかないと約束するな」
「ああ」
「絶対だな」
 弦太郎が念をおすように言うと、ゴフトは訝しげに弦太郎の目を覗き込んだ。
「本当に呪いを解けるのか?」
「できるさ」
弦太郎はここまで打って出たが、呪いのことなんかさっぱりわからなかった。
――さて、どうしよう・・・・。
「どうやって呪いを解くんだ?」
 ゴフトが詰め寄ってきた。
「ああ・・・・、薬を持ってきてやるからそれを飲めばよくなるだろう」
「薬?」
「呪いを解く薬だ。薬草を調合して造るんだ。それができたらすぐにここに持ってきてやろう――」
弦太郎はソファーから立ち上がった。
「長話はしたくない。じゃあ、失礼するよ。あ、その前にジョンの呪術を解いてくれ」
「待て、そんなに焦るな。薬をここで造ることはできないのか」
「ここでは難しいな」
「どうしてだ? じゃあ、材料と造り方をまず説明してくれ」
「それはできない。いろんな薬草を調合するから言葉では説明しにくいんだ。だから造ってきてやる」
「信じられないな」
「今は信じるしかないだろ。呪いを解きたくないのか? 早々死にたいのか?」
「もちろん呪いを解きたいが、お前を信用できない」
「信じる以外あんたに救いはないんだ。さあ、ジョンの呪術を解いて放すんだ」
 弦太郎は、部屋の隅で護衛に囲まれているジョンに近づいていった。
「ダメだ!」
 ゴフトが叫ぶと、弦太郎はバードたちに押さえられた。セタ呪術師だけあって力が強い。ジョンも再び護衛たちから喉元にナイフを突きつけられた。
「勝手なことをしてもらうと命はないぞ」
「お前だって呪いで死ぬんだぞ。オレに従うしかないだろ」
「小僧のくせに生意気なことをいいやがる。とにかくここで薬を造るまでは帰さないぞ」
「痛い、放せ」
 弦太郎は暴れた。
「大人しくなるまで地下室に閉じ込めた方がよさそうだな」
 ゴフトが部下たちに言った。
「そうしましょう」
「おい! そんなことしたら、お前らどうなるかわかっているだろうな」
「ヘヘへ、どうなるんだ?」バードが馬鹿にしながら言った。
「こうしてやる――」
 弦太郎は呪術を使ってパッと姿を消した。バードたちは突如弦太郎の姿が消えたので戸惑った。
「消えた――」
 バードたちは騒然とし、辺りをキョロキョロ見回した。その瞬間、ジョンにナイフを突きつけている護衛三人が「ギャーッ」という悲鳴とともに床にひっくり返って失神した。
「な、なんだ?」
 ゴフトは目を丸くして驚愕した。
「ハハハハ――」弦太郎は笑いながら姿を現した。「俺に逆らうとこうなるぞ」
「そいつを捕らえろ」
 ゴフトが叫んだ。バードたちが弦太郎に向かっていくとパッとまた姿が消えた。
「どこだ、どこだ――」男たちはキョロキョロと周辺を見回した。
「ギャーッ」
 その瞬間、三人は奇声をあげて床にひっくり返って失神した。また弦太郎が姿を現した。
「お前たちがいくら向かってこようとムダだ、ハハハハ」
「畜生――」
 ゴフトは、とんでもない男を屋敷に呼び入れてしまったと今になって気づいた。もう〝呪い〟を解くどころではないと直感した。
 そのとき執事のブルがジョンの背後にサッと回りこみ、頭にピストルを突きつけた。
「お前が姿を消したら、その瞬間こいつの命はないぞ。止まれ!」
「ウッ――」
 弦太郎は動きを止めた。
 ヤンは、弦太郎がブルに注意を向けている隙に、ソファーの下に隠されていた二丁のショットガンを取り出し、一丁をそっとゴフトに渡した。ゴフトとヤンはショットガンを弦太郎に向けた。弦太郎は背後から殺気を感じ振り返ると、自分に銃口が向けられていた。
「わっ、マズイ!」
 ゴフトは連射式のショットガンの引き金を引いた。
 ダダダダダダ――
 弦太郎は間一髪呪術を使って姿を消した。
「また消えやがった。手当たり次第撃つんだ」
ゴフトとヤンは部屋中、デタラメに撃ちまくった。
 ダダダダダダ――
庭の見える大きな一枚ガラスは音をたてて割れ崩れ、花瓶が割れ、置物は破壊され、飾り棚は崩れ、シャンデリアは床に落ち、壁に穴があき、部屋中無残に破壊された。
 カチ、カチ――
 二人のショットガンの弾が尽きた。
「死んだか」
 ゴフトは小さく呟き、部屋中を見ました。そのとき、床に伏せっていたブルの真横で、ポカンと突っ立っているジョンの姿が目に入った。
「そいつを殺すんだ!」
 ブルはゴフトに命令され、ジョンにピストルを向けようとしたその瞬間、〝バシッ〟という電撃音とともに、ブルは床から跳ね上がり意識を失った。
 弦太郎が姿を現した。
「ハハハハ、ここに残るはお二人さんだけだ。銃を床に置いて手を上げるんだ」
弦太郎はジョンの肩に手を回し、余裕の笑みを浮かべた。しかし弦太郎は電撃の術を使い過ぎで極度に疲労していた。これ以上電撃の術を使うと、ジョンを背負ってここから脱出することができなくなる。それに邸内にはゴフトの弟子がまだどれほどかいて、そいつらが襲ってくるかもしれない。
「ク、クソ・・・・」
 ゴフトは弦太郎の呪術の前に抵抗することを諦め、弾の尽きたショットガンを床に捨て、両手をあけた。ヤンも同じようにショットガンを床に落とし両手を挙げた。
「私たちの負けだ。これ以上呪術を使うのはやめてくれ。私たちはもうなんら抵抗をしない。許してくれ。もし、もしもだ、君が私の命を奪ったら、誰がジョンの呪術を解くんだ。よく考えてくれ。呪術を解いてあげるから命だけは助けてくれ――」
 ゴフトは泣きつくように言った。
「私は体が自由に動かせない。ジョンの呪術を解くからこのソファーまで連れてきてくれ」
「オレたちを絶対解放するんだな。それと、これ以後オレたちに近づかないことを約束するな」
「ああ、わかった。もちろん約束する」
 ゴフトは人が変わったように低姿勢になった。ヤンは、ゴフトの様子を横目で見ながら、内ポケットにあるジャックナイフに意識を向けていた。
――男がこちらに近づいて背中を向けたとき、その隙を狙って一突きしよう。
「私はジョンの呪術を解くし、君らを市内まで車で送って差し上げよう」
「本当だな」
「本当だとも。さあ、ジョンをここまで連れてきてくれ」
「ああ――」
弦太郎がジョンをゴフトのそばに連れて行こうとしたとき、
――ピー
不気味な音を耳にした。弦太郎はレイの言葉をハッと思い出した。
――もしや、風の精霊が近づいているのか? ここに来る前、マガラの香水を塗ったから大丈夫だろう。あっ、そうだ、ジョンが危ない。
弦太郎はポケットからマガラの香水の小瓶を取り出し、急いでジョンに塗りたくった。ジョンは正気を失ったままでボーッとしている。
「――あっ、風の精霊がくるわ!」
 ヤンもその音に気がついた。周囲を見渡すと部屋のガラスが破壊されていた。
「大変! 風の精霊が部屋に入ってくる。すぐに地下に逃げないと! ボス、車椅子に乗ってください、早く! 風の精霊がくるわ!」
 しかしゴフトは敏捷に動くことができなかった。
「う、動けない」
 ゴフトは、弦太郎がジョンにマガラの香水を塗っているのを目にしてハッと気がついた。
「俺もマガラの香水を持っている!」
 ポケットを探ると小瓶があった。それを掌に振りかけ体に塗りたくり、急いでヤンにも香水を渡した。そのとき、生暖かい突風が部屋に吹き込んできた。
「来る!」
 弟子の男たちは弦太郎の電撃ショックから意識を回復しかけ、ゆっくり体を動かし始めていた。
「伏せろ!」
 弦太郎はジョンの腕を引っ張り床に伏せさせた。
 ゴオオオオ――
 強烈な風が轟音とともに室内に入り込んできた。ゴフトの弟子たちは風に舞う枯葉のように風の精霊に吹き飛ばされた。ゴフトもヤンも同じように吹き飛ばされた。
 第一波が去り、すぐに第二波が吹きつけてきた。弦太郎は床に伏せっていたが、風の精霊の強烈な風圧に体勢を崩し床の上をコロコロと転がった。弦太郎は自分が狙われているような気がした。
――マガラの香水をかけているのにどうして襲ってくるんだ。
第二波が止み、すぐに第三波が襲ってきた。最初の威力よりも強烈な風だった。弦太郎は体を丸め必死に臍を守った。しかし、風力で飛ばされて壁に体を叩きつけられた。
――殺される・・・・。
 弦太郎は死を感じる恐怖を感じた。そのとき、何者かが体に覆いかぶさって守ってくれた。風が吹きつけてきても風力を感じない。その後、さらに第四波、第五波と風の精霊が執拗に襲ってきたが風力を感じなかった。
 ピー――
 風の精霊は去っていった。
 弦太郎が目を開けると、背後にアディー爺が覆いかぶさっていた。
「弦太郎さん、大丈夫ですか」
「アディー爺、いつの間に・・・・」
「弦太郎さんのことが心配で、レイの車で追跡しました。風の精霊が来たので、もしや、と思い駆けつけてきました」
「ありがとうございました。また命拾いしました・・・・。でも、どうしてマガラの香水をつけていたのに風の精霊はぼくを襲ってきたんでしょう・・・・」
「弦太郎さんはレラ呪術師、呪力が強いので風の精霊に集中的に狙われたのでしょう。香水をかけていても百パーセント安全というわけではありません」
 弦太郎は立ち上がろうとしたが脚に力が入らずふらついた。
「大丈夫ですか」
 アディーに支えられ立ち上がった。
「電撃の術を何回も使ってただでさえ力を浪費していたのに、さらに風の精霊にも攻撃されてフラフラです・・・・。そうだ、ジョンは大丈夫かな」
「ジョン――」
アディは床に臥せっているジョンを介抱した。
「意識はあるようですが、なんか様子がおかしいですね」
「ジョンはセタ呪術師のボスに、変な呪術をかけられています」
「じゃあ、このまま担いでいくしかしょうがないですね――」
 アディーは周りの無残な状況に眼を向けた。
「ヒドイことになりましたね」
 部屋の中はセタ呪術師たちが、車に轢かれた動物の死体ようにグッタリとひっくり返っていた。みなの顔は鉛のような色をしていた。
「変な顔色になっている・・・・」
 弦太郎が呟いた。
「彼らは風の精霊に呪力を奪われたのでしょう」
 アディーは冷静な口調で言った。
 ゴフトもうつ伏せにバッタリと倒れていた。巨万の富を築いたセタ呪術師のボスの最期は惨めだった。
「彼もマガラの香水をつけていたのに、どうして殺られたんだろう?」
「どうしてなんでしょう・・・・。香水の効力が弱かったとしたら、もしかしたら薄めてあったんじゃないでしょうか」
「確かに、ジョンが売ったものだから、薄めてあってもおかしくない」
「さあ、ボヤボヤしていないで早く行きましょう。外でレイが車で待機しています」
しかし弦太郎は動く体力が残ってなかった。
「力が入りません。どうしましょう・・・・」
 アディは細い老体にジョンを背中に担ぎ、弦太郎も背中に掴まらせた。
「しっかりと掴まってくださいね」
「アディー爺大丈夫ですか」
「呪術を使いますから」
アディーは二人を担ぐと細い体にどこにそんな力があるのか、瞬くようなスピードで駆け出した。普段のスローモーな動きからは考えられなかった。
「ウアア――」
弦太郎はアディにしがみつきながら目を丸くした。
前方には高い塀が立ちはだかっていた。その塀をアディは二人を背負ったままヤモリのように高速で這い上り、塀の外に飛び降りた。外にはレイの車が待機していた。
「早く乗って」
レイに促され、三人は車に飛び込んだ。ドアを閉めた瞬間、レイはアクセルを吹かしてゴフト邸から猛スピードで離れた。


   十二
 日中、ホームはガランと静まっていた。
 弦太郎は一人、居間の板床の上でゴロンと横になり、握りこぶしサイズの宝石の原石を撫で回していた。青い氷砂糖のような原石は半透明に透き通っている。弦太郎はそれが何の宝石か皆目見当がつかなかったが、直感的に貴重なものであることは想像できた。
 コト、コト、コト――
 誰かがやってくる音を耳にし、弦太郎は物憂げに上体を起こした。
「あら弦太郎、いま一人?」
 長い脚を露出したミニスカート姿のレイが入ってきた。弦太郎はパッと目を見開き、快活さを装って声を張った。
「やあ、レイ。いま一人だ。他に誰もいない。みんな診療所に行ってるから」
「ジョンはまだ診療所から帰ってこれないんだ」
「ジョンは当分入院がつづきそうだね。虚ろにボンヤリしたままだから。デーン先生が懸命に治療にあたっているけどよくならないみたい」
「デーン先生が治療できないって、どういうことかしら?」
「セタ呪術師のボスの呪術は思いのほか強烈だったみたいだね」
「呪術っていっても相手はセタ呪術師でしょ? どんなことができるのかしら」
「ボスの爺さんはサロ呪術師の長老とやらに呪術を教わったようだ」
「サロ呪術師っていうのもよくわからないわ」
「いろいろと謎が多いね。師匠に訊くしかなさそうだ」
「そうね。――それで、弦太郎の方はどうなの、体の調子は?」
「オレはセタ公に呪術なんかかけられなかったけど、あの屋敷に行ってから、なんだか体がだるいんだ。それほど悪いとは思わないんだけど」
「大丈夫なの? そういえば、風の精霊に執拗に襲われたって言ってたね」
「アディ爺が助けてくれなかったらあの世に行ってたよ」
「あなたが一人で行くって言ったとき、なんか嫌な予感がしたから、あたしがアディ爺を誘って車で追跡したのよ」
「そうだったのか。まったくレイのおかげだ。感謝するよ」
「心配だったからね」
 レイは弦太郎の隣に腰を下ろした。弦太郎はチラッとレイを一瞥し、彼女から漂う甘い香りを鼻腔に感じた。ホームには二人きりである。レイを抱きしめたい衝動に駆られたが、理性でぐっと押しとどめた。二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「弦太郎はどう思う?――」レイが沈黙を破り、考え込むような口調で言った。「前から誰かに話したかったことなんだけど」
「何だい?」
「呪術師ってすごい能力があるでしょ。最初は楽しかったけど、それ以上に大変なことがいろいろあるってだんだんわかってきて・・・・。わたしたちは風の精霊に一生追われて生きてゆかなければならない。呪術師は本当に幸せかってよく考えるの」
 弦太郎も風の精霊のことを考えると気持ちが重くなった。あのような恐ろしい存在がこの世にいるなんて想像もしていなかった。だけどレイには明るく前向きなことを答えたかった。
「ハハハハ、風の精霊なんか、ちょっと気をつけていれば大丈夫さ。マガラの香水もあることだし。そんなに深く考えることでもないよ」
「弦太郎は快活でいいわね」
「だってオレたち呪術師は、風の精霊のことを除けば自由な存在じゃないか。呪術も使えるわけだしさ。呪術師の楽しみも人間の楽しみも両方味わえる」
「そうねえ、人間と同じように恋愛だって結婚だってできるんだよね」
 弦太郎はレイの口から『恋愛と結婚』という言葉が出て一瞬ドキリとした。
「結婚か・・・・」
 弦太郎は小さく呟き、含み笑いをした。
「何が可笑しいの?」
「いや、いや、なんでもないよ」
 弦太郎は宝石を撫で回しながら、彼女に自分の下心を読まれないよう感情を押し隠した。
「何、その石?」
 レイは、弦太郎の手の中の石を指差して言った。
「これ? 見る?」
 弦太郎はレイに宝石の原石を渡した。
「きれいね――」レイは石を眺め、目を輝かせた。「どうしたの?」
「これはジョンのポケットに入っていたんだ。セタ呪術師の屋敷で風の精霊に襲われて部屋中が散乱したんだけど、ジョンはモヌケのような状態だったのに、棚から転がっていたこの石をこっそりポケットに入れたみたいなんだ。そういうところはしっかりしてるよ」
「ヘェー」レイも石を撫で回した。「サファイアの原石みたいね」
「えっ、サファイアの原石なの?」
「多分ね。すごく貴重なものよ」
「あのセタ呪術師のボス、悪いことして金をたんまり貯めていたみたいだから、高価なものかもしれないね」
「買ったのかしら、盗んだのかしら?」
「どうだろうねえ。どちらとも言い難い。危険人物だったから」
「変な呪いが込められているかも、フフフフ」
 レイが石を弦太郎に返そうとすると、弦太郎は言った。
「レイ、よかったら、それあげるよ」
「え?」
「オレがそんなもの持っていたってしょうがないからさ」
 弦太郎は何であれレイに贈与できることが嬉しかった。レイはしばらく石を眺めて言った。
「いらないわ。盗んできたもの」
「盗んできたものだろうとなんだろうと持ってなよ。売ればお金になるだろうし」
 弦太郎は無理に勧めた。
「いや、いらない」
 レイは石に触れようともせず、頑なに拒否した。
「どうして? 持っていたらいいのに」
「いらないものは、いらない――」
 二人が石をめぐってやりとりをしていると、
「――ただいま」
 元気にハムが帰ってきた。ハムは部屋にレイがいることを目にすると露骨に不快な表情になった。
「あら、来てたんだ」
 弦太郎は場の空気が悪くならないよう努めて陽気に振舞った。
「ジョンはどうだった?」
「今日はね、薬草で作ったオイルでマッサージしたり、鍼を打ったりしたけど、やっぱりダメだった。ポカンとしたままね」ハムが答えた。
「そうか、やっぱり師匠がきてくれるのを待つしかなさそうだ」
「じゃあ、そろそろ――」レイが立ち上がった。「ジョンの経過を聞いたから失礼するわ」
「そうね。その方がいいわ」
 ハムは、レイが去ることが嬉しいと言わんばかりの対応をした。
「レイ、もうちょっとゆっくりしていったらいいじゃないか。ハム、コーヒーでも入れてあげてよ」
 弦太郎が呼び止めた。
「本人がもう帰るって言ってるんだから、いいじゃありませんか」
「あたしは用事があるからコーヒーは結構。じゃあね――」
 レイが出て行こうとした。
「いまからどこに行くの?」
 弦太郎は呼び止めるように訊ねた。
「仕事よ、仕事」
 レイは部屋から出て行った。レイが部屋からいなくなると、場はしんと静かになった。ハムは弦太郎と目が合うとにっこりと意味もなく微笑んだ。弦太郎はハムから目を逸らせた。
「ん?」
 ハムは弦太郎がきれいな石を手にしていることに気づいた。弦太郎はハムの視線が石に向けられていることを察知し、そっと掌に石を隠した。
「あら、弦さんの手にしているその石なに?」
 ハムは弦太郎の隣に腰を下ろし、顔を寄せてきた。
「ただの石コロだよ」
 弦太郎は隠し切れないと悟り、掌から石を出した。
「綺麗な石じゃない。ちょっと見せて」
「つまらないものだから、見なくていいよ」
「いいから――」ハムは弦太郎の手から石をさっと取り上げた。「綺麗じゃない。これどうしたの?」
「拾ったものさ」
 弦太郎は面倒くさそうに答えた。
「ヘェー、どこで拾ったの?」
 ハムはさらに踏み込んできた。
「山の中だよ」
「どこの山?」
「知らないよ、山に住所なんかないだろ。うまく説明できない」
「ヘェー、スゴイわね。弦さん、これ気に入ったわ。あたしにくれない?」
 ハムは甘えるように言った。
「ダメ、ダメ、ダメ。これは大切なものだから。それにこの石は奇妙な呪力を持っているかもしれなくて危険なんだ」
「大丈夫よ、あたしも呪術師の端くれ、呪力なんて吹き飛ばしてやるわ」
 ハムは笑い飛ばすように言い、石をポケットに入れようとした。
「ダメだって言ってるだろ。師匠から預かってるものだから怒られる」
「あら、さっきは山で拾ったって言っていたくせに」
「説明するのが面倒だからそう言っただけさ。本当は師匠から預かっている物なんだ」
 弦太郎はハムが諦めるようタムの名前を出し、ハムの手から石を奪い返した。
「まったく弦さんたら、ケチなんだから」
「ケチという問題じゃないだろ。師匠からの預かりものなんだから」
「本当かしら。じゃあ、その石でなくてもいいから、なんかあたしにプレゼントしてくれない?」
「なんでハムにプレゼントしなくちゃいけないんだ」
「あらヤだ、そんな冷たい言い方して。いつも身の回りの世話をしてあげてるのに、ウフフフ」
 ハムはそう言って弦太郎の腕に絡みついてきた。
「おいっ、何だよ。馴れ馴れしくするな」
弦太郎は、迫ってくるハムを振り払った。
「何よ、弦さんったら。女性に対してずいぶん暴力的ね」
「暴力なんかじゃない――」
 そのときスッとタムが部屋に入ってきた。
「あっ、師匠、お久しぶりです」
 弦太郎とハムはさっと距離をとり、姿勢を正して挨拶した。タムは何も言わずに床に腰を下ろした。
「食事の支度をしてきます」
ハムは、弦太郎と二人きりのときとはうって変わってしおらしく振るまい部屋から出て行った。
「――なにがあったんだ?」
 タムは弦太郎の目を見つめ説明を求めてきた。弦太郎はセタ呪術師とのことだとピンときた。
「あ、あ、そうなんです。師匠のいない間にたいへんなことが起こりまして・・・・。他の派閥の呪術師との抗争に巻き込まれました」
 他の派閥の呪術師との交流は禁じられていたのであまりを報告したくなかったが、そこを通らずにジョンの病態のことを説明できそうになかったので正直に話すしかなかった。タムはいたって平然としていた。
「どうして抗争が始まったんだ?」
「ええ・・・・、抗争の原因は、ジョンのやつがマガラの香水をセタ呪術師の組織に横流ししていたことから始まりまして・・・・」
「ジョンの行動を管理しているのは親分の責任だろ」
 タムの口から一番痛いところを突かれて弦太郎はうろたえた。
「いや、あのお、ジョンは夜中でも出歩いていたらしくて」
 弁明しようとしたが、タムはピシャリと言った。
「お前はそんなことわかっていたはずだ」
「は、はい」
 弦太郎はタムにはすべて見透かされていると恐縮した。
「前にも言っただろ――」タムは注意を促すよう言った。「他の派閥の呪術師と接触すれば大きな代償を負うとな」
「代償・・・・、確かに」
「しかし、生きてゆく上で、他の派閥にどうしても近づかなければならないこともあるだろう。そういうときは、それなりの覚悟を持って接触した方がいい」
「それなりの覚悟というと?」
「危険を負うという覚悟だ。だが、どんな損害を被ったとしても命さえ失わなければ、後にそれは挽回できるだろう。自分の作った借金は自分で返すだけだ。それが呪術師の道だ」
 弦太郎は恐縮し、タムを上目づかいで眺めた。
「師匠、その代償のことなんですが・・・・。ジョンがセタ呪術師のボスに呪術をかけられまして、抗争以後ずっと放心状態なんです。デーン先生も賢明に治療に当たっていますが回復しません。だから師匠に診ていただきたいのですが」
「セタ呪術師が呪術? セタ呪術師にそんなことはできない」
「でも、実際、ジョンは放心状態のままです。それに、そのボスが言うには、サロ呪術師の長老から教えを受け呪術を習得したと言ってましたが」
「ハハハハ、サロ呪術師にしても呪術なんぞ使えやしないさ。サロ呪術師は確かに賢い呪術師ではあるがたいした呪術は持っていまい」
「師匠はサロ呪術師のことをご存知ですか?」
「山岳地帯を縄張りにして、人間とは一切関わりを持たず生活している呪術師だ。人間から見れば山岳少数民族に見えるだろう」
「師匠はサロ呪術師にイニシエーションを与えたことがあるんですか」
「ワシはサロ呪術師とは関係ないな」
「じゃあ、どうして知ってるんですか?」
「サロ呪術師の縄張りは自然環境が守られている。だから貴重な薬草の宝庫であり、薬草採りに欠かせない場所だ。ワシはそこに行くことがあっても彼らと接触したことがない。だから彼らの詳しい生態はまったくわからん。だが、呪術師としてたいしたことがないことはわかる」
「そうですか――。セタ呪術師もサロ呪術師も特別呪術を使えるわけじゃないんですね。じゃあ、どうしてジョンはあんなふうになってしまったんでしょう?」
「肉体の損傷でなければ何だろう。大方、催眠術か何かだろうな。心のトリックだ」
「催眠術? 師匠、一度ジョンのところに行って治していただけますか」
「デーンが治せないのなら、ワシが行っても同ンなじだ。ワシは呪術のことはわかるが催眠術のことはわからん。治すためには、そのセタ呪術師のボスとやらにもう一回会って、催眠術を解いてもらうしかないだろうな」
「生憎そのボスは風の精霊に襲われて死んでしまいました」
「それは困ったな。じゃあ、サロ呪術師の長老という奴に会いに行ったらどうなんだ? そのボスとやらはサロ呪術師の長老に催眠術を習ったんだろ?」
「サロ呪術師の長老に会いに行く? 師匠はサロ呪術師の長老のことを知ってるんですか」
「見たこともなければ話したことももない。だが、彼らの住んでいる場所は知っている。会うのはそれほど難しくないだろう。現在、サロ呪術師の共同体は一箇所しかないはずだ」
「遠いんですか?」
「辺鄙な山奥だ。やすやすと行ける場所ではない。それにサロ呪術師は攻撃的だ。部外者が縄張りに入ってくると襲撃してくるだろう」
「じゃあ、呪術を使って姿を消して行かないといけませんね」
「姿を消したとしても、最終的には長老という奴に会わなくてはいけないんだろ? もっともジョンは姿を消せないだろうし。堂々と入っていくしかないだろう」
「友好的にならなくてはいけませんね」
「呪術師であることが彼らにバレると確実に殺されるだろう。人間として振舞った方がいい。そのためには彼らになにか贈り物をしたないといけないな」
「贈り物ですか? 何がいいでしょう」
「サロ呪術師は経済的に困窮しているから金を積んだらどうだ?」
「金なんか用意できるわけありませんよ」
「じゃあ、なにを贈ればいいか・・・・」
タムは弦太郎が握っている石を見た。
「それをやったらいいんじゃないか。サロ呪術師はそういった宝石類が大好きだからな」
「これですか? これはセタ呪術師のボスのところでジョンがかっぱらってきたものですが」
「ちょうどいいじゃないか。ジョンが自分で贈与品を用意したんだから。それも何かの縁だ」
「それじゃあ、サロ呪術師の村に人間として潜入し、これを長老に贈りましょう。――師匠も一緒についてきてくださるんですよね?」
「ワシが行かないとお前一人でたどり着けないだろ」
「よかった、師匠がいてくれると心強いです」
「だがワシはお前の問題には一切干渉はしない。ジョンの面倒もサロ呪術師との交渉も、すべてお前が一人でやるんだ」
「はい、わかりました。厄介そうですが・・・・」
「自分で起こした問題は自分で処理するのが呪術師の道だ。ジョンの起こした問題はお前の責任だ」
「はい。――師匠、それと、もうひとつ、ぼく自身で困っていることがありまして」
「何だ?」
「風の精霊に襲われまして危うく死にかけました。アディ爺が助けてくれたのですが、それからというもの体がだるくて。どうしたらいいでしょうか」
「それは肉体の問題じゃない。お前の呪力に傷がついたんだ」
「呪力に傷ですか。何か薬はありますか?」
「唯一治すとしたら、力のキノコだな」
「力のキノコ? どこに行けば手に入るんですか?」
「それもサロ呪術師の縄張り近くの山にある。ちょうどいいじゃないか、お前の治療も兼ることができて。どうやらお前はサロ呪術師の村に呼ばれているらしいぞ、ハハハハ」
「呼ばれているんですかねえ・・・・。じゃあ、いつ出発しましょう。師匠のことだから、明日出発とか、どうせ急なことを言うんでしょ?」
「時は逃したらいけないからな。明日じゃ遅すぎる、今からだ」
「今から? だって今はもう昼の三時ですよ。これからだと夜の移動になりますよ。明日の朝に出発でいいんじゃないですか」
「前にも言っただろ。呪術師は時のタイミングを逃さないとな。今といったら今しかないんだ。急いで出かける用意するんだ」
「は、はい――」
タムと弦太郎は簡単に荷造りをして出発した。


   十三
空は白々と明るみかけていた。
弦太郎はデーンから借りた車で、一晩かけてミャンマーとの国境沿いの小さな町にやってきた。助手席にはタムが座っており、後部座席にはジョンが寝そべっている。
「サロの村はこの辺りですか」
 弦太郎は眠い目をこすりながらタムに訊ねた。
「こんなわかりやすいところではない。彼らは人間社会とは孤立した場所で生活していると言っただろ。この町からさらに山の中に入ってゆくんだ」
弦太郎は舗装路から未舗装の山道へハンドルを切った。ガタガタ道を数十分走ると走行不能になった。
「師匠、もうこれ以上進めそうにありませんが・・・・」
「じゃあここからは歩きだな。さあ下りよう」
 二人は車から下りた。
「ハアー、長かった――」
 弦太郎は深呼吸をし、長時間の運転で硬くなった体をほぐした。
「ここからはもっと大変だぞ」
 タムは、後部座席で涎を垂らしながら寝ているジョンを車から引き摺り下ろした。
「ジョンはどうしますか?」弦太郎は訊ねた。
「どうするもこうするも、お前がこいつを担いで山道を歩くんだ。サロ呪術師の長老とやらに催眠術を解いてもらわないといけないんだろ」
 弦太郎は重そうなジョンの体を見て思わず苦笑した。
「さあ、ボヤボヤせずに行くぞ」
「は、はい――」
 弦太郎はジョンを背負った。ズシリとした重さで足元がふらついた。
「うわっ、重い――」弦太郎はタムをチラリと見た。「師匠、ちょっと言いにくいことなんですが・・・・」
「なんだ?」
「ぼくは体調が万全じゃありません。この前も話したように呪力に傷がついています。ジョンを引き受けていただけませんか?」
 弦太郎がお願いすると、タムは陽気に笑った。
「ハハハハ、何を甘ったれたことを言ってるんだ。ジョンはお前の子分だろ。面倒を見るのはお前の役目だ。ワシは案内するだけだ」
「そうですか・・・・」
「この荷物は持ってやる」
 タムはリュックを担いだ。リュックの中には、ここに来る途中に酒屋で買ったウィスキーが数本入れられていた。
「出発するぞ。車の場所を忘れるなよ――」
 タムが先導し山の奥へ入っていった。
「サロ呪術師は規律の厳しい共同生活を送っている。よそ者に対しては異常に警戒心が強い。個人的に打ち解けるのは不可能だと思ったほうがいいな」
 タムが歩きながら話した。
「サロ呪術師の長老に無事会えますかねえ・・・・」
「昨日も言っただろ。だからこうやって宝石やウィスキーを用意してきたんだ。やつらは贈答品に弱いからな」
「それを渡せば警戒心が解けるってわけですね。でも、そんなに上手くいきますかね?」
「やつらは警戒心は強いが根は単純だ。お前みたいにヒネくれていない、ハハハハ」
「サロ呪術師と会うときには、呪術師としてではなく人間として接触するんでしたよね」
「ああ、そうだ。呪術師には容赦しないからな」
「攻撃してきた相手を呪術を使って撃退してやったらどうですか?」
「そんな騒動を起こしたら長老にどうやって会うんだ?」
「じゃあ、ジョンが回復した後だったら、戦いを挑んでもいいんですか?」
「お前はずいぶんと好戦的だな。お前一人だったら確かに姿を消してどうにでも逃げられるだろうがジョンもいるんだぞ」
「ジョンは走るのが速いですよ」
「サロ呪術師の縄張り内では、細かく張り巡らされた情報網を使って集団で襲ってくる。逃げ切れるわけがない」
「せめてジョンが透明の術を使えたら・・・・」
「とにかくサロの縄張りでは一切争うな。人間として大人しく行動するんだ」
「はい、わかりました。――で、買ってきたウィスキーはどういうタイミングで、誰に渡したらいいんでしょう?」
「サロの縄張りに入れば、嫌でもサロ呪術師に会う。そいつに酒を飲ませて機嫌をとるんだ。うまく機嫌をとって警戒心を解き、長老のところに案内してもらったらいい」
「なるほど。最初の下っ端には酒なんですね」
「宝石は長老への贈り物だ。ジョンを治してもらうお礼のな」
「でも、こんな安ウィスキーで大丈夫ですかね?」
「サロ呪術師は質素な生活を送っている。彼らにしてみれば外部から持ち込まれたモノは贅沢品だ」
「これが贅沢品に見えるんですね、なるほど」
「村へ行く理由を問われたら、村に優れた呪術師がいると噂を聞いた。病にかかった友人を診てもらいたい。長老へのお礼に宝石も用意している、と言えばいいだろう」
「すんなりと長老を紹介してくれますかねえ?」
「サロ呪術師はキラキラした物が大好きだ。宝石を見せると興味を持つに違いない」
「とにかく、うまく酔っ払わせないといけませんね」
 二人は数時間、山の中を歩いた。弦太郎は疲労で呼吸が荒くなり、ジョンを背負ったまま足を止めた。
「し、師匠、もう限界です。ハア、ハア、ハア――」
 弦太郎は声を出すのも辛かった。昨晩は一睡もせず車を運転し、今は急な山道をジョンを背負って歩いている。タムはそんな弦太郎を涼しげに眺めながら言った。
「〝力のキノコ〟までもうすぐだぞ」
「例の〝力のキノコ〟? ぼくの傷んだ呪力はそれで癒されるんですね。そいつはどこですか?」
「あそこだ――」
 タムは前方の切り立った崖を指差した。
「あそこですか」
「もう少し歩くんだ」
「はい――」
 崖の手前までくるとタムは足を止めた。
「ジョンをひとまずここで下ろすんだ」
弦太郎はジョンを下ろし、木の幹に寄りかかるように座らせた。
「キノコはどこですか?」
「崖の岩場に自生している」
「ここを登るんですか」
 弦太郎は絶壁の高い崖を見上げた。
「そうだ」
「師匠、採ってきて頂けませんか。もうぼくは動けません」
「お前はいつも甘ったれたことを言うんだな――」タムは呆れたように言った。「力のキノコは新鮮であればあるほど効果が高い。一緒にくるんだ」
「は、はい・・・・」
「呪術を使って姿を消せば、たいしたことはないだろう」
「はい、そうします」
弦太郎はしばらく休んで体力を回復させ、透明の術を使って姿を消した。呪術を使うと体が軽くなったが奇妙な疲労感はとれなかった。
「さあ、登るぞ――」
タムは絶壁の崖をヒョイヒョイと登っていく。弦太郎もそれにつづいた。
「――ここにあったぞ」
タムは崖の中腹の窪みから弦太郎に手を振った。弦太郎もようやくタムに追いついた。
「ずいぶん高くまできましたね」
 弦太郎は崖下を見下ろした。目が回るほどの高さだった。
「キノコはここだ」
 乾いた岩肌に真っ赤なキノコがみっしりと生えていた。
「ああ、これが力のキノコですか。ずいぶん強烈な色ですね」
「これを生で食べるんだ」
「生でですか?」
弦太郎は恐々一本引き抜き、赤いキノコをじっくりと観察した。
「毒々しい色ですね」
 タムに指示されなければ、絶対口に入れない色形をしていた。弦太郎は目をつぶって口に放り込み、ゆっくりと咀嚼した。独特のかび臭ささと渋さが口の中に広がった。すぐに吐き出したかったが無理やり飲み込んだ。
「あと四本食べるんだ」タムが言った。
「四本もですか・・・・」
弦太郎はタムの命令に従い、眉をしかめながらキノコを次々と食べていった。
「どうだウマかったか?」
タムは、すべて食べきった弦太郎に笑いながら訊ねた。
「・・・・・」
弦太郎は沈黙して目を伏せた。口腔は麻痺したように痺れている。いつになったら効果が現れるのかを訊きたかったが言葉を出すのも億劫だった。
「さあ、戻るか――」
 タムはすぐに崖を下りていった。弦太郎もそれにつづこうと体を動かしたとき異変に気づいた。
「ん?」
 さっきまで感じていた疲労感がすっきりと消え、力がみなぎっている。弦太郎は自然と笑いがこみ上げてきた。
「ハハハハ、こりゃすごい。師匠、もう効果が出てきましたよ」
 崖下を覗き込み、タムに声をかけた。
「力のキノコは即効性があるからな」
 タムは崖に張りつきながら答えた。
「こりゃスゴイ。もう一本食べてもいいですか」
 弦太郎は調子に乗って言った。
「力のキノコは食べる量を誤れば猛毒にもなる。あと一本でも食べたら命を落とすぞ」
「えっ、そういうものなんですか」
「そういうものだ。早く来い」
 弦太郎はまだたくさん生えている赤いキノコを名残惜しそうに見つめた。
「師匠――」弦太郎はまた下方を見下ろしタムを呼んだ。「師匠、力のキノコを今後の予備薬として少し採っていきましょうか?」
「余計なことはするな。必要なとき、必要な分だけ食べればいいんだ」
 タムに許可をもらえず、弦太郎はキノコに手を合わせて一礼し、崖を下りていった。
――ああ、力のキノコを持って帰りたいなあ。
 弦太郎はキノコのことを考えがら下りていると、あっけなく崖を下りきっていた。登りの時間の半分もかからなかった。
「力のキノコの効果はスゴイですね。体調は万全になりました。これだけ力があれば二晩でも三晩でも山の中を歩いていられますよ、ハハハハ」
 元気になった弦太郎は快活に笑いながら言った。ジョンをヒョイと担ぎ上げた。
「さあ、行きましょうか。――ん?」
 出発しようとしたとき、弦太郎は別の奇妙な感覚を覚え足を止めた。
「どうした?」
 タムは弦太郎の顔をジッと眺めた。
「何か呼ばれているような気がしますが・・・・」
弦太郎はキョロキョロと周りを見渡した。
「目を閉じて声をよく聞き、方向を確かめろ」
 弦太郎は目を閉じながら、体が引き付けられる方向を確認した。
「こっちの方向です。こっちの方向から呼ばれています。師匠、これは何なんでしょうか?」
「どんな感覚だ?」
「懐かしいような、くすぐったいような、それでいて温もりがあります」
「それは〝力の霊石〟の声かもしれないな」
「力の霊石?」
「お前は力が回復し、さらに感覚が研ぎ澄まされたようだ。どうやらこの近くにお前の力の霊石があるようだぞ」
「ぼくの力の霊石ですか?」
「そうだ。レラ呪術師は〝力の霊石〟を世界に一つだけ持っている。それとの出会いは重要だ。何年も自分の力の霊石を見つけられないレラ呪術師もいるが、お前は今日それに出会えそうだぞ」
「力の霊石に会うとどうなるんですか?」
「力の霊石に体を密着させると力を吸収できる。それは〝霊石メディテーション〟と呼ばれる」
「そういえばそんな話をサムから以前聞いたような・・・・」
「お前はサロ村とずいぶん縁があるらしいな。ここに導いてくれたジョンに感謝した方がいい、ハハハハ」
「師匠、ジョンの治療の前に、力の霊石の場所にちょっと寄ってもいいですか」
「じゃあ、そうするか。霊石の声のする方へ歩いていくんだ」
弦太郎はジョンを背負って歩き出した。その方向はいまから向かうサロの村の方向だった。数時間歩くと緑の濃い森に着いた。
「この辺りから、サロ呪術師の領土だ――」タムが言った。「今から会うすべての者はサロ呪術師だと思っていいだろう」
「注意しないといけませんね」
「中心にある村からだいぶん離れているから、まだ会うことはないと思うが。――お前の声の導きもこっちの方向か?」
「はい、こっちです」
「サロ呪術師の領土内にお前の力の霊石があるようだな。――じゃあ、進むか」
 尾根に向かって数時間歩いた。森林地帯から見晴らしのいい場所に出てきた。
「あっ!」
 弦太郎は巨大な球体の石が目に入った瞬間、大きな声で叫んだ。その巨石に近づけば近づくほど体が熱くなり胸の動悸が高鳴った。
「これだ!」
 それが自分の霊石であることを確信した。生き別れした肉親に会ったような気持ちだった。石に触れると体が小刻みに震えた。
「師匠、確かにこれです! これがぼくの霊石に違いありません」
「体全体を石に密着させてみるんだ。木の樹液を吸う セミのようにな。そうすればお前は力が与えられる。それが〝霊石メディテーション〟だ」
弦太郎はジョンを地面に下ろし、霊石に体を密着させた。
――ああ、なんという気持ちよさ・・・・。
 それは天にも昇る至上の心地だった。時間の観念が頭から消えてゆき、まるで石に溶け込むかのようだった。
「――もういいだろう」
 タムはすぐに弦太郎を強引に霊石から引き離した。
「いまは霊石のメディテーションを本格的にしなくてもいい。メディテーションのやり方だけマスターするだけで十分だ。ジョンの治療に行くことが先決だ」
「はい――」
 弦太郎はタムの言葉に頷きながらも、霊石を抱きしめたくてウズウズしていた。
「これから修行していく上で、いくたびか霊石メディテーションをしていくことになるだろうが、注意しなければいけないことがある――」タムは釘を刺すように言った。「いま感じたように霊石メディテーションは至上の体験だ。その快楽に執着して自分をコントロールできなくなることがある。とくに初心者はな。何度も話しているが、呪術師は呪力の魂の存在であると共に、人間の肉体でもある。霊石メディテーションは呪力の魂に力を与えてくれるが、肉体には何も与えてくれない。あまりの気持ちよさに食事することも排泄することも忘れ、肉体を滅ばしてしまう呪術師もいる」
「そうなりかねませんね」
 弦太郎は身を滅ぼす自分を明確にイメージできた。
「霊石メディテーションをする際は、必ず子分を随伴させ時間を決めて行うんだな。時間になったら子分に起こしてもらうんだ。そうしないとお前は石に張りついたままミイラになってしまうだろうから、ハハハハ」
「ミイラですか・・・・」
「もう一度言っておく。肉体を忘れるな」
「はい、わかりました。――あっ、そうか。だから以前サムが山から帰ってきたときに、痩せ細っていたんだ。あれは霊石メディテーションに夢中になって何も食べていなかったからですね」
「あいつも霊石メディテーションに夢中だからな。時間があればすぐに山に行ってしまう。まったくわかりやすいやつだ、ハハハハ」
「そういうことだったのか――」
「もう霊石メディテーションはわかっただろ? 先を急ぐぞ」
タムは尾根沿いを早足で歩き出した。弦太郎は力のキノコと同様、名残惜しそうに霊石を見つめた。離れがたい気持ちが強かった。
「弦太郎、早く来るんだ」
 前方を歩くタムに急かされ、弦太郎は泣く泣く霊石を離れた。
 数時間歩くと平地を見下ろす山の頂にたどり着いた。
「弦太郎、あれを見るんだ」
 タムは平地を指差した。そこには美しい部落があった。民家らしい建物が同心円上に並んでおり、チベット仏教の曼荼羅を見ているようだった。円形の村の外は青々とした田園が広がり、田園を囲む山々の斜面は段々畑になっていた。
「これがサロ呪術師の村ですか。ずいぶん高度な文明を持っていますねえ」
 弦太郎は感心したように言った。
「サロ呪術師は利口な呪術師だ。彼らが優れているのは外敵からの防御もさることながら、組織の秩序がしっかりしていること。規律が厳しく、伝統的がしっかり守られている。今でもほぼ自給自足の生活だ。管理しているのは村だけではなく、彼らの領土全体だ。彼らが手入れする山や森は動物たちの楽園だ」
「サロ呪術師の領土に入るとずっと大木が生い茂っていましたね」
 弦太郎は峰から三百六十度全方向を見渡した。サロの村の反対を見下ろすと、山に囲まれた紺碧の湖が広がっていた。
「こっちには神秘的な湖がありますね。美しいなあ」
 湖は白い靄が薄っすらとかかり、霊妙な雰囲気を漂わしていた。
「誰の目にもつかないところにこそ神秘が宿るもの。この湖は人間が誰も入ってこないゆえに、不思議な力を蓄えている。言わば〝力の湖〟だ。お前も今後、世話になることがあるだろう」
「力の湖ですか・・・・」
 弦太郎はしばらくぼんやりと湖を眺めた。
「しかし、どうしてセタ呪術師のボス・ゴフトがこんなサロ呪術師の村にいたんでしょう」
 ゴフトの顔が頭に浮かんだ。
「大方、サロ呪術師が門番代わりに使われているんだろう。セタ呪術師は腕っ節が強いからそういう役回りの者がいてもおかしくない。そんなことより、サロ呪術師の組織はどんな奴がとり仕切っているのか。イニシエーションを誰がどのように授けているのか、それがわからんな」
「イニシエーションを授けられるのはウペウ呪術師だけですよね?」
「一般的にはな。だが、例外もある。そういう特殊な呪術師がこの村を仕切っているのかもしれない。警戒したほうがよさそうだ」
「師匠はまったくサロ呪術師と接触したことがないんですよね?」
「存在は知っているが詳しい事情はさっぱりわからない。接触しても何の得にもならないからな」
「じゃあ、ゴフトのいうサロ呪術師の長老とは何者なんでしょう?」
「そいつが呪術師を取りまとめている鍵を握ってそうだな。ジョンの治療に成功したら、すぐに逃げたほうがよさそうだ。何をされるかわからないぞ。サロ呪術師一人ひとりはそれほど恐れるほどでもないが、呪術師の長からは危険な臭いがする」
「危険な臭いですか。そんな厄介なところへ行かないといけないんですね。ジョンには面倒ばかりかけさせられる」
 弦太郎は、阿呆のように放心状態のジョンを見つめた。
「じゃあ、幸運を祈る」
 タムはきた道を戻り出した。
「師匠、どいうことですか?」
「ワシはここでオサラバだ」
「えっ、ここで?」
「もうワシはお前に必要な知識はすべて伝えた。ワシの役目は終了だ」
「そんな急に・・・・」
「じゃあな――」
 タムは振り返ることもなく去って行った。
「ああ、師匠、行ってしまった・・・・」
弦太郎はタムがいなくなると無性に心細くなった。
――使命が貫徹できるだろうか・・・・。
 時間を確認すると、もう昼の三時を回っていた。今から村まで下りていくと暗くなってしまうだろう。明日、村に入るとにしても、できるだけ近くまで近づいておきたい。弦太郎はジョンを背負って足早に山を下りていった。


   十四
 尾根沿いを歩いているときは樹木をあまり見なかったが、山を下っていくと次第に深い森になった。大人五人が両手で抱えきれないほどの幹周りの大木があちこちに根を下ろしている。
「立派な木だなあ」
 弦太郎はある一本の巨木を見つめ空を見上げた。高い巨木は枝葉の手を広々と伸ばし、緑の葉が空を覆っていた。
 プオ、プオ、プオ、ポポポポ――
 何かの動物の鳴き声がどこからか聞こえてきた。その声が右から聞こえたと思ったら左から聞こえ、左の方に耳をすませると今度は前方から聞こえてくる。まったく音源の方向が予測できない。音は次第に近づいてくるようだった。
「何の動物だろう。鳥だろうか、獣だろうか?」
 弦太郎は立ち止まり、空を見上げてキョロキョロした。
 ガサ――
 至近距離の背後から音が聞こえた。弦太郎は身を硬直させてさっと振り返った。そこには森から滲み出してきたような野性的な男が一人立っていた。男は小柄で肌の色は浅黒く、上半身裸であった。――コイツはサロ呪術師に違いない。
 弦太郎は直感的に思った。
 男は無表情で一種トボけたような顔をしていたが、大きな目が異様にギラギラしており、近寄りがたい空気を醸し出していた。弦太郎は相手を挑発しないよう笑みを作り挨拶した。
「やあ、こんにちは」
 男は挨拶を返さず、ゆっくりと近づいてきてぶっきらぼうに言った。
「ここで何をしているんだ」
 弦太郎はタムから教えられたとおり話を進めた。
「ぼくの友人が病気なんです。彼は正体不明の病気に罹りまして、病院に行っても一向に快方に向かわず、医者に見離されました。どうしようかと悩んでいたとき、この近くの村に優秀な呪医がいるとの噂を聞き、彼を背負って遠くからやってきました。この辺りに住む優秀な呪医について何かご存知でしょうか?」
 男はジッと弦太郎の目を見つめ、嘲笑うかのような調子で言った。
「呪医?」
 男は、クチャクチャ噛んでいたキンマの葉っぱを唾液といっしょにペッと地面に吐き捨てた。葉っぱで色付けされた赤い唾液が木の幹を染めた。
「そのためにわざわざ遠くから男を背負って歩いてきたのか?」
「一か八かその呪医に賭けてみようと思いまして」
「ほお――」
 男は弦太郎の言葉に相槌を打ちニヤリと笑うと、突然「コオーッ、コッコーッ」と奇妙な甲高い声を出した。弦太郎は耳を突くようなその声に驚き、二三歩後ずさりして小さく呟いた。
「な、何だ?」
 男は、驚いた弦太郎を気にすることもなく、また口から赤い唾液をペッと吐き、小馬鹿にしたようにニヤッと笑った。弦太郎は男の傲慢な態度に不快感を覚え、〝電撃の術〟で撃退してやろうかと一瞬思ったが、タムに注意されたことを思い出しグッとこらえた。
「――どうしたんだ?」
 突然、また似たような男が草薮から現れた。次にやってきた男は、腰に刃先の長いナイフをぶら下げていた。
「この男がな、病気の友達を呪医に見せたいって、遠くからわざわざやってきたみたいなんだ」
「この山の中を一人でか? 遠くからって一体どこからだ?」
 ナイフをぶら下げた男は訊ねた。
「チェンマイ市内からですが」
 弦太郎は素直に答えた。
「チェンマイ市内だって?」
二人の男は驚いて目を合わせた。
 ガサガサ―― 
葉の擦れる音が聞こえた。すると後方の藪からまた一人、男が現れた。
「お客さんか。珍しいな」
この男も大きなナイフを腰にぶら下げていた。どこからともなく続々と仲間が集まってくる。弦太郎は不安を感じてきた。
――ケータイも持っていないコイツらが、こんな深い森の中でどうやって連絡を取り合っているんだ? あの鳴き声か。こりゃ完全にアウェーだ。どうにか仲良くならないと・・・・。あっ、そうだ。
弦太郎は持ってきたウィスキーを思い出した。
「どうですか、みなさん。立ち話もなんですから、一杯やりながら話しませんか? 町から酒を持ってきたんです」
 リュックの中から酒瓶を取り出した。それを見せた瞬間、疑心暗鬼で物々しい男たちの表情が一気に弛んだ。
「おっ、いいものを持ってるじゃないか」
 男たちは舌なめずりをしソワソワし出した。
「たくさん持ってきたんです。パーッと飲みましょうよ」
 弦太郎はこのチャンスを逃すまいと、場の空気を盛り上げるように言った。
「そりゃあ豪勢だ。これは今日中に全部飲んでしまった方がいい。俺たちの村では、外からの食べ物を村に持ち込むことは禁止されている。町の酒なんていったら大のご法度だ。リーダに見つかったら大変なことになる」
「今日、今の時間から村まで歩くとなると日が暮れてしまう。今晩は山小屋で泊まってみんなで宴会をしよう」別の男が言った。
「そうしましょう。――で、村まではそんなに遠いんですか?」
 弦太郎が訊ねた。
「ああ、ここからだとちょっと時間がかかる。明日の早朝に出発した方がいい。そうすれば昼までには着くだろうから。俺たちが村へ案内してやる」
 酒を見た男たちは急に親切になった。
「さあ、こっちだ――」
 しばらく山を歩き、質素な山小屋に到着した。山小屋は風雨を凌げるだけのもので、中はガランとしていた。弦太郎は空腹だったが、小屋には食べ物らしきものは何も置いてなかった。男たちはすぐに酒を飲みたがり、昼間だというのに酒盛りが始まった。何も食べずに酒瓶ごとラッパ飲みし回し合い、男たちはすぐに顔が真っ赤になった。
「で、君の名前は何て言うんだい?」
「弦太郎と言います」
「背負ってきた病気の男は?」
「ジョンです」
「君は友達思いだなあ。こんなところまで友達を背負ってくるなんて、たいしたもんだ」
「もう一度訊きたいんですが、村には本当にすぐれた呪医はいらっしゃるんですか?」
「ああ、スゴイ人がいる。きっと友達もすぐによくなると思う。俺が保障する」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると心強いです。呪医にお礼の品を持ってきたんですが、こんなもので喜んでもらえるでしょうか」
 弦太郎はリュックの中をゴゾゴゾと探った。
「何を持ってきたんだ?」
「宝石です」
 弦太郎はリュックから青い宝石の原石を出した。
「おお、立派な宝石じゃないか! これはすばらしい。これならリーダーもきっと喜んでくれるに違いない。本当にお前はいいやつだ、ヒヒヒヒ」
男たちは宝石を回し合い、長い時間かけて興味深げに眺めた。
「いいものを持ってきてくれたなあ」
「喜んで頂けると嬉しいです」
男たちは酔っぱらって饒舌になった。初対面の印象は野蛮で凶暴だと感じたが、こうして話してみると根は素直そうである。男たちの容姿をじっくりと観察すると、肉体労働で鍛えられた筋肉は贅肉がまったくなく引き締まっており、細くても力が強そうだった。彼らの右上腕にみな同じ印の緑の刺青が彫ってあった。
「皆さんの腕の刺青は何なんですか?」
 弦太郎は訊いてみた。
「これかい? これはサロ族の印さ。成人になったらすべての村人に入れられるんだ」
 男は自分たちのことを〝サロ呪術師〟とは言わずに、〝サロ族〟と表現した。弦太郎はそのことを聞き逃さなかった。
――なるほど、呪術師であることをそうやって隠すんだ。
 弦太郎はそのことに何も触れずに話を進めた。
「ヘエー、部族の印なんですか。あなたたちはサロ族というんですね」
「そう、俺たちは誇り高き部族で崇高な文化を持っている。そんな文化を外部の者に荒らされたくないから鎖国を敷いている。俺たちのことなんか町の人間は何も知らないはずだ」
「ええ、サロ族なんて初めて聞きました」
「そうだろ、ヘヘヘヘ。村外にはまったく明かされていない。サロ族の崇高な文化は偉大な〝長老〟がお築きになったんだ。お前さんも町に帰ってから、絶対俺たちのことを口外してはいけないぞ。絶対の秘密だ」
「わかりました。約束します」
「絶対だぞ」
 男は厳しい目つきになって念を押した。
「で、この男、ジョンって言ったな。こいつは何歳なんだ?」
「彼は、ええと・・・・、四十五歳ですかねえ」
 弦太郎はジョンの歳をはっきり知らなかったので適当に答えた。
「四十五歳だって?」
 男たちは驚いて互いに目を合わせた。弦太郎は何かマズいことを口走ってしまったのかと焦った。――ジョンがそんなに若く見えるのか? それとも老けて見えるのか?
「どうしたんですか?」
「四十五歳とは長生きじゃないか」
「えっ、長生き? どういうことですか?」
「どういうことも何も、長生きだろ。俺たちサロ族は三十六歳が寿命だぞ」
「三十六歳が寿命? どういうことですか?」
「どいうことって・・・・、じゃあ、お前たち町の人は普通何歳まで生きるんだ?」
「普通といっても人によって違いますけど、長寿をまっとうすれば八十以上じゃないんですか」
「八十以上だって! 」
「そんなに驚くことでもないと思いますが・・・・。サロ族は短命なんですか? みんな三十六歳前後で死んでしまうなんて」
「いや、三十六歳前後じゃなく、三十六歳に死ぬんだ」
「三十六歳に?」
「ああ、三十六歳にピッタリ。俺たちは三十六歳になるとお呼ばれがくる」
「ああ、俺はお呼ばれがもうすぐだ――」最初に会った小柄な男が不安げに言った。「俺はこの前三十六になったんだが、正直まだ死ぬのは嫌なんだ・・・・」
「おとなしく覚悟を決めろ」
 他の男たちがケラケラ笑いながら言った。
「そんなに元気なのに本当に死ぬんですか」弦太郎が言った。
「ああ、本当だ。三十六で必ず死ぬ」
「そうですか・・・・」
弦太郎はサロ呪術師の不思議な生態に驚きの吐息を漏らした。
小柄な男はジョンを羨望の眼差しで見つめながら言った。
「こいつは四十五まで生きたんだからもういいじゃないのか。十分長生きだ」
「いや、そういうわけにも・・・・」
「羨ましい限りだよ」
 男たちはジョンの年齢を聞き、救おうという気が薄れたようだった。弦太郎は彼らの態度の変化に戸惑った。
「ちょっ、ちょっと・・・・、明日呪医の紹介、お願いしますよ」
「こいつは長生きしてるんだから、特に必要ないんじゃないのか」
「いや、いや、必要です。お願いします」
 弦太郎は手を合わせて懇願した。
「ああ、わかった、わかった、紹介してやるよ。リーダーに、宝石を持ってきた客人がいると報告すれば、きっとお喜びになるだろうから」
「ありがとうございます。ぜひそのリーダーを紹介してください。ということは、リーダーが呪医というわけですね。長老というのが呪医じゃなくて」
 弦太郎が長老という名前を出した瞬間、酔っ払っているはずの男たちの表情がこわばった。
「どうして長老のことを知ってるんだ?」
「さっき、『サロ族の文化は長老がお築きになった』っておっしゃったじゃないですか」
「そんなこと言ったか・・・・。いや、いや、長老のことはいい。長老のことは忘れたらいいんだ。リーダーがトップなんだ」
 他の男たちも顔色を変えて言葉を濁らした。
「そう、そう、知らなくていいことだ。さあ飲もう――」
男たちは皆一様に酒に弱いらしく、持ってきたウィスキー三本のうち一本を飲み切っただけで、板の間の上で卒倒するように寝てしまった。
    *
 早朝、真っ暗の小屋の中でサロ呪術師の男たちは起き出した。
「頭痛え――」
 口々に二日酔いの苦しみを嘆いた。
弦太郎は男たちの声で目を覚まし、彼らの様子を薄目で観察した。男たちは床にボンヤリ座りながら起きることが億劫そうだった。
「さあ、村へ行きましょうか」
 弦太郎は小さな声で囁くように言った。男たちは、てっきり眠りこけていると思っていた弦太郎が話しかけてきたものだから一瞬ビクリと身を硬直させた。
「なんだ、起きていたのか。わかった、わかった、もうしばらくしたら出発しよう」
 荷物をまとめて外へ出ると、月明かりがまだ森の中に射していた。
「残りのウィスキーはプレゼントしますよ」
「ありがとう、イヒヒヒ」
弦太郎が酒瓶を渡すと、男たちはそれを受け取り、嬉しそうに瓶を撫でた。
「いやあ、昨晩は飲みすぎて頭が痛いよ。だけど、外の酒は旨いもんだなあ。俺たちの村でも酒を作るがこんなに美味しいものは作れない」
「そうそう、こんなに旨い酒はやっぱり外から持ってきてもらわないと味わえないなあ。だけど――」男の表情が真剣になった。「昨日も言ったことだが、俺たちの村の規則で、村には何であれ、外から持ち込むことが禁止されている。外のものは原則口に入れてはいけない。だから、この酒のことは絶対リーダーに言わないでくれよ」
「もちろん、一切口外しません。約束します」
 弦太郎は笑いながら言った。
「絶対だぞ――」男は念を押すように言った。「なぜなら、もし、外から持ち込んだ酒を飲んだことがバレたら、俺たちは死刑なんだからな」
「死刑!?」
「冗談でもなんでもなく本当だ。もちろん、俺たちだけが死刑じゃなく、酒を持ってきたお前さんも死刑だからな」
「えっ、本当ですか」
「俺たちサロ族の規則はすこぶる厳しいのさ」
 サロ呪術師たちの目が鋭くなったので、弦太郎は場の空気を和らげようと冗談めかして言った。
「そんなに厳しいんなら、村を脱走したらどうですか? 外の世界は規則がゆるくて、美味しい酒がたっぷりありますよ」
「そんなことしても長老の呪術で呪い殺されるだけさ」
 ひとりの男がポツリと漏らした。すると周りの男は「余計なことを言うな」と言わんばかり、厳しい目で睨みつけた。
「いや、いや、なんでもない。なんでもないんだ」
 長老のことを呟いた男は必死でごまかした。弦太郎はあまりそのことを真剣に聞いている素振りをみせず、話題の矛先をさりげなく変えた。
「ジョンの顔色がまた悪くなっている。早く行きませんか」
「そうだな」
 弦太郎は「よっ」とジョンを背中に担ぎ上げた。
「お前さん、外見はひ弱そうに見えるが力があるんだな」
「じゅ――」
 一瞬「呪力のおかげ」と言いそうになったが、すぐに言葉を飲み込み、「山登りが趣味ですから」と言い換えた。
「じゃあ、俺たちはここで――」
二人の男はどこか森の中に消えていった。最初に会った小柄な男が村まで案内してくれた。
    *
数時間かけて山を下っていくと、原生林の森林が、手入れされた果樹園に変わった。果樹園を通り抜け平地に下りると、青々とした田園が広がっていた。田んぼでは村人が農作業に汗を流していた。村人は弦太郎の姿に気づくと、よそ者がよほど珍しいのか、手を止め、警戒した目つきでじっと弦太郎を見つめた。
「こんにちは」
 弦太郎は相手の警戒心を解こうと、にこやかに挨拶したが一切無視され、さらに不審げに見つめられた。案内者がいなかったら絶対村に入れなかっただろうと思った。小柄な男は、そんな猜疑的な村人に弦太郎のことを手短に説明した。
 農道を歩いて行くと民家の集落が見えてきた。弦太郎は、峰から村を鳥瞰していたので、村が円形をしていることを知っていた。円形の村の外枠は高い城壁で囲まれ、その周りはお堀になっていた。城壁の正面に大きな門があり、そこから村に入った。村に入ると、木造の小さな民家が円状に並んでいた。円の中心に向かって歩いていくと、家がだんだん大きくなり立派になっていく。
「――ここがリーダの屋敷だ」
 村の中心、円の真ん中の建物に到着すると、男が言った。さすがに村一番のトップらしく、建物は寺院のような建物だった。柱や梁のいたるところに細かな彫刻が施され重厚感があった。弦太郎はこれからが本当の勝負だと、気を引き締めて屋敷を眺めた。
――リーダーとはどんな呪術師だろう。
「リーダーに話をしてくるから、君はここで待っていてくれ」
男は建物の中に入っていった。


   十五
「リーダー、緊急の報告があります」
 小柄な男はナラワットの前にひれ伏して言った。サロ呪術師リーダー・ナラワットは広間の窓際にあるチェアーに腰を下ろし茶をすすっていた。対面のチェアーには彼の妻が座っている。ナラワットは大きな目でキッと部下を見つめながら返事をした。
「どうしたんだ」
「今朝、我々の領土に男が二人入り込んできまして」
「それで?」
「その男が、この村に呪医はいないかと訊ねてきました」
「呪医?」
「なんでも、はるばる町からやってきたようで」
「町から・・・・」
 ナラワットはしばらく沈黙した。男はその沈黙に不安を覚え口早に説明を付け加えた。
「一人の男は病気で意識がなく、その男の治療をして欲しいと」
「病気の治療か・・・・。でも、何か怪しいな」
「見た目は善良そうな男です。それに治療をしてくれれば宝石を献上すると、大きな宝石の原石を持っていました。ですから、村に連れてきたのですが」
「宝石か・・・・」
 ナラワットは手の平を頬に当て考え込みながら言った。
「だが、なぜ、この地に呪医がいるということをそいつは知っていたんだ? そんな話が人間の社会にあるというのはおかしいぞ」
「いや――」男はナラワットの迫力に威圧され一瞬たじろいだ。「詳しいことはわかりませんが、噂で聞いたと言っていました」
「噂で? 我々は人間どもとまったく接触がないのに、どこから火種が飛んだんだ。噂の元を徹底的に調べないといけないぞ」
「ええ、私もそうすることが必要かと思いまして・・・・」
 男はナラワットの意見に同調した。
「今どこにいる?」
「外で待機しています」
「ここまで連れてきたのか」
「はい、念のために」
「じゃあ、すぐにここへ連れてこい」
「はい――」
男はそそくさとナラワットの前から退いた。男がいなくなると、ナラワットはチェアーからゆっくり立ち上がり、広間の上座に置いてある特別な椅子に移動した。
    *
「リーダーにお前たちのことを伝えてきたぞ。さあ、中に入るんだ」
 男に案内され、弦太郎はジョンを背負って屋敷に入った。
――ここがリーダーとやらの屋敷か。
 弦太郎は屋敷を見回した。壁一面に細かな壁画が描かれており、庶民の家でないことは明らかだった。大きな広間に入ると、奥がステージのように一段高くなっており、そこに置かれた一脚の大きな椅子にひとりの男が座っていた。弦太郎はその男の前に進み出て、床にひざまずいて丁寧に挨拶をした。
「初めまして、この村に素晴らしい呪医がいると聞き、町からやってきました」
「そんなに畏まらなくていいよ。名前は?」
「弦太郎と言います」
「私はこの村のリーダ、ナラワットだ」
 ナラワットは椅子から立ち上がり、気さくに弦太郎と握手をした。弦太郎はナラワットが立ち上がった姿を見てギョッとした。百九十センチ、百キロ以上はありそうな大男だった。サロ呪術師の縄張りに入ってから今まで見てきた男たちは皆一様に小柄で痩せていたのに、この人物だけは巨大だった。歳は五十代半ばの中年と見られ貫禄がある。広間の隅のチェアーには、これまた巨大な体躯の女性が座っており、こちらを気にする素振りを見せず編み物をしていた。
「――じゃあ、私は山仕事がありますからこれで失礼します」
 男は弦太郎をナラワットに引き合わせると、これで自分のお役目は終了とばかり、そそくさと広間から出て行った。広間にはサロ呪術師の夫婦と弦太郎とジョンの四名になった。
「まあ、腰を下ろしたまえ」
 ナラワットはそう言い、自分は立派な椅子にどっかりと座った。ナラワットの背後の壁には刀や槍などの武具が飾られ油断できない雰囲気である。弦太郎は遠慮がちに床に腰を下ろした。
「その男はそんなに悪いのか?」
 ナラワットはジョンを指差して言った。
「はい、どうやら奇病にかかったようで、どこの病院にいっても治りません――」
ジョンは弦太郎の隣で、恍惚とした表情で涎を垂らしながら座っている。
「もし治療していただけるなら、私の家の家宝である、この宝石を贈呈させていただきます」
 弦太郎はリーダに宝石を差し出した。ナラワットは宝石を受け取るとまじまじと眺め、薄ら笑いを浮かべた。
「なかなかいいものじゃないか」
「ええ、高価なものです――」弦太郎は媚を売るような笑みをつくろった。ナラワットの顔色を窺いながら少しずつ用件を切り出していった。
「あのお・・・・、それで、この村に呪医がいるというのは本当なのでしょうか?」
「ハハハハ――」ナラワットは豪放に笑った。「そんなことを気にしていたのか。呪医がいるもなにもこの村に医者はいない。病気はすべて呪医が治す。呪術はこの村の伝統だ。呪術はよく効くぞ。君はここにたどりつけて幸運だ」
「そうですか、それはよかった。――じゃあ治療していただけるんですね」
 弦太郎は気軽な調子で言った。
「その前に、ちょっと聞きたいことがある――」ナラワットは目が鋭くなった。「君はこの村のことを、誰から、どのように聞いたんだ。まず、そのことを詳しく聞きたい」
「は、はい――」
 弦太郎は答えにくい質問をされ困惑した。
――セタ呪術師のゴフトのことを言うべきか、言わぬべきか。もしゴフトのことを口にしたら、自分たちが呪術師であると疑われれしまう・・・・。
「いやあ、私の知り合いから聞いたんです。プラルクアン売りの男だったと思います・・・・。なんでも優秀な呪医がこの周辺の山の中にいると言っていました。村の詳しい場所や名前などはまったくわからかったのですが、大体の位置を地図で教えてもらい、それを手がかりに歩いてきました」
「ほお、そんなことを知っている人間が町にいたとは」
「何かマズイことでも・・・・」
 弦太郎がおずおずと言った。
「よそ者に我々の伝統的な暮らしを踏み荒らされたくないんで、村のことは外部に情報が漏れないよう細心の注意を払っているんだよ。我々の村はまったくの鎖国状態なのに、どうして町にそんな噂があったのか不思議でね」
「この村のことは公に知られていることではなく、ほんの小さな噂だったんです。でも自分にとって直感的にピンとくるものがあったので、それに賭けてみようと思いまして・・・・」
「ううむ、そうか、それならいい・・・・」
 ナラワットは椅子に深く腰をかけ、しばらく何かを考えるように無言で天井を見つめながら、椅子の肘掛部分を手のひらでリズムを取るように叩いた。
「どうでしょうか、呪医を呼んで頂けますでしょうか?」
 弦太郎が囁くような小さな声で催促した。
「じゃあ、診てみるか――」
ナラワットは踏ん切りをつけたかのようにヌッと椅子から立ち上がり、ジョンの傍らに歩み寄った。
「リーダーが直々で診ていただけるんですか?」
 弦太郎はナラワットが呪術を使うであろうことを薄々わかっていたが、いかにも呪術に対し無知であることを装うため大袈裟な調子で言った。
「ああ、そうだ――」
 ナラワットは弦太郎に軽く返事をし、ジョンの正面に腰を下ろした。両手でジョンの顔を押さえて目の中を注意深げに覗き込んだ。
「これはただの病気じゃないね、呪術をかけられている。この男はいったい誰に会ったんだね?」
「いやあ、それが誰に会ったのか、またったく分からないんです。夜中に出かけて行方不明になり、しばらくして帰っていたらこんなふうになっていました」
 弦太郎はゴフトのことをすべて伏せて答えた。
「奇妙だな」
「治りそうですか?」
「まあ治療は簡単だ。ちょっとこの男を支えてくれないか」
 ナラワットに言われて弦太郎はジョンの体を後ろから支えた。ナラワットはジョンのこめかみを両手の人差し指と中指で軽く触れ、低い声で呪文を唱えた。するとジョンは白目がむき出しになり、体を硬直させてプルプルと震え出した。さらに体を激しく痙攣させたかと思うと、次の瞬間、ジョンの硬直した体は弛緩してグッタリとなった。
「さあ、これで治ったよ」
 ナラワットは笑いながら言った。
「本当ですか」
「しばらくしたら意識を取り戻すだろう」
「ありがとうございました――」弦太郎は床に額をつけて礼を言った。「お約束どおり、どうぞ宝石を受け取ってください」
 弦太郎がそう言うと、ナラワットは微笑を浮かべた。
「いいものをありがとう。頂戴するよ」
 ナラワットはチラッと腕時計を見た。パンパンと手を叩いて合図を送ると、メイドの女性が二人やってきた。
「今日は、君も疲れているだろう。遠いところからやってきたんだから。この男も呪術が解かれたとはいえ少し休んだほうがいい。今の時間から帰るのは無理だ。今日は村に泊まっていきなさい。食事も部屋も用意してあげるから」
「えっ、そんなことまでしていただけるんですか。何から何までお世話になります」
「今からメイドに来客庵へ案内させるから」
「ありがとうございます」
「明日の早朝に村を出たらいいだろう――」
気さくに話していたナラワット表情が一変し、また迫力ある鋭い目つきになった。
「ひとつ注意したいことがある」
「何でしょうか・・・・」
「君たちはよそ者だ。基本、この村はよそ者を受け入れない。だから村人も外部の人間に慣れていない。村人を刺激しないためにも村をウロウロしてもらっちゃ困る。明日の出発時間まで庵で静かにしていてもらいたい」
「わかりました。もっともぼくたちは疲れていますから、部屋でゆっくりしていたいです。外に出る気はありません」
「うむ。――そして、もう一つ。町に帰っても我々のことを決して誰にも話してはいけない。私のことも、呪術のことも、サロ族の村のことも。わかったね」
「は、はい」
 弦太郎はナラワットの気迫に押され、怯えながら返事をした。
「それじゃあ、君らが町へ無事に帰り着くことを祈ろう」
「なにからなにまで、本当にありがとうございました」
 二人は固く握手を交わした。
「――どうぞ、こちらに」
 二人のメイドが警戒した視線を投げかけながら弦太郎に言った。弦太郎はまだ意識を失っているジョンを背負ってメイドについて行った。ナラワットの屋敷を出てしばらく村を歩き、一軒の小さな庵に案内された。
「どうぞここで休んでください。しばらくしたら食事を運んできます」
 メイドは去って行った。弦太郎はベッドにジョンを下ろし、フウーと一息ついた。部屋を見回すと、ベッドがあり、机があり、ちゃぶ台があり、洋服掛けがあり、まるで小奇麗なゲストハウスの一室のようだった。まったく文明と接していないのにこの設備は意外に思えた。ここでなら落ち着けそうである。
「ウー」
 ジョンが悶え声をあげたかと思うと、ゆっくりと目を開けた。
「ジョン、気がついたか」
 弦太郎はジョンの体を軽く揺すった。ジョンは夢うつつのような表情で話し出した。
「あっ、お、お、親分・・・・」
「ジョン、意識が戻ったか」
 ジョンはゆっくり上体を起こし、両手で顔をゴシゴシとこすった。
「ウー、何か悪い夢を見ていたようです。ああ、体がだるい」
「どういう経緯でここにきたのか、思い出せるか?」
「いや、何も・・・・」
「セタ呪術師に拉致されたことは?」
「ん――?」ジョンはしばらく考え、突如悲鳴を上げて頭を抱えた。「ワアー、そうだ! そうですぜ、親分! ワタシは殺されかけていたんですぜ」
「ハハハハ、殺されなくてよかったな」
 弦太郎は笑いながら言った。
「親分が助けにきてくれたんですか?」
「ああ、助けに行ったさ。ひどい目に遭わされたがな。全員やっつけたぞ」
「さすが親分、ありがとうございました」
「セタ呪術師との戦いが終わってからも大変だった」
「どういうことですか?」
「今度はサロ呪術師だ」
「サロ?」
「そうだ。今オレたちはサロ呪術師の村にいる」
「どうしてサロ呪術師なんですか?」
「お前がボケてしまったからだ」
「ワタシがボケた?」
「ゴフト、セタ呪術師の親分のことを思い出せるか」
「セタ呪術師の親分・・・・、ヒーッ、危険な男ですぜ」
「お前はあいつに呪術をかけられたんだ。その呪術が師匠でさえも解けなかった。師匠曰く、なんでもそれは呪術ではなく、奇妙な催眠術であるらしい。その催眠術を解くため、ゴフトの師匠筋のサロ呪術師の村まではるばるやってきたってわけだ。いましがたサロ呪術師のリーダーに会って、お前の催眠を解いてもらったんだ」
「そうだったんですか・・・・」
「ここは、サロ呪術師のリーダーに一晩泊まるようにとあてがわれた部屋だ」
「ワタシが知らない間にいろんなことが起こっていたんですね」
「いろんなことが起こりすぎて大変だ。――まあ、今までのことはいい。とにかくだ、くれぐれも気をつけて欲しいことがある。それは、今我々は〝呪術師〟ではなく〝人間〟ということでこの村に潜入しているということ。なぜなら、もし、呪術師であることがバレたら命の保障はない。サロ呪術師というやつは、他の呪術師に対して、攻撃的で野蛮な一面を持っているらしい。呪術師であることを絶対に言っちゃいけないぞ。それにサロ呪術師も、自分たちのことを〝サロ族〟と名のって、呪術師であることを秘密にしている」
「おお、何が何だかよくわかりませんが、とにかく了解しました」
「気をつけろよ」
「ヘイ、ガッテン。――それよりも、腹が減って死にそうです」
 ジョンは腹をおさえて顔をしかめた。
「相変わらず喰い意地が張ってるな」
「ワタシは自分の体に正直なだけですぜ」
「まあ、しょうがないか。お前は何日間も何も食べていなかったからなあ。もう少しで食事がくると思うんだが」
 ガタ――
 扉が開いて、メイドの女性二人が食事を持って部屋に入ってきた。
「おお、グッド・タイミング!」
 ジョンは大声で叫んだ。メイドは、さっきまで意識を失くしていたジョンが大きな声を出したものだから一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに無表情になり、食事をちゃぶ台に並べて無言で部屋から出て行った。
「おお、飯だ!」
 ジョンは火がついたように勢いよく料理を口にかき込んだ。
「おい、ジョン、ずっと断食状態だったのに、急にそんなに胃に詰め込んだら危ないぞ」
「イヒヒヒ、ワタシは鍛えてますから大丈夫ですぜ」
ジョンは瞬く間に料理をすべて平らげてしまった。
「まだ足りないですぜ」
メイドが山盛りの果物を入れた籠を持って再びやってきた。
「イヒヒヒ、姉ちゃん、まだ飯が足りねえぜ。お代わりだ」
 ジョンが図々しく追加注文した。メイドは何の返事もせず部屋から出て行った。
「イヒヒヒ、あの娘たち、何も言わなかったけどわかったのかな?」
「サロ呪術師は異常に警戒心が強いようだ。あの二人はとくに無愛想だな」
「でも親分、二人ともなかなかベッピンさんですぜ。純朴な娘さんって感じで、それが何だかそそられます。ワタシは無愛想でもなんでも女性は好き嫌いしませんぜ、イヒヒヒ」
 ジョンは下品の笑みを浮かべながら、果物を片っ端から食べ出した。
 しばらくすると、メイドが食事を運んできた。
「きた、きた、きた――」
 ジョンは品定めするような目つきで二人のメイドを眺めた。
「おっ、ご苦労さん。姉ちゃんたちは何歳だ? イヒヒヒ」
 メイドたちはジョンと目も合わそうとせず、食事を置いて無言で出て行った。
「ジョン、まだ彼女たちがタイプというのか?」
 弦太郎は笑いながら訊ねた。
「イヒヒヒ、ワタシはああいうツンとした態度をされると余計に燃えますぜ」
 弦太郎はジョンの浮ついた態度が気になった。
「ジョン、これ以上彼女たちに馴れ馴れしく話しかけるのはよせ。サロ呪術師は外部から隔離されて静かに生活してるんだ。刺激に弱く、よそ者とのコミュニケーションのとり方を知らない。それにリーダーから村人と接触するなと固く言われている」
「わかりました、イヒヒヒ」
 食事を終え、二人は腹を押さえてボンヤリしていると、メイドが食器を片付けにやってきた。
「姉ちゃん、名前は何て言うんだい? ちょっと話そうよ、イヒヒヒ」
 ジョンは性懲りもなく話しかけた。
「・・・・・・」
 メイドはもちろん無視した。
「姉ちゃんったら」
「ジョン、やめろ」
 弦太郎はジョンを叱りつけた。
「イヒヒヒ――」
ジョンは、立ち去ろうするメイドのふくらはぎを軽く触った。その瞬間、メイドはジョンの顔をすばやく蹴り上げた。
 バシッ――
「イテッ!」
 ジョンは蹴りを顔面に受けて後方にひっくり返った。メイドは振り返ることなくサッと部屋から出て行った。
「痛テテテテ」
 ジョンは蹴られた顔面をさすった。
「馬鹿め。だから接触するなと言ったんだ」弦太郎が言った。
「親分、彼女の蹴りはやはり人間技じゃないですぜ。でも、まあ、ワタシはこういう刺激は嫌いじゃないですがね、イヒヒヒ」
「今度お前がクダらないことをしたらオレが蹴ってやるからな」
「イヒヒヒ、親分、冷静になってください。ご愛嬌です、ご愛嬌。――ああ、腹がくちくなって眠たくなってきました」
 ジョンは大きなあくびをした。
「明日の早朝出発だ。それまでゆっくり体を休めたらいい」
「いま昼でしょ?――」ジョンが格子窓から外の空を眺めた。「出発までまだまだ時間がありそうですね。ゆっくり寝られます。それじゃあ、お休みなさい――」
ジョンは床の上にゴロンと寝転がり、十秒後には「ガーガーガー」と大きないびきをかきだした。弦太郎も二晩ほとんど寝ていなかったので、ベッドに横たわるとすぐに眠りに導かれた。


   十六
「ん――?」
弦太郎は人の話し声で目を覚ました。部屋に時計がないので時間が分からない。ポケットからケータイを取り出したが、バッテリー切れでケータイでも時間を確認できない。立ち上がって格子の窓から通りを覗いた。野良仕事を終わらせたサロ呪術師の男女が農作業道具を肩にかけ、楽しげに談笑しながら歩いていた。普段の生活の彼らは生き生きとした表情をしていた。
「夕暮れか――」
 外の空気が吸いたくなった弦太郎は部屋から出ようと、両開きの扉を押して開けようとしたが、外から鍵を掛けられていて開かなかった。
「閉じ込められているのか」
 弦太郎は余計に外に出たくなった。ジョンの方へ目をやると、大の字になって気持ちよさそうに眠りこけている。
――ちょっと村を散策するか。
 部屋に誰も来そうな気配もなかったので、弦太郎は透明の術を使って姿を消し扉を通り抜けた。扉の外側には太い閂が掛けられていた。――厳重だな。
弦太郎は村の中をブラブラと歩き回った。村人たちは軒先に小さな椅子を並べて腰を下ろし、家族団欒でお喋りしながら夕暮れのひと時を過ごしていた。平和な光景だった。しかし、弦太郎は何かがおかしいと感じた。
しばらく歩き回っていて不可解な理由に気がついた。家族は若い夫婦と幼い子供たちばかりで、老人をまったく目にしない。それどころか熟年層も見かけない。そのとき山で会った男たちの言葉をふと思い出した。
――そういえば彼らが酒で酔っ払ったとき、サロ呪術師の寿命は三十六歳と言っていたな。確かに村は若い人ばかりだ。
そのことに関連して、男たちがサロ呪術師のリーダーのことは口にしても、長老のことを発言することを意識的に控えていたことも思い出した。
――村の中心にある立派な屋敷に住んでいたのは巨漢のリーダー夫婦だけで、長老なる人物はいなかったよな。いそうな気配もなかったし。長老という人物ははどこにいるんだろう・・・・。
 太陽は沈みかけ、辺りは薄暗くなりかけていた。空模様が急に怪しくなり、今にも雨が降り出しそうな気配だった。城壁で囲まれた円形の村だが、その村の北東には小高い山があり、その山の上部に何か建物があるのを目に入った。
「あれは何だろう?」
弦太郎はその方向に向かって歩を進めた。村の北東部にたどり着くと、山へ登る石段が築かれており、石段の入り口の門には警備の屈強そうな男たちが数名目を光らせていた。
――この上に何かがあるんだな。
弦太郎は男たちをスルーして石段を登っていった。登っていると雨がポツポツと降り出したが、術を使っているので雨に濡れることはなかった。
「――ウワッ、すごい建物だ!」
 石段を登りきると、宝石と金箔で装飾された荘厳な建物があった。大きさはそれほど大きくないが豪華絢爛である。その建物の周りにも数名の警備人が雨に濡れながら立っていった。リーダーの屋敷には誰も警備人がいなかったのにこちらは厳重である。
――ここに何があるっていうんだ。何か宗教儀式のための建物か?
 弦太郎は警備人をすり抜け、荘厳な建物の壁を通り越し、建物の内部を窺った。内部は豪華な広間だった。リーダーの屋敷の広間ほど広くはないが、壁じゅう宝石で彩られた装飾は圧巻だった。大理石の床もピカピカ光っている。
――ここは最高権力者の御殿だな。ん?
朝会ったナラワットが床にポツンと座っていた。
――リーダーの男が来ているぞ。
 そこに髭を蓄えた老人がゆっくりとした足取りでナラワットに近づいてきた。ナラワットは床にひれ伏して敬礼した。弦太郎は老人を見ておったまげた。巨大なナラワットよりもさらに背が高い。痩せ細っているが二メートル以上ある大男だった。肩には可愛い子猿がのせられていた。老人の動作はじれったいほどゆっくりしており、ふとアディー爺のことを思い出した。
 老人は細やかに彫刻された立派な椅子に腰を下ろした。
「長老、報告があります」
ナラワットは床に横座りして老人に言った。
「ああ――」長老はぶっきらぼうに返事をした。
「今朝、村に病人を背負った男がやってきまして、友の病気を呪術で治して欲しいと頼まれました」
「病気を呪術で治して欲しい? 珍しいな。――でも、どうしてこの村のことを知っていたんだ」
「なんでも町の噂で聞いたと言っておりました」
「町の噂か・・・・」
「それで病気の男を診てみると、驚くことなのですが、病気ではなく催眠術にかけられていました。それが我々秘伝の催眠術なんです」
「本当か。どうして催眠術を使う奴が町にいるんだ? それでどうした」
「お礼に宝石を持ってきたというので催眠術を解いてやりました。これが、その男の持ってきた宝石です」
 ナラワットは長老に宝石を渡した。長老は宝石をまじまじと見つめながら言った。
「で、その男たちは?」
「いま、来客庵に閉じ込めてあります」
「もしや・・・・、あいつの仕業じゃないだろうな――」長老の脳裏にピンと直感が走った。「昔、セタ呪術師の警備人のリーダーが脱走しただろ。〝ゴフト〟というやつ。あいつが怪しいな」
「えっ、あの男は脱走してから二十年ほど経っていますよ。もう呪力で死んでいると思いますが」
「町で近代医療を受けて、しぶとく生きている可能性がある」
「なるほど・・・・」
「奴にはセタ呪術師のイニシエーションや催眠術を伝授していた。催眠術をかけられたという男に、詳しく聞き出す必要があるな」
「確かにその可能性があります。催眠術をかけられていた男はもう意識を回復しているでしょうから、後で詳しく問いただしてみます」
「ああ、そうするんだ」
「聞き出した後、男たちはどうしましょうか。帰らせてよろしいでしょうか」
「帰らせようが、殺そうがどっちでもいいだろう」
 弦太郎はその言葉を聞き大きく目を見開いた。
――この老人がサロの村を支配しているんだな。さっさと逃げないと危ないぞ。
 そのとき、長老の肩にのっていた子猿がピョンピョン跳びはねた。そして長老の長い白い髭を片手でひっぱり、幼児のような甲高い声で人の言葉を話した。
「面倒だ、すぐに殺してしまえ」
 子猿は長老の肩から跳び下りると、広間の奥に置かれてあるテーブルサイズの巨大な椅子に向かった。その椅子は宝石で装飾された、まばゆくきらめく豪華な椅子だった。
――子猿がしゃべったぞ・・・・。何なんだあの猿は?
弦太郎は子猿から目が離せなくなった。
 子猿は巨大な椅子の上に跳び乗り、クルリと後方宙返りをした。その瞬間、子猿は象以上の大きさの巨大な猿に変化した。
――ウワ、化け猿! 
 弦太郎は驚いて声を出しそうになった。
「明日は成人の儀式だ。そんな奴らを村でウロウロさせたら、儀式の邪魔になるかもしれないだろ」
 化け猿は身の毛もよだつような恐ろしい声で話した。
「確かにその通りでございます」
 長老とナラワットは床にひれ伏し同意した。
「今日の夜中にでも始末するんだ」
「はい――」
弦太郎はその会話を聞いて心底たまげた。相手は化け物である。その迫力から測るに、闘って勝てそうな相手ではない。
――この村には、リーダーの上に長老がいて、さらにその上に化け物が君臨している。すぐに逃げなければ・・・・。
 弦太郎が御殿から脱出すると、外は激しい雨が降りしきっていた。雨の中、電光石火の速さで石段を駆け下り、来客庵に舞い戻った。
「――ジョン、起きるんだ。大変だ!」
 弦太郎はジョンを激しく揺すった。室内は真っ暗である。
「ムニャ、ムニャ・・・・、親分なんですか。ワタシはまだ寝足りませんぜ」
「何を悠長なこと言ってるんだ。大変だ。恐ろしいことを聞いた。このままここにいると殺されるぞ!」
「ん!?」
 ジョンは「殺される」という言葉に反応し、すっと半身を起こした。
「どういうことですか、親分。親分は電撃の術が使えるじゃないですか。こんなサロ公どもにビクビクしなくてもいいですぜ」
「まともに闘えるような相手じゃないんだ。化け猿がいる。巨大な化け猿がいるんだ。あの迫力は尋常じゃない。確実に殺されるぞ」
「イヒヒヒ、化け猿ですか」
「笑い事じゃない。お前一人、ここで寝ていたかったらそうしたらいい。オレはひとりで逃げるからな」
「親分が逃げるなら、もちろんワタシも逃げますよ、イヒヒヒ。で、いつ逃げますか」
「いまは外に出られない。村人の目がある。この村には電気がないようだから、夜は真っ暗なはずだ。村人が寝静まったらすぐ脱出しよう」
 ガタ、ガタ、ガタ――
 扉の閂を外す音が聞こえた。
「マズイ!」
 二人は体を硬直させ互いに目を合わせた。すると、メイドが二人、火のついたロウソクを持って部屋に入り、食事をちゃぶ台に置こうとした。
「昼間たっぷり食べましたから、お腹が膨れています。明日の早朝までゆっくりと眠りたいので食事はけっこうです」
 弦太郎が丁寧に断ると、メイドは一瞬困ったような表情を見せたがすぐに平静の表情になり、無言で食事を持って部屋から出て行った。扉を閉めると、外から閂をかける音がした。
「親分――」ジョンがヒソヒソ声で話した。「外鍵を掛けられたようですぜ」
「そんなこと、とっくに知ってるさ。オレは呪術を使って外出してるんだから」
「イヒヒヒ、親分はヌカリがないですね」
「外鍵は閂がかかっているだけだから、オレが外に出て外せばお前も出られる」
「イヒヒヒ、ご面倒をおかけします」
「とりあえず、しばらく寝たフリをしよう」
「了解――」
 数時間後、雨もやみ、周囲も静まったようなので、二人はそっと来客庵を出た。夜空には月が照っており、逃走するには好条件だった。
「こっちだ、急げ」
 弦太郎が先導して走り、ジョンが後をついて行った。
「正門は警備人がいるだろうから、ここから城壁を飛び越えるぞ」
 民家の建っていないひっそりとした区域の城壁の前で弦太郎が言った。
「親分、この壁は五メートルはありそうですぜ。ワタシの脚力では飛び越えるのは不可能です。親分でも無理でしょ?」
「ヘッ、こんなものチョロイものさ。オレは力のキノコを食べてパワーアップしている。ジョン、オレの肩にしっかりと掴まるんだ」
「えっ? ワタシを背負って跳び越えるつもりですか」
「そうする以外方法はないだろ」
 弦太郎はジョンを背負ったまま助走をつけて跳び上がった。
「ヤアッ!」
大跳躍し、城壁の真上に着地した。
「もう一回ジャンプだ。ヤアッ!」
 そこから城壁の周りを囲んでいるお堀を飛び越えて、地面に着地した。
「ヒャア、親分、スゴイじゃないですか。パワーアップが素晴らしい。イヒヒヒ」
「さあ、モタモタしていないでここから離れるぞ。とにかくサロの領土から出るまで全速力で走るんだ。ついてこい」
「ヘイ、ワタシは走るのには自信があります」
二人は一目散に駆け出し、村から離れていった。


   十七
 夜も更け、ナラワットは屋敷のダイニングで妻と向かい合って食事をしていた。メイドが甲斐甲斐しく給仕している。夫婦は毎日長く顔を合わせるているので話す話題もなく静かな夕食だった。
 リーダー夫婦はサロ呪術師の長であり、サロ呪術師の秘密をすべて知っている存在だった。サロ呪術師の宿命である〝三十六歳寿命〟を免除され、一部の催眠術や呪術を習得していた。しかし、特別な役職に就く彼らは子供が作れなかった。
「あっ、そうだ――」ナラワットが思い出したようにメイドに言った。「男たちに夕食を給仕したのか」
「先ほど食事を持っていきましたが、いらないと言われました」
「どうしてだ?」
「明日早朝出発なので、それまでゆっくりと休みたいとのことです」
「いま何をしているんだろう?」
「寝ていると思います」
「寝ているのか・・・・」
 ナラワットはじっと考えた。
「貴方どうしたの?」妻が訊ねた。
「〝大魔神様〟から直々に、男たちを夜のうちに始末してしまえと命令された。どうやって始末しようか・・・・」
ナラワットはメイドに指令を出した。
「今すぐに護衛の者を五人呼ぶんだ」
「はい――」
 護衛の男たちがやってきた。
「リーダー、こんな時間にどういったご用件で?」
「来客庵に人間の男が二人泊まっている。そうだな・・・・、十一時頃、庵に忍び入って、二人ともナイフで始末するんだ。村人の騒ぎにならないよう静かに実行しろよ。なんせ明日は大切な成人の儀式の日だ。村の空気に波風を立たせたくない」
「了解しました」
 男たちはきびきびとした動作で敬礼した。
「リーダー――」一人の男が手を上げて訊ねた。「そいつらは手ごわい相手でしょうか?」
「ハハハハ――」ナラワットは鼻を鳴らすように笑った。「相手は所詮人間だ。しかもひ弱そうな体格をしていた。呪術師であるお前たちの手を焼かすことはないだろう」
 その言葉を聞いて男たちは笑みを浮かべた。
「だが大切な任務だ。確実に遂行しろよ」
「はい――」
 護衛の男たちはダイニングから出て行き、また夫婦二人きりになった。
「ねえ貴方、あまり油断しない方がよさそうな気がするわ」
「どうしてだ?」
「だってあの男、こんな人里離れた山奥まで太った男を背負って歩いてきたのよ。見かけはひ弱そうだけど、相当体力があるんじゃないかしら?」
「そう言われてみればそうだな・・・・。ま、でも、それも所詮は人間業だろ。こっちは呪術師が五人もいるんだし、武器も手にしている。心配することはないさ」
「それもそうね」
夫婦は静かに食事をつづけた。
    *
「――リーダー、リーダー、起きてください」
 寝室で眠っていったナラワットはメイドの女に起こされた。
「どうしたんだ、こんな夜中に」
「いま護衛の者たちが戻ってきました。なんでも男たちを始末しようと庵に入ったのですが、庵には誰もいなかったとのことです」
「なんだって? すぐに護衛の男たちをここに呼ぶんだ」
寝室に男たちが入ってきた。彼らは膝をつき、現場状況の報告をした。
「親分、申し訳ありません。任務を遂行できませんでした」
「庵に誰もいなかったって本当か?」
「はい、もぬけの殻になっていました」
「外鍵を掛け忘れていたのか?」
「いや、閂はしっかりと掛かっていました」
「じゃあ、中にいるはずじゃないか。隠れているんじゃないのか」
「いや、部屋の隅々まで探しましたがいませんでした」
「どいういうことなんだ?」ナラワットは頭を抱えた。「村の外に逃げたのか。村の正門の扉は閉じられているな」
「はい、門はいつものように閉じられていました。正門の番人にも話を聞きましたが、胡乱な者は目にしなかったと言っていました」
「じゃあ、まだ村の中に潜伏しているな・・・・。すぐに鼻の利くセタ呪術師の警備人をここに呼ぶんだ」
「了解」
 セタ呪術師の警備人が三人駆けつけてきた。
「今すぐ来客庵に行くんだ。そこにはさっきまで人間の男が二人入っていた。臭いを嗅ぎ取って追跡しろ。見つけ次第、始末するんだ」
「了解しました」
 セタ呪術師の警備人は飛び出すように部屋から出て行った。
「明日の早朝は成人の儀式だっていうのに・・・・。こりゃ寝られないぞ」
 ナラワットは妻に言った。
「すぐに見つけられればいいんだけどね」
 ナラワットは寝室から出て、広間で部下たちが帰ってくるのを待った。
「――リーダー大変です」
 しばらくすると、セタ呪術師の男たちが息を切らして戻ってきた。
「どうした? 何があったんだ?」
「臭いをたどりましたら、二人の男は城壁を飛び越えて村を出ています」
「なに、城壁を飛び越えただって。城壁は五メートル以上あるんだぞ」
「しかもです。彼らの臭いは、人間の臭いではないんです。一人はセタ呪術師の臭いなんです」
「セタ呪術師の臭い?」
「ええ、もう一人はセタ呪術師ではないんですが、人間ではないと思います」
「そうか――」ナラワットは腕を組んで思索をめぐらした。「至急お前たちは臭いをたどって、奴らを追跡しろ。領土内ならどこまでも追って捕らえるんだ」
「わかりました」
 セタ呪術師の三人は山へ向かって駆け出して行った。
「セタ呪術師ってどういうことかしら?」
 ナラワットの妻が言った。
「もしかしたらゴフトの弟子かもしれないし、それとはまったく関係のない他の派閥の呪術師かもしれないし・・・・、よくわからないな」
「彼らは噂でこの村のことを知ったって言ってたけど、実際は、ゴフトを通じてこの村のことを知ったのかもしれないわね」
「そうだな・・・・。まあいい。奴らは村から出て行っている。とにかく明日の成人の儀式に問題を起こすことはないだろうからな」
夫婦は寝室に戻った。


   十八
 弦太郎とジョンは真っ暗闇の山の中を何時間も走りつづけた。
「ちょっと、ちょっと、親分――」ジョンは息を切らしながら弦太郎に声をかけた。「少し休みましょう。ハァ、ハァ、ハァ」
「まだだ、まだだ。休んでいる場合じゃない。殺されたくなかったら走るんだ」
 山を登りきり、峰に沿って数時間走り、ようやく弦太郎が足を止めた。しばらくするとジョンが汗を流しながら追いついてきた。
「ここでしばらく休憩にしよう」
「ハァ、ハァ、ハァ――」
 ジョンは声を出すことができず、地べたに仰向けにひっくり返った。
「ずいぶん遠くまできましたね。ここはまだサロ呪術師の領土ですか?」
「ああ、まだサロ呪術師の領土だ。まだまだ油断はできない。ここからまだ三、四時間は走らないとサロ呪術師の領土から出られない」
「あと三、四時間も・・・・」
 ジョンは声を詰まらせた。
「とりあえず休憩だ。ここまでくれば早々見つからないだろうから」
「疲れました・・・・」
「それで、ジョン、大切な任務がある。フフフフ」
 弦太郎から笑みがこぼれた。
「なんですか、親分、急にうれしそうな顔して気持ち悪い」
「実は、サロの村へ行く前、世界に一つしかないオレの霊石を見つけたんだ。その霊石を使ってメディテーションをすると力が吸収できる」
「サム兄さんがよくやってるやつでしょ?」
「そう。で、この石がオレの霊石なんだ」
 弦太郎は目の前にある球形の巨石を大事そうに触れた。
「そいつがですか?」
「ああ、ちょっと触れただけでビンビンくる、フフフフ。それでジョンの任務とは、時間がきたらオレに知らせることだ」
「知らせるとは?」
「霊石メディテーションはとても危険なんだ。何が危険かって、あまりに気持ちよすぎて霊石から離れられなくなってしまう。霊石に張りついたまま肉体が餓え渇き、死んでしまう危険性があるんだ」
「な、なんと、恐ろしいというか、羨ましいというか。その気持ちよさをワタシも体験できませんか?」
 ジョンは霊石に触れてみたが何も感じなかった。
「セタ呪術師のお前には無理だ。それにこれはオレの霊石だ。誰のものでもない。オレ専用の、オレのための霊石なんだ。とにかく霊石メディテーションに入る前に時間を決めてておこう。――じゃあ、こうしよう。ここで三時間だけ休もう。それ以上居座ると追っ手がくるかもしれない。三時間経ったらオレに報告してくれ。〝もう時間です〟と。そこでオレは止めるから。わかったな」
「わかりやした。三時間ですね」
「ジョンはここでゆっくり休んでいればいい。まだまだ山道を走らなければならないからな。ウロウロすると誰かに見つかるかもしれないからじっとしていろよ」
「ウロウロする体力なんてありませんよ。ワタシは寝てますぜ」
「そうだ、大人しく寝ているのが一番いい。で、三時間後に忘れずに知らせてくれよ、絶対な。お前はいい加減なヤツだから厳重に言っておく」
「イヒヒヒ、わかりやした。守ります」
「じゃあ、オレは霊石メディテーションに入る。さらばだ」
 弦太郎は霊石に張り付いた。
「ワタシも寝るとするか」
 ジョンは大木の幹にもたれかかりながら眠り込んだ。
「――ムニャムニャ・・・・。ん?」
 ジョンはハッと目を覚ました。ずいぶん長い時間眠り込んでいた気がする。ポケットに手をつっこんだがケータイも時計も入っていなかった。
「三時間て言ったって、時計がないんじゃ、どうしようもないじゃないか。――でも、三時間以上は経過していそうだぞ」
 ジョンは弦太郎に近づき遠慮気味に声をかけた。
「親分、時間ですぜ、イヒヒヒ――」
 しかし、弦太郎からなんの反応もなかった。
「親分、親分――」
 何度声をかけてもまったく反応がない。ジョンはだんだんイライラしてきて、弦太郎の体を揺すって大きな声をかけた。
「親分、親分、目を覚ましてください」
静かな夜の闇に自分の声が響き、ジョンはビクリとして周りをキョロキョロと見回した。大きな声を出すとマズそうな気がする。しばらくすると弦太郎が小さく反応した。
「うるさいぞ」
「イヒヒヒ、時間ですぜ」
「オレは忙しいんだ」
「忙しいも何も、石に張り付いているだけじゃないですか。もう三時間経ってますぜ」
「・・・・・・」
 弦太郎は反応しなかった。
「親分、いい加減にしてください。追っ手がきますぜ」
「・・・・・・」
 弦太郎が反応しないものだから、ジョンは強硬手段に出た。力ずくで弦太郎を石から引っ張った。
「親分、目を覚ましてください」
 弦太郎は霊石から離れて地面に引っくり返った。
「なんだジョン、今一番いいところだったのに何をするんだ!」
「親分、何を怒っているんですか。サロ呪術師が追ってくるから三時間で必ず起こせって、親分が言ったんじゃないですか。もう三時間過ぎてますぜ」
「わかった、わかった」
 弦太郎はジョンの言っている意味が飲み込めた。しかし、霊石が名残惜しくてしょうがない。
「ジョン、わかった。もうしばらくで出発しよう。あと一時間、本当に一時間後に出発しよう」
 弦太郎は再び霊石に張り付こうとした。
「待った、待った。親分、やっぱり今行きましょう。親分は霊石から離れそうにないですから」
「絶対約束する。一時間だけだ」
「ダメ、ダメ、ダメ、嫌な予感がします。追っ手がきそうで不安です」
「大丈夫だって、一時間ぐらい」
「親分が自分で言ったんじゃないですか。すぐに逃げないと殺されるって。こんなところで捕まったらシャレになりませんぜ」
「だから、あと一時間だけって言ってるだろ」
 そのとき、夜の暗闇の中から、
 クークークー、コ、コ、コ、コ――
 奇妙な動物の鳴き声が響いた。
「ん!?」
 弦太郎とジョンは目を見合わせた。
 ガサッ――
 草叢から突如男が三人現れ、大きな山刀を振り回して襲ってきた。
「危ない!」
 弦太郎は姿を消し、電撃術を使って男たちを撃退した。
「ギャー!」
 三人はもんどりうってひっくり返った。
「ジョン、モタモタしてないで逃げるんだ。急いで逃げないと仲間がくるぞ」
「だからさっきからワタシが言ってるじゃないですか」
弦太郎とジョンは駆け出した。それから数時間休まず走りつづけ、無事サロ呪術師の領土から脱出することができた。


   十九
 早朝四時、まだ真っ暗の中、今年十六歳になる村の男女六十二人が、儀式用の特別な民族衣装を身にまといナラワットの屋敷に集結した。〝成人の儀式〟はサロ族の村の年間行事の中で一番大切な日である。今日、若い男女は長老からイニシエーションを受けて正式なサロ呪術師となり、呪術師の秘密が明かされる。さらに、結婚相手が決められ、仕事が決められる。この日を境に若い男女は親元から離れ、自立しなければならない。
「諸君ら――」
 ナラワットが若い男女に語りかけた。
「今日は最高にめでたい日だ。イニシエーションが終われば、もう諸君らは立派な大人であり呪術師だ。イニシエーションをお授けになるのは、君らも知ってのとおり偉大な長老だ。諸君らが長老にお会いできるのは、多分、一生で最初で最後、二度とお会いすることはないだろう。長老の崇高なお姿を目に焼きつけておくように」
「はい」
 若い男女は目を輝かせて返事をした。
「それじゃあ、長老のお住いになる御殿へ出発だ」
六十二人の行列はナラワットを先頭に御殿へ向かった。山に入る手前に門があり、大柄な護衛の男たちが目を光らせて監視している。若い男女はこの村で生まれ育ったが、この門をくぐったことがなく、それどころか近づくことすらも許されなかった。その禁断の門をくぐり抜け、石段を登るのだ。幼い頃から、山の上に小さく見える、燦めく御殿の正体は謎であり、大人たちもそのことを何も教えてくれなかった。その秘密がとうとう今日明かされる。皆の心の中は、緊張と高揚と不安が入り混じった夢うつつのような状態だった。石段を一段一段登って行った。
長い石段を登りきり御殿に到着した。遠くから毎日眺めていた御殿がいま間近にある。男女は御殿を目の前にしてポカンと口を半開きにし、放心したように立ち尽くした。
「さあ諸君ら、御殿へ入る前に手と足を水で清めるんだ」
リーダーから指示を受け、男女は一人ずつ、山から流れ落ちる小さな滝つぼで手足を清めてから御殿の中へ入った。宝石できらめく御殿の外観にも驚嘆したが、広間に入ってさらに目を見張った。壁も天井も宝石で彩られまばゆく輝いている。
若い男女が広間で腰を下ろししばらく待っていると、奥から肩に子猿をのせた長身の老人がゆっくりと現れた。
「長老だ――」
 彼らにとって初めての面会だったが、一目その姿を見ただけで長老であることがわかった。皆は合掌して長老の前にひれ伏した。感受性豊かな女子の中には涙を流す者もいた。
長老は椅子に腰をかけ、ゆっくりとした調子で話し出した。
「君たちはサロ呪術師を継承する選ばれた者。今から授けるイニシエーションによって大きく変貌を遂げる。人間を超越して呪術師と生まれ変わるのだ」
 男女は手を合わせながら、長老の話す言葉一言一言を体に刻み付けるように聞き入った。長老が話し終えると、ナラワットが長老の傍らに立ち、儀式の作法を手短に述べた。
「今から長老から直々にイニシエーションを受ける。名前を呼ばれた者は、長老の足元にひざまずくように」
最初に名前を呼ばれた女子が長老の前に進み出てひざまずいた。
「さあ、肩を出して」
 長老は彼女の右肩に呪文を唱えながら象徴的な柄の刺青を入れた。動作のスローモーな長老だが刺青を入れる手際は鮮やかで、短時間で刺青を仕上げた。刺青を入れ終わるとイニシエーションは終了である。
日が暮れて辺りが暗くなったころ、六十二人すべての男女の右肩に刺青が入れられた。一人一人にかかる時間は短かいが、全員ともなると長時間を要する。
「さあ、これでここにいるすべての者は呪術師として生まれ変わった――」ナラワットがイニシエーションの終わりを告げた。「体に力が沸き起こるのを感じるだろう。君、ちょっと立ち上がって、思い切り跳び上がってみなさい」
 指名された男子は緊張しながら立ち上がり、ピョンと跳び上がった。すると驚くことに、イニシエーション前からは考えられないくらい高く跳び上がった。「おおっ」という歓声が上がった。リーダーが言った。
「このように諸君らは皆、力が何倍にもなった。これもすべて長老から与えられた呪術のおかげだ。長老に感謝」
 皆は長老に合掌して頭を下げた。
「これから長老は呪術師の生き方についてお話になる。一言も聞き漏らさず耳を傾けるように」
 長老は若い男女の前に立ち、ゆっくりとした口調で話し出した。
「正式なサロ呪術師になった君たちへ、我々の大切な掟を説明する。まず一つ、我々は一生、サロ族の村で生活しなければならない。村で働き、村で収穫したものを食べて生きてゆくのだ。領土の外へ出て行くことはできない。次に二つ目、我々は崇高なるサロ呪術師だ。呪術師のことを外部に住む人間たちに決して話してはならない。人間どもは我々が呪術師とわかると興味を持ち、悪巧みを働いてくるだろう。仮に外部から村に人間が入ってきたとする。君らは呪術師であることを決して口にせず、自分たちを〝サロ族〟と名乗るように。不審者はその場で始末してもいい。現在、人間どもはその生息範囲をどこまでも広げ、我々の土地に迫ってきている。彼らが入ってくると我々の文化が崩れ、秩序が乱れ、挙げ句は土地を奪い取られるかもしれない。我々は人間から独立した存在だ。彼らと決して交渉してはいけない。三つ目、リーダーのナラワットは君たちを指揮するサロ呪術師の長、リーダーからの命令は絶対だ。命令には決して背いてはならない。なんであれ命令に背くことはサロ呪術師の破門を意味する」
 長老はここまで話すと小さく咳き込んだ。肩に乗っている子猿が無邪気にピョンピョン跳ねた。
「いまから結婚の相手、仕事、住まいを発表する。今晩から君たちは夫婦となり、親元から離れ、自分たちで生活する。仕事は明日から始めなければならない。怠惰にならず勤勉に働くように」
長老は名前を呼び、一人一人に相手を告げていった。夫婦となった二人は隣り合って座らされ、手を握らせられた。男女は手を握り合ったまま下を向いて頬を赤らめた。
すべての者に結婚相手、職業、住まいが告げられた。
「これで成人の儀式はすべて終了だ――」長老は最後に総括の言葉を述べた。「決められた結婚相手、職業、住まい、これらは君たちにとって最高に相性のいいものだ。これからの人生、力を合わせて協力し生きていくゆくように。それと一番大切なこと、子供をたくさん作るように。できるだけたくさんだ。君たちの両親もそうであったように、子供をたくさん生んで育てるんだ。これは君たちの責務だ」
その言葉を聞き、若い男女は声を顔を伏せながら笑った。
「最後に、儀式を終了する前に、何か質問のある者はいないか――」リーダーが言った。「朝も言ったが、長老にお話できる機会は今後二度とないだろう。何か質問がある者は手を上げなさい」
 皆は沈黙し、顔を伏せた。あたりはシンとなったが、一人の女子がおずおずと手を上げた。
「何かね?」
「もしも掟を破って、村の外で生活した者はどうなるのでしょうか?」
「命を失うだろう――」長老は短くはっきりと言った。「君たちの右腕に入れられた刺青は呪力がこもっている。この刺青が君たちを監視し、力を与え、そして力を奪う。掟を破った者はこの刺青が厳格に処罰するだろう」
 その言葉を聞いて、皆の表情が固まった。女子が重ねて訊ねた。
「村には人間と交易をする生業の者もいます。どうして、あの人たちは命を失わないんでしょうか?」
「ほとんどの者は一生サロ呪術師の領土から出ることはないが、特別の場合もある。あなたが言うように人間と関わる仕事をする者もいる。そういう者は領土から出ることもあるだろう。上からの命令で領土から出る場合、命を落とすことはない。しかし、どんなに遠くへ離れても、刺青は監視している。もし、呪術師であることを人間に明かしたり、村に帰る意志を失うようなことがあったら命の保証はない。とにかく人間に深入りしないこと。――他には?」
 男子が恐る恐る手を上げた。
「サロ族の村は皆三十六歳で突然死んでしまいます。これはどうしてですか?」
「サロ呪術師の寿命は三十六歳と運命づけられている。なぜなら、三十六歳という寿命が我々にとって一番幸せだからだ。長生きがいいというものではない」
 男女は目を伏せて黙り込んだ。
「もう他に質問はないかな?」ナラワットが促したが誰からも質問は出なかった。「長老は偉大な呪術師だ。長老は諸君らが見えないところから常に見守り、見張っている。くれぐれも呪術師の掟を破らないように。掟を破った者は、先ほど長老からもお話があったように、恐ろしい呪いが待ち受けている。――それでは、これで成人の儀式を終了する。最後に長老に敬礼」
 皆は深々と頭を下げた。
「夫婦は、与えれれた住まいに今から戻るんだ」
 もう夜も更けていた。男女はしずしずと長老の御殿を出て、家路に向かった。
 男女がすべて広間から出て行くと、子猿は長老の肩から跳び下り、広間の上座にある巨大な宝石の椅子に腰をかけた。長老とリーダーは子猿の前にひれ伏した。
「今年も終わったな――」子猿は幼児のような可愛い声で言った。
「お疲れさまでした」
「あと二十年か。力を蓄えた立派な呪術師に成長して、美味しく熟れてくれればいいんだが」
 子猿はそう言ってキャッキャッと無邪気に笑った。
「大魔神様、やっぱり三十六歳が一番美味しいんでしょうか」
「そういうものでもないな。時間をかければかけるほど旨くはなるものだが、そんなに長く待ちきれん。かといって、早く食べ過ぎると子供の数が増えないしな。要するに、養殖する上で三十六歳が一番合理的なんだ」
「なるほど」
「――失礼します」
 そのとき、御殿に滅多にくることのないナラワットの妻が突然やってきてひざまずいた。
「どうしたんだ?」ナラワットが困惑したように訊ねた。
「緊急のご連絡がございます。――ただいま、警備の男たちが山から戻ってきました。昨晩、来客庵から脱走した男たちを追ったセタ呪術師です」
「それで?」
「男たちは皆、怪我を負っています。何でも電気ショックを浴びせられたとか」
「電気ショック?」
 長老とナラワットが同時に言った。
「どういうことだ、ナラワット。今の話だけでは事情がわからないぞ」
 長老が問いただした。
「すみません、報告が遅れました。病気の治療のために村にやってきた二人の男のことです。大魔神様の命令に従い、昨夜始末するはずだったのですが、不思議なことに、部屋の外鍵が掛けられていたにも関わらず脱走しまして・・・・。セタ呪術師に臭いを嗅がせて跡を追わせたところ、彼らは城壁を跳び越えて村からも逃げておりました」
「城壁を跳び越えただと?」
「セタ呪術師が言うには、一人はセタ呪術師の臭いだと」
「セタ呪術師だった? で、もう一人の男は?」
「臭いだけでは呪術師の種類は判別できなかったようなのですが、人間ではなく呪術師であったことは間違いないようです」
「もう一人はレラ呪術師だな」
 子猿が会話に入ってきた。
「えっ、レラ呪術師ですって?」
「多分な。クッ、この村にそんな珍味が舞い込んでいたとは惜しいことをした――」子猿は舌なめずりをした。「お前たち、今度、奴らがやってくることがあったら、すぐに我輩に報告するんだ。お前たちが束になっても敵う相手じゃないんだから。我輩が自らひっ捕らえて食べてやる」
「またくるでしょうか」
「くる気がするな。この村に縁があった奴はつづけてやってくるものだから。理由はなんであれ。まったく楽しみだ、ウキャキャキャ」
子猿は陽気に笑った。


   二十
 昼の日差しが和らいだ午後、弦太郎とジョンはホームに帰り着いた。
「帰ってきましたぜ。皆さん元気ですか、イヒヒヒ」
 ジョンが大きな声で言うと、ホームにいたハムとアディーは驚いた。
「あら、ジョンが治ってる!」
「ワタシはそう簡単にはくたばりませんぜ、イヒヒヒ」
 ジョンは体がよくなったことが当たり前のように自信満々に言った。
「ジョン、この前までずっとボケたみたいになって、ご飯も一人で食べられない、トイレも一人で行けない、そんな状態だったのよ。覚えてる?」ハムが言った。
「ワタシはそんなこと丸っきり覚えてないですぜ。皆さん夢でも見ていたんじゃないの、イヒヒヒ」
「人に迷惑かけておいて夢を見ていたなんて。やっぱりジョンは図々しいわね。――弦さん、ジョンの治療は簡単だった?」
「治療自体はすぐに終わったよ。でも――」弦太郎は疲れたようにフウと息をついた。「リーダーに会いに行くまでが大変だったし、村から脱出するのも大変だった」
「ジョンの病気はタム師匠が言われたように催眠術だったんですか?」アディーが言った。
「呪術か催眠術かはよくわかりませんでしたが、サロ呪術師のリーダーはジョンの顔を指で押さえて呪文を唱えただけで治しちゃいました」
「へエー」
 アディーとハムは感心したようにうなづいた。
「で、そのリーダーという奴が巨漢の男で、いかにもサロ族のトップといった容姿で貫禄があるんです」
「ワタシは全然見ませんでしたけどね、イヒヒヒ」
「――こんにちは」
 レイがやってきた。彼女は弦太郎の顔を一瞥して言った。
「今日あたり帰ってくると思ったらやっぱり」
「さすが予知能力がさえてるね。どうにか命からがら帰ってきたよ」
 弦太郎はレイに労わってもらいたくて、苦労を滲ませたように言った。
「大変でしたねえ、弦さん」
 ハムは弦太郎とレイの会話を遮り話に入ってきた。さらに、弦太郎の気を引こうと、彼の背後に回って肩まで揉みだした。
「いや、いや、ハム、オレは肩なんか凝ってないんだ。やめてくれ」
「遠慮なんてしなくていいんですよ、ウフフフ」
 ハムはニコニコして弦太郎から離れようとはしない。
「サロ呪術師というのは、そんなに力のある呪術師なんですか」アディーが訊ねた。
「庶民一人一人はたいしたことないんです。運動神経はよさそうですが、特別な呪術を使えそうな感じでもありませんし」
「でも、村ごと呪術師ですぜ。親分でも一人で戦うのは大変そうですぜ、イヒヒヒ」
「まあ数の問題もそうですけど、もっと恐ろしいのがサロ呪術師を操っているバックの存在です」
「メイドの女はクセ者でしたね。可愛かったですが、イヒヒヒ」
「あんなものクセ者でもなんでもないさ。お前は部屋で寝ていて村を全然見なかったから何にも知らないだろうけど、恐るべきはサロ呪術師を統治する存在だ。巨漢のリーダーのその上に長老がいる。長老は山の上の御殿に住んでいる長身の爺さんで、なにやら力を秘めてそうなんだ。さらにその長老の上に恐るべき存在がいた」
「恐るべき存在というと?」アディーが訊ねた。
「〝子猿〟なんです。奇妙な子猿がいるのを目撃しました」
「子猿?」
「普段は可愛い子猿なんですけど、そいつが人間の言葉を話すんです。しかもドロンと一瞬で姿形を変えて巨大な猿に変身する。その迫力からいって、ぼくの力では太刀打ちできそうにないと直感的にわかりました」
「その猿のことはどうやって知ったの?」レイが言った。
「呪術を使って姿を消して、山にある御殿にコッソリ忍び込んだんだ。そこで、子猿と長老とリーダーが話しているところを目撃した。子猿は長老とリーダーにオレたちを殺すよう命令していた。だから、〝これはマズイ〟とすぐに村を脱出したんだ」
「親分、山の中を何時間も走るのは疲れましたね、イヒヒヒ」
「走るぐらいそれほど疲れない。それよりも精神的に疲れたよ。他の派閥の呪術師は何をしてくるかわからないからな。もう奴らと関わりたくないね」
「そもそもジョンのせいで弦さんがそんなに危険な目にさらされたのよ。ジョンは迷惑のかけっぱなし」ハムが言った。
「なんでハムにそんなこと言われなくっちゃいけないんだ。うるさい婆ァだ」
「婆ァとは何よ」
 ハムが声を荒げた。
「言っておくが、ワタシは非常に大切な任務を果たしたんだぜ。親分が霊石メディテーションをする際の時間管理をしたり見張りをしたり。そもそもあのサロ呪術師の村に行くことがなかったら、親分は自分の霊石を見つけられなかっただろうしね。ね、親分」
「まあ、そいう功徳はあったな・・・・」
 弦太郎は呟くように小さな声で言った。
「ジョン、何を弦さんに恩着せがましいこと言ってるのよ」
「恩着せがましいもなにも本当のことだ。まったく婆ァは理解能力が低い」
「婆ァ、婆ァって、この男――」
 ジョンとハムが諍いを始めた。レイは彼らの様子をチラっと横目で一瞥し、スッと立ち上がって何も言わず部屋から出て行った。弦太郎はレイの後を追って部屋を出た。
「レイ、帰るの?」
「ええ、弦太郎とジョンの無事を確認したし」
「今晩は仕事かい?」
「いや・・・・、本当は仕事に行かなくっちゃいけないんだけど、最近何だかやる気が起きなくて、今日は仕事を休むわ」
「じゃあ、どっかに遊びに行こうよ。気分転換を兼ねてさ。サロ呪術師世界に行ったから、今日は人間世界で遊びたい」
「ウフフ、いろんな世界を渡り歩きたいのね。じゃあ、なにか美味しいものでも食べに行く? あたしがご馳走するわ」
「ホント、それは嬉しいね」
夕方、弦太郎とレイはバンドの生演奏をしている川沿いのレストランへ出かけた。
「この店は美味しいのよ」
「そうなんだ」
二人はテーブルに着き、目を合わせた。レイは何も言葉を発することなく嬉しそうに微笑んだ。弦太郎はレイの微笑を眺めると、彼女の色気にとろけそうな気分になった。
「そういえば、二人きりの食事は初めてだね」弦太郎が言った。
「そういえば初めてね」
 ジョッキのビールが運ばれてきてテーブルに置かれた。
「乾杯――」
 ジョッキを合わせると、弦太郎は一気にグビグビと飲み干した。
「プハー、うまい」
「美味しそうに飲むわね」
「君と一緒だと余計にウマく感じるよ、ハハハハ」
 弦太郎は陽気に笑った。
 炒め物、揚げ物、肉料理、魚料理、サラダ、スープ――、注文した料理がテーブルを埋め尽くすように並べられた。弦太郎はそれらの料理を勢いよく食べた。
「すごい食欲ね」
「戦いの後の晩餐だからね」
弦太郎はチラリとレイを見た。あまり食がすすんでないようだった。
「レイ、食欲がないの?」
「あんまり食べる気がしないの。仕事をする気にもならないし、食欲もないし、なんだか無気力で・・・・」
 レイはビールグラスの淵を指で撫でながら言った。
「そんな日は自分の体の要求に従ってノンビリするに限るよ。仕事なんかしちゃいけない、ハハハハ」
 レイは弦太郎の子供のような無邪気な笑いにつられて笑った。
 店は大勢の客で埋まり、バンドの生演奏が奏でられていた。テープルに置かれたキャンドルの光は薄暗い店内を温かく染めている。弦太郎の目には、キャンドルの光に照らされたレイの瞳がいつも以上に大きく見え、いつも以上に魅力的に映った。店内に入ってくる男性客は美人のレイの姿をチラチラと眺めた。弦太郎は美女を連れているという一種の優越意識を感じた。
「ハムとはなかなか仲良くなれないようだね」
 弦太郎はレイを見つめながら話をつづけた。
「セタとチャペは相性がよくないわ。彼女とは自分から仲良くしようとは思わない」
「何でもはっきりしている君らしいね」
「ハムのことはいいとして、アディーのことが心配」
「アディーがどうかしたの?」
「ニ、三日前からほとんどしゃべらなくなって、外出もまったくしようとしない」
「昼は皆で話していたけど」
「久しぶりに顔を合わせたから衝動的に元気になったんじゃないかしら。昨日も部屋の片隅でじっとしていたわ」
「どうしたんだろう。具合でも悪いんだろうか。それは体力の問題なのか、呪力の問題なのか。師匠がきたら話さないといけないね」
「そうね――」
 大方の料理は弦太郎が平らげてしまった。テーブルの上の食べ終わった食器をウエイターが持ち去り、テーブルは閑散となった。二人はしばらくバンドの生演奏に耳をかたむけた。
「ちょっと騒々しいわね。他の店に行って飲みなおさない?」レイが言った。
「うん、そうしようか――」
 二人はレストランを出て、ホテルの静かなバーへ行った。まだ時間的に早かったせいか、客は誰もおらずガランとしていた。カウンターに座り、二人はカクテルを注文した。
「静かで落ち着くね」
「さっきの店がちょっとうるさかったから余計静かに感じるんじゃない」
 カクテルが運ばれてきた。弦太郎は微笑を浮かべながらグラスをレイに向けた。
「もう一回、乾杯しよう」
「ええ、何に乾杯する?」
「二人の・・・・」
「二人の何?」
「二人の〝愛〟にっていうのはどう? ヌフフフ」
 弦太郎は自分の言ったキザったらしい台詞に、自分自身が笑ってしまった。
「何言ってるのよ、ウフフフ」
 レイもまんざらでないよう様子だった。
 カーン――
 軽くグラスを合わせると、冷たく透き通った高音が響いた。
「昼間話していたことだけど、サロ呪術師の村のことをもう少し聞きたいわ。そんなに危険だったの?」
 レイがサロの村のことをあらためて訊ねた。
「そうだね。組織を仕切っている上層部が手ごわい呪術を持っていそうだね。さっきも言ったけど、トップにいる化け猿がとにかくすごそうだ」
「そんなところに行って、無事帰ってこられたんだからスゴイじゃないの」
「今思い起こすと奇跡みたいだよ。サロ呪術師内部のことを何も知らなかったからノコノコ入っていけたんでね。知らぬが仏とはこのことだ」
「いろんな呪術師がいるものね」
「そうだね、呪力が成熟して呪術が使えるようになっても、上には上がいるってことをあらためて思い知らされる」
「でも弦太郎、どんどん強くなってるわ」
 レイは弦太郎の目をジッと見て、感心したように言った。
「そうそう、師匠に教えてもらって力のキノコを食べて、呪力の治療ができたのがよかったのかも。それとやっぱり霊石メディテーションの効果はすごい」
「霊石メディテーションって何?」
「レラ呪術師は世界に一つ、自分だけの霊石があって、そこから力を吸収できるんだ。霊石に抱きつくとなんともいえない気持ちよさでね」
「レラ呪術師はいいわね。いろんな修行があって」
「その分、困難も多いみたいだけどね。――レイにはどこか力の場所ってないの?」
「力の場所って?」
「そこに行けば心が安らぎ、力が湧いてくるような場所だよ」
「そんなところないわねえ・・・・」
「本当かい? 呪術師だったらどこかにあるはずだぜ」
「そうね・・・・、強いていうなら猫寺かしら」
「猫寺なんてあるんだ」
「猫寺というのは本当の名称じゃないんだけど、猫がたくさんいるお寺だから、通称そう呼ばれているお寺があるの。山にある静かなお寺でね、何百匹って猫がいる。捨てられた猫をお寺が面倒をみているの。そこで猫と戯れているときが一番安らぐかな」
「そうとう猫が好きなんだね。今度一緒に行きたいなあ」
「今度行きましょうよ」
「約束だよ、絶対」
 弦太郎は自分の小指をレイの小指に絡ませようとした。
「何よ、何するのよ」
 レイは照れながら手を引っ込めた。
「ヒヒヒヒ」
 弦太郎は怪しげな笑みを浮かべながらカクテルグラスを口に運んだ。レイの手の感触を頭のなかで反芻した。
――レイの手はやわらかくて、細くって、可愛いよなあ・・・・。
「ねえ、レイ」
 弦太郎は何気ない調子で言った。
「何?」
「ヒヒヒヒ、何でもない」
「何なのよ、気持ち悪い」
「ねえ、レイ」
「だから何なの」
「いや――」弦太郎は急に真面目な表情になり、レイの大きな瞳をじっと見つめた。「いや、オレね」
「何?」
「レイのこと・・・・」
「ん?」
「レイのこと、好きになっちゃっかもしれない」
 弦太郎は酔った勢いも借りて胸のうちを吐露した。
「・・・・・」
 レイは弦太郎の目線を外してしばらく黙った。そして一言、
「ごめん」
「えっ・・・・」
 こうして二人きりで時を楽しんでいるということは、彼女は自分に興味があり、肯定的な返事が返ってくるとばかり思っていた。それが「ごめん」である。スッと酔いが醒めるのを感じた。
「どうして?」
 弦太郎はしつこく追求した。
「あなたとそんな関係になりたくないわ。私たちは同士でしょ」
レイはピシャリと言った。
「同志であっても恋をする権利はある」
「権利がどうのこうのって、そんな難しいこと言ってないの。ただ、あなたとそんな気になれないって言ってるの」
 弦太郎は現実を突きつけられた気がした。
「いや、いや、いや冗談だよ、冗談さ。本気にとらないでくれよ、ハハハハ。ちょっと酔っ払って君をからかっただけさ――」弦太郎は百八十度方向を転換させた。「今の言葉、取り消していい。削除、削除」
「ええ、いいわよ」
 レイは冷たい視線で弦太郎の目を覗き込みながら静かに言った。
「今まで通りの友達同士の関係でこれからも付き合っていこう。本当に今の言葉、忘れて」
「ええ、忘れるわ」
互いに沈黙し、何となく気まずい空気になった。
「そろそろ出ようか」
 二人は早々とバーを出て別れた。


   二十一
――フラれたか。ハアー
 弦太郎はホームの居間の床に寝転がり、深いため息をついた。
――まさかフラれるとはなあ。
 翌日になると、胸に痛みを感じた。
「どうしたの弦さん、ボンヤリして――」ハムが弦太郎の顔を覗き込んだ。「ご飯ができましたよ」
「ああ」生返事をした。
「ん? そうだ。アディー爺はどうしてる?」
 弦太郎はアディーのことを思い出し半身を起こした。
「まだ寝室で寝ていますよ。全然動こうとしないんです」
「何か食べた?」
「何も口にしようとしませんね」
「体に悪そうだなあ。何か食べさせないと」
「デーン先生がもうじききて、診察してくださいます」
「そう――。じゃあ、ジョンは?」
「デーン先生の診療所。いまはここに弦さんとあたしの二人きり。――ご飯を食べましょうよ、ルルルル」
 ハムは鼻唄を口ずさみながら部屋から出て行った。弦太郎はハムの後ろ姿を何気に眺めた。彼女はいつもズボンしかはいていないのに今日は短めのスカートをはき、太く屈強そうな脚が露になっていた。弦太郎は何だか嫌な予感がした。
「――はい、今日のお昼ご飯です」
 ハムが食事を運んできた。
「えっ、ずいぶん贅沢じゃないか」
 平日の昼間にしては豪華な料理が運ばれてきた。
「弦さんは痩せてるから、ちょっと体力をつけてもらおうと思ってね、ウフフフ」
「あ、ありがとう・・・・」
「どんどん食べてね。いっぱい作ったから」
 弦太郎はとハムはちゃぶ台に向かい合って食事をした。
「ウフフフ、ああ、こうやって弦さんと二人きりで食事ができるなんて嬉しいわ」
 ハムは上機嫌に最近の近況などについてひとりで話した。
「うん、あ、そう――」
 弦太郎は適当に相槌を打ち、聞くことに専念した。
「――おお食べた食べた、もう腹いっぱいだ」
 食事を終わらせた弦太郎がゴロリと横になると、ハムはそばに寄り添い弦太郎の臀部をさすった。
「ん!? 何だよ」
 弦太郎は体を捻らせてハムの手を遠ざけた。
「マッサージでもしましょうか、ウフフフ」
「いや、いいよ。全然こってなんかないから。それに、食べてすぐマッサージなんかしたら体によくないし」
「遠慮しなくてもいいんですよ。まだお疲れなんだから。さあうつ伏せになって」
「遠慮じゃないんだ。していらないんだ」
「はい、はい――」
 ハムは弦太郎をダダをこねた子供のように扱い、無理やり寝かせて両手で腰を押した。
「おい、やめてくれ、胃がおかしくなる。ヒヒヒヒ、くすぐったい」
 そのとき、
「――こんにちは」
 デーンがホームにやってきた。ハムはパッと弦太郎から離れて、ちゃぶ台の上の食器の後片付けを始めた。
「あら弦太郎君、すっかり元気になって。それにすごく力が高まってるじゃないの。見違えたわ」
 デーンは弦太郎を一瞥して言った。
「わかりますか」
「そりゃわかるわよ。もしかして、霊石が見つかったの?」
「ええ、サロ呪術師の領土でね」
「よかったわね」
 ジョンも部屋に入ってきた。
「親分は霊石メディテーションが大好きですぜ、イヒヒヒ」
「修行のためだからな」
「でも、サロの領土は殺し屋がウロウロしていて物騒だから、もう行っちゃダメですよ」
「ケッ、なんでお前に指導されなくちゃいけないんだ」
 弦太郎はジョンを睨みつけた。自分が霊石メディテーション中毒にかかっていることを半ば自覚していただけに、そのことについて触れて欲しくなかった。
「――そうそう、アディー爺のこと」
 デーンは立ち上がって、寝室のアディーの様子を見に行き、しばらくして戻ってきた。
「体の調子は悪くないみたいだけど、なにか呪力に大きな変化が起きてるのかもしれないわ」
「デーン先生でもよくわかりませんか」
「一応診療所で入院させましょう。ここだと頻繁に様子が診れないから。ジョン、アディー爺を車に運んでちょうだい」
「ヘイ。今ですか?」
「ええ、今」
「あいよ――」
 ジョンはアディーを背負って、デーンと一緒にホームから出て行った。
「――弦さん」
 ホームに彼らがいなくなると、ハムは嬉しそうに弦太郎に声をかけた。
「マッサージつづけましょうか、ウフフフ」
「あっ、そうだ用事を思い出した。出かけるよ」
 弦太郎は立ち上がった。
「何の用事ですか」
「ああっと・・・・、大切な用事だ。知り合いと約束ある」
「もうちょっとゆっくりしていったらいいじゃないですか」
 ハムは弦太郎の手を握り締めた。
「すぐに行かないと。じゃあね」
 弦太郎はハムの手を払いのけ、目的もなくホームを飛び出した。
「ああ、どこに行こうかなあ・・・・」
 弦太郎は特別行くべき場所がなかった。デパートにでも行こうかと通りを歩いていると、偶然、交差点で信号待ちしているレイの車を見つけた。
「レイだ!」
 弦太郎は呪術を使って姿を消し、レイの車に乗り込んだ。
「――レイ、仕事に行くのかい?」
 弦太郎は助手席から突然姿を現し、レイを驚かした。
「わっ、ビックリした。どうしてここにいるの?」
 レイは目を丸くして弦太郎をまじまじと見つめた。
「偶然見かけたから、呪術を使って乗り込んだ、ハハハハ」
 弦太郎は笑いながら言った。
「呪術を悪用しちゃダメよ」
「悪用じゃない、人を喜ばせるための正当な使い方さ。――あ、そうだ。昨日は御馳走さま。すごく楽しかったよ」
「いえ、こちらこそ。あたしも楽しかったわ」
レイは、昨晩弦太郎が告白してきたことについて触れようとしなかった。弦太郎もそのことに触れて欲しくなかった。
「で、今からどこ行くの」弦太郎が訊ねた。
「ちょっと診療所へ行こうと思って」
「ついさっき、デーン先生がアディー爺を診療所へ連れて行ったよ。入院させた方がいいって」
「そうなんだ・・・・。確かにホームにいるよりそっちの方がいいわね」
「この後、仕事?」
「今日も何もする気が起こらないの。どうしたのかしら、あたし・・・・。何か不吉なことが起こる前触れのような気がする。こんなこと今までなかったから・・・・」
「考えすぎだよ。疲れているんだけさ。しばらく休めば気力も湧くはずだ」
「そうだといいんだけど」
「そうだ! じゃあ、いまから力の場所へ行こうよ。昨日レイの言ってた猫寺ってところ」
「猫寺か・・・・。そういえば、長らく行ってないわねえ」
「なおさら行った方がいい。ここから遠いの?」
「少し遠いけど、一時間ぐらいで着くと思う」
「じゃあ、行こう」
 猫寺へ車を走らせた。
    *
 猫寺は、民家の少ない物静かな山の中にある孤立した寺院だった。寺には修行僧が三名常住しているらしいが、弦太郎たちが訪れたときは誰もいなかった。
「へえ、ここが猫寺か・・・・」
 弦太郎は物珍しげにキョロキョロと見回した。
「猫がいるのはこっちよ」
 扉の開け放たれている礼拝堂に入ると、何百匹という猫が思い思いにくつろいでいた。
「うわ、たくさんいるなあ」
 猫の大群を見た弦太郎は目を見張った。その空間は猫の鳴き声と、猫の臭いで充満していた。
「かわいいでしょ」
 レイは床に腰を下ろし、猫を数匹抱っこして頬擦りした。レイの周りには甘えるように猫が集まってきた。弦太郎も腰を下ろし「オイデ、オイデ」をしたが、まったく寄り付いてこなかった。
「ここは君の力の場所のようだね。オレの力の場所でないことは確かだ」
「久しぶりにここにきてよかったわ。なんだか落ち着く」
 レイはいつもどこか警戒心を持っているような固い表情を隠し持っていたが、猫と戯れている彼女は真から穏やかな表情になっていた。
 弦太郎は壁に寄りかかり、レイの様子をぼんやりと眺めながら物思いにふけった。
――師匠が戻ってきたら何を訊こうか。化け猿のことと、アディー爺のこと・・・・。でも、いつ師匠はホームにくるだろう? ずっとホームでダラダラしているわけにもいかないし。やはり近々霊石メディテーションに行くか。こうしてレイと一緒に毎日遊んでいられるなら、もう少しここにいてもいいんだが・・・・。
「ねえ弦太郎」
 レイが声をかけた。
「ん? 何だい」
「霊石メディテーションって、あたしがこうして猫と遊んでいるときに感じるような安らいだ気持ちになるの?」
「そうだね、多分それ以上だと思うよ。それの十倍ぐらい。いや、百倍ぐらい安らぐ」
「本当? これの百倍の安らぎなんて世の中にあるのかしら」
レイは子猫を抱きかかえながら、赤ちゃん言葉で何やら話しかけていた。その様子を見ていた弦太郎は、またフツフツとレイに対する恋慕の感情が湧き起こってきた。
――もう一回自爆してやるか。
 彼女のもとに近づいた。
「どうしたの?」
 レイがキョトンとして言った。
「レイ――」弦太郎は真剣な表情で彼女を見つめた。
「レイ、やっぱりオレは君のことが好きだ。付き合ってくれ」
「・・・・・・」
 レイは弦太郎から目を逸らし、何も答えず猫を撫でた。
「レイ、聞こえているのか――」
 弦太郎は語気を強めて詰め寄った。
「何か言ってくれよ」
――レイは本当はオレのことが好きなんだけど、彼女特有の恋愛テクニックを駆使して焦らしているに違いない。
「レイ――」
 言葉を区切ってはっきりと言った。
「す・き・だ」
 弦太郎から目線を外していたレイは一呼吸おき、きっと弦太郎に視線を向け、甲高いヒステリックな声で一言叫んだ。
「しつこい!」
 苛立ちが露骨に顔に出ていた。弦太郎はハッと我に返った。
――どうやらオレはとんでもない思い違いをしていたらしいぞ。
「昨日、言ったじゃない。あなたとあたしは同志であり、友達だって。それ以上でも、それ以下でもないって」
 弦太郎はレイの気迫にたじろいだ。
「もう帰る!」
 レイはさっと立ち上がり、礼拝堂から出て車にスタスタと向かった。弦太郎もしょんぼりとしてレイの後を追った。
「レイ、ゴメン、ゴメン、冗談だよ、冗談。いま言ったことは忘れてくれ」
「懲りないわね。昨日と同ンなじこと言ってる」
「どうしてそんなに怒るんだい。本当に冗談なんだからさ・・・・」
 ピー――
 薄気味悪い音と同時に、生ぬるい強風が通り抜け、埃と落ち葉が境内を舞った。
「ん!?」
 二人はハッと顔を見合わせた。
「風の精霊!」
レイが叫んだ。
それは突然の襲撃だった。前触れの音は事前に響いていたはずだが、恋愛劇に夢中になっていた二人はそれを聞き逃していた。二人はマガラの香水をつけていなかった。
レイは走って車に駆け寄り、車のドアの取っ手に手をかけた、その瞬間だった。突風が襲い掛かり、二人は数メートル飛ばされた。
――マズイ! 二人とも殺される。
 弦太郎は地面に叩きつけられながら、そのコンマ数秒の間にいろんなことを考えた。
――そういえば、オレはアディー爺に毎回助けてもらっていた。しかし、今ここにアディー爺がきてくれるわけがない。せめてレイだけでもどうにか助けたい。どうすれば・・・・。そうだ! 確か師匠が言うには、透明の術に入ると、自分の姿が風の精霊により明瞭に見えると言っていた。自分が標的になっている間にレイを車の中へ逃げ込ませればいい。
「ヤーッ!」
 弦太郎は術を使って姿を消した。
「さあ、こい!」
 立ち上がって身構えた。
 ゴオオオオ――
風の精霊が轟音とともに吹きつけてきた。
「何だ?!」
 弦太郎の目に、猛スピードで突進してくる風の精霊の姿がはっきりと見えた。色も形もないと思っていた風の精霊だが、実際には色と形があった。その風の精霊の姿は〝白いガルーダ〟の形していた。
――えっ、どうしてガルーダなんだ? オレに祝福をあたえてくれたあのガルーダなのか? どうしてオレの守護神が?
 刹那に思った。ガルーダは慈しみに溢れた眼ではなく、残忍で凶暴な毒蛇のような眼をしていた。
――ガルーダと風の精霊が同一?!
小型旅客機ほどの大きさのあるガルーダは一直線に弦太郎に向かってきた。
――こ、殺される・・・・。
 弦太郎は無意識的に電撃の術を放った。
 バシッ――
 ガルーダの顔に命中した。ガルーダは直角に進行方向を変え、そのまま空に昇っていった。
――今だ!
 弦太郎は地面に倒れているレイをすばやく担いで車の中に入り込みドアを勢いよく閉めた。車内でレイに覆いかぶさり、身を丸くして小さくなった。
 ガルーダは中空を数回旋回して、また一直線に車めがけて猛スピードで突撃してきた。豪風が車に直撃し、車はひっくり返ってゴロンゴロンと二回転した。
風の精霊の攻撃は続いた。風の精霊の第三波が同じように車めがけて突進し、再び車ごと吹き飛ばした。しかし車内に入ってこれなかった。さらにもう一度第四波が襲いかかり車を吹き飛ばしたが、車内の二人は無事だった。
ピー――
風の精霊は去って行った。
 嵐の後、辺りはひっそりと静まりかえった。
「――レイ、大丈夫か」
 弦太郎はレイの体を揺すった。レイは意識を失い、顔色が浅黒くなっていた。
「た、大変だ!」
 弦太郎は自分の無事を喜んでいる間もなかった。すぐに車のエンジンをかけ、デーンの診療所に車を走らせた。
「――デーン先生、デーン先生、大変です!」
 弦太郎はレイを担いで診療所に飛び込んだ。
「どうしたの?」
 診療所にいたファミリーは弦太郎の必死の形相を見てシンと静まった。
「レイが風の精霊に襲われました。意識がありません。すぐに診てください」
 レイをベッドに寝かせ、デーンはレイの体を診察した。
「まだ息はあるけど、力を失ってるわ」
「どうしたらいいですか? 薬は?」
「風に襲われて傷ついた呪術師に与える薬は何もないわ。弦太郎君もよく知ってるでしょ」
 デーンは毅然とした態度を崩さずに言った。
「じゃあ、どうしたら・・・・」
「時間の問題ね・・・・」
「時間の・・・・。でも、彼女の体に風の精霊が入り込んだわけではないんです。ぎりぎり車に逃げ込んだんです」
「力の弱い呪術師は、風の精霊が近づいただけでも呪力を失ってしまうことだってあるの」
 そのとき弦太郎は力のキノコのことを思い出した。
「そうだ! 力のキノコがあるじゃないですか。あれを食べれば治るんじゃないですか。オレもそれで治ったんだから」
「それはいい考えだけど、いまここにはないわ。あれは新鮮さが重要で保存ができないから」
「じゃあ、オレがいまから採りに行きます。レイをその場所に連れて行って食べさせます」
「ダメ、いま体を動かすのは危険だわ」
「じゃあ、新鮮なやつをすぐここに持ってくればいいんですね」
「それまでレイの命が持っていてくれれば可能だけれど・・・・。それなら急いで、一刻も早く!」
「よし! じゃあ、いまから力のキノコを採りに行ってきます。場所はわかっていますから。サロの領土の近くです。ジョン、行くぞ」
「えっ、ワタシも一緒ですか?」
「当然だろ」
「一昨日帰ってきたばかりですぜ」
「いまの話を聞いただろ。レイの命が一刻の猶予もないんだ。急ぐぞ」
「わかりやした――」
二人は力のキノコの生えている山へ向かって車を走らせた。


   二十二
 弦太郎とジョンは車から下りた。夜明け前で辺りはまだ真っ暗だった。
「ここにこんなに早く戻ってくるなんて思ってもいなかったですぜ、フアー」
 ジョンは両手を上げて体を反らしながら大きなあくびをした。
「力のキノコはこの辺りの山にしかないからな」
「前は師匠ときましたか?」
「そう、意識を失ったお前を負ぶってな。ゴフトの屋敷で風の精霊に襲われて以来、ずっと体調が悪かったんだが、力のキノコを食べた瞬間てきめんに治ってしまった。だからレイも力のキノコを食べさせればきっと治るに違いない」
「それはスゴイですね。だけど、ワタシはサロ呪術師の殺し屋が出ないか心配ですぜ」
「力のキノコの崖はサロ呪術師の領土外の安全な場所だ。さあ急ぐぞ」
二人は山を駆けた――。
どれだけ時間が経っただろう。夜が明けて辺りは白々と明るんできた。
「親分、まだですか?」
 ジョンがくたびれたと訴えんばかりに言った。
「もうすぐだ、あの崖だ、あそこ、あそこ――」
 弦太郎は前方の崖を指差した。
「やっと着きましたか、ハア、ハア、ハア」
 ジョンは息を荒げながら崖の手前までトボトボと歩いた。
「この崖の上に力のキノコがある」
 弦太郎は崖を見上げながらジョンに説明した。
「お、親分、もしかして・・・・、ワタシはあんなところ登れませんぜ。ワタシは走り専門です。親分一人で登ってくださいよ」
「もちろん、オレ一人で登るつもりだ。ジョンがくると足手まといになるからな」
「イヒヒヒ、そりゃ、ごもっとも。よくわかっていらっしゃいます。じゃあ頑張ってくださいね」
 弦太郎はじっと崖を見上げたまま静止した。
「ん? 親分、どうしましたか? 怖くなりましたか?」
「いや・・・・、こんなところ登るくらいお茶の子さいさいチョロいもんだが、ううん・・・・」
「イヒヒヒ、じゃあ、早く登ってください。ワタシはここで待っていますから」
「そうだな・・・・」
 弦太郎はその場から動かず、しばらく黙って考え込んていた。
「あっ、そういえば一つ思い出した」
「何をですか?」
「師匠が言うには力のキノコは鮮度が重要らしい。できるだけ新しいものを持ち帰りたい」
「イヒヒヒ、デーン先生も言ってたじゃないですか。採ってすぐ帰らないと」
「そうなんだよ・・・・」
「どうしましたか、親分。何も問題はないですぜ」
「ちょっと予定を変更しよう」
「どう変更しますか?」
「まず霊石に行こう」
「えっ、霊石ですって? 何を言い出すんですか。我々は霊石メディテーションにきたわけじゃないですぜ。レイの治療のため、力のキノコを採りにきたんですぜ」
「それはそうだが、せっかく時間をかけてここまできたんだ。ちょっと挨拶程度に力の補給がしたい」
「ダメ、ダメ、ダメ、親分落ち着いてください。レイは一刻を争う深刻な状態ですぜ。親分が、意識を失ったレイを診療所に運んできたんじゃないですか」
「それはそうなんだが・・・・。でも、オレも一刻も早くパワーアップを図りたい」
「何を言ってるんですか。いまパワーアップしなくても死ぬわけじゃないでしょ」
「確かに死ぬわけじゃないが・・・・。でも、まあ少しの間だ。ほんのちょっと、たったの一時間だ」
「たったの一時間っていっても、ここから霊石に行くのにどんなに急いでも片道六時間はかかるでしょ。往復したら一日が潰れてしまいますぜ」
「ジョンがもっと速く走ればもっと早く着くだろ? 片道三時間で走り切ろう」
「親分、冗談でしょ? それにあそこはサロ呪術師の領土じゃないですか。身の危険もありますぜ」
「大丈夫だ。村から大分離れている。見つかりゃしない。かりに見回りにきたとしても下っ端だ。そんな奴ら、オレが成敗してくれる」
「じゃあ親分が一人で行けばいいじゃないですか。ワタシはここで待ってますぜ」
「それでは困るんだ。ジョンが時間を知らせてくれないと、オレは霊石メディテーションを止められない」
「おい、おい、おい・・・・」
 ジョンは困惑した表情になった。
「じゃあ、こうしよう。オレは先に行ってメディテーションをしている。ジョンは霊石についたら、すぐにオレを起こしてくれ。それでいいだろ」
「親分、何を言い出すんですか・・・・」
「とにかくジョンの走り次第だ。じゃあ、オレは先に行ってるからな。すぐ来いよ」
「レイの命が・・・・」
弦太郎はジョンの言葉に耳を傾けることなく、勢いよく走り出した。ジョンも慌てて弦太郎について行った。
    *
 猛スピードで走った弦太郎は三時間ほどで霊石にたどり着いた。後ろを振り返ったが、もちろんジョンはまったく見えなかった。
「まだまだ来そうにないな」
 弦太郎は霊石に手を触れた。
――おお、ジンジンと気持ちよさを感じる。じゃあ、ジョンが来るまで夢の時間だ。
 弦太郎は、海岸の岩場にいるフジツボのように霊石に張り付いた。
「――ハア、ハア、ハア」
 ジョンが息を荒らげて冷静にたどり着いた。
「やっとついたか・・・・」
 ジョンはしばらく地べたに大の字に引っくり返って呼吸を整えた。
――こうしている場合じゃない。
 ジョンはムクリと起き上がり弦太郎を起こした。
「親分、時間ですぜ」
 弦太郎の耳元で声をかけた。
「・・・・・・」
 弦太郎から応答が何も返ってこなかった。
「やっぱり・・・・。親分、親分――」
 何度声をかけても弦太郎はまったく反応しなかった。もっと大声を出したいが、サロ呪術師の領土なので憚られる。ジョンはじれったくなって弦太郎の体を揺すった。弦太郎の体は強力磁石が金属に張り付いたかのようにガッチリと密着して微動だにしなかった。
「こいつはマズイぞ」
 ジョンは最終手段とばかり弦太郎の背中を手の平で強く叩いた。
「親分、親分――」
「うう」
 弦太郎は微かなうめき声を出した。
「親分、聞こえますか――」ジョンは弦太郎の耳元に口を寄せて話しかけた。「起きてください。すぐ戻りましょう」
「あと一時間だけ・・・・」
 弦太郎は消え入るような小さな声で言った。
「ダメ、ダメですぜ。約束ですからね」
「・・・・・」
 また弦太郎の反応がなくなった。
「こりゃ参ったぞ・・・・」
 ジョンは仕方なく一時間待ってみることにした。
「――親分、追加の一時間終了しましたぜ」
 ジョンは弦太郎の耳元で話しかけた。
「・・・・・・」
 やはり反応が返ってこなかった。ジョンは先ほどと同じように弦太郎の背中を叩いた。
「親分、親分――」
 しかし一向に返事がなかった。太陽の日差しは頭上からカンカンと照りつけている。ジョンは焦りを感じ、弦太郎の胴体を両手でガシリと掴み、力づくで霊石から引き離そうと試みた。
「エイヤーッ!」
 弦太郎の体はビクともしなかった。前回はこれで体を引き離せたのに、張り付く力が強くなっている。手を変え品を変え、いろんな方法を試みて弦太郎を霊石から引き離そうと試みたがダメだった。そうこうしているうちにどんどん時間が経過していった。
「ワー、もう知らないですぜ、親分。レイがどうなってもいいんですか。もう勝手にしてくれってんだ」
 ジョンは弦太郎の耳元で大声を出した。
「ワタシはもう一人で帰りますからね、知りませんぜ。もう腹が減って死にそうだ」
 ジョンは一人で山を下っていった。
「まったくどうするつもりなんだ、親分の奴――」
 ジョンは愚痴をこぼした。ケータイでファミリーに電話をかけてみたが、山の中なので電波が繋がらない。
「町まで出ないといけないか」
 二時間ほど歩いたときだった。ジョンは突然、背後からポンと肩をたたかれた。
「ん!?」
 ジョンは寒気が走った。
――殺し屋だ! 
 おそるおそる振り向くと、背後にサムが立っていた。 
「おお、サム兄さんか。ビックリした。どうしてこんなところにいるんですか」
「ホームに帰ったら師匠に会ってな。弦太郎が霊石に向かうかもしれないから、救出に行くようにと命令された」
 サムは平然と言った。
「そうでしたか。さすが師匠、すべてお見通し。ワタシも困っていたんです。霊石メディテーションをまったく止めようとしない。いくら声をかけようが、揺さぶろうが、引き離そうが、まったく反応がなくて」
「完全に中毒になっているようだな」
「まさに中毒患者ですぜ」
「ジョン、急いで弦太郎のところに案内するんだ」
「ここからまた戻らないといけませんか・・・・」ジョンは小さく呟いた。
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもありませんぜ。さあ、行きましょう」
 ジョンは方向を百八十度変え、また弦太郎のところへ向かった。
「親分の奴、どこまで面倒かける気だ」
 ジョンはブツブツ愚痴をこぼしながら歩いた。
「ジョン、自分の親分の悪口は言うものではない。そんな余力があるのならもっと速く走るんだ」
「イヒヒヒ、聞こえましたか。もうちょっと急ぎますか」
 ジョンは足を速めた。
「もっと速くだ」
「もっと速く?」
「急げ!」
 サムはジョンの尻を蹴飛ばした。
「ギャッ!」
 ジョンはサムに発破をかけられ全速力で走らされた。
「――サム兄さん着きましたぜ。ハァ、ハァ、ハァ」
 ジョンは霊石の前で倒れこんだ。
「ここか――」サムは丸い巨石に弦太郎が張り付いているのを確認した。「なるほどな」
「サム兄さん、親分を起こすとき大声を出したら危険ですぜ。ここはサロ呪術師の領土、知らないうちに奴らが集まってくるかもしれませんから」
「サロ呪術師とはそんなに危険な呪術師なのか?」
「親分が言うには、サロ呪術師の親玉は、戦って敵う相手じゃないらしいですぜ」
「そうか――」サムは自信ありげに笑った。「まあ、サロ呪術師のことはいい。問題は弦太郎だ」
 サムは無造作に弦太郎の首根っこを掴んで声をかけた。
「おい、弦太郎、聞こえるか?」
 しかし、反応がなかった。
「こいつは重症だな。このまま放っておいたら死ぬまで石に張り付いているぞ」
「確かにそんな感じですね。どうしますか?」
「二人で石から引き離すぞ」
「ヘイ」
 サムとジョンは二人がかりで弦太郎を引っ張り霊石から引き離した。弦太郎は霊石から引き離されると地面にひっくり返った。
「痛たたた」
「気がついたか?」
「何をしやがるんだ!」
 弦太郎はサムに飛びかからんばかりの勢いで喰ってかかった。
「親分、冷静になってください。どれだけ時間が経過したかわかってるんですか?」
 ジョンがあきれたように言った。
「そんなこと関係ない。とにかく今いいとことろだったんだ」
「もう半日以上過ぎてますぜ」
「そんなことは訊いてないって言ってるだろ。とにかく今、集中力を切らすべきじゃなかったんだ」
「弦太郎――」サムが落ち着いた面持ちで諭すように言った。「お前はここに何しにきたんだ?」
「何しに?」
「何しに山に入ったんだ?」
「何しにって・・・・。なんだサム、いきなり現れてお前に関係ないだろ」
「関係があるんだ、ファミリーの問題だからな。お前はレイを救うため、力のキノコを採りにここにきたんじゃないのか」
「まあ、そうだが・・・・」
 弦太郎はだんだん冷静さが戻り、事態が飲み込めてきた。
「一刻も早くキノコを持ち帰らないといけなかったんじゃないのか」
「まあ、そうだけど・・・・」
 弦太郎は気まずい気持ちになった。
「もう今から帰っても手遅れかもしれないな」
「いや、まだ大丈夫だ」
 弦太郎は強がって言った。
「そうかな――」
 サムは眉間に人差し指と中指を当て目を閉じた。しばらくじっと集中した後、目を開けて静かに言った。
「レイは死んだ」
 弦太郎はギクリして体を強張らせた。
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「レイの力を感知できない。もう力のキノコは必要ない」
 サムの言葉に弦太郎は力を失い、呆然として立ち尽くした。
「お前が寄り道なんかせず、まっすぐ力のキノコを採って帰ったら、レイは息を吹き返したかもしれないのに、残念だな」
「時間がなかったんだ、時間が・・・・」
 弦太郎は地面にヘタヘタと座り込んだ。
「まだ言いわけする気か――」サムが半笑いになって言った。「お前ぐらい力があったら、ジョンを連れてくるよりも一人で来た方がよっぽど早く来れたんじゃないのか」
「それは安全のために・・・・」
「安全のために? ジョンを連れてくると、安全上にどんな違いがあるんだ」
 弦太郎は何も言いわけすることができなくなった。罪悪感も強くのしかかり、地面に頭をつけて謝罪した。
「悪かった。本当にオレが悪かった。オレが全部悪い」
「謝って済む問題じゃない。頭を上げろ」
「オレが悪いんだ。レイが風の精霊に襲われたときも、事前に音を感知できなかったオレのせいなんだ。オレが全部悪かった」
 弦太郎は頭をあげることができなかった。
「もういい、過ぎたことをウダウダ言ってもどうにもならない。――さあ、腹も減っただろ。これを食え」
 サムはかばんの中からいくらかの食料を出した。
「ウハ、サム兄さん気が利くじゃないですか、いただきやすぜ」
「食べ終わったら、すぐに戻ろう。師匠がホームでお待ちになっている」
 弦太郎は放心したように虚空を見つめ、サムの持ってきた食料に手をつけなかった。
「親分、終わったことをクヨクヨしてもしょうがないですぜ。さあ、食べましょう」
 食料はジョンが一人で食べてしまった。
「さあ、帰るぞ」
 サムは弦太郎の腕を引っ張って立たせた。
「オレは帰らない」
 弦太郎はボソッと言った。
「何を言い出すんだ。帰らないで、どうするつもりだ」
「ちょっと調査に行きたい」
「調査?」
「ここまできたんだ。サロ呪術師の調査に行く」
「親分、何を言い出すんですか――」ジョンが呆れたように言った。「親分が自分で、化け猿は危険だからサロの村には絶対近づかないほうがいいって言ってたんじゃないですか」
「化け猿って何なんだ?」サムが訊ねた。
「サロ呪術師の一番のトップだ。サロ呪術師の秘密はすべてこの化け猿が握っている。普段は子猿だが、変身して一瞬で大猿になる。そいつの正体をもう少し探りたい」
「無駄なことに頭を突っ込むな。そんなことして何の得になるんだ」
「そうでもしないと、ファミリーのみんなや師匠に合わす顔がない。何か収穫がないと」
「だれもそんなこと待ち望んでなんかいない。馬鹿なこと言ってないで帰るぞ」
「いや、オレは調査に行く――」
 弦太郎は立ち上がり、サロの村の方へトボトボと歩き出した。
「親分、冷静になってください。そんなことしても何の意味もないんですよ。危険なだけですぜ」
「呪術師は危険に立ち向かうよう運命づけられているんだ」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ――」サムは軽蔑するように言った。「勝手にしろ。ジョン、帰るぞ」
「へ、ヘイ」
 サムとジョンは弦太郎とは反対方向に歩き出した。
「あっ、そうだ――」弦太郎は足を止め、振り返った。「サム、一つ訊きたいことがある」
「なんだ?」
 サムも振り返った。
「風の精霊のことなんだが」
「風の精霊がどうした」
「この前、風の精霊に襲われたとき、術を使って姿を消したんだ。その状態で風の精霊を見たら、風の精霊はガルーダの姿をしていた。そのことは知っているか?」
「ハハハハ、お前も見たのか。そう、風の精霊はガルーダの姿をしている。しかし、同一かどうか俺は知らないけどな」
「そのとき、襲ってきた風の精霊の顔めがけて電撃の術を放ってやったんだ。そしたらうまく命中して、奴は方向を変えて宙へ逃げた。一瞬だったが怯んだように見えた」
「奴の弱点は目だからな。一瞬、視界を失ったんだろう。だが、電撃の術で完全に倒すことはできない。すぐに襲ってきただろ?」
「確かにすぐに襲ってきた。じゃあ、力を高めてもやっつけることはできないのか」
「俺たち呪術師では倒すことは不可能だな。しばらくの間、そうやって混乱させるぐらいか」
「なるほど・・・・」
「質問はそれだけか?」
 サムは笑いながら言った。
「ああ・・・・」
「親分、本当に帰らないんですか?」ジョンが心配そうに訊ねた。
「帰らない。じゃあな――」
弦太郎はサムとジョンの方を振り返ることなく、サロの村の方へ歩いて行った。


   二十三
 サムとジョンがホームに帰り着くと、サムの子分のトンが一人で留守番をしていた。
「ああ、疲れちまったぜ、フウ――」
 ジョンは床に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「なんだいトン、家の中がまるで葬式みたいに静まっているじゃないか、イヒヒヒ。みんなはどうしたんだ?」
「葬式だから静まってるんだ」
 トンはフッと鼻で笑いながら冷静に返した。
「ん?」
ジョンは一瞬頭の中が混乱した。サムが山の中でレイの死を感じたと言っていたが、実際にそのとおりのことが起きていたのだ。 
「やっぱりレイの?」
「他に誰がいる?」
「ヒャッ、じゃあ、葬式はどこで?」
「診療所だ」
「ワタシはちょっくら診療所に行ってきますぜ。レイが死んじまったことが信じられない」
 ジョンが部屋から飛び出そうとすると、バッタリとタムと鉢合わせになった。
「わっ、ビックリした。――師匠、お帰りなさいませ」
 ジョンはその場でひれ伏した。
「どうだ調子は?」
 タムは普段の調子でジョンに言った。
「悪くありませんぜ、イヒヒヒ」
「師匠、今戻りました」
 サムも丁寧に頭を下げ挨拶をした。
「師匠、レイのことですが――」ジョンは口早にタムに訊ねた。「いやあ、ビックリしました。レイが死んでしまったとは。レイは、師匠の手にかかっても救えませんでしたか」
「即死していてもおかしくない状態だったからな。あれではどうしようもない。彼女の強い気力で持ちこたえていただけだ」
「ヒー、そうだったんですか。じゃあ、力のキノコを急いで持ち帰ったとしてもダメでしたか」
「あの状態からでは無理だな」
「そうでしたか・・・・。親分は責任を感じてすっかり落ち込んでいましたぜ」
「それで、弦太郎はどうした?」
「イヒヒヒ、まだ帰ってきませんぜ」
「弦太郎のことですが――」サムは補足するように言った。「霊石メディテーションを力ずくで止めさせたんですが、レイの死を知らせたところ、どうしてもホームに帰ることを嫌がりまして。霊石メディテーションで時間を無駄にした自分の失点を取り返そうと考えたらしく、〝化け猿〟を調査すると言い張って、サロの村へ一人で行きました」
「化け猿?」
「何でも、化け猿がサロ呪術師を支配しているのだとか。普段は子猿の姿なのに一瞬で大猿に変身するとか言ってました」
「変身する・・・・。そいつは呪術師ではない、大魔神だ」
 タムの眼光が鋭く光った。
「大魔神・・・ですか」
 一同は初めて聞く言葉に興味を覚え、注意深くタムの言葉に耳を傾けた。
「大魔神がそんなところにいたとは驚きだな。どおりでサロ呪術師の共同体が整然と秩序化されているわけだ。裏で大魔神が操っていたとは」
「師匠、大魔神とは要するに何者なんでしょうか?」サムが訊ねた。
「大魔神とは、要するに〝神〟だ。〝土地に住み着く神〟と考えたらいいだろう」
「神といえば・・・・、風の精霊のような存在でしょうか」
「.〝永遠の存在〟という意味で風の精霊以上に神的だ。それに、風の精霊と同じように呪術師を狙ってくる。呪術師にとって大魔神は風の精霊以上に恐ろしい存在だ。我々呪術師に抵抗する余地はまったくといっていいほどない。風の精霊すら大魔神には逃げるぐらいだからな」
「風の精霊が逃げるんですか」皆は目を丸くした。
「風の精霊は空中を四六時中流動しながら呪術師を狩るのに対して、大魔神は一定の土地を領土とし、侵入してくる呪術師を狩る。場合によっては風の精霊すらも狩る。呪術師にとっても、風の精霊にとっても、大魔神はやっかいな存在だ」
「ウヒョ、そんな奴がいるんですか――」ジョンが身震いしながら言った。「いや、〝そんな奴〟なんて言っちゃいけないですね。で、その大魔神様は、サロ呪術師なんかを操って一体何をしようって企んでいるんですか?」
「大魔神は呪術師の呪力を食べる趣味がある」
「趣味で呪力を食べるんですか」サムが呆気にとられたように呟いた。
「それは生命維持のための食事とは違う。だから、あくまでも趣味だ。だから、大方、サロ呪術師を養殖でもしているんじゃないか」
「養殖・・・ですか。食用のための?」
「それ以外に意味を考えるのは難しい」
「・・・・・・」
 タムの言葉を聞いた一同は凍りついたように静まった。
「大魔神は土地の神だから自分の領土を大切にし保全する。土地を荒らされることを極端に嫌うから、人間界から離れた僻地に領土を持ち、人間を寄せ付けない。そのためサロ呪術師を飼いならし、土地を保全させているという意味もあるだろう」
「そういえば、サロ呪術師の領土は原生林のような深い緑に覆われていましたぜ」ジョンが言った。
「土地を大切にしているからな」
「もしも、かりに、大魔神に襲われたら、どのように防御すればいいんですか?」サムが訊ねた。
「逃げるだけだ。それしか方法はない。大魔神は自分の領土の外までは追ってこないという習性がある」
「確か親分も、戦って敵う相手じゃないって怯えてましたぜ」
「弦太郎も大魔神を一目見て、本能的に恐ろしさに気づいたのだろう」
「にも関わらず、親分はサロの村へ調査に行くなんて言ってましたぜ。何を考えているんでしょうか」
「呪術師の道は常に死の危険が転がっている。間違った道を歩めば、すぐに命を落としてしまう。弦太郎にすぐに引き返すよう知らせてやらないといけない。サム、今からすぐに行くぞ。もう手遅れかもしれないがな」
「はい、わかりました」
「呪術師は、危険とわかっている道でも歩まなくてはならないことがある。それが学習であり、そのことで力を高める。サム、大魔神は最高に危険な存在だ。命を落とす覚悟もしておけよ」
「は、はい・・・・」
「我々はどうしましょうか――」ジョンとトンは顔を見合わせ、怯えながら言った。「行かなくっちゃいけませんか」
「お前たちが行っても、何にも役に立つことはできないだろう。ここにいるんだ」
「ヘイ、わかりやした」
 ジョンはホッとして元気よく返事した。
タムとサムは弦太郎の元へ向かった。


   二十四
 弦太郎はサロ村へ向かってゆっくりと歩いた。急ぐ必要はない。時折、立ち止まりながら日差しの弱まった空を眺め、ボンヤリと考えた。
――オレは何のためにサロの村へ向かうんだ?
 明確な理由が見つからなかった。恐ろしい化け猿を思い出し、さらに自問自答した。
――他の派閥の呪術師を観察するのはいい勉強だ。いざとなったら逃げればいいんじゃないか。オレは何を恐れているんだ。オレには透明の術も電撃の術もあるじゃないか。だが・・・・。
 弦太郎はゆっくり歩を進めた。
――何の得になるんだ? 師匠に命じられたのか? 馬鹿馬鹿しくないのか? それによく考えてみたら、レイは本当に死んだのか? サムが感知したとか何だとか言っていたが、実際見たわけでも何でもないじゃないか。あいつは嘘を言って、オレに霊石メディテーションをさせないように企てたんじゃないだろうか。やはり、サロの村なんかへ行かず、一度ホームへ戻った方がいいんじゃないだろうか・・・・。やっぱり帰ろう。
 弦太郎はクルリと踵を返した。戻ると決めたら早足になり、すぐにまた霊石のところに戻ってきた。
――どうしよう、すぐにホームに戻るべきなんだが、もう少し霊石メディテーションをしようか。いや、いや、止めた方がいい・・・・。
 弦太郎は霊石の前で葛藤した。
――ほんの少しだけ。
 霊石のメディテーションの引力に抗えず、また霊石にピタリと張り付いた。不安も、恐怖も、悲しみも、後悔も、怒りも、虚しさも――、霊石に触れ合った瞬間、拡散され溶解されていった。澄んだ安らぎの潮流が精神を支配し、ただただ気持ちよかった。ずっとこうしていたい。時間の観念も、自己の観念も、遠くの彼方へ消えてしまいそうになったとき、レイのことを思い出した。
――本当にレイは死んでしまったのだろうか。確かに顔色が尋常じゃなかった。死んでいてもおかしくはない。死んでいたとしたら、こんなところで道草を喰っていていいんだろうか。そもそも猫寺に誘ったのはオレだ。レイのことに夢中になり風の精霊の前兆を聞き逃したのもオレの責任だ。力のキノコを採りに行くと言って、霊石メディテーションで時間を潰したのもオレの愚行だ。オレはなんてダメな奴なんだ。
 自己嫌悪という自我が心の隙間から湧き起こり、自ら霊石メディテーションを拒否した。弦太郎は霊石から離れた。
――ホームへ戻るか・・・・。いや、やはりファミリーに会わす顔がない。サロ呪術師の秘密を手土産に持たなければホームには戻れそうにない。そうだ、サッと行って、パッと見て、すぐに引き返そう。ここまで来たんだからちょっとだけ見学だ。
 計画が決定した。弦太郎は術を使って姿を消し、サロの村に向かってゆっくりと歩いていった。
「――着いたか」
 村に到着した頃にはすっかり夜も更けていた。弦太郎は閉ざされた正門の扉を見上げて「ハアー」と一息つき、門を通り抜けて村に入った。村は静まっていた。電気のない村だから夜は静まっていて当然である。山の上にある御殿を眺めた。
「行くか――」
 御殿につづく山門へ向かって歩いていくと、一人の男が夢遊病者のように歩いているのを目撃した。
――何なんだ、あいつは。こんな時間に一人で。警備の者かな?
 その男に近づいてよく見てみると、以前山で出会って一緒に酒盛りし、リーダーの家まで案内してくれた小柄な男だった。
――こんな夜中にどうしたっていうんだろう。
 目は魂が抜けたようにボンヤリとしていて、サンダルも履かず素足で歩いている。歩くというより何か見に見えない力に歩かされてるといった感じだった。山で酒盛りをしていたとき、彼は今年三十六歳になりサロの呪術師の寿命だと話をしていたことを思い出した。
――何か関係があるのだろうか?
 弦太郎は男の後をつけて行くつもりはなかったが、彼と進む方向が同じだったので一緒に歩いた。
 山門に着くと、警備人は男を一時止め、男の虚ろな目と、二の腕の刺青を観察し、山門を通した。男はそのまま石段を登って行った。
男は石段を登りきると、御殿で見張る警備人にも検査された。懐中電灯で男の二の腕が照らされたとき、弦太郎は男の刺青の色が赤く変化しているの目撃した。確か前は緑色だったはずだ。その色の変化が重要なのかもしれない。警備人は御殿の扉を開けて、男を中に入れて扉を閉めた。弦太郎も御殿の壁から中へ侵入し、広間の隅にこっそり身を潜めて男の様子を観察した。
 広間はところどころにロウソクが灯され、厳かな雰囲気を醸し出していた。男は広間の中央まで歩いていくと、リモートコントロールされているかのようにピタリと中央で足を止め、直立した姿勢のまま静止した。
 奥から長老が肩に子猿をのせてやってきた。子猿は男を見ると、甲高い幼い声で、
「なかなかいい具合に熟れているじゃないか」
 と言って、ニンマリと微笑んだ。
 長老は男の手前で腰を下ろし、肩の子猿を丁寧に床に置いて、そのまま頭を下げてひれ伏した。
「どうぞ、お召し上がりください」
 子猿ははしゃぐように後方宙返りを二回繰り返すと、突然巨大な大猿に変化し、地響きがするような低い声でヒヒヒヒと笑った。次の瞬間、大猿は紐のような白い回虫に変身した。
――回虫になった・・・・。
 弦太郎は目を大きく見開いて事の次第を凝視した。
 回虫はニョロニョロと床を這って男のところへ向かっていった。男の足元にたどり着くと、一匹の回虫が数匹に分裂し、耳から、目から、鼻の穴から、口からと、身体の穴の開いた部位からそれぞれ体内へ入り込んでいった。
 弦太郎は異様な光景にゴクリと唾液を飲み込んだ。
男は見る見るうちに顔色が灰褐色になり、縮小し、最後は乾燥したミイラとなって、バタリと床に倒れた。アングリと開いた男の口から、一匹の太くなった回虫がニョロリと出てきて床を這い、また一瞬で変身して、今度は民族衣装をまとった色白の美少女になった。美少女は、
「ああ、おいしかったわ」
 と呟き、口の周りをペロリと舐めてニッコリと微笑んだ。
――化け物に喰われてしまった・・・・。
弦太郎は衝撃的な光景を目の当たりにし体を硬直させた。


   二十五
 タムとサムは弦太郎を追って、夜の闇に包まれた山中を疾風のごとく移動していた。
「サム――」タムは走りながら声をかけた。
「何でしょうか」
「伝えておきたいことがある。アディーのことだ。アディーを守ることは、お前たちレラ呪術師の使命だということは知っているな」
「はい」
「アディーは活動を止めた。もうすぐ糸を体に巻きつけて卵のようになるだろう。エチンケ呪術師が変態する最終過程だ。レラ呪術師がしなければならない一番大切なことは、アディーが卵から孵化するとき手助けをすることだ」
「孵化する? どのように手助けをすればいいんでしょうか?」
「それは後々教える。今は孵化する際、手助けしなければならない使命があるということを頭に入れておくんだ。そのためにも弦太郎を大魔神から無事救出しなければならない」
「わかりました」
「大魔神は危険な存在だ。さっきも話したが、少しでもヘマをすれば命を落としてしまうだろう。我々は大魔神のエサに過ぎないんだから。呪術師は大魔神の前ではまったく無力な存在であるということを常に意識しておくんだ」
「大魔神はどのような攻撃をしかけてくるのでしょうか?」
「それはまったくわからない。大魔神は呪術師よりも高等な存在だ。攻撃も呪術師よりもバラエティーに富んでいる。基本、防御することは不可能と思った方がいい。うまく逃げるだけだ」
「どうにもならないんですか・・・・」
「しかも、逃げるのも簡単ではない。移動速度は風の精霊以上の超高速で飛ぶこともできるし、五感もすぐれている。どんなに小さなものでも明瞭に観察する眼をもち、どんなに小さな音も聞き取れる耳を持ち、どんなに微かな臭いも嗅ぎ取れる鼻を持っている。すべて呪術師以上だ」
「透明の術を使っても見破られてしまいますか?」
「大魔神は、透明の術を使った呪術師は見えないようだが、術を使っている我々から、何らかの音を感知できる。じっとしていて動かなくともな。だから姿をくらますことができても、音をたどって捕獲されてしまうだろう」
「透明の術を音で感じるんですか・・・・」
「大魔神の知覚は我々よりも優れているが、意外な盲点もある。術を使っていない普通の状態のとき、動きを止めてジッとしていると、視覚で対象をすぐに認識できない。術を使えば音でバレてしまうが、動いていても姿は視覚に入らない。これらの習性をうまく利用して逃げるんだ。根本的な解決策にはならないが一時的な時間稼ぎにはなる」
「五感に盲点があるとしたら、肉体のどこかに弱点はないんですか。風の精霊の目に電撃の術をあてると一瞬麻痺させられるように」
「一つだけ弱点があるとしたら耳だ。大魔神の聞こえすぎる耳に電撃の術が命中すると、しばらくは動きを止めるだろう。それは弱点と言ってもいいかもしれないな」
「なるほど、耳ですか」
「だがそれもほんの一時的な時間稼ぎだ。風の精霊のように数回の攻撃で去っていくことはない。捕まったら百パーセント死だからな」
「百パーセントですか・・・・」
「さっきも言ったが、大魔神は土地の神だ。自分の領土内はどこまでも追ってくるが、領土の外までは追ってこない。領土の外に出れさえすれば大丈夫だ。だからとにかく逃げることだ」
「なるほど」
 タムがピタリと足を止めた。
「ここからが大魔神の領土だな」
「はい――」
 サムは辺りを見回した。線という明瞭な境はないが、そこを境にして森が濃厚になり、樹木が巨大になっている。
「ここから先はワシが一人で行く。お前はこの境界線あたりで待機しているんだ。一緒にきても何ができるわけでもないからな」
「はい、ここで待っています。師匠、お気をつけください」
サムは領土の境界線上で、闇の中に消えていくタムの後ろ姿を見送った。
    *
――こいつまさしくは化け物だ。
弦太郎は色白の美少女を見て身震いし、心の中で思った。
「どう、呪術師が食べられるのを見るのは楽しかった?」
 美少女は弦太郎の方に目をやり、にっこりと微笑みながら甘い声で言った。
「ん?!」
 弦太郎はギクッとした。術を使っているので相手から見えるはずはない。
「どうしましたか、大魔神様」
 長老は驚いたように美少女に声をかけた。
「そこの隅に獲物がいるの。自分から入ってきたみたいよ、ウフフフ」
 美少女は長老にこたえ、弦太郎の方を見て嬉しそうに笑った。
「マズイ!」
 弦太郎が御殿から逃げ出そうとした瞬間、美少女は「ハッ!」と高音のよく通る声で気合を入れた。弦太郎の身体は硬直し身動きがとれなくなった。
「大魔神様、何が起きているんですか?」
「ウフフフ、金縛りにかけたわ。そこで獲物がモガいてる。見ててね――」
 美少女は息を吹きかけた。
「フー」
 美少女の息は白い風になり、その風を浴びた弦太郎は微細な白い粉にまみれた状態になって体の輪郭が露になった。
「な、なんと、こんなところに侵入者が」
 長老は目を見開いて驚いた。
「ウフフフ、そういうこと」
笑っていた美少女は突然、大猿に姿を変え、低い声で言った。
「グハハハ、そりゃ気がつかないさ。この男はレラ呪術師なんだから」
「もしかして、この前の奴ですか」
「だから、いずれ戻ってくると言っただろ。自分から律儀に戻ってくるとは、なかなか気が利く男じゃないか、グハハハ」
 大猿はさも愉快そうに、地響きがするような声で笑った。
「ああ、ああ――」
 弦太郎は必死に体に力を入れて抵抗したが、動くことも、声を出すこともできず、体中から冷や汗が噴出した。
「そういえばここ何年も、ずっとサロ呪術師とセタ呪術師ばかり食べていた。レラ呪術師とは久しぶりの珍味だ。こんなこともあるんだなあ」
「本当に珍しいですね」長老が相槌を打った。
「それじゃあ、早速、いただくとするか――」
 大猿はパッと長い回虫に変身した。回虫は床をニョロニョロと這って弦太郎にゆっくり向かっていった。
――来るな、来るな。こっちに来るな。
 弦太郎は頭の中で念じたが、状況を変えることはまったくできなかった。三メートル、二メートル、一メートル――、ゆっくりと回虫が迫ってきた。
――ああ、ダメだ・・・・。
 その瞬間、〝バシッ〟という電撃音とともに部屋全体が一瞬まぶしく光り、大魔神、長老、弦太郎、三人の体に電気ショックが襲ってきた。
「ウワッ!」
 回虫は大猿に姿を変えて目を白黒させた。
「痛たたた」
 弦太郎も床に仰向けにひっくり返った。
 バシッ――
 大猿の耳元でもう一発、先ほどよりも強烈な電撃音が響いた。大猿は跳び上がって、床に仰向けにひっくり返った。
「弦太郎、逃げるんだ!」
 弦太郎の目の前にタムの姿があった。タムは弦太郎の腕を引っ張って御殿の外へ脱出した。
「師匠・・・・」
 弦太郎は電撃ショックで金縛りが解かれ、体が動くようになっていた。
「急げ!」
 タムは弦太郎を急かし、二人は風のように走った。
「師匠、何が何だか理解ができません」
 弦太郎は走りながら泣きつくように言った。
「大魔神の弱点の耳元に電撃の術を喰らわした。一時的に大魔神は動きを止めるが、すぐに襲ってくる。このわずかな時間の間にできるだけ遠くに逃げるんだ」
「大魔神とは何なんですか?」
「大魔神とは呪術師の魂が好物な土地の神だ。大魔神は神であり、呪術師なんかよりもっと高等な存在だ。争うことは無意味だ。とにかく大魔神の領土のへ逃げるんだ。詳しい説明をしている場合ではない。速く走ることに専念しろ」
「はい――」
二人は超高速で走った。
     *
「おのれェ――」大魔神は目をパチクリしばたたせ立ち上がった。
「呪術師の分際で抵抗してくるとは」
 大猿は頭をクルクルと回し、肩を上下に動かし、軽く準備運動をした。
「とっ捕まえてやる。ハッ!」
 大猿は白い龍となり、猛スピードで天へ昇った。白い龍が空へ昇っていくと、突如雷が轟き、夜空に青白い稲妻が光った。
「――ん!?」
 境界線で待機していたサムが空の異変に気がついた。何か強大な力が解き放たれたようだった。
「何かが起きた。何なんだ?」
領土内の巨木のてっぺんに登って空をジッと観察した。恐ろしい何かが起こっていることはわかるが、詳しい状況はさっぱりつかめなかった。
     *
「大魔神が早くも目覚めたようだな――」タムが空を見上げて言った。「領土を出るには、まだ半分の道のりがあるぞ」
「ここまで逃げれば、とりあえず安心じゃないですか」
「全然安心じゃない。大魔神の速度はワシらの速度とは比べものにならん。このまま術を使っていると音で見つかってしまう。もうしばらくしたら術を切らないと」
「術の音ですか・・・・」
「もう少し先を進むぞ」
「はい――」
タムと弦太郎は高速で走った。
     *
「――どこだ?」
白い龍は空から透明の術の音に耳を澄ました。山の中を移動している二人の音を感知した。
「そこか!」
音の方向に向かって一直線に飛んだ。
     *
「これ以上、透明の術をつづけるのは危険だ――」
 タムは雷の様子から危険を感じ取った。
「弦太郎、いったん術を切るんだ」
 二人は術を切った。
「術を使わなくても見つかりませんか」
「大魔神は聴覚が優れている。足音すらも聞き分けるが、術の音よりは響きが小さいだろう。なるたけ音をたてずにそっと動くぞ」
「はい――」
     *
「あれっ、音が消えたぞ」
 白い龍は音の聞こえた位置に下りてきた。今度は龍から大虎に変身し、二人の臭いを嗅いだ。
「こっちに行ったな」
臭いをたどりながら二人を追跡した。
     *
「ハァ、ハァ、ハァ――」
 弦太郎の息遣いが少しずつ荒くなってきた。術を使わずに高速移動すると肉体が疲れる。
「ん?――」タムが耳をそばだてた。
「危険な動物がやってくる。術を使って木に登るんだ」
 二人は木に登って身を小さくした。数秒後、大虎が地面を勢いよく走りすぎていった。
「・・・・・・」
二人は無言で目を合わせた。
     *
「臭いが消えたぞ」
 大虎は立ち止まった。静かに周りの気配を窺うと、不思議なことに透明の術の音が、前方と後方から聞こえてきた。
「後方に二人、これはさっきの奴らだな。前方にも一人いるぞ。領土にこんなに呪術師が入ってきているとは、これは面白いことになってきたぞ」
 大虎は白い龍に再び変身し天に昇ると、領土の境界線付近に呪術師がいるのを見つけた。
「外に逃してはならない。まずはコイツからだな」
 龍はサムに向かって一直線に飛んでいった。
「――あれは何だ?」
 サムは夜空に白い龍がいるのを目撃した。
「龍だ・・・・」
 龍と一瞬目が会ったような気がした。
「マズイ!」
 木から飛び下りて境界線の外に跳ねるように飛び出し、岩陰に身を隠した。わずか一、二秒後、巨大な龍が間近にやってきて動きを止めた。サムはその迫力ある姿に震え上がった。
「逃げられたか・・・・」
 龍はしばらく動きを止め、耳を澄ました。透明の術の音は聞こえなかったが、二人の足音が聞こえた。龍はパッと大虎に変身し、そちらの方向へ走った。
「な、何なんだ、あの怪物は――」サムは呟いた。「あんな化け物に襲われたらひとたまりもないぞ」
岩に抱きつくようにして身を震わせた。
     *
 タムと弦太郎が足音を忍ばせながら歩を進めていると、今度は前方から虎が向かってくるのを感知した。
「弦太郎、絶対に動くな」
 二人は、崖沿いに生える樹の幹に身を寄せてピタリと動作を止めた。虎は通り過ぎていった。
「師匠、どうしましょうか?」
 弦太郎は虎が見えなくなると、囁くような声でおそるおそるタムに訊ねた。
「境界線までもうすぐだ。術を使って一気に進むか」
 キャキャキャキャ――
 駆け出そうとしたとき、頭上から猿の鳴き声が聞こえた。二人が鳴き声の方向を見上げると、子猿が樹の枝に座って笑っていた。
「ウペウ呪術師とレラ呪術師か。なかなか逃げるのがうまいじゃないか。もう観念するんだ」
 子猿は弦太郎に向かって飛びかかった。タムは逆に子猿に飛びかかり、電撃の術を放って応戦した。
 バシッ――
 空中で電光が弾け、タムと子猿はそのまま崖下に落ちていった。
「師匠!」
 弦太郎は崖下を覗き込んだ。真っ暗の陥穽の中へ落ちていくタムの姿が一瞬目に入った。
――ま、まさか、師匠が・・・・。
 その衝撃的な光景を見た弦太郎は全身に鳥肌が立ち、脳裏にタムとの過去の思い出が走馬灯のように駆け巡った。
――師匠が・・・・、師匠が・・・・、あの超人的な師匠がやられるわけがない・・・・。
「師匠!」
 弦太郎は崖下を覗き込み、囁くような声で呼んだ。もちろんタムの声は返ってこない。
「師匠、冗談でしょ、師匠・・・・、そ、そんな、そんな・・・・」
 弦太郎は愕然として地面にひざまずいた。
「弦太郎――」
 そのとき、付近からタムの声が聞こえてきた。
「ん!? 師匠?」
 弦太郎はキョロキョロと周りを見回した。
「弦太郎、ここだ、ここだ」
 タムの声が聞こえた。
「どこ? どこですか?」
 その姿が見つからない。
「お前の目の前だ」
 目の前の岩場の窪みに拳大のサボテンがあり、そのサボテンが声を出していた。
「えっ? 師匠?」
 弦太郎はサボテンに声をかけた。
「そうだ、ワシだ」
 サボテンがしゃべった。
「師匠! 師匠、これはどういうことですか?」
「大魔神に電撃の術を放ったが相討ちだった。ワシの肉体は崖下に落ちて死んでしまったが、魂だけはどうにか一瞬でサボテンに移して逃げられた。今ワシはサボテンの中だ」
「師匠はサボテンになってしまったんですか? どうしてよりによってサボテンに・・・・」
「魂を移す瞬間、めぼしいものがこれしかなかった。――まあ、そんなことはどうでもいい。弦太郎、すぐにここから逃げるんだ。大魔神はいま動きを止めている。さあ早く、急げ!」
「はい、わかりました――」
 弦太郎はサボテンを掴み取ろうと両手で静かに包み込んだ。
「痛たたた、棘が生えていて持ちにくいですよ」
「ワシにかまうな。ワシのことはどうでもいい。ワシをここにおいて早く逃げるんだ」
「一人でですか」
「ワシはいつでもここにいる。会う必要のあるときはここにきたらいいんだ。早く逃げろ!」
「はい――」
弦太郎は術を使って姿を消し、駆け出そうとした。
「弦太郎」
 サボテンが呼び止めた。弦太郎は振り返った。
「何ですか、師匠」
「アディーのことだ。卵が赤くなったら、力の湖に浸けるんだ」
「な、なんのことですか?」
「もういい、急げ、逃げろ」
「は、はい」
弦太郎は一目散に駆け出した。
     *
 崖下に落ちた大魔神は子猿の姿で目をキョロキョロさせ、体をブルブルと振るわせた。
「畜生、不意を突かれたか」
子猿から大虎に変身した。大虎は静かに耳を澄まし、逃げていく弦太郎の音を聞き取った。
「まだ領土を出ていないようだな」
 弦太郎に向かって飛ぶように走り出した。
     *
 サムは境界線の外で耳を澄ましていた。大魔神の恐ろしい姿を見たら、領土内に足を踏み入れるのが怖くなった。そのとき〝バシッ〟と響く衝撃音が聞こえた。
「あれは電撃の術だ。大魔神を攻撃したのか?」
 サムはまた領土に入り、大木に登って高見からその音の方向を観察した。しばらくすると、弦太郎が脱兎の勢いで遠くから疾走してくるのが見えた。
「きた、きた、きた――」
 サムは木から飛び下りて、境界線の外の安全な場所に身をおき、弦太郎に向かって叫んだ。
「ここまでくるんだ、弦太郎。ここは領土の外だ。ここは安全地帯だ」
 弦太郎の後方から大虎が小さく見えた。
「大虎が・・・・。急げ、弦太郎!」
 虎のスピードは超高速だった。後方で小さく見えたと思ったら、みるみる近づいてきた。
「急げ! 早く!」
 境界線まで五十メートル、四十メートル、三十メートル、二十メートル、十メートル――、逃げ切れるかと思った瞬間、虎が弦太郎に襲いかかった。
「ギャッー!」
 弦太郎は地べたに倒れ虎に押さえこまれた。
「まったく手こずらせやがって。危うく逃げられるところだった、ヒヒヒヒ」
大虎は低くしゃがれた声で笑った。
「ギャーッ、助けて!」
 弦太郎はバタバタともがいた。大虎はパッと長い回虫に変身して蛇のように弦太郎に巻きつき動きを止めた。
「面倒が大きかった分、味は格別だろう。おお、見れば見るほどウマそうだ」
 回虫は弦太郎の頬を撫で回すようにユラユラと動き、ゆっくりと鼻の穴へ向かった。
「ウワー、た、た、助けて!」
 弦太郎は叫び声をあげた。回虫は弦太郎の鼻の穴からスルスルと入り込んだ。
「弦太郎!」
 サムは領土に飛び込み、回虫の入りかけた弦太郎の鼻っ柱に向かって電撃の術を思い切り放った。
「ヤーッ!」
――バシッ
 電撃ショックの勢いで弦太郎は地面を転がり、グッタリとなって横たわった。回虫も急所に命中したのか動きを止めた。サムはその一瞬の隙をつき、回虫を引っ張って遠くに放り投げ、弦太郎を担いで境界線の外へ走った。
「ヤーッ!」
 領土の外に飛び込み、弦太郎をさらに遠くへ放り投げた。
――よしっ、逃げ切った。
 サムは大地にうつ伏せ状態だった。
「ん?」
 左の足首に何らかの圧迫感を感じた。チラリと足首を一瞥すると回虫が巻きついていた。
「ウワッ!」
 必死で領土の外へもがくようにバタバタと四つん這いで前進したが、ズルズルと領土内に引きずられていく。
「ウワッ、化け物! これでも喰らえ」
 バシッ! バシッ! バシッ!
 サムは回虫めがけ手当たり次第、電撃の術を放った。
「ウッ・・・・」
 回虫は小さなうめき声をあげ、力を一瞬緩めた。
「チャンスだ」
 サムは巻きついた回虫を蹴るようにして足から解き、転がり込むように領土の外へ飛び込んだ。さらに倒れている弦太郎の足首を摑み、引きずって一緒に岩陰に身を潜めた。
 数秒後、回虫はウネウネと活発に動き出し、境界線ギリギリまでやってきて身体を静止させた。回虫からパッと大猿に変身した。
「畜生、逃げられたか」
 ドスの効いた声で呟いた。その瞬間白い龍に姿を変え、猛スピードで天に昇った。白い龍になると、雷が夜空に轟いた。龍はしばらく宙で停止して周囲の様子をうかがい、村の方へ去って行った。サムは体を硬直させながら、白い龍が去って行くのを見届けた。白い龍がいなくなると、夜空は満天の星空となり、静寂が辺りを支配した。
「弦太郎、大丈夫か――」
 サムは失神している弦太郎の体を揺らした。電撃の術で怪我を負ったのか、大魔神に力を吸われてしまったのか、その原因はわからないが弦太郎に意識はなかった。胸に耳を当てると心臓の鼓動が聞こえる。死んでいるわけではない。
「おい弦太郎、起きるんだ! それに師匠はどうしたんだ!」
 いくら問いただしても、失神している弦太郎が答えることなどできない。サムは恐ろしい戦いに巻き込まれ、身体の震えが止まらなかった。
――すぐに診療所に戻ろう。デーン先生ならどうにかできるかもしれない。そうだ、その前に力のキノコを採って食べさせてみようか。
サムは立ち上がって弦太郎を背負った。恐怖でまだ足がガクガクと震えている。急いでその場から立ち去った。


   二十六
 夜になってアディーの様態が変化した。二日前から部屋の片隅にしゃがみこんだまま身動きしなかったが、突然口から糸を出しゆっくりと身体に糸を巻きつけ始めた。眼は虚ろで話しかけても反応しない。誰も寄せつけようとしない近寄りがたい雰囲気だった。
 デーンは部屋を暗くして、アディーの様子をずっと静かに見守った。彼女は、診療所の助手であり弟子でもある二人の女性(ナッツとファン)に話しかけた。
「想像を超える不思議なことが起こる気がするわ」
「何だか怖いです」
 二人の若い女性はチカプ呪術師で、小さな状況変化にも敏感に気づく繊細な性格だったので、アディーの急激な変化を心底怯えていた。
 デーンが腕時計で時間を確認すると夜中一時を回っていた。
「もう時間が遅いわ。あなたたちはお休みなさい」
 女性たちは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「でも、アディー爺がどうなってしまうのか心配なので・・・・」
「心配してもどうなるわけでもないわ。あたし自身も、エチンケ呪術師がどんな変化をするかまったく知らないから指示することもできなし。とにかく早くお休みなさい」
「はい、わかりました。それじゃあ、お先に失礼します――」
 ナッツとファンは部屋から出て行った。
――これからどうなるのかしら。
 デーンは暗い部屋でアディーの様子を一人で観察していると不安な気持ちになった。
 しばらく時間が流れ、時計を見ると四時を回っていた。アディーが糸を出し始めて五時間以上が経過していた。アディーは丸く細長い繭にすっぽりと体が包まれて身体が見えなくなっていたが、まだ作業は繭の中で続けているらしく、小さく振動していた。
――アディー爺はこの繭から何者になって生まれ変わるのかしら。いつ、どのように・・・・。
「ん!?」
 デーンは診療所の敷地内に何者かが侵入してきた気配を感じ取った。
「誰かきた」
 その気配は音をたてずこちらに向かっている。
――師匠かしら。
 デーンは部屋から廊下に出た。
「まだ起きていましたか。よかった。ハア、ハア、ハア」
 息を荒げ、憔悴しきったサムが戻ってきた。肩にぐったりとなった男を背負っている。デーンはサムの姿を一目見ただけで何か大事件に巻き込まれたことがわかった。
「サ、サム、どうしたの? で、その背負っている人は?」
 デーンは驚きながら訊ねた。
「弦太郎です。大魔神に襲われました。まだ息はあります。すぐに診てやってください」
 アディーの隣の部屋に連れて行き、弦太郎をベッドに寝かした。
「大魔神に襲われたですって。そんなの戦う相手じゃないわ」
「もちろん、そんなことわかっています。自分から興味本位で接近したわけではありません。弦太郎を大魔神の領土から連れ戻すために接近しなければならなかったんです。どうにか大魔神から逃げることはできたのですが、こんな姿になってしまって」
 デーンは弦太郎の体に、静かに手を当て身体を診た。傷ついている顔に両手を当てた。
「顔にやけどを負ってるわ。この怪我はどうしたの? これも大魔神に襲われて?」
「いいえ、それは私の電撃の術で怪我をしました。回虫に化けた大魔神が弦太郎の体に巻きつき、鼻の穴から侵入しようとしていたので、それを阻止するために」
「それでこんなにひどい怪我を・・・・」
「でも、意識を失った原因は電撃の術ではなく、大魔神に魂を吸われたことかもしれません。鼻の穴から侵入しかけていましたから。だから帰りしな力のキノコを採取してきました。まだ新鮮です」
サムは十数本の力のキノコをポケットから出した。
「現地でキノコを食べさせようとしたのですが、飲み込ませることができなくて」
「いや、それはまったく必要なさそうよ。むしろ、力のキノコを無理やり食べさせなくてよかったわ」
「どうしてですか?」
「診たところ、彼は呪力を吸われているわけではないわ。呪力に傷がついていないのに力のキノコを食べたら猛毒よ。もし、無理やり口に押し込んでいたら、彼の命はなかったわ」
「危なかった・・・・」
 サムは唖然とした表情になった。
「呪力は機能している。意識を失ったのは肉体の問題よ。電撃のショックで脳震盪を起こし、心臓にも問題が起きてるわ」
「私の電撃の術が原因で失神していたんですか・・・・」
「ええ、それが原因ね。でもあなたが悪いわけじゃないわよ。大魔神から彼を救ったんだから。もし、呪力を吸われていたら医療の施しようがなかったけど、肉体の問題ならどうにかなりそうよ」
「そりゃ、よかった」
 サムはホッとしたように深く息をついた。
「じゃあ、彼をベッドに寝かして。あたしは薬を作るわね」
 デーンは部屋を出て行こうとドアのノブに手が触れたとき、ふと足を止めた。
「そうだ。大魔神のところにはサムが一人で行ったの?」
「いや、師匠と」
 サムは言い辛そうに言った。
「師匠は?」
「それが――」サムはいったん言葉を止めて間をおいた。「大魔神の御殿まで同行したわけではないので詳細はわかりません。私が領土の外で待機していると、大魔神に追われて逃げてきたのは弦太郎一人だけで師匠の姿はありませんでした。もしかしたら・・・・」
「もしかしたらって・・・・、師匠が大魔神に殺されたとでも」
 デーンは感情が高まり声が大きくなった。
「だから私は実際に現場を見たわけではないので断定はできません。その真実を知っているのはこの弦太郎だけでして」
「まさか、師匠にそんなことが・・・・」
「私も信じたくありませんが、あの大魔神の姿を実際に目にすると、我々呪術師が敵う相手ではとてもなさそうで・・・・」
「・・・・・・」
 デーンは絶句した。
「いや、まだそうと決まったわけではありません。師匠のことですから」
「なんだか嫌な予感はしていたの。最近大変なことがいろいろ起きるから・・・・。 じゃあ、もし、師匠がいなくなったとしたら、ファミリーはどうやって生きていけばいいのかしら。あたしにはファミリーを導く知識も力もないし・・・・」
 二人はしばらく沈黙した。
「デーン先生、急いで弦太郎の治療を」
「そうね――」デーンはもう一つ、サムに伝えなければならないことを思い出した。「それと、アディー爺のことなんだけど」
「そうだ、アディー爺はどんな感じですか?」
「アディー爺、新しい変化を迎えているわ。口から糸を出して、それを身体に巻きつけて繭を作って。いまは卵みたいになっている」
「卵みたい・・・・。 そういえば師匠からそのような話を聞きました。見てもいいですか」
「どうぞ、隣の部屋よ。私もエチンケ呪術師がこんな変化をするなんてまったく知らなくて。どうしていいんだか・・・・・」
 二人は隣室に入って行った。
「これですか――」
 両手で抱きかかえる程の大きさの細長い卵がそこにあった。
「この中にアディー爺がいるんですね」
「そう、この中にね。もう動きは止まったみたい。いつこれが孵化するのか」
「そういえば、師匠に、アディー爺の卵を孵化させる手助けをするのはレラ呪術師の使命だと言われました。何をどう手助けすればいいのか、詳しいことは後々説明すると言われましたが、師匠が帰ってこなかったものですからそれは聞けずじまいで」
「どうすればいいんでしょう。やっぱり師匠が帰ってきてくれないと」
「とにかく弦太郎を回復させましょう。何か聞いているかもしれません」
「そうね。じゃあ、あたしは彼を看病するから、あなたはとにかく休養しなさい」
「はい、そうさせてください。隣の部屋のベッドを使っていいですか」
「どうぞご自由に」
デーンは部屋を出て行った。


   二十七
 弦太郎は目を覚ました。鬱蒼とした山の中だった。朽ちて壊れそうな東屋の長椅子の上で寝ていた。
「ここはどこだろう――」
 上体を起こし、周りを見回した。靄がかかっていて十メートル先も見えない。東屋の屋根には数羽カラスがとまっているらしく、頭上からカラスのしゃがれた鳴き声が聞こえてきた。
 弦太郎は長椅子に腰をかけぼんやりしていた。――ここはどこなのか? そもそもどうやってここにやってきたのか? その経緯をさっぱり思い出せなかった。
 カラスは羽をバサバサと羽ばたかせ、どこかへ飛んでいった。弦太郎は、飛んでいくカラスが靄の中へ消え行く様を呆然と見送った。
 正面を向き直ると、正面の長椅子に一人の老婆が座っていることに気づいた。弦太郎はビクっとして目を見開いた。こんな間近に老婆がいたのにまったく気がつかなかった。白髪の老婆は無言でジッと弦太郎を見つめていた。弦太郎はこの老婆の存在を鬱陶しく感じた。なぜならこの老婆はすこぶる汚らしかったのだ。何十年も着っぱなしと思われるボロボロになった着物を身に纏い、腰には帯の代わりに藁縄を巻いていた。櫛を入れたことがないような白髪の髪はバサバサで逆立ち、皺くちゃの顔は垢染みている。頬がこけて痩せさらばえているのに、眼だけはなぜか鋭く光っていた。弦太郎はこの薄気味悪い老婆から目を逸らした。
「お前が帰るところはこっちさ、ヒヒヒヒ」
老婆がかすれた声で言った。
――この婆さん、何を言ってやがるんだ。オレのことを知ってるとでもいうのか。
弦太郎は老婆の戯言とばかり鼻で笑って無視していたが、しばらくすると、何だかその言葉が異常に気になってきた。
――婆さん、どうしてオレに指示してくるんだ? オレをどこかに導いてくれるのか?
「ついてくるんだ」
老婆は椅子からヨロヨロと立ち上がって、杖をつきながらゆっくりと歩き出した。弦太郎は老婆の見えない磁力に引きつけられるように、彼女の後をついていった。
 老婆は弦太郎には目もくれず淡々と山道を歩いていく。足の具合が悪いらしく、びっこを引きながら歩いているので足取りは遅々としている。弦太郎はそんな老婆の小さな背中を眺めていた。
「婆さん、どこへ行くんだい?」
 弦太郎は背後から訊ねた。老婆は何も告げず黙々と歩きつづけていたが、突然思いついたように、
「お前が帰るところさ」
 と先ほどと同じことを答えた。
「オレが帰るところってどういうことだい?」
弦太郎はさらに質問を重ねたが、老婆は何も答えなかった。
――オレが帰るところって・・・・。
 自分がどこからきて、どこへ帰ればいいのか、さっぱりわからなかった。過去のことがまったく思い出せない。思い出せないどころか思い出す気が起こらない。
「婆さん、こんな山奥で一人で生活してるのかい?」
「お前が帰るところはこっちだ、ヒヒヒヒ」
 何を訊ねても返ってくる答えは同じで会話にならなかった。老婆は振り返ることなく、無言で山道を歩き続けた。
 前方に寺が見えてきた。朽ち果ててオンボロの寺だが、柱も梁もそこそこ太く、山奥にポツンとあるわりには立派な寺に見えた。
「さあ、入るんだ」
老婆は寺の扉を開け一人で中へ入った。弦太郎は扉の前でいったん立ち止り、寺の外壁を観察した。昔は装飾を施していたと思われる壁は剥げ落ち、板床はところどころ抜け落ちていた。中に入ろうとすると、寺の屋根にとまっていたカラスが鳴き声をあげながらバサバサと飛び去っていった。
「ここにもカラスがいたのか」
 弦太郎は飛び去るカラスを見送った。
 ギギギーッ――
 半開きになっていた扉を押すと軋んだ音が鳴った。中に足を踏み入れるとお堂の中はひんやりとして涼しく、かびの臭いがプンと臭った。扉は軋んだ音をたてて自然と閉まった。
 お堂の中は薄暗く内部がよく見えなかったが、老婆がロウソクに火を灯すと、前方にうっすらと仏像が浮かび上がった。
――これから何が始まるのか。
 弦太郎は突っ立ったままあれこれ想像した。
「さあ、お座り」
 老婆は弦太郎を促した。
「は、はい」
 弦太郎は何が何だかわからなかったが老婆の後ろで正座した。老婆は囲炉裏のような丸い炉に薪をくべて火を点けた。薪に火がつくと、赤々とした炎が生命力を吹き込まれたかのように右に左に揺れた。弦太郎は老婆が薪に火をつける意味がわからなかったが、ハッとそれが護摩行ではないかと思った。タイの上座部仏教では護摩行は行われていないが、大乗仏教の密教にそのような儀式があることを本で読んだことがある。
 老婆は火が燃え上がると手を合わせお経を唱えだした。一心不乱に経を唱え炉に薪をくべていく。炎は勢いを増しどんどん大きくなっていく。弦太郎も老婆を見習い、手を合わせて祈りを捧げ炎と対峙した。
 さらに老婆の声も炎も大きくなっていった。この小さな老婆のどこにそんなパワーが潜んでいるのか不思議に思えるほど老婆の声は力強く、お堂に声が広がった。炎も高くへ上ってゆき、その放射熱が二人の顔を火照らした。老婆は手を休めることなく薪をくべてゆく。火柱が舞い上がり、いまにも天井に届くほど高さになった。炎で辺りが照らされると、前方でひっそりと佇んでいた仏像の姿がはっきりと見えた。驚くことにその仏像の脇には何百個というしゃれこうべが並べられてた。
――なぜ、あんなものが・・・・。
 弦太郎は不気味な光景にギョッとした。
老婆は集中力を途切らせることなく、一心不乱に経を唱えている。
――この老婆は一体何者なんだ? 老婆は熱くないのか?
 炎の熱で老婆の逆立った白髪がじりじり焦げだした。
「危ない、婆さん。もうそれ以上止めよう」
 弦太郎は思わず立ち上がって薪をくべるのを制止した。しかし老婆は集中していて何も聞こえないらしく、経を唱えながらどんどん薪をくべてゆく。
「もういい、危ない、危ないって、婆さん。危ないよ」
「弦太郎――、弦太郎――」
老婆が唱えているお経のところどころに自分の名前が入り込んでいることに気がついた。
――この婆さん、なんでオレの名前を知ってるんだ? 名のってなんかいないはずなのに・・・・。
 弦太郎は薄気味悪くなってきた。
――もしかして、この婆さんはオレを殺そうとしているんじゃないのか。
 しゃれこうべと目を合わせると、どうにもその疑いが強くなってきた。
「婆さん。オレはもう行くよ」
 弦太郎は立ち上がった、
「弦太郎、お前の帰るところはここだ」
 先ほどと同じ台詞だったが、その声は太く低い声になっていた。
「男の声になった・・・・」
 弦太郎が小さく声を漏らすと、老婆がパッと振り返った。炎を浴びた顔は煤けてやけどしており、鋭い眼光がさらに凄みを増していた。弦太郎はその迫力にニ三歩後ずさりし、
「さようなら」
と一言いって、寺から逃げ出した。
    *
 寺の外はいつの間にか夜になっていた。真っ暗の夜道を下って行くと、突然誰かに呼びかけられた。
「どうしましたか?」
弦太郎はギョッとして振り返った。
――また怪しい奴が追ってきたのか。
そこには特殊警察のような紺の制服を身にまとい、鷲の紋章のついたベレー帽を被った男女が立っていた。その外見と佇まいから、彼らが常識的な人であることがわかった。
「あ、あ、あ・・・・」
 弦太郎は意表を突かれ、口ごもってまともな言葉が出てこなかった。
「落ち着いてください。どうされましたか」
 二人の隊員はやさしく声をかけてきた。弦太郎は落ち着きを取り戻し、山で会った老婆のことを話した。
「――老婆に山寺に連れて行かれたですって。そうですか、よくそこから逃げてこられましたね。危なかったです。なんせこの辺は人さらいが多発している有名な地域なんです。それは大変でしたね」
 男性隊員はニッコリと微笑んで弦太郎をいたわった。
「私たちはこの地域をパトロールする警備隊です。いいタイミングでお会いできましたね」
 女性隊員も声をかけてきた。
「ええ・・・・」
「いまから町に行くんでしょ? 道に迷ったり、山の中でまた危険な人物に遭ったら大変です。私たちが町までご案内します。旅人の方でしょ?」
「旅人? あ、いやあ・・・・、そうなんです。旅人なんです。ご案内していただけるとありがたいです」
 弦太郎は自分が旅人であったことを自分自身知らなかったが、そういわれてみれば旅人のような気がした。二人の隊員に促されるよう町に向かって歩いていった。夜道を大型の懐中電灯で照らしてくれ、常に気配りをしてくれる。隊員の男女は背筋がピンと伸びており、端正な顔立ちの美男美女だった。ポケットから時折、トランシーバーを取り出し、仲間と連絡を取り合っている。仕事を忠実に真面目にこなし、よく訓練されているようであった。
 下山して行くと、町を一望できる展望ポイントにさしかかった。
「わっ、きれいですね」
 弦太郎は思わず声を漏らした。眼下には宝石箱をひっくり返したようなまばゆく光る夜景が広がっていた。町はどうやら近代都市のようであった。
「ここからの夜景は一番きれいですよ。どうぞゆっくりご覧になってください」
 隊員はしばらく足を止め、弦太郎が眺望するのを嫌な顔を一つせず待っていてくれた。
「――行きましょうか」
 山を下りてしばらく歩くと大河が流れていた。大河のこちら側は道が舗装されておらず、街灯もなく真っ暗なのに、あちら側は道がきれいに敷石で舗装され、街灯が一定間隔で長い距離を明るく灯していた。
 川に沿って歩いていくと前方に大河にかかる立派な橋が見えてきた。
「あの橋を渡ったところが検問所です」
 二人の隊員は弦太郎を橋の袂にある検問所まで連れていってくれた。検問所には長い列ができていた。
「それじゃあ、ここまでで」
 男性隊員が検問所に並ぶ列の最後尾に弦太郎を並ばせ、別れを告げた。
「こんなところまでご親切にどうもありがとうございました」
「検問を終えれば橋を渡って向こう岸の町に行けます。列が長いのでしばらく待たなければなりませんが、ここにいれば山の中のように人さらいに遭うことはありません。もう安全ですからご安心ください」
 男性隊員はそう言って穏やかに笑った。
「それじゃあ、お元気で旅をつづけてくださいね」
 女性隊員も歯切れよくあいさつし、爽やかな笑顔を見せた。端正な顔立ちに鷲の紋章のついたベレー帽がよく似合っていた。
「どうもありがとうございました」
 弦太郎が再度礼を述べると、彼らは小さく会釈をして立ち去っていった。
「いい人だ」
 小さく呟いた。
検問を通過し、橋を渡る人が一人ずつ列を去ってゆく。並んでいる人の顔をぼんやりと観察していると何か不可解な気持ちになった。
――どうして皆、一様に表情が乏しく生気がないんだろう。
 誰もおしゃべりしている人がおらず目が虚ろであった。弦太郎はおしゃべりしていない理由を考えた。
――あっ、そういえば。
 列に並ぶ人たちは皆、単身者だった。家族と一緒の者は誰一人おらず、友達もおらず、カップルもいない。みんな一人ずつであった。それでは話す相手がいなくて当然である。
 ひとつ前の人が検問を終え、弦太郎の番になった。検問に向かって歩き出し、ふと後ろを振り返った。すると列の最後部にまだ女性隊員が立っており、男性隊員は他の警備員と話し込んでいた。女性隊員は遠くにいる弦太郎の目線に気づき、にっこり微笑んで小さく手を振ってきた。弦太郎も手を振り返した
「ん!?」
 弦太郎は彼女の手の平に〝何か〟が存在していることに気づいた。
「あれは・・・・」
 女性隊員の手の平に小さく見えたのは〝一つ眼〟だった。それは一瞬の光景であったが、確かにはっきりと一つ眼があった。一つ眼は不気味なオーラを放っていた。
――手の平に一つ眼が・・・・。どういうことだ?
 弦太郎は薄気味悪い気持ちになった。
「――次の人」
 検問の審査官に呼ばれた。弦太郎は検問の前に進み出た。
――一つ眼、このことで何か思い出さねばならないことがあったような・・・・。何か大切なことがあったような・・・・。
「旅人ですか?」
 審査官の男性はにこやかに訊ねてきた。
「は、はい」
 弦太郎は返事をした。そのとき弦太郎の過去の記憶がおぼろげに蘇えってきた。
――一つ眼は〝死神〟じゃなかったっけ。師匠にそのように教えられたような・・・・。
 頭が混乱してきた。
――どこかで遭ったことがあるような、遭ったことがないような・・・・。
 弦太郎は自分の頬をつねった。
「どうされましたか?」
 審査官が不思議そうに、困惑している弦太郎の顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもありません。ちょっと・・・・」
「ちょっと、なんですか?」
「いや、ちょっと・・・・」
弦太郎は橋を渡る前に頭の中を整理したくなった。ひとまず検問から離れたい。
「あっ、そうだ、パスポートを忘れたみたいなんです」
「パスポート? そんなもの必要ありませんよ。大丈夫です」
「えっ、ホント? でも、なんか悪い気がするからちょっと取りに帰ります」
「パスポートなんか本当に必要ありませんって。どうぞ橋を渡ってください」
「いやあ、やっぱり・・・・」
 弦太郎は審査官の引止めに応じず、足早に列の後ろに引き返した。
「どうしましたか?」
 女性隊員が、戻ってきた弦太郎に心配そうに声をかけてきた。
「いや、ちょっと忘れ物をしまして」
「忘れ物ですか? そんなの気にしなくていいですよ。町に行けば何でも手に入りますから。取りに行く必要なんかまったくありません」
「大切なものなので」
「――どうしましたか?」
 他の警備員と話していた男性隊員も弦太郎の姿に気づき声をかけてきた。
「忘れ物をしたので山に戻ります。失礼――」
 弦太郎が歩き出すと、男性隊員と女性隊員それぞれが彼の両腕をぎゅっと摑んだ。
「何を言ってるんですか。山は危険だって言ったじゃないですか。先ほど危険な目に遭って逃げてきたんでしょ」
「そうなんですが・・・・」
 山に戻る意味が本当にあるのか、弦太郎自身もよくわからなかった。
「大丈夫です。なにか心配事があったとしても、町に行けばすべて解消されますから」
 警備隊の男性はそう言い、優しく微笑んだ。
「そうですか――」
 弦太郎は踵を返して、やはり検問所の方へ歩き出した。
――何か嫌なものを感じるんだが・・・・。かといって、山へ行くっていったって、またあの老婆のいる山寺に行くしかないんだろ。行ったって何があるっていうんだ。焼死させらるのがオチだ・・・・。
弦太郎はなにがなんだかわからなくなってきた。後方を振り返ると二人は心配そうに弦太郎の方をじっと見つめていた。彼らの親切心が余計に検問に行く足を鈍らせた。
――もう少し一人でじっくり考えた方がいい。
 弦太郎はもう一度列から離れて足を止めた。
「どうしましたか――」すぐに女性隊員がやってきた。「ご気分でも悪いんですか?」
 彼女はやさしく背中に手を当てた。
「いや・・・・」
 弦太郎はそのときふと思った。
――そういえば、さっき彼女が手を振ったとき、〝一つ眼〟が見えた。確かあの手は右手だった。いま彼女がオレの背中に当てているのも右手だ。それじゃあ、一つ眼と接触しているということなのか?
 奇妙な気持ちになった。背中に感覚を集中させると、彼女の手は静止しているはずなのに、何かがモゴモゴと動いているような気がした。
――まさか一つ眼がまばたきでもしているのか。
 弦太郎はたまらない気持ちになり、パッと彼女の手を払いのけ山の方へ走り出した。
「待って!」
 女性隊員は手の平を広げ弦太郎にかざした。弦太郎は彼女の声に反応し後ろをさっと振り返ると、彼女の手の平を間近で直視した。
「あっ!」
 思わず声をあげた。そこにはやはり〝一つ眼〟があった。一つ眼は弦太郎のすべてを見透かすような冷たい眼差しを向けていた。
 弦太郎は一つ眼をほんの一瞬見ただけで、その異様な存在感に全身に鳥肌が立った。
――逃げるんだ。とにかくここから逃げるんだ。ここ以外のどこかに。
 弦太郎は一目散に走った。しかし体の鍛えられた男性隊員が前方で網をはるかのように待ち構え、両手を大きく広げた。
「ここからは通しません」
 弦太郎はフェイントをかけて通り抜けようとした。しかし、あっけなく男性隊員の太い腕に捕まった。
「どうして逃げようとするんですか。冷静になってください」
 男性は興奮しながらも温和な口調で言った。弦太郎は男性隊員の目を見た。その目は哀調を帯び、真から親切そうな感じだった。
――やっぱりオレの勘違いだろうか・・・・。
 弦太郎は彼のベレー帽の鷲の紋章に目がいった。
「あっ!」
先ほどは鷲の紋章だったのに、どうしてだか、それが一つ眼になっていた。弦太郎が動揺すると、一つ眼がさも楽しげに笑うかのように眼を細めた。弦太郎は思わず自分の目を両手でふさぎ、しゃがみ込んだ。
「ギャッ!」
「どうしたんですか?」
男性隊員は弦太郎の背中に手を当て気づかった。弦太郎は石のように丸まって顔を伏せた。
――死神だ。ここは死神の世界だ。逃げるぞ、絶対逃げてやる。三、二、一、
「ヤッ!」
 弦太郎は突然大声をあげて跳び上がった。男性隊員の腕を振り切って一目散に駆け出した。
「どこへ逃げるんですか」
 後方から男性隊員の声が聞こえた。
――どうなったっていい。とにかくどうにでもなれ。
 走りに走った。全速力で走った。行き先は山寺である。自分でもわからないが一直線に山寺に向かった。
「ハァハァハァ、着いた――」
 弦太郎は山寺の前で激しく息をついた。真っ暗の闇の中に朽ちかけた山寺が陰鬱な影を落としていた。強引に扉を開けると仏像の前で老婆がひとり、小さく座って手を合わせていた。炉の火はチラチラと弱くなっており、中は薄暗くてほとんど見えなかった。
「戻ってきたか、ヒヒヒヒ」
 老婆は振り返ることなく不気味に笑った。
「さあ、弦太郎、座るんだ」
 薪をくべ炎を大きくした。先ほどと同じようにお経を唱えだした。弦太郎は老婆の背後に座って手を合わせた。
――オレは何をしているんだ。この老婆の指示に従ってどうなるというんだ。
急に怖くなってきた。しかしここにしか自分に救いがないような気がした。
老婆は薪をくべ、さらに油も注いだ。一気に炎が大きく燃え上がった。炎の破片が飛んできて、頭や顔に当たり痛みが走った。もう何が何だかわからなかった。しかし、「ここなんだ」と弦太郎は覚悟を決めた。炎は巨大になってゆき、天井にとどく高さにまで燃え上がった。
「危ないことになってきたぞ・・・・」
 天井の梁に引火し、メキメキと軋むような音をたて燃え出した。老婆は金切り声をあげている。そのとき、外から声が聞こえてきた。
「弦太郎君、助けにきた。すぐにそこから出るんだ。焼け死んでしまうぞ!」
 男性隊員の声だった。後戻りをする最後のチャンスである。一瞬心が揺らいだが、「ここにいるんだ」と強く心に決めた。炎は炉を越えてその周辺に拡大し、お堂は白い煙で充満した。もう前も後ろも何も見えない。炎の熱で身体にやけどを負っていくのがわかった。
「ヒヒヒヒ――」老婆の笑い声が聞こえた。
「弦太郎、それじゃあ、お先に」
 老婆が完全に炎にまかれた。前方の仏像が真っ赤に燃えあがっているのが一瞬見えた。自分の体も燃え出した。
「ああ、もうダメだ・・・・」
弦太郎は炎の中で意識がなくなっていった。


   二十八
「どう考えてもこの雰囲気はおかしいですぜ――」
ジョンは風の精霊の音を聞きつけデーンに言った。
「風の精霊のやつ、爺の卵を狙ってるに違いありませんぜ。卵を地下室に隠しておきましょうか、イヒヒヒ」
「いや、私のそばに置いておいた方が安全よ。それよりも皆は地下室に早く避難して」
 デーンは、部屋に集まっていたファミリー(ジョン、トン、ハム、ナッツ、ファン)に指示を出した。彼らが部屋から出て行くと、部屋にはデーンとサムだけになった。足元にはアディーの〝卵〟が置かれ、ベッドには弦太郎が寝ている。
「風の精霊は絶対ウペウ呪術師には近づかないはずなのに、それでもこうやって近づいてくるのは、ジョンの言うとおりアディー爺の卵を狙っているのかしら」デーンが言った。
「そうですね。確かに卵を狙っているとしか思えませんね」
「この調子じゃ、ずっと診療所を開けれそうにないわ。まったく仕事にならない。フウー・・・・」
 デーンは溜息をついて卵を眺めた。初めは真っ白だった卵が少しずつ変色し、うっすらと赤みがかかりってきている。
「このままこうやって放置しておいても大丈夫かしら?」
「どうなんでしょう――」サムは腕組をしてしばらく沈黙した。「いつ、どのように孵化するかなんてまったくわかりません・・・・」
「困ったわね」
「アディー爺が若返って出てくるんですかね?」
「まったく想像がつかないわ」
 ピー――
 風の精霊の音が外から明瞭に聞こえた。まだ近郊の上空に停滞しているようである。
「ウペウ呪術師のデーン先生がもしここにいなかったら、診療所の敷地は今頃、風の精霊に吹き荒らされてひどいことになっていたでしょうね」
 サムは窓から診療所の庭を眺めて呟くように言った。空はどんよりと曇っている。
「――う、うう・・・・」
 弦太郎が小さく呻き声をあげ、ゴソゴソと身体を動かした。
「あっ、弦太郎君が動いたわ。意識が戻ったのかしら。弦太郎君、弦太郎君――」
 デーンが弦太郎の身体を軽く揺すると、弦太郎はゆっくりと目を開けた。
「あっ、気がついたわ」
「ここはどこ?」
 弦太郎が焦点の合っていない虚ろな目で話し出した。
「ここは診療所よ」
「診療所・・・・?」
「痛たたた」
 鼻っ柱がヒリヒリと痛んだ。手を当てると顔中が腫上がっているようだった。
「弦太郎君、顔は怪我をしているから、まだ触らない方がいいわ」
「どうやってここにきたんだろう――」弦太郎は小さく呟き、自力で上体を起こそうとした。「痛たたた」
 起き上がることができなかった。
「無理しない方がいいわ」
「ちょっと座りたいです」
 弦太郎はデーンの介添え受けながらベッドに腰を下ろし、改めてデーンとサムの顔を交互に眺めた。
「あれ、婆さんは? あの汚っない婆さんは?」
「婆さん? 誰のことかしら」
「護摩を焚いていた婆さん」
「護摩を? 何のこと?」
「夢を見てたのか?」サムが言った。
「いや、夢じゃない。現実のことなんだ。はっきりとした経験なんだから」
「はっきりとした経験? もしかして弦太郎、お前、死神の世界に行ってたんじゃないのか。これに遭ったのか」
 サムはそう言って片目を手で押さえ〝一つ眼〟を表現した。
「ウワッ!」
 それを見た弦太郎はサムから目を逸らした。
「あれは死神の世界だったのか。そうか、そういうことか・・・・」
「何を経験したんだ?」
「薄気味悪い世界だった」
「詳しく話せよ」
 弦太郎は固く目を閉じ、正確に記憶をたぐり寄せた。
「山を下りると、川を挟んだ向こう側に住み心地がよさそうな近代都市があった。親切そうな男女の警備隊員に出会い、向こう岸へ渡る橋まで案内してくれた。橋を渡る手前、検問があって列ができていた。そこに並んでいる時、偶然、女性隊員の手の平に〝一つ眼〟が潜んでいるのを目撃した。オレは橋を渡る気が失せ、鬱蒼とした山へ再び逃げたんだ。また婆さんの山寺へ行った。寺にたどりつき、婆さんがオレを確認すると、再び護摩を焚いて祈祷を始めた。一緒に祈祷していると炎がみるみる大きくなっていき、そのままオレは燃えてしまった・・・・」
「そうだったの――」デーンが言った。「弦太郎君は力が強くなってきたから、死神を認識できたのね」
「本当に死神の世界だったんですか」
「もちろんそうよ。呪術師は生死の狭間におかれたとき死神の世界へ行く。師匠からも聞いているでしょ。死神の世界には二つの選択肢がある。安らぎと恐怖、美麗と醜悪、快楽と苦難。選びがたい方にこそ救いがある。よくそっちの選択肢を選んだわ」
「どうしても一つ眼と関わりたくなかったんです。――デーンさんも死神の世界に行ったことがあるんですか?」
「あたしは行ったことがないわ。師匠から教わった知識があるだけ。弦太郎君は二回目?」
「ええ、そうです。前回は空港で倒れて死神の世界に連れて行かれました。そのときの死神の世界では、崖から飛び降りてこっちの世界に戻ることができました」
「苦しい選択だったな」サムが言った。
「師匠に死神の世界のことは教わっていたんだけど、死神のことを考えたくなかったから、すっかり忘れていました。まさかまた出遭うことになるとは」
「俺も一度死神の世界を経験しているからその気持はわかる。すべてを見透かされているようなあの〝一つ眼〟は見たくないものだ」
「でも功徳は大きいわよ――」デーンが言った。「知っていると思うけど、死神の世界から脱出すると大きな力があたえられる。身体が回復すれば、見違えるほど力が強くなっているはずよ」
「そうなっていれば嬉しいんですが」
 サムは、安堵の表情を浮かべる弦太郎に鋭い視線を浴びせた。
「弦太郎、死神の世界のことはもういい。思い出さねばならない大切なことは、死神の世界以前のこと。お前が死神の世界へ行った直接的な理由を思い出せるか?」
「いや、どうだっただろう。ううん・・・・」
 サムに問われ、弦太郎はじっと慮った。思い出そうとしても、記憶に壁が立ちはだかり、どうしても入っていけなかった。
「ダメだ、思い出せない」
「じゃあ、大魔神って知ってるか?」
「大魔神?」
「サロ呪術師を支配する化け物だ」
「サロ呪術師・・・・、あっ!」
 記憶が鮮明に蘇ってきた。それも思い出したくない忌まわしい記憶だった。
「痛たたた」
 弦太郎は頭を抑えた。
「あのときのことを思い出すんだ。お前は大魔神に追われ領土の外へ向かって逃げてきた。しかし境界線の間近で大魔神に捕まって押さえ込まれた。そこで俺が、電撃の術を放って大魔神の動きを止め、お前を救出した。――どうだ、思い出したか?」
 弦太郎は、大虎に押さえ込まれ、回虫が鼻の中へ入ってきたことを思い出した。
「そうか、あのときサムが救ってくれたのか。――ありがとう」
「いまさら感謝の言葉なんて聞きたくないね。お前のおかげでひどい目に遭ったんだ。お前がサロの村へ行くなんてことを言い出したばっかりに――」
 サムは怒りの感情がこみ上げてきた。弦太郎を罵倒しようとするとデーンがそれを止めた。
「いま言い争ってる場合じゃないの。弦太郎君、サロの村での出来事をもう少し詳しく教えてくれないかしら」
「は、はい。――ぼくは大魔神という恐ろしい存在をまったく知りませんでした。サロの村の長老が住む御殿に忍び込んだとき、偶然驚くべきものを見てしまったんです。それはサロ呪術師が大魔神に食べられるところでした。そのときぼくは術を使って姿を消し、彼らを観察していました。後で師匠に教えてもらったことなんですが、大魔神は透明の術を使っていても、その存在を音で感知できるようなのです。ぼくは大魔神に見つかり、金縛りにかけられ食べられそうになりました。そのとき師匠が助けにきてくれました。御殿から脱出し師匠と高速で走って逃げたのですが、大魔神は虎の姿になって追いかけてきました。大魔神はいろんな姿に自由に変身して襲ってきます。逃げようにも透明の術は聴覚で気づかれてしまうし、普通の姿でいると視覚と嗅覚でバレてしまう。逃げるのは困難でした・・・・」
 弦太郎はここまで話して沈黙した。
「弦太郎、そこからが大切なことなんだ。タム師匠はお前と一緒だったんだろ。だが、師匠は境界線にこなかった。師匠はどうしたんだ?」
「途中までは一緒にいたんだけど・・・・」
 弦太郎は消え入るような小さな声で言った。
「一緒にいたんだけど、何なんだ」サムは急かすように言った。
「境界線に近づいてきたとき、師匠とぼくはとうとう大魔神に見つかってしまって・・・・。そのとき大魔神は子猿の姿をして頭上の木の枝に座っていた。木の枝から襲ってきた子猿に師匠は反撃したんだけど、それが相打ちになって、二人は崖下に落ちていった」
「師匠が崖下に?」
「落ちてゆく師匠の体はすでに固くなっていて」
「ということは、師匠は死んでしまったということか」
 サムは興奮して声が大きくなった。
「話にはまだ続きがあるんだ。――師匠の死が信じられなくて、崖下に向かって師匠の名前を恐る恐る何度も呼んだ。大魔神が復活して襲ってくるのが怖かったから大声を出せない。すると、近くで師匠の声がした。声の出所を探すと、崖の窪みに自生しているサボテンだった。サボテンがオレの名前を呼んでいた。師匠が言うには、瞬時に魂だけサボテンに移したと」
「サボテンがしゃべるのか?」
「ウペウ呪術師は生き物に魂を移すことができるわ」デーンが言った。
「サボテンになった師匠は、すぐに逃げろという。今逃げないと助からないと。それでオレは一人で必死で逃げた。そして、境界線近くまで逃げたんだが・・・・、それからはサムの知ってのとおりの事態になり・・・・」
「そういうことだったのか・・・・。とにかく師匠は死んだわけではないんだな」
「ああ、死んでいない。サボテンの身で生きている」
「そのサボテンの場所は覚えているな」
「ああ、明確に覚えている。師匠も、何か困ったことがあったらここにこい、とおっしゃった」
「それはよかった。師匠から教えをまだ聞くことができるんだ」
「でも、大魔神の領土だからおいそれとは入れそうにないぞ。大魔神にとって呪術師はいいエサだ」
「大魔神の領土というのは困ったことだ・・・・」
「弦太郎君――」デーンが訊ねた「アディー爺については、何か師匠から聞いてる?」
「アディー爺について? いや、何にも聞いてませんが。そういえば、アディ爺は元気なの?」
「アディ爺は卵になってしまって・・・・」
「卵?」
「口から糸を出し、それを体に巻きつけて卵のような形になった。――これよ」
 デーンは足元に置いてあるカゴに入った細長い卵を指差した。
「えっ、これがアディ爺なの?」
「ええ。あたしもどう扱っていいものかまったくわからなくて。しかも卵になったら、風の精霊が頻繁にやってくるようになった。ウペウ呪術師のあたしがいてもやってくるぐらいだから、もしあたしが診療所を離れたらひどいことになると思うわ。それらのことを師匠に相談したかったんだけど・・・・」
「あっ、そういえばサボテンから立ち去ろうとしたとき、師匠が変なことを言っていました。〝卵が赤くなったら力の湖に浸けろ〟って。何のことやら全然わからなかったけど、詳しく聞いている時間もなくて、その場から立ち去ったんだけど」
「そういえば、卵は最初に比べて少しずつ赤くなっているわ。でも力の湖ってどこかしら?」
「それは、大魔神の領土にある湖です。峰の頂からサロの村へ下るちょうど反対側にあります。以前師匠から教えてもらったことがあります」
「そこに卵を浸けるのか?」サムが言った。
「多分そういうことじゃない」
「赤くなったらって、この卵がどこまで赤くなるんだ?」
「詳しいことわからない。――いずれにせよ、また大魔神の領土へ行かなければならないわけだ」
「そうだな」
 サムはため息をついた。また近いうちに大魔神とひと悶着交えるかと思うと、そわそわして落ち着かない気持ちになった。
「――風の精霊は去ったようですぜ、イヒヒヒ」
 ジョンがドカドカと部屋に入ってきた。
「やっ、親分が蘇ってる!」
 ジョンは大きな声を出した。
「うるさい。でかい声を出すな。頭に響くだろ」
「イヒヒヒ、失礼しました。ついつい興奮してしまったものですから。でも親分、大魔神に襲われても蘇えるとはさすがですね」
「サムが助けてくれたんだ」
「サム兄さん、うちの親分が世話をかけました、イヒヒヒ。――で、親分、早速ですが、ファミリーの皆さんは親分にタム師匠のことを聞きたがっていますぜ」
「いま、デーン先生とサムに詳しく話したが、師匠は大魔神の領土でサボテンに姿を変えて生きている。もうおいそれとは会えない」
「サボテンに? どういうこと? 何があって?」
 そのとき、ファミリー(ハム、トン、ファン、ナッツ)がみんな部屋に入ってきた。
「弦太郎さんが意識を回復してる!」
 ファミリーは口々に弦太郎の復活を祝福した。
「で、どうしてみんな診療所に集まってるの? ホームは?」弦太郎が訊ねた。
「それがね、弦さんがいないときに、ホームで大変なことが起きまして」
 ハムが口を歪めながら言った。
「そうですぜ、親分、もうホームには戻れそうにないですぜ、イヒヒヒ」
「何があったんだ?」
「突然、警察の手入れがあって、弦さんのことをしつこく訊いてくるんです。以前、警察と何かもめごとを起こしたんじゃないですか? どうやらジョンが警察に尾行されてホームの場所を知られてしまったみたいなんです。困ったもので」
 ハムはそう言って、横目でジョンに軽蔑の眼差しを向けた。
「おい、おい、おい、オレが悪いわけじゃないぜ。オレは警察に捕まったわけじゃないし、もちろん尋問もされていない。警察が勝手にきただけだから」
「その原因はアナタが尾行されたからでしょ」
「うるせえな、この婆ア。オレのせいじゃないって言ってるだろ」
 ジョンとハムがいさかいを始めた。
「あなたたち、もうやめなさい」
 デーンが二人を制し、弦太郎に説明した。
「だから彼らは今のところ、帰る場所がなくてここに住み込んでいるの。いろいろ面倒が起きないようにね。彼らが越してきたら、今度は診療所に風の精霊が頻繁にやってくる。困ったことがいっぱい」
 デーンは苦笑した。
「人間ってやつは無能なくせに呪術師の領土を侵略してきやがる。まったく困ったもので、イヒヒヒ」
「お前かって、無能じゃないか」
 弦太郎は小さく呟いた。
「親分、何か言いましたか?」
「いや、何も言ってない」
「いや、いや、いや、ワタシには聞こえましたぜ。親分は口が悪い。親分が霊石に張り付いているとき救出したのはワタシですぜ。そんなワタシによくそんなことが言えますね」
「子分のクセに恩着せがましい奴だ。オレかって、お前にどれだけ振り回されたことか。セタ呪術師に拉致されて、催眠術をかけられてハナ垂らしていたのはどこのどいつだ」
「イヒヒヒ、じゃあ、今回は痛み分けということで。昔のことは言わないでおきましょう」
「でも、風の精霊が頻繁にくるのはどいういうことなんだろう?」
「多分ですぜ、奴はアディー爺の卵を狙ってますぜ。ワタシは怖くて怖くて、うかつに外に出られません」
「そんなことがあるのかなあ。フアー」
 弦太郎は長い時間話をしたら疲れが出てきて大きな欠伸をした。ゴロリとベッドに横になった。
「弦太郎――」サムが言った。「とにかく今は安静にしているんだ。早く怪我を治すためにもな。卵の状態によってはすぐに大魔神の領土へ行かなければならないんだから」
「わかってる」
「弦さん、お腹は空いてないの?」ハムが言った。
「そういえば、腹ペコだ。一眠りする前に、食事がしたいね」
「じゃあ、すぐに何か持ってきますね」
 しばらくしてハムは食事を持ってきた。
「どうぞ、お待たせしました」
 ドンブリにお粥がたっぷりとよそってあり、その真ん中に生卵がひとつのせらてた。弦太郎はそれを見ると、卵が〝一つ眼〟に見え、ギョッとして目を逸らした。
「ワッ、ダメだ、ダメだ。ハム、オレの器に卵を一つだけ入れるのはやめてくれ。一つ眼の記憶が蘇る。卵をもう一つ入れて〝二つ眼〟にしてくれ」
「えっ?」
 ハムは弦太郎の言う意味がわからなかった。サムはその様子を見て冗談交じりで言った。
「弦太郎、一つ眼に慣れておくというのはどうだ」
「いや、慣れたくない。奴は生き物と対極にある存在だ。あんなものを見たら力が出ない」
弦太郎はドンブリにもうひとつ卵が入れてもらい、二つ眼になったお粥を啜り込むように食べた。


   二十九
「親分、寝てばっかりですね、イヒヒヒ」
 ジョンは弦太郎が寝ているベッドに座って話しかけた。
「何だジョン、ご飯の時間か?」
 弦太郎はボンヤリと目を開けた。
「さっき食べたばかりじゃないですか。ご飯はまだですよ、イヒヒヒ。しかし、よく一日中そんなに寝ていられますね。診療所にきて一カ月経ちますが、食べている時間以外はすべて寝ているじゃないですか。まだ具合がよくなりませんか」
「いいのか、悪いのか、よくわからない。ただ眠いだけだ」
 弦太郎はジョンから目は逸らし、彼から背を向けるように寝返りをうった。
「親分、体を鍛えないと呪術が鈍りますぜ。ワタシはいつも鍛えていますから大丈夫ですがね」
 ジョンは執拗に弦太郎に話しかけた。
「何なんだよジョン、オレはゆっくり休みたいんだ。静かにしてくれないか」
「おっ、こりゃ失礼しました。いやあね、風の精霊が日に何度もくるもんですから、外に出られなくて退屈なんです、イヒヒヒ」
「そんなことオレの知ったこっちゃない」
「サム兄さんも親分の眠り病が染ったかのように寝てばかりですよ。レラ呪術師は怠け者なんですかね、イヒヒヒ」
「ケッ、何を言いやがる」
弦太郎はジョンを無視して目をつむった。
    *
 デーンは足元にアディーの卵を置き、いつものようにデスクワークに没頭していた。卵は完全な赤色となり、温度も熱くなっていた。
「あっ、どうしたのかしら?」
 デーンは卵の異変に気づいた。手を当てると小刻みに震えていた。耳を当てると小さく低い呻き声が聞こえる。
「もしかして孵化したいのかも」
 デーンは直感した。仕事を中止し、卵を持って弦太郎が寝ている二階の部屋に行った。
「デーン先生、どうしましたか。おや、卵を持ってきましたか。いやあ、真っ赤ですね、イヒヒヒ」
 ジョンはデーンの姿を見て、嬉しそうに声をかけた。
「ジョン、すぐにサムを呼んできてくれる?」
「ヘイ、わかりました」
 ジョンは部屋から走るように出て行った。
「弦太郎君、起きれる?」
 デーンは弦太郎に声をかけた。弦太郎は四六時中寝ていたことが嘘のように、機敏に上体を起こした。
「どうしましたか?」
「もう体は大丈夫そう?」
「ええ、大丈夫ですよ。いつでも出られる準備は整っています」
「弦太郎君の回復が間に合ってよかった。卵のことなんだけど」
「――デーン先生、何か卵に変化があったんですか?」
 サムが颯爽と部屋に入ってきた。
「あっ、サム、二人とも聞いてちょうだい。この卵を見れば一目瞭然だけど、ここ数日で一段と赤みが増して熱くなり、そしていま、卵が突然震え出したの。触ってみて」
 弦太郎とサムは卵を触った。確かに小刻みに震えている。
「あっ、本当だ」
「それにうめき声も聞こえるわ」
 デーンは二人に卵を耳にを当てるよう促した。
「苦しがってるように聞こえますね」サムが言った。
「師匠が弦太郎君に伝えたことだけど、これはアディー爺が孵化したがっている合図だと思うの。力の湖に行くときのようね」
 デーンが二人の目を見つめながら言った。
「そうですね」
 二人がコクリとうなづき同意した。
「イヒヒヒ、いやあ、皆さん、遠くまで行くのは大変ですね。大魔神がいるところでしょ。いやあ、大変、大変。――そうだ、どうですか、みなさん。どうせならそんな遠くまで行かず、熱くなった卵を氷水を入れたバスタブで冷やしたらどうでしょうか。爺も涼しがるでしょう、イヒヒヒ」
 ジョンは思いついたアイディアを言った。
「冷やせばそれでいいというものではないだろ。黙ってろ」
 サムはピシャリと言った。
「ウヒッ、イヒヒ・・・・」
「弦太郎、もう出られるか」
「いつでも大丈夫だ。いますぐにでもな」
「じゃあ、すぐに行くか」
 サムは弦太郎の目を見て言った。
「二人とも気をつけてね。なんといっても大魔神の土地なんだから」
「ええ、よくわかっています」
「親分、ずっと寝てばかりいて急に動けるんですか」
「呪術師が動けなくてどうする。エイ!」
 弦太郎はパッとベッドから跳ね、体操選手のように軽やかに両足で床に着地した。
「おっ、親分、ずっと寝ていたとは思えない軽やかな動きですね」
「こうして動いてみると、ずいぶん体が軽く感じる。死神の世界から脱出した功徳はスゴイぞ」
 弦太郎は部屋の中をピョンピョンと跳ね回った。
「力がずいぶん増したようね。その調子なら本当に大丈夫そうね」
「いい仕上がりだ」
「用意しよう――」
 弦太郎とサムはすぐに身支度を整え、卵を持って外に出た。空は青空で風の精霊の気配はまったくなかった。
「さあ、弦太郎出発するか」
「うむ――」
 二人は車に乗り込んだ。
「あっ、一応みんなに挨拶をしないと」
 サムはもう一度車から下りて、出迎えに出てきたファミリー一人一人に握手をして朗らかに挨拶をした。
「じゃあ、明後日には戻ってくるから」
 サムはそう言って車に乗り込んだ。
「弦太郎、術を使うんだ。二人が同時に術を使えば車ごと消せるだろう」
「やってみよう」
 術を使うと車ごと消すことができた。これなら物体をすべて通り抜けられ、いくらスピードを出しても事故の心配はない。
「出発――」
 アクセルを目いっぱい踏み込んだ。
「――あっ、消えちゃっいましたぜ」ジョンが言った。「なんですか、あれは。車ごと消してしまうとは。透明の術が進化しましたか」
「そうみたいね」デーンが答えた。
「でも、今日のサム兄さん、変に馬鹿丁寧だったなあ。いつもは何も言わずスッと立ち去るのに」
「そういえば、そうねえ――」
ファミリーはサムの最後の行動が不思議なものに思えた。


   三十
雨が強く降りしきる中、弦太郎とサムは暗闇の山中を高速で駆けた。弦太郎の背負っているリュックの中に納まっている卵は始終ブルブルと震え、時おり「ウー」と苦しそうな声を出した。
「――さあ、着いたぞ」
 先頭を走っていたサムは大魔神の領土の境界線で足を止めた。弦太郎もそれにつづき足をとめた。
「ここからが勝負だな」
 二人は大魔神の領土に生い茂る森林をまじまじと見つめた。夜が明けたばかりの森林はエネルギーに満ち、威厳さえ漂わしているように見えた。
「しかし、よく降るな」
 サムは空を見上げて言った。雲行きからして雨は止みそうになかった。
「雨のことよりも、何だか不穏な気配だ」弦太郎が言った。
「不穏?」
「風の精霊がもうすぐやってきそうだ」
「本当か」
 二人は風の精霊の音にじっと耳を澄ました。
「チッ、近づいてやがる――」サムは舌打ちをした。「風の精霊は大魔神を恐れているから領土には入ってこないと師匠から聞いたことがあるが、どうしてやってくるんだ」
「よっぽど卵が好きなんだろう。とりあえず、領土に入る前に追い払っておこう。大魔神と風の精霊がダブルで攻めてきたら終わりだから」
 ピー――
 風の精霊の音が顕著に聞こえてきた。
「くる」
 二人は身構えた。
「そうだ、サム、これを持っていてくれ――」弦太郎は卵の入ったリュックをサムに渡した。「オレが電撃の術で撃退するから、サムは卵を守ってくれ」
「大丈夫か」
「オレは死神の世界から脱出して力が有り余っているんだ」
 ゴオオオオ――
 風の精霊が轟音とともに卵めがけて一直線で襲ってきた。弦太郎はサムの前で壁になり、ガルーダの目を狙って電撃を放った。
「喰らえ!」
 バシッ――
 激しい音とともに、ガルーダは弾き飛ばされるように直角に空へ昇っていった。
「よし! 命中した」
「油断するな。これからが勝負だ。奴は何度も襲ってくるからな」
「わかってる――」弦太郎はガルーダの動きに注視した。「この勝負は勝ちそうだぞ。ガルーダの動きに目がついていってる」
 ガルーダは上空をクルクルとしばらく旋回し、轟音とともに再び襲ってきた。弦太郎はガルーダの進行方向を見切って電撃を放った。
「喰らえ!」
 バシッ――
 これも見事に命中し、ガルーダは進行方向を変えて森の中へ消えた。しばらくすると上空に舞い上がって旋回を始めた。弦太郎は額から汗が流れた。少しでも見誤って的を外すと命を失う。
 ゴオオオオ――
 ガルーダは轟音とともに三度目の攻撃をしかけてきた。
「ヤーッ!」
 弦太郎はこれも弾き飛ばした。ガルーダは同じように上空に昇った。まだまだ攻撃を止めそうにない。執拗に二人の気配をうかがっている。
「あの野郎、いつまでつづけるつもりだ」
「弦太郎、疲れたら俺か代わる。お前が卵を守れ」
「いや、まだまだ大丈夫だ――」
 それから、ガルーダの攻撃は何度もつづいたが、弦太郎はすべて阻止した。
 ガルーダの攻撃が十回目に達したとき、さすがに弦太郎に疲労の色が見え、足元がふらついてきた。
「おい、弦太郎、もう無理だ。俺が代わる」
 サムは卵の入ったリュックを弦太郎に渡して身構えた。上空を旋回するガルーダの動きを目で追っているだけで緊張で額から汗が流れた。ガルーダは攻撃をしかける体勢をとっていたが、旋回する円がだんだん大きくなり、スーッと空の彼方へ消えていった。
「去ったか・・・・」
「長い攻撃だった・・・・」
 二人は緊張の糸が切れるとドッと疲労を感じ、岩にもたれかかるよう腰を下ろした。雨にうたれながらボンヤリと空を見上げた。
「モタモタしていられない――」弦太郎が立ち上がった。「卵が苦しんでいる。急がないと」
「そうだな――」サムも立ち上がった。「これからが本当の戦いになるからな」
 大魔神の深い森をじっとを見つめた。
「どうしよう? 力の湖に行く?」
「取り合えずは・・・・・」サムは思いを巡らした。「力の湖に行く前に師匠に相談しよう。もう一度しっかり卵の取り扱いについて聞いておいたほうがいい。それに師匠がどこにいるか俺も知っておきたい」
「そうしよう。オレも師匠には聞きたいことがいっぱいある」
「よしっ、そうと決まれば一気に駆け抜けるぞ」
「じゃあオレが先を行く――」
二人は大魔神の領土に入り、高速で領土を駆け抜けた。
短時間でサボテンの場所に到着し、足を止めた。
「ここら辺にあるサボテンなんだが――」弦太郎はキョロキョロと見回した。「あった、あった。ここ――」
 弦太郎は山の斜面の岩の窪みに生えている小さなサボテンを指差した。
「師匠――」
 弦太郎が恐る恐る声をかけた。しばらくの沈黙の後、サボテンが声を出した。
「二人ともきたか」
 それはタムの声だった。
「し、師匠、こ、こ、これが師匠ですか」
 サムは声をつまらせながらサボテンをまじまじと見つめた。
「ああ、そうだ。何か問題はあるか?」
「師匠、こんな姿になられて・・・・」
「姿かたちなんてどうだっていいんだ。肉体なんていずれ朽ち果てていくもの。それより、お前たちもよく無事で戻ってきたな、ハハハハ」
 いつものように屈託のない笑い声を聞かせた。
「師匠、卵のことです。急いで教えてください――」弦太郎が口早に言った。「なにぶん、ここは大魔神の領土です。大魔神に気づかれるのが恐ろしくて」
「そうだな、大魔神に気づかれたらおしまいだ。だが、お前たちは運がいい。こうして雨が降っているおかげで音がかき消されている。これならお前たちの〝音〟も大魔神に聞き取られまい」
「本当ですか。あれほど聴覚にすぐれている大魔神ですらそんなことでゴマかされるんですか」
「音とは一種の振動だ。音が混ざったら大魔神といえど聞き取れまい」
「よかった、この雨が幸運の雨だったとは。――それで、この前、師匠が最後に忠告したとおり、アディー爺の卵が赤くなりました。これを力の湖に浸ければいいんですか。とりあえずこんな状態なんですが――」
 弦太郎はリュックからいそいそと卵を出して、サボテンの前にかざした。
「卵はときどき苦しそうな声を出します」
「時が満ちている。性急に力の湖に浸けなければならない。そうすれば孵化が始まる。急がないと中で死んでしまうぞ」
「そうですか」
「今この時を逃してはならない。物事は何でもタイミングが重要だ」
「それで、師匠――」サムが訊ねた。「この卵を水に浸すとアディー爺はどうなって生まれてくるんですか」
「どう生まれてくるかはその場にいればわかることだ。大切なことは、卵が孵るところに必ず立ち会うということ。卵から孵って新しく生まれ変わったアディーはお前たちに祝福を授けてくれるだろう。それはレラ呪術師のお前たちにとって最高のチャンスだ。それによって大きな力が得られ、大きく飛躍するだろうから」
「それは楽しみです」サムが深くうなずいた。
「いろいろ聞きたいことがたくさんあったはずなんだけど・・・・」弦太郎は考えた。「思い出せない・・・・。じゃあ、サム、急いで力の湖に行こう」
 弦太郎は卵をリュックにしまった。
「あっ――」
走り出そうとしたとき弦太郎はふと思いつきタムに訊ねた。
「師匠、あと一つだけ教えてください。ずっと疑問だったことです。どうして風の精霊は執拗にアディーの卵を狙うんですか。奴があまりにもしつこいものですから」
「風の精霊にとってエチンケ呪術師の卵は最高の獲物だ。卵は大きな力を秘めているからどうしてもそれを捕食したいんだ」
「それでしつこくつけてくるんだ。――あっ、もうひとつ大切なことを思い出した。風の精霊は形のないものとばかり思っていました。でも、術に入った状態で風の精霊を見てみるとガルーダの姿をしています。どういうことなんですか?」
「どういうこととは、どういうことだ?」
「風の精霊とガルーダは同一なんでしょうか。それとも、似ているだけで別の生き物なんでしょうか」
「風の精霊とガルーダは同一だ。別の生き物なんかじゃない」
「えっ、やっぱり同一なんですか! じゃあ、どうしてガルーダは我々の命を狙ってくるんですか?」
「呪術師の力を食料にして生きているから狙って当然だろ」
「どういうことなんですか。わからなくたってきた・・・・。ガルーダは、ぼくが呪術師になったとき祝福を与えてくれた神聖な存在です。師匠も教えてくれたじゃないですか。ガルーダはぼくの守護神だと」
「ガルーダといえど個体性を持っている。お前の守護神のガルーダと、命を狙ってくるガルーダが同じガルーダとは限らないだろ」
「じゃあ、守護神のガルーダとは、ぼくに何をしてくれるんですか」
「前にも言っただろ。いつもお前を見守っているとな」
「〝見守る〟だけですか・・・・。よくわからなくなってきた。じゃあ、守護神のガルーダは普段、どこで何をしているんですか」
「他の呪術師を追い回しているんじゃないのか。どこで何をしているかなんてわからない。奴らは四六時中飛び回っているんだから」
「そんな・・・・、呪術師の命を狙うガルーダが守護神だなんて意味がわからない。――しかし、どうして師匠は、風の精霊がガルーダだというそんな大切なことを教えてくれなかったんですか」
「それを知ったところでお前がどうなるわけでもないだろ。ガルーダは命を狙ってくる相手なんだから。それが真実であっても聞く必要のないことだってあるし、言葉で観念をあたえないほうがいいことだってある。もしお前が、風の精霊がガルーダだって初めから知っていたら混乱しただろ。性急に知らなくとも、真実は力の段階によっていずれわかってくるものだ」
「ずっとガルーダを心の拠りどころにしていたのに、風の精霊だったなんてショックだ」
「つまらんことに頭を悩ますな。敵が味方になり、味方が敵になる、自己と対象との関係性なんていつだって反転するものだ。味方が味方でずっとありつづけることなんてない。――そんなことよりも急いで力の湖へ行くんだ。モタモタしている時間はない。雨が止む前に」
「そうですね。じゃあ急ぎます。師匠ありがとうございました。また来ます」
二人は降りしきる雨の中、力の湖に向かって駆け出した。


   三十一
 大魔神は子猿の姿になって、御殿の巨大な宝石の椅子の上であぐらをかいていた。その傍らで長老が膝をつき子猿の背中の毛づくろいをしていた。
「もう少し下」
 子猿が命令した。
「はい、ここですか」
「いや違う、もう少し右だ」
「ここですか」
「そこだ、そこだ、そこを集中的に――」
 うっとりと気持ちよさそうにしていた子猿がピクッと耳を動かし、外の音に耳をそばだてた。
「んっ?」
 子猿の目つきが厳しくなった。
「どうしましたか、大魔神様」
「外がずいぶん荒れてるな」
「そうでございます。今朝は雨が集中的に降っております」
「いや、そうじゃない。風の精霊が我輩の領土のすぐ間近で暴れているぞ」
「えっ、本当でございますか。これはまた、どういうことで?」
「知らん。領土に入ってこようものなら懲らしめてやる」
「私たちの大切なサロ呪術師を喰い荒らされたらたまったものじゃありませんからね。でも、大魔神様、お気をつけくださいませ。たまに力のある風の精霊もおりますから」
「風の精霊なんぞ敵じゃないさ、キャキャキャッ」
子猿は風の精霊の音をじっと聞き入り、いつでも飛び出せる心の準備を整えた。
    *
弦太郎とサムが高速で駆けていると峰の頂が見えてきた。峰の頂からは力の湖が一望できる。そこから斜面を下って行けば力の湖に到着する。
――もう少しだ。
 弦太郎は気持ちが急いた。そのとき〝ピー〟と不吉な音が聞こえた。
「風の精霊だ」
 弦太郎が足を止めた。
「またきたのか。さっき追い払ったばかりじゃないか。それにここは大魔神の領土の真ん中だぞ」
「奴はどうしても卵を喰らいたいようだ」
「背後を取られたら大変だ。ここはもう一度じっくり戦って追い払わないと」
「畜生、もう少しで力の湖なのに」
「力の湖はどこだ?」
「あの峠の裏側だ」
「くっ、もう少しじゃないか。こんなところで暴れて大魔神に見つかったら大変だ」
「もうそんなこと言ってる場合じゃない。あっ、きた!」
 卵は弦太郎が担いでいたので、サムが弦太郎の前に立ち、襲ってきた風の精霊に電撃を放った。
 バシッ――
 弾けるような音が響き、風の精霊は天に昇っていった。
「フウー」
 サムは深く息を吐いた。
「一回一回が勝負だな」
「空振りは許されないぞ。一回のミスで命を失うからな」
 風の精霊は轟音とともに何度も襲ってきたが、サムはことごとく撃退した。しかし、四回、五回と回数を重ねても一向に去って行こうとしない。
「早く去りやがれ。何回襲ってくるつもりだ」
 サムは額から汗を流しながら風の精霊を睨みつけた。風の精霊は空を旋回しながら隙を窺っている。攻撃の角度を変えてさらに何度も襲ってきた。
 バシッ――
 電撃の術が命中したが風の精霊は宙に昇らず地面を平行に飛び、百八十度方向を急転換して連続攻撃をしかけてきた。
「あっ!」
サムは不意をつかれた。横から弦太郎が飛び出し、電撃の術を放った。
「喰らえっ!」
 バシッ――
 見事に命中し、風の精霊は空に昇り旋回した。サムは地面に膝を突いた。
「サム、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
「疲れが出てきている。サム、今度はオレが戦う。卵をもってくれ――」
 弦太郎がサムに卵を渡そうとしたとき、空に稲妻が走り雷鳴が轟いた。急激に空が薄暗くなった。二人の動きが止まった。
「も、もしや・・・・」
 空を旋回している風の精霊のさらに高みで、白い龍が睨みをきかしているのが見えた。
「大魔神がいる! マズイ!」
「弦太郎、逃げるぞ」
 二人は領土の外へ向って一目散に駆け出した。恐怖のあまり体中から冷や汗が噴出した。生きた心地がしなかった。
 ドカン――
 間近の大木に雷が落ち、木が真っ二つに割れて煙があがった。その衝撃に二人はバランスを崩して転倒した。
「もうダメだ・・・・」
 二人は諦めの気持ちが脳裏をよぎった。白い龍はこちらに向かって飛んでくると思ったが、ガルーダに突進していた。龍とガルーダは衝突して黄色い光を放ち、くんずほぐれつ絡み合って空を蛇行しながら飛び回っている。
「神同士が戦っている・・・・」
 二人はこの光景に目を見張った。
「今だ!」
 弦太郎が思いついたように立ち上がった。
「行くぞサム。力の湖に行くチャンスだ」
「何を言う。いまこそ逃げるチャンスじゃないか。領土の外へ逃げるぞ」
「そんなことしていたら卵が死んでしまう。いまも卵は震えて唸っているんだぞ。一刻も早く行かないと」
「卵のことも大事だが、自分が死んでしまったら元も子もないい。卵を孵すことよりも自分を守ることが先決だ。相手は大魔神だぞ」
「なにをイジけたこと言ってるんだ。オレは行くぞ」
 弦太郎は力の湖に向かって駆け出した。
「バカヤローめが」
 サムは弦太郎と正反対の方向、領土の外へ駆け出した。二人の運命は百八十度分かれた。
 ドカン――
 龍とガルーダは中空でもつれ合ってらせん状に飛行し、そのまま地面に衝突して激音をあげた。さらに両者は地面に沿って猛スピードで蛇行し、樹木を吹き飛ばし、大地をえぐり、砂煙が濛々と上がった。
 龍はガルーダを掴まえて動きを止めようとするが、ガルーダはジグザグに飛行して攻撃をかわす。しかし、龍の執拗な攻撃によってガルーダは苦しくなったのか、超高速で領土の外へ逃げ出した。龍はガルーダを追いかけたが掴まえることができず、諦めて攻撃の手を止めた。
「逃げられたか・・・・」
 大魔神は呟いた。戦いの余韻に浸りながら中空にとどまって領土を静観していると、レラ呪術師の音を耳にした。
「レラ呪術師が領土にいるじゃないか」
 ハッと彼らの存在に気づいた。ガルーダとの戦いに集中し、レラ呪術師の音などまったく聞こえていなかった。一人は領土の外へ向かい、一人は湖へ向かっている。
「この前の奴らだな。そうか、風の精霊はこいつらを狙っていたんだ、ハハハハ。こいつは戦いの後の美味しいご馳走だ。先ずは、領土の外へ出ようとしている奴から捕まえるか。逃さんぞ」
 白い龍はサムに狙いをつけて、一直線に電光石火の速さで飛んでいった。
     *
「境界線が見えてきた。もう少しだ。あと一息だ」
 サムは境界線が間近に見えたとき、弦太郎のことが頭に浮かんだ。
――あの野郎、間抜けに命を落としやがるんだろうな。呪術師はまず自分の命を守ることが大切なことなのに。じゃあ、卵はどうしよう。残念だが、大魔神か風の精霊に食べられてしまうだろうな。周囲が落ち着いたら、弦太郎の様子を見に行くか。いやそれよりも師匠に報告した方がいいか・・・・。
 領土の外へはあと数メートルの距離だった。
「やっと着いた」
 ふと力を緩めたそのときだった。バッと大きな力に背後から押さえ込まれ地面に叩きつけられた。
「ギャッ!」
 言葉にならない悲鳴をあげた。何が起きたのかまったく理解ができなかった。突如大蛇が体に巻きついてきて身体を絞めつけ、いくら暴れても身動きがまったくとれなくなった。そのときハッと気がついた。
――大魔神だ・・・・。
 大蛇はサムの顔を舌でペロペロと舐めた。
「おお、旨そうだ。この前はよくぞ逃げてくれたな。電気なんぞで攻撃しよって、ヒヒヒヒ」
「あ、あ、あ――」
 サムは叫ぼうとしたが恐怖のあまり声にならなかった。恐怖が臨界点を超え、痛みも感じず、感情も湧き起こらず、目の前が真っ白になった。
「じゃあ、いただきます」
 蛇の舌が回虫に変化し、サムの鼻の中から体にゆっくりと侵入していった。蛇の体は徐々に回虫となり、回虫はサムの体内へ滑るように入り込んだ。
「あっ・・・・」
 サムは目を見開いたままピタリと動きを止めた。みるみるうちに皮膚が乾燥し、色が浅黒くなり、体が縮小し、数秒で完全なミイラとなった。両方の目玉がコロリと地面に転がった。
 呪力を吸い終わった回虫はミイラの口からニョロニョロト這い出し、パッと子猿に姿を変えた。
「いやあ、旨かった」
 子猿はうっとりと笑みを浮かべた。
「おっ、そうだ、そうだ、もう一匹いるんだ。どこだ?」
耳を澄ましてレラ呪術師の音を聞き入った。
「湖か――」
白い龍に変化し、猛スピードで天に昇った。


    三十二
 弦太郎は峠から斜面を飛び下りるように駆けた。あっという間に斜面を下りきり、力の湖の湖畔で足を止めた。湖を眺望し呟いた。
「ここが力の湖か――」
 美しい湖だった。山に囲まれた湖は蒼く広がり、湖面から白い靄がうっすらかかって神秘的な様相を呈していた。空を見上げるといつの間にか雨は止んでおり、真っ白い雲の隙間から青空が顔を覗かせていた。ただひたすらに静寂が漂っていた。
 弦太郎はリュックから卵を取り出した。真っ赤になって熱を帯びた卵はいかにも苦しそうで、すぐに水に浸かりたそうな感じだった。
「さあアディー爺、体を冷まして新しく生まれ変わっておくれ」
卵を水に浸けると、湖底にコロコロと転がり、沈んで見えなくなってしまった。
――これから何が起こるんだろう。
 弦太郎は卵の転がって行った方向をボンヤリと眺め湖畔に佇んだ。静かな時間が流れた。
「なんだ?」
 卵が沈んでいる思われる場所からプクプクと小さな泡が立ち上ってきた。
――新しい生命が誕生したのか?
 小さな泡の気泡は次第に大きくなり、しかも面積をどんどん広げてゆき、湖全体がブクブクと泡立ち出した。湖全体に異変が起こったかのようだった。その影響は湖の周囲にも及ぼし、湖を囲む山々から野鳥の群が激しい悲鳴をあげていっせいに飛び立ち、周囲は騒然となった。
「おい、おい、いったい何が起こるんだ? すごいエネルギーを感じるぞ」
弦太郎は予想を超えた現象に目を見張った。
そのとき、背後から〝ポンポン〟と肩を叩かれた。
「サム、きたのか。スゴイことになりそうだぜ」
 サッと振り返った。背後には民族衣装を身に纏った長い黒髪の美少女がにっこりと微笑んでいた。「ウヒャ!」
弦太郎は悲鳴ともつかない奇声をあげた。全身にさっと鳥肌がたった。
「や、や、や、や・・・・」
「お兄ちゃん――」
 美少女は後ずさりする弦太郎に笑いながらゆっくりと近づいた。
「サロの村に何度かやってきたレラ呪術師ね。ご無沙汰ね――」
 突如大蛇に変身し、パッと弦太郎に飛びかかった。
「ヒヒヒヒ」
 大蛇は弦太郎に巻きつき、甲高く薄気味悪い笑い声をあげた。弦太郎は大蛇に絞めつけられて身体を動かすことができず、声も出すことができなかった。
「二匹目の獲物だ。今日は大御馳走がつづくなあ」
 大蛇は弦太郎の顔を細い舌でペロペロと舐めた。弦太郎は恐怖で体中から冷や汗が噴出し、血の気が引くのを感じた。
「美味しそうだ。じゃあ、いただきます――」
 大蛇の舌は回虫に変化し、弦太郎の鼻の穴へ向かってゆっくり伸びていった。弦太郎は目を閉じて観念した。
――終わった・・・・。
 そのとき、湖の泡立ちがピタリと止まり、ある一点がまばゆく輝いた。大蛇は湖の異常に気づき動きを止めた。
「何だ?」
 まばゆく光る一点から小型の白い龍が音もなくスーっと出てきて、湖面の数メートル上空で停止し、弦太郎と大蛇を静かに見つめた。大蛇は絞めつける力を緩め、白い龍と無言で見つめ合った。
 青空を覗かしていた気象が一変し、空が黒い雲に覆われ、日中とは思われない暗さになった。ゴロゴロと雷が鳴り出した。
 弦太郎は大蛇の絞めつけが弱まったことに気づき、固く閉じていた目を開けた。
「あっ、龍がもう一頭いる! 爺の卵から大魔神が出てきたのか!?」
 弦太郎は驚きのあまり声を出した。
 大蛇は弦太郎の身体から離れ、ゆっくりと白い龍に向かっていった。両者は至近距離で動きを止め、しばらく互いに見つめ合った。突如、大蛇が白い龍に変化し、小型の龍も同じような大きな白い龍に変化した。二頭の龍は絡み合いながら空に昇り、湖面上空をダンスをするかのように飛び回った。
「大魔神が踊っている・・・・」
 二頭の龍が舞い踊ると、上空が恐ろしいことになった。黒ずんだ空からカメラのフラッシュがたかれたように稲妻がまばゆく点滅し、轟音とともに雷が湖周辺にドカンドカンと絶え間なく落ちてきた。弦太郎はその光景に目を奪われていたが、ハッと我に返り〝雷のメディテーション〟を思い出した。
――この落雷を受け止めたらいいんだ。
弦太郎は両手を上げて手の平を天に向け、雷を引きつけるよう手の平に電流を滞留させた。
「雷よ、こっちにくるんだ!」
 周辺に拡散して落ちていた雷が弦太郎の手の平一点に向けて吸い寄せられるように流れてきた。
 ドッカン、ドッカン、ドカン――
地響きする轟音とともに、弦太郎に向かっていっせいに雷が落ちた。一発の雷でもそうとうな力になるだろうが、それが連続で何十発、何百発と続く。タムが言っていた祝福とはこのことだったのだ。
二頭の龍はダンスをつづけた。引き離された家族が再会したかのように歓喜していた。薄暗い空に二頭の龍の閃光が舞い、雷がひっきりなしに落ちてくる。それは恐ろしくもあるが美しい光景だった。
どれだけ時間が経っただろうか、上空を舞っていた二頭の龍は、最後はらせん状に絡み合いながら一直線に天の彼方へのぼってゆき消えていった。龍の姿が見えなくなると雷はやみ、黒ずんだ空は明るくなり、白い雲の隙間から青空が顔を覗かせた。辺りはシンと静寂が漂った。
弦太郎は力が最大限に高まり立ち尽くしていた。
――力がすさまじいぞ。オレは最強になった。世界最強だ。いや、もしかしたら、身体が破裂するかもしれない。
 あふれるような体内エネルギーの高まりに恐怖すら感じた。その瞬間、人間としての肉体の外形がバラバラとパズルが外れるようにこぼれ落ちてゆき、目の前の世界が眩しくなって見えなくなった。
――何が起こったんだ!?
 眩しさがゆっくりと落ち着き、視覚がはっきりしてくると、今まで見えていた景色とは違う世界、奇妙な色とりどりの光が目の前に広がった。視覚認識が今までとまったく変わってしまったようだった。
――これはどういうことなんだ? どうすればいいんだ?
 弦太郎はパニックになって体を動かそうとすると、突然、体が爆発するかのように天に飛び立った。彼自身まったく理解不能のまま、高速で宙を飛び回り出した。弦太郎は自分の新しい体のどこにアクセルがあり、ブレーキがあり、操縦桿があるのかまったくわからなかったが、自然に空を舞っていた。
――空を飛んでいるぞ! これはスゴイ!
 しばらく飛び回っているうちになんとなく体が使いこなせるようになってきた。体は重力から解き放たれたように重さを一切感じず、精神は伸びやかに澄み渡っていた。身体が突然変化したときは恐ろしくなって戸惑ったが、慣れてくるとなんとも楽しくなってきた。
――オレは新しく生まれ変わった。風のようにどこへでも行けるぞ。ん? 風のように・・・・。
 自分で思った言葉に、ハッと不可解な気持ちになった。
――風のように・・・・。いや、風ではない。決して気まぐれで飛んでいるわけではない。かといって鳥でもなさそうだ。鳥はこんなに超高速で飛べたりはしないだろう。こんなに超高速で空を飛べる生き物といったら・・・・、もしかして、もしかして・・・・、オレは、風の精霊になったのか? ガルーダになったのか・・・・?
 恐ろしい考えが脳裏をよぎった。しかし、視覚、聴覚、臭覚を含めた身体感覚のすべてが今までの肉体とまったく変わってしまい、自分で自分の体を認識できなかった。さらには自分の存在を認識してくれる対象もいなかった。
――もしもガルーダだったら、どうすればいいんだ? オレ自身が呪術師を襲うのか? これからどうやって生きてゆくんだ? 仲間はどこに? 誰と意思を分かち合えばいいんだ? 
弦太郎はどうしていいかわからず、ただひたすらに空を飛び回り、下界の景色を観察した。下界は色とりどりの光の粒が燦めきうごめいていた。
                                                          (了)2012年作


お布施していただけるとありがたいです。