ガルーダの飛翔 第一部 幻を奏でる鳥(長編小説)

                    
   一 
 弦太郎は空を見上げた。上空は鉛色の雲に覆われ、湿気をともなった強い風がピューと身体を通り抜けていった。風に舞い上がった砂塵と一緒に路上に捨てられていたポリ袋が、小動物が走り去るように目の前を吹き飛んでいった。
「こりゃ、ひと雨きそうだな」
弦太郎は病棟からバイクの停めてある駐車場へ足早に向かった。急げば濡れずに帰宅できそうである。バイクにたどり着きエンジンをスタートさせようとしたとき、ヘルメットが紛失していることに気がついた。
「あれっ、ない・・・・」
周りを見回しても彼のヘルメットはなかった。
――盗られたか。
弦太郎は愕然とした。高いものではなかったので、用心せずにかごの中に置き去りにしていた。こんなことなら鍵をかけておけばよかった。捜し回りたい気持ちだが、今にも雨が降り出しそうなのでモタモタしていられない。
「帰ろう」
バイクを走らせるとポツポツと小雨が降り出し、それがすぐに大粒の雨に変わった。チェンマイ市内の病院から彼のアパートまでは僅かな距離だったが、帰宅したときには全身びしょ濡れになっていた。
弦太郎は濡れたまま室内に足を踏み入れた。薄暗い部屋には荷物が散らかっている。このアパートに引っ越してきてから一週間ほど経つが、荷物はまだほとんど片付けられていなかった。
濡れた服を脱ぎ捨て、パンツ一丁でゴロンとベッドに横になった。姿勢が変わると背骨がキリリと痛み、思わず顔をゆがめた。短時間の外出だったのに、疲労感でいっぱいである。うたた寝しようと瞳を閉じたが、隣の部屋から漏れてくる音が気になり寝られなかった。隣は何をしている人か知らない。昼間でも音楽を聞いたり、テレビを見ていたりする。疲れていて神経質になっているところに騒音を聞かされてイラっとした。
――やかましい奴だ・・・・。
落ち着かないのでテレビをつけた。面白い番組はやっていそうになかったが、隣の騒音を聞かされるよりはマシだと思った。
「あっ!」
 そのとき、ピカッと白い光が瞬いた。瞬間、ドカンと地響きするような轟音が響き、同時にプツリとテレビが消えた。雷による停電である。
――やれやれ、騒音の次は停電か。
不貞腐れたようにベッドに横たわっていると、そのままウトウトと眠りに入った。
 ピピピピピ――
携帯電話の音が鳴った。寝ぼけながらケータイの画面を見ると、恋人のカイからだった。時刻を見ると五時である。受信するのにモタモタしていたら電話が切れた。
しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どなた?」
 弦太郎はズボンだけ履いてドアを開けた。ドアの向こうに、白いYシャツに黒のタイトなミニスカートという大学の制服姿のカイがいた。
「弦太郎、どうして電話出なかったのよ」
「寝てたんだ」
カイは、散らかっている荷物をまたぎ越しベッドに座った。
「まだ、片付けないの」
彼女は母親が説教するように言った。
「いろいろと忙しいんだ」
「忙しいわけがないでしょ。学校休んでるくせに」
「体がダルいんだよ」
「じゃあ、あたしが片付けてあげようか」
 カイは床に散らかっている衣服を拾い上げた。
「やめてくれ、触らないでくれ」
弦太郎は声を荒げてカイが荷物に触るのを制止した。
「なんか見られたくないものでもあるの?」
「ただ嫌なんだ。気持ちはありがたいけど」
「怪しいわね」
カイは不機嫌そうにフーと息を吐いた。弦太郎は彼女を横目でチラッと一瞥した。
「ん? なんで濡れてないんだ。雨に遭わなかったのか」
「あたしが学校出るとき、ちょうどやんだのよ」
「運がいいな。おれは病院からの帰り道、ズブ濡れになったのに。おまけにヘルメットまで盗まれた。まったくツイてないよ」
「ヘルメット盗られたの。あんなものでも盗まれるんだ。――あっ、そうだ。で、どうだったの。精密検査の結果は?」
「検査の結果、特に異常が見当たらなかった。なぜ背骨が痛むのか、医者もわからないみたい。結局もらったのは痛み止めの薬だけだ」
「お尻は?」
「ケツは端的に〝痔〟だって言われた。完治させるには手術しかないって」
「どこの病院にいってもダメね」
「おれの病気は謎が多いから、どんな名医でも治せそうにないよ。どうしようか・・・・」
「やっぱりインドに行ったのがいけなかったのよ」
「インドは半年前の話だぜ。そんなこと今さら持ち出すなよ」
「でも、インドから痩せて帰ってきて、あのときから体調が悪くなったんじゃない」
「そんなの関係ないさ――」
カイは弦太郎が一人でインドに旅に出たことを今でも怒っているようだった。弦太郎はフッと旅に出てしまう性癖があり、インド以外にも大学を一年間休学してアジア各国を放浪生活をしていたこともある。弦太郎の心の中には“虚無”という黒い影があり、それから逃れるために旅や引越しを繰り返し、新鮮な空気を取り入れなければならなかった。
「根無し草みたいな性格なんだから。だから変な病気になるのよ」
「なんで根無し草みたいな性格は変な病気になるんだよ」
弦太郎が言い返すと、カイはケラケラと笑った。
「明日も学校休むの?」
「多分ね、ダルイから」
「困ったわね。そんなことしていたら留年しちゃうわよ。あと一年で卒業だっていうのに。こうやっておしゃべりはできるんだから、学校でイスに座ってるぐらいはできるんじゃない?」
「だから言ってるだろ。背骨が痛いだけじゃないんだ。ケツの穴も痛いんだ。硬いイスに長時間座ってなんかいられない。それに多分、背骨が悪いせいだろう、自律神経が麻痺して夜は眠れないのに昼になると眠たい。こんな調子じゃ授業なんて出れないよ」
「でも、引越しはできるんだね」
「たまに引越ししないと窒息死してしまう」
「旅に出たり、引越ししたり、まったく風来坊なんだから。でも、どうするの? ゴロゴロしてても病気はよくならないわよ。だから前々からお祓いに行ったらいいって言ってるのに」
「あのいかがわしい呪術師のところへか――」
カイは占いの類いが大好きで、呪術師に関する情報もよく知っていた。彼女は弦太郎に、馴染みの呪術師に会うよう何度も勧めていたが、弦太郎は頑なに拒否していた。
「どうしていかがわしい呪術師なんて言うの、会ったこともないくせに。あたしの持病の偏頭痛もダーお婆さんは治してくれたし、親戚のおじさんだって病院で見放された病気が治ったのよ。弦太郎も騙されたと思って行ってごらんなさいよ。きっと悪い霊を追い祓ってくれて、すっかりよくなるから」
「騙されるぐらいなら行かないよ」
「まったく頑固なんだから。でも、そうしてたからって、よくなんかならないわよ。どうするの?」
「高いんだろ。そんなわけのわからないところは」
「一回千バーツよ。そんなに信用できないんだったら、あたしが出してあげてもいいわ」
「カイが出してくれるのか! ウーン、どうするか・・・・」
カイが肩代わりしてくれると聞いて、弦太郎は心が揺れた。
「カイがそこまで言うんなら、行ってみるか」
カイに電話してもらい、呪術師のダー婆さんのところに予約を入れた。


  二 
弦太郎は呪術師のダー婆さんのところへ早朝出発した。毎晩不眠で苦しんでいる体なので、早起きするのは辛かった。カイに描いてもらった地図を見ると、ダー婆さんの自宅はチェンマイ郊外に位置し、バイクで三十分以上もかかりそうな距離だった。カイにも付き添ってもらいたかったが、土日は混雑しているということで予約が平日になり、一人で行かなければならなかった。
眠気覚ましに、途中、一軒の麺屋に入って腹ごしらえをした。クイティオをすすりながら“呪術師”という人物を想像した。
――婆さんはどんなナリをしていて、どんな儀礼を行うんだろう。なんであれ、健康さえ回復してくれればいいんだが・・・・。
 弦太郎は呪術師の婆さんをカイの前では否定していたが、胸中、なんらかの奇跡を期待していた。
何気なく、通りの向かいの建物を見つめると、看板に『タイ伝統医学診療所』と書かれていた。診療所の建物は丈夫そうなコンクリートの塀で囲まれていて見えにくいが、塀の中には植物がたくさん植えてある大きな庭があることがうかがえた。
「伝統医学か・・・・」
 塀の上部からラッパ状の花弁の花が顔を覗かせ、そこに蝶が嬉々として蜜を吸っているのが見えた。弦太郎はその長閑な光景を目にし、何らかの直感が走った。看板に記されてあった電話番号を紙片に書きつけポケットにしまった。考えてみれば、病気を治すのは西洋医学だけではない。体全体を総合的に診察する伝統医療だってあるのだ。それに抗生物質より生薬の方が副作用も少なそうである。
麺屋から出てバイクを走らせた。郊外の長閑な田舎道を走り、呪術師の婆さんの家の近くまでやってきた。
「どこだ・・・?」
 近くまできたが婆さんの家が見つからなかった。近辺の雑貨屋で訊ね回り、ようやく彼女の家にたどりついた。
「ここか・・・・」
 弦太郎は緊張した面持ちでダー婆さんの家を眺めた。婆さんの家がわかりにくいのも無理はなかった。看板もなく、一般の民家とまったく同じ木造高床式の建物だった。もっとも呪術師なんて一般的な商売とまったく違う職種なので、堂々と看板を立てるわけにもいかないのだろう。
「予約していた弦太郎といいます。カイから紹介された者ですが」
 外から大きな声で叫ぶと、中から女性の声がした。
「はい、はい、聞こえています。どうぞ、さあ、中に入って頂戴」
弦太郎が表の階段を上ると扉が開き、長い白髪を後ろに束ねた初老の女性が微笑みながら現れた。顔を見る限りどこにでもいそうな普通のお婆さんだったが、派手なシルクのガウンを羽織った姿を見ると、普通の人と異なる怪しさも感じた。
屋内に入った瞬間、お香の匂いが鼻にまとわりついた。正面に大きめの祭壇があり、煌煌とろうそくが灯されて香が焚かれていた。中央には金箔の張られた古びた仏像が安置され、その横に小さなガネーシャの置物、他にも小さなお守りの類が並べられていた。その祭壇の横の壁には、プミポン国王の写真の額縁が飾られており、一般的なタイの家庭とさほど変わらない様子だった。
「――さあ、ここに座って」
 弦太郎は祭壇の前の床にダー婆さんと向かい合って座らされた。
「あなたが弦太郎君かい。カイから聞いたけど、病気で大変みたいじゃない。学校にも行けないんだって」
ダー婆さんは弦太郎の顔を興味深げにジロジロ眺めながら言った。弦太郎はあいまいに微笑んだ。
「まあ、そうです・・・・」
カイが詳しく病状を知らせておいてくれたので、弦太郎は何も説明する必要がなかった。もっとも、ダー婆さんは医者ではないので、病状を細かく説明する必要はないのかもしれない。
ダー婆さんは弦太郎の頬を両手でそっと触れ、ゆっくりと顔を近づけた。弦太郎は婆さんの顔が間近に迫ってきたのでうろたえた。ダー婆さんは弦太郎の顔の間近で彼の目の中を凝視し、哀れみを含んだ声音で言った。
「あらら、悪霊が三体憑いてるわ」
 ダー婆さんは今度は弦太郎から少し離れ、目を細めながら遠景を眺めるように体全体を見つめた。
「やっぱり三体だよ。根深いところに居座っていらっしゃるわ。よっぽど、あなたのことが好きみたいだね」
「どこで憑かれたんでしょうか」
「そんなことわからないわ。あなたが拾ってきたんだから。ああ、こりゃあ厄介だわ」
ダー婆さんは一旦その場から離れ、茶色い小瓶を持って戻ってきた。
「さあ、服を脱いで。上半身裸になって」
弦太郎は言われるがまま服を脱いだ。
「背中をこっちに向けて。油塗るから」
ダー婆さんは薬草の匂いのするオイルを弦太郎の背中、首、頭に塗りたくった。
――婆さん、何をするんだ?
 ダー婆さんはブツブツと呪文を唱え出したかと思うと、手に持っていたプラスチックのヘラのようなもので弦太郎の体をこすり出した。
「痛ててて」
弦太郎は叫び声をあげて体をよじった。
「我慢しなさい」
 ダー婆さんは手加減することなく、ヘラで背中をこすった。
「お婆さん、痛い、痛いって!」
弦太郎が上体を反らせながら首だけ振り返えると、彼女は正気を失っているかのように白目剥き出しの目になっていた。恐れを抱き、四つん這いになって逃げ出そうとすると、彼女はズボンの腰をギュッとつかみ、
「逃げたら駄目、いま悪霊を追い出してるんだから」
と平静の目つきになりたしなめるように言った。
ヘラこすりの除霊は、背中、腕、胸、腹、首、頭とつづいた。弦太郎は声を上げながら必死で耐えた。
「――さあ、終わったわ」
ダー婆さんはフッと息をつき、満足げに言った。再び弦太郎を向かい合って座らせ、始まる前と同様、彼の目を覗き込むように凝視した。
「あら、二体出て行ったけど、一体はまだ出て行ってないわね」
彼女は悔しそうに言った。弦太郎は「もう結構です」と断ろうとしたが、婆さんはそれを言わせようとせず、
「うつむいて寝転んで」
 と、弦太郎を床に寝かしつけた。ダー婆さんは弦太郎の背中の油をタオルで拭き取り、さらにアルコールで湿らせた綿でも拭いた。
「さあ、きれいになった」
ダー婆さんは背中をパンパンと冗談めかして叩き、
「ちょっと痛いだろうけど我慢するのよ」
と、忠告するように言った。
――あれ以上痛いことをするのか? 何をされるんだ? 棒で叩かれるのか、鞭打ちされるのか・・・・。
 弦太郎は不安になった。
ダー婆さんはまたブツブツと呪文を唱え出した。弦太郎は覚悟を決め、体を硬直させて歯を喰いしばった。
「アーッ!」
ダー婆さんは頓狂な甲高い奇声をあげたかと思うと、いきなり背中に咬みついてきた。その咬みつきは中途半端なものではなく、肉を喰いちぎるような咬みつき方だった。
「ギャーッ!」
弦太郎は叫び声をあげ、手足をバタつかせた。
「――さあ出て行ったわ」
数十秒間咬みついていたダー婆さんはゆっくりと顔を上げ、血のついた歯を見せてニヤッと笑った。
「悪霊は出て行きましたか」
 弦太郎は放心しながら言った。
「もう大丈夫、すべて出て行ったわよ。でもね、あんたは憑かれやすい体質だから注意するのよ。帰ってからこれを部屋に貼っときなさい」
呪文の書かれたお札を渡された。弦太郎は丁重にそれを受け取りポケットにしまった。
「どうもありがとうございました」
弦太郎は婆さんの家から出るとき礼を述べて千バーツを差し出した。ダー婆さんは手を合わせて千バーツを受け取ると、善良そうな笑みをつくろって見せた。


  三 
ダー婆さんから除霊を受けて三日が経過した。悪霊は去ったはずなのに相変わらず背骨は軋むように痛み、体もだるかった。さらに悪いことに痔が悪化し、排便時肛門から血が滴り落ちるようになった。毎朝の排便がさらに苦痛なものとなった。
休日、カイが弦太郎の部屋にハイビスカスの鉢植えを手土産に遊びにやってきた。
「カイ、どうだ? 傷口に瘡蓋張ってるか」
 弦太郎は上半身裸でベッドにうつ伏せで寝そべり、カイに訊ねた。
「少し膿んでるみたい。消毒した方がよさそうよ」
カイは弦太郎の背中の咬み傷にヨードチンキを塗りつけた。
「なあカイ、婆さんに咬みつかれて狂犬病になった人はいないか?」
「なんで狂犬病になるのよ。なるわけないでしょ」
「だってな、動物に咬まれると狂犬病になるってニュースでやってたぜ。犬だけじゃなく、猫とかにも気をつけろって。人間も動物だろ?」
「人間にそんな汚い菌はいないわよ」
「だったらいいんだけど」
消毒が終わると、カイは弦太郎の背骨の痛む箇所を悪戯に指で押さえた。
「痛て!――」弦太郎は敏感に身体をくねらせた。「何するんだ!」
カイはその様子をみてケラケラと笑った。
「まだそんなに痛むんだ」
「痛いに決まってるじゃないか。畜生、婆さんにはやられたよ。要するに、おれの背骨の痛みは悪霊の仕業でも何でもなかったんだ」
「でも、少しはよくなったでしょ。除霊した日、弦太郎と電話で話したとき、体が軽くなったって言ってたじゃない」
「あれは辛い儀式から開放されたから、そういう気持ちになったんだ。トリックだ。騙されたよ。何が悪霊だ。婆さん狂ってるよ。ただの拷問じゃないか」
「ダーお婆さん、本当に悪霊が出て行ったって言ったの?」
「言ったさ。三体出て行ったって確かに言った」
「弦太郎が信じていなかったら、駄目だったのかなあ」
「本当に悪霊が原因だったら信じるも信じないも関係ないだろ。さらに痔が悪化しちゃたんだぜ。これりゃ、手術しないといけない。カイがあんないかがわしい婆さんを紹介したから、こんなことになったんだぞ。お前のせいだからな。痔の手術代、貸してくれよ」
「弦太郎、ズルイんだから」
カイはそう言うと、弦太郎の背骨の痛む箇所を指先でまた押さえた。
「ギャーッ」
弦太郎は身をくねらせてベッドを転がった。その様子を見て、カイはまた笑い転げた。
「カイ、絶対お前に手術代全額請求するからな。覚えてろよ――」
カイは裕福な家柄だったので、弦太郎はたびたびお金を借りていた。痔の手術代もできればカイに出してもらいたかったが、なかなか言い出せずにいた。しかしペテン呪術師に会ったことではっきりとそのことを口にでき、これで拷問を受けた意味があったと内心ほくそ笑んだ。
「でもね、弦太郎、お祓いが終わった後、ダーお婆さん何かくれなかった? あたしにはいつもお札をくれるんだけど」
「お札? ああ、もらったかな。部屋に貼っとけって言ってたっけ」
「何で貼らないの」
「なんでいまさらそんなもの貼らなきゃいけないんだよ。馬鹿馬鹿しい。ズボンのポケットに入ってるよ」
「だから、治らないんだよ! 知らないわ、もう!」
 カイは態度を急変させ、ヒステリックに言った。
「そんなの関係ないだろ」
「関係あるわよ。お札を捨てたから罰が当たって治らないのよ。そんな無礼なことするなんて怖いわ。もう一回行きましょ、お婆さんのところに。あたしも一緒についていくから」
「カイ、お前、本気で言ってるのか?」
「もちろん、本気よ」
「まだお前、あの婆さん信じてるのか。冗談じゃない。あんなペテンのところへなんか、おれは行かないぜ」
「何を罰当たりなこと言ってるの。絶対、もう一回行くべきよ!」
「絶対行かない!」
「もし、弦太郎がダーお婆さんのところへ行かないんだったら、痔の手術代出してあげないからね」
「ズルイぞ。それはないだろ」
「今、予約の電話するわよ」
カイはケータイを取り出した。
「おい、カイ、やめろって」
弦太郎はカイのケータイを力づくで取り上げた。
「わかった、カイ。もらったお札、部屋に貼るから」
弦太郎は床に脱ぎ捨てられていたジーパンのポケットから、皺くちゃになったお札を取り出した。そのとき、紙片がヒラヒラと床に落ち、それを拾い上げると電話番号が記されていた。
――あっ、診療所の電話番号だ・・・・。
「あった? お札?」
「あった、あった。このお札だろ。貼っておけばいいんだろ」
「でも、今の弦太郎の体の状況をダーお婆さんにもう一度報告した方がいいでしょ」
「そんなの必要ない。あの婆さんは医者でもなんでもないんだ。おれはもうあの婆さんと関わりたくない。絶対会わないから」
「じゃあ、どうするのよ。ずっと寝てるの? 何の治療も受けないで」
「今、思い出したんだけど、この前、『タイの伝統医学診療所』ってところを偶然見つけたんだ。今度そこで診てもらうよ」
「どこにある診療所?」
「市内だよ」
「そんなところあったっけ?」
「ひっそりしていて存在感は薄いんだけど、何となく雰囲気がよさそうなんだ。電話番号メモしておいたから、今度そこに行ってみるよ」
「大丈夫なの。怪しいところじゃない?」
「ダー婆さんのところよりは怪しくないさ」
「意地悪な言い方ね――」
カイが帰ったあと、弦太郎はふっと彼女が手土産にもってきたハイビスカスの鉢植えを眺めた。
――そういえば、あの診療所にも、こんな花が咲いていたな。
弦太郎はボンヤリと花を眺めながら、診療所の庭に咲いていた花を思い浮かべた。


  四 
弦太郎が『タイ伝統医学診療所』に電話をすると、生憎、一カ月先まで予約がいっぱいとのことだった。事は思うように運ばない。大病を患い治療を火急望んでいる旨を懇々と説明すると、電話口の女性スタッフは気づかってくれ、「キャンセルが出たら電話しましょうか」と申し出てくれた。電話番号と名前を告げて電話を切ると、一時間もしないうちに「明日の午後、一人キャンセルになりました」と連絡が入り、予約を入れてもらえた。
翌日、弦太郎は診療所に出向いた。診療所の門をくぐると、庭は想像していた以上に広く美しく、色とりどりの花が咲き乱れていた。
――きれいな庭だなあ。
 植物にまったく興味がない弦太郎だったが、原色の花々に目を奪われた。診療所の建物に入ると、室内は薬草の臭いが染みついたように漂い、この臭いを嗅いだだけで体に効きそうな気がした。
「昨日、電話しました弦太郎と言います」
受付で名前を告げると、スタッフの女性が親切に対応してくれた。
「名前が呼ばれるまで、椅子にかけてお待ちください」
弦太郎は初診の手続きを終え、待合室のイスに腰を下ろした。どこの病院でも待たされている間は、殺伐とした院内の雰囲気に落ち着かないものだが、ここの待合室は開放感があってゆっくりと寛げた。
座りながらキョロキョロと周囲を観察した。正面の受付の二人の女性スタッフの背後には、薬草名の書かれた何百もの抽斗がある大きな箪笥があり、後ろを振り向くと、背後の壁には抽象的な曼荼羅のような大きな画が飾られていた。その画をじっと凝視すると画の中に吸い寄せられるような奇妙な気持ちになり、思わず目を逸らした。
「――弦太郎さん、どうぞ先生の部屋に入ってください」
スタッフの女性に呼ばれ、医者の待つ診察室に入った。デスクにはすでに医者が座っており、にっこりと微笑んで丁寧に挨拶してきた。彼女は白衣を着けておらず少し派手めの身なりだったが、態度に落ち着きがあり知性を感じさせた。ヘアースタイルはショートカットで、容姿を見ただけでは、女っぽい男性のようでもあり、男っぽい女性のようでもあり、性別が判然としない。しかし、弦太郎は一目見ただけでこの医者から深い慈愛を感じ取り、〝この人は信頼できる〟と確信した。
「どうされましたか?」
「数カ月前ぐらいから疲れやすくなり、背骨が痛くて困っています。いつも疲労感があって、夜は寝つけなくて――」
弦太郎が今までの病気の経過と現在の状況を詳しく話し終えると、医者は彼の腕をとって脈を押さえ、身体の音に慎重に耳を澄ました。次に舌を調べ腹を押さえた。弦太郎は彼女に接していると、自分の身体がすべて見透かされているような気持ちになり安心感を覚えた。診察を終えると、医者は深い眼差しを弦太郎に向け病気の説明をした。
「病気の原因には遺伝子的要因、感染症、偏った生活習慣などいろいろありますが、ここでは病気の原因を、地・水・火・風のバランスの乱れとして解釈します。治療法は、病因に対して撃退するというのではなく、崩れているバランスを生薬を用いて調整していきます。いまお体を診たところ、〝風〟が強すぎてバランスが乱れているようなので、それを調整する生薬を出しておきます」
「生薬というと、薬草を煮込まないといけないんですか」
「いいえ、この治療院では薬草を煮込んで成分を抽出した丸薬をお渡ししています。お家で何時間も煮込むのはたいへんでしょうから」
「それは便利ですね」
医者はカルテに病状や処方を書き記しているとき、彼の名前を見てペンを止めた。
「〝ゲンタロウ〟さんというんですか。変わった名前ですね」
「はい、ぼくの父は日本人で、母はタイ人です。父が日本の名前をつけたかったようなので」
「そうですか」
 彼女は興味深げに弦太郎の顔を見つめた。弦太郎は医者と目を合わすと、彼女の眼の中に吸い寄せらていくような感覚を覚えた。医者から目を逸らし両目を閉じて指で蓋を押した。そういえばさっき、待合室の曼荼羅を見ていたときも、同じような感覚になったことを思い出した。
「ちょっと、お訊ねしていいですか?」
 医者が弦太郎の目を静かに見つめながら言った。弦太郎は病気のことでまた質問を受けるのかと思った。
「なんでしょうか?」
「あなたは山登りが好きですか?」
 病気にまったく関係ない趣味に関する質問を受け、弦太郎は意表を突かれた気持ちになった。
「えっ、山登りですか? 登山とか本格的なものはしたことがありませんが、アウトドアは好きな方ですが」
 戸惑いながらこたえると、さらに意味不明の質問がつづいた。
「引越しはよくしますか?」
「ええ、しょっちゅう引っ越します。最近も引っ越ししたばかりです。どうして先生は、ぼくが引っ越し好きなことがわかりましたか」
「これは人間の気質を知るためのただの質問です。引越し好きを当てたわけではありあせん。――もう一つ質問です。鳥の夢をよく見ますか?」
「鳥の夢ですか? いいえ、見ないと思いますが・・・・」
「じゃあ、体が軽くなった夢とかは?」
「あっ、空を飛ぶ夢を見たことがありました。それは鳥とは関係ないですか・・・・」
「わかりました」
病気にまったく関係のない質問に思えたが、彼女がそのことをカルテに記していたので、弦太郎は思わず訊ねた。
「先生、これらの質問に本当に意味があるんですか?」
「もちろんありますよ。直接病気と関係はありませんが、ちょっと確かめておきたかったので。弦太郎さんの方からも私に何か訊きたいことはありますか?」
 医者が病気と関係のなさそうな質問をしてきたので、弦太郎も真似をして病気と関係のない話をした。
「先生、この画は素敵ですね」
弦太郎は、医者の背後に飾られていた小さな曼荼羅の画を指差して言った。
「それは私が描いたものですよ」
 彼女は微笑みながら言った。
「ヘェー、先生が描いたんですか。素敵ですね。待合室にもよく似た画が飾ってありましたが」
「あれも私が描きました」
「あれもですか。あの画を見た瞬間、吸い寄せられるような気持ちになりました。画に、何か力がありますね」
「お世辞がお上手ですね。よかったら、これをプレゼントしますわ」
先生は椅子から立ち上がり、壁に掛けてあった画を弦太郎に渡した。突然のプレゼントに弦太郎は驚いた。
「いいんですか?」
「画に何かを感じられたんでしたら、喜んで差し上げますわ」
弦太郎は物をため込むのが好きではない性質だったが、この曼荼羅はなぜかすごく気に入り、素直に喜んだ。
「ありがとうございます。先生のお名前は?」
「デーンです。この絵にもサインが書いてあるでしょ」
絵の下にアルファベットでサインが書かれていた。
「デーン先生、それにこの診療所の庭も素敵ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいですわ。私は植物が大好きなんですよ。この庭は全部私が設計して手入れしてるんですよ。弦太郎さんも画や庭に興味があるんですか?」
「まったく興味がありません。ただ、インパクトが強かったものですから」
「私と似たセンスをもっていらっしゃるのかしら。もしかしたら、あなたとは何かご縁がありそうですね」
デーンは意味深げに弦太郎を見つめた。弦太郎もデーンに対して初めて会ったとは思えない、何らかしらの親しみを感じた。
「それじゃあ、薬を一週間分出しておきますから、薬がなくなったらまたきてください」
「ありがとうございます」
弦太郎は合掌して診察室から出た。待合室で薬ができるまで待っていると、一人のお爺さんが生薬の入っている箪笥の抽斗に向かって立ち、天秤で重さを計かるなどの作業をしながら、奥の部屋と行き来していた。その彼の動作があまりにもゆっくりとしていたので、弦太郎は彼の存在が気になった。動作だけではなくスタッフの女性と話す口調も気が遠くなるほどゆっくりとしていた。それがあまりに滑稽に見え、弦太郎は心の中でそのお爺さんを〝亀爺〟と渾名をつけた。亀爺が笑うと抜けた前歯をのぞかせ、なんとも愛嬌のある表情になった。彼を見ていると〝マハトマ・ガンジー〟を思い出された。
名前を呼ばれ薬を受け取るとき、弦太郎はスタッフの女の子に言った。
「あのおじいさん、マハトマ・ガンジーに似てますね」
「マハトマ・ガンジー? フフフフ。亀さんみたいじゃないですか」
彼女が、自分のつけた渾名と同じことを言ったので、弦太郎は思わず笑ってしまった。立ち去るとき、生薬を調合している亀爺の後ろ姿に向かって冗談めかして言った。
「ガンジー様、失礼します」
亀爺はくるりと振り向き、歯の抜けた顔でなんともやさしく笑い、
「お大事になさってください」
とゆっくりした口調で言った。
弦太郎はこの診療所にいい印象を持ち、快活な気持ちで帰路についた。 


  五 
大学の食堂は、お惣菜屋、麺屋、鶏飯屋、豚足飯屋、空揚げ屋、果物屋、ジュース屋など、様々店が並んでいる。カイとオーイは食堂で昼食を食べていた。オーイは、ご飯の上に煮込んだ豚足がのっている『豚足ご飯』を目の前にして言った。
「最近ね、三キロも太っちゃった」
「本当? そうは見えないわよ」
「スカートがそうとうきつくなったから絶対ヤバイ。なのに、どうしてこんなもの注文しちゃったんだろう?」
「自分で注文しておいて何言ってるの」カイは笑った。
「そりゃ、そうなんだけどさ――」オーイはロングヘアーの黒髪を指でいじりながら、「夜は食べるのを我慢しよう。でも、カイはいいわね、スリムでスタイルよくってさ。いつも私と同じようなもの食べてるのに全然太らない、ズルイ」
「ズルイってなんなのよ。あたしは甘いものは極力我慢してるわよ」
「甘いものあんまり食べてなかったっけ?」
二人が食事をしていると、弦太郎の友人であるミャオが近づいてきて彼女たちに話しかけた。
「最近、弦太郎見ないけど、アイツなにしてるの?」
ミャオの色黒の顔から、下心のありそうな助平くさい目がニヤついている。ミャオの隣りには肥満体質のドンがいる。
「体の調子が悪くなって部屋でおとなしくしてるわ」
カイが素っ気なくこたえると、ミャオはドンに小声で言った。
「アイツのことだから性病にでも罹ったんだろうな」
「そうかもしれない、ヒヒヒヒ」
男二人は下品な笑い方をした。
「失礼ね、そんなわけないでしょ」
カイはミャオとドンの小さな声が聞こえ、脇に置いてあったカバンで叩くフリをした。
「じゃあ、弦太郎は何の病気なんだ?」
「いろいろよ。背骨が痛かったり、痔だったり、不眠症だったり」
「やっぱりなんか怪しいな」
「何が怪しいのよ」
「なんとなく。で、いまどこにいるんだ?」
「ワット・スワンドク近くのアパート」
「あいつ、また引っ越したんだ。この前、サンティタムにいたのに」
「それは前の前。その前は、ターペー門の近くにいたのよ」
「よく引越しするなあ。まるでジプシーみたいだ」
「引越ししても荷物を全然片付けないから、部屋の中がすごく散らかってて汚いのよ。体がダルイって本人は言うんだけど、病気のせいなのか、メンドくさいのか、よくわからない」
「両方だな」
ミャオとドンは顔を見合わせてケラケラと笑った。
「何が可笑しいのよ。あなたたちも弦太郎を励ましてあげてよ」
カイがそう言うと、二人は両手の平を上に向けて肩をすぼめた。
「あいつは変わり者だから、どう言って励ましていいかわからない。で、病院には行ってるのか?」
「検査を受けても異常が見つからないから、この前、生薬療法に切り替えるって、市内の変な診療所に行ったみたい」
「そうなんだ。弦太郎は悪運が強そうだから大丈夫だと思うよ。ヒヒヒ」
ミャオとドンは馬鹿にしたように笑いながら、彼女たちのテーブルから離れていった。オーイが心配そうに言った。
「弦太郎大変そうね。単位とか大丈夫なの」
「そうなんだよ。出席日数が少なくて留年するかもしれないわ」
「カイもよくそんな男と付き合ってるね」
「いいところもたくさんあるんだよ・・・・」
カイは、彼氏のことを非難され、ちょっと惨めな気持ちになった。

 コン、コン、コン――
カイは弦太郎のアパートのドアをノックした。いつもはノックしてからドアが開くまで数分待たされるが、このときはすぐに開いた。
「もう学校終わったのか? 今日は早かったな」
弦太郎は明るい表情でカイを出迎えた。前回来たときは鬱屈したような表情だったのに、今は見違えるようにスッキリしている。部屋を見渡すと荷物がきれいに片付けられていた。カイは呆気にとられた。
「あらっ、きれいになってる。掃除したんだ?」
「一日かけて掃除した」
カイはいつものようにベッドに腰をかけた。
「体の調子はよくなったの?」
「フフフフ、そうなんだよ――」弦太郎は嬉しくてたまらないような笑い方をした。「信じられないよ。診療所で薬をもらって三日間飲んだだけなのにすっごく調子がいいんだ。それに夜もよく寝られる」
「スゴイじゃん。他は?」
「痔も、肛門から出ていた血が急に止まって、もうほとんど痛くない。肛門があることを忘れてしまいそうだ」
「ヘェー、なんでだろうね」
「まだ背骨は痛いけど、この調子ならすべてよくなりそうだ。やっぱり、あの診療所に行って正解だったよ」
「よかったね――」カイは壁に掛けてある曼荼羅にふと目がいった。「何、この画?」
「診療所のデーン先生にもらった。先生の描いた画を褒めたらプレゼントしてくれたんだ。どうだ、いい画だろ?」
「うん・・・・。でも、この画、ちょっと怖くない?」
「それがいいんだよ。おれはすごく気に入っている」
弦太郎はウットリと画を眺めた。カイは突然何かを思い出したように言った。
「あっ、ダーお婆さんのお札はどうしたの?」
「お札? あのお札は・・・・」
弦太郎は口ごもった。
「お札はどうしたのよ」
 カイは詰め寄った。
「あれは・・・・、曼荼羅の画の裏に貼ってあるよ。ちゃんと貼ってあるから大丈夫だ」
「どうして見えるところに貼らないのよ」
「あれは、あんまりビジュアル的に好きになれないんだ」
「ダメよ、ちゃんと貼らなきゃ」
カイは露骨に不機嫌な表情になった。
「もういいだろ、診療所で診てもらってよくなってるんだから」
「あたしのことは全然信用してくれないのね」
「カイのことは信用してるさ。でもあの婆さんはなあ・・・・」
「ダーお婆さんが、どうしたのよ」
「確かにいい人だと思うよ。でも、おれとは相性が悪いみたいなんだ。人によって相性ってのがあるだろ。カイの場合は婆さんと相性がよかったから、うまくいったんだろうけど、おれとは」
「あっ、そう・・・・」
弦太郎は必死でカイのご機嫌をとろうとしたが、カイはしばらく黙っていたかと思うと、無言のままプイっと部屋から出て行ってしまった。


  六 
「一週間、薬を飲み続けたら、痔がすっかりよくなりました。それに夜もよく寝れるようになりました――」弦太郎は診療所でデーンに晴れ晴れとした表情で説明した。「まさか飲み薬で痔が治るなんて」
デーンは、喜ぶ弦太郎の様子を冷静に観察していた。
「ちょっと、舌を出してもらえますか」
デーンは弦太郎の舌を診察し、ちょっと険しい表情になった。
「ちょっと、背中を見せてください」
彼の背骨をさすって痛みの箇所を確認した。デーンがそっと触るにも関わらず、弦太郎はキリリとした鋭い痛みを感じ顔をゆがめた。デーンが訊ねた。
「痛むでしょ?」
「はい、まだ痛いです」
デーンはデスクに向かい、何事かをカルテに書きつけた。弦太郎はデーンの方に向き返り、彼女の診察結果に耳をかたむけた。
「弦太郎さん、あなたの背骨はそうとう悪くなっています。私の治療ではよくなりそうにありません」
 デーンは断定口調で言った。弦太郎はデーンから予想外のことを言われて困惑した。
「でも先生、夜もよく眠れるようになりましたし、いい方向に向かっているように思えますよ」
「背骨は全然よくなっていないんです。これはそうとう性質の悪い病気です。このまま放っておいたら大変なことになると思います」
「大変なことといいますと?」
「はっきり言えば、近い将来、命に関わる病気に発展するかも」
「えっ、死んじゃうということですか?」
「それぐらい怖いものを感じます」
「じゃあ、病院で手術したほうがいいんですか?」
「手術しようにも病名は何ていうのかしら。自己免疫疾患からきている病気だから、手術といってもやりようがないと思います。以前、病院で検査を受けたことがあるって言ってたでしょ? そのとき、どう診断されたんですか?」
「医者には、〝異常なし〟と言われました」
「それじゃあ、手術をしようにもできないでしょう。この診療所でも、残念ですが、どうにもできそうにありません・・・・」
「じゃあ、どうすればいいんでしょうか?」
 弦太郎はうろたえた。
「そうねえ・・・」デーンは深刻そうな表情でしばらく沈黙し、「弦太郎さん、私が言うことを誰にも言わないって約束してくれます?」
「はい・・・・。何か治療に役に立つことでしょうか」
「もしも、あなたを治してくれるとしたら、私が知っている限り・・・・、あの人しかいなんです」
「あの人とは、一体誰でしょうか?」
「誰にも言わないって絶対約束しますか?」
「はい、絶対約束します。――でも、どうして、そう厳密に秘密にしなくちゃいけないんですか?」
「一人で山の中で生活しているとても人間嫌いな人なんです」
「そんなに人間嫌いな人なんですか」
「ええ、ほとんど世間と交わらずに生きてる人です。でも、すごい人なんです。あなたの難しい病気でも、きっと治してくれると思いますわ」
「山でひとりで住んでる・・・。仙人みたいな人ですね」
「いや、仙人じゃなくて、――彼は本物の呪術師なんです」
弦太郎は呪術師と聞き、脳裏にダー婆さんのことが蘇って嫌な気持ちがした。
――また呪術師か・・・・。
「呪術師は、前に失敗しているものですから・・・・。あまり気が進みませんが」
 弦太郎は正直な胸の裡を吐露した。
「彼はね、そこらの呪術師とはまったく違う存在です。本当にすごい人。山で薬草を採って、この診療所に供給してくれている人なんです」
「痛いことはしないですか。咬みついたりとか、叩いたりとか」
「どんな治療をするかはまったく想像がつきません。一つに言えることは、どんな病気でも確実に治す力があるということ。でも、彼自身がその患者のことを気に入らなければ会ってもくれません」
「会ってくれない・・・・。変わった人ですね。ちょっと怪しい気がしますが」
「彼のことを紹介するのはあなただけです。今まで誰にも紹介したことがありません。あなただったら、彼は診てくれるように思うんです。だけど、さっきから言うように、条件として、彼のことを絶対他言しないこと。呪術師に会いに行くということも、彼の住んでいる場所も、絶対、誰にも漏らさないでください」
「ずいぶん厳密なんですね」
「さっきから言うように、彼は異常な人間嫌いなんです。もし世間に彼のことが広まったら、私もあなたも、彼の呪術で殺されてしまうかもしれません」
「呪術で殺される?」
「冗談じゃなく、本当に。でもね、それだけの力を持っているからこそ、彼は呪術でどんな奇病でも治せるんです。――どうします? 会いに行きますか? あなたの決断次第です」
弦太郎は困惑した。呪術師には懲りたが、信頼できるデーン先生の紹介である。この人が変な人物を紹介するとは思えない。それに、いずれにせよ、どこの病院に行っても治らないのだ。ここはイチかバチか、賭けに出るしかない。
「先生、お願いします。その呪術師を是非紹介してください。デーン先生がそこまで推す人がどんな人か会ってみたいです」
弦太郎ははっきりとした口調で言った。
「わかりました。じゃあ、連絡を取っておきます。でも彼は、ケータイも持っていませんし、住所不定なので連絡にちょっと時間がかかります。彼と連絡がとれ次第、あなたのところへ連絡しますわ」
「どうぞよろしくお願いします。――で、その呪術師のお名前は何と言うんですか」
「タム呪術師と言います。本当にすごい呪術師です」
 デーンは鋭い目線で弦太郎を見つめて言った。
弦太郎は診療所を出た。話が思わぬところに流れた。山の中の呪術師に会いに行かなければならないらしい。治療の経過は順調だったので、てっきりデーン先生にすべて治してもらえると思っていた。それが、背骨の痛みが死にまつわる病気だったなんて。背中に手を伸ばして指で触ると鋭敏な痛みを感じた。確かに日に日に痛みが増し、その勢力範囲を拡大させている気配である。
――デーン先生のいう〝呪術師〟とは、一体どんな人なんだろう。
 弦太郎は呪術師に会うことが怖くもあり、楽しみにも感じた。


  七 
早朝、弦太郎はインタノン山に向かってバイクを走らせた。インタノン山はタイ最高峰の山で、国立公園にも指定されている秘境の地である。その近くの山中に“タム呪術師”が住んでいるらしい。デーンから渡された手描きの地図は、インタノン国立公園に入る手前の国道一〇〇九号線の線に雑貨屋の印しか記されていない大雑把なものだった。その雑貨屋の脇の小道から山の中に入って行くと彼の住まいがあるらしい。山中は道がないので、本人以外、彼の居場所はわからない。その雑貨屋に、待ち合わせの時間の午前八時に行けば彼に会えるそうだ。
空は白く曇っていた。日差しは弱く、バイクを乗るにはいい天気だった。弦太郎はアパートを出て、かれこれ二時間程バイクを走らせていた。
――こんないい加減な地図で本当に会えるだろうか・・・・。
弦太郎は不安な気持ちだった。こんなに遠くまでやってきて、無駄足に終わりたくない。背骨の痛みを耐えて来ているのだ。デーンに何度ももっと詳しい地図を描いてもらえないかと催促したが、デーンは「絶対これで会えるから心配しないで」と受け合ってくれなかった。何を根拠に絶対会えると言うのだろう。まったく意味不明である。
そろそろインタノン国立公園に近づいてきたので、雑貨屋を意識しながら慎重にバイクを走らせた。空に視線を移すと雲行きが怪しく、今にも雨が降り出しそうな気配だった。
「あっ、何だ?!」
 突然弦太郎の前方に、蝶の大群が列をなし、まさに龍が蛇行するかのように横切った。おびただしい蝶の群れでだった。弦太郎はバイクを急停止させ蝶の群れを眺めた。幻想的な光景だった。
 数分後、蝶は去っていった。弦太郎の目の前には当たり前の光景、アスファルト道路が現れ、幻想から現実に引き戻された。
「一体何だったんだ・・・・。すごかったなあ」
 街では絶対見られない神秘的な光景だった。弦太郎は一つ大きく吐息をつき気持ちを切り替えた。再出発しようとしたとき、右手前方に雑貨屋らしき店があることに気づいた。
――あそこが待ち合わせの店だろうか・・・・。
雑貨屋の前にバイクを停め、店を観察した。野菜、果物、お菓子等の食べ物の他に、石鹸やシャンプー等の日用品も売られていた。誰かに訊ねたいが、タム呪術師のことを口外しないよう堅く禁じられているので訊ねることができない。かりに訊ねたとしても、『山に一人で住む呪術師』のことを誰が知っているだろう。
軒先に置いてあるコンクリート製のテーブルに目を移すと、色の褪せた野球帽を被っている丸顔の老人が座っていた。老人はコーラを飲みながら弦太郎の方を見ていた。
――まさかあの爺さんが呪術師じゃないだろうな。
老人はペンギンのキャラクターの描かれたTシャツを着ており、まったく呪術師といった感じではなかった。凡そ山岳少数民族の老人のようである。多分、野良仕事に行く前にここで一服しているのだろう。すると老人の方からテーブルをポンと叩き、「ここに座りな」と合図を送ってきた。弦太郎は何かの縁を感じ、「老人と世間話でもしながら、誰かやって来ないかここで待つか」と考えた。雑貨屋に入って老人と同じコーラを購入し、椅子に座った。時計を見ると約束の時間の数分前だった。
「ご飯は食べたか?」
老人が親しげに話しかけてきた。
「少し食べました」
弦太郎は短くこたえた。
「チェンマイ市内も雨は降っていなかっただろ? ここに来るまで雨に遭わなくてよかったな」
老人は、弦太郎がチェンマイ市内からきたことをあたかも最初から知っていたかのごとく話し出した。
「どうしてぼくが市内からきたことがわかりましたか?」
「いまから山中に入っていくから、たっぷり水分を取っておいたほうがいいな。お前の足では三時間以上かかるだろうから」
 質問の回答とはまったく関係のないことを言ってきたので、弦太郎は、彼が何を言っているのか理解しづらかった。
「えっ? ぼくが山中に? どうして?」
「デーンから聞いているんだろ?」
 デーンという名前を聞いて弦太郎はびっくりした。
「えっ? あなたがタム呪術師ですか?」
「そろそろ出発しよう。モタモタしていたら日が暮れちまう」
老人は弦太郎の問いかけに答えることなく立ち上がり、椅子に置いてあった大きなリュックをひょいと担いだ。老人は背は低いが中肉質で丸みを帯びた体格をしていた。タムは雑貨屋の脇の細い未舗装道路を淡々と歩き出した。
「もう出発ですか。ちょ、ちょっと待ってください!」
弦太郎は急いで店に入ってペットボトルの水を購入し、肩掛けカバンに入れた。弦太郎が店から出ると、立ち止まっていたタムは後方を振り返ることなく歩き出した。弦太郎は老人の背中を追いかけて話しかけた。
「お爺さんがタム呪術師でしたか。いやあ、びっくりしました。デーン先生から話を聞いて怖そうな人を想像していましたが、あまりに普通そうな人だったからまったく気づきませんでした」
「ハハハ、そうか」
「デーン先生から聞いていると思いますが、ぼくは弦太郎といいます」
「ハハハ、そうか」
タム笑って相槌を打つだけで、自分からは何も話してこなかった。弦太郎は興味津々に質問をした。
「先生は山の中で一人で生活していらっしゃると聞きましたが、本当ですか」
「ひとりで生きてゆくことなんてできないさ」
「そうですか」
――デーン先生の話は嘘だったのか・・・・。
 弦太郎は、山に一人で住む仙人のイメージを打ち消そうとした。
「ワシはあらゆる生命に囲まれて生活している。この世で誰一人、ひとりで生きてる奴はいない。誰もが周りに依存しながら生きてるんだ」
「えっ、ということは、ご家族と一緒ということではなく?」
「この山は家族だし、兄弟だ」
弦太郎はタムと話が絡まないので戸惑った。
「一人でいるということは、買い物に出るとき、毎日この山道を上り下りしているんですか」
「脚があるんだから山を上り下りするのは当然だろ」
「ええ、確かにそうですが・・・・」
弦太郎は歩き出して十数分経っただけで、早くも息が切れて汗が噴出した。タムを横目で観察すると、公園でも散歩しているかのように涼しげに歩いている。足元はゴツゴツした石があり、樹の根っこがあり、草が生い茂っているというのに、質素なゴムサンダルで足早に歩いてゆく。弦太郎は、彼が担いでいる大きなリュックが気になった。見た目は重そうだが、実際は軽いものなのか。
「先生、そのリュックには何が入っているんですか」
「これか? 米と油だよ。雑貨屋で買ったんだ。担いでみるか」
 タムからリュックを渡されると、そのズシリとした重さに足元がふらついた。推測するに、二十キロ以上はありそうだった。
「こんなに重いものを担いでいたんですか。すごい力ですね」
「お前は肩掛けカバンだけで重そうだな、ハハハハ」
弦太郎はタムに笑われて恥ずかしくなった。どちらが老人だかわからない。こんな重い荷物を担いで足早に歩いてたのかと思うと、老人がとんでもない体力の持ち主であることがわかった。
「――ここからはさらに道が悪くなるから気をつけろよ」
タムは未舗装の細道から、誰も歩いたことがないような林の中へ入っていった。今まで歩いてきたところでさえ人が歩くとは思えない獣道だったのに、さらにジャングルの中を突き進んでいく。どの方角を歩いているのかさっぱりわからなかった。
「――少し休憩しようか」
長い時間歩き通し、ようやくタムは小川の前で立ち止まった。
「座って休んだらいい」
 タムは弦太郎に岩の上に腰を下ろすようすすめた。弦太郎は岩の上に腰を下ろし、汗で濡れたTシャツを脱いで体を冷ました。脚の筋肉はパンパンに張っている。病気で長らく寝ていた身にとってあまりにも激しい運動だった。
「疲れたか?」
「まあ・・・・、はい」
老人の前で疲れたとは言いたくなかったが、疲れを隠すことはできなかった。
「じゃあ、おやつでも食べるか。あそこに蜂の巣があるだろ?」
タムの指差す方向に何も見えなかった。生い茂る藪の中にある蜂の巣を見つけるのは容易なことではない。タムはスタスタと一人で藪の中へ消えていった。しばらくすると、
「どうだ、ウマそうだろ――」タムは両手に蜂の巣を持って戻ってきた。「ほれ」
弦太郎は円盤状の蜂の巣を手渡された。
「このまま巣ごと食べるとウマいぞ」
タムは美味しそうに巣ごとバリバリと食べだした。弦太郎は巣ごと食べることが不衛生に思え躊躇したが、頂いた手前断ることもできず、思い切り食べてみた。一口かじると蜂の巣はウエハースのようで香ばしく、中から甘い蜜がとろけ出し絶妙だった。巣の中の個室に幾匹か幼虫も入っていたが、それも甘くて美味しかった。
「休憩もここまでだ。さあ、行こう」
「よし! 行くぞ!」
弦太郎は蜂蜜で力が回復したのか、腹から大きな声が出た。
「ここは折り返し地点だ。ワシの家まではあと半分だな」
弦太郎はタムから半分と聞かされて気の遠くなるのを感じた。時計を見ると十時になろうとしていた。出発して二時間も経過しているのにまだ折り返し地点なのだ。
出発すると、タムはさらに足早に歩き、弦太郎はついて行くのに必死だった。
「先生、こんな標識のない山の中でよく道に迷いませんね」
 弦太郎は息を切らしながら背後から声をかけた。
「お前にとっては標識がないように見えるかもしれないが、ここは標識だらけだ。木や草花一本一本すべてが標識だ」
「ぼくにはすべて同じような雑草に見えますが」
「かりに同じ種類の草花であっても、同じ色形のものはないだろ」
「なるほど」
「このひとつの石にしても――」タムは立ち止まり、平べったい石を指差した。「おや、熊がきたな。珍しい」
「どうして熊がきたってわかるんですか」
「この石を踏みつけている」
弦太郎は石を観察したがその痕跡は何も見えなかった。
「ほんの三十分前ぐらいだ」
「本当ですか?」
「あっちの方向に歩いていったな」
タムが指差している方向にも、それらしきものは何も見えなかった。弦太郎がポカンとしていると、タムは熊の歩いたという道を十数メートル歩き弦太郎を呼び寄せた。
「ほら、これは熊の糞だろ」
熊の糞かどうか定かではないが、確かに獣の糞が落ちていた。
「すごい。先生は我われには見えないものが見えるんですね」
「いや、違う。お前が、見えるべきものが見えていないだけだ、ハハハハ」タムは愉快そうに笑った。「お前のような鈍い奴が一人で山に入ったら、簡単に獣に殺されちまうだろうな」
弦太郎は、タムの言い方に少々苛立ちを覚え反論した。
「ぼくかって、猛獣がきたら危険を察知して逃げますよ」
「そうか・・・・、じゃあ、お前の左後方を見てみろよ」
タムが意味ありげな笑みを浮かべながら言ったので、弦太郎は「熊が間近にいるのでは」と想像し、ビクビクしながらゆっくりと振り返った。しかし、後方には樹木があるだけで熊はいなかった。
「驚かさないでくださいよ――」
その瞬間、タムは素早く弦太郎に飛び掛り、彼の体を突き飛ばした。弦太郎は地面にひっくり返って倒れた。
「痛たたた・・・・。突然何をするんですか」
弦太郎がムッとしながら言うと、タムは無言で前方を指差した。そちらに目をやると、黄緑色の蛇が落ち葉の下にスススと隠れるのが見えた。
「あれは猛毒の蛇だ」
「・・・・・・」弦太郎は言葉を失った。
「樹の上にいてお前に飛び掛ってきたんだ。突き飛ばしていなかったらお前はあの世にいってただろうな」
「そうでしたか・・・・・」
「だから言っただろ。お前は鈍いって、ハハハハ」
タムは笑いながら弦太郎の手を引っ張って起こした。
「怪我しなかったか」
「蛇に咬まれるよりは軽傷です」
タムは弦太郎の背中についた土埃をパンパンとはたいて落とした。
「気をつけるんだ。この世は未知で満ちている。自分が何でも知っていると思うな。常に感覚を研ぎ澄ませていないと、我われのチッポケな命なんて簡単に落としてしまうぞ」
「はい」
弦太郎は神妙に返事をした。タムに鈍いと言われて腹立った自分が恥ずかしくなった。
「ワシの家はもう少しだ。急ごう」
タムは何事もなかったかのように足早に歩き出した。


  八 
「ここがワシの棲家だ」
タムの家が目の前にくるまで、そこに家があることを弦太郎はまったく気がつかなかった。うつむき加減で必死でタムの背中を追い、顔を上げたらそこに家があったという感じだった。弦太郎は汗まみれになりながら呆然と彼の家を眺めた。家というよりも小屋といった感じの建物だが、よく見ると、葉っぱで葺かれた屋根や、竹で編まれた筵の壁など、精緻な技術で作られていることがわかった。
「先生、これを全部、ひとりで建てたんですか?」
「いや、これは大手の建築会社が建てた建売住宅だ。よくできてるだろ、ハハハハ」
タムは冗談を言い、愉快そうに笑った。
「しかしここは一等地ですね。空気がきれいだし景色もいい。こんなところに住めるなんて羨ましいです」
 街にいると、車、バイクの音、人の声、ひっきりなしに様々な音に晒されるが、ここはそういった人工的な騒音がまったくなかった。野鳥の声が静寂をより際立たせるかのように響いているだけだった。
「そういえば、ここにくる途中、山岳少数民族の部落がまったくなかったですね」
「人間の臭いはまったくしない。ここはそんな息苦しいところじゃない」
「でも、淋しくないですか? 独りで」
「淋しさは、感謝のない傲慢な人間の感情だ」
「なるほど・・・・」言葉の意味が解せなかったが機械的に相槌を打った。「でも、大通りに出るまでの道のりが大変だから、もう少し近場に移動した方がいいんじゃないですか?」
「ここは特別に居心地のいい場所なんだ。ワシは便利さよりも居心地のよさを優先する」
「居心地ですか・・・・」
弦太郎は家の周囲を見回した。山の中にポツンとある小屋である。藪をかきわけて長時間歩いてきたが、どうしてこの場所が特別に居心地がいいのか理解できなかった。
「ここは水道も電気もありませんよね。水はどうしてるんですか」
「川に汲みに行くんだ――」タムは斜面の下を指差した。「ここをまっすぐ下っていけば清流がある。新鮮な水だ。お前の好きな塩素消毒された水とは違う」
「それなら川に近いところに家を建てたほうが便利じゃないですか」
「ここがいいと言ってるだろ。この場所は特別なんだ。お前は便利さしか見えないのか」
「“特別”と言っても・・・・。じゃあ、ここから百メートル横にずれたら、やっぱり居心地が悪くなるんですか?」
「当然だろ」
「十メートルは?」
「駄目だ、ピッタリここだ」
「意味がわからない」
「お前のアパートの部屋も、両隣にまったく同じ部屋が並んでいるだろ。そんな同じ部屋でも、方角や部屋の彩色なんかの条件によって居心地は違うだろ。それと同じように、ワシの場所もピタリとここなんだ」
「シビアなんですね・・・・」
弦太郎はタムの言う理屈がまったく理解できず、彼のことを〝風変わりな老人〟と解釈した。いくら周囲を見回しても、ここが特別である理由は見つからない。タムはそんな弦太郎の心中を見透かしたように言った。
「お前は世界を知覚するのに目しか使ってないんだ。居心地のよさを見つけるためには、目だけに頼ったら駄目なんだ」
弦太郎はハッとした。そう言われてみれば、目でしか状況を観察していなかった。〝音〟に何かの秘密が隠されてのではと思いつき、耳をそばだてた。すると、虫や鳥たちの生命の声が明瞭に聞こえた。
――そうか、居心地の秘密は音にあるのかもしれないぞ。
「そう言うと、今度は音にしか気を配っていない。匂いもあれば、味もあるだろ。もっと総合的に世界を知覚できんのか」
「味? 何も食べていないのに。どうやって・・・・」
弦太郎は禅の公案でもかけられたような気持ちになった。
――何も口に入れていない状態で、味で世界を知覚するとは・・・・。
「まだ、気がつかないのか? お前はいま腹が減っているだろ。お前の胃袋は食べ物を欲しているんじゃないのか、ハハハハ」
弦太郎はタムの笑い声を聞き、拍子抜けした気がした。彼の言葉には深遠な意味が込められていると思い真剣に考えていたのだが、いつの間にかからかわれていた。時計を見ると十二時を回っており、日差しも強くなっていた。雑貨屋から四時間以上歩き、確かにタムに言われるようにひどく空腹を感じていた。
「中に入ってゆっくりしたらいい。ワシが飯の支度をするから」
弦太郎は靴を脱いで中に入った。室内は六畳ほどの広さで、物が何も置いてない空虚な空間だった。電化製品はもちろんのこと、布団や枕もない。素焼きの酒壷が壁の隅に五本置かれているのと、申し訳程度の衣類と食器があるだけだった。彼は呪術師だというのに、それらしき祭壇も仏壇もなかった。家の中というよりも“山の休憩所”といった感じである。
――こんなところで、彼はどのように呪術を執り行うのだろう。
 弦太郎は疑問に思った。開けっ放しのドアから、かまどで煮炊きしているタムの姿がチラチラと見えた。弦太郎は疲労を回復させるため、板床にゴロンと仰向けに横になった。天上をまじまじと見つめると、竹で骨格が築かれており、その上に乾燥した葉っぱが葺いてある。こんな軟弱な構造で雨漏れはしないだろうか。強風が吹いたら屋根ごと吹き飛ばされてしまいそうである。屋根と壁のつなぎ目には大きな隙間があり、そこから光が差し込み“明かり”にもなっているが、これでは蚊が自由に出入りし、夜寝るとき蚊の餌食になりそうである。
――でも、こんな質素な小屋なのに、妙にリラックスできるぞ。彼が言う「居心地のよさ」とは、あながち嘘でもないようだ。
 弦太郎はウトウトと眠りだした。
「弦太郎、飯ができたぞ」
タムの声でハッと目を覚ました。ほんのわずかな時間だったが熟睡したようだった。
「あっ、すみません。気持ちよくなって寝てしまいました」
さっと上体を起こし姿勢を正した。
「そんなに格式ばらなくていい。ここは軍隊じゃないんだ」
床にはどんぶり鉢が二鉢置かれていた。タムの分と弦太郎の分だろう。どんぶりの中は、ドロドロと煮られて鶯色になった野菜の煮物のようなものがたっぷりと入っていた。
――これを食べなければならないのか・・・・。
 弦太郎はこの得体の知れない食べ物を見つめ動揺した。せっかく作ってくれたのに食べないわけにはいかない。
「これで一杯やろう」
タムは部屋の隅に置いてあった酒壷を手元におき、コップに酒を注いで弦太郎に渡した。コップに入れられた酒は茶色く濁り、アルコールと薬草の混じり合った独特の臭いがした。
「先生、これは自家製の酒ですか」
「そうだ。自家製のどぶろくに薬草をつけこんだ特別なものだ。さあ、遠慮せずに飲んで食べてくれ」
タムはコップの酒をグビリと飲み干し、どんぶりの煮物をズルズルと食べ出した。弦太郎は心の準備を整えるためペットボトルの水を一口飲み込み、得体の知れない料理をじっと見つめた。
――やっぱり食べなければいけないか・・・・。
 レンゲでドロドロとした野菜をすくい取り、おそるおそる口に運んだ。見た目はヒドかったが、食べてみると味はそれほど悪くなかった。
「このどんぶりの野菜はなんですか」
「野菜じゃなくて山菜だ。農薬も化学肥料も使われていない」
「意外にいけますね」
弦太郎はコップの酒にも口をつけた。アルコール度は高くなくさっぱりしていて、口の中にほのかな甘さが拡がった。
「この酒は薬ですか?」
「旨いだろ」
「なにか体に効きそうですね」
「体の喜ぶ声が聞こえるだろ、ハハハハ」
タムは自信ありげに言い、酒瓶から酒を注いで美味しそうに飲んだ。弦太郎は彼の表情を横目で観察し、
――彼は人柄がよさそうだし、鋭い感覚を持っているが、その反面、知識や教養は何もなさそうだ。これじゃあ、栄養学的なことを訊ねても、まともな答えが返ってきそうにないな。
 腹の底でそんなことを考えた。
「先生は毎日、このような食事をしているんですか」
「採れるものは日によって違う。魚や虫も食べるし、キノコや木の実も食べる」
「ヘェー、虫まで食べるんですか。それを全部一人で採取するんですね。すごい体力だ」
「ワシは普通の体力だ。お前が非力だからすごく見えるだけだ。それに食物を採取するにはそれほど体力を必要としない。何事も要領次第だ――」
タムは野鳥や魚の習性、それらを獲るための技術、食べられる山菜やきのこの見分け方など、山で生きてゆくための知識を長々と話し出した。弦太郎は相槌を打ちながら話を聞いていたが、長い話に退屈してきた。そう言えば、会ったときからまだ自己紹介をしていないし、今回の目的である病気治療のことを何も話していない。山暮らしの講釈を聞くために、こんな山奥にきたわけではないのだ。そもそも老人は本当に病気を治す呪術師なのだろうか? そのことが心配になってきた。
「――キノコの採り方は大学で習うのか?」
タムは話の途中、弦太郎に訊ねた。弦太郎はこの話の切れ目を呪術の話題に持っていくチャンスだと感じた。
「大学でキノコの採り方は教えてくれません。ぼくの専攻は経営学です。でも、体の具合が悪くて学校を長期に休まねばならなく困っています」
弦太郎は病気のことを言い出せてホッとした。
「経営学っていうと、バナナ屋でも始めるつもりか?」
「いや、バナナ屋はしないと思いますけど・・・・」
 弦太郎は苦笑いした。
「じゃあ、なんで経営学なんだ?」
「なんでしょう・・・・。将来何をするか、まだボンヤリしていて、正直、何となく経営学を専攻してるだけですが」
「何となく? 無駄なことをしてるんだな。我われの人生は短いんだぞ。いつ死ぬかわからないんだぞ。そんなことで何年も時間を無駄にするぐらいなら、病気になって寝てた方がマシだ」
 話を変な方向に持っていかれ、弦太郎は戸惑った。
「今年卒業なんで辞めるのはもったいないです。すでにたくさん授業料を払いましたし。そうじゃなくて、学校を休まなくていいように、病気を治したいんです」
「病気か・・・・」タムはコップの酒を飲みながら、深く何かを考える素振りを見せた。「でもな、人間はみんな病気だぞ。みんな“盲目”という病気にかかっている。お前を含めてな。本当に治すべきはそっちの病気だ」
「盲目? どういう意味ですか。ぼくはちゃんと見えてますよ」
 弦太郎が少しムッとして言うと、タムは何もこたえず笑いながら酒をすすった。
「体の異常をデーン先生に診てもらって大分よくなりましたが、本当に辛いんです。背骨は常に痛いし、疲れやすいし――」
弦太郎が真剣な表情で事情を細かく説明した。しかしタムは、話を聞いているのか聞いてないのか、弦太郎の話の途中、ゴロリと肩肘をついて横になり、視点の定まらないボンヤリとした目つきで、食べ終えたどんぶり鉢を指でつついた。タムのやる気のない態度に弦太郎は不信感が湧いてきた。
――本当にこの爺さん、呪術師なんだろうか。山暮らしの知識は持っているようだが、一般社会では生活できないただの野生児じゃないだろうか。
 弦太郎は感情的になり直截的に切り出した。
「デーン先生が言うには、タム先生は最高にすぐれた呪術師で、ぼくの難しい病気を治すのは先生しかいないとのことでした。今回ここにきたのは、是非先生に除霊とか祈祷とかで病気を治してもらうためなんです。お願いします。どうかお力を貸してください」
「除霊ね・・・・」
タムは人差し指で鼻をほじりながらボソッとつぶやいた。その様子を見ていた弦太郎は、この人は本当にデーン先生が紹介した優れた呪術師なのかと心底不安になったきた。
「失礼ですが、お爺さんは本当に呪術師ですよね?」
弦太郎は不躾も承知で直截的に訊ねた。
「お前は今まで呪術師に会ったことはあるのか?」
逆にタムから質問が返ってきた。
「はい、会ったことがあります。除霊を受けたことがあります」
「それで何か変わったか」
「・・・・いいえ、何にも」
 弦太郎は口ごもった。
「お前は呪術師のことなんか何も知らん。何も知らんくせに、呪術師に会ったとはどういうことだ? ハハハハ」
「だって彼女は自分のことを呪術師だって言ってましたし、世間的にもそう認知されています」
「ハハハハ、本当の呪術師は自分で自分のことを〝呪術師だ〟と言ったりしない」
「じゃあ、どうやって本物の呪術師を見分ければいいんですか?」
「自分が呪術師に成ればいいんだ。そうすれば相手が本物の呪術師かどうか判断できる」
「何を言ってるんですか。ぼくは単に病気を治して欲しいだけなんです。呪術師に成りたいわけじゃありません」
「除霊に祈祷ねえ・・・・、それは傑作だ、フハハハ」
タムはひとりで笑いながら、酒壷から自分のコップに酒を注ぎ、ついでに弦太郎のコップにも酒を注ごうとした。
「いいえ、もう結構です」
 弦太郎はコップの上に手を置いて酒が注がれるのを遮った。
「そんなにイライラするな。イライラすると病気になるぞ、ハハハハ」
タムは愉しそうに笑いながら、弦太郎の手をどけてコップに酒を注いだ。
「話は戻りますが――」弦太郎は興奮した感情を落ち着かせるため酒を一口飲み込んだ。「もう一度、お聞きします。お爺さんは本当に呪術師なんですか? ぼくの病気を治せるんですか?」
「治して欲しいのか?」
「もちろんです。そのために遠くからわざわざ来たんですから」
「どうしてもか?」
 タムは急に真剣な表情になり弦太郎の目をじっと見つめた。
「はい」
 弦太郎はタムの矢を射るような眼差しに一瞬気後れしたが、相手のペースに乗せられないよう警戒し、平静の表情をつくろって返事をした。
「よし、わかった・・・・」
 しばらくの重い沈黙の後、タムは口を開いた。
「じゃあ、三千バーツでいいよ」
タムの口から突然お金の話が出て、弦太郎は呆気に取られた。
――今度は金か。爺さんがじっと目を見ていたのは値踏みをしていたのか。値段から呪術が始まるとはなんとも胡散臭い。しかも山暮らしの人間にとって三千バーツは大金だろう。値段を言い出すチャンスを爺さんはうかがっていたのか。
学生の弦太郎にとって三千バーツは高かったが、ぎりぎり払える範囲の額だった。それにここまできて何もせずに帰るのは癪である。
「お願いします」
弦太郎は表情を変えず承諾したが、内心は疑心暗鬼な気持ちでいっぱいだった。
――騙されようが仕方がない。この爺さんがどんな呪術師か見届けてやろう。
「うむ、それじゃあ治療を始めるか」
 タムはそう言って立ち上がり、部屋の隅に置いてあった古びたリュックの中にゴソゴソと手を入れ、そこから何かを取り出して、弦太郎のところに戻ってきた。
「じゃあ、シャツを脱いで背中をこっちに向けてくれ」
弦太郎シャツを脱いで背中を向けた。背後でタムが何をやっているのか見えない。プラスチック袋の破る音がした後、ハッカの匂いが漂ってきた。そして弦太郎の背中にヒンヤリとした湿布がペタリと貼りつけられた。弦太郎はまさかと思い後ろを振り向くと、薬局で百バーツで売られている市販の湿布薬の空き袋が床に置かれていた。こんなもので治るのだったら苦労はいらない。弦太郎は怒りがこみ上げてきた。
「どうだ、スーッとして気持ちがいいだろ。これでよくなるだろう」
タムはまじめくさって言った。弦太郎は怒りを通り越して思わず笑ってしまった。
「フハハハ、治療は終わりですか?」
「終わりだ。これは特別な湿布だ」
――何が特別だ。どこの薬局でも売ってるじゃねえか。
 弦太郎は心の中で毒づいた。シャツを着ながら、
「ああ、とても気持ちがいいですねえ。背中が軽くなった気がします」
皮肉を言った。時計を見ると、もうすぐ二時になろうとしていた。急いで帰らないと暗くなってしまう。
――何のために長い時間をかけて苦労してここにきたんだろう・・・・。
 弦太郎は暗鬱な気持ちになった。
「もう帰ります。ありがとうございました。じゃあ、急いで山をおりましょう」
 弦太郎はタムにそう告げると、タムから追い討ちをかけられるように意地悪な返事が返ってきた。
「ワシは行かないよ。お前は一人で帰ればいい。子供じゃないんだから帰れるだろ」
「えっ、何を言ってるんですか。こんな山奥から一人で帰れるわけないじゃないないですか。山道を迷ったら大変ですよ」
「ワシは老人だ。今から大通りまで往復する体力なんてない。酷い山道だったのはわかっているだろ」
「そんな意地悪なこと言わないでください。お爺さんはぼくよりも元気で、体力があったじゃないですか。急にそんな弱弱しいこと言わないでくださいよ。お願いしますよ」
「お前は学校で勉強して毎日脳みそを鍛えているんだろ。優等生の頭なんだから道ぐらいもう覚えただろ」
「まったく覚えてませんよ。それに山の中には毒蛇や熊がいるんでしょ」 
「大丈夫だ。道に迷ったら、蝶がお前を誘ってくれるだろうから」
「何をふざけたこと言ってるんですか。一緒に来てください。頼みます。お願いします」
 弦太郎は床に座り込んで懇願した。
「駄目だ。ワシは老人だ。動けない」
タムは頑固にそう言い張って床に寝転がった。弦太郎の苛立ちは最高点に達しタムを睨みつけた。
――畜生、この狸爺め、最後の最後まで人を困らせやがって。
「ああ、わかった、わかった。一人で帰るよ。帰りゃあ、いいんだろ」
弦太郎は不貞腐れたように言い、小屋から出て靴を履いた。
「そうか、それはご苦労だな。ちょっと待ってくれ。持って帰って欲しいものがある」
タムは屋外に吊るしてあった膨らんだスーパーのレジ袋を三袋、弦太郎に渡した。このレジ袋の中には乾燥した薬草がぎっしりと詰まっていた。
「これをデーンに渡しておいてくれ。それと、これはお前へのお土産だ」
茶色いドリンク剤の瓶を三本渡した。
「今日飲んだ薬用酒が入っている。寝る前に飲んだらよく眠れるぞ」
 弦太郎は無造作にそれを受け取り、肩掛けかばんに放り込んだ。薬草の入ったレジ袋を手に持ってみると意外に重く、三つ持って帰るのは大変そうだった。弦太郎は露骨に迷惑そうな顔をして言った。
「邪魔だなあ」
「じゃあ、背中にくくり付けるか」
タムは弦太郎の背中にたすきがけするようにして袋をくくり付けた。
――ケッ、まったく図々しい爺だ。
「じゃあ、帰ります」弦太郎は仏頂面になって言った。「どっちに歩いていけばいいんですか?」
「あの山を目指して歩いていけば、大通りに出るだろう」
タムは遠くの尖った山を指差した。
「目印はそれだけですか? 他に何かないんですか?」
「ない」
――この野郎、いい加減な指示をしやがる。
 弦太郎は腹の中で毒づいた。
「説明のしようがない。お前は植物の名前も知らないだろうしな」
「ああ、わかった、わかった、もう結構です。あの山を目指して歩いていけば、大通りに出られるんですね」
「そうだ、簡単だ。歩きすぎてバンコクまで行かないように注意するんだ、ハハハハ」
 弦太郎はタムの冗談に愛想笑いも返さなかった。
「あっ、そうだ――」弦太郎はお金のことを思い出し、ポケットから財布を取り出して三千バーツをタムに渡した。
「これは治療費です。お世話になりました。どうもありがとうございました」
弦太郎は形式的に礼を言った。心の中では、
――畜生、なんで馬鹿丁寧にこんな狸爺に金を渡さなければならないんだ。おれは正直者すぎる! まあ、こんな山暮らしの爺、人を騙さなければ現金収入が得られないのだろう。哀れな奴だ。爺、感謝しろよ。
すると、タムは感謝するどころか、
「ちょっと待ってくれ。飲食代が別に千バーツ必要だ」
さらに金を要求してきた。
「飲食代?」
「山菜の煮込みと、酒を飲んだだろ」
――この乞食爺め。
 弦太郎が財布を開けると、千バーツ札はなかったが、百バーツ札、二十バーツ札、すべてを数えるときっちり千バーツ入っていた。
――おれの財布の中身を透視したように当てやがって。
「ほらよ――」
財布に入っているすべてのお金を放り出すように渡した。弦太郎はタムと目を合わせることなく小屋から飛び出すように離れた。
「ペテン爺め、畜生。何が呪術師だ。四千バーツもボリやがって」
 弦太郎は悪態をつきながら山道を歩いた。
「畜生!」
 考えれば考えるほど胸が悪くなり大声で叫んだ。大声で怒鳴っても、山の中なので誰にも迷惑はかからない。狂人になったかのように叫びながら歩いた。しかし、三十分も歩くと少しずつ冷静になってきた。
――こんな山の中で迷ったら、本当に死んでしまうぞ。
 弦太郎は頭をフル回転させて、必死に来た道を思い出しながら歩いた。一時間も歩くと道がまったくわからなくなってしまった。タムに指示された尖った山は、高い斜面に行くと見ることができたが、斜面を下ると見えなくなってしまった。弦太郎は尖った山の方向を推測しながら歩いた。しかし、三時間ほど歩くと、尖った山の方向すらも見当がつかなくなり、完全に迷子になってしまった。考えてみれば食料も水も衣類も懐中電灯も何も持っていないのだ。疲労感と不安感で〝怒り〟どころではなくなってしまった。
――どうして尖った山を見失ったときの対処法を聞いておかなったんだろう・・・・。
 弦太郎は今になって、タムの家を衝動的に飛び出してきたことを後悔した。
――どうすれば、いいんだ・・・・。
そのとき、大きな黒い蝶が二匹、目の前を通過して行った。
「蝶か・・・・」
 蝶は執拗にヒラヒラと弦太郎の頭上を飛び回った。そのとき、タムが何気に言った言葉、「蝶がお前を誘ってくれるだろうから」と言ったことを思い出した。
――まさか、あの蝶が・・・・。
弦太郎は藁をもつかむ思いだった。タムの言葉を信じ、その蝶を追いかけた。蝶は弦太郎の前方を絶妙の速度で飛んだ。弦太郎は疲労していることも、喉が渇いていることも忘れ、必死で蝶を追いかけた。
長い時間、蝶を追いつづけていると、藪から抜け出て獣道が現れた。獣道が現れて間もなく蝶を見失ってしまったが、その獣道に沿って歩いていくと、最初タムと歩き出した雑貨屋の前の大通りへポッと出てきた。
「戻ってこれた・・・・」
 空は赤く染まっていた。もう少しで日が暮れるところだった。暗くなったら確実に遭難していただろう。時計を見ると七時を回っていた。


  九 
 ピピピピピ――
枕元のケータイ電話が鳴った。弦太郎はその音で朦朧と目を覚ました。窓から差し込む光がいつもとなにやら様子が違う。長い時間熟睡していたようで、いま何時なのかさっぱりわからなかった。画面を眺めるとカイからだった。
「カイ、いまどこだ?」
弦太郎がぼんやりとしながら電話に出た。
「弦太郎こそどこにいるの? 心配してたのよ。昨日はまったく繋がらなかったし、今日は何回も電話してるのに取ってくれないし」
「ごめん、昨日は遠くに出かけてたし、今日は寝てて気がつかなかった」
「寝てって、いま何時だと思ってるの?」
「何時だろう?」
「五時よ、五時」
「五時?」
時計を見ると、確かに五時だった。
「朝の五時にカイが電話をかけるてくるわけがないから・・・・。もしかして、いま夕方の五時なのか?」
「決まってるじゃない。弦太郎、本当にずっと寝てたの?」
「うん――」弦太郎は何時間寝ていたのか頭の中で数えた。
「昨晩、十一時ごろ寝たから・・・・、あっ、十八時間も寝ている!」
「不眠症から今度は眠り病にかかっちゃったの?」
「どうしてなんだろう。今まで寝れなかった分を取り返してるのかなあ」
弦太郎の頭の中は非常にスッキリしていた。今までこんなに深い眠りを経験したがない。山の中をあれだけ歩けば、人間熟睡できるものなのだろうか。
「カイ、聞いてくれ。昨日、とんでもないペテンに引っかかってしまったんだ。そのペテン爺はジュジュ――」
弦太郎は〝呪術師〟と言おうとしたが、彼のことを他言してはいけないことを思い出し、ハッと踏みとどまった。しかし、呪術師の爺が偽者と判った以上、秘密を守る必要はない。話してもいいのだが、ダー呪術師を信奉しているカイに、他の呪術師に会うために、遥か遠くのインタノン山にまで行ったことを話すと、また彼女の機嫌を損ねる懼れがあると察して、呪術師のことは伏せることにした。
「ペテンに引っかかったってどうしたの?」
「いやァ・・・・、あのォ・・・・、昨日、デーン先生に紹介された山の中にある診療所まで行ってきたんだ。そしたら、その診療所の先生がまったくのインチキでさあ、まともな治療もしないのに四千バーツも巻き上げられた」
その話をしている途中、弦太郎は何気に上体を横に曲げたり、後ろに反ったりした。昨日までキリキリと鋭痛のあった背骨にまったく痛みが感じられない。
「あれっ? おかしいぞ? 何かがおかしい? 背中が・・・・。ヒャッ!」
「どうしたの? 背中が?」
弦太郎は手を背中に回し、痛みのある背骨に触れた。まったく痛みがなかった。手を上げ下げしたり、その場でジャンプしたりした。
「あらら、不思議だ! 背骨がまったく痛くない! あれ、どうしてだろう? ちょっと、待ってくれ、壁にぶつかってみる」
「弦太郎、無理しちゃ駄目よ」
弦太郎は壁に背中を当てて確かめた。まったく痛くなかった。信じられなかった。昨日までは何かに寄りかかっただけで、背中が響くように痛かったのだ。
「痛くない! 全く大丈夫だ! 奇跡だ!」
弦太郎は部屋中跳び回った。カイも弦太郎の声の調子から、何かすごいことが起きたことが伝わってきた。
「弦太郎、明日から学校も行けるんじゃない?」
「ああ、行ける、行ける。すごい。じゃあ、詳しいことは明日話すよ」
弦太郎は電話を切った。素晴らしい奇跡が我が身に起こった。興奮して胸が熱くなり、部屋の中をグルグルと歩き回った。
――山道を歩くハードな運動をしたから、体に変革が起こったのか。それとも、爺さんからお土産として渡された薬用酒のおかげか。昨晩寝る前、あれを一本飲んだからな。 
そのとき、部屋の隅に置いてあった薬草の入った白いレジ袋が目に入った。これはタムから預かったもので、デーンに渡さなければならないものだ。デーン先生に今の体の状態についての説明を聞こう。昨夜寝る前は、ペテン爺を紹介されたとクレームをつけようと思っていたが、一日経ってまったく状況が変わってしまった。
診療所に電話をし、診療時間が終わる一時間後に薬草を持っていく約束を取り付けた。

「――タム先生から預かった薬草を持ってきました」
弦太郎が診療所に赴くと、待合室でデーンが待っていた。デーンは弦太郎の顔を一目見た瞬間、彼の肉体の変化にすぐ気がついた。
「すっかりよくなったじゃないの」
デーンが目を丸くして言った。弦太郎はデーンにそう言われて笑いがこみ上げてきた。
「何が起きたのかさっぱりわからないんです。さっき起きたら、背骨の痛みがまったくないのでビックリしました。どういうことなんでしょうか?」
「どういうことって、自分がタム呪術師から治療を受けたんでしょ。私にはどういうことかわかりませんわ。背中ちょっと見せてくれる――」デーンは弦太郎の背中を静かに撫でた。「ほんと、すっかりよくなってるわね」
 彼女は感心したように言った。
「昨日は本当に大変でした。先生からもらった地図ではタムお爺さんに会えるかどうかもわからなかったし、無事お爺さんに会うと、彼の家まで山道を片道四時間も歩かされるし、それで何か施術を施してくれるのかと思ったら何にもしてくれないし。背中に市販の湿布を貼っただけですよ。それで四千バーツよこせって言うんです。詐欺師かと思いました」
「彼特有のジョークよ、フフフフ」
「えっ、あれはジョークなんですか?」
「当たり前じゃないの」
「でも彼は、ぼくの病気のことに関して何も訊ねてこないんですよ。自分の山暮らしのことしか話さない。治療に何にも興味なさそうだったし」
「何か食事させてもらったでしょ?」
「ええ、得体の知れない山菜の煮物と薬用酒を飲みました」
「多分、それが薬だったんだと思うわ」
「本当ですか? あれは山暮らしの慎ましい食事だと思いますよ。まさか薬じゃないでしょ」
「彼は、露骨に治してあげたなんて、そんな押しつけがましいことしたくないのよ。そういう人よ」
「それじゃあ、何気なくそうやって薬を飲ませたってことですか?」
「もちろん、そうに決まってるじゃない。そうじゃなかったら、あんな難病が急に治る?」
弦太郎はデーンからそう言われ動揺した。
「でも、彼は胡散臭く、金を四千バーツも要求してきましたよ。それに山からの帰り送ってもくれないし。危うく道に迷って遭難しかけました」
「四千バーツで難病が治れば安いものよ。それに、道に迷ったからといって、結果的に山から出られたんでしょ。山の中で何か不思議なことが起こらなかった?」
「不思議なこと・・・・、何にもないですよ。ん? もしかして、蝶が飛んできたことですか? 蝶を追いかけていったら山から出られました」
「普通、そんなことある? それは彼の呪術のおかげよ」
「本当ですか?」
弦太郎はデーンから説明を受けて言葉を失った。
「本当の呪術師はね、自分のことを“呪術師”なんて言わないものよ」
「同じことを昨日彼も言ってました」
「彼は自分が認めた特別な人にだけ呪術を使ってくれるわ。あなたは認められたのよ。呪術の秘密は知らされなかったようだけど。――とにかく彼に会えて、治療を受けられただけでもスゴイことなんだから」
「そんなにスゴイ人だったんですか・・・・。ぼくが会った印象では、風変わりで、なんか胡散臭くて、お金には執着するし・・・・。だから彼はインチキと思ったんです。それが一夜明けて起きてみたら、体がまったく変わってしまって」
受付の奥で静かに話を聞いていた亀爺さんが突然、ゆっくりした口調で話しに入ってきた。
「タム呪術師は本物ですよ」
亀爺さんの言葉は弦太郎の心の中でズシリと響いた。確かに、今思い返してみれば、彼はただ者ではなさそうである。普通あの歳で、あんな過酷な山道を重い荷物を背負って歩けるものではないし、あんなところで一人で暮らせるわけがない。弦太郎は亀爺さんに訊ねた。
「お爺さんも、会ったことがあるんですか?」
「もちろんです。彼がいなかったら私はいま生きていないでしょう」
亀爺さんは穏やかな笑みを見せた。
「具体的に何をしてもらったか教えてもらっていいですか?」
「感謝することがたくさんあり過ぎて言い切れません」
 亀爺さんは真摯な目線を向けて言った。
「ぼくはそんな偉い人に、無礼な振る舞いをしてしまった・・・・」
弦太郎はいまになって後悔した。
「大丈夫よ。そんな小さなことで怒るような人じゃないから――」デーンは弦太郎を慰めるように言った。「また、会える機会があるかもしれないし、そのときにお礼を言ったら?」
「デーン先生、タム先生はここにたびたび来られるんですか」
「彼に会ったんだからわかるでしょ。彼の行動パターンはまったく予測できないわ。不意にやってきて、いつの間にかいなくなる。本当に不思議な人よ」
「そうですか・・・・」
「彼に会えるのは縁のある瞬間だけ。風のそよぎみたいなものよ」
「風のそよぎですか・・・・」
弦太郎はタムに対し、治療していただいたお礼と、無礼をしたお詫びをすぐにでも言いたくなった。それに、デーンの口から出た〝呪術の秘密〟というのも是非聞いてみたい。
――どうして本物の呪術師を見抜けなかったんだろう。すぐにでもタム先生に会いに行かなければ。
 強い衝動に駆られた。


  十 
翌日の早朝、弦太郎はタムに会うためにインタノン山へバイクを走らせた。思い立ったらすぐに行動に出る積極的なタイプではなかったが、今回のことに関しては強い衝動を抑え切れなかった。昨晩デパートで、山道に迷わないようGPS機能付きの腕時計を購入した。リュックサックの中には食料品もたっぷり詰め寝袋も持った。これで山で野宿しなければならなくなっても大丈夫である。
弦太郎のテンションは異常に高まっていた。一昨日ペテン師だと思った相手だが、いまは本物の呪術師だと強い確信を覚える。タムの家までたどりつけるか心配だったが、とにかく山を歩いてみて体に刻み込まれた記憶を引き出すしかない。しかし、それ以前の問題として、今日タムは家にいるだろうか。たどり着いたはいいが、彼が家にいなかったら最悪である。とにかく居ることに賭けるしかない。
八時頃、弦太郎はインタノン山手前の雑貨屋に到着した。前回と同様、雑貨屋でペットボトルの水を購入し、店の脇の細い未舗装路を歩き出した。最初はこの路に沿って歩いてゆけばいい。弦太郎は〝絶対に会える〟という根拠のない自信があった。山中は朝のひんやりとした空気が覆い、うっすらと白い靄がかかっている。デコボコの獣道の傾斜を滑らないように気を配り、藪をかき分けて歩いた。
三十分ぐらい歩くと背中から汗が滲み出てきた。まだ歩き出して間がないが、すでに山道の記憶は朧だった。
「あれは・・・・」
 前方五十メートルに人が歩いているのが見えた。その人物に目を凝らすと、それは竹篭を担いだタムだった。
「タム先生だ!」
弦太郎はこのチャンスを逃すまいと、「先生、先生――」と大声で叫んだ。しかしタムはその声に気づかずさっさと歩いていく。弦太郎は小走りになって追いかけた。
「行ってしまう・・・・」
 タムの歩くペースは速く、差が縮まるどころか少しずつ離れていった。弦太郎はタムを必死で追いかけた。無我夢中で追いかけているうちに、いつしか人跡がない鬱蒼とした藪の中に入っていった。タムは急な斜面もスイスイと野生動物のように身軽にのぼった。弦太郎も同じように危険な斜面をよじのぼって追いかけた。
二時間以上追いつづけただろうか。とうとう彼の姿を見失ってしまった。弦太郎は息を荒げながら倒木に座り込み、ペットボトルの水を口に含んだ。身体から汗が吹き出し、シャツは絞れるほど濡れていた。脚の筋肉は張り詰め、痙攣を起こしそうになっていた。周りを見回してもまったく見覚えがない。これからは勘に頼って歩くしかない。山深いところでポツンと一人置き去りにされ不安になった。不思議の蝶がまた飛んできてくれないかとキョロキョロ辺りを見回したが、そんなに都合よく蝶は飛んできてはくれなかった。
再び歩き出し、急な斜面を登って行くと、山向こうからうっすらと白い煙があがっているのが見えた。
――あんなところに火の気が・・・・。
 弦太郎はその煙を目印にして歩き出した。一時間ほど歩くと峰をのぼりきり、そこから煙の発生地点を見下ろせた。
「あれはタム先生の家だ」
小さく見える小屋を確認した。弦太郎はそこを目指して山をくだっていった。タムの家が徐々に近づいてくると、タム本人が家の前で家事仕事をしているのが見えた。タムも歩いてくる弦太郎に気づき、仕事の手を止めて弦太郎を眺めた。
「タム先生、また来てしまいました。疲れました・・・・」
「よくここまで一人でたどりついたな。人間らしき影がヨロヨロとこっちに向かってきたから亡霊かと思ったぞ、ハハハハ」
タムは陽気に笑って出迎えてくれた。弦太郎はタムに再会できた気の緩みで力が抜けてしまい、その場でペタリと座り込んでしまった。
「地べたに座るとズボンが汚れるだろ。家の中に入って休んだらいい」
 タムは弦太郎を抱きかかえるようにして家の中に招き入れた。
「たどり着けてよかったです。先生が先導してくれなかったら、絶対ここには来れなかったでしょう」
「先導って何だ?」
「朝、ぼくの前方を歩いてくれたじゃないですか。あれは先導してくださったんじゃないんですか?」
「知らん」
「じゃあ、買い物の帰りだったんですか? それとも狩りの帰りだったんですか?」
「ワシはずっとこの辺りにおったぞ。なんのことかわからん」
「わからんって、確かにぼくの前を竹篭を背負って歩いていたじゃないですか」
「知らんと言ったら知らん」
「それと、煙が上がっていたのでこの家の位置がわかりました。ありがとうございました」
「飯の支度をしていただけだ。お前は運がいいな、ハハハハ」
弦太郎はタムの表情をじっと観察した。タムは偶然のように見せかけて巧妙な呪術を使っているに違いない。
「先生は本当にすごい呪術師なんですね。ぼくの病気を完治させてしまうし、道に迷うと“分身の術”みたいなものを使って先導してくれるし。先生、もう騙されませんよ。先生は“本当の呪術師”なんですね。うまくカモフラージュするから油断ができない」
「完治? あの湿布はそんなに効いたのか、ハハハハ」
 タムは呪術師らしい態度を一切見せなかった。
「今回、ぼくがここに来た理由は三つあります。体を治していただいたお礼と、この前失礼な態度をとってしまったことを謝罪したいこと、もう一つは、先生が呪術師であることを確かめるためです」
「ハハハハ、ずいぶん勇ましいことを言うじゃないか。ちょっと待て、さっき採った美味しいものをやる」
タムは竹篭の中から蜂の巣を取り出した。
「あっ、一昨日食べたやつですね。これは旨いんだ」
「元気が出るぞ」
弦太郎は蜂の巣にむしゃぶりついた。甘い蜜が喉を通ると、体の細胞ひとつひとつに力が染み渡るのを感じた。
「今晩はどうするんだ?」
タムが訊ねた。
「一泊させてもらってよろしいでしょうか」
「ああ、かまわん。その代わりここは自給自足だ。自分の食べる食料は自分で捕獲しないといけない。しばらく休んだら食料を調達にいくぞ」
「はい、是非お供させてください」
弦太郎は何かおもしろいことが起きる予感がした。
 ポツ、ポツ、ポツ、ポツ――
そのとき、雨粒の落ちる音が天井から聞こえてきた。間もなく激しい雨となり、雨音で話し声が聞こえないほどになった。山の天気は変わりやすく、空が晴れていても油断ができない。
「雨は二時間でやむだろう。やんだら出かけるぞ」
二時間後、タムが言ったとおり雨はやんだ。
「先生の予言どおり、ピッタリ二時間でやみましたね」
「予言でも何でもない、いつものことだ。さあ、出かけるぞ」
 二人は外に出た。
「竹篭はぼくが担ぎます」
 弦太郎は率先して竹篭を担ぎ、ひと仕事の前に、体をひねったり筋を伸ばしたりして準備体操をした。その横でタムは眼を閉じて物静かに佇んだ。弦太郎はタムの様子が変わったことに気づき、彼の気を散らさぬよう声を出さずに見守った。しばらくすると、タムは何か閃いたかのようにパチリと眼を開けた。
「先生、眠たくなりましたか」
 弦太郎はタムの眼を覗き込むようにして訊ねた。
「いや、声を聞いていたんだ」
「声?」
「植物の声だ。こっちの方向だ」
タムは斜面をくだり出した。急な斜面だったので弦太郎は身体を横に向けながら慎重についていった。
「ここか」
 タムは足を止めてしゃがみこみ、一人ブツブツと何かを呟き出した。弦太郎は何かの儀礼だと思い、タムが呟き終わるまで傍らで見つめた。
「先生、何か呪文を唱えていたんですか」
「いや、キノコに訊ねていたんだ」
タムの指差したところに白いキノコがたくさん生えていた。
「それは食べられるキノコですか」弦太郎が訊ねた。
「キノコが摘まれることを許可してくれたから食べても大丈夫だ」
「は、はい」
タムがキノコを採り出したので、弦太郎も手伝おうと、タムの隣にしゃがみ込みキノコに手をかけた。
「ダメだ。そのキノコからは許可をもらっていない」
タムは弦太郎が摘んだキノコの手を制止させた。
「これは同じ種類のキノコじゃないんですか?」
「同じ種類かどうかは問題ではない。許可をもらっているものと、もらっていないものがある。許可のないものを採る権利は我われにない。お前にはこの仕事は難しい。ここは見ているだけでいい」
弦太郎はキノコを摘ませてもらえなかった。
タムはキノコを摘み終わると、先程と同様、静かに瞑目し佇んだ
「下か」
 タム眼をパチリと開けると、呟くように言った。
「まだおりますか」
 弦太郎は急斜面を見下ろしながら恐々と言った。
「この程度の斜面で何を弱気になってるんだ。竹篭はワシが持つ。貸せ」
 タムは竹篭を背負い、斜面をくだっていった。身軽になった弦太郎も、滑り落ちないよう斜面に張りつくようにしてついていった。
 斜面をくだりきると小川が流れており、その川岸でワケギのような野草が水辺に生えていた。
「この植物は食用になるし、根っこは体の冷えに効く」
キノコを採ったときと同様、タムはブツブツと植物と話し出した。
「よし、許可をもらった。この一帯はお前が摘んだらいい」
「はい。この草は根っこから摘めばいいですか?」
「根っこは許可が出ているものと出ていないものがある。お前は区別がつかないから根っこは採ってはいけない」
「そうですか・・・・」
 弦太郎はタムの言葉を忠実に守り、一本一本慎重に摘んでいった。
「先生はこういった地味な植物すべてと話せるんですか」
「地味な植物? どうもお前は植物を見下す癖がついているな。そういう態度で生き物に接しているから、彼らの声が聞こえないんだ。謙虚になる必要がある」
「はい、謙虚になります」
弦太郎もタムの真似をして植物に声をかけながら採取した。
「次は魚を採るか」
二人は斜面を下りきり、小川の岸に立った。タムはズボンの裾を巻くりあげ、川の浅瀬に入っていった。弦太郎も裾を巻くりあげタムにつき従った。タムは浅瀬に両手を浸し、魚を捕る体勢をつくった。
「先生、もっと深いところに行った方がいいんじゃないですか。見えるところに魚はいないものですよ」
 弦太郎はタムに助言した。
「深い浅いは関係ない。川には魚の通り道というのがあるんだ。――ほら、きた」
タムはものの数分で大きな魚を捕獲した。捕まえたというよりは手の中に入ってきたという感じだった。それを竹篭にヒョイと入れると、再び両手を川につけて魚を待ち構えた。
「きた」
 すぐに次の魚を捕まえた。
「ヘェー、こんな小川にたくさん魚がいるんですね」
「たくさんいるわけじゃない。お前がやったら一週間かけても一匹も捕れないだろう」
「そうですか。ぼくはこういうの案外得意ですよ」
弦太郎も川に手を浸して魚を探った。
「もういい」
 タムは川からあがってしまった。
「先生、もう捕らないんですか? ぼくにも捕まえさせてくださいよ」
「もう捕まえる必要はない。今日二人の食べる分は捕っただろ。それ以上捕ってどうするんだ」
「食べ切れない分は燻製にでもして保存したらいいじゃないですか」
「そんな欲張りな奴に自然は恵みをあたえてくれない。行くぞ」
「はい・・・・」
弦太郎はタムに欲深さを指摘され、罰が悪そうに川からあがってズボンの裾を直した。
「他に何か採りに行きますか?」
「そうだな・・・・」
タムは沈黙し瞑目した。弦太郎も真似をして目を閉じてみたが、もちろん何も聞こえてこなかった。それどころか蚊やブヨが顔にまとわりついてきて、静かに目を閉じていられなかった。タムは眼を開けた。
「しばらくしたらまた雨が降り出すだす。今晩食べる分の食料はこれだけでいいから戻って飯の支度をしよう」
ゆっくりした口調で言った。弦太郎は忙しなく虫を払いながらタムの姿を見つめた。
「あれっ? 先生の周りには全然虫が寄ってきませんね。どうしてですか?」
「年寄りの血はマズいんだろう、ハハハハ」
 タムは笑いながら言った。
「そうなんでしょうか・・・・」
 夕方は虫が活発になる時間帯である。弦太郎の周りにはおびただしい虫が集まり、払っても払っても収拾がつかなかった。こんな虫たちが年寄りの血だからといって集まらないのはおかしい。
「払ってもムダだ。友達になるんだ」タムが言った。
「え? 友達になる?」
「お前にとって虫は敵かもしれないが、ワシにとっては友達だ。友達になれば彼らも危害を及ぼさないだろう」
「どうしたら友達になれるんですか?」
「さっきも言っただろ。お前は心の底で虫や植物も見下している。その歪んだ心を改めればいいんだ」
タムは笑いながら手のひらで弦太郎の体を軽く払うしぐさをした。すると虫がさっと散り、静かになってしまった。
「すごい! 虫が消えてしまった――」弦太郎は驚いて訊ねた。「これは呪術ですか?」
「そうだ。これは呪術のひとつだ」
このときタムの口から初めて自分を“呪術師”と認める言葉が出た。弦太郎はこれを聞き逃さなかった。
「今、先生は〝呪術〟と言いましたね――」弦太郎は興奮気味にタムを見つめた。「先生は他にどんな呪術が使えるんですか」
「呪術? 呪術は人間に見せびらかすためにあるものではない。いや、見せびらかすような愚かなことをすれば力を失ってしまう。それは呪術師の掟破りだ。呪術は生活するうえで必要なときのみ使われなければならない。例えば――」タムは山の斜面を指差した。「我われはこの斜面くだってきただろ。危なかったか?」
「急な斜面で怖かったです」
「のぼるのも大変そうだろ。だが、呪術師はこんなところでも簡単にのぼれるものだ。まあ見ていろ」
タムは斜面を見上げたかと思うと、カモシカが駆け上るようにジグザグにピョンピョンと跳ねのぼり、あっという間に見えなくなってしまった。
「ああ・・・・」
 弦太郎は小川の岸に一人取り残されてポカンとした。それは人間業ではなかった。しかも、彼はキノコや魚が入った竹篭を担いでおり、足元は質素なゴムサンダルである。
「先生」
呼んでも返事は返ってこなかった。もう戻ってこないのだろうか。取り残された弦太郎は、斜面に張り付くようにして一歩一歩一人でのぼっていった。
「――弦太郎」
 しばらくして、上から声が聞こえてきた。弦太郎が斜面を見上げると、タムが斜面を滑るようにしておりてきた。タムは小屋に竹籠を置いてきたのだろう、何も持たず身軽そうだった。
「次はくだるときの呪術を見せてやろう。呪術師はこのようにくだる」
タムはそう言うと、身体を丸めてコロコロと転がった。
「危ないっ!」
弦太郎は思わず目を閉じ、体を硬直させた。
「おい、弦太郎」
 下から声が聞こえた。弦太郎が恐々目を開けて下を見下ろすと、タムが川原で笑いながら直立していた。
「先生・・・・、怪我はなかったですか」
「呪術師の身体は岩のように頑丈だ。怪我をするとしたらこの山の方だな、ハハハハ」
不思議なことに斜面を転がったにも関わらず、タムの服はまったく汚れていなかった。
「・・・・・・」
弦太郎は言葉を失った。
「じゃあ、ワシは飯の支度をしているから、気をつけてのぼってこいよ」
タムはそう言うと、斜面をまたピョンピョン跳ねながらのぼりだし、すぐに弦太郎の横にきた。
「急いでのぼらないと雨が降り出す。リミットはあと十五分だ」
タムは折りたたみ傘をポンと手渡し、疾風のように駆け上がって見えなくなってしまった。
――これが呪術師というものか。
弦太郎は圧倒的な呪術師の能力を見せつけられ呆然とした。今まで持っていた“呪術師”というイメージが粉砕された気がした。
――デーン先生が、特別な人にだけ呪術師の秘密を明かすと言っていたけれど、自分のことを特別な人として認めてくれたのだろうか。
 弦太郎は恐ろしい気持ちになった。
 あれこれ考えながら斜面をのぼっていると、タムが言ったとおり十五分ほどしてポツポツと雨が降ってきた。傘をさしながら急斜面をのぼることはできないので、傾斜のゆるやかな迂回路を使ってのぼっていった。
「疲れました・・・・」
弦太郎がタムの家にたどり着いたときには辺りは薄暗くなり、ズボンは泥だらけになっていた。家の中にはランプが灯され、タムはすでに食事の支度を終えて待っていた。
「ずいぶん遅かったな。チェンマイ市内に戻ったのかと思ったぞ、ハハハハ」
 タムは大笑いした。
「とりあえず暗くなる前に戻ってこれてよかったです。傘を持ってきてくださってありがとうございました。濡れずに済みました」
「さあ、腹が減っただろう。飯だ、飯だ」
床には焼き魚と山菜のスープが置かれていた。
「さあ、腹いっぱい食べるんだ。ご飯も炊いてある」
「ありがとうございます。いただきます」
弦太郎は昼食を食べていなかったこともあり、異常に食が進んだ。質素な食事であったが彼の味覚にピッタリ合った。
「ウマイです。もしかして隠し味に“呪術”が使われているんですか」
 弦太郎は冗談半分に言った。
「ハハハハ、何でも呪術は使わない。普通の料理だ――」タムはちょっと真面目な表情になり、「料理は普通だが材料は特別だ。生き物たちから“許可”をとってあるからな」
「それは貴重ですね。市場やスーパーに“許可”をとったものなんか絶対ないですから」
「許可のないものを食べていると、誰かさんのように病気になる」
「えっ、そうなんですか。でも、市内にはそれしかありません。じゃあ、何を食べればいいんですか」
「冗談だ。そんなに大げさに考えなくてもいい。呪術師は自分の死に対して慎重だから、あらゆる生き物の死に対しても同じように慎重になる。とくに自分が奪う命にはな。人間のお前の場合は、感謝して食べること、少し運動してから食べること、それだけでいい」
「安心しました。でも、ぼくは運動不足だから、街に戻ったらジムに行かないといけませんね」
「そんなところ行くな。力を無駄に使うものではない。それならドブ川のゴミさらいでもした方がましだ。運動は生活の中でするものだ」
「なるほど」
 弦太郎はご飯を食べ終え、ボンヤリとランプを眺めた。ランプから放たれる琥珀色のやわらかい光が部屋を包み込み、ときおりランプの光が生き物のようにゆらゆらと揺れた。戸外からは虫の鳴き声が聞こえるだけで、バイクの音、テレビの音、扇風機の音、そういった人工的な音がまったくしない。ときおり風が吹いて、木の葉のすれる音がする。
 タムは酒壺の酒をコップに注ぎ、弦太郎に渡した。
「どうも――」弦太郎は酒を受け取り口をつけた。「ああ、旨い。この酒は素朴でいいですねえ。何度飲んでも旨い――」ほんのりと喉が熱くなってきた。「ああ、こういう静かな生活はいいものですねえ。ぼくはこういう生活を無意識的に望んでいるのかもしれない」
「誰もが心の奥底では自然に還りたがっているものだ」
「先生――」弦太郎は真面目な口調なった。「時間があったら、またここにきてもいいですか。先生のようなすごい呪術師にお会いでき、できたらぼくも呪術の触りだけでも身につけたいです」
「呪術か・・・・」タムはしばらく沈黙した。「山にくることはお前にとって健康にいいことかもしれないが、呪術は遊んで身につけられるものじゃない」
「じゃあ、どんな修行をするんですか?」
「お前には無理だ。諦めろ」
タムはにべもなく言った。
「先生、ぼくは真面目になるときには真面目になります。興味があることには真剣に取り組みます」
「呪術師の道は険しい。軽薄なお前には無理だ」
タムは弦太郎を突き放した。
「そんなのやってみないとわかりません。じゃあ先生、どんな人が呪術師になれるんですか? 呪術師になる条件が何かあるのなら教えてください」
「呪術師になる条件か、そうだなあ・・・・」タムはコップの酒をゴクリと飲み干し、弦太郎の目を刺すように見つめた。「まず第一に、自分なんてもの、自分のアイデンティティも含め、全部捨ててしまう勇気が必要だ」
「自分を捨る勇気ですか?」
「呪術師の道を歩む者は、今までとはまったく別の人間へと変化してゆく。興味のあったことがつまらなく思えたり、意味がないと心の端にも引っかからなかったことが重要に思えたりする。感情、呼吸、肉体、すべてが変化してゆく。〝こうなりたい〟なんて理性的に考えていたことが踏みにじられ、自分がどんどん予測のつかないところへ流されていく。だからこそ、自分を捨て去る勇気が必要だ」
「自分が変わってしまうんですか・・・・」
「第二に、弟子は師に対して忠実でなくてはいけない。師のどんな理不尽な命令さえ、どうして? と訊ねることはできない。師の命令は絶対だ。理由なんか必要ない。弟子に許される言葉は『イエス』、ただそれだけだ」
「忠実であることですね。他には?」
「第三に、入会金が必要だ」
「入会金?」
「師との関係を結ぶ契約金といったらいいか。十万バーツだ」
「十万バーツ?」
呪術師になる条件の中に金銭のやりとりが必要という、いかにも俗世間的な条件を提示され、弦太郎は不意打ちを喰らったような気がした。前回の治療のときも四千バーツとられたことを思い出した。
「お金が必要なんですか?」
「もちろんだ。金は世間を生きてゆくのに必要なもの。我々は世間との関係をなくして生きてゆくことはできない。ワシにも金が必要だ」
「先生は山の中で独りで生活していらっしゃっるのに、そんな大金必要なんですか?」
十万バーツは地方の労働者の年棒に匹敵し、学生の身分である弦太郎にとっては大金だった。
「ワシが何に金を使おうが、お前の知ったこっちゃない。ワシの勝手だろ」
「もちろんそうですが・・・・」
「早くもお前は条件の〝第二〟を忘れたようだな。師の命令は絶対だって言っただろ。理由なんかお前に必要ない。とにかく契約金十万バーツだ」
「はい、十万バーツですね」
「呪術師になる条件はこの三つ、それだけだ――」
夜も更けていった。話も尽き、ランプの炎が消され、空間は真っ暗な闇に支配された。弦太郎は床に横になって寝袋に包まり、呪術師になる三つの条件を頭のなかで反芻した。
「金か」
 小さく呟いた。
 昼間の疲れから強烈な睡魔に襲われ、またたく間に眠りに落ちていった。

翌朝、弦太郎は雨音で目を覚ました。タムはすでにどこかに出かけており部屋にはいなかった。時計を見ると七時を回っていた。床に座ってボンヤリしていると、タムが野草をたくさん入れた竹篭を背負って戻ってきた。彼が何時に起きたのか知らないが、すでにひと仕事を終えたようだった。
「弦太郎、今日はどうするんだ?」
「ぼくは朝のうちにここを出ます。山道を歩くのは時間がかかりますから、早く出たほうが安心です」
「そうか。じゃあ、朝飯を食べてから帰ったらいい」
弦太郎はタムが作ってくれたお粥を食べた。食べているうちに雨はやみ、辺りは物音一つしない静寂の空気が流れた。弦太郎の心も同様に静まり、出る前に呪術師についてもう少し聞きたくなった。
「先生、昨日聞き忘れたことなんですが」
「なんだ?」
「修行すれば、皆、先生のような呪術師になれるものなんですか?」
「そんなに甘いものではない。修行したからって、ほとんどが脱落してゆくさ。もっとも修行に入れるだけでも幸運なことだけどな」
「と、言いますと?」
「短い人生の中で呪術師と出会うなんて、ほんの少数の者だろ。宝くじに当たるよりももっと難しい。さらに、呪術師と出会ったほんの少数の者が、呪術師の道を歩むことを許される。さらに呪術師の道を歩み続けるほんの少数の者が呪術師に成ることができる」
「ほとんどがふるいにかけられるんですね」
「そうだ。呪術師の道はとても険しい危険な道だ。油断したり、道を誤れば、すぐに命を落としてしまう」
「危険な道・・・・。昨日見た先生の呪術は、そんなところから生まれたんですね」
「あんなものは子供のお遊びに過ぎないがな」
「もっとすごい呪術があるんですね」
「もちろんな。もしお前に呪術師として生きる覚悟があり、昨晩言った〝呪術師になる条件〟を満たせられるのなら、またここに戻ってきたらいい。面倒をみてやろう。だが、呪術師の道に一度足を踏み入れたらもう後戻りはできない。世間の慣習に従ってお遊びしたいなら、普通の人間として大人しく生活したらいい」
「はい・・・・」
「もちろん、ワシはお前に呪術師の道を歩むことを強制したりしない。呪術師の道は、他者に強制されて歩むものではなく、自分の意志で歩むものだからな」
 タムはひとつひとつの言葉を念を込めるようにゆっくりと話した。弦太郎はその言葉を聞き心臓が高鳴った。呪術師という選択肢が目の前に現れたのだ。弦太郎はおずおずと訊ねた。
「呪術師の道の果てに何があるんですか?」
「それは言葉では説明できない。言葉の概念を超える何かだ。それは考えることも、想像することもできない。一つだけいえることは、そこに虚しさはないってことだ」
「虚しさのない何かですか・・・・」
 弦太郎は日ごろ何をしても虚しさに苛まれることがあった。ふざけたり、はしゃいだり、陶酔したり――、そのときは楽しいが、そこから離れて一人になると虚しさがこみ上げてきた。この虚しさは人間の持つ業のようなもので、決して逃れられないものだと諦めていが、タムの口から〝虚しさはない〟と言われ、深く胸に打つものがあった。
「それと、最後に一つだけ忠告だ。街に戻ってから、絶対誰にもワシのことを話してはならない。お前はまだ呪術師ではないし、呪術師としての道も歩んでいない。しかし、お前は、呪術師を見、呪術師を体験し、呪術師の秘密を聞いた。ほんの一片に過ぎないけどな。それを知ってしまった以上、くれぐれもワシのことも、ワシの住まいも、ワシの言葉も、誰にも話してはならない。これは〝呪術師の掟〟だ。これを破ったら恐ろしい災いがお前に降りかかってくるだろう。――忠告は以上だ」
弦太郎はタムの言葉の気迫に圧され、小さくなって畏まった。
「――それじゃあ、そろそろ」
弦太郎は荷物をまとめて外に出た。雨はすっかりやみ、空は無邪気に晴れ渡っていた。
「いろいろありがとうございました」
歩き出そうとすると、背後からタムが言った。
「もう道は覚えたのか?」
「これがあります」
弦太郎はタムにGPS機能の付いた腕時計を自慢げに見せた。
「この時計は緯度と経度が出ます。これがあれば道に迷いません」
「科学のテクノロジーはすごいな、ハハハハ」
「それじゃあ――」
歩き始めたが、三度も歩いている道なのに全然わからなかった。そもそも山には決まった道がない。それでも正午ぐらいまでには大通りに出られるだろうと思っていた。はじめは順調に目的地に近づいていったが、平坦な道を歩くのとは違って、計画通り進まなかった。
途中、また雨が降り出したのでレインコートを羽織って歩いた。そうこうしているうちに正午になってしまった。時計で現在地を確認すると、まだ半分ぐらいしか進んでいなかった。弦太郎はリュックからパンを取り出し昼食を取った。
「予定通りいかないものだな」
 しばらく休憩し、また歩き始めた。このときはまだ全然焦りはなかった。山を歩くのはすがすがしくて気持ちよかった。
さらに歩き続けているうちに、時刻は三時になってしまった。歩き始めてから六時間も経過しているのに、まだ山から出られなかった。ここにきて疲労が濃くなり焦り出してきた。
――この時計を頼りにして、本当に大丈夫だろうか。
GPS機能のついた時計が頼りなく見えた。そのときタムの言葉が頭をに蘇ってきた。『呪術師の道はとても険しい危険な道だ。油断したり、道を誤れば、すぐに命を落としてしまう』。
長時間、険しい道を歩み続けても、目の前に崖が立ち塞がる。道を誤れば遭難するだろうし、毒蛇に咬まれたら命を落としてまう。いま自分の歩いている道そのものが、タムの言った呪術師の道のように思えた。
――呪術師になるというのはこのようなことなんだろな。
夕方の六時頃、ようやくバイクの停めてある大通りに出られた。朝から九時間近くも歩いていた。


  十一 
弦太郎とカイは学校が終わったあと、チェンマイ市内にある人気のステーキ・ビッフェの店にやってきた。広い店内は平日にも関わらず、多くの客で賑わっていた。銀のトレーに盛られている料理をめいめいがセルフサービスで白い大皿にとってゆく。
「久しぶりの外食だ。なんか豪勢だなあ」
弦太郎はテーブルに着き、大皿に山盛りに盛られた肉やフライドポテトを眺めて言った。
「そんなに食べられるの?」
 弦太郎の向かいに座っているカイが冷やかすように言った。
「異常に腹が減るんだ。病的だった今までの反動かもしれない」
「そういえば、病気中、ずっと少ししか食べれなかったもんね」
「体が正常に働き出したのを顕著に感じるよ」
弦太郎は勢いよく食べ出した。カイはそんな弦太郎の食欲を頼もしげに眺めた。
「今日、学校で弦太郎に会ったとき、見違えるように元気になってたからビックリしたよ。この前、元気になったって電話で聞いたけど、無理してるだけだろうと思ってたら」
「自分でもこんなに元気になるなんて信じられない。もう背骨も全然痛くないし、夜はよく寝られる。今日久しぶりにY先生に挨拶に行ったら、長い間なんでサボってたんだって問い詰められた。いままで病気で寝てましたって言ったけど、全然信じてくれなかった」
「そりゃそうよ、急に元気になるなんてありえないもの」
周りを見渡すと、店内はビッフェということもあって二十代の若い客が多かった。若者たちはみんな食欲旺盛で、大皿の上に山盛りに料理を盛っていた。店内は白熱灯のオレンジ色の光に照らされ、会話があり、笑い顔があり、肉の香ばしい匂いがあり、平和な空気が流れていた。
ビール会社の宣伝コスチュームのミニスカートをはいた女性が生ビールを勧めに回ってきたので、弦太郎は一杯注文した。
「あきれた。今日はビールも飲むの?」
 カイが呆れたように言った。
「一杯だけだ。久しぶりに飲みたくなった。今日は快癒祝いだ」
弦太郎は肉料理で重たくなった胃袋に、冷たいビールを流し込んだ。
「ヒャア、旨い」
「あたしにも少しちょうだい」
カイは弦太郎からジョキを受け取り、一口だけ口をつけた。
「ウ、やっぱりあたしはビールは好きになれないわ」
「女は飲まないほうがいい。アルコールを飲むと馬鹿になる」
「それは男だって同ンなじでしょ」
「人間ってやつは馬鹿になるってわかっていても飲むんだ。脂っこい料理を食べると、冷たいビールがうまくなる。さらに脂っこい料理がすすんでさらにビールを飲む。そんなもんだ。――見てみろよ、周りの客、太ってる奴が多いぜ」
「ダメよ、そんなこと言っちゃ、怒られるわよ」
「カイもこんな脂っこいものをたくさん食べてると、十年後ぐらいにはブクブクと肉まんみたいになるぜ」
「肉まんなんて失礼なこと言わないでよ。あたしはちゃんと運動するから太らないわ」
そのとき弦太郎はふっとタムのことを思い出した。
――街に住むと、お金さえ払えばいつでも贅沢な料理がたらふく食べられる。なんと快適で便利なことだ。それに引き換え、山暮らしとはなんと過酷なことか。先生は毎日、独りで食料を調達し、調理し、野生の脅威から身を守りながら生きている。いまの時間帯だったら、あの真っ暗の小屋の中で寝ているかもしれないな。大変だ・・・・。
 カイにもタム呪術師のことを話したかったが、呪術師のことは絶対言わないよう厳重に口止めされているので話せなかった。カイが先生の呪術を目の当たりにしたらさぞかし驚くことだろうに。
 弦太郎は、食べ散らかしたステーキやポテトをボンヤリと眺めた。人間の舌の上に滑り落ちてゆくこうした食べ物も、当然のことながら生き物が命を落とした結果なのだ。
「哀れだなァ・・・・」
弦太郎はボソッと呟いた。
「弦太郎、どうしたの?」
 カイは弦太郎の顔色が変わったのを見逃さなかった。
「おれたちは贅沢だ、贅沢すぎるよ。まさに王様だ」
弦太郎は自戒するように言った。
「金持ちはもっと贅沢してるわ。これぐらい贅沢でも何でもないわよ」
「でもなあ、おれは食べ物が可哀想に思える」
「どうして?」
「命が失われているんだぜ。しかも、そのことをみんな忘れている。――ん?」
そのとき、横の席に座っていた西洋人の男三人が大声で怒鳴り始めた。中年のスキンヘッドの男が、向かいの席に座っていた長髪の男に突っかかっていき、テーブルの上のビールのジョッキが倒れて床に落ちた。
――ガシャーン
 派手な音をたてて割れた。店の客がいっせいに西洋人のテーブルを注視した。もう一人の男が必死で仲裁しているが、二人の興奮は収まりそうになかった。か細い女性店員では西洋人の大男の喧嘩を止められそうにない。弦太郎は道義心から彼らの前に出ていかなければならないと思ったが、及び腰になって足が出なかった。
――こんなときタム先生だったら、簡単に収束させてしまうんだろうな。
何もできない自分の無力さに情けなくなった。体力もなければ根性も知性もない。酒を飲んで暴れる横暴な男たちを軽蔑の眼差しで眺めるだけである。
――愚かな奴らだ。こんな奴はタム先生のように、自然の小さな声を聞き分けたりなんかできないだろう・・・・。いや、おれかって、そんなこと全くできないじゃないか。所詮は同類の愚か者だ。
店の奥から店長らしき男性が出てきて、酔って暴れた西洋人に注意をし、店から追い出した。
「暴力的な人はイヤだわ」
カイはマナーの悪い西洋人に憤慨した。
「おれにもっと力があったら、奴らを注意してやったのになあ。何にもできないなんて男として、いや、人間として恥ずかしいよ」
「弦太郎、あんな争いに関わっちゃダメ。自分が怪我したら損でしょ」
「でも、ああいう輩を吹き飛ばすような力が欲しい」
「何言ってるの。あんな人たちと関わるようなことは絶対しないでね」
「ああ・・・・」
弦太郎は呪術師にたいする憧れの気持ちがここでも湧き起こってきた。しかし、呪術師になる条件である、すべてを捨てる勇気もなければ、契約金のお金もない。大学を辞めて山の中で暮らすことは大きな犠牲が伴う。そのとき弦太郎はふと閃いた。
――いや、そもそも、大学を辞める必要はあるのか。修行は長い道のりじゃないか。学校と両立させながら少しずつ修行すればいいんじゃないか。
 弦太郎の頭の中に大学生と呪術師の両立というアイディアが浮かんだ。これは合理的である。あとは金の問題だけだ。
「ねえ、山の診療所で体を診てもらったって言ってたでしょ。結局、治療費っていくらとられたの? 結構とられたって言ってなかったっけ?」 
カイが山の診療所の話題を持ち出した。このとき弦太郎は「カイに金を借りるチャンスだ」とピンときた。
「治療費に四千バーツかかったよ。でも、さらに薬代やらなんやら、さらに請求されて、あと十万バーツ払わないといけないんだ・・・・」
弦太郎は深刻そうな顔をつくろい、無理やり十万バーツに話を結びつけて嘘をついた。
「えっ、十万バーツ? なにそれ、どうしてそんなに高いの」
「逆に言えば、高い治療だったからこそ、こうして元気になれたんだよ。医療なんてそんなものだ。安い医療にロクなものはない。街の病院の検査では異常がないって言われただろ。放っておいたら数年後に廃人になっていたんだぜ。それを先生は見事に救ってくれた。こうして回復させてくれたんだから十万バーツなんて安いものだと思う。おれは山の医者を尊敬し、感謝している」
「確かにね、そう言われてみると安いかもね。人生に関わることだったんだから」
「それでな、カイ、聞いてくれ――」弦太郎はさらに深刻そうな表情をした。「その山の医者な、実は素性の知れない怪しい男なんだ。腕はすごくいい。でも、なにか背後に黒い影があって、公に世間には出て行けない人物のようなんだ。マフィアが絡んでいるのかもしれない。十万バーツを早く用意しないと、命が狙われそうで怖いんだ。なあ、カイ、いつもお前に甘えてばかりで悪いが、お金、貸してくれないか」
カイはそれを聞いて憐れんだ表情になり、しばらく黙って弦太郎を見つめた。
「もちろん、弦太郎がそんなに困っているんだったら力になるわ。お金のことは心配しないで。――でも、どうしてマフィアがその医者に絡んでいるのかしら?」
弦太郎はカイの質問に一瞬狼狽した。嘘を一つつくと、その嘘の上にさらに嘘を塗り重ねなければならなくなる。
「んん、そうだなあ・・・・、何でだろう・・・・。何も聞かなかったらその背景はよくわからないけど、とにかく、そういう雰囲気だったんだ」
「どうして聞かなかったの?」
「そんなこと聞けないよ。あんまり深入りすると危険だろ?」
「そうね、深入りするのは危険だわ。でも、お金を払っても、さらに追加請求されたり、付きまとわれたりしないかしら」
「それは大丈夫だ。きちんと契約書を作成してもらうから」
「それならいいんだけど・・・・。で、お金はいつまでに必要なの」
「すぐに必要なんだ。来週の土日あたりにまた行かないといけないかも」
「お金のことは大丈夫、用意できるわ――」
話がうまい方向に流れ、弦太郎はカイからお金を借りられることになった。まさか十万バーツもの大金が用意できるとは。これがあれば、呪術師に弟子入りできる物質的条件が整う。
弦太郎は胸にあったつかえが解け、嬉々としながらステーキを何枚も平らげた。


  十二
「ずいぶん頻繁にインタノン山にやってくるなあ」
弦太郎はインタノン山にバイクを走らせながら苦笑した。デーンに紹介されてからというもの、吸い寄せられるようにインタノン山へやってくる。
――突然の訪問に先生はどんな顔をするだろう。
 タムは電話を持っていないので、約束して日取りを合わすことができない。山へ突然行っても会えない可能性もあるが、なぜか出かければ会えるような気がする。
雑貨屋の前に着きバイクを下りた。そのとき、弦太郎はフッと雑貨屋の表に置いてあるテーブルに人影を感じ、そちらに視線を向けた。そこにタムが笑いながら座っていた。
「先生、どうしてここに・・・・」
意表を突かれた弦太郎は呟くように言った。現実か幻か、目を見開きタムを見つめた。今回もどこかで会えるような気がしていたが、この雑貨屋で会うとは予想だにしていなかった。
「お前が来るのを待っていた。よく来たな」
「どのくらい待っていたんですか?」
「一週間前からだ、ハハハハ」
 タムの言うことは冗談なのか本気なのか判別できない。
「今日は何か用事があって山から下りてきたんですか?」
「お前を待っていたと言ってるだろ」
「そのためだけに? 本当ですか。――でも、ぼくがバイクを停めたとき、先生はここに座っていましたっけ。突然、現れた気がしましたが」
「気がつかなかったのは、お前が鈍いからだ」
「不思議ですねえ。どうしてぼくが今日、ここに来ることがわかったんですか? やっぱり何かの呪術ですか?」
「そうだ、呪術だ。〝偶然〟と言うな、ハハハハ」
 弦太郎は理解に苦しんだ。タムは不思議なことを当たり前のように起こすので、ただの冗談とも思えない。弦太郎はタムの底知れない力に薄気味悪さを覚えながら、タムの眼を覗き込んで心中を窺った。
「決心はついたか?」
タムが何気ない調子で訊ねてきた。何の決心か具体的に言わないあいまいな訊き方だったが、それが〝呪術師になる決心〟だということがすぐにわかった。
「――はい」
弦太郎も具体的に何も言わず、慎重に一言だけ返事をした。
「よし、わかかった。それじゃあ、今日、お前に正式に呪術師のイニシエーションを授けよう」
「イニシエーションですか」
重たい言葉の響きに弦太郎は動揺した。
――イニシエーションとは一体どんなものだろう・・・・。
 過酷なものを想像し、背中が冷たくなった。
「さあ、早速〝呪術師の道〟を歩き始めるか」
 弦太郎はこの言葉を聞き、もう呪術師の修行が始まったものと思った。事が決まれば呪術師の習慣に則った生活を送らなければならないようである。 
「どのような修行から始めるんですか?」
「ん? 修行? 修行の前にイニシエーションだ。ワシの家に戻らないといけないだろ」
「〝呪術師の道〟とは、今から〝先生の家への道〟ということですか?」
「そうだ。それ以外に意味はないだろ、ハハハハ」
 タムとの会話は、〝言葉の比喩〟や〝世界観の違い〟で惑わされることが多いが、今回は普通に受け取ればいいだけだった。弦太郎は自分の考え過ぎとわかり苦笑した。
二人は山道を歩き出した。相変わらずタムのペースは速く、弦太郎は必死で追いかけなければならなかった。カモシカのように斜面を駆けのぼれるタムにとっては、それでもそうとうペースを落としてくれているのだろうが、一般人にしてみれば大変なスピードだった。
弦太郎はタムの背中を追い、先ほど彼に言った「決心」について考えた。タムは前回、呪術師になる条件として、すべてを捨て去る勇気が必要だと言ったが、弦太郎は正直、そのことに自信がなった。大学と両立させながらボチボチと呪術師の修行ができたらいい、という新しい習い事を始めるような軽い気持ちだった。それと、カイが十万バーツをポンと貸してくれ〝契約金〟の都合がついたので、その勢いでやってきたようなところがある。弦太郎は自分の軽率な対応で、真摯なタムを怒られせやしないか心配になった。相手は呪術師である。こちらが言葉に出さなくても、心の中を見透かされてしまうかもしれない。嘘はつかない方がいい。かといって呪術師に興味がないのかと問われれば、やはりすこぶる興味がある。
――自分の正直な気持ちは最初に伝えておかねば。
「先生、ちょっと――」
後方から声をかけ、先を歩くタムの足を止めた。
「なんだ、ウンコがしたくなったか」
「いや、違うんです。〝呪術師になる条件〟について、話しておきたいことがありまして・・・・」
タムは弦太郎と目を合わせると、ニッコリと微笑んで言った。
「呪術師になれば、お前の世界なんか吹き飛ばされるさ。いまは細かいことを気にするな」
タムはこれだけを言い、また淡々と歩き出した。弦太郎は自分の心を見透かされた気がして恐縮し、黙ってタムの後ろをついていった。

「――どうだ、一人で歩くより早かっただろ」
タムの家に到着した。時計を見ると、歩き出してから三時間しか経っていなかった。前回の帰り道、一人で歩いたときは九時間かかったことと比べれば、あっという間に着いたような気がした。
「さすがに先導者がいると早いですね」
弦太郎は息を切らしながら言った。タムは弦太郎の“GPS 機能付きの時計”を指差して言った。
「テクノロジーでは呪術師にたどりつけないぞ、ハハハハ」
弦太郎は前回の帰り道、この時計を頼りにして道に迷ったことを見透かされ、皮肉られたような気がした。
「さあ、中に入ってしばらく休憩だ」
二人は小屋の中に入り、床に腰を下ろした。相変わらずガランと何もない質素な室内である。しかし、なぜかここに入ると、心からリラックスできるから不思議である。
「先生、早速ですが、約束どおり、弟子入りする契約金十万バーツをお渡しします」
弦太郎はリュックの中から札束を取り出して、タムに手渡した。
「うむ――」タムは鹿爪らしくそれを受け取り、
「きちんと契約書を作ったほうがいいな」と意外なことを言った。
「先生、呪術師もそんな事務的なことをするんですか?」
「こういうことは世間のルールに合わせた方がいい。何か紙を持っているか」
弦太郎はリュックの中にゴソゴソと探った。
「何もない・・・・」
 苦しまぎれに財布を開けるとスーパーのレシートがあったので、却下されるに決まっていると思いながらもおずおずと差し出した。
「こんなものしかありませんが・・・・」
「ウム、それでいい――」意外にもタムはレシートを受け取った。
「何か書くものはあるか」
「は、はい」
 タムはペンを受け取ると、レシートの裏に『本日、貴方は呪術師になる契約を結びました』と記して、弦太郎に渡した。弦太郎は、この契約書にどういう意味があるのだろうと、レシートを見つめながら考えた。タムは弦太郎の戸惑った様子を見てケラケラと笑い出した。
「冗談だ。真剣になるな。これは人間の儀式のパロディーだ。呪術師はこんな面倒なことはしない。ハハハハ」
 タムの冗談だった。弦太郎は肩透かしを喰らわされた気がした。
「弦太郎、もっと気楽になったらいい。呪術師の道がどんなに険しくとも、緊張したり固くなったりしてはけない。それでは前に進めなくなる」
「はい」
弦太郎はそれならばと、注意されることを前提に、脚を崩して大胆に座った。
「そうだ、それでいい、形にこだわってはいけない。礼儀作法なんて、人間が造った便宜上のものだ。そんなもの呪術師には必要ない」
 無礼が容認され、弦太郎は気楽な気持ちになった。肩の力が抜けたら、朝言われた“イニシエーション”のことが頭に浮かんできた。
「それで、先生――、朝、言っていたイニシエーションとは、どのようなことをするんですか?」
「イニシエーションのことは後で説明する。その前に、〝呪術師の掟〟を説明しておかないといけない。以前、少しだけ話したが、重要なことなのでまとめて説明する」
「〝呪術師の掟〟ですか」
 弦太郎はその言葉を聞き、呪術師の一員になる誇らしさと重圧を同時に感じた。
「呪術師の掟は三つある。まず一つ、呪術師に弟子入りしたことを誰にも言ってはならない。もちろん、ワシのことを含めてな」
「もちろん、誰にも話していませんし、話しません」
「二つ目に、師からの“教え”も誰にも言ってはならない」
「先生の言葉ということですか?」
「そうだ。教えの言葉は薬にもなれば毒にもなる。崇高なものであり、危険なものだ。その秘密を誰にも明かしてはならない」
「はい」
「三つ目に、呪術を用いて人間に危害を加えてもいけない。呪術は神聖なものだ。それを汚すような行為は呪術師の力を失う原因になる」
「はい、呪術は人前では絶対使いません。――それだけですか?」
「それだけだ。守れるな」
「もし守れなかったら?」
「それはお前の死を意味する」
「先生がぼくを殺すということですか?」
 弦太郎はおののきながら言った。
「呪術師は無益な殺生はしない。人間よりも慈悲深い存在だ。ワシは何もしないが、お前のもとに〝死神〟がやってくるだろう」
「死神? それはどういった存在なんですか?」
「それはいい。あとあとお前も何度か目にするだろうから」
「なんか気味が悪い。もう少し死神について詳しく教えていただけませんか?」
「余計な観念を植え付けると前に進めなくなるから、今は知る必要がない」
 タムは何も答えないという態度をはっきり見せた。
「わかりました――」
 会話が途切れ、二人は暫し黙って寛いだ。
「――それじゃあ、そろそろイニシエーションを始めるか」
タムは弦太郎に鋭い目線を注ぎ言った。
「先生、イニシエーションとは・・・・」
「〝先生〟ともう呼ぶな。お前とワシは一対一の関係だ。これから〝師匠〟と呼ぶんだ」
「は、はい――、師匠、イニシエーションとは、滝に打たれたりとか、土に埋められたりとか、暗闇の中に放置されたりとか、そういった特殊な儀礼を意味するんですよね?」
「ハハハハ、そんな荒っぽいことはしない。薬を飲むだけだ」
「薬?」
「そう、修行はイニシエーションが終わってからだ。イニシエーションは薬を飲んで寝ているだけだ」
「それだけですか。簡単そうですね」弦太郎はホッとして言った。「薬を飲んだ後、絶対寝ていなくっちゃいけないんですか」
「体に異常が現れるだろうから、安静にしていなくっちゃいけないだろう。まあ心配は何も要らない」
「もしかして、今日、イニシエーションを始めるんですか?」
「そうだ」
「今からですか?」
「なにか問題でもあるのか」
「いや、問題というか、ちょっと心配が・・・・。どれくらいの期間、薬を飲んで寝ていなくちゃいけないんですか」
「お前の体の反応次第だから、誰にもわからん。一日で終わるかもしれないし、一年かかるかもしれない」
「一年! それは大変だ。ぼくとしては、休みの土日で終わらせたいんですが」
「土日が休みというのは、人間が作ったルールだろ。そんなせせこましいルールは呪術師にはない。呪術師は自然の法則に則って生きている。自然の法則は、お前が頭で考えているほど都合よく進まない」
弦太郎はなるべく学校を休みたくないという旨を話そうとしたが、タムに怒られそうな気がして口を噤んだ。
「始めるか」
「師匠、その前に。ちょっとだけ質問があるんですが」
「なんだ?」
「師匠は〝人間〟とか〝呪術師〟とか、よく言いますが、師匠の言葉を聞いていると、人間と呪術師というのは、別の生き物みたいに聞こえますが、一体どういう概念なんですか?」
「それを説明しておく必要があるな。――人間と呪術師の究極的な違いは、人間は魂だけの存在に対して、呪術師は〝魂〟と〝力〟を持っている。二つの魂を持っていると言ってもいいだろう。だが、それは二倍の命があることを意味しない。呪術師は、肉体が失われても死ぬし、力が失われても死ぬ。だから、人間以上に繊細な生き物といってもいいな」
「二つの魂ですか」
「観念的には掴めないだろうが、呪術師になれば実感としてわかってくる。いまはそれ以上突き詰めなくてもいい」
「はい」
「他に何か質問はあるか」
「いいえ・・・・」
「それじゃあ、ワシはイニシエーションの準備をする。お前はここでゆっくり休んでいろ」
「先生、いや師匠、その前に、ぼくはお腹が空いてるんですが」
「我慢しろ。空腹でイニシエーションに臨んだ方が効果が高い」
タムは部屋から出て行った。弦太郎は一人になると、床にゴロリと横になりタムの言葉を反芻した。
――呪術師とは、おれの持っていた概念とまったく違うようだ。人間とはもう全く別の生き物、別の種になってしまうのか。いや、人間を超えてしまうということなのか。確かに師匠の言動を観察する限り、もう人間という領域を超えているような気がする。しかし、薬を飲むだけで、軽々とあのような能力を身につけられるものだろうか。学校の勉強さえ満足にできないおれに、そんなことできるようになるのか・・・・。
 ボンヤリと考えているうちに、山道を歩いた疲れもあって眠りに落ちてしまった。

「弦太郎、起きるんだ。イニシエーションの準備は整ったぞ」
タムに体を揺すられて、弦太郎はハッと目を覚ました。
「イニシエーションですか。ん?」
弦太郎は薬草の臭気に気づいた。
「ずいぶん濃厚な臭いがしますね」
「特別な薬草を二時間煮込んで作った秘薬だ」
屋外の土間から漂ってくる臭いなのに強烈だった。
「じゃあ、イニシエーションを始めよう。いまから〝呪術師の秘薬〟を持ってくるから、秘薬に失礼のないよう姿勢を正すんだ」
「薬に姿勢を正すんですか? ハハハハ、それはすごいですね」
 弦太郎が笑いながら言うと、タムは真面目な表情で戒めた。
「ワシは冗談を言っていない。真剣に言ってるんだ。“秘薬”にたいして失礼な態度をとったら恐ろしいことが起こる。気を引き締めろ」
「はい――」
タムに威圧され、弦太郎は背筋を伸ばして正座をし、姿勢を正した。
「そうだ、粗相がないように注意しろよ。いまから〝秘薬〟と対面する。秘薬の前では無駄口を叩いてはいけないし、姿勢を崩してもいけない。ワシが秘薬を持って入ってきたら、お前は礼をして、頭を下げた状態のまま合図するまで絶対に頭を起こしちゃいけない」
「は、はい」
タムは屋外へ出て行った。弦太郎はこれから何が起きるのか、まったく予測がつかなかった。先ほどは契約書を作るという冗談を言ったかと思えば、今度は秘薬に対し礼儀を守れという。冗談なのか、本気なのか、どういうことなのだろう。
「――入ります」
タムは金色の真鍮製の水差しのような容器を持ち、ドアをゆっくりと開けた。真面目な面持ちだった。弦太郎はタムに指示されたとおり、深く頭を下げ床にひれ伏した。タムは弦太郎の前に歩み寄り、彼の前に金色の水差しを音を立てずに置き、自分も弦太郎の横に平行して並んで腰を下ろして深々と礼をした。
 二人が礼をした状態のまま数分が経過した。弦太郎はタムの様子をチラチラと窺ったが、タムはなかなか頭を上げる様子がない。水差しからは薬草を煮込んだ鼻が曲がるような臭いが漂ってきた。
ようやくタムが静かに頭を上げた。それに倣って弦太郎もゆっくり頭を上げた。儀式の段取りを具体的に何も聞いていないので弦太郎はどう振舞っていいかまったくわからなかった。タムとチラリと目が合ったので、「師しょ――」と小さく声をかけようとすると、タムは「まだ声を出してはいけない」と、目で合図を送ってきた。
タムは秘薬の入った水差しの前に蝋燭を立て火をつけた。まだ時間的に暗くなる前だったが室内は薄暗いので、蝋燭のオレンジの炎が室内にパッと眩しく広がった。二人は黙って蝋燭の炎を見つめた。炎は生命をおびた生き物のように揺れ動き、絶え間なく大きさを変化させた。そのまま一時間近く経過して、蝋燭が溶け切ろうしたとき、タムが立ち上がり、部屋の隅にあった箱からもう一本蝋燭を取り出し、消え入る前の蝋燭の炎を新しいものに移した。二人はつづけて炎を黙って眺めた。そうこうしているうりに、あたりは暗くなりだした。
タムは三本目の蝋燭に炎を差し替えると屋外へ出て行き、大きめのカップを手に持ち戻ってきた。タムは弦太郎の斜め前に腰を下ろし、秘薬の水差しの前にカップを置いた。そのカップはどこに保管されていたのか陶器製の高級そうなものだった。
長い時間沈黙していたタムがようやく口を開いた。
「秘薬はお前に許可を出してくれた。味わいながら感謝して飲むように」
タムは水差しからカップへ秘薬を注いだ。弦太郎はカップを両手で持ち、秘薬をじっと眺めた。茶色く濁った液体がまるで生きているかのように小さく波立っている。臭いがきつかったので思わず顔をしかめそうになったが、秘薬に対し失礼な態度をとるなと言われていたので、平然とした表情を崩さず口をつけた。一口飲み込んでじっくり味わってみると、経験したことのない混沌とした味が口内に広がったが、飲み込めないほど酷い味ではなかった。弦太郎はタムに指示されたとおり、一口ごとに感謝しながらコップの秘薬を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
空になったコップを床においた。胃から秘薬の養分が体に急激に浸透しているようで、体が異様に熱くなってきた。
タムが再び空のコップに秘薬を注いだ。「またですか――」と、一瞬口から出そうになったが、言葉をぐっとこらえた。気を落ち着けて合掌し、平然とした面持ちで、またその秘薬を一口一口飲み込んでいった。この調でいくと、この水差しに入った秘薬はすべて飲まなければならなそうだ。水差しの大きさから量を推測すると、二リットルほどありそうである。
予想どおり、コップの秘薬を飲み干すとまた注がれ、それを飲み干すとまた注がれた。弦太郎は額から汗を流しながら水差しの秘薬を飲み干していった。
――戦いは終わった・・・・。
長い時間をかけてとうとう水差しの秘薬を空にした。弦太郎は飲み切ったコップを床に置くと、心身ともに虚脱するのを感じた。すべて飲みきるのに二時間ほどかかった。タムをちらりと見ると、ニッコリと微笑んだ。
「よくやった。もうリラックスしていいぞ」
その言葉を聞いた瞬間、弦太郎は「ああ、疲れた――」と言って、脚を崩して大の字に寝転んだ。
「これでイニシエーションは終わりだ。あとは種から芽が出るのを待つだけだ」
「種から芽が出る?」
 弦太郎はすぐに上体を起こした。
「そう、これは呪術師になるための種まきのようなものだ。元気な芽が出てくれればいいのだが」
弦太郎はタムが言う言葉の意味がわからなかった。
「どこから、どんな芽が出てくるんですか?」
「芽が出るというのは比喩だ。楽しみだな、ハハハハ」
弦太郎は何のことだかさっぱり想像できず、とくに楽しみにも思えなかった。
「お前の体は疲れきっている。お前の意識は肉体の疲れに気づいてないかもしれないが、今晩は早く寝て体を休めた方がいい」
「わかりました。もう寝ます」
弦太郎はタムの言いつけに従い、持ってきた寝袋に包まって早々と就寝した。


   十三
早朝、弦太郎は何やら不快な気分を感じ目が覚めた。視界に入った天井がグルグルと回り出し、思わず目を固く閉じた。体全体が風呂でのぼせたように熱く、関節の節々が痛んでいる。目まいが治まったようなので半身を起こして額に手を当てた。高い熱がある。室内をボンヤリ見回すと、壁の隙間から朝の新鮮な光が差し込み明るくなっていた。もうすでにタムはいなかった。
弦太郎は激しい喉の渇きを感じ、床から立ち上がって屋外に出た。目まいが強く、まるで走行中のバスの通路を歩いているようである。土間に水を入れる壷があったので、そこから柄杓で水を掬ってガブガブと飲んだ。喉の渇きは異常に強くいくらでも飲めた。
背後からの足音に気づき振り向くと、タムが水の入った桶を両手に二つ持って山の斜面からのぼってきた。タムは弦太郎の顔を一目見て言った。
「反応が出ているじゃないか、なかなかいい調子だ」
「何の反応ですか?」
「もちろん昨日の秘薬の反応だ。なるたけ動かない方がいい。安静にしていろ」
弦太郎は床に戻って、また寝袋に包まって横になった。少し動いただけなのに心臓の鼓動が激しく高鳴った。体がいつもとはまったく違っている。頭痛が強くなり、目を開けていられなくなった。
「――さあ、食べるんだ」
タムがお粥を作ってもってきてくれた。
「師匠、熱は今日中に下がるでしょうか。明日、学校があるので、午後には下山したいんですが」
「まだお前はそんなことを言ってるのか。人間のルールに執着するなと言っただろ。それに、今の体の状態でどうやって下山するんだ。無理に決まってるだろ」
「やっぱり無理ですか。じゃあ、しょうがない、諦めます」
 言ってはいけなとわかっていたが、学校のことがどうしても気になり、思わず口から出てしまった。
「呪術師の道を歩くときは、焦ったり、急いだりしちゃいけない。いかなる状況でも平静を保ち、自分の行動に対して的確な判断を下さなければならない。いまは安静にしていることだ。腹も減っているだろ?」
「ウウム――、頭が痛くて、お腹が減っているのかどうかよくわかりません。食べれば元気になるんでしょうか」
「お前は決して病んでいるわけではない。秘薬によって体が変化しているだけだ。いまの状態はほんの前兆にすぎず、さらに反応が出てくるだろう。体は食物を欲しているはずだから、今のうちたくさん食べた方がいい」
「さらに、反応ですか・・・・」
「そうだ。――枕元に水の入ったポットも置いておくから、喉が渇いたらどんどん飲むんだ。脱水症状を起こしてしまうからな」
弦太郎はお粥を食べると、しばらくぐったりと眠った。目が覚めると、タムが言ったように、さらに熱が上がり頭痛が激しくなった。
「――おお、頭が痛い、頭が割れる」
苦痛を大声で訴えったが、タムは外出していていなかった。暗い室内に一人ぼっちである。一人でいると異常に不安な気持ちになった。
「師匠、師匠――」 
呼んでも返事がなく、外にいる気配もなかった。
「ああ、どんどん具合が悪くなっていく。こりゃ、大丈夫かなあ」
数時間経過して、タムが家に戻ってきた。
「どうだ、体の調子は?」
「熱が異常に高くなっています。師匠、体温計ありますか?」
「そんなものあるはずないだろ――」タムは殺風景な室内を見渡して言った。「そもそも体温を測ってどうするつもりだ?」
「熱があるなら体温を測りたいじゃないですか。客観的に確かめた方がいいでしょう?」
「確かめたところで熱は下がらんだろ。大人しく寝ていろ」
「それもそうですね・・・・」
昼過ぎて、またタムがお粥を作ってもってきてくれた。
「さあ、昼ご飯だ」
「やっと、お昼ですか。ずいぶん長い時間が経っているような気がしますが」
弦太郎にとって、一日の時間が非常に長く感じられた。
「時間は万物に平等に流れている。時間が長く感じるのは、お前の気が急いているからだ。先は長い、落ち着いて悠々と構えろ」
「熱はまだまだ続きそうですか?」
「自分の体に訊け。いつまで続くかワシは知らん。だが秘薬は、もっともっとお前の体を改造していくだろうよ」
「もっとですか。いまでも頭が割れるように痛いんですよ。これ以上改造されたら死んでしまいます」
「お前は大げさだな、ハハハハ」
「やっぱり、何か薬を飲んだ方がいいと思うんですが」
「秘薬の反応だと言ってるだろ。病気じゃないんだ。人間の常識にとらわれず、自分の体の変化に耳をすませろ。これも自然の神秘の一つだ」
「そんな余裕がないです。頭が割れそうです。――おお、死ぬゥ」
「そんなに簡単に死にゃあせんよ。さあ、お粥を冷めないうちに食べるんだ」
タムは弦太郎の半身を抱え込むように起こした。弦太郎の頭はガンガンと木槌で叩かれるように痛んだ。
「飯か・・・・」
 このときも食欲をまったく感じなかったが、お粥に少し口をつけると、意外にも全部平らげてしまった。
「お前の胃袋は食物を欲している。食べれるうちにたくさん食べた方がいい。胃袋が食べ物を拒絶するようになるかもしれないからな」
食事を摂った後、さらに頭が痛くなり、弦太郎は呻き声をあげた。
「うおお、頭が、割れる。助けてェ」
「それはなかなか大変だな」
タムは、寝ている弦太郎の隣で、乾燥させた薬草の仕分け作業をしながら素っ気ない対応をした。
「師匠、助けてください。師匠、頼みます。これ以上我慢できません。解熱剤をください。師匠」
「そうか、世間には解熱剤という薬があるのか。そんなものを使ったら、せっかくの体の反応を台無しにしてしまう。忍耐するのみだな、ハハハハ」
「師匠はどうして、そんなにぼくを痛めつけるんですか」
弦太郎は半狂乱になって言った。
「ワシは何も痛めつけてないだろ」
「いや、師匠はぼくの精神も肉体も破壊している。ぼくは今まで、趣味で世界中旅をしてきて、いろんな文化に接して、いろんな人に会ってきましたが、師匠ほど荒っぽく価値観を壊してくる人を知らない」
「世界中旅をしたって、どこへ行ったんだ?」
「インド、エジプト、チベット、ネパール、ブータン、中国――、全部行きました」
「どうしてそんなところへ行かなくちゃいけなかったんだ?」
「どうしてって・・・・、いろいろ見たいし、知りたいし、体験したいじゃないですか」
「それでどうなったんだ?」
「いろんな文化や慣習を知り、自分の持っていた観念を壊し・・・・」
「だから今、呪術師の道を歩き、それをやってるじゃないか」
「うう・・・・。でも、師匠はやり過ぎです」
「お前は今まで何も学んでこなかったんだ。空間から空間へ移動しただけでな」
「そんなことないです。ぼくは旅を通じていろんなことを学びました」
「虚しさから逃げ出したかっただけじゃないのか」
「虚しさ・・・・。ああ、それだ、ぼくは何事も虚しかったんだ」
「それだけでもなさそうだな。お前は気質的に一箇所に定着できない性質がある」
「一箇所に定着できない性質? ああ、確かにそれはあるかもしれません。父が日本人で母がタイ人なので、幼少期はタイで過ごし、中学、高校と日本で過ごし、それから大学は単身でタイに戻り・・・・。そんなふうに子供の頃から移動が多かった境遇のせいで、一箇所に定着できない性格になってしまったのかもしれません」
「境遇から養われただけではなく、お前は資質的に〝風〟の要素が強い」
「風の要素? それは何なんですか?」
「フワフワと飛び回っていないと気が済まない性質だ。だからこんなところまで飛ばされてきたんだろう、ハハハハ」
「いや、ぼくは自分の意志でここにきたんです。フワフワときたわけではありません。――ああ頭が痛い、割れそうだ。死ぬゥ」
「物事が永遠につづくことはない。必ず終わりがくるものだ。人生には性急に動かなければならない時期もあるが、じっと待たなければならない時期もある」
「早く終わりがきて欲しい」
 弦太郎は自力で上体を起こして水を数杯飲み、床に倒れるように寝転んで瞼を閉じた――。

弦太郎の熱は一日では治まらず、三日が経過した。
四日目の朝、目覚めたとき、頭痛がまったくしなかった。
「頭がすっきりしている」
 床に座ってしばらくボンヤリした。台風が過ぎ去ったあとの静寂に似た心地だった。寝袋から抜け出て屋外に出た。樹木の枝葉の隙間から朝陽が差し込み、鳥たちのさえずりが山を賑わしていた。弦太郎は朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、肺に溜まっていた邪気を命一杯吐き出した。
――秘薬の反応は終わったのかな。さて、これからどうするか?
タムはいつも何時に起床し、どこへ行ってしまうのか、毎朝、弦太郎が目覚めたときには室内にいなかった。
――師匠の指示待ちか。
 そのとき、急激に下っ腹がキリキリと痛み、強い便意を感じた。急いで藪の中に入ってしゃがみこむと、肛門から水のような便が噴出した。よく考えてみたら、高熱にうなされている間、一度も大便に行っていなかった。久しぶりに出たと思ったら今度は下痢である。便秘の後に下痢とは変な話である。やはりタムの言うとおり、特殊な体に変化しているのだろう。
しばらくしてタムが竹篭を背負って戻ってきた。
「師匠、おはようございます。今朝、熱が下がってすっきりしています。肉体改造は終わったようです。今日あたり下山しようと思うんですが、どうでしょうか?」
それを聞いたタムはニヤリと意味ありげに笑った。
「まだまだ安静にしていた方がいいんじゃないか。熱が下がったといっても、体の他の部分は大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ」
弦太郎は自信ありげに言い、余裕の笑みをつくろった。その直後、またキリリと下っ腹が痛み、急いで草むらに飛び込んだ。用を足し終え、タムに正直に報告した。
「実は今度はひどい下痢なんです。どういうこと何でしょうか?」
「秘薬の仕業に決まってるだろ。下山どころではないな、ハハハハ」
「フウー」
弦太郎は深く息をついた。確かにこの状態ではどうすることもできない。便意が起きた瞬間、漏れ出てしまうような強烈な下痢である。まだ山から下りられるわけがない。
「下痢が治まるまで、飯は食べない方がいいな。今日からは飯をやめて、一日に三回、薬用酒を飲んだ方がいい。腹を温めて寝ているんだ」
高熱にうなされていたときのように体を動かせないことはなかったが、やはり安静にしていなければならなかった。一時間に一回の割合で定期的に便意を催し、それが一日二十四時間、昼夜問わずにつづいた。便意がきた瞬間起き上がって、すぐに排出しなければならなかった。
「弦太郎、排便するときは一箇所に集中させるなよ。山全体に公平に肥料を撒いてやると山が喜ぶ、ハハハハ」
「肥料撒きですか」
「それと、草むらに入るのはいいが、毒蛇に尻を噛まれないよう気をつけろよ」
「やっぱりトイレがあった方がいいですね。安全だし、便利だし、清潔だし、明るいし――、雨が降ったときが一番困るんですよね」
「お前の下痢のためだけにトイレを建てられないだろ。ワシらのご先祖様は何万年もトイレなんかなかったんだ。家の外が全部トイレだと思えば、どんなトイレよりも贅沢だぞ。無限に広いし、無限に天井が高い、ハハハハ」
下痢が始まり三日も経つと下痢に慣れ、下痢をすることがありふれた日常になった。弦太郎はこのまま死ぬまで下痢が止まらないような気がした。
「師匠、本当に治るのでしょうか。もしかしたら、山の水が胃に合わず、下痢しているのかもしれません」
 弦太郎は心配になって言った。
「ワシは下痢なんかしていないだろ」
「師匠は人間離れしているじゃないですか。特殊ですよ」
「熱を出したときも、しばらく放っておいたら治っただろ。下痢もしばらく放っておけば、通り過ぎてゆくものだ」
「師匠も呪術師になるときに、こんな下痢を経験したんですか?」
「人によって症状は違うから、他者を参考にすることはできない。お前の場合、下痢が起こった、ただそれだけだ。心配するな。お前だけが苦しんでいるわけではない。呪術師はそれぞれ皆、特有の試練を持つものだ」
「じゃあ、師匠も呪術師になるときに、同じように師匠に秘薬を飲まされたんですか」
「もちろんだ。呪術師は誰もが師匠がいるし、人間だった時代がある。生まれてから呪術師だった者はいない。呪術師は二度生まれるんだ。最初は人間として生まれ、師匠が現れて呪術師として生まる。秘薬は呪術師になる第一歩として誰もが経験することだ。だからイニシエーションと呼ばれる」
「秘薬は呪術師の秘密なんですね。こんなこと一般の人は誰も知りませんよ。――そもそも呪術師という存在は、世の中に何人ぐらいいるんですか」
「そうだな、まず知っておくべきことは、呪術師にはいろんなレベルがあるということ。高い知性を持った呪術師は、相手を呪術師であるかどうか見分けることができるが、低い知性の呪術師は、相手が呪術師であることを見分けられない。ワシが観たところ、市内にも呪術師はウロチョロしている。何人なんて、具体的な数字は知らんけどな」
「そんなに呪術師っているもんなんですか」
「人間はまったく気づいていないが、意外といるもんだ」
「そうだったんだ。普段の生活の中にも呪術師はいたんだ。じゃあ、市内にいる呪術師は普段どうやって生活しているんですか?」
「それは呪術師によって様々だ。焼き鳥を売っている奴もいれば、バスの運転手をしている奴もいるし、アパートを経営している奴もいるだろう。庶民として普通に生きているさ」
「人間にバレることなく生活しているんですね。そもそも、呪術師になる人は皆、どうやって師匠を見つけるんですか?」
「皆お前と同じようなものさ」
「病気からですか?」
「いや、偶然知り合うんだ。呪術師になれる素質のあるものは、どこかで偶然、師匠に巡り会うものさ」
「自分から呪術師になりたいって手を上げてもダメなんですね」
「そういう奴に限って素質がないからな。呪術師モドキになるぐらいがオチだろう」
「師匠はどうやって、自分の師匠と巡り会ったんですか」
「お前と同じように、風に吹かれて偶然知り合ったんだ。運命的なものだな」
「もう少し具体的に教えてくださいよ」
「それ以上は言う必要はない。〝呪術師の掟〟でお前に教えただろ。誰であろうと、それは弟子であろうと、師匠から授かった言葉や経験は軽率に話してはいけない。それは個人的なものだ。他者の経験の観念が記憶に入ると、呪術師になる過程でつまずいてしまう懼れがある。他者のことなんかに興味を持たないで、お前は自分の経験と向かい合えばいい。それだけでも大変なことなんだから」
そんな話をしているとき弦太郎はまた便意を催し、外に駆け出して行った。何も食べていないのに下痢は止まらない。弦太郎は排便しながら、呪術師に向かっているのか、奇妙な生活を送っているだけなのか、疑心暗鬼な気持ちになった。


  十四
弦太郎はこの日の朝、目覚めてから日中まで下痢をまったくせずに過ごした。昨日までは一時間おきに排便しなければならなかったのに、半日も何もなく過ごせたことは奇跡に思えた。そしてついにオナラが出た。オナラが出ることは今までは不可能だった。オナラが出ると同時に下痢が出てしまうからだ。このオナラの音は下痢が完全に快癒したことを意味していた。下痢がつづいて五日後のことだった。
――よかった・・・・。
タムの言ったとおり、下痢も経過していく種類のもので秘薬の反応だった。ホッとしたのも束の間、次はさらに厄介な敵が現れた。精神が極度に混乱し不安で不安でたまらなくなった。弦太郎は、なぜ自分がこんなに不安になるのか理由を考えたが、理由はまったくわからなかった。漠然とした不安な気持ちが胸を圧迫し、居ても立ってもいられない。屋外へ飛び出してタムを探した。
「師匠、師匠――」
大声で叫んで、山を歩きまわった。しかし、この広い山の中でタムを見つけることは不可能だった。藪の茂みの中へ分け入ってしばらく歩くと、今度は道に迷うのではないかという不安に襲われた。藪の中は日差しが遮られ薄暗いので、不安な気持ちが助長される。それに長い下痢で免疫力が下がっているのか、日中気温が三十度以上あるのに、寒々とした冷えを感じる。その肉体的な冷えによって、さらに不安感が昂進し恐怖に変わっていった。体から冷や汗が出てきた。
「死、死ぬ」
弦太郎は魔物から逃れるように、無我夢中で走って小屋に戻った。「師、師匠――」タムの姿があった。「死んでしまいます。助けてください」
弦太郎は青ざめた顔で舌をもつれさせながら言った。
「ずいぶん、切羽詰った顔をしてるじゃないか。どうしたんだ?」
「何だかすごく不安になったり恐怖を感じます。それに寒気があり・・・・」
「下痢は止まったのか?」
「はい、どうにか止まったようです」
「それはよかった。ずっと飯が喰えなかったから体も弱っているだろう。すぐに飯を作ってやる。寝袋に入って待ってろ」
 弦太郎は屋内でまたポツンと一人になった。一人になると頭の中にネガティブな思考が溢れ出し、今度は悲壮感が襲ってきて自分が憐れに思えた。「飯ができたぞ――」タムは食事を持って中に入った。「弦太郎、何を泣いているんだ?」
弦太郎は寝袋に包まりながら床に座って泣いていた。
「もう、ぼくは駄目です・・・・。愚か者です。何か馬鹿みたいです」
「どうして愚か者なんだ?」
「こんな山奥にやってきて、学校にも行かないで病気になって、ほんとに愚か者です」
弦太郎は涙をポタポタと流した。タムは床に腰を下ろし、やさしく微笑みながら弦太郎の背中に手を当てた。
「弦太郎、よく聞け。これは重要だ。呪術師の秘薬は、とうとうお前の心の領域の改造に入ったようだ。肉体も変化すれば当然心も変化する。今、心が下痢を起こしているような状態だ。お前の心はお前のものであって、お前のものではない。お前の感情はお前のコントロールの範囲を超えて暴走している。そのことをまず理性で理解しろ」
「自分の心が自分のものじゃないと言われても、どうすればいいんですか?」
「感情に捕まっちゃいけない。もし悲しみがきたら、悲しみを客観的に観察しろ。そうすれば悲しみは過ぎてゆく。悲しみから逃げ出そうとか、意味を見つけて解釈しようとかするな。もし、そんなことをしたら悲しみに巻き込まれて、いまのお前のように精神混乱に陥ってしまう」
「そんな、自分の感情を客観的に観察するなんてできるものでしょうか」
「冷静になれば、難しいことではない」
「冷静になればいいんですか」
弦太郎はその場では納得したような気持ちになった。しかし、しばらくしたら、タムに洗脳されて騙されているのではないかという不信感がムクムクと頭をもたげ出し、無性に苛立ってきた。タムを睨みつけて、大声で怒鳴った。
「師匠、師匠の言うことはやっぱりわけがわかりません。もしかして、ぼくを騙しているんじゃないですか。そうに違いない。あなたはぼくから金をふんだくって騙しているんだ。なんてひどい人なんだ!」
 タムは弦太郎が興奮すればするほど、逆に冷静な態度になり、慈悲に満ちた眼でなだめるように言った。
「弦太郎、さっき自分の感情を客観的に観察しろと教えただろ。自分の感情に理由付けをしてはいけない。お前の感情は壊れているんだ。そんなものを信用して他者に当たるな。怒りの感情がきたら、そいつを静かに見守るんだ。そうすれば下痢や熱がお前から通り過ぎてしまったように、過ぎて去ってゆくものだから」
「そうなんですか・・・・」
タムの言葉には説得力があった。弦太郎はタムに諭され、冷静な気持ちが戻ってきた。
「感情が高ぶると呼吸が荒くなる。感情が高ぶったら目を閉じて深呼吸しろ。深く息を吐ききるんだ」
弦太郎はタムから指示されたとおり、目を閉じて呼吸を整えた。しかし、しばらくしたら、弦太郎の脳裏にタムに対する疑いの気持ちが湧き出し、怒りで気が狂いそうになった。弦太郎は狂ったように床を激しく手で叩いた。
 バン、バン、バン――
「弦太郎、怒りを観察するチャンスだ。観察すれば怒りは消えてゆく。冷静になって怒りを見守れ」
タムは弦太郎の背中を撫でながら言った。弦太郎の心の中に湧き起こった怒りの感情はスーっと消えていった。怒りが消えたら今度は、自分が狂人になってしまったのではないかという不安な気持ちになった。
「狂った! 助けてっ!」
大声で叫んで家から飛び出した。が、外に出たら、凍え死ぬような悪寒がしてブルブルと震えた。すぐに小屋に戻ってまた寝袋に包まった。
「師匠、助けてください。怖いです。寒くて死にそうです。助けてください!」
弦太郎はパニックになって叫んだ。タムは弦太郎の様子を冷静に観察しながら、淡々とした口調で言った。
「弦太郎、さっきから言ってるだろ。自分の感情を見守れとな。そうする以外、お前には進むべき道がないんだ。感情に巻かれたら、それこそお前が言うように本当に狂ってしまうぞ。自分の感情についてゆくな。傍観するんだ。――まず、このように座れ」
タムは半結跏の形で座って見せた。弦太郎はそれにしたがった。
「次に両手の平を広げて上に向け、膝の上にのせろ。背筋を伸ばして、肛門を閉め、目を瞑って自分の呼吸を見守れ。呼気、吸気、それを観察するんだ。もし感情が襲ってきたら、その感情を観察しろ。思考を膨らましてはいけない。雲の流れを見つめるように思考を傍観するんだ。感情が収まったらまた呼吸を観察しろ。呼気、吸気とな」
「はい――」
弦太郎はタムに言われるままに瞑想を始めた。しかし、あらゆる感情が弦太郎の心に去来し、ハリケーンが吹き荒れるように彼の心を破壊していった。肉体の苦痛は我慢が効くが、精神の苦痛は我慢が効かない。
――ああ、もう駄目だ・・・・。
 瞑想の形をとりながら失神しそうになった。

そんな荒れ狂った精神状態のまま三日が過ぎた。弦太郎は、敵が外にいるのではなく、自分の心の問題だったことに少しずつ気づき始め、どうにか自分の感情を見守れるようになってきた。しかし、心の嵐が強烈に吹き荒れると、断崖絶壁の崖の縁を歩いているような生存ぎりぎりの危うい状態に追い込まれ、その都度、発狂することを覚悟しなければならなかった。
夜になり、弦太郎が眠りに着こうとしたとき、手の平ぐらいの大きなの黒い蜘蛛が天井からバサバサと十数匹落ちてきた。「ワーッ」、弦太郎は飛び起きて、落ちてきた蜘蛛を見回した。しかし、床に蜘蛛はどこにもいなかった――。次の日の昼、ウトウトと昼寝をしていると、壁一面から大量のミミズがニュルニュルと噴出してきた。
「おいおいおい・・・・」
 弦太郎は目を覚まして半身をパッと起こし後ずさりした。大量のミミズは一箇所に集結し、それが毬のような球になったかと思うと、今度はそれが黒猫に変わって、彼の足元に近づいてきた。その黒猫を手で触れようとした瞬間、黒猫はスッと消えた。弦太郎は両手の平で自分の頬をパンパンと叩いた。夢ではない。
「師匠――」
弦太郎は外で家事仕事をしているタムにそのことを報告した。
「ハハハハ、気にするな。それは幻覚だ。そんなものに意味はない。感情の暴走と同ンなじだ。執着せず、放っておけ」
「でも、ものすごくリアルでしたよ。リアルというか、いまこうして見える現実と変わりないんですよ」
「脳のトリックだ。深入りすると、お前は自分の心が造り出した幻覚に騙されてしまう。心の中には〝死にたい〟という無意識的な感情もある。下手すれば、そういった感情が幻覚が造り、お前を死に導くかもしれない。何が起きても冷静に見守るんだ。幻覚は幻覚だ。幻覚の特徴は持続しないこと。それを観察していれば消えてゆく」
「幻覚ですか。じゃあ、そこにいる師匠は幻覚じゃないですね。確かに本物ですよね」
「ハハハハ、ワシは本物だ。安心しろ」
タムは朗らかに笑ってこたえた。弦太郎は青く晴れ渡った空を見上げ、視覚に映る現実のリアリティーを観察した。よく考えてみれば、視覚というものも脳が作り出された映像である。『幻覚』と『現実』、両者を線引きして明瞭に分けることは困難なことだ。

「――弦太郎、弦太郎、起きて」
その日の夜中、弦太郎はカイの声で目を覚ました。目を開けるとカイが体を揺すっていた。
「迎えにきたわ。早くここから逃げ出しましょ」
「えっ、逃げる? こんな夜中にか?」
「声が大きいわ。お爺さんに見つかるでしょ」
弦太郎は隣で寝ているタムへ目をやった。
「いや、でも、師匠は親切にいろいろ世話してくれてるんだ。裏切るわけにはいかないよ」
「何言ってるのよ。いつまでこんなところにいるつもり。早く学校に戻らないといけないでしょ。留年したいの?」
「そうだな。確かにそのとおりだ。――でもカイ、お前、こんな山奥までどうやってきたんだ?」
「弦太郎がくるところなんか、すぐにわかるわよ。あなたこそよくこんな山奥まで一人でやってこれたわね。――さあ、お爺さんに気づかれないように静かに出て行きましょう」
「おっ、わかった」
弦太郎はそっと立ち上がり、カイと一緒に音を忍ばせながら外へ出た。夜空にはポッカリ丸い月が浮かんでいた。今晩は満月だった。カイが弦太郎の手を引っ張って先導し、二人は山の奥へ入って行った。
「カイ、道はわかるのか。大通りはこっちの方向じゃないと思うぞ」
「大丈夫。こっちに車が停めてあるから」
「そうか――」
弦太郎とカイは手を繋ぎながら真っ暗な山の中を月明かりを頼りに歩いて行った。
「カイ、ちょっと待ってくれ。寒い、異常に寒いんだ。何か着るものないか?」
「ないわよ。そんなものあるわけないでしょ」
弦太郎の体の冷えは強くなり、ブルブルと震えあがった。日中三十度の気温でさえも寒く感じるのに、夜の気温は二十度以下である。半そでのTシャツ姿で出てきたので、寒く感じて当然だった。
「寒い、寒い。死んでしまう。カイ、どうしよう」
 弦太郎は両脇を固めてガチガチと歯を鳴らしながらカイの方を振り返った。すると、忽然とカイの姿が消えていた。
「カイ? どこだ? カイ、おい――!」周りは夜の闇が無言で広がっていた。「カイ、カイ――」
弦太郎は大きな声で叫んだ。
――あれは幻覚だったのか・・・・。
ハッと、カイが幻覚だったということに気がついた。しかし、ずいぶん遠くまできてしまった。戻ろうにも道がわからない。
「寒い、寒い、どうしよう。どうやって戻ろう」
頭が混乱し、パニックになった。
「弦太郎」
そのときタムの声が遠くから小さく聞こえた。
「師匠」
 声の方向に大声で叫んだ。月光に照らされたタムの黒い影が見えた。
「師匠、こっちです」
 弦太郎が大きく手を振りながら叫ぶと、タムの影が近づいてきた。
「弦太郎、どこへ行くつもりだったんだ?」
「どこって・・・・」
「幻に導かれたんだな。馬鹿な奴だ、ハハハハ」
 タムはやさしく笑いながら、寝袋を弦太郎に巻きつけた。
「すみません、師匠。恋人に連れてこられたんです。姿も声もはっきりしていたので・・・・」
「お前の心が作り出したトリックだ。お前を死に導くな」 
タムは薬用酒を詰めた小瓶を弦太郎に渡した。
「これを飲んで体を温めろ。小屋に戻るぞ」
 タムに肩を抱きかかえられながら小屋に戻った。

カイの幻覚の事件を体験して以来、弦太郎は見えるもの、聞こえるものに慎重になった。あるときはオレンジの袈裟を着た見知らぬ僧侶が三人、壁に向かって読経していた。あるときは、床も壁も天井も緑の苔がぎっしり敷きつめられ、そこから水滴が一滴一滴したたり落ちてきた。またあるときは、蛾が何百匹と壁に張りつき、それがいっせいに飛びたって屋内を舞った。幻覚として出てくるものは不快なものが多く、そこから逃げ出したくなったが、幻覚それ自体には持続力がなく、じっと凝視するとフッと消えた。弦太郎はどんな不快なものであっても目を逸らさず見つめる努力をした。
その日、弦太郎は一日中まったく幻覚が起きなかった。しかし、まだ何か漠然とした不安感が胸を圧迫していたので、秘薬の反応が過ぎ去ったとは思わなかった。
夜になり、眠ろうとしたとき、どこからともなく花の甘い香りを鼻腔を刺激した。そのかぐわしい香りを嗅ぎながら眠りについた――。
弦太郎は丘の頂上にいた。丘は、山のように高い、巨大な四角い形の大きな一枚岩だった。弦太郎は地面に腰を下ろし周囲の景色を眺めた。空は快晴で、眼下には三百六十度、緑のジャングルが広がっていた。遥か遠くの地平線を眺めていると、ときおり涼しい微風が体を通り抜けていった。
西の空が朱色に染まり、太陽が地平線の彼方に沈もうとしていたとき、どこからか〝ピー〟という高音が響いてきた。空を見上げると銀色の小さな光が流れるように飛んでいるのが見えた。どうやら〝ピー〟という高音はその銀色の光から発せられているようだった。その音はなんとも美しい響きであるとともに、孤独な淋しさも感じられた。
銀色の光はその不思議な音色とともに、少しずつ弦太郎の方に向かってきた。距離が近づいてくると、その銀色の光は単なる銀色の球体ではなく、翼と尾があった。それは白く輝く鳥だった。
さらに姿かたちがはっきりと見える距離になると、その鳥があまりにも崇高で、気高い存在であることが認識できた。鳥はゆっくりと下降し、さらに弦太郎に近づいてきた。近づいてきてわかったことは、その鳥はあまりにも巨大な鳥だった。飛行機どころではない、もしかしたら山ほどの大きさがあるかもしれない。
白く輝く鳥は、ある一定の高さまで近づいてくると、弦太郎を中心にして旋回し始めた。弦太郎は中空で旋回する白く輝く鳥を恍惚となって眺めた。鳥の瞳は慈悲に満ちたやさしい光を宿し、こちらをじっと見つめていた。辺りは暗くなっていた。弦太郎は銀河宇宙の中で、鳥と一対一になっているような感覚に陥った。
鳥は幾度も旋回すると、キラキラとした黄金の粉を降らした。黄金の粉は、ゆっくりと雪のように舞い降り弦太郎を包み込んだ。鳥は次に、透きとおった球形の玉を落とした。玉は音もなくゆっくりと下りてきて、弦太郎は玉を両手でキャッチした。透明の玉を両手で握り締めて見つめると、あまりの美しさに思わず涙がこぼれた。
鳥は、弦太郎が透明の玉を受け取ったこと確認すると、ゆっくり旋回しながら少しずつ上昇し始め、宇宙の彼方へ消えていった――。
弦太郎は目を覚ました。朝陽が壁の隙間から漏れ出てているのが目に入った。弦太郎は目が覚めても感動で胸が高鳴っていた。
――あれは夢だったのか・・・・。
あまりにもリアルな夢だった。いま在る世界が現実なのか、見ていた夢が現実なのか、それが判別できないほどリアルだった。弦太郎は夢の余韻に浸った。
――幻だったのだろうか。夢なんだから幻に違いないが、なんてすばらしい幻なんだ。でも、師匠に言うと、幻に執着するなと注意されるだろうな。忘れようか・・・・。
「どうした、ボンヤリして」
タムが朝食のお粥を作って運んできた。弦太郎はタムの顔を見たらどうしても夢のことを話さずいられなかった。
「師匠、すごい夢を見ました。感動的な夢です。でも、所詮は幻ですがね」
「どんな夢だ?」
「大きな白い鳥の夢です。あまりにも大きくて、近づいてくると形もわからないぐらい巨大でした。その鳥は神々しく輝きながらぼくの頭上をクルクルと飛んでいました」
「ハハハハ、それで、その大きな鳥はどうしたんだ?」
「その鳥は宙を舞いながら、ぼくの目をじっと見つめてきました。その眼差しはやさしく、慈悲に満ちて、崇高でした。巨大な鳥なのにぼくはちっとも怖くありませんでした。非常に親しみを感じ、その鳥を見つめました。鳥は何かを訴えかけるようにぼくの頭上を旋回すると、キラキラと輝く光の粉を降らし、次に透明の玉を落としてきました。ぼくはそれをキャッチして握り締め――。ああ、すごい鳥だった。幻であってもすごかった。感動しました」
 弦太郎は話しているうちに歓喜がよみがえり、瞼に溜まった涙を指でぬぐった。
「それはよかったな」
「でも、所詮は夢ですがね。リアルな幻なんでしょう」
弦太郎は力なく笑いながら言った。タムはニッコリと微笑み、弦太郎の肩をポンと叩いた。
「よし、お前の中の種が発芽したようだ。ここでの生活も終わりだ。今日、山を下りるぞ」
 タムの口から意外な言葉が出て、弦太郎は戸惑った。
「えっ、今日ですか? 突然じゃないですか? どうしてですか?」
「お前が見たものは、幻ではない。それはガルーダだ。現実にいる神鳥だ。ガルーダがお前を仲間として認めてくれたんだ。これでお前は呪術師だ。いや、正確に言えば〝呪術師の見習い〟だ。これから〝正式な呪術師〟になるための修行が始まる。――さあ、山を下りる準備をしよう」
「本当ですか?」
「ああ、本当だとも」
「ぼくは昨日まで、精神混乱を起こしながら寝ていた体ですよ。こんなに突然に山を下りて、大丈夫なんですか」
「いま精神混乱が起きるか? 起きないだろ? 一つのステージが終わったんだ。呪術師はステージが終わったら、立ち止まってボンヤリとなんかしていない。すぐに次に進むんだ」
「はい、わかりました」
 昨日まで常に暴走していた弦太郎の精神が、今は夜の湖面のように静まっていた。
「お前は呪術師になる最初のステップを通過した。力の魂がお前の中で輝き出したんだ。まだ小さくはあるけどな」
弦太郎は荷物をまとめて下山する支度を整えた。イニシエーションを受けてから二週間が経過していた。


  十五
「下山するのに師匠も一緒についてきてくれるんですか?」
 弦太郎は準備を整えながらタムに訊ねた。
「ワシも市内に用事がある」
「それはよかった。一緒にいてくれると安心です」
「お前にとって下山の道のりは長いものになるだろうから、気合を入れていけよ」
「何度も行き来しているから大丈夫です」
「荷物はワシが持ってやる。――さあ、出発するか」
「ありがとうございます」
二人は山を下り始めた。弦太郎は数分も歩かないうちに目まいを起こして跪いた。息はゼイゼイ、ハアハアと激しく切れ、太ももの筋肉は痙攣しかけた。この二週間の間に弦太郎の体力は著しく低下していた。タムはペットボトルの水を弦太郎に飲ませた。
「ずいぶん辛そうだな」
「大丈夫です。五分ほど休憩すれば歩き出せます」
「お前の肉体はそうとう弱っている。寝ていて弱っただけじゃない。イニシエーションによってお前の中に“呪術師の魂”が根づいたわけだが、その分、肉体の力が大分削られてしまったんだ。あんまり無理をせん方がいいな」
弦太郎は地べたに腰を下ろしながら空を仰ぎ、木の葉の隙間から見える青い空を眺めた。視界がグラグラと揺れている。確かに疲れ方が尋常ではなかった。
そのまま十数分が経過した。弦太郎は立ちあがるどころか意識を失いそうになっていた。
「弦太郎、しっかりしろ、目を覚ませ」
タムは弦太郎の腕を引っ張り立ち上がらせた。弦太郎は立っているだけでフラフラとよろめいた。
「さあ、ワシの背中に乗るんだ」
「ぼくを負ぶって下山するつもりですか?」
「今のお前のペースで歩いたら、三日経っても山から出られそうにない。お前に〝呪術師の歩行〟というのを見せてやろう。しっかりつかまっているんだ」
タムは弦太郎を背中に負ぶり、スタスタと早足で歩き出した。速度はグングン上がってゆき、まるで馬が疾走するような速度で駆け出した。目の前には倒木があり、岩があり、藪で覆われていたりする。しかも道は平坦ではなく斜面である。そんな状況をまるで楽しむかのように、障害物を左右にピョンピョンと避けてかわし、ときには高く跳び上がったりしながら疾走した。弦太郎は振り落とされないようにタムにしがみつきながら、目の前に繰り広げられる光景を見守った。
「――さあ、着いたぞ」
バイクの止めてある雑貨屋まで二十分ほどで着いてしまった。弦太郎はタムの背中から下りて小さく呟いた。
「す、すごい・・・・」
「こんなものは呪術師のウオーミングアップにすぎない、ハハハハ」
タムは息がまったく切れておらず、ちょっと近所を散歩したかのような感じだった。負ぶってもらっていた弦太郎の方が緊張感で体力を消耗し、その場でぐったりと腰を下ろした。
「お前のその調子じゃ、バイクで帰るのは危ないな。今日はバスでワシと一緒に行こう。体力が回復したら、そのときバイクを取りに来たらいい」
「その方がぼくとしても安心です」
公道の脇で突っ立ていると、市内行きの小さなバスがやってきたので手を上げて停め、二人は前方のドアから乗車した。バスの車内は混雑しており、後方の座席がひとつしか空いていなかった。弦太郎はその席に近づき、腰を下ろす前にタムに一応了承をとろうと後ろを振り返った。しかしタムはいなかった。
――一緒にバスに乗り込んだのに・・・・。
 弦太郎は不思議に思いながら座席に腰を下ろした。バスが走り出し、バス料金を回収にきた車掌に料金を支払った。弦太郎はタムが前方のどこかの席に座っているのかと、乗客の頭をひとつひとつ確かめた。だが、どこにもタムの頭はなかった。
バスが走り出してしばらく経ったとき、弦太郎の隣に座っていた乗客が立ち上がってバスから降りた。弦太郎は席をつめて窓際の席に移り、車窓風景を眺めた。バスが走り出すと、弦太郎の隣にいつの間にかタムが座っていた。
「わっ、ビックリした。師匠、どこにいたんですか。見当たりませんでしたが」
「バスの中にいたさ」
「おかしいなあ、念入りにバスの中を調べたのに」
「ハハハハ、見えなくて当然だ。ワシは呪術を使っていたんだから」
「呪術を?」
「そう透明になる術だ。呪術師以外、誰も見えない」
「そんな呪術があるんですか」
「練習すればお前にもできる。呪術師の力を持っているんだからな」
「本当ですか?」
「本当だとも。じゃあ、ここで練習するか。市内に着くまでにマスターするんだ。じゃあ、まずワシが手本を見せよう。このようにするんだ――」
その瞬間タムの姿が消えた。弦太郎は目をパチクリさせ、指で目を擦った。幻覚ではない。確かに姿がない。
「あれっ?」
 その瞬間、またタムの姿がパッと現れた。
「驚いたか?」
「すごい! 消えましたね」
「感心している場合じゃない。お前もやるんだ。やり方は、心を鎮めて自分の存在感を消すイメージをしろ」
「存在感を消すイメージですか」
弦太郎はタムの指示に従って、目を閉じて心を落ち着けた。だが、バスの振動と騒音でなかなか心を落ち着けることができない。
「師匠、大分心が鎮まってきましたが、透明になりませんよ」
弦太郎は目を閉じながら、隣のタムに囁いた。
「まだまだ、鎮まり方が足りない。心の奥深く深くの、妄念の起きない領域まで行かないといけない」
「妄念の起きない領域ですか」
「そうだ。そうすれば、お前の腹の底で〝チカッ〟とスイッチが入ったような感覚がある」
「チカっとですか」
弦太郎は透明の術を練習をしているうちに、ウトウトと眠気を催してきた。睡眠と覚醒の境界線をフラフラと意識が漂っているとき、急にガーッと耳鳴りがし、瞼が閉じた状態なのに、奇妙な世界がスーッと視覚イメージとなって現れた。それは、プールの中で目を開けたときに見えるような朦朧とした世界で、しかも現実の世界とリンクしているように思えた。
「おっ、師匠――」タムの方を向いて話しかけた瞬間、元のはっきりした現実に戻った。「あっ、消えた――。師匠、いま、目の前が朦朧となってぼやけた世界が見えましたよ」
「そのときお前は透明になっている。集中力が持続すれば透明のままでいられる。ぼやけたように見えるのはまだお前の力が弱いからだ。力が増してくれば視界もはっきりしてくるだろう」
「なるほど、これは面白い、ハハハハ――」弦太郎は新しい玩具を与えられた子供のように喜んだ。「よし、練習だ」
しかし、先ほどは偶然スイッチが入ったようで、二回目はなかなかこなかった。焦ると余計に心が鎮まらず、妄想が頭を駆け巡る。そんなことを必死で続けているうちに、また眠気がやってきてウトウトとなった。その瞬間、また気味の悪い耳鳴りがして、ボンヤリとした視界がスーッと開けた。
――きたっ。
 集中力を途切らせないよう、背筋を伸ばしたまま動かず、前方をじっと観察した。確かにぼやけてはいるが、視覚で認識する現実と同じ世界であった。自分の体を見てみると、黄色い光が放射しており、明らかに他の人間と様子が違っていた。息をした瞬間、パッと元の世界に戻ってしまった。
「ああ、戻ってしまった」
「慣れてくれば、呼吸もできるし、動くこともできるし、話すこともできる。あとは練習次第だな」
「そうですか。でも、本当に人間からは見えてないんでしょうか」
「ああ、見えてないとも。見えてないというより、正確に言えば、彼らの意識の中に入らないと言った方がいいな」
「呪術を使っている者同士はどう見えるんですか」
「体が光輝いて見える。だから〝透明の術〟を使っている者同士は、お互いの存在を認識し合える」
「そうですか。じゃあ、もし、偶然相手に触れてしまったら、触れられた相手はどう感じるんでしょうか」
「人間は何かに触れたとは認識できない。意識がそこに向かないから、相手にとっては存在していないのと同じだ。もしくは、相手は気のせいと思うかもしれない。しかし〝呪術師の掟〟で説明したように、呪術を用いて人間に悪ふざけをすると力を消耗してしまう。前にも言ったと思うが、力をすべて失うことは〝死〟を意味する。それには気をつけるんだ」
「なるほど――」
練習をしているうちにバスは市内のバスターミナルに到着した。二人はバスから降りた。
「いまからワシは友人のところへ行く。ここで別れだ」
「友人はやはり呪術師ですか?」
「ワシのことを気にするな。そんなことを気にする前に、自分自身の管理を全力でしろ。なんせお前は“呪術師見習い”の危うい状態だ。今、実際、お前は肉体の力も消耗していれば、呪術師の力もか細い。バスの中で呪術の練習をしていたからな」
「力が消耗したとき、どうすれば回復できるんですか」
「一つは休息すること、要するに寝ることだ。もう一つは〝太陽のメディテーション〟をするんだ。じゃあ、太陽のメディテーションのやり方を伝授しよう」
「太陽のメディテーション?」
「そう、力を消耗すると、肉体の疲れとはまったく違った疲れを感じる。そうしたら太陽の光を、両手を広げ、口を開け、股をなるべく大きく開けながら浴びるんだ。仰向けになってもかまわない。しばらくそうしていると力が回復されるだろう」
「両手を広げて、口を開けて、股を開く?」
弦太郎は実際に日の差しているところへ出て、その形をとってみた。確かに光を浴びると気持ちよく、体に熱が蓄積されて力が回復されるのを感じた。しかし、ポッカリ口を開けたままこの姿勢だと恥ずかしくもある。
「師匠――、でも、日差しに向かってこんな体勢をとっていたら、皆から馬鹿かと思われますよ」
「自分の命を守ることが先決だ。死に直面しているときに、〝馬鹿みたい〟なんて人目を気にしてなんかいられない。世間の常識なんてつまらないものだ。そんなものにとらわれないで堂々とやったらいい」
「死んじゃうんですか・・・・。それじゃあ、恥ずかしいなんて言ってられませんね」
「それと、お前に渡しておきたいのは・・・・」
タムは茶色い小瓶に詰められた薬用酒を渡した。
「いつも飲んでいるものと同じものですね。これがあるとありがたいです。よく寝られて体力が早く回復します」
「しばらくは、まだ幻覚を見たり、情緒不安定になったりすることもあるだろう。安静にしていることを奨める」
「困ったとき、師匠にどのように連絡をとればいいでしょうか」
「用事があるときはワシの方から電話する」
「はい」
「言うべきことはこれぐらいか。それじゃあ、またな」
タムはさっさと歩き出した。弦太郎がタムの後姿を見送っていると、タムは何かを思いついたようにピタリと足を止めて弦太郎の方を振り返った。
「最後にもうひとつ呪術を見せよう。〝透明の術〟が進化した最終形、〝壁抜けの術〟だ」
タムは大通りを走り去る車を眺めた。向うからやってくる一台の赤いソンティオに狙いを絞り、急に道路に飛び出した。弦太郎はそれを見て、「あっ、轢かれる!」と驚いた。次の瞬間、タムの姿がパッと消えた。
ソンティオの運転手は前方から急に飛び出してきた老人の姿に気づき、慌てて急ブレーキをかけた。
――キキキーッ
 タイヤが地面に擦れる高温が響いた。運転手は老人を轢いたかと思った。しかし、瞬間、老人の姿はパッと視界から消えていた。
「気のせいか、ビックリした・・・・」
 運転手はホッと胸を撫で下ろし、何事もなかったのようにアクセルを踏んだ。弦太郎の目の前から、そのソンティオが過ぎ去るとき、後方のデッキの上にタムがパッと現れ、弦太郎に向かってニヤっと笑って手を振り、またパッと消えた。
「通り抜けて車に乗り込んだんだ。これが〝壁抜けの術〟か・・・・」
 弦太郎は呆然としながら小さく呟いた。 


   十六
カイはケータイを持ちながら、警察に連絡しようかどうか思案していた。弦太郎が山の診療所に行って二週間が経つが、ずっと電話が繋がらなかった。
――今日電話して繋がらなかったら警察に知らせよう。
 カイはそう心に決め、弦太郎へ電話を入れた。半分諦めていたが、意外にも電話が繋がった。
「弦太郎、いまどこにいるの?」
カイは口早に言った。
「部屋にいる。昨日、山から帰ってきた。疲れた。今起きたところ。ずっと寝てた。ああ、まだ眠い」
「何、暢気なこと言ってるの。ずっと心配してたのよ。マフィアに誘拐されたんじゃないかって」
「マフィア? あ・・・・、いや、大丈夫だった。何にも怖いことはなかったよ。カイに電話しようと思ってたんだけど、山の中だから電波が繋がらなくてゴメン、ゴメン」
 弦太郎はマフィアと言われて一瞬戸惑った。そういう嘘をついてタムに会いに行ったことを思い出した。起きたばかりで頭の回転が鈍いので、余計なことを言わないよう慎重に会話をした。
「ずっと山の中にいたの?」
「ああ、そうだよ」
「何してたの?」
「ええっと・・・・、診療所の先生と仲がよくなって手伝いしてたんだ。薬草を集めたりとかしてさ」
「手伝いって、長い期間学校を休んでまで? ――呆れた」
「なりゆきでそうなってしまった。いい先生だったから」
「詳しい話は後で聞くわ。いまからそっちに行くから。何か食べたいものある? 買ってきてあげる」
「食べたいものかあ・・・・」弦太郎は腹が空いていたが、なぜだかとっさに食べたいものが思い浮かばなかった。「何だろうな・・・・、あっさりしたものがいいかな。あっ、レモン買ってきて」
「レモン? 弦太郎、酸っぱいもの嫌いだったんじゃないの」
「いま、酸っぱいものが食べたい気分なんだよ。それと・・・・、トマトも食べたい」
「トマト? どうやって食べるの?」
「そのまま食べるに決まってるじゃないか」
「そのまま・・・・。トマトなんか食べたいんだ。わかった、じゃあ買ってくる」
電話を切った。カイは、弦太郎がリクエストしたレモンとトマトは、彼特有のジョークだったのかと困惑した。
 コン、コン、コン――
 カイは弦太郎のアパートのドアをノックした。市場で買い物をしてすぐにやってきた。
 ガチャ――
 ドアが開き、カイは弦太郎を一目見て驚いた。顔色が悪く痩せ細っていた。
「どうしたの痩せちゃって、大丈夫・・・・。また病気になったんじゃない?」
「そうじゃないよ、ヘヘヘヘ。さあ、中に入って」
カイは訝しそうに弦太郎の顔を見つめながら部屋に入った。弦太郎は昨晩、薬用酒を飲んで寝ていたのだが、まだ体力が回復していなかった。
「山の中は食事が質素だったから痩せちゃったんだよ。それに衛生的に問題があってずっと下痢しちゃってさ」
「下痢してるのにレモンなんか食べて大丈夫なの?」
「なぜか体が欲するんだ。買ってきてくれたんだ」
「うん、買ってきた。レモンでしょ、トマトでしょ、インスタントラーメンも。それと弦太郎の大好物のシュークリームも買ってきたよ」
「シュークリーム・・・・」
弦太郎は大好物のシュークリームを見てもまったく食べたいと思わなかった。食べたくないどころか嫌悪感すらした。気のせいかと思い、一つ摘んで口に放り込んだが、甘ったるさが口に拡がり気分が悪くなった。
「ウウー、シュークリームってこんな味だったっけ? なんか白々しい味だなあ。化粧の濃いおばはんの娼婦みたいだ」
「どういう意味よ?」
「深い意味はないんだけど・・・・、要するに妖しげなんだ。やっぱり自然なトマトが食べたいな」
「お腹が空いてるんだったら、ラーメン食べたらどう? 好きでしょ」
「好きなんだけど、どうしよう・・・・、じゃあ食べてみようかな」
弦太郎はあまり気がすすまなかったが、何か腹の張りそうなものを食べた方がいいかと考え、インスタントラーメンを食べてみた。予想通りうまくなかった。神聖な体が、化学調味料に穢されるような嫌な気持ちがした。
「おかしいなあ。全然うまくない。なんかしっくりこないんだよなあ」
「それは病気だからよ。口が悪くなってるんだ」
「そうなのかなあ・・・・。でもトマトとレモンはおいしそうに見える。食べてみよう」
弦太郎は、レモンを絞って水で薄めてジュースにし、トマトはそのまま丸かじりした。
「うまい。あっさりしてて、これならいくらでも食べられる」
「酸っぱくないの。そんな食べ方して」
「全然気にならない。これから毎日、このレモンジュースとトマトを食べよう。ヒヒヒヒ――」
このとき弦太郎は急に笑いがこみ上げてきて止まらなくなった。突然感情の暴走が始まったようだった。理性では感情の暴走とわかっても、それを意識的に止めることはできない。それを見守って、笑いが止むまで待つしかない。しかし、そんな状況を初めて見るカイは、弦太郎の尋常ではない様子に狼狽した。
「弦太郎、どうしたの? ねえ、大丈夫?」
「ヒヒヒヒヒヒ――」
カイは弦太郎の背中をさすった。弦太郎は笑いながらそんなカイの気づかいをわずらわしく思った。放っておいて、一人にして欲しい。何か外から刺激を受けると余計に笑いが強くなってしまう。弦太郎は笑いながらカイの手を払いのけ、腹を抱えながら笑いつづけた。
「フハハハハ――」
 カイは弦太郎の頭が本当におかしくなったのではないかと焦った。
「ホントにどうしたの? ねえ、ねえ」
「ヒヒヒ、さわら、ヒヒヒ、あっち、ヒヒヒ、いって、ヒヒヒヒ――」
弦太郎は「触らないでくれ、あっちに行って」と伝えたかったが、笑いでうまく言えられなかった。
「救急車、呼ぼうか?」
カイはあたふたとカバンからケータイを取り出し、番号を押そうとした。弦太郎はそれを見て、病院なんかへ連れて行かれたらたまったものじゃないと、カイの手にしたケータイをパシリと払い落とした。
「ちょっと、何するの」
「ガハハハハハ」
カイが興奮しているのに、弦太郎はさも嬉しそうに笑いつづけている。カイはそんな弦太郎を見て怖くなってきた。そのときカイの脳裏に〝麻薬中毒〟という言葉がよぎった。『マフィアに追われた謎の医者』、『山の中での秘密の生活』、『痩せ細って顔色が悪い』、『理性を失った笑い』、これらのキーワードを総括すると、答えは〝麻薬〟しかないように思えた。
――弦太郎、もしかして・・・・。それに、あたしの貸した十万バーツ、あれは麻薬を買うための資金として使ったのかも。だから、病院に行くのを嫌がるんだ。第三者にバレたら大変だもの。どうしよう、こんなときどうしたらいいの・・・・。
カイは泣きそうになりながら弦太郎を見つめた。弦太郎はまだ笑いつづけている。何も言わずにここから去るべきか、彼を介護してあげるべきか。このまま一人にしたら、弦太郎はどうなってしまうだろう。
「ヒヒヒヒヒ――」
弦太郎は笑いが止まらず苦しかった。腹筋が千切れてしまうのではないかとも思った。それよりも、泣きそうになりながらこっちを見ているカイの存在が鬱陶しかった。早くどこかへ行って欲しい。どうせ勘違いして何か不審なことを考えているに決まっている。笑いの理由は『呪術師の秘薬』を飲んだ後遺症なんだと説明したいが、『呪術師の掟』を破るわけにはいかない。笑いを意識的に止めようとすると、皮肉なもので余計に可笑しくなってくる。早く笑い止めるには、やはり心を落ち着かせるしかないのだが、人に見られていると集中できない。
――カイ、早くこの部屋から出て行ってくれ。
 弦太郎は笑い転げながらそう念じ、「あっちへ行け」と手でシッシという合図を送った。それを見たカイは不愉快な気持ちになった。こんなに心配しているのに、犬を追い払うようなしぐさをしている。カイは哀しくなって無言で弦太郎の部屋を出て行った。
カイが出て行って間もなく、弦太郎の笑いは止まった。
「笑い死にするところだった。ああ、苦しかった、ハァー」
ホッと一息つき、ベッドに横になり、カイのことを考えた。彼女が機嫌を悪くして部屋を出て行ったというのに、なぜかスッキリした気持ちだった。彼女に対する恋愛感情が薄れてしまったのか。大好きだったシュークリームも食べられなくなり、嫌いだったレモンがおいしく感じられる。やはり呪術師のイニシエーションによって自分が変わってしまったのだろうか。
そんなこと考えながら薬用酒を一口、口に含み、また眠りについた。


  十七
弦太郎は久しぶりに学校へ行った。体はだるいがこれ以上休みつづけるわけにはいかない。朝、弦太郎が大学のキャンパスを歩いていると、カイとオーイが一緒に歩いているのを見つけた。カイに昨日のことを謝らなくては、とそばに駈け寄って声をかけた。
「カイ、昨日いろいろ持ってきてくれてありがとう。体調がすぐれなくて、なんか変なところ見せちゃってごめんな」
「もう大丈夫なの?」
 カイは怪訝な表情で言った。
「完璧とはいえないけど、まあ何とかなると思う」
「そう、ならいいけど」
簡単な会話を交わして、彼女のもとから立ち去った。弦太郎がいなくなると、オーイが耳打ちするように小さな声でカイに言った。
「彼、なんかずいぶん痩せたわね。まだ体調すぐれないんだ」
「そうみたい。あたしも彼のことよくわからないんだけど。山の診療所に行って帰ってきたらすごく痩せちゃって。体つきも雰囲気も、もうなんか別人みたい。だからね、あたしが想うに、山で変な人とコンタクトがあったんじゃないかって・・・・」
「変な人ってどんな人?」
「そうね・・・・」カイは言葉を濁して言った。「怖い人かな」
「怖い人? どんな?」
「いや、何でもないよ。あたしが想像しているだけで、そこはまだはっきりしたわけじゃないから」
親友にもさすがに彼氏がマフィアと付き合っているかもしれないなんて言いづらかった。

弦太郎は講義中、一番後ろの窓際の席に座り、外ばかり眺めていた。もともと勉強熱心な方でもなかったが、今まで以上に講義が退屈なものに感じた。
時間に大分遅れてミャオとドンが教室に入ってきた。二人は弦太郎の顔を見つけると、彼の隣の席に座ってきた。
「久しぶり、弦太郎、学校辞めたんじゃなかったのか」
ミャオが冷やかすように言った。
「辞めるか。ちょっと体を壊してただけだ。これからは真面目に通うさ」
「そうした方がいい」
「不真面目なお前さんに言われたくない。こんなに遅れてきてさ。また、どっかで女をナンパして遅くまで飲んでたんだろ」
「三時まで飲んでた。頭痛てェ」
弦太郎の嗅覚は敏感に反応し、彼らから漂う甘ったるい酒の臭いを嗅ぎとった。その臭いを嗅ぎとると、以前はよく一緒に遊びまわっていた二人に対し、嫌悪感のような、決して相寄れない不快な感情を強く感じた。弦太郎は彼らから距離を置こうと視線を逸らし、ホワイトボードを眺め講義を聞いているフリをした。そのうち睡魔が襲ってきて、ウトウトと夢の世界と現実の世界を行ったり来たりしはじめた。
弦太郎が夢うつつになっていると、前の席に座っていた学生の頭が突然黒い大きなクマに変わり、鋭い牙を剥いて襲ってきた。弦太郎は「ギャーッ」と大声で叫んで席から立ち上がった。
教室すべての学生はいっせいに弦太郎を凝視した。その瞬間、弦太郎の目の中から熊はスーッと消えていった。幻覚だった。
――しまった、大声を出してしまった・・・・。
 教室からクスクスと笑い声が起こった。
「君、突然大声を出してどうしたんだ?」
先生から問いただされ、立ち上がっている弦太郎は皆から視線を一身に浴び赤面した。
「いや、ちょっと・・・・」
 言い逃れるための言い訳が咄嗟に頭に浮かばなかった。ミャオとドンは、あたふたしている弦太郎を笑いながら眺めた。
「いや、あのお――」そのとき、よりによって笑いの感情が襲ってきた。
「ヒヒヒヒヒ」
――マズイ、笑いが起きたら止まらないんだ。ダメだ、どうしよう・・・・。
 弦太郎は腹を抱えながら笑い出した。
「おい! 何が可笑しいんだ!」
 先生が強い口調で言った。教室は弦太郎の笑いが伝染し、学生たちの間にもドドドと大爆笑が起こった。
「先生ヒヒヒヒ、お腹が痛いヒヒヒヒ、トイレにヒヒヒヒ、行ってきまヒヒヒヒ――」
搾り出すように声を出し、両手で顔を隠すようにして教室を走って出て行った。

トイレの個室に入って弦太郎は感情を静め、笑いを鎮火させた。油断していると心が暴走し失態を犯してしまう。タムが言っていたとおり、幻覚や感情の暴走がいつ何どき襲ってくるかわからない。洗面台で顔を洗い、鏡を見ながら頬をパンパンと叩いて気を引き締めた。教室にそっと戻って、ミャオとドンから離れた席に座った。二人の横に座っているとなんだか腹立たしい。ミャオとドンは、弦太郎の無視するような態度に気づき、横目で睨みつけた。
弦太郎は講義に集中しようとしたが、やはり退屈で眠たくなってしまった。退屈感から逃れようと〝透明の術〟の練習を始めた。煩悩を鎮めればスイッチが入るはずである。バスの中で成功してから一度も術を成功させたことがなかった。「深く、深く――」と小さな声で呟きながら、集中力を高めていった。あるところでチカっとスイッチが入り、目の前の世界が変わった。
「きた」
 喜んだのも束の間、息をした瞬間途切れてしまった。意識を集中したまま呼吸するのは難しかった。その後、何度か術に入れたが、いずれもほんの数秒ほどで切れてしまった。
 キーン、コーン、カーン――
チャイムが鳴った。透明の術を練習していたらあっという間に講義が終了した。暇つぶしに呪術の練習はいいものだ。そんなことを考えながら席から立ち上がろうとすると、体が異常にだるくなっていることに気づいた。
「おやっ・・・・」
 力を振り絞って歩き出したが、脚に力が入らずフラフラする。そのときハッと気がついた。
――呪術の練習で力を消耗したんだ。そうだ、こんなときは太陽のメディテーションをして力を補給しないと。
外は晴れていて強い日差しがさしていた。ヨロヨロと老人のように歩きながら、太陽のメディテーションができそうな場所を探した。なるべくなら誰も人が見ていないところがよかったが、あまりの疲労感の強さから選り好みしている場合でもなかった。手近な中庭の芝生の上にゴロリと大の字で仰向けに寝転んだ。口を大きく開けてポーズを作り、太陽光のエネルギーを吸収した。日照率の低い寒い国では、日向ぼっこをしていてもなんらおかしく見られないだろうが、熱帯のタイで日向ぼっこをする者なんか誰もいない。芝生に寝転んで日差しに当たっていると、通りを歩く学生たちはみな奇異な目で弦太郎を眺めた。ちょうど中庭の前を通りかかったミャオとドンはそんな弦太郎の奇態な姿を目撃し、「やっぱりあいつ頭おかしいぜ」と冷笑しながら弦太郎を眺めた。

午後の講義が終わり、ミャオとドンがキャンパスを歩いていると、ばったりカイに会った。
「よお、カイ元気か」
ミャオはカイに声をかけ、意味ありげにニヤリと笑った。
「今日、弦太郎すごかったぜ」
「え? 彼、どうかしたの」
ミャオとドンは顔を見合わせて笑った。
「ムチャクチャ笑わせてもらった。やっぱりあいつ、ちょっとおかしいぜ」
「どうしたの?」
「授業中、居睡りしていたと思ったら、急に飛び起きて叫び声あげたり、急に大笑いしたりしてさ」
「もしかして、しゃべれなくなるほど笑い出したんじゃない?」
「そうそう、何にも可笑しいことがないのに、笑いが止まンなくなってひとりで笑い転げてた。それに休み時間、何を思ったのか、日差しの当たる中庭でゴロンとひとりで寝そべってみんなに注目されてた。マジで頭おかしくなったんじゃないかと思って。ハハハハ」
「そんなことしてたんだ・・・・」
カイは不安げな表情になった。
「弦太郎、いつからあんな風に変わったんだ?」ドンが訊ねた。
「実はね、あんまり話したくないんだけど・・・・、絶対誰にも言わないでね」 
カイは念入りに口止めし、弦太郎が病気だったこと、山の診療所に行って快癒したこと、山の診療所の医者はマフィアと関係があること、支払いの十万バーツを貸したこと、そのお金を持って再び山の診療所に行ったこと、二週間音信普通ののち痩せて帰ってきたことなどを彼らに話した。
「そうか、そういえばあいつ痩せてたな。顔色も悪かった気がする」ドンが言った。
「まずいな、それは・・・・」ミャオは考え込むように言った。彼は遊び人なので裏社会のことに詳しい。「やっぱりそれは絶対、麻薬が関係してるぜ。俺の知ってるジャンキーと症状がスゲエ似てる。感情が不安定になったりボンヤリしたり。絶対マフィアのグループと関わってブツを入手してると思う」
「どうしたらいい?」
「今後そのグループと絶対会わないことだな」
「うん、会わせないようにするわ」
「弦太郎のやつ、カイみたいな可愛い娘と付き合って、何が不満で麻薬なんかに手を出すんだろう」
ドンは嫉妬心混じりに言った。
「愛が足りないんじゃないか。カイが他の男に目移りばっかりしてるからさ」
 ミャオがからかうように言った。
「目移りなんかしてないわよ。失礼ね」
「ヒヒヒヒヒ――」
ミャオとドンは顔を見合わせて意味ありげに笑った。


  十八
カイはケータイを取り出し、時間を確認した。午後の三時半だった。日差しはまだ強く、気温は三十度以上ある。――弦太郎、まだ学校にいるかしら・・・・。ミャオの話を聞いて、どうしてもすぐに弦太郎と話がしたくなった。電話をすると、今帰るとのことだったので、大学の正面門で待ち合わせをした。
「お疲れ、どうだった、授業?」
カイは、弦太郎のことをミャオから何も聞いてないという前提で気軽に話しかけた。
「どうってことないよ。いつもと同ンなじさ。かったるかった」
弦太郎は普段の調子でこたえた。
「そう・・・・」
カイは弦太郎の目を覗き込むように見つめた。
「なんだよ?」
「実はさっきね、ミャオとドンに会って、弦太郎のこと聞いたよ」
「あいつら何を言ったんだ?」
弦太郎は露骨に不機嫌な表情になった。
「授業中大笑いしたんだってね」
「ああ、そうだよ」
「弦太郎、情緒不安定だから、なんか心配で・・・・」カイはひと呼吸おき、真剣な表情で言った。「ミャオが言うにはね、ミャオが言うんだよ、もしかしてクスリでもやってるんじゃないかって」
「何を言ってんだ。おれはそんなものに手なんか出してるわけないだろ」
「怒らないで、あたしは弦太郎のことを信じてるよ。ミャオが言うんだよ。弦太郎は危ない人と付き合ってるんじゃないかって」
「ケッ、あいつ何言ってるんだ」
 ピピピピ、ピピピピ――
弦太郎のケータイの呼び出し音が鳴った。会話を中断して、ケータイの画面を見ると送信先が不明だったが咄嗟に受信ボタンを押した。
「弦太郎、ワシだ――」タムからの電話だった。
「あっ、ああ」
弦太郎は「師匠」と言おうとしたが、カイが目の前にいるので師匠と言い出せず口ごもった。
「今から会うぞ。呪術の稽古をする。アヌダートホテルの近くの古びた仏塔の前で会おう。じゃあな」
それだけで電話がプツリと切れた。弦太郎の脳裏にタムの言った待ち合わせ場所の仏塔が明確に頭に浮かんだ。
「誰からだったの?」
「まあ、ちょっと知ってる人だ」
「それでね、ミャオがね――」
「ゴメン、ちょっと急ぎの用事ができたからもう行かなきゃ」
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ」
弦太郎は出発しかけている乗り合いバスのソンティオに駆け出した。
「じゃあ、話はまた明日」
弦太郎はソンティオに飛び乗ってしまった。カイは走り去るソンティオを見つめながら、ポツンと一人とり残された。

弦太郎が古びた仏塔の前にやって来ると、タムがすでに待っていた。
「師匠、お待たせしました。――師匠は山から下りてきてから、ずっと市内に滞在していたんですか」
「市内にいて悪いか」
「いやあ、師匠が街の中で生活する姿がイメージしにくかったものですから」
「呪術師は山の中であろうと、街の中であろうとどこでも適応し、どこにも執着しない。――さあ、力の場所に行くぞ」
「力の場所?」
「ついてこい」
タムはソンティオを停め、運転手に郊外の地名を告げ、車内に乗り込んだ。二人は目的地で降りると、そこから十数分歩き、廃墟になっている大きな病院にやってきた。訪れる人が誰もいなくなった建物は陰湿な空気を漂わし、放置された敷地内は雑草が生い茂っていた。
「ここが力の場所ですか」
生い茂る草を踏みしめながら中庭に入ってゆき、壊れかけたコンクリート製の椅子に腰を下ろした。午後の日差しは弱まり、中庭は不思議な静けさに包まれていた。
「どうだ調子は?」
タムは静かな調子で訊ねた。
「まだ体調がよくないですね。いつも眠たくなるし、体が冷えている気がします」
「ほかには?」
「一番困るのは精神面です。幻覚が現れたり、笑いが止まらなくなったりします。師匠、すぐに感情を鎮める方法はないんですか」
「前にも言ったが、まだお前は完成した呪術師になっていない、かといって普通の人間でもない、その中間の中途半端な状態にいる。いま変化の過程ゆえに不安定なんだ。それを鎮める方法はない。いまは我慢のときだ。前にも言ったとおり、そこから逃れるためには感情に引きずられないで、自分を客観視することだ」
「それと、味覚も変化しました。好きだった食べ物が食べれなくなったり、あまり好きじゃなかった食べものが美味しく感じられたりして、自分がどうなってしまったのか混乱することがあります。やっぱり栄養バランスを考えて食べた方がいいんでしょうか」
「そんな理性的な尺度は捨ててしまってもかまわない。感覚を信じるんだ。嫌いなものを食べる必要はない。なんであれ、不快感や緊張感を感じたらその道を外れることだな」
「それは対人関係に対してもですか?」
「当然だ。呪術師は固定した生き方をしない。いま在る状況に応じて、対人関係であろうと、生活習慣であろうと、食事であろうと、すべての物事に柔軟に変化させていく。そうしないと力を失ってしまうからな。人生という短い時間に愚か者と惰性的に付き合っている時間なんかない」
「そうですか――」
弦太郎は深刻な表情になり、カイのこと、学校のことなどを考えた。それらを失うと考えると怖い気がする。
「呪術師の道はたいへんなことばかりですね」
 弦太郎は呟くように言った。
「ハハハハ、そんなに悲観的に考えんでもいい。呪術師は人間なんかよりも大きな可能性を持っている。地の中をミミズのように潜って生きるよりも、翼をもって大空を羽ばたいて生きた方がよっぽど楽しいじゃないか」
「それもそうですが、でもなあ・・・・、なんか変わり者に見られるのがつらいなあ」
「お前は世間体を気にし過ぎだ。確かに呪術師といえど、肉体がある以上世間の中で生きてゆかなければならない。だが、力の魂を持つ呪術師は、世間と同じ価値観だけでは生きてゆけないものなんだ」
「弱音を吐いていたらダメですね」
「そうだ、お前のゴタゴタなんぞ、ほんの序曲に過ぎない。肉体面、精神面、身の回りのことなど、さらに大きな問題を抱え込むだろう。呪術師はいろんな試練を背負うものさ」
「大変だなあ」
 弦太郎は考え事をするように目を伏せ、溜息をついた。
「さあ、呪術の練習を始めるか。透明の術は進歩したか?」
「はい。今日、何度か透明の術に入ることができました。でも、すぐに途絶えてしまいましたが。呪術はずいぶん力を消耗するものなんですね。授業中練習していたら立てなくなるほど疲れちゃいました」
「授業中? お前はそんな人の大勢いるところで練習していたのか。それじゃあ力を失って当然だ。人間に消える瞬間や、現れる瞬間を見られたら致命的だ。命にも関わるぞ。呪術を人間には決して見せてはならないと教えただろ」
「でも、一番後ろの席だったので、見られていなかったと思いますが」
「危険なことは辞めろ。お前はまだ完成された呪術師ではないんだ。前にも言っただろ。中途半端なゆえに人間よりもさらに弱い存在だって。なるだけ慎重に行動しろ。とくに呪術を使うときはな」
「はい」
「じゃあ、一度やってみろ」
弦太郎は目を閉じて、深く呼吸をして心を落ち着けた。「静かに、静かに――」、ブツブツと小声で呟き、さらに数分間呼吸の音に耳を傾けた。しばらくすると、スーッと心の扉が開くのを感じた。目の前には肉眼で見るのと同じ世界が開けた。ここに行き着くと、今まではその興奮から思わずしゃべってしまったり、体を動かしたりして途絶えてしまったのだが、今回は気を落ち着けてその状態を保った。呼吸をしても呪術は途絶えなかった。その状態のまましばらく時間が経過した。すると、隣に座っているタムの方から強い光を感じたので思わず横を向いた。その瞬間、呪術が途絶え、隣からの光も視界から消えた。
「師匠も透明の術を使っていますね」
弦太郎はタムの姿が見えなかったが、彼が呪術を使っていると推察し、隣の空間を手で探ってみた。しかし、何も触れることはできなかった。「あれっ、おかしいな」
その瞬間、隣ではなく正面からタムが現れた。
「ハハハ、透明になっているワシに触れることはできん。ワシは形のない状態になっているからな」
「すごいなあ」
「なかなかうまくなったじゃないか。術に入ったまま、呼吸もできるようになったんだな。少しずつ進化している。もっと早く術に入れるよう、心を鎮める練習をさらに重ねることだ」
「いま、術に入ったとき、今までは視界がぼやけていたのに、今回は大分はっきり見えました。これも進化ですか」
「そうだ。力が貯まれば、肉眼とまったく同じように見えるようになる」
練習の終わりに弦太郎は、タムと一緒に赤い夕日を浴びながら太陽のメディテーションを陽が沈むまで続けた。


  十九
カイは弦太郎のことで悩んでいた。悩んだときの相談相手はいつも呪術師のダー婆さんだった。休日、カイは呪術師のダー婆さんのところへ行った。
「カイ、今日は何の相談なんだい?」
「あのお・・・・、彼氏の弦太郎のことなんですが」
「ああ、弦太郎かい。あの悪霊に憑かれて背骨が痛んでいた。――もうよくなっただろ? あたしが悪霊追い出してやったんだから。あのときはしつこいやつに憑かれていて、なかなか大変だったのよ」
「ええ、もう背骨はよくなって」
「そりゃあ、よかったじゃない」
「でも、本当のこと言うと・・・・、ダーお婆さんのところから帰った後、あんまりよくならなかったんです。そのあと、他の診療所に通ってなんとかよくなったんですが」
「何を言ってるの。それはあたしの除霊効果のおかげよ。体は悪霊が去ってから徐々に時間をかけてよくなってゆくものなんだから。――弦太郎はわたしの渡した御札をちゃんと部屋に貼ってるかい?」
「貼ってないです」
「そんなふうに油断してるとまた悪くなるよ。あの子は憑かれやすい体質なんだから」
「あたしの方からもたびたびそのことを言ってるんですが頑固なところがあって。もう一度強く言っておきます。――それで、今日相談したいことは彼の体のことじゃなくて・・・・」
「じゃあ、何だい?」
「なんか最近、彼の様子が変なんです。あたしに対する態度がよそよそしい感じで」
「喧嘩したのかい?」
「喧嘩じゃなくて・・・・。実は、弦太郎、マフィアと関係のあるらしい山奥の診療所に行ったんです。それから情緒不安定になって、異常行動を起こすようになり・・・・。もしかしたら、麻薬に手を出したのかもしれなくて」
「そうかい、そうかい、素直そうな子だと思ったが、なんだか物騒な方向にフラフラし出したんだね。ちょっと霊界から覗いてやるか」
「本当ですか! お願いします」
「何か写真は持ってるかい?」
「はい、持っています」
カイはケータイに保存されている弦太郎の画像をダー婆さんに見せた。ダー婆さんはケータイを両手で握りしめながらブツブツと呪文を唱え、しばらくするとコクリコクリと首を脱力させた。
「アー、ウー、アアー――」
奇妙な呻き声をあげながらしばらく顔を伏せていたかと思うと、パッと正気に戻り、きちんと座りなおしてカイにケータイを戻した。
「霊界から全部見てきたよ」
「どうでした? 本当のところ」
「やっぱりマフィアとつるんでるね。カイの言うとおりだ。でも、そんなに強い結びつきじゃなかった。あの子は根が臆病で怖がりだから深入りはしないよ」
「ああ、よかった」
「カイ、安心するのは早いわよ。弦太郎ね、どうしてそんな変な人たちと付き合うようになったと思う?」
 ダー婆さんは厳しい態度で言った。
「病気を治すために彼らに近づいたんですが」
「違う、違う――」ダー婆さんは首を横に振り、毅然として言った。「カイの愛が足りないからよ」
カイはその言葉を聞いて一瞬ドキリとした。ミャオに以前冗談半分で言われたことと偶然一致していたからだ。
「いいえ、違います。彼の方が先に変わってしまったんです。山の診療所に行ってから急に変わったんですから」
「カイ、よく聞きなさい」ダー婆さんは諭すような言い方をした。「カイの愛が足りないからそんな山の診療所に行ったのよ。それが先。もし、カイに愛があったら、そんなところへは行かなかったはずよ」
「ちがうんです。詳しく言えば、彼は山の診療所に行く前、あるお医者さんに診てもらって体がたちどころによくなり、それから彼はそのお医者さんから、もっといい医者がいるって、山の診療所を紹介してもらって、それで行ったんです」
「何を言ってるの。わたしが悪霊を追い出したんだから、そんなところへ行かなくても病気は自然によくなったはずよ。男って敏感だから、愛がないとわかると、空気を感じ取って他に心が移ろいでしまうものよ」
「じゃあ、あたしが彼のことをもっと深く愛すれば、彼は変な人たちと付き合いを止め、今までのようにあたしのことを大切にしてくれるんですか?」
 ダー婆さんは憐れむような目つきでカイを見つめた。
「それがね、話はそう簡単じゃないわ。彼はすごく繊細な男、あなたが近づけば近づくほど彼の心はどんどん離れていく。残念だけど、関係を修復するのは難しいわ。もう手遅れだわ」
その言葉を聞いたカイは興奮して言った。
「別れるってことですか」
ダー婆さんはカイの両肩をポンポンと軽くたたき、
「あんたは若くて美人だから、これからいくらでも他にいい出会いはあるわ。彼だけが男じゃないんだから」
「ええ、そんなあ――。あたしは彼のことが好きなんです、大好きなんです。他の人じゃダメなんです。いくらダーお婆さんがそんなこと言っても、あたしは彼と一緒にいます」
カイは逆切れしたように言った。
「あんたも分からず屋ね。キッパリと諦めた方があなたのためよ」
ダー婆さんは大きな声で言い返した。カイはしばらく口を噤んでいたが、どうしても納得することができず反駁した。
「そんなに簡単に別れられません。彼とじっくり話し合います」
「そうかい、そうかい。そんなに真剣に彼のことを思っているのかい。あんたの気持ちはよくわかったわ。じゃあ、いいことを教えてあげる。一つだけ、彼があなたのことを想いなおす方法があるわよ」
「どんな方法ですか?」
「ラブマジックっていうのがあるの、知ってる?」
「ラブマジック? なんですか、それは」
「相手をゾッコンに惚れさせる呪術よ」
「そんなのがあるんですか」
「そう、わたしのような特別な呪術師だけが知ってる呪術よ。でもね、わたしはね、本当はそういう呪術に頼って、相手の心を操作するのは好きじゃないの。だから、誰にもやらない秘密の呪術なんだけどさ」
「ダーお婆さん、それお願いできますか! お金はいくらでも払いますから」
カイは必死で懇願した。
「ウーン、どうするか・・・・」
「ダーお婆さん、どうかあたしを助けてください!」
「ウン、わかった、わかった、かわいいカイの頼みだ。でもね、あたしがラブマジックを使ったってことを絶対誰にも言っちゃ駄目よ。これは絶対秘密の呪術なんだからね」
「はい、約束します」
 早速、ダー婆さんはラブマジックに使う生きた雄鶏を近所で一羽買い取ってきた。鶏は激しく暴れるので足を紐で巻きつけ動けなくしてある。
「この鶏はね、あなたのために生贄になるのよ」
「生贄ですか・・・・」
「それと、あなたの髪の毛を一本頂戴」
カイは指で何度か髪の毛を梳き、抜けた髪の毛を一本渡した。
「それじゃあ、始めようか――」
ダー婆さんは祭壇に鶏が供えてろうそくに火を灯し、腰を下ろして合掌した。ゴホンと咳払いを一つつき、パーリ語の呪文をよく通る声で唱え出した。カイも彼女の後ろに座り手を合わせた。しばらく祈りがつづいた後、ダー婆さんはおもむろに鶏を脇に抱え、片手に包丁を持った。鶏は自らの危険を察したのか悲痛な鳴き声を上げ、羽を激しくバタつかせた。
「さあ、大人しくしなさい」
ダー婆さんは脇でがっちりと鶏を抱えて身動きとれないようにして、鶏の首に包丁を向けた。カイは怯えながらその様子を見守った。
――ケッケケッコーッ
鶏の最後の断末魔の鳴き声と同時に首が落とされた。カイは目を逸らせた。ダー婆さんは鶏の頭を祭壇の上に置き、手元に置かれた金属製のボールの中に、頭のない鶏の胴体から流れ落ちる血を滴らせた。
「もう出ないわね――」
血を絞りとると、ダー婆さんは鶏の胴体を床に置いた。カイから渡された髪の毛を血の入ったボールと一緒に入れ、小さなガスコンロで煮詰めながら小声で呪文を唱えた。
「――さあ、できたわ」
ボールの底には黒く乾いた血の焦げが張り付いていた。それをスプーンで削るようにして白い紙の上に落とし、スプーンの底で押し潰して粉状にした。カイは気持ち悪そうにその粉を眺めた。
「これがあなたのことをゾッコンにする魔法の秘薬よ」
 ダー婆さんは自信満々のに調子で言った。
「これをどうするんですか?」
「相手に飲ませるだけよ。もちろん、このまま飲んでって頼んでも、気持ち悪がって飲まないだろうから、ジュースに混ぜて飲ませたらいいわ。そうすれば、彼はあなたのことばかり考えるようになるわ」
「ジュースに混ぜたら、味が変わるんじゃないですか」
「そうね、味の濃いジュースにしないと駄目かもね。それときちんと全部飲ませないと効果が薄いわよ」
「はい、わかりました」
「もう一つ注意点は、お酒と一緒に飲んだら駄目。効果がなくなってしまうから」
「はい――」
 カイは、鶏の頭が残酷に切り落とされる姿を見ていただけに、この薬を使うことを素直に喜べなかった。
「そんなに心配そうな顔しないの。もう弦太郎は絶対にあなたしか見えなくなるから。いま、彼はあなたの愛を受け入れられる状態じゃないけど、このラブマジックの秘薬を飲めば、必ずあなたを愛するようになるわ。そうすれば麻薬なんて自然と離れていくんだから」
 ダー婆さんはニッコリと微笑みながら、黒い粉の入った紙を折りたたんでカイに渡した。
「それじゃあ、彼と仲良くやりなさいよ」
「いろいろありがとうございました」
カイはダー婆さんに多額の謝礼を払って彼女の家を出た。


  二十
弦太郎はタムの教えを守り、人ごみを避けて部屋で透明の術を一人で練習していた。術に入って呼吸が自由にできるようになってから、練習がさらに面白く感じられた。練習を続けるうちに術に入るまでの時間が大幅に短縮され、長時間術にとどまりつづけられるようになってきた。さらには術に入った状態でゆっくりと体を動かすことがきるようになってきた。しかし、術に入った状態で手で物に触れると、術が途切れてしまった。
「エネルギー補給だ」
部屋の小さなベランダに出て、日光を浴びながら太陽のメディテーションをした。力を十分溜めて呪術の練習をすると、体も疲れないし進歩の速度も速くなるということを、経験を積むうちにわかってきた。
「物に触れるときは、ソフトに触れるんだな」
弦太郎は術に入ってゆっくりと体を動かした。
コン、コン、コン――
そのときドアをノックする音が聞こえた。気持ちが動揺し、術が途絶えた。
「誰なんだ。いいところだったのに、まったく」
ドアを開けると、カイだった。
「なんだよ突然、来るときは電話してくれよ。ビックリするだろ」
弦太郎は強い調子で言った。
「どうしてその程度のことでビックリするのよ」カイは一瞬ムッとしたが、 『愛が足りない』というダー婆さんの言葉を思い出し、怒りの感情を抑制した。「電話したんだけど繋がらないわよ。電源切ってあるんじゃない?」
「あっ、そうかもしれない――」電話に出るのを煩わしく感じ、昨夜電源を切っていた。「ゴメン、忘れてた」
普段のカイだったらここで弦太郎に強くあたるのだが、ここは穏やかに対処した。
「まあ、今度から気をつけてね」
カイはスーパーで買ってきた食べ物をベッドの上に置いた。
「ずいぶん、たくさん買ってきたなあ」
弦太郎は驚いたように言った。
「弦太郎を喜ばせようと思ってね。ジュースでしょ、サンドィッチでしょ、ローストチキンでしょ、果物でしょ」
「いろいろ買ったんだね」
「たくさん栄養つけて、早く元気になってもらわなくっちゃ。甘いものはいらないんだよね。食べたくないって、この前言ってたから」
「そう、食べる気が起きないんだ、何だか知らないけど」
「食べたくないものは食べない方がいいわ。――あたしも今お腹ぺこぺこ。弦太郎、お腹空いてる?」
「少しね」
「食べましょう」
カイはダー婆さんに作ってもらった秘薬をジュースに入れるタイミングを窺った。――どのタイミングで入れたらいいかしら。
「このオレンジジュースね、今日安かったんだ。百パーセントよ。弦太郎も好きでしょ?」
「まあね」
弦太郎はコップを用意しようとした。
「大丈夫。あたしが全部してあげるから弦太郎は座ってて」
カイはニッコリと微笑んで、弦太郎が食器台の方へ来るのを遮った。
「コップが汚れてるから、一回洗うわね」
 カイはコップを持って洗面所に入った。コップをひと洗いし、ポケットから白い紙に包まれた秘薬を取り出してコップに入れた。
「どう、弦太郎、体の調子は? 顔色は大分よくなってるけど」
洗面所から出てきたカイは、コップの中に注意を向けられないよう話をしながら、紙パックのオレンジジュースをコップに注いだ。黒い秘薬はジュースに溶けきらずコップの底に沈殿しているようだった。
「このジュース、果汁百パーセントだから、果実が底に溜まるわね」 
カイは何気ない調子で呟き、ティースプーンでコップの底を丹念にかき混ぜた。
「何だよ、馬鹿に慎重じゃないか」
弦太郎はボンヤリとカイの行動を眺め言った。カイは、弦太郎が自分を見ているとは思っていなかったので一瞬ドキっとしたが、平静を装った。
「さあ、どうぞ――」
カイは弦太郎がジュースに過度な神経を向けないよう、サンドイッチと一緒に差し出した。すると弦太郎は、
「おれ、そっちのコップがいいな。いつもそっちを使ってるんだ」
と、秘薬の入っていない方のコップに手を伸ばした。カイは弦太郎の意外な言動に驚いた。
「こっちのコップにあたしがもう口つけちゃったから」
カイは弦太郎の手を払いのけた。
「なんだよ・・・・」
弦太郎は不服そうにもう一方のコップを手元に引き寄せた。
「さあ、食べて、食べて」
カイはローストチキンとサンドイッチを弦太郎の前に押し付けた。
「ああ」
弦太郎は気のない返事をして、サンドイッチとローストチキンに手をつけた。
「どう? おいしい?」
「まあまあ、いけるね」
弦太郎は食欲旺盛に食べ出した。しかし、弦太郎がオレンジジュースになかなか口をつけなかった。
「喉、渇かないの?」
カイが訊ねると、弦太郎は「そうだな――」とポツリと言い、手元にあったペットボトルの水を飲み出した。
「ジュース飲まないの? 百パーセントだから栄養があるのよ」
「うん」
弦太郎はコップを一瞥したがコップを持とうともしなかった。カイはじれったくなったが、普段と同じようにおしゃべりをつづけた。
「――ごちそうさま。買ってきてくれたサンドイッチとチキンうまかったよ、ありがとう。食欲はなかったけど、食べてみると結構食べられた」
「それはよかったわ」
 カイは複雑な気持ちで笑みをつくった。
「ああ、満足じゃ、満足じゃ」
弦太郎は腹をさすりながらトイレに立った。カイは弦太郎がいない隙に、秘薬の入ったコップをティースプーンで丹念に混ぜて、黒い沈殿物をもう一度拡散させた。弦太郎がトイレから戻ってきた。
「少し眠たくなってきた。寝ていいか?」
「いいけど」
「カイ、今日はどこも行かないのか?」
「行かないわ。弦太郎の顔見るだけよ」
「そうか」
「それよりもオレンジジュース飲まないの? 栄養あるのに」
「さっきから栄養にこだわるなあ」
「こだわってるわけじゃないけど、せっかく買ってきたんだから。コップにも入れたんだし」
「水飲んだから。じゃあ、おれは一眠りするよ。まだ体の調子があまり思わしくないから」
「ジュース飲んだほうがさっぱりしてよく眠れるわよ」
カイはと弦太郎にコップを渡した。
「なんだよ、しつこいなあ」
弦太郎はコップを受け取り、オレンジジュースを眺めた。
「おやっ、何か小さい埃みたいなのが入ってるぞ」
「そんなわけないわよ。コップはきれいに洗ったんだから」
 カイは、秘薬を気づかれたとギクリとした。
「本当だよ、ホラ、なんか黒くて細かい砂みたいな」
「皮のカスかしら。あたし飲んだけど平気だったわ」
カイは内心ビクビクしながらも普通の調子をつくろった。弦太郎は少しだけ飲もうかと思ったが、コップを手に取った瞬間、何だか知らないが急に飲む気が冷めた。飲みたくもないのに無理に飲む必要もあるまい。
「やっぱり、やめた」
コップをテーブルに置いた。
「どうしてよ。このジュースはビタミンも豊富なのよ」
「甘いものはちょっと気がすすまない」
「甘くないわ。酸っぱいわよ」
「でもなあ、食指が動かないだよなあ」
「飲んで!」
カイは思わず声が大きくなった。
「カイ、どうしたんだ?」
 弦太郎はカイの大きな声に驚き、彼女の目を覗きこんだ。
「飲んで!」
カイは必死な形相でコップを弦太郎に押し付けた。弦太郎はカイの横暴な態度に戸惑った。どうしてそこまでしてジュースを飲まそうとするのか。そのとき弦太郎のケータイの呼び出し音が鳴った。画面を見ると、送信先が不明だった。――師匠だ。ピンと予感が走った。
「もしもし」
「ワシだ。いまから会うぞ。この前の廃墟の病院だ。じゃあな」
それだけでプツリと切れた。弦太郎はソワソワした気持ちになった。すぐに師匠に会いに行かなければならない。カイにどう伝えてこの場から離れようか。
「カイ、今日、大事な約束があったことを忘れていた。いますぐ行かなくちゃいけないんだ。ゴメンな」
「えっ、どうして急に? あたしよりも大事な人がいるの?」
「そうじゃないんだ。前からの約束なんだ。急がないと」
「誰なの?」
「友達だよ」
「だから誰? 名前は?」
「カイの知らない人だよ」
「どうして隠すの」
「隠しているわけじゃないんだ。カイには全然関係ないから」
「変な人と付き合ってるんでしょ。行っちゃダメよ!」
カイは弦太郎の腕にしがみついた。
「変な人じゃないんだ。エライ人だ。とても尊敬している人だ。また明日会おう」
「じゃあ、あたしも一緒に行く」
カイは半泣きになって、弦太郎を離さなかった。
「離してくれ、頼む!」 
弦太郎はカイを振り払って逃げようとした。
「じゃあ、最後のお願い。このオレンジジュースを全部飲んで行って。弦太郎の体調が心配だから。全部飲んだら離してあげる」
「なんだよ、さっきからオレンジジュース、オレンジジュースって。これを全部飲めばいいんだな」
カイの申し出を受け入れ、弦太郎はさっさと全部飲み干してしまおうと一口ジュースを口に含んだ。その瞬間、異様な臭いが鼻につき、口に含んだジュースをコップに吐き出した。
「オエー」
「何やってんのよ。汚い!」
「カイ、これ臭いぜ。変な焦げくさい臭いがする。辞めとくよ。気持ち悪くなりそうだ」
「そんなことないって。あたしも飲んだんだから」
「イヤ、おれはダメだ。最近臭覚が異様に敏感なんだ。なんか血の臭いがする。本当にダメだ。捨てよう」
弦太郎がコップを洗面所に持っていこうとすると、カイが意地になって引き止めた。
「全部、飲んで!」
カイは弦太郎からコップを奪い、彼の口の中に無理やりジュースを入れようとした。
「何するんだ。おい、やめろ」
 弦太郎はカイの半狂乱の押し付けを拒否するため、コップを突き放した。その瞬間、コップはタイルの床に落ち、激しい音をたてて割れた。ジュースが床を濡らした。
「ああ・・・・」
 二人は割れたコップを眺めた。カイは秘薬がすべて無駄になりショックを受けた。弦太郎が割れたコップを拾い上げて掃除に取り掛かろうとすると、カイは力ない声で言った。
「あたしが掃除しておくよ」
「ホント、じゃあ、おれは出かけていいか。急ぐから」
「いいわよ・・・・」
弦太郎は掃除をカイに任せて部屋を出た。カイは部屋を出て行く弦太郎の後ろ姿を見送り、〝愛〟という言葉の意味を考えた。


  二十一
弦太郎は廃墟の病院に着き、中庭に回ったがタムの姿はなかった。この前座った同じ椅子に腰をかけ、タムがくるのを待った。
――師匠、遅いなあ・・・・。
 草むらにいる虫の鳴き声が廃墟の病院の静寂感をいっそう深め、空虚な気持ちになった。空虚感の重圧に耐えきれなくなり、ひとりで透明の術の練習を始めた。心を鎮めようとしたが、カイとのいさかいを思い出し、なかなか集中できなかった。
「ダメだ・・・・」
 陽の当たるところで両手を広げ、太陽のメディテーションをして力を蓄えた。次第に心が落ち着いてきたので、また透明の術の練習を始めた。「鎮かに、鎮かに」、ブツブツと呟きながら心の深くに入っていった。
――チカッ
 ようやくスイッチが入った。心の瞳が開き、肉眼で見ていたのと同じ世界が現れた。そのとき、弦太郎の斜め後方から光が輝いていることに気づいた。ゆっくりと振り向くと、それは光のオーラを身にまとったタムだった。
『なかなか、うまくなったじゃないか』
弦太郎は一人で練習していると思っていたのに、後方にタムがいたので驚いた。
「師匠・・・・」
声を出した瞬間、呪術がプツリと途切れた。同時にタムの姿も消えた。
「遅かったな。何かゴタゴタでもあったのか」
タムが呪術を解いて、弦太郎の目の前にフッと現れた。
「師匠はぼくがくる前から、ずっとここにいたんですか?」
 弦太郎は目を見開いて訊ねた。
「そうだ」
「遅れて申しわけありませんでした・・・・。実は彼女とひと悶着あって。彼女のことがわけがわからなくなってきました」
「相手も同じことを考えていると思うぞ、ハハハハ」
「笑いごとじゃないんです。彼女はぼくに変な味のするジュースを無理やり飲ませようとしてきて」
「なかなかユーモアのある娘じゃないか」
「あれはユーモアじゃないです。彼女に何か不穏なものを感じるんです。師匠がこの前言ってたじゃないですか、感覚を大事にしろって。あんなに好きだった彼女なのに、感覚的になればなるほどどうでもいいという気持ちになったり、警戒心が働いたりするんです。どうしたらいいでしょうか?」
「人間関係なんか変わっていくものさ。お前自身が激しく変化しているんだからな」
「でも彼女はぼくにとって大切なパートナーですし、うまく呪術師と両立させたいんです」
「理性で考えるように都合よく事は運ばないさ」
「関係が破綻するかもしれない、ということですか・・・・」
 弦太郎は暗い調子で言った。
「〝呪術師に成る〟というのは、最高の宝だからこそ、いろんなことが起きるんだ」
「どういう意味ですか?」
「得るというのは失うことと同義語だ。大きなものを得たならば、同時にそれ相応のものが失われて当然だろ」
「そういうことなんですか・・・・。今後、ぼくはどうなってしまうんでしょう」
「そんなに深刻になるな。その程度のこと、悩むことでもあるまい。生きていればいろんなことがあるものだ。さあ、呪術の練習を始めるか」
「はい――」
練習が再開された。弦太郎は再び気持ちを鎮めていき、術に入った。
「歩き回ってみろ」
タムの指示通り、弦太郎は中庭の草むらをゆっくりと歩き回った。
「スピードをあげてみろ。集中力を切らさずにな」
術に入った弦太郎の身体は普段と異なり、こわばった老人の体を操るようで、速く動くのは難しかった。力んだ瞬間、呪術が途切れた。
「ああ、失敗した・・・・」
「気にするな、なかなかうまくなってきている。休まずつづけるんだ」
弦太郎は呪術の練習をつづけた。今度は短時間で術に入った。
「さあ、早く歩け」
弦太郎は練習を続けているうちに、こわばった体がほぐれてゆき、速く動けるようになってきた。
「今度はワシに触れてみろ」
おそるおそるタムの手に触れた。呪術は途切れなかった。通常の肉体の感覚とは異なり、温度が感じられない不思議な触覚だった。
「もっと強く握ってみろ」
強く力を加えた瞬間、タムはパッと手を払いのけ、逆に手を握り返してきた。タムに予想外の行動をとられて弦太郎は動揺し、その瞬間呪術が切れた。
「ハハハ、油断は禁物だ。どんな状況でも心を動揺させてはいけない」
「意地悪だなあ。――あっ、ちょっと質問があります。師匠は透明の術を使っていないときでも、ぼくの姿が見えているんですか?」
「ワシは力のある呪術師だから術に入っていなくとも、お前の姿を感知できる。普通の呪術師や人間にはお前の姿はまったく見えていないがな」
「本当に人間にはぼくの姿は見えないんですか」
「本当だとも。じゃあ、市場に行って試してみるか。まだお前は未熟だから人ごみで練習するのは少し危険だが、やってみれば自分の実力が知れるだろう」
「面白そうですね」
「慢心するなよ。ここは力の場所だから呪術が使いやすいんだ。人間の多いところでは難易度が上がるぞ」
「大丈夫です」
 弦太郎は自信を持って言った。
二人はピン川沿いの大きな市場へ移動した。市場は仕事帰りの市民で溢れかえり混雑していた。
「この道路を術に入って横断するぞ。運転手は我われの姿が見えないから、ブレーキを踏まずに突っ込んでくる。スリリングだ」
「怖いですね」
「まずお手本を見せてやろう」
タムはそう言うと、弦太郎の隣からパッと消えた。数秒後に道路の反対側から姿を現し、小さく手を上げて合図を送った。弦太郎もそれにつづこうと、心を鎮めて透明の術に入ろうとしたが、車のクラクション、バイクのエンジン音、人のしゃべり声、犬の鳴き声――、雑踏の騒音で心が鎮まらず術に入るのに手こずった。
「鎮かに、鎮かに――」
 長く念じてようやくスイッチが入った。道を渡ろうとすると、ノーブレーキで自転車が突っ込んできた。それを前方にサッとかわすと、今度はバイクが突っ込んできた。
「危ない!」
思わず声を出し、後方に飛び退いた。無理な姿勢で後方に退いたので地べたにひっくり返り、その瞬間呪術が切れた。弦太郎はさっと起き上がって、術に入らずそのまま道を渡った。
「怖かったです。みんなまったくブレーキをかけてきませんね」
「わかったか。彼らからお前の姿はまったく見えていないんだ。――今度は安全な場所で練習だ。車のこない道を姿を消しながら歩くぞ」
屋台の並んだ通りにやってきた。人々は細い通りをアリが列をなすように歩いていた。「ついてこい――」、タムはそう言った瞬間消えた。弦太郎もすぐにつづきたかったが、先ほどバイクに轢かれそうになった恐怖が心に残り、なかなか術に入れなかった。その場で突っ立ったまま煩悶した。焦れば焦るほど術に入れない。三十分ほどしてタムが正面から現れた。
「ずいぶん時間がかかるな。日が暮れちまうぞ。まず深呼吸しろ。そんな精神状態じゃ、術に入れないばかりか力を失うだけだ」
「はい・・・・」
何度か深呼吸して心を落ち着けてると、ようやく術に入れた。タムは弦太郎の様子を眺めながら言った。
「やっとできたか。お前は五十年前のオンボロバイクよりもエンジンの掛かりが悪いな、ハハハハ」
それを聞いた弦太郎は思わず笑ってしまった。
――オンボロバイク・・・・、フフフフ。
 心が動揺し、呪術が途切れてしまった。
「またか・・・・、師匠が笑わすものだから途切れたじゃないですか。――もう少し待ってください」
それから十数分して術に入った。タムは、術に入った弦太郎の傍らに立ちアドバイスをした。
「冷静にな、心を乱すなよ。人間は我われの姿がまったく見えていないんだ。すばやく動かないとぶつかるぞ」
「はい」
弦太郎は生真面目に返事をした。その瞬間、術が切れてしまった。弦太郎は呪術を使いながら声を出すレベルに到っていなかった。
「まただ・・・・」
再び弦太郎は突っ立った状態で目を閉じ、数分かけて術に入った。横で待っていたタムは、何度も失敗する弦太郎に呆れたように言った。
「絶対声を出すなよ。お前は未熟者なんだから」
「・・・・・・」
弦太郎は沈黙しながらタムの声を聞いた。そのとき、弦太郎の背後からおばさんが勢いよくぶつかってきた。弦太郎の術は途切れ、前方に三歩ほどよろめいた。おばさんは、
「あっ、ビックリした。気がつかなかったわ。ゴメンね、お兄ちゃん」
スタスタと立ち去って行った。
「また仕切りなおしか・・・・」
タムは弦太郎に言った。
「人ごみを歩く練習をする以前の問題だな。今日はもう陽が傾きかけている。練習は終わりだ。大分、力を消耗しているしな」
「そのほうがよさそうですね・・・・」
二人は市場からピン川にかかる橋に移動し、夕日を浴びながら太陽のメディテーションを行い練習を終えた。


  二十二
弦太郎は、自分の指定席である教室の一番後ろの窓際の席に座り講義を受けていた。精神は安定してきており、この前のような感情の乱れは起きなかったが、いかんせん勉強する気がまったく起きなかった。窓の外をボンヤリと眺めながら、退屈感に押しつぶされそうな気持ちで妄想していた。
――どうして、こんなところにいなきゃいけないんだろう? 学位を習得するめに? 学位が何の役に立つんだ? 給料の高い仕事を得るためか? 学位を取れば本当に給料の高い仕事にありつけるのか? 給料の高い仕事を得ることが人生の目的なのか? いや、違う。そもそも人生の目的とは何なんだ? おれには呪術師の道もあるじゃないか。でも、それでは喰えそうにないし。
頭に浮かぶことは講義内容とはまったく関係ないことだった。呪術の練習がしたかったが、タムの言いつけを守り、講義中は練習を控えた。
ミャオとドンが講義時間に遅れて教室に入ってきた。弦太郎は彼らの姿を見た瞬間、不快な気持ちになった。ミャオとドンは弦太郎を見つけると、ニヤニヤしながら隣の席に座った。
「弦太郎、相変わらず眠そうな顔してるな、ヒヒヒヒ」
「相変わらず酒臭いな。また飲んでたのか」
 弦太郎は会話するのが面倒に感じたが言葉を返した。
「ああ、飲むのは毎日だからな。弦太郎、明日暇か? 飲みに行くぞ」
「明日? いま、おれは酒をやめてるんだ、行かないよ」
「なんだよ、付き合えよ。レーいるだろ、明日留学先の日本から帰ってくるんだ。歓迎会だ」
「レーが帰ってくるのか。あいつ日本へ行ってどれぐらいになったんだ?」
「ちょうど一年だ。来るだろ?」
「どうしようか・・・・」弦太郎は行く気が起きなかった。「明日は大切な用事があるんだ」
「なんだよ、付き合いワリいなあ」
ミャオは軽蔑するように言った。弦太郎は執拗に誘われることを警戒し、講義を聞いているフリをして正面を見つめた。
「なあ、弦太郎、お前は日本へ遊びに行かないのか。父ちゃんと母ちゃん、日本にいるんだろ?」
ドンが身を乗り出すようにして、弦太郎に問いかけた。
「なんだよ、授業中だぜ、静かにしてくれよ。――行かないよ、そんな金ないから」
「父ちゃんが日本人なのにどうしてお前はいつも金がないんだ。日本人はみんな金持ちだろ?」
「日本人といえばみんな金があると思ったら大間違いだ。おれの家はとくに貧乏でもないけど、金持ちでもない」
「だったら行けよ。泊まるところがタダなんだから、あとは飛行機代だけだろ。安いもんじゃないか」
「飛行機代だって馬鹿にならない。理由もないのに、そんなに頻繁に日本に行く必要がないだろ」
「親不孝だな。――もしかして、お前の父ちゃんヤクザか?」
 ミャオが言った。
「なんでヤクザなんだよ」
「息子がマフィアの手先だからな」
「マフィア? あっ、そういえば・・・・。お前、この前カイに何か変な入れ知恵しただろ!」
弦太郎はミャオにマフィアと言われて、カイが言っていたことを思い出した。
「おい、声が大きいぜ」
 ドンが声をひそめて注意した。
「マフィアってどういうことだ? 何を根拠にそんなことを言うんだ。言ってみろ」
「そう興奮するな、何でもないよ、ヒヒヒヒ。――カイが心配してたぜ。お前の顔色が悪いからヤク中じゃないかって。どこか山奥へ行って、しばらく帰らなかったんだろ。カイに大金借りさ」
「だから何なんだよ。お前の知ったこちゃないだろ」
「そんなにフラフラしてると、あいつも他にオトコ作っちまうぜ、ヒヒヒヒ」
「何を言ってやがる」
弦太郎は彼らを一切無視してホワイトボードを眺めた。
講義が終わり、ミャオとドンが教室から出て行くとき、横目でチラチラ弦太郎を眺めながら意味ありげに下品な笑い方をした。
「クソ、あいつら何かおれの悪い噂をしてやがるな。そうだ、術に入って何を話しているか聞いてやろう」
弦太郎はその場で目を閉じて呼吸を整えた。心を鎮めると、数分でチカッとした感覚とともに術に入った。
――よし。
 弦太郎は二人のあとをつけた。ミャオとドンがしゃべりながら食堂方面に向かって歩いているのを見つけ、弦太郎は背後にピタリと寄り添い、話し声を聞いた。
「カイも変な男に捕まったもんだな。あんな奴のどこがいいんだろう」
 ドンが言った。
「なんかボンヤリしていて何事にも集中できないって感じだったな。ヤク切れ特有の症状だ。俺たちもあいつにあんまり近づかない方がいいぞ。ジャンキーは感情が爆発すると何をしでかすかわからないからな」
「でも爆発したって、あんなに痩せてるんだから弱いものさ。やったら、やり返す自信がある」
「馬鹿、ヤク中は何をしてくるかわからない、何か凶器を持ち出すかもしれないんだぞ。もっとも、あいつにはバックにマフィアがついているから、復讐されるかもしれないぜ」
「おお、それは怖い」
「ま、どっちにしても、あの調子じゃ弦太郎もロクな人生は待ってないだろうな。注射でヤクの回し打ちして、エイズにでもなるか、豚箱にでも入るか」
「もうすでにエイズかも知れないぜ、ヒヒヒヒ」
「そうだな。ヒヒヒヒ」
彼らの会話はすべて弦太郎の悪口だった。それを真後ろで聞いていた弦太郎は胸の中に怒りが煮えたぎるのを感じた。
――この野郎!
弦太郎は衝動的にミャオの頭を思い切り手のひらでひっぱ叩いた。
パシッ――
 その瞬間、呪術が途切れた。弦太郎は連続してドンの頭もひっぱ叩くつもりだったが、ミャオへの一撃ですべての力を失い、電池の切れた玩具のようにその場でまったく動けなくなった。
――あっ、力が出ない・・・・。
「何だあ!」
 ミャオは怒りを露にして後ろを振り返った。後ろには青ざめた弦太郎が固まったように突っ立っていた。
「痛ェなあ、いつの間に後ろにつけやがって。この野郎、何しやがる」
ミャオは両手で弦太郎の胸をドンと押して突き飛ばした。弦太郎は三メートルほど後方に吹っ飛んでいき、コンクリートの上にバタリと仰向けにひっくり返った。
「この野郎――」
ミャオはさらに殴りかかろうとしたが、ドンが制止した。
「おい、止めとけ、もうのびてるぞ」 
「今度、こんなことしたらタダじゃおかねえからな。覚えてろ!」
ミャオは脅し文句を吐いて、その場から去って行った。
「ウウ、動けない・・・・」
弦太郎は殺虫剤をかけられた虫けらのように、仰向けのままヒクヒクしていた。朦朧とした意識の中でタムの言っていた言葉を思い出した。
――『人間に危害を加えたら、力を失ってしまうぞ』。そうか、これは力を全く失った状態なのか。それじゃあ、このまま死んでしまうのか。
「ああ・・・・」
 どうすることもできず弦太郎はその場で寝転がっていた。
「大丈夫ですか?」
親切そうな男子学生二人が近づいてきて、弦太郎の体を揺すった。
「すみません・・・・、日差しの当たるところに引っ張っていただけますか・・・・」
 弦太郎は搾り出すように声を出した。
「日差しの当たるところ?」
「さ、寒いんです・・・・」
「ええ・・・・、いいですよ」
二人の学生は弦太郎の体をズルズルと引きずって青草の上に移動させた。そこは建物の影が射しておらず、日差しが当たっていた。
「ここでいいですか? 医務室に行ったほうがよさそうですよ。なんか顔色がものすごく悪いですから」
「ここがいいんです。ありがとうございます。しばらく日光浴すれば元気になります・・・・」
二人の学生は心配そうに弦太郎を眺めながら立ち去って行った。弦太郎は目を閉じて両手と両脚を大きく広げ、口を開き、太陽のメディテーションを始めた。通りかかる学生たちは弦太郎の姿を怪訝に眺めた。
――ああ、生き返る・・・・。
 あまりの気持ちよさに、弦太郎はそのまま寝てしまった――。
一時間後、弦太郎は目を覚ました。充電した電化製品が再び能力を回復するかのように、何事もなかったがごとくピョンと跳ね起きた。
――危うく死ぬところだった。師匠が言っていたように、人間に危害を加えると力をいっぺんに失ってしまうようだ。あのまま放っておかれたら、冗談抜きで死んでいたに違いない。親切な学生がきてくれて助かった。よかった・・・・。
呪術師見習いの弱さを身を持って知った。呪術を多少使えても、人間よりもからきし弱い存在なのだ。
腹が空いていたので、気を取り直してそのまま食堂に向かった。前方に女子学生の集団が歩いており、その中にカイの親友のオーイがいるのを見つけた。
「オーイ、久しぶり」
弦太郎は彼女に気さくに声をかけた。
「あっ、弦太郎。元気?」
「ああ、元気だよ」
「あ、そうそう、カイね、まだ教室にいるよ。あっ、あたし、ちょっと用事があるから、お先にね」
オーイは挨拶もそこそこ弦太郎からサッと目を逸らし、女子集団の中へ逃げるようにして去って行った。弦太郎はオーイのよそよそしい態度が気になった。
「何か、怪しいなあ」
弦太郎は食堂に行く前にトイレに入って用を足し、誰もいなかったのでそこで精神を鎮めて姿を消した。オーイが、自分の噂をしているような気がしたので確かめたくなったのだ。
食堂は昼食の時間だったので学生で混雑していた。オーイは食堂の一角のテーブルで女子集団と食事していた。術に入った弦太郎はオーイの真後ろに回った。
「さっきさあ、オーイと話していた男ヤバイよね」
「そうそう、すごいキモイ」
「日の当たる所で寝転がってた男でしょ。ちょっと頭おかしいんじゃない」
「あたしもね、さっき声かけられて、ちょっとビックリしたよ。想像もつかない危険なことをしてくる空気感があったから」
 オーイが言った。
「あれ、カイの彼氏でしょ。信じられない。なんであんな男と付き合ってるの?」
「それがわからないんだよね。あたしもカイにね、あんな男と早く別れなよって、ちょくちょく言ってるんだけど、彼女はグズグズしてはっきりしないんだ。麻薬中毒だし、マフィアとつるんでいるみたいだし、おまけに大金借りて返さないみたいだし。ほんとお騒がせな男なのよねえ」
「でも、その調子じゃ、大学も退学させられるよ」
「多分ね」
――畜生、言わせておけば、好き勝手なこと言いやがって。
真後ろで話を聞いていた弦太郎は、またブン殴ってやろうかと思ったが、ついさっきミャオを殴って死にかけただけに殴ることを踏みとどまった。なにか復讐してやりたいが、直接手をくわえることはできない。せめて心臓が壊れるほど驚かしてオシッコでもチビらせてやりたい。
――あっ、そうだ。オーイをしばらく尾行して、彼女が一人になったとき、突然姿を現してお化けが出たがごとく振舞ってやろう。
オーイは食事を終えると、教室へ戻るのかと思いきや、仲間たちと別れ、ひとり大学のキャンパスの外へ歩いて行った。弦太郎がピタリと尾行して行くと、彼女は数分歩いて、とあるアパートに入っていった。そこは彼女の住むアパートらしい。弦太郎はオーイの至近距離に近づき、彼女がドアを開けると同時に、一緒に彼女の部屋に侵入した。一人暮らしのオーイの部屋は、片づけがあまり得意でないらしく物が散らかっていた。
オーイはベランダのドアを開けた。そのドアを開けないと室内は薄暗く風通しが悪い。しかし、開け放たれたドアからは西日が射し込み、開けても涼しくはならなかった。
「暑い、暑い」
オーイは呟き、扇風機のスイッチを押した。そして、大学の制服の白いYシャツと、黒のタイトスカートを脱ぎ出した。弦太郎は〝覗き〟をするつもりはなかったがそういう展開になってきた。
「やっ・・・」
弦太郎は思わぬ展開になって心が動揺した。その瞬間、プツっと呪術が解けてしまった。
オーイは背後に人の気配を察知し、ハッと振り返ると、顔色の悪い弦太郎がボンヤリとして突っ立っているのを目の当たりにした。
「ギャーッ!」
オーイは大声で叫んだ。弦太郎は急いで逃げたかったが、力を失って動けなかった。
――ま、まずい・・・・。
 相手に直接危害を加えたわけではないのに、案山子のように固まって声も出ない。
「ギャーッ、ギャーッ、ギャーッ!」
オーイは奇声をあげながら服を身につけ、ケータイを持って部屋の外に飛び出した。すぐに警察に電話を入れた。
「すぐに来てください。痴漢です。アパートはチェンマイ大学裏の――」
弦太郎はすぐに逃げ出したかったがまったく動けなかった。突っ立っている力すら失われ、ヨロヨロと二、三歩ふらついて床に座り込んだ。座り込んだ位置が偶然にも西日が当たる場所だった。
――太陽の光だ! 
 座りながら太陽のメディテーションをした。
「誰か助けて! 誰か来て!」
オーイは大声で叫んだ。警察に電話を入れたが到着するまでに時間がかかりそうである。外で仕事をしていたアパートの管理人がオーイの声に気づいた。
「どうした?」
「痴漢です! 男が部屋にいます! 捕まえてください!」
管理人は周囲にいた男たちを引き連れて、オーイの部屋に向かった。
弦太郎は数分間のメディテーションで体がほぐれてきた。オーイが人を呼んだ声が聞こえた。もう数分で人がやってきそうである。すぐに術に入って逃げなければならない。弦太郎は心を鎮めて術に入ろうと頑張った。駆けつけてくる人の足音が間近に聞こえてきた。あと十秒足らずでここに来るだろう。九、八、七、六、五――、〝チカッ〟、術に入った。
オーイのもとにアパートの管理人と男三人がやってきた。
「お嬢さん、大丈夫か?」
「大丈夫です。痴漢が部屋の中にいます」
 オーイは怯えながら言った。
「よし、捕まえてやるからな」
 男たちは緊張した面持ちで彼女の部屋のドアを開け、部屋の中をゆっくりと歩き回った。
「誰もいないぞ?」
「そんなことないです。絶対、部屋の中に隠れています。よく探してください」
浴室、ベッドの下、クローゼットの中――、どこを探しても男はいなかった。
「誰もいないぞ。どういうことだ?」
「そんなことないです。確かにいました」
カイは言い張った。男たちはベランダに出て下を見下ろした。かりにここから飛び降りたら、ここは三階なので大怪我を負ってしまうだろう。
「ハハハハ、誰もいないよ。変な酒でも飲んでたのか」
「飲んでいません。いま学校から帰ったばかりです」
「でも、いないものはいないじゃないか。幻か、お化けか、ハハハハ」
「笑い事じゃないんです。本当にいたんです。弦太郎っていう、あたしの親友の彼氏なんです」
「その男のことは知ってるんだ。じゃあ、なおさら幻覚だよ。暑さでちょっと頭がおかしくなったんじゃないか」
「そんなはずはありません――」
弦太郎はオーイの部屋から脱出するのに成功し、命からがら自分のアパートに帰り着いた。
「ああ、また死にかけた・・・・」
力を消耗して疲労感が強かった。そのままベッドに倒れこみ、すぐに深い眠りに落ちていった。

 ピピピピピ――
弦太郎はケータイ電話の音で目を覚ました。画面を見るとカイからの電話だった。弦太郎は着信するのをためらった。さっきの事がオーイからカイに伝わったに違いない。時間を見るともう夜の十時になっていた。ずいぶん長い時間眠っていたようである。ボンヤリしているうちに着信音が切れた。着信履歴を見ると、カイから数十回にも及ぶ着信履歴がずらりと並んでいた。彼女は今どうしても話したいようである。彼女の執拗な電話に弦太郎は恐怖すら感じた。
 ピピピピピ――
すぐにまた電話が鳴った。弦太郎は気持ちを落ち着けて受信ボタンを押した。
「ゴメン、寝てた」
弦太郎はすぐに謝った。すぐに返答はなく、しばらく沈黙があり、
「・・・・オーイから聞いたわ」
カイの声の調子は普段と明らかに違っていた。それは怒りと軽蔑の混じり合った声音だった。
「何を聞いたんだ?」
弦太郎は何気なさをつくろって言った。
「オーイ、泣いてたわよ」
 カイは弦太郎の口から昼間の事件を自供させるよう話をすすめた。弦太郎はその策略に気づき、いつものペースを崩さずに明るく話すことに努めた。
「だから何なんだ。何でオーイ泣いてたんだ? 彼女とは、今日の昼ごろ食堂で会ったけど」
「どうしてそんなことしたの?」
「そんなことって何だ? おれが何をしたって言うんだ?」
「信じられない・・・・」
「何だよ、さっきから、言いたいことがあるならはっきり言ってくれよ」
「じゃあ言うわ。オーイの部屋に忍び込んで着替えを覗いてたでしょ」
カイは声を張って正面から切り込んだ。弦太郎は彼女のあまりの直接的な切り込みに声がうわずった。
「な、何のことだ?」
「知らないとは言わせないわ」
「知らないよ」
「どうしてあなたはそんな変なことばっかりするの」
「変なことって何なんだよ。知らないったら、知らない」
「他にも今日、日差しの当たる青草の上で一人で寝転がってたっていうじゃない」
「あ、それは本当だ。ミャオに暴力を振るわれて体に寒気がしたから、温かいところで寝てたんだ」
「どうしてミャオに暴力を振るわれたのよ」
「あいつがおれの悪口を言ったからさ。ブン殴ってやったら、逆にやられた。――だけど、オーイの部屋で覗きをしたというのは知らないぜ」
「オーイは弦太郎が部屋にいたって警察に伝えたわ。どうするの? いつ、どうやって入って、どうやって逃げたの。あたしだけに正直に教えてちょうだい!」
「何のことだよ。何の証拠があってそんなこと言うんだ。おかしいのはオーイの方だぜ。今日食堂で会ったときも何だかよそよそしかったし。おれを犯人扱いするのはやめてくれよ」
「だってオーイが嘘をつくわけがないもの。弦太郎の方が怪しいわ」
「カイはおれよりもオーイを信じるというわけだな。見損なったよ」
「だって弦太郎、山の診療所に行ってから、なんだか人が変わっちゃたみたいなんだもの。信じたくても信じられないわ。どうしてそんなことしたのよお!」
カイは興奮きわまって泣き出した。
「だから、おれがオーイの部屋にいたなんて、証拠は何もないだろ。アパートの管理人たちがオーイの部屋に来たときは、誰もいなかったじゃないか」
「・・・・どうして、アパートの管理人が来たっていう状況を知ってるのよ」
「あっ・・・・」弦太郎はまずいことを言ってしまったと動揺した。「いや、話の内容からそういうことは大体想像はつくだろ」
「やっぱり弦太郎は覗きをしてたんだ・・・・」
「そんなことするわけないじゃないか」
「三階から飛び降りて逃げたんでしょ」
「そんなことできるわけないないだろ。三階から飛び降りたら足の骨を折ってるぜ。おれはピンピンしてる」
「怪我したから電話に出られず、ずっと寝てたんだ」
「違う、眠たかったら寝てただけだ。明日会えばわかるさ。普通に歩いてるから」
「・・・・・・・」
カイはしばらく沈黙し、何かの決断を下したように言葉を発した。
「もう、あたしたち終わりね。別れましょう」
「ああ、わかった。そうしよう」
弦太郎はあっさりと同意した。大事に想っていた女性だったが、今はまったく未練がなかった。
「どうしてそんなにすんなり認めるのよ。ひどい! 長い期間付き合ってきて、たくさん二人で時間を過ごしてきたのに!」
 カイはてっきり、「ちょっと、待ってくれ――」と別れを認めない方向に弦太郎が話を進めるものと思っていた。さらには、
「なんだよ、別れを切り出してきたのはカイの方だろ」
カイはその意地の悪い言葉を聞いた瞬間、弦太郎に対する想いがすべて吹き飛んだ。どうしてこんなタチの悪い男と今まで付き合ってきたのか、自分自身がわからなくなった。
「あなたとなんか一生会いたくない! 絶交よ! でも、お金は返してね、すぐに」
「無理だよ。返せない」
「返すつもりがないのね。ひどい男! もう知らない! あなたの顔なんか一生見たくない!」
プツリと電話が切れた。弦太郎はケータイを机に放り投げて、またベッドに横になった。
――長い一日だった。いろんなことがあった。カイとも別れてしまった。
ショックも少なからずあったが、重荷を下ろされたような開放感も感じていた。


  二十三
「彼と別れました・・・・」
カイは開口一番、呪術師のダー婆さんに告げた。
「何だい? どうしたっていうの? 突然やってきて」
カイの様子がいつもと明らかに違っていた。
「ダーお婆さんにどうしても話を聞いてもらいたかったから」
「そうかい、そうかい、ゆっくり話を伺うわ。どうぞ中にお入り」
カイは部屋に通され、板床に腰を下ろした。祭壇には籠に盛られたフルーツが供えられており、ろうそくに火が灯されていた。
「で、別れたってどういうことよ?」
「もう彼の素行の悪さには辟易しました。もうついていけません。最低の男です」
「この前は好き、好きって言ってたじゃないか。言うことが百八十度変わっちゃったわね。で、あれはどうなったの。ラブマジックの秘薬は?」
「飲ませようと頑張ったんだけど失敗しました。オレンジジュースに混ぜたんだけど、彼は〝臭いがする〟って一口も飲んでくれませんでした」
「それは残念だったわね」
「もういいんです。今になって思えば、逆に飲ませなくて正解でした。彼の本性はひどい男だったんですだから」
「何をそんなに怒っているんだい。彼が何か事件でも起こしたのかい?」
「学校で喧嘩はするし、私の友達の部屋にこっそり忍び込んで痴漢行為を働こうとするし、マフィアと付き合いはやめないし――。あたしはダーお婆さんの言いつけを守って精一杯愛を注ぎました。だけど、効果はありませんでした。あたしの力ではまったく手がつけられませんでした」
カイは話しているうちに自分が惨めになり嗚咽した。
「泣くんじゃないよ、カイ。あなたは若いんだから、これからもっと素敵な出会いがあるんだからね。弦太郎なんかと縁が切れて正解だよ。この前も忠告したけど、彼の心は離れていく運命だったのよ。カイは本当によくやったよ。そうやって人間は傷ついて魂を浄化していくものさ。カイ、あなたは本当に頑張ったよ」
ダー婆さんは泣きむせぶカイの背中を撫でながらやさしく言った。
「彼と別れてからあまり寝れなくて、体調が悪いんです」
「そうりゃそうだよ。長い間愛していた人に裏切られたんだから。でもね、すべて時間が解決してくれるわ。嫌なことなんて忘れていくものよ。――まったく、こんな可愛い娘の心を傷つけるなんて、弦太郎にお灸を据えてやらないとね」
ダー婆さんは腕を組んで眉をしかめしばらく思案した。
「カイ、〝復讐の呪い〟というのがあるけど聞いたことある?」
「〝復讐の呪い〟ですか? 呼んで字のごとく、ですよね?」
「そう、復讐の呪いをかけると、悪いカルマを持っている輩は原因不明の病気になったり、事故に遭ったり、時によっては苦しんだ挙句、死ぬ――、そういう恐ろしい呪術なのよ」
ダー婆さんは険しい目つきで声をひそめて言った。カイはその迫力に押されゴクリと唾を飲み込んだ。
「彼にまだ未練はあるかい?」
「未練はありませんが・・・・」
「呪いをかけることは、彼の人格を正すうえにも大切なこと。もし、彼をこのままずるずると放っておいたら、麻薬に溺れて廃人になって――、そんな悲惨な未来しかないでしょ?」
「ええ、そうですが・・・・。でも、呪いをかけるのは、ちょっと怖いです・・・・」
「あなたはどこか甘いところがあるわね。鬼手仏心って言葉があるでしょ? 慈悲深い心と鬼のような厳しさ、人を教育するためにはこの二つが同時に必要なの。わかる?」
「はい・・・・、わかります。いまの彼にとって、ダーお婆さんが言うように、厳しく罰せられることは大切なことでしょう」
「そうよ、わかればいいわ。そうと決まれば、今から復讐の呪いを始めましょう。懲らしめてやりましょう」
ダー婆さんはカイの目を見つめながらニヤリと笑った。
「早速、準備に取り掛かるわ。――カイ、外に出て、三十センチぐらいの木っ端拾ってきて頂戴」
「はい――」
ダー婆さんは、カイが拾ったきた木っ端を受け取ると、それを彫刻刀で手早く器用に削り出し、シンプルな人形を作り上げた。仕上げに、その人形の背中に〝弦太郎〟と赤文字で名前を書き込んだ。
「さあ、復讐の呪いを始めるわよ」
ダー婆さんは、窓の扉をすべて閉めて光を遮断し、祭壇のろうそくをさらに増やして火を灯した。室内はろうそくの炎で赫赫と染まり、妖しげな雰囲気に包まれた。
「さあ、あなたも一緒に手伝うのよ。この白い紐でこの人形をできるだけ強く絞めつけるの。そのとき、〝怨んでやる〟って声に出しながら締めつけるのよ」
「〝怨んでやる〟ですか・・・・」
「そう――」ダー婆さんは白い紐を人形の頭から強く巻きつけた。「さあ、大きな声で言いなさい」
「怨んでやる、怨んでやる、怨んでやる――」
カイは怨みを念じながら、紐を人形に白い紐をぐるぐる巻きに巻き付けていった。
「さあ、もっと強く念じて言うのよ! 怨んでやる、怨んでやる――」
「怨んでやる、怨んでやる、怨んでやる――」
人形は白い紐ががっちりと巻きつけられ、ミイラ男のようになった。
「仕上げに霊界に言葉を届けるの」
ダー婆さんは、祭壇の前にあった三十センチ四方ほどの大きさの頑丈そうな木箱の上に人形を置いて、早口で呪文を唱え出した。ダー婆さんの顔と白い頭髪は、炎の光に照らされてオレンジ色に染まり、般若の面のような恐ろしい形相になった。
「アブヒサパナトゥムヘ・アブヒサパナトゥムヘ・アブヒサパナトゥムヘ・アブヒサパナトゥムヘ――」
カイはダー婆さんの気迫に押され、彼女の背後で小さくなって手を合わせた。ダー婆さんは汗にまみれながら呪文を一時間以上唱えつづけ、
「キエーッ!」
 締めくくりに耳をつんざくような叫び声をあげた。
「さあ、終わったわ。ゲホ、ゲホ――」
ダー婆さんはしゃがれた声でそう告げると、苦しそうに咳払いをした。二人は汗びっしょりになっていた。ダー婆さんはよろめきながら立ち上がり部屋の扉を開けた。太陽のまぶしい光が部屋に注ぎ込み、室内のこもった熱気が外に流れ出た。部屋が明るくなると、ダー婆さんの目の下が黒ずみ、顔相が病人のようにやつれていることが明瞭に見て取れた。カイも疲れ果ててゲッソリとなった。

弦太郎がアパートの自室でゴロゴロしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
――誰がきたんだ? またカイが来たのか? 
ドアを開けると、そこにはタムがいた。
「師匠――」弦太郎は驚いて言葉を詰まらせた。「このアパートの住所を教えてませんでしたよね。どうしてぼくがここにいることがわかったんですか」
「呪術師は臭覚に敏感だ。お前の臭いをたぐっていけば簡単に見つかるさ、ハハハハ」
弦太郎にはタムの言うことが冗談だか、真実なのか区別がつかなかった。
「どうして突然来られたんですか?」
「お前は危なっかしいから、忠告が必要だと思ってな」
「そうですか。――あ、どうぞ。汚いですが中に入ってください」
弦太郎はタムを部屋に招き入れた。
「いやあ、師匠が部屋に来てくれるなんてありがたいです。ぼくもちょうど師匠に会いたかったところだったんです。いろいろ話したいことがあって」
「お前、呪術を人間に使って死にかけただろ?」
「ええ、その通りです・・・・。ああ、師匠には悪行をすべて見透かされてしまう。――学校で悪口を言われて腹が立って、透明になってそいつをブン殴ったんです。そうしたら力を失って死にかけました」
「呆れたやつだ。何度言ったらわかるんだ。人間には絶対危害を加えてはいけないと言っただろ。呪術を悪巧みに利用すると力を失ってしまう。脅しでも冗談でも何でもないんだ」
「身を持って学びました・・・・」
「呪術師の道はたくさんの落とし穴がある。掟を守らないと命なんか簡単に失ってしまうぞ」
「相手がぼくのことを侮辱したんで、ついカッとなってしまって・・・・」
「人間に何を言われても気にすることなんかないさ。人間なんて哀れな存在なんだから」
「どうして人間は哀れなんですか?」
「金と権力とセックス目的に命を消耗するだけの存在なんだから」
「そう言ってしまえば身も蓋もない気がしますが。――じゃあ、呪術師はどういった存在なんですか?」
「呪術師は、〝呪術〟という鍵を使って真理の高みを目指す存在だ。お前はそんな崇高な鍵で、人間に悪ふざけをしようとするから危険な目に遭うんだ。使い方を誤るな」
「修行が足りないです・・・・」
「早速、呪術の練習をするか」
「力の場所に行きますか」
「今日はここでいい。さあ、術に入るんだ」
弦太郎はタムに促され、呼吸を正し、心を鎮めて術に入った。
「動き回ってみろ」
弦太郎は術に入った状態で部屋をグルグルと歩き回った。
「次は物を持ってみろ」
弦太郎は手元にあった時計やカバンを持ち、歩き回った見せた。
「なかなかうまくなったじゃないか。今日はさらに進化した技を伝授しよう」
タムはそう言うと術にパッと一瞬で入り、光のオーラを発した。
『わしの声が聞こえるか』
弦太郎はビクッとした。タムの声が耳からではなく頭の中から直接聞こえた。しかも耳から聞こえる音よりも鮮明だった。
「聞こえます」
応答した瞬間、呪術が途絶えた。呪術が途絶えるとタムの姿は見えなくなったが、彼の声は頭の中からつづけて聞こえてきた。
『術に入ってない状態でも聞こえるだろ?』
「はい、聞こえます。これは〝テレパシー〟ですか。なんか不思議な感覚ですね。師匠は術に入っている状態でも、言葉の伝達ができるんですね」
「今のお前だから聞こえるんだ。以前のお前だったら聞こえてはいまい。お前は気づいていないだろうが、日々お前の力は強くなっている。――さあ、休んでいないで練習だ。術に入るんだ」
弦太郎は心を鎮めて術に入った。
『喉でしゃべろうとするな。それは肉体の使い方だ。意識でしゃべるんだ』
「意識で、ですか・・・・」
話した瞬間、また呪術が途切れてしまった。
「難しいですねえ」
『心をクリアーにしていれば簡単にできる。いらん事を考えるな』
「ぼくの心は雑念が多すぎます。ハードルが高いですね」
『これぐらいでハードルが高いなんて弱気なことを言うな。透明の術の最後の関門、〝壁抜け〟はもっと難しい』
「以前見た師匠のあの技は、さらに上級ですか」
『〝壁絵抜け〟が自由自在にできるようになったとき、お前は一人前の呪術師として完成する』
「ゴールが小さくはあるけど見えてきましたね」
『その前にテレパシーを仕上げろ』
弦太郎は再び術に入った。雑念を振り払い、頭に浮かぶ概念を一つに絞って意識化した。
『聞こえますか』
念じた瞬間、自分の声が自分の頭の中から響いてきた。
『できた、これですね』弦太郎は顔をほころばせた。『なるほど、こういうことだったのか』
『コツを掴んだか』
『何となくですが』
その瞬間、術が途絶えた。油断すると雑念が湧き失敗してしまう。
「よし、もう一回――」弦太郎はつづけて術に入った。
『師匠、聞こえますか』
『マスターしたようだな。次に進もう』
『もう次に行くんですか』
『マスターしたのに足踏みしていてもしょうがいない。次は〝壁抜け〟を教える。よく見ていろ』
光を放った状態のタムは普段どおりに歩き出し、テーブルを通過し、閉められたドアも通過して廊下に出た。またすぐに壁を通過して部屋に戻ってきた。
『スゴイ! 師匠、まるでお化けみたいじゃないですか』
『お前も練習すればできるようになるさ。だが、この技は最後の関門ということだけあって自由自在に行うのは難しい。テレパシーのように簡単ではない。心の最奥の静寂の領域に入らないといけないからな』
『でも、なんかできそうな気がします。よし――』
弦太郎はタムの真似をして静かに歩き、ドアに向かっていった。
ゴツン――
正面から顔をぶつけて呪術が途切れた。
「痛タタ。やっぱり簡単じゃないですね」
「そりゃそうだ。形を真似しただけではできない――」タムも呪術を解いて姿を現した。「しばらく休憩だ。お前はかなり力を消耗している。太陽のメディテーションで力を蓄えろ」
「はい」
弦太郎はベランダに出て、太陽のメディテーションを開始した。暖かい日差しは気持ちよく、体に熱が蓄積するのを感じた。が、そのとき、何かユラリとしたものが体に巻きついてくるような不快な触覚を感じた。
「ウッ、何だろう、嫌な感じ」
 弦太郎は後ろを振り返ってタムを見た。タムは笑っていた。
「師匠、何かしましたか? また新しい呪術ですか?」
「違う、呪術とはまったく関係ない。妙なお客さんがやってきたようだ」
「お客さん?」
「お前はいろんな人間に怨みをもたれているみたいだな、ハハハハ」
「怨みですか?」
「今お前の体に巻きついているものは何かわかるか?」
「いや、まったく見当がつきませんが・・・・」
「死霊に憑かれているぞ。お前を探してどこからか飛んできたようだ」
「死霊ですか? ヒャッ、気味悪い」
「正確に言えば生霊に支配された死霊だな」
「生霊に支配された死霊? どんな形をしているんですか」
「形といっても物質のように明瞭じゃないが、白くて長いタオルみたいなものと思っていいんじゃないか」
「放っておいて大丈夫ですか」
「いや、大丈夫じゃない。そのままだと体の調子が悪くなるだろうよ、ハハハハ」
「師匠、笑いごとじゃないです。どうしたらいいですか? 何でぼくが人に怨みなんか持たれなくっちゃいけないんですか」
「お前、拝み屋の婆さんに知り合いはいるのか?」
「拝み屋?――」弦太郎は拝み屋の婆さんと聞き、ダー婆さんを思い出した。「以前、除霊してもらった呪術師の婆さんは知っています。その婆さんに咬みつかれて怪我したことがあります」
「そいつが死霊を操っているようだ」
「あのババア何しやがる。そうか、わかったぞ。カイが相談に行ったんだな――。実は師匠、最近恋人と別れました。ぼくは彼女に一方的に誤解されてしまったんです。彼女はババアのところへ行って、こんな死霊をよこしたんだと思います」
「この前、気味の悪いジュースを飲まされそうになったって言ってだろ? その気味の悪いジュースというのも、この拝み屋の婆さんが関わっていたんじゃないか、ハハハハ」
「そうかもしれません。――師匠は婆さんのことを〝拝み屋〟と表現しましたが、彼女自身は自分を〝呪術師〟と言っています。婆さんも呪術師の仲間なんですか」
「いや、婆さんは呪術師でも何でもなく、単なる〝拝み屋〟だ。前にも言っただろ。呪術師と人間の違いは、呪術師は力の魂を持っているが人間は持っていない。婆さんは普通の人間だ。だが、人間でも特殊体質の人間だな。彼女は二つの特殊な能力を持っている。一つは、ある死霊と強い関係を持っている。もう一つは生霊を操る能力を持っている。今の場合は、自分の生霊を分裂させて死霊を操っているんだ。でも、こんなことをつづけていると、婆さん自身が自分の生霊に首を絞められるだろうよ」
「そんな奇妙な能力を婆さんは持っていたんですか。でも、師匠、婆さんは以前、ぼくに咬みついて悪霊を追い出したとか言ってましたけど、あれは何ですか?」
「単なる金儲けだろ。毎回そんな自分の生霊を分裂させるような激しいことをするとは思えない。大方除霊なんてパフォーマンスだろうよ」
「そんなことだろうと思った・・・・。で、この死霊をどうしたらいいですか?」
「そうだな・・・・、ココナッツの殻に封印して、土に埋めたらどうだ」
「それで問題は解決ですか」
「そうしておけば、死霊も消滅するだろう」
「ココナッツの殻か・・・・。買ってこないといけませんね。空のペットボトルではダメですか」
「じゃあ、それで代用してみるか」
タムはペットボトルを持ったまま、術に入って姿を消した。
『弦太郎、もう一度術に入って姿を消してみろ。おもしろいぞ』
弦太郎も術に入った。すると、タムが言っていたような白くてユラユラした長いものが、ベタンダの周りを不安定に飛び回っているのが見えた。
『あれが死霊ですか』
『今あいつはフラフラ飛び回っているだろ。あれは混乱しているんだ。弦太郎の姿が突然消えてしまったから』
『死霊でも我われの姿が見えないですか?』
『もちろんだ。我われの姿は呪術師以外、見ることができない』
『でも、どうして術に入ると、ああいう普段見えないものが見えるんですか』
『人間の肉体という条件付けでは死霊の姿は知覚できんが、呪術を使って肉体を超越すると、今まで見なかったものが見えることがある』
『ヘェー・・・・。で、あいつをどうやって捕まえましょう』
『弦太郎、呪術を解いて人間の姿を現してやれ』
「はい」
弦太郎が姿を現した瞬間、また気味の悪い感覚が首の周りに感じた。が、すぐにその感覚がスッと消えた。
「――捕獲したぞ」
タムが姿を現し、ペットボトルを見せた。弦太郎の目には空のペットボトルに見えた。
「術に入って見てみろ」
弦太郎は術に入ってペットボトルを見ると、白い死霊が窮屈そうに幽閉されてモゴモゴと動いているのが見えた。
「じゃあ、これを空き地の土の中にでも埋めておくといい。そうすればこいつの寿命も尽きるだろうから」
「死霊にも寿命があるんですか?」
「もちろんだ、あらゆる事象には寿命がある」
二人は部屋を出て、ペットボトルを空き地の土に埋めた。
「ああ、スッキリした」
「いまごろ拝み屋の婆さんは混乱しているだろうな」
「婆さんにも影響があるんですか?」
「婆さんの生霊も半分幽閉されてしまったから影響があるだろう。どうだ、婆さんのところへ行って確かてみるか」
「面白そうですね。行きましょう」
二人はダー婆さんの家に向かった。

「さあカイ、これをお飲み。これは特製の健康茶よ」
ダー婆さんは奥から冷えたお茶を持ってきた。
「ありがとうございます。すごく喉が渇きました」
「とっても体にいいわよ。お代わりは何杯でもあるから遠慮しないで言って頂戴」
カイはお茶を一気にゴクゴクと飲み干した。
「ああ、おいしい。集中してすごく疲れました」
「そう、復讐の呪いは一番疲れる儀式。だから、特別の人にしか紹介しない特別なもの。カイよりも私の方がもっと疲れるのよ。人形に魂を込めるからね。この儀式が終わると三キロは痩せるわ」
「そんなに痩せるんですか」
「カイのためよ。弦太郎は絶対地獄を見るからね。あなたの仇はちゃんと討ってあげたから」
「彼がとにかく正常な人間性を取り戻してくれればいいんです。もう赤の他人だから、彼がどんな人生を歩むかなんて関係ないですが」
「そう、そう、いつまでも離れていった男のことなんか考えていちゃダメ。今日のこの儀式を境にすべて忘れるのよ。もう完全に縁が切れたと思ってね」
「しばらくは恋もできそうにないですが、将来いい出会いがあれば・・・・。ん? ダーお婆さん、どうしました? 苦しいですか?」
突然、ダー婆さんは胸を押さえて前のめりになった。カイは彼女の背中をさすった。
「ウウウー・・・・」
「大丈夫ですか? ダーお婆さん、横になりますか。ああ、どうしよう」
カイはどう対処すればいいかわからず狼狽した。
「苦しい、苦しい、胸が、胸が、ああ――」
ダー婆さんは横になって喘ぎ出した。
「どこかに薬ありますか?」
 ダー婆さんは苦しんでもがいていたかと思ったら、ピタリと動きが止まり、遠方を眺めるような目つきのまま硬直した。
「ダーお婆さん、どうしましたか?」
カイが声をかけた瞬間、ダー婆さんは恐ろしい形相になりカイを睨みつけた。
「お前のせいじゃ、お前のせいじゃ。坊やを返せ、坊やを返せ。ギャー!」
急に気が狂ったかのように大声で叫び、カイに飛び掛った。カイは床にひっくり返った。
「キャー、やめて!」
「このアマ、坊やを返せ!」
ダー婆さんはカイに覆いかぶさり、両手でカイを打った。
「助けて!」
カイは力いっぱいダー婆さんを押し退けた。ダー婆さんはカイに押された勢いで祭壇に体をぶつけ、祭壇に供えてあったフルーツ、ロウソク、仏像などが、ガラガラと大きな音をたてて床に散らかった。
「このアマ! 何をしやがる!」
ダー婆さんは手に触れるものを手当たり次第、カイに向かって投げつけた。カイは上体を前に伏せた。ダー婆さんはカイの動きが止まったと見ると、彼女の体に馬乗りになって覆いかぶさり何度も殴りつけた。
「このアマ、ただじゃおかんぞ!」
「ギャー、助けて!」
カイは悲鳴をあげたが、ダー婆さんは攻撃の手をゆるめなかった。
「これでもか、これでもか――」
 激しい暴力によって、カイはとうとう失神してしまった。ダー婆さんはカイが失神したと見るや、立ち上がって踏みつけるように何回か蹴りを入れた。
「坊やを返せ、私の大切な坊やを返せ」
ダー婆さんは大声で喚きながら部屋を歩き回り、目のつく物を手当たり次第、蹴るやら投げるやらして破壊していった――。

「――師匠、着きました。ここがダー婆さんの家です」
弦太郎はバイクを停めると、タムはバイクの後ろからヒョイと降りた。
「家の中で何か事が起きている気配だな。姿を消して中に入るぞ」
「了解」
二人は術を使って姿を消した。ダー婆さんの高床式の家の階段を上ると、正面のドアが開けっ放しになっており、そこから中の様子を窺った。
『何かひどいことが起こっていますよ』弦太郎は呆れたように言った。
『ずいぶん荒れてるな、ハハハハ』
ダー婆さんが一人で暴れており、室内は散らかり放題だった。年老いた婆さんのどこにそんな力が秘められているのか不思議に思えるぐらい、彼女は一人で暴れ回って大声で喚いていた。弦太郎は床に寝そべって失神しているカイを見つけた。
『あっ、カイだ――』弦太郎は近づいて、カイの体を揺さぶった。『大丈夫か』
『気を失っているみたいだな。しばらくしたら目を覚ますだろう』
「坊や、坊や、どこに行ったんだ。坊や、帰っておいで」
 ダー婆さんが喚きながら近づいてきたので、二人は婆さんに触れないよう彼女から距離をとった。
『婆さんの利用していた死霊はどうやら彼女の死んだ赤ん坊の魂みたいだな。あそこに木箱あるだろ? あの中に赤ん坊が入っているぞ』
タムが祭壇の前に置かれている頑丈そうな木箱を指差して言った。
『赤ん坊ですか? ヘェー、見てみよう』
弦太郎は暴れるダー婆さんに近づかないように間合いを取りながら、祭壇に近づき木箱を開けた。中にはカラカラに干からびた、片手の掌にのるほどの小さなミイラが入っていた。
『本当だ。これは婆さんにとって深い心の傷なのかもしれませんね』
『そんなところだろう』
『師匠、婆さんをどうしたらいいですか? このまま放っておいたら、気が狂ってしまいますよ。もう手遅れかな』
弦太郎がタムの方を振り向いた瞬間、ダー婆さんがでたらめに投げたプラスチックの皿が彼の後頭部に命中した。
――カツン
 その瞬間、呪術が切れて姿を現した。
「痛タタ――」
弦太郎が後頭部を手でさすっていると、ダー婆さんは弦太郎を見つけ、目を見開いた。
「この男、いつの間に入ってきた! コソ泥が!」
ダー婆さんは目を血走らせながら弦太郎に飛び掛った。弦太郎はダー婆さんの攻撃を避けきれず、もんどり打って倒れた。
「坊やをどこにやった! 返せ! コソ泥!」
ダー婆さんは弦太郎に覆いかぶさり、両拳で弦太郎を打った。
「婆さん、やめろ。おい、このクソババア」
『弦太郎、落ち着け――』タム師匠の声が頭に響いた。『こういうピンチのときこそ呪術を飛躍させる絶好のチャンスだ。心を鎮めて術に入り、さらには心の奥底の死の領域までいくんだ。そうすれば物質を超越できる』
『物質を超越・・・・』
弦太郎はダー婆さんに叩かれながらも無抵抗になって体を脱力させて静かに心を落ち着けた。さらに深く深く心の奥底に入っていこうとすると、ダー婆さんは今度は弦太郎の首を両手で絞めつけてきた。さすがにここは抵抗しようと一瞬心が揺らいだが、死の静けさに向かう最高のチャンスと考え力を抜いた。この状態で数十秒もすれば意識は失われるだろう。
――無、何もない、ただただ無。
 その瞬間、弦太郎の体は重力から開放されたように軽くなり、ダー婆さんの体をスーッと通り抜けてフワリと立ち上がった。ダー婆さんは、突然目の前から弦太郎が消えてしまい、勢い余って頭を思い切り床にぶつけた。
「ギャッ!」
 ダー婆さんは失神してしまった。
『何が起きたのだろう?』
弦太郎は自分でも今起きた感覚が理解できなかった。
『それが〝壁抜け〟という技だ』
光に包まれたタムが微笑みながら言った。
『突然スイッチが入って、自分でもわけがわかりません』
『それを使いこなせられるように練習するんだな』
『スゴイことができた。自分で自分を褒めてやりたいです。これでぼくも一人前の呪術師ですか?』
『まだだ。いまのは偶然できただけだからな。絶体絶命のピンチがそうさせただけだ』
『そうですか。でも、経験できたことは大きいですね』
『ああ、それは大きいな。実際に自分でできたんだから』
近所の年配の女性がダー婆さんの家にやってきた。
「あら、これはどうしたことだい。大変だわ」
彼女は室内の散らかりようを見て驚いた。失神しているダー婆さんを見つけ揺り動かした。
「ダー婆さん、しっかりしな。これはどうしたことだい? あら、若い娘さんも――、あんたもしっかりしなさい、どうしたんだい?」
カイは朦朧と目を覚ました。
「うう、痛い・・・・。突然、ダーお婆さん、気が狂って暴れ出し――」
 涙を流しながら事情を説明した。
「そうかい、それは大変だったわね。もう大丈夫だよ。婆さんはいま意識を失ってるから。今のうちこの場から非難しよう」
近所のおばさんはカイを連れて出て行った。
『師匠、婆さんをこのまま放っておいて大丈夫ですか。意識が戻ったらまたまた暴れ出すんでしょうか?』
『多分、元に戻るだろうよ』
『元に?』
『婆さんは、愛用していた赤ん坊の死霊と、飛ばした自分の生霊を同時に失って、一時的に混乱しただけだ。目が覚めれば、特殊体質が消えた普通の婆さんだ』
『この部屋の後片付け、ひとりで大変ですね』
『じゃあ、お前も手伝うか』
『いや、それは御免です。婆さんに関わりたくないです』
『じゃあ、行くか』
二人はダー婆さんの家を後にした。


  二十四
 コン、コン、コン――
夜、部屋をノックする音が聞こえた。
――こんな時間に誰だろう? また、師匠だろうか? アパートの大家さんだろうか? 
 パンツ一枚の姿でリラックスしていた弦太郎は考えた。居場所を知人の誰にも知らせていないので、突然の来訪者は限られている。ドアをゆっくりと開けると、そこにはカーキ色の制服を着た屈強な体つきの警察官が三人立っていた。リーダーらしき警察官が一歩前に出て口を開いた。彼は身長が百九十センチもありそうな大柄な体躯で、顔が馬のように大きい男だった。
「あなたは弦太郎さんですよね?」
「はい、そうですが――」弦太郎はおずおずとこたえた。「どうしましたか?」
「私はタイ警察麻薬取締局巡査長のアーティットと言います――」身分証をサッと差し出した。「突然の来訪で申し訳ありませんが、弦太郎さんが麻薬常習者の疑いがあるとの情報を得まして家宅捜査に来ました」
「えっ、ぼくが麻薬常習者? それで突然家宅捜査ですか? か、構いませんが、どうぞ――」
弦太郎は部屋に警察官を招き入れた。三人の警察官は部屋に入ると、クローゼットの中、衣装ケースの引き出し、カバンの中など、麻薬常習者が麻薬を隠しそうな場所を重点的にチェックした。アーティット巡査長は机の上に灰皿がないことに気づき訊ねた。
「タバコは吸わないんですか?」
「臭いが好きではないので吸いません」
三人の警察官はしばらく部屋を探し回ったが、それらしきものがまったく見つからなかった。三人は顔を見合わせて、小声で「何もなさそうだ、シロだな、シロ――」と言って肩をすくめた。アーティット巡査長は弦太郎に単刀直入な質問をした。
「弦太郎さんは麻薬に手を出したことがありますか?」
「もちろん、手を出したことはありません。最近、大学の友達から麻薬常習者だって、変な噂を流されて困っています」
 弦太郎は平然とこたえた。
「そうですよねえ、タバコすら吸わないんですもんね」
「酒もたまに友達と外で飲むだけで部屋では飲みませんし」
「山岳地帯に隠れているマフィアと交流があるとも聞いていたんですが」
「ありませんよ。偶然知り合った山岳少数民族の治療家の方に知り合いはいますが、マフィアでもなんでもありません。彼は心やさしいお爺さんです。それを意地の悪い輩がマフィアと付き合ってるって変な噂に仕立てあげたんです。――でも、お巡りさんはそんな情報、誰に聞いてぼくに容疑をかけたんですか」
「いやね、最近、若い人の間で麻薬が大量に出回っていて、少しでも情報が入りますと、昼夜問わずこうして捜査しているんです。今回は、チェンマイ県警の主任の方から直接捜査依頼があってお邪魔したんです」
「チェンマイ県警の主任から、ですか? ぼくの名前がどうしてそんなところにリストアップされているんでしょうか?」
「ドン君って知ってるかな?」
 弦太郎はいきなりドンの名前を出されて驚いた。
「ええ、彼は同じ学部の学生ですが」
「彼の叔父さんだったかな、その人がチェンマイ県警の主任なんですよ」
 アーティット巡査長は裏事情を気さくに話した。弦太郎は、ドンが以前、親戚に警察官のお偉いさんがいるからちょっとした交通違反ぐらいなら簡単にもみ消せると自慢していたことを思い出した。
――あの野郎、チクリやがったな・・・・。
「弦太郎さんは、学校で授業中に突然叫んだり、笑ったり、情緒不安定になるっていうことも聞きましたが」
「確かに精神的に不安定な時期がありましたが、今はそんなことはありません。――そんな細かいことまで伝わっているんですか・・・・」
「ハハハハ、そりゃあ仕事上、いろいろと情報を収集していますからね。――でも今回、家宅捜査させて頂いて、弦太郎さんには何も問題はなさそうですね。誠にご面倒をおかけしました。それじゃあ」
三人の警察官は素直に謝罪をして、明るい様子で部屋を出て行った。彼らが去っていった後、部屋でポツンと一人になると、弦太郎はだんだんミャオとドンに対して憤りが湧いてきた。
――あいつらおれを嵌めようと思って悪さしやがって。まったくひどい奴らだ。畜生、何か復讐してやれないものか・・・・。でも、また呪術を使うと自分自身の命を削ってしまうわけだし、やっぱり復讐はやめておくか。まあ、警察に捕まらず、何も被害もなかったことだから許してやるか。
  弦太郎は自分自身をなだめ、怒りの炎を鎮火させた。

翌日、弦太郎は大学に行き、いつものように講義を受けていた。ミャオとドンが何か話しかけてきても一切無視してやろうと考えていたが、とうとう彼らは午前中の講義には出てこなかった。
昼休みになり、ケータイの呼び出し音が鳴った。画面を見ると送信先不明だった。
「誰だ?」
 一応電話に出た。
「弦太郎さんですか。こちらは学生課です。いまこちらに来てもらえませんか。連絡したい大切なことがあります」
――どうして学生課から? いったい何の用事だろう? 
 弦太郎は怪訝に思いながら学生課に赴いた。
「どうぞ中に入って――」
職員が三人おり、年配の女性職員から椅子に座るよう促された。学生課の事務所には窓がなく、空気がこもっていて息苦しさを感じた。年配の女性職員が机を挟んで正面に腰を下ろした。
「連絡したい大切なことってなんでしょうか?」
弦太郎は早く用事を終わらせたく思い、自分から切り出した。
「あのですね・・・・」女性職員は少し言いずらそうに話し出した。「弦太郎さん、日常生活で法に触れるようなことしましたか?」
「ん? 法に触れるといいますと?」
「警察のご厄介になるとか」
「いいや」
 弦太郎は予想外の質問に驚き、大きく首を横に振った。
「本当に何もないですか?」
 女性職員は弦太郎の目を覗き込むように言った。
「ああ――、実は昨晩、警察官がアパートに家宅捜査に突然やってきて、手入れを受けました。もちろん、捜査の結果、異常なしということで帰って行きましたけど」
「警察官が家宅捜査にやってくるということは、非合法的なことに手を染めているという疑いを持たれていたわけですよね。“今回は異常なし”というだけで」
「何が言いたいんですか。ぼくは何も悪いことなんかしていませんよ。ぼくは罪なくして家宅捜査され、プライベートを侵害された被害者ですよ」
 弦太郎は興奮して声が大きくなった。
「と、言いますのはね、学生たちの間から弦太郎さんに関して、不穏な声が多々あがってるんですよ。いろいろな情報が学生課に寄せられていまして」
「だから問題が起きない前に予め警告しておこうと、それでぼくをここに呼び出したというわけですね」
「いや・・・・。職員会議の結果、〝警告〟ではなく、一カ月の〝停学〟ということに決まりました」
 突然の勧告に弦太郎は呆気にとられた。
「停学! ちょっと待ってくださいよ。ぼくが何をしたっていうんですか。罪を犯した証拠が何もないのに、なぜ突然停学になるんですか」
「学生たちの声を総括して、大学側はそのように判断を下しました」
「何を言ってるんですか。そもそも学生たちの声って具体的に誰なんですか。――それはミャオとドンですね!」
「匿名の情報なのでそこらへんは明かせませんが」
「あいつらは嘘つきですよ。そんなもの、ぼくは認めませんからね。ぼくは学校に来ますよ」
「今さらそんなことを言っても、もう決まったことですので。それに退学じゃないんです。一カ月の停学だけなんです。停学処分を終えてから勉強に励めばいいじゃないですか」
「停学といっても、ぼくは欠席が多いから、そんなに休んだら必然的に留年します。留年するぐらいなら学校辞めますよ」
「辞めるかどうかは本人の問題です。学校側の処置とは関係ありません。それに本当に勉強したかったら、一年ぐらい留年したからって構わないじゃないですか」
「いや、いや、その件についてもう少し話し合いましょう。ぼくは何もやっていないんです。根も葉もない噂だけで断罪されたらたまったもんじゃありません」
「――今日の連絡はこれだけです」
女性職員は、話が長引くのは御免だと、席を立って離れてしまった。弦太郎は椅子を蹴飛ばして学生課を出た。
「クソ、なんてこった!」
弦太郎は怒りは収まらず、ベンチやゴミ箱など蹴飛ばせるようなものが目に入ると、手当たり次第蹴飛ばしながら歩いた。
「ミャオとドンめ、目にモノを見せてやる!」
弦太郎は考えた。
――透明の術を使って奴らに復讐すると自分の身が危険だから、術に入ってこっそり奴らに間近に近づいて、術を切ってから攻撃してやろう。思い存分殴ったら、術に入って逃げるんだ。そうすれば力を失わずに済むだろう。ブン殴るときはマスクを被っていた方がいいな。
そんな復習の計画を練りながら歩いていると、後ろから誰かから声をかけられた。
「弦太郎、元気か」
「ん?」 
振り向くと、弦太郎と同じく外国語の選択教科に日本語を専修しているレーがいた。
「久しぶり!」
レーは人懐っこそうな笑顔を向けて言った。
「いつ日本から帰ってきたんだっけ?」
「三日ほど前だよ」
「元気そうだな。日本はどうだった?」
「おもしろかったよ――」
レーは大学に入学する前、見習い僧として十年ほど出家していた経験がある。そのせいか非常に誠実な性格で、誰からも決して嫌われることのない人格者だった。弦太郎が外国語で日本語を選んだ理由は、日本に長く住んでいたため日本語がすでに達者なので、勉強しなくても試験に通るだろうという安易な理由だったが、レーは語学にたいする純粋な好奇心で日本語を選択し熱心に勉強していた。真面目な彼は、一年間の短期留学の試験に合格し、渡航費、滞在費すべて免除で日本へ行って帰ってきた。
「――日本人はみんな、やさしくしてくれたよ」
「そうか、君は真面目で性格が温厚だから、みんなから愛されたんだろうな」
「そんなことはないよ。やっぱり怒られたこともあったし、嫌なこともあったけど、今考えると貴重な経験さ」
 キーン、コーン――、チャイムが鳴った。 
「あっ、もう行かなくっちゃ。また時間があったらゆっくり話そうよ。じゃあ」
「それじゃあ――」と言いかけた弦太郎の脳裏にミャオとドンのことが浮かんだ。「あっ、そうだ。ミャオとドンをどこかで見かけなかった?」
「昨日会ったとき、プーケットへ旅行に行くって言ってたよ」
「そうか、それであいつら今日いないのか・・・・」
「何か話したいことがあるのかい?」
「いや、何でもないんだ。――早く行かないと授業に遅れるぜ」
「そうだね」
レーは足早に立ち去って行った。弦太郎は穏やかな性格のレーと少し立ち話をしたら、毒気が抜けてスッキリした気分になった。
――そうか、ミャオとドンの奴、密告するだけしておいて、プーケットに逃げたか。卑怯な奴らだ。そうだ、おれも気分転換に日本に二、三日フラリと行ってくるか。透明の術を使えば、飛行機代もタダじゃないか。もうこんな大学とはオサラバするんだから、優雅にバカンスがとれるってわけだ。授業なんて退屈だっただけだから、停学にされて上等だ。もしかしたら、停学にされたことは天の思し召しかもしれないぞ。
 考えを変えたら、大学に対する未練が薄れていった。
弦太郎は最後に、四年近く通った大学を隅々まで歩き回って記憶に焼き付けておこうと、キャンパスを徘徊した。
空は重々しい雲に覆われて薄暗かった。しばらく歩いていると、突風が吹き、激しい雨がザーッと降り出した。弦太郎は校舎の隅でひとり雨宿りをした。


  二十五
弦太郎は部屋で荷造りを始めた。海外に出るのに一番ネックとなるのが交通費であるが、透明の術を使えばそれがすべてタダになる。金銭的に国内旅行気分で外国に出られるというわけだ。なんせパスポートすら必要ないのだから。
小さなリュック一つに荷物が全部納まった。チェンマイから東京のフライトスケジュールを調べると、夜の十時に出発する。国際線のルールでは二時間前までに搭乗手続きをしないといけないが、それも無視できる。時間ぎりぎりまで部屋で待機して、九時過ぎに空港へ向かった。
カイとの恋も決裂し、昨晩は警察から家宅捜査に入られ、今日は大学から追放された。弦太郎の行動は皆から誤解され、罪なくして被害を被った。次々と我が身に理不尽なことが襲いかかったが、なぜか他人事のような気持ちであり、ショックもそれほど大きくなかった。呪術師になる修行の過程で精神が図太くなったのだろうか。
空港に行く道すがら夜道をバイクで走っていると、自分が自由になったようで、夜風が心地よかった。今日起きた大学追放はさすがに腹に据えかねたが、旅の準備をしていたらそんな記憶も薄れてゆき、いまは愉快な気持ちになっていた。
弦太郎は空港に到着した。空港の入り口で荷物をⅩ線検査に通し、中へ入った。空港内のトイレに一時身を隠し、呪術を使って姿を消した。これで、もう誰の目にも自分の姿は映らない。トイレを出て、搭乗手続きのカウンターを横目で見ながらエスカレータを上り、税関の前にやってきた。金属探知機が作動することを懼れ、機械の脇をすり抜け税関を通過した。次に待ち受けていた出国手続きは、係員の横を堂々とスルーした。煩瑣な出国手続きによって今までストレスを受けてきたが、呪術を使うと散歩をするようにスムーズに通り抜けられる。優越意識を感じ、歩きながら思わず笑ってしまった。搭乗ゲートに着いたときは出発の十分前を切っていた。すでに乗客が列になって飛行機に乗り込んでいた。弦太郎はその列を眺めながら考えた。
――どの席が空いているか判らないから、機内には最後に乗り込んだ方がよさそうだ。先に席に座っていて、その席の乗客がやってくると面倒が起きそうだからな。席さえ確保してしまえば、もう呪術を解いてゆっくりしたらいい。機内で搭乗券を調べられることはないんだから。
弦太郎は列の最後の乗客の真後ろについて飛行機に乗り込んだ。機内の通路は乗客でごった返していたので、乗客を避けながら席を一つずつ確認し、後方へ向かって歩いていった。大型旅客機なのに空いている席がなかなか見つからない。弦太郎は飛行機に乗って満席だった経験がなかったので、必ず空席はあるだろうという自信があった。しかし、歩けども歩けども席は埋まっていた。
――そんなはずはないんだが・・・・。
 弦太郎は焦ってきた。すでに機内の後半部分を歩いていた。キョロキョロと周りを見渡した。
――ない、ない、ない・・・・。
 空席が一つも見つからず、とうとう最後尾まできてしまった。
――席がひとつもないじゃないか! 
弦太郎の焦りは頂点に達した。日本までのフライト時間は六時間、呪術を使ったまま耐えられる自信はなかった。
――下りよう。ダメだとわかったら引き返す勇気も必要だ。
 弦太郎は最後尾から最前列まで足早に歩き出した。ほとんどの乗客はもうすでに席に座っていた。通路を行き来する客室乗務員を避けながら歩を進め、前方のドアまでたどり着いた。
「あっ・・・・」
 時すでに遅し、ドアはガッチリと閉められていた。
――もう逃げられない。
 心が動揺した。パニックになると呪術が途切れてしまう。心を落ち着かせようと、客室乗務員が通路にいない隙をうかがってサッとトイレに入った。鍵を閉めたかったが、ロックすると外のランプが点いてしまうので鍵をかけれなかった。
――大丈夫だ。離陸前にトイレに入ってくる乗客はいまい。
 弦太郎はトイレで一人になって呪術を解き、深く深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。いま自分が置かれている状況を冷静に考えた。
――空席が一つもない状況下で、日本到着までどうやって時間を潰そうか・・・・。
 弦太郎は今後の展開をイメージトレーニングした。
――トイレにずっと居座るわけにはいかない。機内のトイレは必要最小限度のスペースだから、他の乗客が入ってくると大変だ。狭いのはトイレだけじゃない。機内全体、無駄なスペースはほとんどないからじっとしてられない。客室乗務員が通路を行き来したら、そのたびに逃げ回るように移動しなければならないのか。でも、こんな調子で術に入ったまま六時間もの間、体力がもつだろうか・・・・。
飛行機が動き出し、離陸し始めた。本来なら乗客は座席に座ってシートベルトを着用していなければならないが、弦太郎はトイレの便座の上で頭を抱えて座っていた。
――飛行機が上昇して水平飛行に移ったら、シートベルト着用ランプが消えて乗客が歩き出すだろう。だけど、すぐにトイレに入ってくる奴はまずいないはずだ。みんな空港でトイレを済ませているはずだから。それから客室乗務員がジュースとスナックを配りだすだろう。そのタイミングでトイレから出ないといけない。でも、外に出ると、台車が通路を占領しているだろうから、自由に機内を行き来できないぞ。やっぱり外に出ない方がいいか・・・・。ジュース・スナックの配給が終わったら、それの回収作業。そのあと、三十分後ぐらいに食事が配られる。ここからが問題だ。トイレに利用する客が頻繁に出始めるだろうから、トイレから絶対出なかればならない。どのように逃げ回ろうか。そうだ、スペースが余分にとってあるファーーストクラスに逃げばいい。ファーストクラスでウロウロしながら食事が済むのを待とう。食事が済んだら消灯して寝静まるはずだ。そうなれば大分ラクになるだろう・・・・。
――ゴトッ
トイレのドアに人がぶつかる音がして、弦太郎はギクリとした。人が急に入ってこられたら困る。師匠のようにすぐに姿を消せるほど呪術が達者ではない。なんだか嫌な予感がしたので、あらかじめ姿に入って姿を消した。
 ガタッ――
 またドアに人が触れる音がした。今度は本当にドアが開いた。日本人と思われる初老の男性が正面に立ちふさがった。
――あっ、入ってきた! 
 弦太郎は入ってこようとする男性を強引に押しのけて外に出た。男性は後方によろけた。
「ん? 何かぶつかってきたような気がしたが、何だろう?」
 初老の男性は不思議な気持ちになったが、気のせいと思いなおし、トイレに入った。
――まだ、スナックも配っていないのにトイレに入ってきやがって。
弦太郎はトイレ脇の狭いスペースに身を寄せるように張り付いた。客室乗務員が台車を押して行き来する。さらに他の乗客もトイレにやってきて弦太郎の目の前で待機した。弦太郎はオチオチ立っていられなくなり、身をくねらせて乗客を避け、ファーストクラスの機内に逃げ込んだ。ここは幾分通路も広く、座席の前後幅も大きくとられているのでやはり安全だった。しかし、さすがにファーストクラスとあって、客室乗務員が乗客一人ひとりに目を向け、熱心に動き回るのには閉口した。
――まったく余計なサービスしやがって邪魔なんだよ。ああ、神経を使う。力がどんどん消耗していく。
弦太郎は力を補給したい気持ちになっていた。しかし、太陽のメディテーションをするスペースもなければ、そもそも太陽光がない。無機質なテクノロジーに囲まれて、闇夜の上空にいる。時計を見ると飛び立ってからまだ二十分しか経過していなかった。時間が経つのが異常に長く感じられる。
トイレに入る乗客がいなくなると、弦太郎はトイレに入って呪術を解き、精神と肉体を休めた。
食事の時間になり、客室乗務員が機内食を配り始めた。弦太郎は台車の音が聞こえると、術に入ってトイレの外に出た。そのタイミングはピッタリだった。出て間もなく、トイレに乗客がやってきた。食事時になると、トイレに立つ客は増え、台車で通路がふさがれる。このときが一番厄介な時間帯だった。弦太郎はまたファーストクラスに逃げ込んで、客室乗務員を避けながら、立ったり、座ったり、歩き回ったりした。
――早く食事の時間が終わってくれ。早く消灯になってくれ。
そのときフト気がついた。
――そうだ、最後部のトイレにいれば、術に入らずにトイレの出入りができるんじゃないか。最後部には乗客の目線がないんだ。乗客は背中を向けている。術に入らないでトイレの外をウロチョロし、普通にトイレに入って休息が取れる。もし、客室乗務員に怪しまれそうになったら、そのとき呪術を使って姿を消し、ファーストクラスに一時避難すればよい。こうすれば呪術を使う時間が短縮され力を節約できる。
――これがいい! 
 弦太郎は乗客の密集するエコノミーの最後部のトイレに向かった。通路は狭く、向かって歩いてくる乗客をかわしきれずにぶつかり、危うく呪術が途切れるところだった。
最後尾にたどりついたが、まるっきり当てが外れたことがわかった。トイレの外は常に数人の列ができており、簡単に中に入らせてもらえそうになかった。数人の乗客の目線が恒常的にあるので、トイレの外で呪術を使うのは不可能だった。
――ダメだ・・・・。
 弦太郎は逃げるようにしてファーストクラスに戻った。
――疲れた・・・・。
力の消耗が顕著に感じられた。気を緩めるとすぐに呪術が解けてしまいそうである。とにかく一眠りしたかった。しかしゆっくり眠れるスペースはどこにもない。もしこのまま飛行機の無賃搭乗が見つかったら、世界的なニュースになってしまうだろう。なんせパスポートを持たずに飛行機に忍び込んでいるのだから。もし、機内で死んでしまったらどうなるのだろう。公にされず、身元不明の死体として闇に葬られるのかもしれない。ヒタヒタと忍び寄る〝死の影〟を感じ、弦太郎は体に悪寒を覚えた。
――どうして、おれはこんな無謀なことをやらかしたのだろう。こんな馬鹿な真似さえしなければ、いまごろは柔らかいベッドの上でスヤスヤと眠っていただろうに。おれは馬鹿だ。こんな間抜けなことをしたがために、頓死してしまうかもしれない。師匠、どうしたらいいでしょうか? 助けてください。
 弦太郎は最後の頼みの綱であるタムを思い浮かべて念じた。しかし、当然のことながら返事は何も返ってこない。
食事の後片付けも終わり、機内は消灯となり暗くなった。乗客は思い思いにシートを倒し、眠りにふけった。弦太郎もファーストクラスの床の上に座り込み、しばしの休息をとった。うっかり眠ってしまうと誰かに踏みつけられるかもしれないし、もっとも、眠っているうちに術が解けてしまうかもしれない。眠るに眠れなかった。ときどき二十分ほどトイレを占領し、術を解いて数分の眠りをとった。だが、こんな短時間で疲れはとれるはずもなく、胸の中にある寿命のロウソクは急速に短くなってゆくのを感じた。命が尽きるか、無事到着するか、それは切迫した競争だった。

機内が消灯されてから五時間ほどの時が流れた。
飛行機は日本に近づいてき、機内は明かりが灯さた。乗客たちは目を覚まし、倒されたシートが定位置に戻された。着陸態勢になりシートベルト着用ランプが点灯した。弦太郎はそのタイミングでトイレに入った。もう乗客は絶対トイレに入ってこない。術を解いて、トイレの中で朦朧としていた。
飛行機は滑走路に着陸し、それから数分かけて停車位置まで移動して停止した。シートベルト解除ランプが点灯し、乗客たちがいっせいに座席から立ち上がった。
弦太郎は機内のザワザワとした音を耳にし、最後の力を振り絞って術に入ろうとした。しかし最後の最後に及んで、いくら頑張っても術に入れなかった。術に入れないばかりか、便座から立ち上がる力も出なかった。
乗客たちは機内から下り出した。このままずっとトイレにいるわけにはいかないので、トイレの中から列の最後尾の乗客が通り過ぎる気配を窺い、透明の術を使わない普通の状態で出ようと思った。
「うう!」
 渾身の力を振り絞って立ち上がりトイレから出た。体が重く、足がうまく交互に動かせなかった。
客室乗務員はトイレから出てきた男を見つけて驚いた。空港に到着したときに機内のトイレに人がいることは稀だった。しかも男の様子がおかしかった。
「お客様、どうかされましたか?」
客室乗務員が弦太郎の顔を覗き込んだ。
「ヒャーッ」
 彼女は思わず悲鳴をあげた。男の顔はやつれて蒼白で、目の周りにはどんよりとクマができ、今にも死にそうな顔相だった。
「ああ、大丈夫です」
弦太郎は引きつった笑みを浮かべて答え、ヨロヨロと歩いた。なにぶんパスポート不携帯なので、かりに倒れるとしても、入国審査と税関を通り過ぎた場所で倒れたい。客室乗務員は弦太郎の肩を抱きかかえるように補助しようとすると、弦太郎は、
「だ、だ、大丈夫です。ひとりで歩けますから」
 と苦しそうに言い、客室乗務員が補助するのを拒否した。補助されるよりも一刻も早く太陽のメディテーションをしたい。
「でも、お体が悪そうですので」
「ひ、ひとりで歩きたいので・・・・」
客室乗務員たちも、付き添った乗客が倒れたら、仕事が増えて面倒そうだったので、彼の言葉に従いそのまま見送った。弦太郎はフラフラとよろめきながら空港の通路を歩き出した。日本は日が明けて早朝だった。
――光を、朝の光を・・・・。
ガラス張りの空港の通路を歩くのだが、方角が悪く光が射している場所がなかった。
「これはダメだ・・・・」
入国審査の手前にトイレがあった。車椅子専用の広い個室のトイレに入り鍵を閉めた。
――ここでしばらく休憩だ・・・・。
その瞬間弦太郎は意識を失い、床に倒れた――。


  二十六
弦太郎は大木の下で目覚めた。緑の枝葉の隙間から紺碧の空が見えた。上体を起こして周りを見回すと、ここは三六〇度地平線の見渡せる広い大草原の真っ只中だった。大草原の緑の絨毯に、白や黄色の花が彩りを添えるように咲き乱れている。そんな花々に誘われるかのように、色とりどりの蝶がヒラヒラと飛び回っていた。
――なんて美しいところなんだ。
 弦太郎はポカーンとして目の前に広がる風景を眺めた。しかし、このただただ美しい風景は、何かしらの寂しさが漂っているように感じた。美しくはあるが、炭酸の抜けたソーダーのように活力がない。
――どうしてだろう? 
紺碧の空を見上げても、なぜか眩しく感じない。そのとき、空に太陽がないことに気がついた。太陽がないのに空は明るく、青く晴れ渡っていた。
――不思議だなあ・・・・。そもそも、ここはどこなんだろう? どういう経緯でおれはここにたどりついたのだろう? 
弦太郎は過去のことを考えようとしたが、まったく思い出せなかった。――どうしたっていうんだろう。どうしても思い出せない、おかしいなあ。
「おい、弦太郎――」
木の上から声が聞こえた。弦太郎は立ち上がって木を見上げた。
「弦太郎、聞こえるか? ワシだ」
 それはタムの声だった。
「師匠!」
弦太郎はタムの姿を探そうと、大木の枝の隙間に目を凝らした。そのとき木の上から、手の平ほどの大きさの巨大な黒い蜘蛛がポトリと目の前に落ちてきた。
「ウワッ!」
弦太郎は数歩後ろに退いて尻餅をついた。大蜘蛛はこちらをじっと見つめていた。
「ワシだ、ワシだ」
蜘蛛がしゃべり出したので、さらに驚いた。
「弦太郎、何を怯えておる。ワシだ」
「師匠?」
「そうだ」
弦太郎は蜘蛛をまじまじと見つめた。蜘蛛はゆっくりと近づいてきて、足元近くにやってきた。大蜘蛛がタムの化身だとわかってもやっぱり気持ち悪く、弦太郎はじりじりと後ずさりした。
「弦太郎、逃げなくてもいい。とにかく話を聞け。時間がないんだ。――ここがどこかわかるか?」
「いや、わかりません。きれいなところですが・・・・」
「ここは死神の世界だ。お前はいま死生の境界線にいる」
「死神? この平和で美しいところが死神の世界なんですか?」
「そうだ。正確にいえば、死神が作り出した〝異界〟だ。お前はもうすぐ死神に遭遇するだろう。やつの言いなりにならないよう気をつけろ。死神の特徴は――」
「死神は、骸骨の顔をして、黒いマントを身につけて、大きな鎌のような武器を持っている」
「それは観念だ。死神はそんな紋切り型の姿はしていない。強いて言えば、特徴として”一つ眼“を持っている」
「一つ眼? 何だかよくわからないですね」
「それ以上は説明できん。やつは一定の姿かたちを持っているわけじゃないんだ。とにかく一つ眼、それだけを頭に入れておけ」
「はい、一つ眼ですね」
「それから、お前は、美しく、麗しく、やさしく、楽しく、清純で、清らかなものから誘惑を受けるだろう。しかし、それらは死神の仕掛けるトリックだ。お前の進むべき道は、険しく、危険で、汚く、恐ろしく、野蛮で、汚穢な道だ。その道こそ――」
「――危ない」
ひとりの女性が弦太郎の目の前を飛び出し、大蜘蛛を棒で叩いて遠くに打ち飛ばした。弦太郎は彼女の姿を呆気に眺めた。
「あれは凶暴な毒蜘蛛よ。この地域にだけ生息する危険な生物、刺されたら大変。それにあの蜘蛛は狡猾で嘘ばかりついて、人を地獄に誘うわ。とても不吉な動物なの。だからここに住む住民はあの蜘蛛のことを〝悪魔の化身〟って呼んでるの。みんな絶対近づかない。あなたヨソからきた旅人でしょ?」
「えっ? まあ・・・・、そんなところです・・・・」
弦太郎はどぎまぎしながらこたえた。なんせ目の前にいる女性は今まで見たこともない、すばらしい美女だった。透き通るような肌理の細かい白い肌、黒くやわらかそうな長い髪、大きく潤んだ瞳、手脚は長くスラリとのびて、ノースリーブの白いワンピースを着ている――。彼女は小さな口を真一文字にキリリと結び、心配そうに弦太郎を見つめていた。
「ここは初めてでしょ? よかったら案内するわ。あっちにもっと楽しくて、きれいな場所があるから」
美女はにっこりと微笑んだ。弦太郎に目には、彼女の笑みは天使の笑みに映った。見ているだけでうっとりとしてしまい、思考能力がまったく働かなくなった。
「アハハ・・・・」
 弦太郎は赤面してぎこちなく笑った。
「さあ行きましょう」
美女は悪戯っぽく笑いながら弦太郎の両手を握り締め、引っ張り上げるようにして立ち上がらせた。弦太郎は彼女の細くやわらかい手の感触を意識した。彼女の手は冷たくひんやりしていた。
二人は手を繋ぎながら、誰もいない広い草原を歩き出した。彼女はつねに陽気で明るく、楽しそうだった。白い花が一面に咲き乱れる草原を通過すると、遠くに川が流れるのが見えた。
「あの川の向こうに私の住む街があるの。そこで一緒に食事しましょ」
川沿いにやってきた。川は二十メートルほどの幅で、澄んだ水がそよそよと流れていた。そして川に沿って百メートルほど上流に向かうと、立派な石橋が架かっているのが見えた。彼女はそちらへ弦太郎を導いた。
「――なんて素敵な街なんだ」
 橋の袂にたどり着き、弦太郎は間近から街を眺めて呟いた。なんとも長閑な風景だった。人の心を凶暴にする要素がまったく見当たらない長閑さだった。石造りの瀟洒な家が並び、人々は川沿いの広場に集って、歌ったり踊ったりして愉しそうだった。
「あそこにいる人たちはみんな私の友達よ、紹介してあげるわ」
美女はやさしい口調で言った。弦太郎は彼女の艶のある紅い唇を食い入るように見つめた。そのとき、ふと思った。
――彼女は常に微笑んでいるけど、心の底から愉快がっていないんじゃないか。
「さあ、行きましょう」
美女は橋を渡るよう促した。
「うん」
弦太郎が橋を渡ろうと足を一歩踏み出したとき、突然、背後からグローブのような大きな手が、ギュッと彼の腕を握り締めてきた。ハッとしてその手に目をやると、毛むくじゃらでイカつく、煤けて垢づいた手だった。
「何だ!?」
その手の主の顔を見ようと慌てて振り返ると、スキンヘッドの大男がフンドシ一丁の半裸姿で四つん這いになり、白目を剥き出しにして、涎をたらしながらニヤニヤと笑っていた。
「弦太郎、こっちにくるんだ!」
大男は低くしゃがれた大声で命令し、橋とは真逆の方向を指差した。彼の指差す方向は、空が鉛色でどんよりとして薄暗く、ときおりゴロゴロと地響きするような恐ろしい雷が唸っていた。さらには、大地はゴツゴツとした岩肌の荒野で、荒野の先は絶壁の崖が深い谷底となって落ち窪んでいた。
あまりに恐ろしい光景を目のあたりにした弦太郎は思わず目を逸らせ、橋の向こう側の平和な風景に目をやった。そこは青い空が広がり、美しい人々が愉快そうに歌って踊っている。なによりも弦太郎の右手は、美女の小さな白い手でしっかりと握り締められている。彼女は緊張した面持ちで弦太郎の目を覗き込んだ。
「あっちを見ちゃだめ。こっちに行かなくっちゃ」
「うん」
 弦太郎はうなずき、大男に握られた左腕を振り払った。しかし、強力に握られた手を振り解くことはできない。
「危ないわ、早くこっちに!」
美女は弦太郎の右手を両手で引っ張って橋を渡ろうとした。すると、大男はさらに強く弦太郎の左腕を握り締め、怒鳴りつけるように言った。
「こっちだ!」
美女と大男は綱引きをするように弦太郎の腕を引っ張り合った。弦太郎はもちろん美女の方に向かって力を入れるのだが、いかんせん大男の腕力は強く、ズルズルと引きずられるように荒野の崖の方へ引っ張られていく。大男の力に耐え切れず、美女は手を離した。その瞬間、弦太郎は勢いよく崖の方へ引きずられていった。
「助けてえ」
弦太郎は美女を見つめながら喚くように叫んだ。美女はどうすることもできず、口に両手を当てたまま、悲痛な表情で弦太郎を見つめた。
「こっちだ、こっちだ、お前がくる場所は崖の下だ」
 大男は四つん這いになりながら前進していった。両脚は具合が悪いらしく、片脚は未発達で外側に湾曲しており、もう片一方は膝下から壊疽して千切れていた。弦太郎は必死で抗っても大男の腕力にどうすることもできず、ものすごい速度で崖の方に連れていかれた。大男は口から涎をダラダラと垂れ流し、その涎が体に付着すると、腐ったような悪臭を放った。
 間近に崖が迫ってきた。
――ああ、もう駄目だ・・・・。
 弦太郎は観念した。そのとき、大男の涎が弦太郎の腕に垂れ流れてきた。弦太郎は、その涎のヌメリを利用し、敏捷に腕を振り払うと、大男の手がツルリと滑って彼の手から離れた。
「今だ」
 弦太郎は美女が待つ橋の方へ猛ダッシュした。
「わっ!」
 数十メートル走ったところで石につまずいて転んだ。
「まずい!」
 後ろを振り返ったが、大男は追いかけてきておらず、彼はそのまま崖の方に向かって前進していた。
「弦太郎――」
 大男は崖の縁までやってきたところで匍匐前進を止め、弦太郎の方へ振り返って大声で叫んだ。
「こっちだ。お前がくるべきところはこっちだ、ハハハハ」
 大男は白目を剥いて哄笑し、そのまま崖下に真逆さまに転落した。弦太郎はその様子を唖然となりながら眺めた。
――アイツは一体何者なんだ・・・・。
 ピカッ
雷光が上空を切り裂くように走り、その瞬間、雷がドカンとすさまじい轟音を響かせて弦太郎の近くで落ちた。弦太郎はその衝撃で後方に数メートル転がった。大男を眺めて呆然としている場合ではなかった。今度は落雷で殺される。すぐにあの平和な橋向かいの街へ逃げなければ。弦太郎は全力で走った。
橋の袂にたどりつくと、美女はまだ弦太郎を待っていた。
「よかった。無事だったのね!」
「なんとか逃げてきた」
弦太郎は息を切らして美女の足元にひざまずいた。美女は弦太郎の両手を握り締め、「よかったわ」と大きな瞳をさらに大きく見開いて微笑んだ。弦太郎も命拾いし胸が熱くなった。美女の白い手を握り締め、幸福感が湧き起ってきた。
ソヨソヨソヨ――
そのとき、心地よい微風が二人の体にそよいだ。美女の柔らかそうな前髪が風でめくれ上がり、ゆで卵のような丸くて白いおでこがあらわになった。弦太郎は、彼女のおでこを一瞬目にし、背中にギクリと電気が走った。おでこの中央に大きな一つ眼が在ったのだ。その一つ眼は弦太郎の内心をすべて見通すかのような冷たい光を放っていた。
風が止み、前髪が元に戻っておでこの一つ眼が隠れた。
「さあ行きましょう」
美女はやさしく手を引っ張り、二人は石橋を歩み出した。そのとき弦太郎は大木の下で出会った大蜘蛛の言葉を思い出した。確かにあれはタムの声だった。
――師匠は確か、美しい方に行ってはいけない、恐ろしく危険な方向に行けと言ったような・・・・。
弦太郎は橋の中ほどで足を止めた。
――もしかして、この平和で美しい街へは行ってはいけないんじゃないだろうか・・・・。
 さらにタムの決定的な言葉を思い出した。
『死神は一つ眼を持っている』
急に心臓の鼓動が高鳴った。
「ねえ、どうしたの?」
美女が心配そうに弦太郎の顔を覗き込んだ。弦太郎は美女から目を逸らせ俯いた。
「ねえ、どうしたの?」
 弦太郎は後方を振り返り、雷が轟く荒れた荒野を見つめた。
「おれは馬鹿かなあ」
弦太郎はポツリと呟いた。
「何を言い出すの? あなたは馬鹿なんかじゃないわ、聡明で勇気のある人よ」
美女はが弦太郎を褒め元気づけた。
「いや、やっぱりおれは馬鹿だ。おれはあっちへ行くよ」
弦太郎は進行方向を百八十度変えた。
「どういうつもり?――」美女は眉間に皺を寄せ、弦太郎を見つめた。「もしかして、あなたは蜘蛛の言葉を思い出したの? さっきも言ったでしょ、あれは悪魔の言葉だって」
弦太郎は美女の目を深く見入った。彼女の容姿はまったく隙のない美しさで、潤んだ瞳は悲しげだった。しかし、弦太郎は洞察した。
――彼女の表情は表面的なものだ。真実の彼女の心は氷のように冷たく、温もりある血が流れていない。
「ありがとう・・・・」
弦太郎は一言礼を言って彼女の手をふりほどき、荒野に向かってゆっくり歩き出した。美女は、
「待って、待って」
弦太郎の腕を握り締めた。弦太郎は意地になって手を振り払い、荒野に向かった。美女も執拗に弦太郎の手を握り締め引き止めようとした。弦太郎の心は混乱した。
――どうして心底恐ろしい崖に向かわなくちゃいけないんだ。彼女とまったりと時を過ごせばいいじゃないか。崖下に飛び降りて一体何が待っているというんだ。ただの犬死にじゃないか。本当にそれでいいのか。安楽な世界を蹴飛ばして、胡散臭い蜘蛛の言葉を信じて地獄に行って、どうなるというんだ。
「クソーッ!」
弦太郎は気持ちが変化するのを恐れて、美女の手を強く振り解き、一目散に崖に向かって走り出した。荒野は獰猛な雷鳴が轟き、青白い稲妻の亀裂が天を裂いた。
「どうにでもなれ!」
 ゴツゴツとした岩肌を全速力で走っていくと徐々に崖が近づいてきた。三メートル、二メートル、一メートル――、眼前に真っ暗闇の深淵が広がった。
「ウォー!」
弦太郎は大声をあげて崖に飛び込み、真っ逆さまに落下していった。


  二十七
肉体の重苦しさと鋭敏な痛み――、弦太郎は朦朧として瞼を開いた。いま自分がどこにいるのかわからなかった。ベッドの上で毛布に包まりながら寝ている。視界に映るのは見覚えのある部屋――。自分がチェンマイのアパートの自室で寝ていることにゆっくりと気がついた。首をおもむろに横に向けると、タムがガスコンロを床において鍋をかけていた。
「師匠」
普段と変わりなく声を発したつもりだったが、驚くほど小さな声しか出なかった。
「気がついたか」
タムは親愛な微笑を浮かべながら振り返った。弦太郎は上体を起こそうとすると、体中から軋むような痛みを発した。
「痛たたた」
「無理をするな、じっとしていろ」
弦太郎は動くのを諦め、ベッドの上で体を弛緩させた。
「特製の薬草粥がもうすぐできるからな」
タムは鍋の中をオタマでかき回しながら言った。弦太郎はタムの様子をぼんやりと眺めながら、いま自分の置かれている状況について考えた。記憶が四方八方に飛び散り、何がなんだか理解できない。状況も理解できなければ、脳内に濃い靄が立ち込めて正常な感情も働かず、悲しみもなく、もどかしさもなく、後悔もなく、不安もなく、ただ「こういうものか」という諦念だけを感じていた。
「さあ、できたぞ」
タムはベッドの上に寝そべる弦太郎に寄り添い、肩を抱きかかえながら上体を起こした。弦太郎は、白い湯気がゆらゆらと立ったお粥のどんぶりをぼんやりと眺めた。
「食べれば元気が出るからな」
タムにそう言われたが、弦太郎は食欲がほとんど湧かなかった。レンゲを持ったまましばらく食べることを躊躇していたが、せっかくタムが作ってくれたものなので義務的にお粥をすすった。一口すするとお粥の滋養が胃に沁みこむような心地がした。
――最後に食べた飯はいつだっただろう? 
 いくら考えても、まったく思い出せなかった。ずいぶん久しぶりの食事であることはわかった。タムは弦太郎の心の中を見通したかのように言った。
「一週間前、ワシはお前を成田空港のトイレの中からここに運んだんだ」
その瞬間、弦太郎の忌まわしい記憶が次々と蘇ってきた。
「あれから一週間経つんですか・・・・」
「そうだ、お前は一週間意識がなかった、ハハハハ」
 弦太郎にとって生きるか死ぬかの深刻な話だったが、タムは楽しそうに笑った。
「お前は死にかけていたんだ」
 弦太郎の脳裏に凄惨な記憶の断片が飛び散り、それらの破片を整合しようと訊ねた。
「ちょ、ちょっと、待ってください・・・・。と言うと、まず、どこから訊ねればばいいのか・・・・。師匠はどうしてぼくが空港で倒れたことを知っているんですか」
「お前はワシに助けを求めたじゃないか。切羽つまった弟子の叫び声ぐらい、ワシは聞き取れるよ」
「そうだったんですか・・・・。ぼくが軽率な行動をとったばっかりに師匠に迷惑をかけてしまって・・・・」
「呪術師になる過程において、師がどんなに弟子に危険を忠告をしても、やっぱり怪我はするものさ。何度も言っただろ、呪術師の道は危険がいっぱいだ。ふるいにかけられ、死んでしまう者もいれば、生き残って力をつけていく者もいる。お前だけが特別手間がかかるわけではない」
「そうでしたか――。でも、よく、あんなわかりにくい空港のトイレにいるところを見つけてくださいましたね」
「ハハハハ、なかなかお前は手こずらせる。だが、それもお前だけが特別ではない。むしろ普通ともいえる。猫でも犬でも死を悟ったら、路地裏や草叢なんかの人目がつかないところで死ぬものだ。お前も無意識的に静かな死に場所を探したのだろう。かりに死ぬ間際に誰かに発見されて、日本の最先端の医療技術とやらでお前の体をいじくりまわされたとしても、どうにもならなかっただろう。なんせお前は“呪術師の力”をすべて消耗させてしまい、死神に連れて行かれたんだから」
「死神・・・・」
「死神のことも思い出したか?」
「あの青い大空と広い草原、非の打ちどころがない美女、下半身の不自由な大男――、師匠はぼくがあそこに行ったことを見ていたんですか?」
「そのことは知らない。お前が何を見て、何を聞き、何に触れたのか、そんなことはお前と死神以外は誰も知りようがない。あの世のことは当人と死神の関係性だからな」
「でも、師匠は蜘蛛になってぼくにアドバイスを与えてくれました。美しく魅力的な方には行ってはいけない、恐ろしく危険な方に行けと」
「確かにワシは死神に連れてかれたお前にそう呼びかけてやった。だが、お前がどのように認識していたかは知らない」
「そういうものなんですか・・・・。でも、あのときの師匠のアドバイスがなかったら、ぼくは美女の誘う川の向こう側に必ず行っていました。もし、あそこに行っていたら――」
「お前は死んでいた。確実にな。お前を誘ったとやらの美女は、まさに死神だ」
「じゃあ、あの雷の鳴り響く荒野で、崖に引っ張り込んだあの狂人のような大男は何者だったんですか。彼はぼくの命の恩人なんですか」
「その狂人はお前の生命力の破片だ。業の力と言ってもいいかもしれない。命の恩人というよりお前自身だ。だが、お前はよく誘惑を拒否し、恐怖に打ち勝って戻ってこられたな。ワシはもう九十九パーセント駄目だと思っていたぞ」
「師匠が〝死神の特徴は一つ眼だ〟と、アドバイスしてくれたじゃないですか。美女のおでこに大きな一つ眼があったのを見てしまったんです。その冷たい眼が恐ろしくて――、結局それが決め手になりました」
「ハハハハ、それはすごいな。お前のような、力のない不完全な呪術師が死神を見破れたのはすごいぞ。力があれば見破れるが、お前レベルだとそれは不可能なはずだが」
「見破れたというか偶然、風が吹いて前髪がなびいて彼女のおでこが見えたんです」
「ハハハハ、偶然か。でも偶然というのもお前の力の一種だ。で、そこから、よく恐怖に飛び込んだものだ。力のない呪術師は〝美しく魅力的な死神〟を拒否できないものだぞ」
「ぼくもどうして崖から飛び降りたのかわかりません・・・・」
死神の世界を思い出すと、体が縮み上がるほどの恐ろしさを覚えた。
「お粥を食べ終わったら、このお茶も飲むんだ。これも特別なものだから」
 タムはコップに茶色いお茶を注いだ。弦太郎は食事をしているうちに、体から少しずつぬくもりが蘇り、脳内も休止状態から活動が始まり、明晰に記憶の糸がたどれるようになってきた。
「それで、さっきの話の続きですが――」弦太郎は熱いお茶をフウフウすすりながら話した。「ぼくは空港のトイレで倒れて、死神にあの世に連れて行かれて、崖から飛び降りて――、師匠はどうやってぼくをここまで運んだんですか?」
「お前の肉体はワシが呪術を使って運んだ。お前にも見せただろ、ワシは壁抜けでも何でもできる。ワシは力があるからそれくらいは簡単なものだ。飛行機に乗ったぐらいで、お前のように失神してしまうようなヘマはしない、ハハハハ」
 弦太郎は恥ずかしそうに顔を伏せて沈黙したが、まだ心の整理がつかず、問いただした。
「空港で倒れたのが一週間前で、ぼくの記憶の中の死神の世界は、そんなに何日も時間が経っていませんが」
「死神の世界の時間は特別だ。時計では測れない。死神の時間を物理的な時間の尺度に換算することはできない」
「確かに、あのときの経験を思い出そうとしても、普段の記憶と違って時間感覚がおかしいんです。あのときの死神の世界――、あのまま美女に誘われて橋を渡っていたらぼくは死んでいたんでしょ? じゃあ、死んでいたらどういう世界に連れて行かれたんですか?」
「ワシも死んだことがないからわからん。死神本人ですら、死んだらどうなるなんて知っちゃいまい。やつも死んだことがないんだから。やつは人を死の線ぎりぎりまで導くことが仕事だ。〝死〟のことは、なんびとであれイメージすることも言語化することもできない」
「死神すらも、死を知らないんですか・・・・」
弦太郎はそのときフラッシュバックするように記憶の中に鮮明な〝美女のおでこの一つ眼〟が蘇ってきた。
「あっ!」
堅く瞼を閉じ、身を硬直させた。〝一つ眼〟は決して見てはいけない禁断のタブーに思えた。思い出しただけで、胸を圧迫するような不快な感情が沸き起こり、お腹が痛み出し便意を催した。弦太郎はタムに抱きかかえられてトイレに行った。
用を足し終わったら、どうにか恐怖で硬直した身体が緩んだ。トイレから出るとき、洗面台の鏡に自分の顔が映った。
「あっ」
 弦太郎は自分の容姿を目の当たりにして衝撃を受けた。バサバサに乱れた髪の毛は白髪に変わっており、瞼の周りが黒ずんで落ち窪み、土気色の顔は痩せて皺くちゃになっていた。まるで五十歳も老け込んで老人になったようだった。あまりの自分の変わりように呆然として立ち尽くした。
「大丈夫だ。一カ月もすれば肉体は若返るさ。それから、力が回復して呪術が使えるようになるまでは二、三カ月はかかるか。死の瀬戸際まで行って、そこから生還し、生き返るというのは、そういうものだ」
タムが弦太郎の様子を見ながら静かな口調で言った。弦太郎はタムの解説を聞いてもまだ呆然としていた。
「ハハハハ、元はといえば、お前が悪ふざけをして飛行機にタダ乗りしようなんて企てるからこうなったんだ。呪術師の掟を破る恐ろしさを十分勉強しただろ」
「・・・・・・」
弦太郎は言葉が出なかった。
「だがな、死神に会うということは悪いことばかりではない。不思議なことに呪術師は死神の世界へ行って、そこから脱出して生還すると、急激に力が強くなる。死神は力をあたえてくれる恩人ともいえる」
タムは死神の秘密を明かし、弦太郎を抱えてベッドに連れて行った。
「鏡を見てよくわかっただろ、お前の体はボロボロになっている。いくらでも眠れるはずだ」
弦太郎は薬用酒を飲んで横になった。仰向けになった姿勢で両手の平を顔の前にかざすようにして広げ、手の平をつくづくと見つめた。血の気の失せた生気のない白い手の平には、青い血管が幾何学模様の蜘蛛の巣のようにうっすら浮き出ていた。
「死にかけたか・・・・」
 死にかけたという事の重大さを明瞭に自覚し、呪術師として生きることの恐ろしさを知った。
弦太郎は死んだように眠りについた。


  二十八
弦太郎が寝込んでから二カ月が経過した。体力がほぼ回復し、日常生活が介添えなしでこなせるようになってきていた。この日の早朝、寝食を共にしながら看病してくれたタムが突然部屋の大掃除を始めた。
「師匠、どこかへ行ってしまうんですか?」
弦太郎はタムのいつもとは違う行動に不安を覚え訊ねた。
「お前も一緒に手伝うんだ。旅に出る前に部屋をきれいにしておいた方がよかろう」
「旅? いつ旅に出るんですか」
「今日だ、今からだ。寝ている場合ではない。時は満ちたぞ」
「ぼくも一緒にですか?」
「当然だ。お前のための旅なんだから。いや、旅というよりも、湯治と言った方がいいか」
「湯治?」
「そう、ビルマとの国境近くの山の中にいい温泉がある。一般の人間は誰も立ち寄らない“力の温泉”だ。そこの温泉に浸かればお前の体の回復は急激に早まるだろう。――寝袋、なべ、食器、米、着替え、大体一、二週間ぐらい過ごせるだけの準備を急いで整えろ」
「はい・・・・。師匠は何の前触れもなく、次の予定に移るから驚かされます」
「呪術師は今というこの瞬間、最良のタイミングを感じ取るものだ。タイミングを感じ取ったら、すぐに行動に移さなければならない。そうしないと時が逃げて行ってしまう」
 準備が整うと二人は出発した。チェンマイからバスに乗って六時間、メーホーソンという町に着き、そこから徒歩で山の中に入っていった。タムが生活用品一式詰まった大きな荷物を背負い、弦太郎は水の入ったペットボトルだけを持って歩いた。二人は藪をかき分けて斜面をのぼっていった。  
「師匠、まだ山の奥に入っていくんですか・・・・」
 一時間ほどが経過し、弦太郎は息を切らしながら訊ねた。二カ月の間、ほとんど寝たきりで過ごし、いきなりの激しい運動である。初めてタムに会ったときの山登りよりも苦しく感じた。
「ワシの足ならすぐに着くが、お前のペースに合わせると、あと四時間はかかるな。暗くなる前に着きたいから急ぐぞ」
「四時間ですか・・・・」まだ長い道のりを歩かなければならないことを聞き、弦太郎は気が滅入った。「師匠、あのお、できたら・・・・、イニシエーションを受けた後、下山したときのように、呪術を使って連れて行ってもらえませんか。ぼくは病みあけで万全でないものですから・・・・」
「何が言いたい? 負ぶってくれと言ってるのか」
「いや、まあ・・・・」
「ハハハハ、何を甘えたことを言ってるんだ。ワシはお前の下僕じゃない」
 タムは弦太郎の目を覗き込んでニヤリと笑った。
「いや、いや、そういうことを言いたいんじゃありません。――やっぱり、歩きます」
休む間もなく先に進んだ。
途中、猛烈な雨が降り出し、弦太郎はレインコートを着用した。地面がぬかるみ、トレッキングシューズを履いていても滑りそうになった。タムは大きな荷物を背負い、古びたゴムサンダルを履いているだけだが、もちろん何の苦労もなくスイスイと先へ行く。急斜面をのぼるときは手を引っ張って補助してもらわないことには前に進めなかった。
「――さあ、着いたぞ」
暗くなる手前の時刻、タムは川原で足を止め、清流を眺めながら言った。
「ここですか・・・・」
弦太郎は疲労困憊してまともに言葉も出せなかった。目の前にある清流から湯気が立ち上っているのが見えたので、川に手を入れて温度を確認した。
「あったかい」
「温泉が湧き出ているんだ。この温泉に、一日に何度か浸かれば体もほぐれるだろう」
「気持ちよさそうですね」
「それからワシらの寝室はあそこの洞窟だ」
タムが指差す方向を眺めると、川沿いの崖に細長い隙間が開いていた。二人は崖をのぼり、崖の隙間へ腰をかがめながら入った。隙間は高さが一メートルほどで低いが、中に入ると天井は高く、広さもアパートの部屋ぐらいのスペースがあった。外はすでに薄暗かったので、中は真っ暗だった。
荷物を下ろして敷物を敷き、ロウソクを立てるなどして生活の準備を始めた。弦太郎が荷物をひろげている間、タムは食料調達に出かけた。キャンプ生活が始まった。
夜は漆黒の闇が包み込み、虫の鳴き声がにぎやかに辺りをこだました。この日の夜、疲れきった弦太郎は倒れるように眠りつき、翌朝、暗いうちに目覚めた。川原に出て、温泉の温度調節をするため石で流れを堰き止め、熱湯の流れと水の流れを調節した。自分専用の風呂場を造り、一日に何回もそこで寝そべりながら湯に浸かった。開放的な露天風呂なので長時間浸かっていても息苦しくならず快適だった。最高の湯治だった。
タムは川原に即席のかまどをつくり、そこで食事を作った。弦太郎は毎日、山の素材の料理を腹いっぱい食べ、温泉に浸かって身体を休めた。そんな生活が一週間もつづくと、タムが言ったとおり、みるみると元気になっていった。
「――ここは天国ですね。こんなふうに自然の中にいると、身体にエネルギーが満ちてくるのが直に感じられます」
 弦太郎は温泉に体を大の字に横たえながらタムに話しかけた。
「ここは力の場所だ。都会にあるお前の息苦しい部屋と比べたら、そりゃあ全然違うさ」
「こんなに元気なるんだったら、もっと早く来ればよかったですね」
「前のヤツれた状態でどうやってここまで来るんだ。死にかけて皺くちゃになってたじゃないか。あんな状態じゃバスにも乗れんぞ」
「ああ、そうでした。あのときは悲惨でした。こんなふうに回復できるなんて奇跡的ですね」
「顔の色つやもすっかりよくなったな。――よし、今日から呪術の練習を始めよう」
「始めましょう、久しぶりに」
弦太郎は温泉からあがって服に着替え、早速川原で呪術の練習を始めた。
「さあ、心を鎮めて術に入るんだ」
「はい」
久しぶりの呪術だったので、できるかどうか心配だったが、一瞬で術に入られた。
『あっ、簡単に透明になれた。どうしたことだろう』
弦太郎は自分自身の変化に驚いた。面白くなって何度も術に出たり入ったり繰り返した。それを見ていたタムが笑いながら言った。
「ハハハハ、それは死神に会ったことによる功徳だな。前にも話しただろ、死神の世界から戻ってくると力が急激に高まるとな。お前は以前よりも一段成長したのだ」
『これはすごい――』弦太郎は術に入ったまま辺りをうろついた。身体が非常に軽くて動きやすい。『これなら何時間でも術に入ったままで留まっていられそうです。死神の効果はすごいなあ」
「じゃあ、また死神に会いに行くか」
『いや、それは結構です』
弦太郎は大げさに手を振って拒否した。死神の恐怖のトラウマはまだ完治しておらず、思い出したくもなかった。 
「壁抜けの術を練習するぞ。お前はこの試練を超えなければならない。集中力をさらに高めて心の深みに下りてゆくんだ」
弦太郎は心を鎮めた。あるところに見えない壁があり、はじき返されるように拒絶される。どうしても壁抜けモードに切り替わらない。
「意識の中で自分を消せ。自分を消して、さらに奥深くに入っていくんだ。恐れることはない」
 タムが何度もアドバイスしたが、弦太郎は同じ次元で足踏みをつづけて、そこから抜け出せなかった。
「――ダメだ、お前は自分を捨てきれていない。自分に執着しちゃダメだ。ワシが見本を見せてやろう。よく見ていろ」
タムはそう言うと、人間業とは思えない俊敏な動きで崖の斜面をのぼりだした。それは、ヤモリが壁に張りついて移動するかのようだった。あっという間に崖の斜面の中腹の高さまで到達し、そこから手を振った。
「弦太郎、術に入ってワシを見るんだ」
「了解しました」
 弦太郎は術に入った。
「行くぞ」
タムは身体を丸め、後方に転がり出した。
『危ない!』
 弦太郎は思わず声をあげた。タムは転がり落ちた瞬間、パッと壁抜けの術に入って光のオーラを発し、木や岩をすり抜けながら転がり落ち、最後は体操選手のように両足でピタリと地面に着地して術を解いた。それは、転がり出してからほんの数秒間の出来事だった。
「このように切り替えるんだ」
タムが何事もなかったかのように話すのを弦太郎はポカンとして眺めた。
「どうだ、お前も命の危機にさらされると自然に壁抜けに入れるかも知れんぞ。恐怖がお前の進歩を停滞させる原因であるが、逆に恐怖の状況に自分を追い込んで、恐怖と向かい合ってみると何かおもしろいことが起こるかもしれん。やってみるか」
「は、はい・・・・」
弦太郎は心細そうに返事をした。先ほどタムがのぼった同じ斜面をよじのぼった。ロッククライミングのようにして崖に張りつき、一歩一歩慎重にのぼらなければならない。タムがのぼった崖の中腹まで行くのに一時間近くもかかった。
弦太郎はそこから下を見下ろした。想っていたよりも高く感じられた。
――師匠はここから転がったのか。壁抜けモードに切り替わらなかったら、オダブツだな・・・・。
自殺にも等しい無謀な行為に感じられた。弦太郎は心を鎮めて集中すると、一瞬で術に入った。さあ、ここからである。しかし、恐怖を前にして、いくら頑張って心を鎮めても、壁抜けモードに切り替わらない。
――それじゃあ、イチかバチか転がってやろうか。
だが、崖に張りついたまま恐怖で身動きが一切取れなかった。膠着状態のまま、三十分が経過した。後方に転がり落ちる勇気がどうしても湧いてこない。かりに転がって壁抜けモードにならなかったら確実に死んでしまう。タムの方をチラリと目を向けると、彼は川原でニコニコしながら無言でこちらを眺めていた。タムは動けなくなっている弦太郎に声をかけた。
「弦太郎、自分自身を客観視するんだ。自分の行為も、お前の中の恐怖心もな」
『・・・・・・』
タムのアドバイスも虚しく、時間だけが経過していった。精神的な緊張感から力を浪費してしまい、呪術がプツリと切れてしまった。
「ああ、ダメだ・・・・」
弦太郎は諦めて、また崖に這いつくばるようにして慎重に川原へ下りていった。
「すみません、師匠、できませんでした」
「今のお前では無理だな。もし転がっていたらまた死神の世界行きか、もしくは即死していただろう、ハハハハ」
 タムは陽気に笑った。
「師匠はそうなることがわかってて、ぼくを行かせたんですか」
「呪術師の試練だ。お前は正しい判断をして生還した。自分の持つ力を冷静に分析し、引き返すべきところは引き返さなければならない。お前はそれをやり遂げた」
「フウー、そんな怖いことさせないでくださいよ。本当に転げ落ちようと思ったんですよ。危うく死んでしまうところだったじゃないですか。――ああ、疲れた・・・・」
「いま日差しが当たっているうちに太陽のメディテーションをして、力を蓄えろ。温泉に入りながらだと尚いい」
弦太郎は練習をひとまず切り上げ、温泉に浸かりながら太陽のメディテーションをして力を蓄えた。メディテーションをしながら弦太郎は考えた。――こうして楽な状態でいるよりも、恐怖の状態に身を置いた方が、より心の奥へ入って行けそうだ。やはり、成長するためには恐怖と向かい合う必要がある。
力を充電し終わると、弦太郎は再び崖をのぼりだした。
「また行くのか?」
 タムが後ろから声をかけた。
「よく考えてみたら、恐怖を目の前にすると集中力が増すんです。もう一度、挑戦します」
「軟弱なお前も、頼もしいことを言うようになったな、ハハハハ」
弦太郎は再度崖をのぼりだした。ロッククライミングは腕の筋力を酷使し、体力を非常に消耗する。油断すれば滑落し命を失う。のぼり始めて二十分ほど経過した。
「大分高くなってきたぞ」
 両手の四本の指を岩の隙間に引っ掛けて、「ウーン」と腕力を込めて身体を引き上げたとき、顔の正面の岩の窪みから巨大なムカデが一匹出てきた。ムカデは岩に引っ掛けた四本の指の方にシュルシュルと向かってきた。
「ヒャッ!」
思わず指を岩から離してしまった。その瞬間、崖から真っ逆さまに落下した。それは物理的には一瞬の出来事であったが、彼の意識の中ではスローモーションで動いているように感じられた。弦太郎は無意識的に自分を手放し、壁抜けモードに入った。岩や草木を透り抜け、ゆっくりと物質を通過しながら転がっていった。
 ストン――
怪我一つせず、地面に両足からきちんと着地した。ハッと我に返り、壁抜けモードが途切れた。
「ハハハハ、やるじゃないか」
タムが笑いながら祝福した。
「突然身体が軽くなって、触覚が消えました。どういうことだろう?」
弦太郎は自分でもわけがわからず、両手で自分の身体をさすった。
「それが壁抜け状態だ」
「すごい。ダー婆さんのときにつづいて、二回目の成功だ。――そうか、そういうことだったのか。師匠が言う“自分を手放す”という意味がわかったような気がします」
 弦太郎は自信たっぷりに言った。
「安心するのはまだ早い。いまのは偶然だろ。まだ自由自在にスイッチを切り替えることはできない。透明の術を使うように、意識的に自由自在に壁抜け状態にならなければいけない」
「でも、もうすぐですね。できるような気がします」
「夜になったらまた呪術の稽古をするから、いまは力を溜めておけ。月の力を利用する」
「はい――」
昼の練習をひとまず終えた。温泉に浸かって体を休め、夜の練習のための力を蓄えた。
夜の帳が幕を下ろし、闇が辺りを包み込んだ。今晩は満月だったので、月光が闇夜を煌煌と照らし、自分の影が映るほど明るい夜だった。
「月の光を浴びながら、結跏趺坐の姿勢で座るんだ。この座り方が一番身体を安定させ、月の光は心を落ち着かせてくれる」
夜になってもタムは熱心に指導した。弦太郎は川原に結跏趺坐の姿勢で座り、言われるがまま心を鎮める練習をした。
「恐怖を利用してお前は壁抜けに成功した。今度は静かに座った状態から心の扉を開けるんだ。それができてこそ本物だ。呼吸を見つめて、思考や感情を客観視するんだ」
「しかし、川原で座ると、石がお尻に当たって痛いですね」
「痛みすらも客観視しろ」
「ちょっと眠くなってきました」
「眠気すらも客観視しろ」
「すべて客観視ですね。わかりました――」
弦太郎は夜遅くまで月明かりを浴びながら、壁抜けの練習をつづけた。


  二十九
「ワシは二、三日出かけるからな」
この日突然、タムが留守にする旨を伝えた。
「どこに出かけるんですか?」
「さらに山の奥に入って薬草を採りに行く。ここにしか生息しない珍しい薬草があるんだ」
「ぼくも一緒に行っていいですか」
「お前はここで療養しながら術の稽古をつづけるんだ。ついてきたら足手まといになる」
「それは残念です・・・・」
「食料は洞窟に十分保存されているから、それを自分で煮炊きするんだ」
「わかりました」
「じゃあな――」
タムは飄然と山奥へ消えていった。タムが行ってしまうと、弦太郎は言いようのない心細さを感じた。いなくなって改めて、生活面も精神面もすべて彼に依存していたことを思い知らされた。これから身の回りのことはすべて自分でやらなければならない。最初に気がかりになったのは食料のことであった。どれだけの食料が備蓄されているかを確かめるため、洞窟に戻った。洞窟内で寝起きしていながら、食料のことをまったく把握していなかった。調べてみると魚の燻製や、肉の燻製、山菜などが、彼の言ったとおり豊富に備蓄されていた。
――師匠にはお世話になっているなあ。
弦太郎はしばらく温泉に浸かって身体を休めた後、小枝拾いや薪集めをして燃料の準備を整えた。昼食時、かまどに火をつけ調理を始めた。薪が燃え上がると白い煙があがり、その煙でむせて咳をしたが、どうにか炎が大きくなり、ご飯を炊いたり魚を焼いたりすることができた。

二人の男が山中を歩いていると、山の向こうから白い煙が上がっていることに気がついた。
「こんなところに誰か火を使っているな。サツが調査に来ているかもしれないぞ」
「見に行くか」
男たちは煙の方向に歩いていった――。
彼らは麻薬密売組織のメンバーだった。山岳地帯の国境からビルマに入り、ビルマ国内の反政府少数民族から麻薬を仕入れてタイに持ち込み、それを都市部へ流す。タイ政府は、麻薬撲滅に力を入れており、国境を越えて大量に入ってくる麻薬を警戒し、厳重に取り締まっていた。この辺りは麻薬が大量に入ってくるルートであり、麻薬密売組織とタイ警察が頻繁に銃撃戦を行う危険な地域だった。密売組織のメンバーも、警察に見つかればその場で射殺されるか、射殺されなくとも無期懲役に処されるので、自分たちの縄張りに入ってくる人間を極度に警戒していた。
煙の上がっている地点を山の斜面から双眼鏡で眺めると、川原で男が一人食事をしているのが見えた。
「なんだあの男は? 一人でいるみたいだぞ」
「一人で調査にやってくるサツはいないだろ? 他の仲間はテントの中にいるんじゃないか」
「テントらしきものもないな。どういう理由で来ているんだろう。怪しい奴だ」
「もっと近づいてみるか」
「相手に気づかれないように気をつけろよ」
ベレー帽の男がポケットからピストル取り出して弾数を確認すると、丸坊主の男も同じようにピストルの状態を確かめた。二人はゆっくりと弦太郎に近づいていった。

弦太郎は腹ごしらえが終わると、また温泉に浸かって体を伸ばしながら、太陽のメディテーションをおこなった。昨晩も遅くまで月を見ながら結跏趺坐の姿勢で壁抜けの練習をしたが、どうしてもうまくいかなかった。集中力が高まらないから駄目なのか、それとも恐怖の壁を越えられないから駄目なのか、そんなことをぼんやり考えていたとき、「ガサッ、ガサッ」と、こちらに近づいてくる何者かの足音を耳にした。弦太郎はビクッと体を硬直させ、音の方向を目で追った。
――こんな山奥に人が住んでいることはないだろうから、獣の足音だろうか・・・・。
呪術が上達していくにしたがって、弦太郎の五感は敏感になっていた。僅かな臭いや、微かな音に機敏に体が反応する。
――足音から判断すると獣のものではない、人間だ。しかも一人ではなく二人いる。しかも時折立ち止まりながら、こちらを窺ってゆっくり近づいている。
 弦太郎は微かな足音からそこまで読み取れた。
目を凝らして山を眺望すると、手前の山の斜面の中腹からこちらに向かって下りてくる二人の男を確認した。二人とも上着に長袖の迷彩色のジャンバーを着ているのが見えた。服装からして山岳少数民族でも、山登りにきた登山客でもなさそうだった。弦太郎は嫌な予感がし、隠れるべきか、この状態で堂々としているべきかを考えた。彼らはどういう理由でここに来ようとしているのだろう。逃げるにしても川原に火を使った跡があるので、ここに人間がいたことはバレてしまう。無闇に逃げると逆に怪しまれそうな気がしたので、このまま堂々としていることを選択した。
相手に警戒されないよう、弦太郎は遠くにいる彼らに対し、こちらから大きな声で声をかけた。
「こんにちは――」
大きく手を振って、自分が無害であることを示した。
男たちは、遠くから弦太郎が挨拶して手を振っているのに気づき、動揺した。
「あいつ、こっちに向かって手を振ってるぞ。俺たちに向かって叫んでいるのか」
「そうみたいだな。俺たちを見つけたようだ」
「まずいな、奴の仲間を呼ばれたら厄介だぜ」
「逃げるか――。でもやつは動き回る様子はなさそうだ。何をしているんだ。――川から湯気が上がっているということは、温泉が出ているようだな。あいつは温泉に浸かっているのか」
「一人で温泉に入ってるのか? なんだか怪しいな。面倒だからさっさと殺すか」
「ここから撃つのか? ライフルならともかく、こんな遠くからピストルじゃ絶対当たらないぜ」
「もっと近づくか」
男たちは弦太郎に近づいていった。山を下りきり、肉眼で弦太郎の表情が読み取れるほどの距離まできた。
「おい、これは罠かもしれないぞ。わざとああやって油断させておいて俺たちをおびき寄せて、捕まえようと計画しているんじゃないのか。一人裸でこんな山の中にいるのはどう考えてもおかしいぜ。テントもなにもないんだしさ」
「でも、おびき寄せる作戦なら、オンナを使った方がいいじゃないか。奴の顔を見てみろ、そんな手の込んだことするような知的な男じゃなさそうだぜ。ボヤーとして湯に浸かって呑気な面してやがる」
「そう言われてみりゃ、そうだな。とりあえず近づいて、何をしているか問いただすか。油断はするなよ。少しでも怪しかったら即刻、撃ち殺してしまおう」
男たちは藪の中から姿を現し、弦太郎に向かってまっすぐ歩いていった。弦太郎は彼らを近くで目にし、ノッピキならない殺気を感じた。一人の男は細身で背が高く、エラが張った四角い顔をしており、ベレー帽をかぶっていた。もう一人の男は背はやや低めだが、ボディビルで鍛えたであろう筋肉隆々の体で、肩耳にピアスをして坊主頭であった。弦太郎は、相手に敵意を向けると衝突しそうな気がしたので、友愛の感情を示して気さくに声をかけた。
「こんにちは、こんなところで人に会えるとは思っていませんでした。何をしているんですか?」
男たちは弦太郎を一瞥すると、拍子抜けしたように緊張感が解けた。若く、色白で、あまりにもひ弱そうな男だったのだ。警察関係者とはとても思えない。
「我われはこの辺りに住む山岳少数民族だ。こんなところで人に会えるとは思ってなかった。君は一人でここに来たのか?」
 エラの張った四角い顔の男が、充血した大きな目でじっと弦太郎の目を見つめながら、しゃがれた声で訊ねた。
「いや、この辺りの地理に詳しい少数民族のお爺さんに連れて来てもらいまいした。でも、今朝、彼は二、三日薬草を採りに行くと言って、出て行ってしまいました。しばらくはぼく一人です」
「薬草採りにねえ――、で、君はどこに泊まってるんだい」
「あそこです」
弦太郎は崖の洞窟を指差した。
「あんなところに泊まってるのか。で、君は一緒に薬草を採りに行かないのか?」
「ぼくは行きません。見てのとおり湯治をしています。体を悪くしてしまって、この湯に浸かるとよくなると言われて。いやあ、気持ちがいいですねえ。――どうですか、一緒に入りませんか」
「ハハハハ、君は呑気でいいなあ。でも、我われは暗くなる前に家に戻らないといけないから遠慮しておくよ。ここから家まで三時間ほどかかるから時間がない」
 エラの張った男は弦太郎のノホホンとした様子に緊張感がなくなり、思わず笑いながら話した。
「そりゃあ、残念ですね。時間があったら是非ここにきてください。すごく気持ちがいいですよ」
「ああ、確かに気持ちよさそうだ。じゃあ、失礼――」
二人の男は山の方に向かって歩き出し、藪の中に入って見えなくなった。弦太郎は、殺気立った男たちが去ってくれ、ホッとして湯の中に体を埋めた。男たちは弦太郎が見えなくなると小声で話し合った。
「まったく驚かせやがる。スッとぼけた野郎だ」
「変な奴がいるもんだ。ここは麻薬の危険地域だというのに飄々としてやがる」
「ちょっと、待てよ・・・・。馬鹿とハサミは使いようって言うだろ? アイツも何かに使えるんじゃないか。ブツを運ばせるとかさ」
「うん、確かにな。こんなところで遇って、放っておくのは勿体ないかもしれない」
「一緒に飯喰って、酒飲んで、しばらく監禁して様子を見てみても面白いかもな。何かの役に立つかもしれないぜ」
「それはいい。誘ってみるか」
二人は踵を返して、弦太郎の方に戻って行った。
「――君の名前は何て言うんだい?」
 弦太郎はノンビリと寛いでいた矢先、また彼らが戻ってきたので、一瞬ビクッとした。
「げ、げ、弦太郎と言います」
 恐々とこたえた。
「町の人だろ」
「チェンマイ市内に住んでいます」
「そうか、チェンマイ人か。こんなところで都会の人に会うなんて珍しいなあ――。俺たちの家はここから山を越えて三時間ほどかかるけど、一緒に来ないか。こんな山の中で遇ったのも、何かの縁だ。みんなで飯を食べよう。旨い酒もたっぷり用意してあるから」
「酒ですか・・・・」
弦太郎はしばらく酒を飲んでいなかったので、酒と聞いて少し心が揺らいだ。
「帰りはどうしましょう?」
「泊まっていったらいいさ。ベッドがひとつ空いてる。君はあんな薄暗い洞窟で寝起きしてるんだろ。俺たちの家の方がきれいだし快適だ。何にも遠慮する必要はない。さあ、行こう、行こう――」
男たちが腕を引っ張って強引に誘うので、弦太郎は拒否することもできず、温泉から出て服を着用し、そのまま男たちについて行った。

山道を三時間ほど歩くと、山の中にポツンと建っている一軒家に到着した。弦太郎は彼らが少数民族というので、タムの家のような木で造った質素なものを想像していたのだが、そこにある家は、街中で見られるのと同じ鉄筋の頑丈そうな建物だった。この建物は、自然に囲まれた山の中では調和していないように思われた。
「この辺りには、他の家族は住んでいないんですか?」
「そんなのいねえよ。俺たちだけだ。まあ兄ちゃん、遠慮しないで入れよ」
家の中に入るとタバコの煙が充満しており、リビングには男が二人、ソファーに座って、大画面のテレビで映画を見ていた。
「帰ったぞ――。お客さんを連れてきた」
丸刈りのマッチョが二人に声をかけると、ソファーに座っていた長髪の太った大男が振り向き、弦太郎の顔をドロンと澱んだ目で物憂げに一瞥した。
「なんだコイツは?」
「山の中の温泉で一人でキャンプしていた若者だ。湯治しているんだってさ」
「なんだ若いのに爺むさいな、ハハハハ」
大男は太く低い声で笑った。
「まあ、好きなところに座って寛いでくれ」
弦太郎はソファーを勧められて腰を下ろしたが、なんだかソワソワとして落ち着かず、目をキョロキョロさせて周りを窺った。
――場違いなところに来てしまったようだ・・・・。
 ここに来たことを悔やんだ。壁には無造作に何丁もの自動小銃がたてかけられていた。四人の男たちの容姿、言葉遣い、態度、雰囲気、それらから総合的に判断すると、堅気の者でないことは確かである。こんな山の中の一軒家に、屈強な男が四人だけで住んでいるなんておかしい。窓に目をやると、日が沈みかけ外は薄暗くなっていた。
「そろそろ飯にしようぜ」
 大男が声をかけると、体中に刺青のある痩せた男が立ち上がり、キッチンに向かった。短時間で調理が終わらせ、大皿に山盛りの鶏の空揚げと青パパイヤの辛口サラダを持ってきた。マッチョの男が立ち上がり、奥から外国製のウイスキーを二本持ってきて栓が抜いた。グラスに氷を放り込み、ウイスキーをなみなみと注いだ。無言のまま誰からともなく料理を食べ出した。
「兄ちゃん、遠慮しないで飲めよ」
「は、はい・・・・」
弦太郎は借りてきた猫のように小さくなって固まっていたが、拒否するとバツが悪そうなので、酒がグラスに注がれるとチビチビと口をつけた。
酒が入りしばらくすると男たちも饒舌になり、弦太郎についてあれこれ訊いてきた。
「お前さんは若く見えるが学生か?」
「学生だったんですが、最近、退学させられました」
「ハハハハ、退学か、そりゃあ、いいや。大学の勉強なんて金儲けに繋がらないから辞めて正解だ」
四人の男たちは馬鹿にしたように笑った。
「オンナはいるのか?」
「最近フラレました」
「ハハハハ、なんだい、大学は退学させられるは、オンナにはフラレるは、それで病気になって湯治だろ。そりゃ大変じゃないか」
 横からエラの張った男が大きな目を見開いて訊ねた。
「で、君の名前は〝弦太郎〟って言ったな。ずいぶん変わった名前だな」
「父が日本人なので」
「そうか、どうりで肌が白いと思った。日本語は話せるのか?」
「日本に中学、高校と六年間住んでいたので話せます」
「そりゃあ、スゲーな。日本にまで運んでもらえねえかな。高く売れるからさ、ヒヒヒヒ」
四人は目配せしながら笑った。
「運ぶ?」
「そうブツをな」
「ブツ、ですか・・・・」弦太郎はしばらく間を置き、「皆さんは山岳少数民族とのことですが、どういった仕事をしていらっしゃるんですか? やっぱり農業とか?」
「山岳少数民族? 農業? ハハハハ」
四人は顔を見合わせて笑った。エラの張った男はしゃがれた声で言った。
「兄ちゃん、信じてたのか。こんな山の中で農業やったって喰えるわけないだろ」
「じゃあ、どういった・・・・」
弦太郎はおずおずと訊ねた。刺青の痩せた男がニヤニヤとして立ち上がり、棚の引き出しから袋に密閉された白い粉を取り出し、ホイと弦太郎に渡した。
「これは売り物だから自分で使っちゃ駄目だぜ。頭がパーになるからな、ヒヒヒヒ」
弦太郎の呆然とした様子を眺めて、四人の男たちはまたいっせいに笑った。
「どうだ、俺たちのことがわかったかい。これを都市に流すと、いい金になるんだ」
「はあ・・・・、そんなに儲かるんですか」
「この兄ちゃんはとぼけたことをいうからおもしろいな。そりゃあ、儲かるさ。こういう酒が毎日飲めるんだからな」
大男は外国製のウイスキーの瓶を手に持って、振って見せた。
「ヘエー、スゴイですねえ」
弦太郎が消え入るような小さな声で賞賛の意を表した。
「だがな、運べれば儲かるが、見つかれば〝死〟だからな」
大男は急に目つきが変わり、恫喝するような眼差しで弦太郎の目を見つめ、低い声で言った。弦太郎も相手の目を恐る恐る見つめ、あいまいな相槌を打った。
「そうですねえ――」
弦太郎は目を伏せ、〝どのように逃げようか〟と頭を回転させた。チラリと窓を見ると、外は真っ暗である。
――この暗がりの中、洞窟に戻れるか。いや、下山した方がいいか。でも、地図も方位磁石もないのに下山なんてできるものじゃない。山中で道に迷ったら死んでしまう。どうしたらいいだろう・・・・。
弦太郎は緊張して身体がこわばった。緊張感をほぐすためにも、チビチビとグラスのウイスキーに口をつけた。そのうち緊張感がほぐれるどころか、それを通り越して酔っ払ってきた。それでも弦太郎は執拗にウイスキーを溜飲した。強い酒をあまり飲んだことがなかったため、どれだけ飲めば酩酊するか自分でもまったく予測がつかず、しかも久しぶりの酒であったため酒の回りが異常に早く、しばらくするうちにソファーにもたれかかるように酔いつぶれてしまった――。

弦太郎は朦朧と目を覚ました。酒が残っていて頭が痛い。見覚えのない真っ暗の部屋のベッドの上で寝ていた。半身を起こそうとしたとき、左手首に痛みが走った。パイプベッドの太い金属製のパイプと左手が手錠で繋がれていた。
「おお、なんてこった」
弦太郎は監禁されていることに気がつき、酔いがスッと醒めた。手錠から手を抜こうとしたが抜くことができない。それどころか、寝ている間に手錠と手首に摩擦が生じて傷ができ、それがヒリヒリと痛んだ。部屋を見回すと、もう一つベッドがあり、机、イス、タンスなどの生活用具も置かれ、床には服が脱ぎ散らかされていた。誰かが住んでいる部屋のようだった。
「普通にアイツに運び屋を命じたからって、ブツを捨てて逃げちまうだけだぜ」
男たちの声が小さく聞こえてきた。弦太郎は話し声に耳をすませた。声は下のほうから聞こえてくる。どうやらここは二階であるらしかった。聴覚が鋭敏になっているので、小さな話し声も明瞭に聞き取れた。
「みっちり脅しをかけとけばいいじゃないか」
「駄目だ、そんなことしたら、余計におかしな行動をとられるかもしれない。警察に俺たちの居場所を密告するとかだな」
「拷問でもなんでもして、死にかけるまで脅したら命令どおりに動くだろ」
「そんなことしても無駄だな」
「なんかウマく利用できないかなあ」
弦太郎は話し声を聞いてゾッとした。現在、非常に危険な状態に自分がおかれているのだ。さらに男たちの会話がつづいた。
「いっそのことだな、直接運び屋として使うんじゃなく、“壁”として使ったらどうだ。アイツにブツとは言わずに日用品の詰まったトランクを持たせて公共バスに乗せる。実際は日用品の底にブツが入っている。奴はそれを知らずにバスに乗ってトランクを運ぶ。それをチェンマイのとある場所で引き渡すように言っておく。検問の警察にそのトランクを調べられ、そこでアイツは御用となる。捕まっている間は検問が手薄になるから、そこの合間を縫って、我われが車で検問を通過する」
「それがいいかもしれないな。でも、アイツが捕まって、俺たちのこの居場所をチクったらどうする」
「目隠しでもして、下山させればここがどこかもわかるまい」
「そうだな」
「もし、アイツが捕まらず、〝壁〟として機能しなかったらどうする?」
「同じバスに〝兄弟〟を乗り込ませ、警察に密告したらいいじゃないか」
「なるほど」
「その作戦で方向性をかためよう」
「ああ、眠たくなってきた、今何時だ?」
「三時を回ってる」
「もうそろそろ寝るか。でもアイツはあっという間に酔いつぶれて寝ちまったな、ハハハハ。ひ弱で可笑しな奴だ」
「じゃあ、今晩はお開きだ――」
男たちが階段を上ってくる足音が聞こえた。弦太郎は横になり、寝たふりをした。ドアのノブがガチャリと響き、刺青の男が部屋に入ってきた。刺青の男は弦太郎のベッドの前で足を止め、手錠の様子をちょっと観察し、空いているベッドにドカリと寝転んだ。酒の熟んだ臭いが部屋に充満した。数分後には男の寝息が聞こえてきた。
――ここは〝壁抜け〟しかないな。
弦太郎は精神を落ち着けて術に入った。ここまではすんなりいく。問題は次からだ。さらに心の奥深くに入っていくよう精神を集中させた。時間が刻一刻と経過していく。男の方からいびきの高鳴る音が聞こえる。二日酔いで頭が痛く、どうしても集中できない。早く壁抜けに入らないと男が起きてしまう。焦れば焦るほどスイッチが遠のいていく。
――ダメだ、できない。いまのおれには壁抜けはできない。諦めて明日逃げるとするか。ずっと一日中、手錠をかけられっぱなしにされるわけでもあるまいから。手錠を外されてから、隙を狙って呪術を使って逃げればいいんだ。
弦太郎はそのまま眠ろうとした。ウトウトと寝入ろうとしたとき、夢にタムが出てきた。
「弦太郎、早く逃げろ。モタモタしていると厄介なことになるぞ。チャンスは今しかない」
タムの声でパッと目を覚ました。
「でも、師匠、どうしても壁抜けができないんです。どうしたらいいですか」
弦太郎はタムを想念しながら呟いた。だが、タムは何も答えてはくれなかった。
「夢か・・・・」
そのとき、首筋でゴソゴソとくすぐったい感覚があった。顔をひねって枕元を見ると、大きなムカデが這いずっていた。
「ワッ!」
思わず声をあげてベッドから飛び起きた。それは、崖から真っ逆さまに落ちたときに見たやつと同じ種類の巨大なムカデだった。ムカデはスルスルと枕の下に潜り込んだ。弦太郎は枕を持ち上げてムカデを探したが、どこをどう逃げたのか、もう枕の下にはいなかった。首筋をさすったが刺されていなかった。
「よかった・・・・」
またゴロリと横になろうとしたとき、ハッと気がついた。手錠が手首から外れていた。
「外れている!」
何だか知らないが、驚いた瞬間、一瞬だけ壁抜けモードに切り替わったようだった。
「ありがたい」
弦太郎はすぐに術に入って姿を消した。男がグッスリと眠っているのを確認し、そっと部屋を出て行った。二階から一階に下り、玄関の扉を開け、麻薬密売組織のアジトから脱出することにまんまと成功した。
「さあ、これからどうするか・・・・。いったん洞窟に戻るしかなさそうだな。だけど、道がわかるだろうか。こんな真っ暗な夜だし。まあ、歩いてみるか」
歩き出した弦太郎は今までになかった自分の感覚に気づいた。夜なのに野生動物のように暗がりで目が利くのだ。それに歩き出したとき、午後歩いてきた自分たちの臭いを微妙に感じられた。その臭いをたどりながら、歩いた記憶と整合させて山道を歩いた――。

まだ薄暗い夜明け前、刺青の男は尿意を催して目を覚ました。寝ぼけまなこでベッドから立ち上がり、ドアに向かって歩いたとき、ふと異変に気がついた。
――男がいない・・・・。
 刺青の男はベッドを手の平でポンポンと叩き、「あれ、あれ――」と呟き、次に枕をひっくり返した。そのとき大きなムカデが出てきて、男に向かって走り寄ってきた。「あっ――」、彼は思わず声をあげて、慌てて枕を覆い被せてムカデの動きを止め、床に落ちていた雑誌を拾い上げて叩き潰そうと試みた。ムカデはベッドから床に落ち、ドアの隙間からシュルシュルと外に逃げていった。
男は照明をつけて部屋を明るくし、弦太郎を探すためベッドの下も覗いた。
「いない・・・・。一体、どういうことだ、いなくなってる」
ベッドの金属のパイプに繋がれている手錠を確かめたが、手錠は鍵がかかって閉じられていた。どうやって逃げたのか見当がつかない。刺青の男は部屋から出て、まだ寝ている仲間を片っ端から起こした。
「おい、起きてくれ、大変だ。あの若い男、逃げ出しやがったぜ。手錠をかけてベッドの上に寝かしておいたのに、いま起きたらいなくなってる」
寝ていた男たちは目をこすってボンヤリと目を覚ました。
「何を言ってるんだ? こんな朝っぱらから」
「いまションベンに起きたんだ。そしたら、あの若いのがいなくなってる。逃げ出しやがった」
「本当か?」
男たちは目をしばたかせながら話を聞いた。
「どうする?」
「逃げるっていっても、こんな山の中、道がわかるのか。地図も何も持ってないはずだぜ。しかも外は真っ暗だろ。道に迷って遭難するのがオチさ」
「でも、もしも下山して、警察を連れてきたら厄介だぜ」
「そうだな・・・・。よし、アイツのキャンプしていた温泉地に行くか。あの洞窟に住んでるって言ってただろ。戻るとしたらそこしかないだろ。――まったくこんな朝っぱらから面倒なゴタゴタを起こしやがって。こうなったら見つけ次第、射殺しよう」
男たち四人は外が明るくなってから温泉地に向かって出発した。

弦太郎は温泉に帰りついた。すっかり夜が明け、朝陽がまぶしい。麻薬密売組織のアジトから戻ってくると、ここは清浄な気が立ち込めている神聖な場所であることが顕著に感じられた。いまになってようやくタムがこの温泉を〝力の場所〟と表現した理由がわかった。
長い距離を早足で歩いてきたので、体中から汗が噴出していた。それに二日酔いで頭が痛い。
「温泉に浸かって汗を流すか」
疲れた体で湯に浸かると、なんともいえない心地よさだった。仰向けになって大の字になりながら太陽のメディテーションをして力を溜めた。しばらく湯に浸かっていたらウトウトと睡魔が襲ってきた。――うう、眠い。夜中、起きて逃げ出してきたから、睡眠時間が足りていないのだろう。
体力を回復させるためにも睡眠をしばらくとりたかった。だが――、弦太郎は危険な男たちのことを考えた。
――やつらが、ここにやってくるかもしれない。その前に荷物をまとめてすぐにここから逃げた方がいいんじゃないだろうか・・・・。
弦太郎は温泉から出て、洞窟に入った。荷物を整理していると、この大きな荷物をすべて背負って山を下りることは、自分の体力では不可能であることに気づいた。
――荷物は師匠に任せよう。
 財布、ケータイ、鍵、レインコート、水筒・・・・、下山するのに大切な必要最小限度のものだけを小さなカバンに詰めた。準備がすべて終わったが大きな困難に気がついた。
――道がわかるだろうか・・・・。
 ここから下山するのに山の中を五時間以上歩かなければならない。山道を覚えている自信がなかった。男たちの家から逃げてきたときのように、臭いが残っていてくれればいいのだが。しかし、もう一週間以上時間が経っているため、臭いがもう残っていそうにない。
――ダメだ、ダメだ、下山中止だ。やっぱり師匠が帰ってくるまで待っていよう。奴らがきても術を使って姿を消していれば、捕まらないだろうし。眠い、眠い・・・・。
弦太郎は暗闇の洞窟の奥で、寝袋に包まりながらひと眠りし始めた。

男四人は昼過ぎに温泉地に到着した。大男はしゃがみこんで温泉に片手を浸しながら言った。
「若造、この湯に浸かっていたのか」
「あの洞窟に寝泊りしてるって、この前言ってたぜ」
エラの張った男が、洞窟を指差して言った。
「じゃあ、俺が見てくるか」
「俺も行く」
マッチョの男と、刺青の細身の男が崖をのぼって洞窟に向かった。
「――ん?」
弦太郎は人の声に気がつき、目を覚ました。耳を澄ますと、ガサガサとこちらに近づいてくる音がする。
「まさか・・・・」
術に入って姿を消し、洞窟の穴から下を覗いてみると、マッチョの男が崖をのぼって、至近距離わずか二メートルほど手前にいた。刺青男もすぐそばまで上ってきている。弦太郎は洞窟の隅に身を寄せた。
「――中は真っ暗だぜ」
マッチョが洞窟に入ってきた。
「意外と中は広いじゃないか」
刺青もつづけて入ってきた。
「荷物が置いてある。本当にここに寝泊まりしていたようだな」
「暗くてよく見えねえな」
刺青はポケットからジッポライターを取り出し、火をつけて辺りを照らした。
「あそこに敷物が敷いてあるな。寝袋もあるぜ」
「ここに食料もあるな。こんなところで自給自足生活か、ヒョロっちい奴だけど、サバイバルに強いのかなあ」
二人は洞窟内を歩き回った。
「いないな」
「ああ、いない」
「出るか――」
呪術を使って姿を消している弦太郎の目の前で会話を交わし、二人は洞窟の外に出た。
「荷物はあるけど、いねェぞ!」
マッチョは下にいる男たちに叫んだ。
「もういい、下りてこい」
二人は崖から下りて川原に戻った。弦太郎は男たちを洞窟の穴から身を乗り出して眺め、彼らの会話に耳をそばだてた。
「もう下山しちまったかもしれねえな」
「逃げちまったか」
「サツに言わなきゃいいんだけどな」
「とりあえず、この周辺を探し回るか。隠れているかもしれない」
「荷物があるから、ここに戻ってくる可能性があるぜ」
「じゃあ、こうしよう――。ひとりは家に戻って待機だ。一人は下山してヤツを追う。二人はここに残って待ち伏せだ」
「よし、そうしよう――」
四人がそれぞれの持ち場へ解散しようとしたとき、大男が思いついたように言った。
「洞窟に本当にいなかったのか?」
「ああ、いなかった」
「きちんと確かめたのか」
「暗かったけど隅々まで確かめたぜ」
「壁や天井も確かめたか?」
「・・・・天井は見なかったな」
大男はニヤリと小さく微笑み、背中にかけていた自動小銃を洞窟に向けて構えた。弦太郎は銃口がこちらに向けられた瞬間、恐怖で背中に寒気が走った。
――イカン! 
すぐさま洞窟の壁に寄り添った。その瞬間、『ダダダダダ』という自動小銃を連射する乾いた音と同時に、洞窟内に銃弾がすさまじい音をたてて、壁から壁に飛び跳ねて弾いた。
「!!」
 弦太郎は恐怖のあまり自己を滅却し、無意識的に壁抜けモードに切り替わった。さらに、エラの張った男も洞窟に自動小銃を向け連射した。二つの自動小銃から放たれる百発を超える弾丸が狭い洞窟の壁を、あっちに弾き、こっちに弾きしながらはね返り、弦太郎の体の中にも十数発という弾丸がすり抜けていった。
「よし、これだけ撃てばもう大丈夫だろう」
「そうだな」
二人は乱射を止めた。四人はそれぞれの持ち場に散った。マッチョは下山し、大男は家に戻り、刺青とエラは温泉に待機となった。
弦太郎は射撃の標的にされた恐怖から開放され、脱力して地面に膝をついた。地面にはおびただしい銃弾が転がっていた。
「フウー・・・・」
弦太郎はゆっくりと深呼吸した。偶然、無意識的に壁抜けができたからよかったもものの、〝偶然〟が働かなかったら確実に死んでいた。顔を撫でると冷や汗でべったりと濡れていた。
――さて、どうしよう・・・・。あいつらがここに居座るということは、下山しないといけないのか。でも、師匠を待っていないと・・・・。いや、今は命にかかわる。すぐに逃げよう。
弦太郎は呪術を使って姿を消し、洞窟から下りて、急いで温泉から下山した。


  三十
無我夢中で下山して三時間ほどが経過した。岩の上に腰を下ろし、下山して初めて休憩した。
――ここまでくれば、もう丸刈りマッチョには会わないだろう。
弦太郎は早歩きで歩いてきたので、もう彼を追い越し、そうとう距離を離しているだろうという思いがあった。だが、自分が歩いている道が下山する正しいルートかどうか、自信がなかった。太陽の位置から方角を推測して歩いているだけだった。どこまで行っても藪であり、林であり、斜面であった。もう自分の勘を信じるしかなかった。
十分ほど休憩して立ち上がろうとしたとき、前方の斜面からザザーという音とともにマッチョが滑り下りてきた。距離は四、五メートルと離れていない。
「マズイ!」
弦太郎は慌てて呪術を使って姿を消した。マッチョは立ち止まって、先に進もうか、戻ろうか考えているようだった。弦太郎の方を見たかと思うと、こっちに向かって歩いてきた。弦太郎は自分の姿が相手に見えているのでないかと一瞬怯み、岩の上から下りてソッと脇に移った。マッチョは弦太郎が座っていた同じ岩の上に腰を下ろした。
「いねえな、畜生。戻るか」
マッチョは小さく独り言を呟いた。弦太郎はこの声を耳にし、
――早く戻りやがれ、この馬鹿野郎!
心の中で悪態をついた。
――お前とはこれでもう二度と会うことはあるまい。
 弦太郎はマッチョから離れていった。
マッチョは肩にかけていた自動小銃を膝の上に乗せ、ポケットからハンカチを取り出して汚れを拭き取った。きれいにした後、それを持ち上げてストックを肩に当て、射撃の体勢に構えた。一発打ちたくなり、銃口を空に向けたり、木に向けたりしながら的を探した。
弦太郎は歩きながら何気に後ろを振り向くと、マッチョから数十メートル離れていたが、彼が射撃の体勢をとって銃口をこちらに向けていたので殺気を感じ、そばにあった大木が背になるようサッと隠れた。その瞬間、パン、パンと二発乾いた音が響き、弦太郎の耳元を弾丸がビュンと力強い音をたてて通過していった。
――危ねェ・・・・。
木の陰で弦太郎は心臓を押さえながらしゃがみこんだ。昨晩から恐ろしいことが連続して起き、心臓がどうかなってしまいそうだった。マッチョは何事もなかったかのように呑気そうに口笛を吹きながら、きた道を戻っていった。
――あの野郎、ふざけて撃ちやがったな。当たったらどうするんだ。
 弦太郎は恐怖感で口がからからに渇き、水分を補給したくなった。
「あっ、忘れた」
 ここまで来て、水筒を持ってこなかったことに初めて気づいた。それどころか、財布、ケータイ、鍵――、大切なものすべてを洞窟に置いてきたことに気づいた。
「しまった・・・・」
カバンに詰めたのに、洞窟で自動操縦で撃たれた恐怖から、それを持ってくるのをすっかり忘れてしまった。戻れば危険な男たちがいる、先に進めばそれらを失う。どちらを選択すべきか――。いま来た道を戻り、同じようにここまで来ることを想像すると、すこぶる億劫に思え、大切なものをすべて捨ててでも先に進む方を選んだ。弦太郎はトボトボと歩き出した。
歩いても歩いても山から出られることができなかった。部落にも人にも出会わなかった。歩いているうちにいつしか辺りは真っ暗になっていた。もう太陽で方角を推測できない。もう勘だけが頼りだった。川の水を飲んで喉を潤すことはできたが、食べ物はまったく口にできなかった。考えてみれば一日中まったく何も食べていなかった。
「腹減った、腹減った――」
ブツブツと呟きながら真っ暗の山道を歩きつづけた。そんなとき、車の排気ガスの臭いを微かに感じた。
――町が近づいている!
 臭覚を頼りに臭いが強くなる方へ歩いていくと、一時間ほどしてアスファルトで舗装された公道に出られた。結局、下山するまで九時間ほど山の中をさまよっていた。

公道に出てからも困難が生じた。こんな田舎の夜道に、公共のバスが走っているはずがない。それに、かりにバスが走っていたとしても、財布を持っていないので普通にバスを停めて乗ることができない。ここは呪術を使って姿を消し、タダ乗りしかない。しかし、壁抜けがまだ自由にできないので、走っているバスに直接乗り込むことができない。
――ここはヒッチハイクしかないか。
弦太郎は公道を歩きながら、ごくごくたまに車が通ると、手を振って停めようとしたが、夜、こんな辺鄙なところを歩いている男にたいし、停まってくれる車はなかった。
「腹減った、腹減った――」
またブツブツと呟きながら歩いた。
公道に出て、あれこれ三時間ほど歩き、もう夜中の十二時を回った頃、前方遠くにまぶしく蛍光灯が光っているのを見つけた。近づいていくと、それは検問所の警察だった。国境に近い公道には数多くの検問所があり、警察が、麻薬や違法品をもっていないか不審なドライバーを二十四時間チェックしていた。
――助かった・・・・。
検問所に近づくと、二人の警察官が閑そうな顔をしてイスに座っていた。
「助けてください」
 弦太郎は警察官に近づいて訴えた。
「どうしたんだ?」
 警察官は訝しげに弦太郎の顔を覗き込んだ。こんな夜中に若い男がひとり、何もない道を歩いてくるのはどう考えてもおかしい。
「麻薬を密売する男たちに監禁され、そこから逃げてきました。お腹がすいています。喉も渇いています。山の中を九時間も歩いてきました」
 弦太郎は支離滅裂ながら状況を説明した。警察官は弦太郎を観察し、彼を犯罪者という前提で接した。
「麻薬密売組織? 接触したのか? ちょっと君の身分証を見せてくれ」
「あのお・・・・、財布もケータイもすべて置き忘れてきました。何も持っていません」
警察官二人は顔を見合わせた。
「どこで麻薬密売組織にあったんだ?」
「山の中です。地図にないところなので説明できません」
「どうしてそんなところに行ったんだ?」
「ある知り合いの山岳民族のお爺さんから病気によく効く温泉があると聞いて、山の中へ連れて行ってもらいました」
「いつ?」
「一週間ほど前です」
「麻薬組織に出会ったのは?」
「昨日です」
「ちょっと所持品を見せてもらうよ」
「何も持っていませんが・・・・」
 警察官に執拗なボディーチェックを受けた。警察官はケータイでどこかに連絡を取った。
「いま、担当者がいないんだ。しばらくここに入っててくれ」
 二人の警察官から手荒く腕をつかまれ、検問所の脇にある職員宿舎のような建物の奥に連れて行かれた。警察官は鉄格子のある扉を開け、狭い部屋に弦太郎を押しやった。そこは留置所であるらしかった。
「いや、いや、ちょっと待ってください。ぼくは何にも悪いことしてません。犯罪者じゃないんです。こんなところに閉じ込められる道理はありません、ちょっと、ちょっと――」
「うるさい男だ。とにかく明日まで待つんだ。担当者が明日にならないと来ないんだから」
警察官は吐き捨てるようにいい、扉を閉めて鍵をかけ出て行ってしまった。
「じゃあ、水と食料だけください。ここで待ちますから、頼みます。せめて水だけでも――」
弦太郎は警察官の後ろ姿に叫んだが、無視されてポツンと真っ暗闇の留置所に置き去りにされた。
「どういうことだ・・・・」
弦太郎は自分の置かれた惨めな状況がまるで夢のようで理解できなかった。腹が減って、喉がカラカラだった。疲労困憊して頭も朦朧としていた。その場で横になり、しばらく眠って体力の回復をはかることにした。
三時間ほど眠っただろうか、あまりの喉の渇きに耐えきれず、目を覚ました。とにかくここから出なければならない。
――ここは“壁抜け”しかない。
弦太郎は座ったまま心を鎮めて術に入った。さらに奥深くに入っていくよう心を鎮めた。「壁抜けができない」などと、自分に甘えている場合ではなかった。できなければ死んでしまう。〝死〟という、その不吉な黒い影と真摯に向かい合った瞬間、チカっとスイッチが入った。壁抜けの状態になり、体が重力から解放されたように軽くなった。
弦太郎は留置所の壁をスーッと通り抜けて外に出た。屋外も真っ暗だった。
――出られた・・・・。
 ホッとした瞬間、壁抜けの状態がパッと途絶えた。
「水、水――」
弦太郎は検問所の食堂にあった飲料水をガブガブと浴びるように飲んだ。先ほど不当に扱った警察官たちはイスに座ったまま居睡りしていた。
弦太郎はこの警察官たちと二度と会わないよう、暗闇の公道を逃げるように歩き出した。昨晩から山道を長い距離歩きとおしているので、脚の筋肉が痛かった。でも痛みを堪えて、とにかく先に進まなければならない。
歩き出して数分も経たないうちに、後ろからポンと肩をたたかれた。弦太郎はギクリとした。
――警察に見つかった! どうして? あいつらは寝ていたはずなのに・・・・。
 愕然としながらゆっくりと後ろを振り向くと、タムがニッコリと笑いながら背後にいた。
「師匠・・・・」
「ずいぶんと苦労しているみたいだな、ハハハハ」
弦太郎はタムの顔を見た瞬間力を失い、ヨタヨタと地面に膝をついた。
「野垂れるかと思いました」
「いい修行じゃないか。呪術師は苦労と混乱を背負って成長していくもんだ」
「ここまで苦労しなくても・・・・」
 弦太郎は消え入るような声で言った。タムは笑いながらカバンを差出した。
「ほら、お前の大切なカバンも持ってきてやったぞ。財布も鍵も入ってる。カバンに銃弾が当たったみたいだから、少し破けてしまってるがな、ハハハハ」
「あっ、ありがとうございます・・・・」
 弦太郎はカバンを手に取って調べてみると、確かにポッカリと穴が開いていたが、中のものは無事だった。
「さあ、面倒が起きないうちに、急いで帰ろう」
二人はチェンマイ市内に戻った。


  三十一
――ここはもう飽きた。どこか他に引っ越そう。
弦太郎は今いるアパートを出ようと決断した。力の温泉で修行を終えてから、嗜好が著しく変わってしまったようで、どうしてもこのアパートから出たくなった。引越しする前に、要らないものは徹底的に処分してしまおうと決めた。
――着そうにない服は要らない、大学の教科書類は必要ない、本も読まないので要らない、テレビも見る気が起きないので要らない、冷蔵庫も食べ物を保存しないので要らない、アイロンもシャツのシワなんか気にしないので要らない、電子レンジもポットもドライヤーも邪魔である。
 健康を回復させ、山でひと修行終えた弦太郎は、とにかく身軽になりたかった。いままで身につけていた脂肪をこそぎとってスリムになりたかった。
必要なものだけをまとめていくと、すべてがトランク一つにまとまってしまった。人間生きてゆくのに、トランク一つでどうにかなるものである。
アパートの大家に今月中に引っ越すという旨を伝えた。今月分の家賃は払っていたので、あと二週間はここに居れる。それまでに次の引っ越し先を見つけなければならない。弦太郎は街に出て、心落ち着ける場所はどこかにないか、感覚を研ぎ澄まして散策した。
『力の場所』
これは、修行前の弦太郎は持っていなかった観念だが、今の彼には一番に優先される重要な要素だった。その視点から街を散策すると、おのずと人の多い街の中心地から離れてゆき、人のまばらな郊外に行き着く。そして樹木が生えている自然豊かな土地に目が向いた。
弦太郎は感覚を頼りに気ままに足を向けた。郊外の裏山に登っていくと、とある廃墟になった寺を見つけた。礼拝堂、本堂、仏塔、僧侶の住まい――、そういった建物の痕跡はあるが、それらはすべて朽ち果て、静寂が漂っていた。何年前に廃墟になったのか、わからない。境内は草に覆われ、樹木は勢いよく繁茂し、生物たちの楽園といった感じになっていた。弦太郎はその雰囲気が気に入り、壊れかけた礼拝堂の軒先に腰を下ろして、深く呼吸をした。
――この場所はいい!
弦太郎はピンとくるものを感じ、この周辺で安いアパートを探そうと、引越しの手がかりを掴んだ。そのときタムを思い出し、このことを報告したくなった。しばらくそこに座っていると、正面から実際にタムが笑いながらやってきた。
「あっ、師匠! いま師匠のことを考えていたところです」
 弦太郎は想ったとおりのことが起きて驚いた。
「よくここを嗅ぎつけたな。ここは力の場所だ。なかなかお前も感覚が鋭くなってきたようだ」
「どうして師匠、突然ここに? もしかして、師匠はこのあたりに住んでいるんですか」
「いや、ワシがいるのは他の場所だ」
「じゃあ、どこに住んでいるんですか」
「今は言えん――」
タムはそう言って、意味深に弦太郎の目を覗き込んだ。
「今晩からここで毎日呪術の稽古だな。ここはお前の力の場所だ」
「ここでなら、いい瞑想ができる気がします。でも、どうして晩じゃないといけないんですか。昼では駄目なんですか?」
「前にも言っただろ、月の光は心を安定させると。お前はもう呪術師として完成するべく、力はほぼ整ったが、心が騒がしく落ち着かないから、壁抜けの術が自由にできないんだ。月の光を浴びて稽古すれば精神が安定し、呪術を達成する大きな助けとなるだろう」
「ぼくが絶対絶命のとき〝壁抜け状態〟になります。あれは何なんですか?」
「恐怖や絶望のあまり、無意識的に自分を放棄してるんだ。〝自分を放棄する〟、これは壁抜けに入る鍵だ。これを意識的にやり心のスイッチを押すんだ」
「自分を放棄して、自分でスイッチを押すというのも、なんだか矛盾していてよくわからないですね」
「理性で考えても無駄だ。説明にこだわれば、呪術が使えるようになるわけではない。呪術ができるようになれば、好きなように説明できる」
弦太郎は毎晩、暗くなるとここに一人やってきて、壁抜けの稽古に励んだ。そうしているうちに、昼と夜が逆転し、昼は眠り夜起きるという生活になった。いままで壁抜けに何度か偶然成功しているはずだが、意識的にしようと思うと、どうしてもうまくいかず、呪術の最後の関門で立ち往生した。


  三十二
弦太郎は数日前から意味不明の奇妙な胸騒ぎを感じていた。胸騒ぎは廃墟の寺で瞑想を始めると止むのだが、それ以外の日常生活は何もする気が起きなかった。そのことについてタムに相談したかったが、彼はまったく姿を見せなかった。今晩はいよいよ胸騒ぎが強くなり、おまけに頭もボンヤリとして、まったく不可解な気持ちになった。陽が沈むとすぐに廃墟の山寺に行った。
今宵は満月だった。いつものように、本堂の軒先の床に結跏趺坐で座った。日中、太陽光で焼かれた大気は、日が落ちてもなお熱を宿し、風が吹くと生ぬるい温風となって体にまとわりついた。突如、風が強くなって草叢がざわめき、湿った土の香りが漂ってきた。しばらくして激しい雨が降り出した。バケツをひっくり返したような雨だった。弦太郎は雨音を聞きながら、植物たちの宴を想った。
一時間ぐらいでピタリと雨が止んだ。雨が止むと、大気中の汚穢な粉塵が洗い流され、辺りは透明感のある新鮮な空気になった。ひんやりとして一気に涼しくなった。
 弦太郎は、天が自分のために準備を整えてくれたように感じた。呼吸に意識をおき、心を鎮めると一瞬のうちに術に入って姿が消えた。さらに、もう一歩踏み込んで壁抜けの状態になりたいのだが、あと一歩の踏み込みがうまくいかなかった。タムの言葉を思い出し、お経を唱えるようにブツブツと暗誦した。
「自分を放棄する、自分を消す、自分を客観視する、死ぬ、無になる――」
壁抜けのスイッチが目前にあり、もうちょっとで届きそうなのだが、見えない壁がそれを阻み、どうしても届かなかった。
――この見えない壁をどうしたら超えられるのだろう・・・・。
弦太郎は数時間瞑想をつづけたが、心が煮詰まってしまい、目を開けて術を解いた。
「ああ、今夜もダメだ・・・・」
半ば諦めながら空を見上げると、満月が神秘的な冷たい光をゆらゆらと放ちながら、「諦めるな」と威圧してきているように見えた。今晩はそう簡単に瞑想をやめさせてくれないらしい。確かに瞑想することによって、アパートを出る前の胸騒ぎはいつの間にか消えていたが、それに変わって長い沈黙の重圧が精神を圧迫し、これ以上前に進めそうになかった。弦太郎は満月の威圧感から目を逸らして草叢に目を移し、生命感溢れる虫の鳴き声を聞きながらしばらくボンヤリとしていた。
「ウオー、ウオー」
寺の後ろから犬の遠吠えが聞こえた。野犬が数匹いるらしかった。弦太郎は閑を持て余し、犬の鳴き声を真似し、自分も吠えてみた。
「ウオー、ワン、ワン」
すると、その声に反応した犬がまた鳴き出した。
「ウオー、ウオー」
弦太郎は面白くなり、犬をからかうように遠吠えを繰り返した。犬の遠吠えは次第に数を増し、寺周辺にたむろする十数頭もの野犬が連絡を取り合うよういっせいに吠え出した。犬の遠吠え合戦が激しくなると、弦太郎はそのうるささに辟易し吠えるのを止めた。また静寂の満月に目を移し、その光をじっと見つめながらボンヤリとした。
 ガサガサ、ガサガサ――
草叢から何か音が聞こえた。一頭の野犬が廃墟の寺に迷い込んできたようだ。その犬が、礼拝堂の軒先にひとりで座っている弦太郎を見つけ、自分のテリトリーに無断侵入してきた不審者とばかり、猛烈な勢いで威嚇するように吠え出した。
「ウー、ワン、ワン」
咬みついてこないまでも、牙を剥きだして執拗に吠えつづける。弦太郎はしばらく吠えさせておけば、犬も疲れて退散するだろうと無視していた。しかし、その咆哮につられて他の野犬も一匹、二匹と集まってきて、最終的には、遠吠えしていたと思われる血の気の多そうな野犬十数匹が弦太郎の周りを囲んで吠えたててきた。
野犬を無視して優雅に月を眺めている余裕はなくなってきた。
「シッシ、シッシ――」
 追い払おうとすると、余計に強く吠えたててくる。咬みつかれたら大怪我を負うだろう。大怪我どころか、野犬は狂犬病を持っているので、咬まれて放っておいたら死んでしまう。弦太郎は精神的に動揺し始めた。
――落ち着くんだ。恐怖を感じている今こそが、壁抜けの最高のチャンスじゃないか。
弦太郎はこの状況を肯定的にとらえ、何かが到来する前触れとして期待をした。心を落ち着かせ、術に入って姿を消した。野犬の群れは、突如弦太郎の姿が消えたので、攻撃する目標を失ってうろたえた。吠えるのを止め、怯えたように尻尾を尻に巻きつけて十メートルほど後退した。
「ウオー――」
 一匹が甲高く哀調を帯びた声で月に向かって吠えると、他の犬も威嚇する鳴き声から同じように悲しげな鳴き声で、「ウオー」と甲高く鳴き、その後、犬の群れはバラバラになって退散していった。
弦太郎は野犬が去ってからも、しばらく瞑想をつづけて自分を消そうと頑張ったが、野犬が去ると同時に恐怖も去ってしまい、最後のスイッチを押すことができなかった。
――ダメだ・・・・。
また集中力が途切れて瞑想を止めた。両脚を広げてまっすぐ伸ばし、天を仰いで「ハアー」と息を吐いた。「今晩もダメか・・・・」とボソッと呟いた。時間を確認すると、もうすぐ十二時になろうとしていた。
――そろそろお開きにするか。
今晩も諦め、撤収しかけたとき、目の前数メートル前方に、頭上から大きな影がドサッと落ちてきた。
「ウワッ!」
 弦太郎は驚いて目を見開いた。草叢に何か大きなものがいる。
「んっ?」
弦太郎は真っ暗の前方をジッと眺めると、巨大なニシキヘビが弦太郎の方向に向かって忍び寄ってきた。全長が八メートルもありそうな大蛇だった。
「ウワッ!」
一目散に逃げようと思ったが、「まてよ――」と思いとどまった。
――これはチャンスじゃないか。壁抜けに入るために利用してやろう・・・・。
 弦太郎は野犬のときと同様、肯定的に捉え、結跏趺坐の姿勢に座りなおした。ニシキヘビは緩慢な動きに見えたが、あっという間に弦太郎に近づき体に巻きついてきた。そのヒンヤリと冷たい感触に弦太郎は体をこわばらせた。恐怖感が最高潮に達した。
「よし、ここだ!」
呪術を使って姿を消した。犬の場合は、姿を消したら退散していったが、ニシキヘビは姿を消しても動きを止めず、迅速に太い胴体を巻きつけてきた。もう逃げることは不可能な状態に追い込まれた。
「絞め殺される!」
その場に及んで弦太郎はジタバタと逃げ出そうとした。それが裏目に出たのか、ニシキヘビは絶対逃さぬと言わんばかり、太い胴体で強烈に絞めつけてきた。弦太郎は体中に悪寒が走り、冷たい汗が全身から噴出した。その絶体絶命の瞬間、弦太郎の頭の中からタムの声が聞こえてきた。
「冷静になって、自分を見守るんだ」
それははっきりした声だった。
――そうだ、そうなんだ・・・・。
 弦太郎は慌てるのを止め、力を抜いて自分を客観視した。絞めつけられて体の関節からバキバキという鈍い音が聞こえた。
――ああ、何か変な音が鳴ってるな。どうにでもなるがよい。お気の毒さま。
自己放棄したその瞬間、ゼロコンマ一秒という物理的には短い時間の間に、過去の記憶がドッと走馬灯のようにあふれ出した。幼少期、少年時代、思春期、大学生活、タムとの修行の日々――、一瞬のうちに頭を駆け巡り、人生を回想した。
次の瞬間、弦太郎は蛇に絞めつけられている自分を二メートルほど上空から見下ろしていた。そこには、痛みも、苦しみも、焦りも、悲しみも、心配も、後悔もなかった。自分が自分自身を無感情に眺めていた。時間の感覚が歪み、言葉では形容できない不可思議な時間が流れていた。
意識が上空からまた定位置に戻った。心は冷たく鎮まっていた。そのとき心の深層の閉ざされていた扉がスッと音もなく開いた。
――壁抜けに入った。
ニシキヘビの太い胴体は、弦太のに身体を通過した。弦太郎はそのままスクッと立ち上がり、二、三歩移動してニシキヘビを眺めた。ニシキヘビはとぐろを巻いたまま、細い舌を出し入れし、しばらく不思議そうに動きを止め、何事かを思いついたようにゆっくりと草叢の中に消えていった。
弦太郎はしばらく突っ立ったまま、壁抜け状態になっている身体感覚をつぶさに観察した。身体は羽毛のように軽かった。生まれてから今まで生きてきて、四六時中、ずっと肉体をまといつづけてきたため気づかなかったが、肉体を持っているということはなんと負担の大きいことだったか、この状態になって初めて気づいた。手の平を顔にかざして見つめると、身体の輪郭はあるが、うっすらと白く輝き透き通っていた。ゆっくりと歩いてみると、あまりに軽やかに移動でき、廃墟の寺を歩き回った。樹にまっすぐぶつかっていくと、そのまま通り抜けた。本堂の壁も通り抜けた。それどころか、レンガを積み上げて造られている仏塔すらも通り抜けた。物質を自由自在に通過していった。新しい体験は新鮮でおもしろかったが、それよりも、精神的な静けさがすこぶる気持ちよかった。安らぎに満たされて、平静の気持ちが揺るがなかった。
弦太郎は草叢の真ん中に立ち、満月を眺めた。それはさっきまで見つめていた満月だったが、さっきまで見つめていた満月ではなかった。満月は生命力をおびて脈動していた。周りを見渡すと、目に映るものすべての事象が生命力をおびて脈動していた。万象はすべて美しく、そして生き生きとしていた。
そのとき、弦太郎の胸から白い光の粉が噴出した。弦太郎は胸から噴出する白い光の粉を恍惚と眺めた。次の瞬間、白く輝くガルーダが胸から飛び出してきた。ガルーダはまばゆい光を神々しく放ちながらゆっくりと上空に舞い上がり、中空を円を描くように旋回した。ガルーダはあまりに崇高で、あまりに美しかった。それは非現実的な現実のできごとであり、現実を超越していた。弦太郎の眼には他の景色が映らず、ガルーダしか見えなかった。すると、いつの間にか弦太郎の視線がガルーダの視線に変わり、ガルーダとなって羽ばたきながら下界を見下ろしていた。下界で弦太郎が突っ立って、ガルーダの自分を見上げているのが見えた。
ガルーダとなった弦太郎は時を忘れて優雅に空を舞った――。
どれだけの時間宙を舞っていたのか、ふと気づくと、いつの間にか視線が変わり、弦太郎はガルーダを見上げていた。ガルーダはやさしい声で一鳴きすると、螺旋状に天高く昇ってゆき、宇宙の彼方に消えていった――。
弦太郎の視界は普段の景観に戻り、空には満月があり、廃墟の寺があり、草叢があった。
 チチチチチ――
 廃墟の寺は虫の鳴き声が響き渡り、夜の静寂が支配していた。弦太郎はその安らいだ静寂の中で数時間突っ立っていた。
「――弦太郎」
背後から呼びかけられた。振り返るとタムが立っていた。タムは弦太郎の瞳を微笑みながら見つめた。
「とうとう完成したな」
『完成・・・・』
「そうだ、完成だ。呪術師として完成した」
『呪術師の完成ですか?』
「ガルーダが祝福してくれた」
『あれはガルーダの祝福だったんですか』
「ああ、そうだ。ガルーダがお前を正式の呪術師として認めてくれた。気分がいいだろ?」
『最高の気分です。こんな精神状態があったとは驚きです』
「気持ちがいいからって、いつまでもその状態に執着したらいけないぞ。そろそろ術を切るんだ」
弦太郎は呪術を解いた。普段の肉体に戻ると、またズシリと重力がのしかかってきた。
「ああ、重たいなあ――」弦太郎は苦笑した。「今まで呪術師の道を歩いてきて、辛いことばかりでしたが、こんなにすばらしいことが待っていたなんて、まったく想像だにしていませんでした。いままでの苦しい体験がすべて帳消しになりました。かりに、もっと辛いことがあっても、これを経験する値打ちがあります」
弦太郎がうっとりとしていると、タムは真剣な眼つきで忠告した。
「ガルーダの祝福が呪術師の目的ではない。そんなものは通過点の目印に過ぎない。そんなものに執着していたら、また死の淵に突き落とされるぞ」
 その言葉を聞き、弦太郎は水をさされたような気持ちになった。
「呪術師になることが、呪術師の目的ではないんですか?」
「そうだ、呪術師になることは、呪術師の目的ではない。呪術は山登りの足場にすぎない。それは手段であり道具だ。呪術師の真の目的は、その道具を利用して、〝永遠〟に到達することにあるんだ」
「永遠、ですか・・・・。あのガルーダはあまりに美しく、崇高な存在でした。ガルーダは永遠なんですか?」
「ガルーダが永遠かどうかなんて、お前には関係ない。そんなこと理性で知ったところで、お前が永遠に到達できるわけじゃない」
「じゃあ、ガルーダとは何なんですか?」
「ガルーダはお前の守り神だ。だが、守り神といったって、お前を救ってくれたり、手助けしてくれたり、ヒントを与えてくれたりするわけではない。あくまでも山に登るのはお前の足であり、お前の行動であり、お前の選択であり、お前の決断だ。すべてはお前次第だ」
「ガルーダはじゃあ、何をしてくれるんですか」
「ガルーダはお前を二十四時間、絶え間なく、いついかなるときでも見守ってくれているだろう。心の支えとして考えておけばいい。だが、決してガルーダに願ったり、依存したりしてはならない」
「心の支えですか・・・・。ガルーダにまた会えますか?」
「ずいぶんお前はガルーダに執着するな。そんなことは知らない。ガルーダに訊いてくれ」
「師匠は意地悪だなあ」
「ガルーダのことはもういい、忘れろ。それよりも壁抜けだ。習得しただろ」
「習得しました――。多分、できると思います」
「じゃあ、やってみろ」
「もう一度ですか」
「そうだ。いついかなるときにも、すぐに術に入れなければ意味がない」
「はい」
弦太郎はそう言われると自信がなくなってきた。
「早くしろ」
タムに急かされ、精神を鎮めた。術に入って姿を消し、さらに心を滅してゆくと、チカっという感覚とともに壁抜けに入った。
「完全にマスターしたな」タムが言った。
『ガルーダが祝福してくれただけあってもう簡単ですね』
「ガルーダの祝福が術の達成の理由ではない。お前の中に十分な力が蓄えられたからだ」
弦太郎は術を解いた。
「でも師匠――、そういえば、さっきニシキヘビが巻きついてきましたが、あれは師匠が呼び寄せたんですか」
「ワシは知らん」
「師匠はそんなことを言って、いつもぼくにトリックをしかけてくるから怖い」
「運命がお前とめぐり合わせてくれたのだろう。でも、お前はよく逃げなかったな。ニシキヘビに立ち向かった勇気を褒めてやる」
「いま思い出すと、確かによく逃げずにいられたと自分でも感心します。ビックリして腰が抜けていたのかな」
「ハハハハ、お前のその能天気さは呪術師になる才能のひとつだな」
空を見上げると、白々と空が明るんできていた。
「師匠、これからどうしますか?」
「お前は呪術師になり、今日から新たな旅が始まった。お前にワシのファミリーを紹介しよう」
「ファミリー? 師匠に家族がいたんですか?」
「呪術師のファミリーだ」
東の空が朱く染まり、生まれたての太陽が赫々とした顔を覗かせ、生命の産声を放射させた。
「さあ、行くぞ」
二人は廃墟の山寺を下りていった。           
                                                    (了)    2011年作


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