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ガルーダの飛翔 第三部 夢の見た夢、扉の向こうの扉(長編小説)

                       
   一
 激しい雨が降りつけ、落雷が大地を震わせた。
 二頭の白い龍はらせん状に絡み合いながら猛スピードで鉛色の空へ上昇してゆき、熱せられた白く輝く太陽の中に吸収されていった。
 龍の姿が見えなくなると、大地に深閑とした静寂がおとずれた。暗い空の隙間から青空が顔を覗かし、眩しい陽光が大地にまっすぐに差した。小鳥がさえずり、花が開き、蝶が舞った。生命は何事もなかったかのように永劫につづく輪廻のカゴの中で踊り出した。
 太陽に溶けていった二頭の龍は、翌日地上に舞い戻ってきた。一頭の龍は山奥にあるサロ呪術師の村へ降り立ち、子猿に姿を変えた。もう一頭の龍はチェンマイ市内へ降り立ち、オレンジの袈裟をまとった小坊主に姿を変えた。


   二
 チェンマイ市内にある『タイ伝統医学診療所』の敷地に穏やかな風が吹き抜け、植物の枝葉がゆっくりと揺れた。空が晴れ渡った穏やかな午後だった。花壇に植えられたブーゲンビリアの花弁には黒アゲハチョウがヒラヒラと舞っていた。
 診療所の広い庭にある広葉樹の木々は涼しげな木陰を作り、呪術師ファミリーはその木陰の下のテーブル集って閑談していた。風の精霊が頻繁に襲撃してきた一週間前と比べると、今の平穏な時間は安らぎそのものだった。
 卵に変態したエチンケ呪術師のアディー、アディーの卵を孵化させるため力の湖へ行ったレラ呪術師の弦太郎とサム、大魔神の領土でサボテンとなった師匠のタム――、彼らは戻ってこなかった。
「これ以上待っていてもムダみたいね――」
 ウペウ呪術師のデーンが皆の顔を見つめながら言った。
「明日から診療所を再開しましょう」
「弦太郎親分はもう戻ってきませんかねえ。親分は透明の術を使って、スルスルと物体を通り抜けられるから、けっこうしぶとく生き残っていると思いますが、イヒヒヒ」
 セタ呪術師のジョンがいつものように意味不明の笑みを浮かべながら言った。
「戦った相手は大魔神、いくら呪術が使えようと生き残るのは難しいわ」
 デーンが淡々とした口調で応じた。
「レラ呪術師の二人が命を失ったとすると、アディー爺の卵も孵化できなかったということでしょうか」
 チカプ呪術師で若い女性のナッツが悲しげに言った。
「どうなったんでしょう。エチンケ呪術師が何者に生まれ変わるか知らないし、なんとも言えないわ」
 デーンがそう答えると、ジョンは笑いながら口を挟んだ。
「イヒヒヒ、ナッツはチカプ呪術師だから余計な心配をするんだ。そんなこといいように思ってりゃいいんだよ。アディー爺のことだから、今ごろ雲の上にでも行って茶でもすすっているだろうよ」
「ジョンはまったくいい加減なこと言うわね。ナッツ、ジョンの言うことなんか聞かなくてもいいんだからね」
 同じセタ呪術師のハムが軽蔑するように言った。
「ケッ、ハムはいつもそんな言い方をする。まったく年増のオバハンは口が悪い。――ね、デーン先生、タム師匠はよく〝呪術師は何事も楽天的に考えなくちゃいけない〟っておっしゃっていましたよね、イヒヒヒ」
「確かにそうだけど・・・・、あなたの場合はもう少し考えた方がいいと思う」
 デーンはジョンを呆れた表情で見つめた。
「へっ、そうですかね、イヒヒヒ」
「実は・・・・」そこにチカプ呪術師の女性ファンがおずおずと話に入ってきた。「以前はアディー爺にしても、サム兄さんにしても夢によく現れたんです。でも、最近まったく見なくなりました。だから何か嫌な予感がして・・・・」
「夢なんかどうだっていいんだよ」
 ジョンが吐き捨てるように言った。
「最近、何か印象深い夢を見た?」
 デーンはジョンを無視して若いファンに優しくたずねた。
「ええ、最近、不思議な夢を見ました。白い龍が舞い降りてくる夢です。デーン先生、この白い龍は何か意味があるのでしょうか?」
「白い龍? さあ、何なんでしょう。〝龍は神の使い〟といわれているから縁起はよさそうだけど」
「イヒヒヒ、じゃあファン、宝くじを買ったほうがいいんじゃないか」
「ジョン、あなたはいちいちうるさいの」
 ハムはジョンを睨みつけた。
「デーン先生――」ナッツがデーンにたずねた。「サボテンに変わったというタム師匠ことですが、師匠は今も絶対に生きていらっしゃるんですか?」
「弦太郎君が話したところによると必ず生きているみたいよ。師匠の場合は特別だから、大魔神が相手といえど、そう簡単に命を落としたりしないと思う。でも人間の姿を失っているから、今までのようには会えないでしょう」
「そうですか・・・・」ナッツが深く溜息をついた。
「そう心配をするなってナッツ、師匠は怪物なんだから大丈夫だと思うぜ、イヒヒヒ」
 ジョンはナッツを慰めるように彼女の背中をやさしくさすった。ナッツは迷惑そうにジョンの手を払いながらデーンを見つめて言った。
「タム師匠に会えなくなったいうことは、私たち呪術師は生きる指針を失ったということでしょうか。私たち呪術師はこれからどうやって生きていったらいいんでしょう?」
「ううん、そうだなあ・・・・」
 ジョンが腕組みをしながら話し出そうとした。
「あなたに聞いてないの」
 ハムはすぐさまジョンの口を封じた。
「馬鹿野郎、デーン先生ばかり責任を背負わせたらけないだろ? ファミリーはみんなで協力し合うもんだぜ。そうでしょ、デーン先生、イヒヒヒ」
 ジョンがデーンに目をやると、デーンは何も言わずジョンから目を逸らした。
「協力も何も、ジョンは単にスケベなだけでしょ。どんな目してナッツを見てるの」ハムが言った。
「えっ? オレがどんな目をしてるっていうんだ。なあ、ナッツ、オレはいつも紳士的だよな。このおばさんの戯言なんか気にしなくていいんだぞ。オレが言いたいことはだな、何のことであれ、そんなに心配なんかしなくていいってことだ。オレたち呪術師はどうだって生きていけるんだから。なんってったって呪術師は人間より優秀な存在なんだ。悩むことなんか何にもない。自由に楽しく生きていけばいいんだ、イヒヒヒ」
 ジョンはまたナッツの背中をさすった。ナッツは何も言わずジョンの手を払いのけた。
「ジョン、楽しく生きるのもいいが、〝呪術師の掟〟を忘れるなよ――」セタ呪術師のトンが厳しい口調で言った。「呪術師は人間以上に厳しい生き方をしないといけない。そうしないと簡単に命を落としてしまう。わかってるだろ? あんなに強い呪力を持ったサム親分でさえ、どうなってしまったかわからないんだ。師匠が現れなくなった今、我々はデーン先生を中心に規律を守って厳格に生きてゆかなければならないんだぞ」
「ケッ、トンはいつも硬いことを言う」
 トンはジョンと同世代の中年であるが、呪術師歴はジョンよりも長い。サムの子分となってあちこちを同行し、危険な修羅場も数々くぐり抜けてきた。
「ジョン、よく聞きなさい」デーンもジョンを戒めるように言った。「トンの言うとおり、私たちは〝呪術師の掟〟をきちんと守って生きていかないといけないのよ。人間よりも優秀って言ったけど、私たち呪術師が人間に危害を加えたらどうなるかわかってるの?」
「イヒヒヒ、どうなるんでしたっけ?」
「何をトボけたこと言ってるの。馬鹿なことをして、一度や二度力を失って死にかけたこともあるでしょ」
「おお、そんなこともありました。忘れてしまいました、イヒヒヒ」
「それに私たちには恐ろしい敵、〝風の精霊〟がいる。隙を見せれば一瞬で命を奪われてしまう。そんな怖い世界に住んでいるのよ」
「おお、そんな窮屈なことばかり言わないでください。せっかく人間を超越して呪術師に成ったっていうのに」
「師匠からも教えを受けたでしょ。呪術師が呪術を使うのは世渡りするためじゃなく、真理を追求するための一つの手段だって。そのことを見失っちゃいけないわ」
 デーンはジョンの目をじっと見つめながら説教するように言った。
「イヒヒヒ、もちろん、そんなことわかってますぜ」
「デーン先生、診療所を再開するにいたって――」トンが真面目な表情で言った。「いまは薬草のストックがありますが、これから師匠からの供給が途絶えるとなると、薬草の収集はどうしたらよろしいでしょうか?」
「定期的に休業日をつくって、山に薬草を採りに行かないといけないわね。それはみんなで協力しましょう」
「わたしはサム親分に連れられて山にはよく入っていましたから、近辺の山にはけっこう詳しいですよ。案内します」
「あら、トンは頼もしいわ。同じセタ呪術師でも誰かさんとは大違い」
 ハムがジョンを横目に言った。
「ハムもセタ呪術師だろ。じゃあ、セタ呪術師のお前には何ができるんだ?」
 ジョンは反発するように言った。
「何ができるって、わたしはファミリーの家事全般、毎日すべてやってるじゃない。あんたは毎日何をしてるの? 食べるだけ? 無能なくせに口答えだけは一人前」
「オレかってファミリーのためにいろんなことしてるじゃないか。無能呼ばりしやがって、ババアめ」
「ババアって、なによ、この糞ジジイ」
「二人とも喧嘩はしないの――」デーンがジョンとハムの間に入った。「ファミリーは互いに協力し合わなくっちゃいけないって、いつも言ってるでしょ。大切な同士なのにどうして喧嘩ばかりするの」
「そらみろ、ハム、怒られた、イヒヒヒ」
「あなたにも言ってるの、ジョン」
「ヘイ――」
 ジョンは肩をすぼめ、恐縮した表情を取り繕った。
「タム師匠はいかなる形か知らないけれど必ず戻ってくると思うわ。そのときまでファミリー仲良く力を合わせて生きていきましょう。何度も言うようだけど」
「そう、そのとおりですぜ、デーン先生――」ジョンは両脇に座っているナッツとファンの肩に手をおき嬉しそうに笑った。「みんな仲良くな、イヒヒヒ」

 
   三
 弦太郎は落雷のエネルギーによって力が最大限に達し、ガルーダ(風の精霊)として生まれ変わった。五感も動きも一変し、最初は不安定な飛行しかできなかったが、時が経つにつれ次第に要領がつかめてきた。雲の隙間を縫うように飛び回ったり、大気圏を越えて上昇してみたり、さらには地上すれすれを這うように飛んでみたり、好奇心いっぱいに飛び回っているうちにガルーダの肉体操作を完全に会得した。
「こういうことか――。突如ガルーダに生まれ変わったときはどうなることかと思ったが、こうして飛び回っていると、この身はなんといいものなんだ。だけど、このままずっとこんなふうに飛びつづけているだけでいいんだろうか? 疲れはまったく感じないが休まなくても・・・・」 
 ガルーダの〝飛び方〟は会得したが〝停まり方〟がわからなかった。アクセルとハンドル操作だけでブレーキがわからない。
「肉体操作以上に、この〝世界〟がもっとわからない・・・・」
 ガルーダの五感で認識される世界は人間のものとまったく違っていた。目に映る世界――、視覚の変化にはなによりも驚かされた。ガルーダの視覚世界はあらゆるものが光の色彩となって現れる。光には色の違い、強度、明滅、微細な動き、陰影、模様があり、それによって敵か見方か、無機物か有機物か、物質か生命体かが分別され、さらにそこから個体識別しなければならない。光の観察をつづけていくと、光の状態から生き物の呼吸や温度までも見えることがわかった。
 視覚だけではなく、聴覚も臭覚も急激に進化していた。微細な音、臭いを鋭敏に感知し、遠くからでも対象の個体性を識別できる。しかし、その個体が人間でいうところの何なのか、その名称がわからず、人間のときに蓄えた知識がまったく使えなかった。身体能力、五感の性能など、すべてが呪術師を遥かに凌駕していたが、人間体としての過去が途絶えてしまったことがモドかしかたった。
――そもそもオレは、本当にガルーダなのか?
 根本的な疑問がすっきりと解決していなかった。私という個体性が存在し、今この瞬間を生きているということは確かな事実なのだが、自分自身を客観視できないし、「君はガルーダだ」と教えてくれる仲間もいない。
――こうして飛び回っていれば解決していくものだろうか。しかし、生まれ変わってからどれだけの時間が経過したんだろう?
 主観的な時間感覚がまったく変わってしまったし、もちろん物理的な時間は確認のしようがない。そもそもガルーダにとって〝時間〟という概念が必要なものなのか。
――もしや、永遠の命を得たのか。
 そんな思いもよぎったが、すぐにその考えを否定した。
――いや、不老不死ではあるまい。腹は空いていないが、こうして生きている以上、なにかを口にしなくていけないに決まっている。何をどう食べたらいいんだ? やっぱり・・・・。
 弦太郎は呪術師のとき、何度も風の精霊(ガルーダ)に襲われたことを思い出した。ガルーダは呪術師の呪力の魂を捕食する。
――ということは、自分も同じように呪術師を・・・・。
 それを考えると共食いをするようで恐ろしくなった。
――イヤだ、イヤだ。じゃあ、どうすればいいんだ? やっぱり師匠だ。師匠はすべてを知っているはずだ。一刻も早く師匠を探し出し、今の自分の状況や今後の生き方についての教えを仰がなければ・・・・。でも、現在地がわからないんだよなあ。現在地がわからないのに行き先もヘチマもない。かりに師匠のいる上空を飛んでいても、師匠が今の視覚でどのように映るのか? ああ、どうすればいいんだ・・・・。光の色彩の謎を自分自身で少しずつ解いていくしかないのか。
 弦太郎ガルーダは地上近くをできるだけゆっくり飛行し、下界に広がる光の色彩に注視した。
「おや、拓けた場所に出たぞ。光の粒が大量にうごめいている。生物のようだが、何だろう? 臭いからいって獲物ではなさそうだが、もしかして、これが人間なのでは・・・・」
 弦太郎ガルーダはその場所を見定めて宙を旋回した。光の一粒一粒は似たような色彩を持ち、複雑な音を出し合っている。動き方も細やかで、密閉された空間に身を潜めているものもいる。弦太郎ガルーダは時間をかけて光の粒を丹念に観察した。
「仲間同士、音でコミュニケーションをとっているようだ。――ん!? なんだあの一粒は? 光の内部に小さな陰があるようだぞ」
 弦太郎ガルーダはたくさんの光の粒がうごめく中で特殊な個体を発見した、その特殊な一粒を注視するためスピードを最大限落とし、小さな円を描いてその頭上を旋回した。
「陰じゃない。光の中に穴が開いているのか? いや、穴じゃない、スペースか? あの中に入れそうに見えるが、何なんだ? よし、一か八か試してやろう」
 弦太郎ガルーダはその特殊な個体に狙いを定め、一直線に直撃した。
「ヤッ――」
 市場の駐車場を歩いていた一人の若い女性が背後からドンと押されたような力を受け、前のめりになって地べたに倒れた。彼女は制服姿の女子学生で、学校の帰りに買い物にきていた。
「痛たたた・・・・」
 彼女は上体を起こし、四つん這いになって周りを見渡した。
「人間の世界だ!」
 女子大生の意識はなくなり、弦太郎の意識が彼女の体を乗っ取っていた。
「この感触、久しぶりだ」
 懐かしい人間の感触であり、懐かしい視覚だった。ガルーダの世界に比べたら、人間の世界は不明瞭でせせこましく、平坦な世界に感じられたが、愛着のある世界だった。しかも下り立った場所は見覚えのある場所で、そこは地元の中央市場だった。学生時代この近くにアパートを借り、頻々とこの市場に通ったことがある。
「こんなところにきていたのか」
 女学生の身を乗っ取った弦太郎はスクッと立ち上がり、辺りを歩き出した。
「ガルーダで見ていた光の世界はこの場所と一致するわけか」
 バナナを売る商人、ウインナーを揚げる男性、宝くじを売る女性、買い物にきている市民たち――、弦太郎はガルーダの世界と人間の世界を比較しながら観察した。
「光の粒と人間はこういう関係に遭ったのか。――でもこの体、どうにかならないものか」
 ガルーダの身体から人間の体に移ると、人間の体は異常に重く感じられ、狭い檻の中に入れられているような気がした。
――この女の体を借りたまま、何か乗り物に乗って師匠のいる山の中へ行こうか。長い時間はかかるだろうけれど、確実に師匠に会えるぞ。
 弦太郎は今後の計画についてあれこれと思索をめぐらした。
 ヒュー――
 そのとき生温かい風が吹いた。ビニール袋が数メートル前方に風に飛ばされて通り過ぎたので、何気にそれに目がいった。
「ん?」
 ビニール袋の中に何かが見えた。じっと袋を凝視しピントを合わせると、その袋の中には〝一つ眼〟があり、弦太郎を見つめていた。
「ヤッ、死神だ!」
 弦太郎はギョッとして硬直した。そのビニール袋は見えない糸で操られているかのように、風に吹かれながらこちらに近づいてきた。弦太郎は二三歩後ずさりした。
「気持ちが悪い・・・・。逃げろ」
 一目散に駆け出した。ひと気の少ない空き地に移動した。
「なんで、死神がこんなところに現れるんだ? ここは人間の世界だろ? ここは死神の世界じゃないだろ?」
 弦太郎は混乱しながら考えた。
――とにかく今から火急、師匠のいる大魔神の領土へ行かなければならない。
 捨てられた空き缶がコロコロと足元に転がってきた。
「ん?」
 目をやると、飲み口の穴から〝一つ眼〟がこちらを凝視していた。
「ここにも!」
 目を背けると、真正面に朽ちかけた壁が映った。壁には原色のペンキで大きな画が落書きされている。その画の柄が〝一つ眼〟だった。
「ここにも!」
 腰が抜けそうになったがそれはただの画だった。
「画か・・・・。ビックリさせやがって」
 しかし、その瞬間、一つ眼の画が〝生きた一つ眼〟に変わって、ギョロリと弦太郎を見つめた。
「ギャッ! 動いた。どうしてここは死神だらけなんだ?」
 弦太郎はその場から走りだそうとすると、背後にいた物乞いの老婆とぶつかりそうになった。
「わっ、ビックリした」
 老婆は顔にスカーフを巻きつけ、小さくなって地べたに座っていた。
「存在感なくこんなところに・・・・」
 老婆の顔に巻きつけられていたスカーフがヒクヒクと揺れていた。スカーフの下で笑っているのだろうか。パラリとスカーフがはだけて落ちると、下から顔が現れた。顔には両目がなく大きな一つ眼があった。
「ここにも!」
 そこから逃げ出そうとしたとき、老婆は素早い動きで弦太郎の足首をギュッと掴んだ。
「ヒャ! 殺される!」
 弦太郎は蹴飛ばすようにして老婆の手を払いのけ、パッと飛び立った。女学生の体から出て、ガルーダとなって宙へ上昇した。
「ああ、人間から出てしまった・・・・。仕方がないか。逃げなかったら死神に捕まってしまったんだから。だけど、人間の身に入れたおかげで現在地はつかめたし、人間の光もわかったぞ。こっちの方向に飛んでいけば師匠のいる山へ行けるはずだ。とにかく師匠に会いにいこう。師匠のことだから何か特殊な光を放っているはず。――あれ? 何だあれは?」
 飛び出してすぐ、また初めて目にする特殊な光を見つけた。その光に意識を集中するといい匂いがする。
「これはもしかして獲物じゃないのか!」
 誰に教わったわけではないのに、それが獲物であると直感した。弦太郎ガルーダは上空を旋回して獲物を観察した。


   四
 早朝からデーンとトンとファンの三人は薬草採りに山へ出かけた。診療所開院までにどうしても、もう少し薬草を集めておきたかった。
 診療所はジョンとハムとナッツの三人だった。ジョンが母屋の二階の窓から庭を眺めていると、ハムが門から出て行った。大方買い物に出かけたのだろう。
「やっと出て行ったか、イヒヒヒ」
 ジョンはナッツを探し回った。
「ナッツいるかい?」
 彼女の部屋をノックしたがいなかった。階下に下りて台所を覗いたが姿はなかった。母屋に隣接する診療所の建物へ入った。彼女は、受付の薬草が保管されている引き出しの多い箪笥の前で、薬草整理の作業をしていた。閉め切った屋内には電気が一つ灯っているが薄暗い。薄暗い中一人で作業をしているせいか淋しそうに見えた。
「ナッツ、ここにいたのか、イヒヒヒ」
 ジョンがナッツに声をかけると、ナッツは驚いたように大きく目を見開き、ジョンを見つめた。彼女は南方系の丸い顔立ちで目が大きく、肌の生地が黒い。長い髪は後ろでくくりポニーテールにしている。同じ年頃で同じチカプ呪術師のファンは中国系の顔立ちで色白である。二人とも背が高くスラリとしている。
「あれっ、ジョンさん、デーン先生たちと出かけなかったの?」
「出かけなかった。大勢でぞろぞろ出かけてもデーン先生を疲れさせるだけだからな、イヒヒヒ――」こうしてナッツと診療所で二人きりになるのは初めてだった。ジョンは思わず笑みがこぼれた。「ナッツこそ、どうして出かけなかったんだ?」
「なんだか出かける気になれなくて」
 ナッツは呟くように言い目を伏せた。
「なんだい、元気がないじゃないか。アディー爺のことを考えていたのか?」
「うん・・・・、卵は無事孵化したのかずっと気になってて」
「イヒヒヒ、どうしてそんなこといつまでも考えているんだ。アディー爺は立派な呪術師だ。卵は無事孵化して、亀にでもスッポンにでもなっているさ」
「スッポンはどうかと思うけど、とにかく元気でいてくれれば。ジョンさんは弦太郎さんのことを考えないの。親分がいなくなって辛いんじゃないの?」
「そりゃあ、オレは誰よりも親分のことを考えているさ。親分とは短い付き合いだったけど、ずいぶん世話になったからな。親分は太く濃く生きて、オレの中に消えない痕跡を残した、イヒヒヒ」
「あ、ごめんなさい。辛いこと思い出させてしまって。きっと弦太郎さんもどこかで生きてると思うわ」
「いやいいんだ、そんな慰めは。オレは親分と危険地帯に同行し、大魔神と勇敢に戦ってきたからよくわかるんだ。本当に大魔神は桁違いだった。いくらサム兄さんが一緒でも、ありゃあ生き残るのは無理だと思う。親分は大きなミッションを命ぜられ、そうして儚く命を落とした。それは呪術師として立派だと思うぜ。オレもああなりたいものだ。いつか、必ず、親分の愛した霊石にお参りに行こうと思っている。霊石があるのは大魔神の領土だから命の危険があるが、どうしても親分を弔いたいからな」
 ジョンは声のトーンを落とし、真実味ある口調で語った。
「ジョンさんはそんなこと考えていたの。いつもは明るく振舞っているのに心の中では悲しんでいたのね」
 ナッツはジョンを見つめながらにっこりと微笑んだ。
「男ってやつはな、悲しみを露骨に出さないものさ。周りに心配させたらいけないからな。ナッツも、そりゃあ、親代わりに面倒見てもらっていたアディー爺のことが頭から離れないだろうが、でも、そう表立って感情を出さない方がいいぜ。周りも、そして自分自身も苦しめることになるからな、イヒヒヒ」
 ジョンはキザったらしく言い、ナッツの頭にやさしく手をおいた。ナッツは思わず涙腺が緩み、瞳にたまった涙を指でぬぐった。
「じゃあ、あたしもアディー爺のことは口にしないことにするわ。約束する」
「そうだ、その意気だ。呪術師は悲しみを糧にして力を養うものだ、イヒヒヒ」
 ジョンはさらに大胆になり、ナッツの肩に両腕を回し体を抱き寄せた。
「ちょっと、ジョンさん、近い、近い」
 ナッツは笑いながら間近に迫ったジョンの胸を両手で押した。
「ウヒヒヒ、おっと、失礼、ついオレも感情が高まっちまった。女の涙は美しいからな」
「もう、何を言ってるの」
 ナッツは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「どうだい、ナッツ、元気づけに飯でも喰いに行くか」
 ジョンは調子づいてナッツを食事に誘った。
「ううん・・・・、でも、別に食べたいものもないし」
「旨いピザの店を知っているぜ。トロリとしたチーズがたっぷりのってる極上のピザだ。どうだい?」
「ピザか・・・・、美味しそうだけど・・・・」
「よし、そうと決まったら早速出かけようぜ」
 ジョンはナッツの腕を引っ張った。
「ちょっと、ちょっと、待って――」ナッツはジョンの腕を振りほどいた。「ハムさんも一緒に行くんでしょ。あたし、呼んでくる」
「いや、いや、いや――」ジョンはナッツを制止した。「いいんだよ、ハムのことは」
「どうして? ハムさんも一緒に行った方が楽しいわ」
「いや、いや、いや、ハムはダメなんだ。ハムは外食なんかしたくないんだから」
「本当?」
「同じセタ呪術師だから彼女が考えていることはよくわかるんだ。ハムおばさんは外でご飯を食べない主義なんだ」
「いや、そんなことないわよ。だって、あたし、何度もハムさんと外食したことあるもの」
「最近は少しぐらい外で食べることがあるのかな。でも、内心は外食なんかしたくないんだ。おばさんはいろいろとうるさいんだから。エイヨーがどうのとか、調理場のエイセイ状態が悪いだとか、野菜がムノーヤクじゃないだとか、とにかくそんなことばかり気になって、外の食べ物は喉に通らないんだ」
「そうなのかなあ」
「そうなんだって。ハムは見た目からは想像できないがデリケートなんだ」
「ハムさんが行かないんだったら、やめとこうかな」
「おい、おい、おい、どうしてなんだ。チーズたっぷりの最高のピザだぜ。香ばしいサラミものってるんだぜ。熱々のチーズが三十センチも伸びるんだぜ」
「ファミリーが揃っているとき、みんなで行ったらいいじゃない」
「そんなのダメに決まってるだろ」
「どうして?」
「オレはナッツだけだからおごるんだ。みんながいたら高くつくだろ。オレは社長でも地主でも株主でもない。財布から金が溢れて出てくるわけじゃないんだ」
「そうなんだ・・・・」
 ナッツは気が進まない感じでジョンの目を上目遣いで眺めた。
「あっ、そうだ、思い出した。ナッツ、まだ花の博覧会行ってなかっただろ。あれは今週いっぱいだぜ。行きたがってたんじゃないか。明日からは診療所が始まって忙しくなるだろうから、行ってるヒマがなくなるぜ」
「あっ、そうだ、花の博覧会行きたかったんだ」
「飯を食いに行って、花の博覧会へ遊びに行こう。オレは花の花弁を使った占いができるぜ。よく当たるんだ。ナッツを占ってやる」
「えっ、ジョンさん、そんなことができるの? すごく行きたくなってきた」
「じゃあ、すぐに出かけよう」
「ちょっと待ってね。支度してくるから。でも、ハムさんのことが・・・・」
「おい、おい、まだそんなこといってるのか」
「だって一人を置き去りにするわけにもいかないでしょ。それに食事の支度をしてもらっているんだし、告げてから出ないと」
「じゃあ、オレからメールしておく、安心しろ。早く支度だ。オレは外で待ってるぜ」
「うん、わかった」
 二人は診療所の建物から出た。ナッツが母屋に入っていくと、ジョンは中庭のテーブルに腰をおろし、ナッツが出てくるのをイライラしながら待った。
「ナッツ、遅いなあ。早くこいよ。ハムの奴が帰ってくるじゃないか。――あっ、そうだ」
 ジョンはポケットからマガラの香水を出した。
「こいつを忘れちゃいけない、イヒヒヒ」体に塗りたくった。
 しばらくすると、薄く化粧したナッツが母屋から出てきた。
「お待たせ。あれ、ジョンさんマガラの香水つけるの?」
「当然だ。外に出るときには絶対つけるぜ。ナッツも塗れよ」
 ジョンはナッツに香水の小瓶を渡した。ナッツは「あっ」と言って片手で口を押さえた。
「鍵を閉め忘れたかも。もう一回確かめてくる」
「大丈夫だ。ハムが帰ってくるから。すぐに出かけよう」
「そういうわけにはいかないわ」
 ナッツはまた母屋に入っていった。
「早くしろよ」
 そのとき、門の前に一台のトゥクトゥクが停まり、ハムが荷物を抱えてトゥクトゥクから下りてきた。
「ゲッ、ハムが帰ってきた――」ジョンは庭の草陰に身を隠し、ハムの様子を窺いながら念じた。「ハムよ、裏の洗い場へ直行するんだ。ナッツと出会うなよ」
 ハムはジョンが念じたとおり、そのまま洗い場の方へ向かったが、意外と早く出てきたナッツとばったりと顔を合わした。
「あら、ナッツ、今からお出かけ」
「ええ、ジョンさんに食事に誘われて、今からピザを食べに行くの」
 それを草陰で聞いていたジョンはアタフタとした。
――ナッツのやつ、黙ってりゃいいものを・・・・。
「えっ、ジョンと食事? ジョン、今朝、風邪気味で体調が悪いって寝てたはずよ」
「えっ、本当? すごく元気でしたよ」
「あの男、また嘘ついて・・・・。ナッツ、あんなオジさんと絶対二人きりになんかなっちゃダメよ。危ないんだから」
「危ないことはないですよ。じゃあ、ハムさんも一緒にどうですか?」
「あたしはすることが多いから遊んでいる時間なんかないわ。で、ジョンはどこ?」
「そこで待ってるけど――」庭のテーブルの方へ目を移したがジョンの姿はなかった。「あら、いない。どこに行ったのかしら」
「まったく胡散臭い」
 そのとき耳のいいハムは、「ピー」という不気味な音を耳にした。
「あっ、風の精霊が近くにきてる! 危ないわ!」
「本当ですか」
「中に入って!」
 二人は急いで母屋に入ってドアを強く閉め鍵をかけた。
「窓は全部閉めてある?」
「はい、全部閉めてあります。さっき確認しましたから。あ、ジョンさんは?」
「ジョンは外にいるの? 誰もいなかったんじゃない。すぐに地下室に逃げましょう」
「あ、そういえば、ジョンさんはマガラの香水を塗っていたわ」
「それなら尚更大丈夫。急いで地下室に」
「はい」
     *
 ジョンは草陰で二人の様子を観察していた。ハムとナッツは突然、顔色を変えて母屋に入り、ドアをバタンと閉めたのを見て、「なんだ?」といぶかった。
 ピー――
 ジョンの耳にも風の精霊の音が聞こえた。
「ぎゃっ、近くにいる!」
 ジョンは草陰から飛び出し、母屋に向かって一目散に走った。ドアを開けようとノブを引っ張ったが鍵がかかっている。
「ぎゃあ、入れてくれ!」
 大声で叫んでドアを強く叩いた。中からは何の反応もなかった。
「おい、開けろ!」
 そのときゴオオオオという恐ろしい音が響いた。ジョンはドアの前で小さくなってうずくまった。
「ヒエエエ――」
 しばらくすると、風の精霊は去って行った。ハムとナッツは地下室から出てきて、玄関のドアを開けた。
「もう、大丈夫そうね。――あら?」
 ジョンがドアの前でうずくまっていた。
「あっ、ジョンがこんなところに」
「ウウウ」
 ジョンは目を白黒させながら呻き声をあげている。
「ジョンさん、大丈夫?」
 ナッツはジョンの体を揺すった。ジョンはゆっくりと正常な意識を取り戻した。
「し、死ぬかと思った・・・・」
 ジョンは恐怖のあまりしばらく声が出せなかった。
「ジョンはいつも大げさね。あなたはマガラの香水を塗っていたんでしょ。そんなことより、どこにいたのよ」
 ハムはジョンをまったくいたわることなく詰め寄った。ジョンはそんなハムの態度に苛立ちを覚え声を荒げた。
「馬鹿野郎、どこにいたも何もあるものか。ドアの鍵を閉めやがって。殺す気か!」
「じゃあ、どういうことなのか、まず答えなさいよ。仮病を使って薬草採りの仕事に行かず、ナッツを食事に誘ったって本当なの?」
「なぬ! 仮病だと! こ、こ、この野郎。風の精霊に生贄にしようとしたり、暴言を浴びせたり、このババアめ!」
「ババアってなによ!」
「ちょっと、二人ともやめてください」
 ナッツが制止した。
「とにかく無事だったんだからよかったじゃないですか。私たちは大切なファミリーなんだから、喧嘩はやめてください」
 ジョンはナッツに言われて機嫌を戻した。
「そうだな、ナッツに免じて許してやろう」
 ジョンは男らしくハムに手を差し出し握手を求めた。ハムは鼻をふっと鳴らしながらジョンと握手をした。
「もう喧嘩はやめてくださいね。ドアを閉めてしまったのは実はあたしなの。ジョンさんの姿が見えなかったから。ご免なさいね」
「ナッツのことはもちろん許す。その素直な心に免じてな。容姿も美しいが、心も美しい。隣にいる誰かさんとは大違い・・・・、いや、何でもない。――恨むべきは風の精霊の奴だ、しばらく姿を見せないと思ったら突然現れやがった。しかも近くにいたようだ。音が聞こえたと思ったら、すぐに襲ってきたぜ」
「ほんとに油断はできないわ。ジョンさん、マガラの香水を塗っていて正解だったね。あたしも戸締りで母屋に入ったのは正解だったし。もし、あのまま出かけていたらどうなったいたことか」
「そうだな。ナッツは強運の持ち主だ。これからナッツの言うことは何でも聞くよ。イヒヒヒ」
「何を調子のいいこと言ってるの――」ハムが言った。「だから、ジョンはあたしが帰ってきたときどこにいたの? 姿がなかったじゃない」
「もう忘れちまった」
「何をとぼけてるのよ。とにかくナッツは今日出かけませんからね。することがたくさんあるんだから」
「クー――」ジョンは悔しそうな声を出した。「オレはシンドイから寝てるぜ」
 ふて腐れたように自室に戻った。


   五
 若い学者キックと女子大学院生アイは、大きなバックパックを背負い森の中を歩いていた。キックは民族学と宗教学の准教授で、アイは彼の生徒だった。二人は未開民俗のフィールドワークのために山にきていた。
「ああ、疲れたわ」
 アイの歩みが鈍った。
「アイ、速く歩かないと日が暮れてしまうぞ」
「まだ歩くの? もう足がパンパン」
 アイはとうとう足を止めた。山に入って今日で四日目、疲労がピークに達していた。
「休んでいる時間なんてないんだぞ。さあ、歩こうぜ」
 キックがアイの手を引っ張った。
「もう歩けない」
「そう言うな。前々から今回のフィールドワークは過酷になるって言ってたじゃないか。フィールドワークの予定は十四日間、まだ前半戦だ。こんなところで疲れたなんていっていたら先へ進めないぜ」
 アイにとってこれが初めてのフィールドワークだった。ヨガ教室に通い体を鍛えていたが、過酷な山歩きの前には無力だった。彼女は野外でキャンプすることさえ初めてで、精神的な負担も大きかった。
「こんなジャングルにくるなんて、キックは事前に何も教えてくれなかったじゃない――」アイは声を張って言った。「獣が出るかもしれないし、マラリアになるかもしれない。これ以上奥に行くのは危険だわ」
「そんなことは想定済なんだから大丈夫だ。マラリアの薬も持ってきてるし、ピストルだってある。獣が出てきたら俺が撃退してやるよ。何にも心配することはない」
 キックは腰に巻かれたポシェットからピストルを取り出し、映画俳優のようにかっこよく構えて見せた。アイはタオルで汗を拭いながらキックの芝居がかった振る舞いを軽蔑を含んだ目で眺めた。キックにしても、本音をいえば、起こるかもしれない危険な状況を深刻に考えていなかったし、考えたくもなかった。
「もう少しの辛抱だから、日が暮れるまでもう少し先に進もう」
 キックはアイの機嫌をなだめようと彼女の体をやさしく抱きしめた。アイは無言でコクリと小さくうなずき、ゆっくりと歩み出した――。
 キックとアイは〝先生と教え子〟という線を越えた関係だった。二人とも経済的には何一つ不自由していない裕福な家柄である。アイはキックの博識で頼りがいのあるところに惹かれ、キックはアイの美貌と、彼女の持つ不可解な霊感に興味を持ち、いつしか二人は互いを異性として意識し合い、付き合うようになっていた。
 二人はブッシュをかき分け、さらに山の奥へ入っていった。
「これはなんていう木なの? 太い木ね」
 アイは一本の巨木に手を当て、どこまでも高く伸びる幹を見上げながら、先を黙々と歩くキックの背中に声をかけた。幹周りは、大人十人が手を広げても抱えきれないほどの太さである。キックも足を止めた。
「木の名前はわからないなあ。写真を撮っておいて帰ってから調べようか――」キックはカメラのシャッターボタンを押し、周りの木樹にも目を移した。「おおスゴイ。この一帯すべての木が太いなあ。どうやら原生林の森に入ったみたいだ。人が近辺に住んでいたら、焼き畑や伐採なんかでこんな太い木は残っていないからね」
「周りの空気が急に冷たくなった気がするわ。神聖な何かを感じる」
 アイは大きく手を広げて目を閉じ、鼻から大きく息を吸って口からゆっくり息を吐いた。
「神聖な何かか・・・・。もしかしたらこの辺は、未開の山岳民族にとっての神聖な地かもしれないね。未開の民族がこの深い森の中で宗教儀礼を行なっているところを想像すると興奮してくる、フフフフ」
 キックは嬉しそうに笑い、前方に広がる鬱蒼とした森を眺めた。お伽噺の世界に迷い込んだかのような怪奇な森だった。
「でも、不気味なところだわ。本当に奥に進んで大丈夫なの?」
「絶対にこの方向なんだ――」キックはタブレット端末をカバンから取り出し、地図で現在地を確認した。「何度も説明しているけど、この先、グーグルの衛星写真に文明的と思われる幾何学的形をした小さな村が写っている。まるで宇宙基地だ。まだ、世の中に知られていない未開の民族がこの先にいるはずだ」
「未開なんて現代に本当にあるのかしら」
「こんな原生林の森だからこそ、未開のまま保存されている可能性があるんじゃないか。もしも見つけたら世紀の大発見だぜ。世界的な大ニュースだ、ハッハッハッハ」
 キックは大袈裟に笑って見せた。
「アイ、わかるだろ。未開民族は不可思議な宗教儀礼や呪術を保持しているものだ――」キックは目を輝かせた。「そんな未開民族を調査し、論文を世の中に出せたらスゴイことになるぜ。学者としての株が急上昇だ。絶対に見つけてやる」
 キックは生まれてからこのかた経済的にまったく不自由したことがない富裕層だったので金銭的な執着は薄かったが、名声にたいする執着が強く、世間で有名になることを何よりも求めていた。このフィールドワークのため、数年も前から各種の資料を集め、毎日トレーニングジムに通い体を鍛え、射撃練習場にも頻繁に通っていた。
「でも、衛星から街並みを見通すこんな時代に、本当に未開の村なんて・・・・」
 アイが冷ややかに言った。
「だから地図を何度も見せただろ。この民族は完全に文明から遮断されている。文明人と交易なんかできる場所じゃない」
「もし、本当に未開民族に現れたらどうするの? そんなの怖いわ。文明から孤立して住んでいる人たちはぜんぜんソフィスケートされていないんでしょ。人権も博愛も倫理も法律も知らない。いきなり襲ってくるかもしれない」
「だから、武装もしてるし、体も鍛えている。アイには指一本触れさせたりしないから」
 キックはTシャツの袖を巻くし上げ、ジムで鍛えた太い二の腕の筋肉をアイに見せつけた。
「・・・・・・」
 アイはキックの筋肉には視線を向けず、心配そうにキックの目を覗きこんだ。
「さあ、休憩していないで先を急ごう。もっと村に近づきたい」
 キックはアイを急かし、二人は深い森の中を奥へ奥へと歩いていった。濃い緑はさらに濃さを増し、空を覆う樹木の枝葉が光を遮断して昼間でも薄暗い。野鳥の奇妙な鳴き声が森のどこからともなく聞こえる。アイは肉体的な疲労とは違った不可解な寒気を体に感じて足を止めた。
「キック、ちょっと待って――」先を歩くキックを呼び止めた。「なんだか薄気味悪いわ。背中がゾクゾクする」
「どうしたんだ? まだ野生動物が出ることを怖がっているのか。しょうがない奴だ。さっきから言ってるだろ、何があったって守ってやるって」
「そうじゃないの、そういう恐怖じゃなくて、もっと違う種類の恐怖。どう言えばいいのかしら、魂に響いてくるような恐怖なの」
 霊媒体質のアイは落ち着かない様子で周りをキョロキョロと見回し小刻みに震えた。
「そうなのか――」キックはアイの背中の荷物を下ろしてやり、彼女の背中を手のひらでさすった。
「学者の俺にはわからないが、アイは霊感で何かを感じているんだな。何の予兆だろう? 未開民族の呪力か。未開民族は外部者を寄せつけない特殊な呪術を持っているのかもしれないからな。フフフフ、こいつはおもしろいことになってきたぞ。相手が未開であればあるほと俺は燃えてくる」
「笑いごとじゃないわ。もうダメ、あたしは気持ち悪い。もう歩けない」
 アイはしゃがみこんだ。
「アイ、こんなところで座りこまないでくれ。もう少し頑張って歩こう。あと一時間だけでも」
「ダメ、もう動けない。ここはきっと人間が足を踏み入れてはならない禁断の地よ。ああ、頭痛もしてきた」
「それは肉体的な疲労だ。しょうがないなあ。よし、よし、今日はもう休みだ。この辺でテントを張ろう。どの辺で休もうか」
 キックが周りを眺め、テントの張りやすい平地を探した。
「イヤ! ここはダメ! すぐに戻りましょう。悪いこと言わないから。ここは絶対ダメ」
 アイはヒステリックに言った。
「アイ、何を言い出すんだ。この森を通り抜けないと、村にはたどり着けないんだぞ。そのために何日もかけてここまで歩いてきたんだから」
「そんなことわかってる。でも、ここから奥に進むのは本当に嫌な予感がするの」
「それは疲労からだって言ってるだろ」
「どうしてキックはあたしの言うことを否定ばかりするの。あたしの霊感を頼りにするって、出発前何度も言ってたじゃない。――イヤよ、あたしはこれ以上前に進むのは。もう戻りたい」
「おい、おい、こんなところで我がまま言うなよ。多額の金をはたいてここまでやってきて、手ぶらで帰るわけにはいかないだろ」
「お金の問題じゃないでしょう。一番大切なのは命でしょ。命あってこその仕事でしょ。命がなかったら、あたしたちは何もできないのよ」
「アイ、どうしたっていうんだ・・・・。あっ、あそこにテントが張りやすい岩陰がある。あそこにテントを張って今日は早めに休もう。きっと明日になるとすっきりするから」
「イヤ! あたしは一刻も早くこの暗い森からすぐに出たい。山の精霊があたしに警告してる」
 アイは周囲を見回し、何かの気配をうかがうと、風でざわついていた森が、急に気配を隠すかのようにシンと静まった。その数秒後、森の木々の葉っぱが囁くようにカサカサと音をたて、森の木樹が意思疎通しているかのようである。
「やっぱり怖いわ」
「大丈夫だって」
 キックは必死でアイをなだめた。


   六
「確かにあれは獲物だった。獲物の臭いだったし、輝きも特殊だった。急に姿が見えなくなったのは多分、建物の中に逃げ込んだためだろう」
 弦太郎ガルーダは空を飛びながら呟いた。
「しかし、あの一匹の臭い奴はなんだったんだ。獲物の輝きだったが、ひどい臭いだった。あれじゃあ食べる気も失せる。まあ、いいか。とにかくあの光が獲物であることはわかった。――いや、それどころじゃない。今、性急にしなければならないことは師匠を探すこと。師匠は特別な呪術師、きっと特別な何か印があるはずだ。現在地がわかったんだから、方向さえ見誤らなければたどり着くはず。すぐに師匠を探そう」
 弦太郎ガルーダの頭の中には独自の地図が浮かび上がっていた。タムのサボテンに向かってスピードをあげた。
「おや、ずいぶんと土地の力が強くなってきたぞ」
 しばらく飛ぶと、弦太郎ガルーダは強力なエネルギーを感じる土地の上空にきた。
「もしかして、ここら辺に師匠のサボテンがあるかもしれないぞ。市場からの距離を考えるとこの辺りだと思う」
 弦太郎ガルーダは空高くへ上昇し、高みから周辺を鳥瞰した。
「ん?! なんだあの光は!」
 一目でわかるひときわ大きな一粒の光を見つけた。輝きも色彩も明滅も今まで見たどの生物の光よりも強烈で大きく、さらに崇高さが漂い、何よりもその光からある種の懐かしさを感じた。
「あれは絶対師匠に違いない――」ピンときた。「しかしどうやって師匠に会ったらいいだろう。ガルーダの状態では話すことができないし、もっとも降り立つことができない・・・・」
 弦太郎ガルーダはこの特殊な一点の光を中心に宙を旋回しながら思案した。
「どうするか。――ん?! あんなところに人間の光が!」
 そのとき、その特殊な光からさほど遠くない位置に人間の光を見つけた。二つの光が明滅している。しかもその一つの光は体内にスペースを持っている特別種だった。
「あいつには入れるぞ。これはチャンスだ」
 弦太郎ガルーダをこのチャンスを見逃すまいと、地上に猛スピードで急降下し、人間の光にぶつかっていった。
     *
 アイは曇った空を見上げた。
「ああ、頭痛が強くなってきた。なんでこんなところにきたんだろう?」
「もう愚痴をこぼすのはやめにしないか」
 キックはイライラしながら言った。
「あれっ? 何か変な音しない?」
 アイは急に神経質そうに目玉をキョロキョロ動かしながら耳をそばだてた。
「俺には何も聞こえないぜ。気のせいだ。疲れていてナーバスになっているだけだ。すぐにテントを立てるから、それから飯にしよう。ゆっくり体を休めて元気になればそんな音なんか聞こえないから」
 キックは背負っていた大きなバックパックを地面に下ろし、テキパキとテントを張る準備を始めた。
「気のせいじゃなくって、本当に変な音が聞こえるの。本当よ。風の音かしら? それとも地鳴り?」
 そのとき生暖かい風がスーッと吹き抜け、森林の木の葉がいっせいに激しく揺れた。
「キャッー!」
 アイが突然悲鳴をあげ、数メートル前方に飛ばされて地面にうつ伏せ状態でバタリと倒れこんだ。
「アイ、どうしたんだ!」
 キックは突然のことに驚いた。アイに駆け寄り体を揺すった。
「アイ、大丈夫か? おい、しっかりしろ」
 アイは意識を失い、ぐったりしていた。


   七
 キックはアイを仰向けに寝かせ、彼女の上体を腕で抱えるようにして起こした。彼女の顔についた土埃をさすって払い落とした。
「おい、アイ、しっかりしろ」
「んん・・・・」
 アイが小さく呻き声を出し、目をゆっくと開けた。
「アイ、気がついたか? 大丈夫か」
 キックはアイの表情を注意深げに見守り、彼女の服についた土埃もはたき落とした。
「びっくりしたぞ、いきなり倒れて。どうしたっていうんだい」
 アイはパチリと大きな瞳を開き、周りを見回した。
「見える――」
「見える? 何が見えるんだ」
「よし、はっきり見える。人間の世界だ。入れたぞ、ハハハハ。――痛たたた。何だこの体、筋肉痛なのか? あちこち痛いぞ」
「アイ? お前何を言ってるんだ?」
 キックはアイの口調が変わったことに驚いた。アイはすくっと立ち上がった。
「アイ、大丈夫なのか?」
「見覚えがある。大魔神の領土だ。師匠のサボテンはこの近くだ」
 アイは周囲の状況を観察し、サボテンに向かって走り出した。
「アイ、どこに行くんだ? 待て」
 キックは、走り出したアイの細い腕を握り締め走り去るのを制止した。
「おい、何だこの野郎、邪魔するな。お前と遊んでいるヒマなんかないんだ!」
「どうしたんだ、アイ?」
 キックは、突然豹変したアイの態度と言葉使いに戸惑った。
「アイ、俺が悪かった。アイにとって初めてのフィールドワークだっていうのに、ずいぶん無理をさせてしまったようだ。すまなかった。気が済むまでここで休もう。とにかく今日は落ち着こうな」
「馬鹿野郎、落ち着いてなんかいられるかって。オレはすぐに師匠に会わなきゃいけないんだ。手を離せ」
「いや、離さない」
「離せって。畜生、この野郎――」
 アイは思い切りキックの腹に前蹴りを放った。
「ギャッー」
 キックは前蹴りを不意にみぞおちに喰らい、もんどりうって後方に倒れて意識を失った。
「――師匠」
 アイの体に入り込んだ弦太郎はサボテンへ向かって走り出した。
「この崖の岩場に師匠がいるはずだが・・・・、師匠、師匠」
 岩場をキョロキョロと探し回った。
「あった! 師匠のサボテンだ! 師匠、師匠、弦太郎です。わかりますか」
 数秒の沈黙が流れた。
「弦太郎、来たか、ハハハハ」
 サボテンが話し出した。タムの懐かしい声である。
「師匠・・・・」
 弦太郎は懐かしさがこみ上げ、目頭が熱くなった。
「師匠、会いたかったです」
「ずいぶん、カワイイ姿に変わったな」
「カワイイ? そうですか?」
 タムに言われ、弦太郎は顔を両手でさすって感触を確かめ、それから両手を広げてまじまじと見つめた。白く細い指だった。見るからに若い女性の体だった。
「女の体に入ったのか・・・・」弦太郎は呟くように言った。
「そのようだな」
「そんなことよりも、師匠、何から話せばいいのか・・・・。自分が一体どうなってしまったのか」
「面白いだろ」
「面白いどころじゃないですよ」
「見たことも、聞いたこともない世界とはこのことだろ? ハハハハ」
 タムは陽気に笑った。弦太郎はその耳慣れた笑い声を聞くとなぜか不安が吹き飛び、思わずつられて笑ってしまった。
「いや、笑いごとじゃないんです――」弦太郎は顔をブルブルと振って笑いを抑制した。「師匠、だからどういうことなんですか」
「だからどういうことって、何が言いたいんだ?」
「そんなトボけたこと言わないでください。ぼくはどうなってしまったんですか。師匠の指示どおり、アディー爺の卵を力の湖に浸けたら・・・・」
「卵が孵化しただろ?」
「そう、そこから龍が現れて・・・・」
「雷はすごかったか?」
「そうなんです。すさまじい落雷の雨あられ・・・・」
「すばらしい祝福だっただろ?」
「すばらしい祝福でした。その落雷を浴びて力が頂点に達したんです」
「で、どうなった?」
「呪術師の体が崩壊してしまったんです」
「ハハハハ、それはすごいな」
「だから、笑いごとじゃないんです。突然、肉体も五感も変わってしまって何がなんだかわからない。自分自身で客観視することはできないし、話す相手もいない。自分自身が何者なのかさっぱりわからない。とにかく高速で空を飛んでいる。まるでガルーダにでもなった気分ですよ」
「その通りだ。お前はガルーダになったんだ」
 タムが当たり前の口調でガルーダであることを明かした。
「えっ、ガルーダに・・・・」
「そんなに大袈裟に驚くことでもないだろ、白々しい奴だ。完全に気づいていたくせに」
「ええ、まあ、気づいていましたが・・・・・。でも師匠にそうはっきり言われるとやっぱりショックです」
「ガルーダになったことが嫌なのか?」
「嫌だとか、嫌じゃないとか、そんな感情的なこと以前に考えてみてください。それが突然起きたんですよ。何の予備知識もなく世界がガラッと変わってしまったんですよ。体も、感覚も、生き方も、何もかも、すべてが。師匠はどうしてガルーダになるってことを予め教えてくれなかったんですか?」
「何が起こるかわからない方が面白いだろ、ハハハハ」
「面白いも何も、突然の変化にパニックにでもなって気が狂ってしまったらどうするんですか。元も子もないじゃないですか」
「いま、お前は狂っていないじゃないか」
「狂わずにすんだのは奇跡的です」
「奇跡的でも何でもない。ガルーダの体は呪術師の体よりもずっと安定している。そう簡単に狂ったりはしない。奇跡的なのはここに帰ってこれたってことだ」
「ここにこれたのは、偶然人間に入れることを見つけたり、偶然馴染みの場所に降りられたり、偶然こんなところに人間がいたり――、そんな偶然が重なってこれたんです」
「それはよかったな・・・・」
 サボテンのタムは急にフッと沈黙した。
「どうしたんですか?」
 弦太郎はサボテンに顔を寄せて覗き込んだ。
「ここで気楽におしゃべりしている時間はない。お前には時間がないようだ」
「時間がないとは?」
「もうお前は人間でも呪術師でもない、ガルーダだ。ガルーダが人間の体を借りるとどうなるか。お前から見て右上、頭上を見てみろ」
「ん? 何ですか?」
 弦太郎が右上の方へ目を移した。
「猿がいるだろ。頓狂な鳴き声をあげている」
「あの遠くの枝にいる猿のことですか? あれが何ですか」
「よく見てみろ」
「ん?!」
 目を凝らすと、猿の顔がはっきりと視界に入った。
「ひ、一つ眼!」
 猿の顔の中央には一つ眼があった。大きな一つ眼でこちらをじっと見つめている。
「あの猿と声をかけあっている猿がその奥にもいるだろ。そいつはどんな顔をしている?」
 さらに遠く木の枝にもこちらをじっと観察している猿がいた。
「あの猿も一つ眼だ――」弦太郎は体を硬直させた。「師匠、これはどういうことなんですか?」
「死神がお前を狙っているんだ」
「死神が狙っている・・・・。そういえば、最初、人間の体に入り込んだときも死神に囲まれていました」
「お前はガルーダが人間に入れることを自力で見つけたようだが、大事なことがまだ未発見だ」
「大事なことというと?」
「死神は〝人間に入り込んだガルーダ〟が大好きだ。空を飛びまわるガルーダを死に引きずり込むことは難しいが、人間の中にいるガルーダを死に引きずり込むのは易しい。だから死神は、ガルーダが人間の中に入ったらすぐに近づいてくる。今、ここでノンビリおしゃべりしている時間はない。必要なことだけを話すんだ」
「死に引きづり込まれるって・・・・。じゃあ、何から話せばいいのか・・・・」弦太郎は焦りを覚えた。「訊ねたいことはたくさんあったけど、何だったっけ・・・・、あっ、そうだ、どうしてぼくはガルーダになってしまったんですか?」
「どうして? そんなこと知るもんか。お前が人間のとき、〝なぜ弦太郎として生まれてきたのか〟と問われたら何とこたえるんだ? こたえようがないだろ。いまお前が訊ねなければならないことは、〝なぜそうなったのか〟ではなく〝どうやって生きてゆくか〟だろ。そうなった原因をいまここで考えてもしょうがない」
「なるほど、〝なぜガルーダになったか〟という問いはどうでもいいわけか。――じゃあ、ガルーダとは風の精霊のこと、あの恐ろしかった風の精霊、レイの命を奪った風の精霊。これからぼくは呪術師の魂を奪って生きてゆくということですか?」
「ああ、そのとおりだ」
 タムが間をおくことなく返答したので、弦太郎は一瞬言葉の意味を飲み込めなかった。
「そのとおり、と言われても・・・・」
「ガルーダとなったいま、お前は過去何者であったかなんてどうだっていいことだ。いや、そんなことはどうでもよくなるんだ。過去のことを思い出すのは、人間の体を借りたときだけだ。今後お前は、昨夜見た夢の内容を忘れてしまうように、過去のことなぞ自然と忘れていくだろう」
「自分の過去をすべて忘れてしまうというんですか? ――いや、忘れないと思いますよ」
「アディーいるだろ?」
「アディー? アディー爺のこと? あ、そうだ、彼のことも教えて欲しいです。アディ爺はどうなってしまったんですか。孵化に成功して龍になり、大魔神の龍と一緒に空へ昇って行きましたが。彼は本当に大魔神になったんですか?」
「ああ、アディーは大魔神になった。もうやつは自分が過去、エチンケ呪術師であったことなんぞすっかり忘れているだろう。同じように、お前もガルーダに生まれ変わった以上、過去のことなんぞどうでもよくなるんだ」
「どうでもいいって・・・・。じゃあ、アディ爺が大魔神になってしまったということは、彼も大魔神のように呪術師を食べるということですか」
「もちろんだ。大魔神は呪術師の魂が大好物だ。気をつけた方がいい。アディーはいまどこにいるか知らないが、大魔神になった以上、どこかの土地を縄張りにして住み着いているだろう。大魔神の逆鱗に触れると、ガルーダでさえも命を奪われるからな」
「じゃあ、ぼくもアディー爺に襲われる可能性があるということですか?」
「もう〝アディー〟という名前に意味はない。彼は大魔神であり、神であり、永遠の存在だ。大魔神がガルーダを襲う、ただそれだけのことだ」
「同じ釜の飯を食べ合い、助け合ったファミリーなのに・・・・」
「お前にしたって同じだ。過去ことはすべて忘れて生きてゆく。もちろん、ワシのこともな」
「いや、そんなことはありません。忘れていないからこそ、こうして師匠のところへやってきたんじゃないですか」
「お前がワシのことを思い出したのは、ガルーダとしての生き方に迷いがあったからだ。ガルーダとして安定した生き方ができるようになれば次第に忘れていくだろう」
「ガルーダとしての生・・・・」弦太郎は自分に言い聞かすように小さく呟いた。「もう呪術師にも人間にも戻れないんですね」
「もちろんな」
「師匠は〝ガルーダとしての安定した生き方〟とおっしゃいましたが、ガルーダは〝神〟じゃないんですか。〝神〟であっても安定や不安定があるんですか」
「もちろんある。〝神〟とは一つの言葉にすぎない。その実態はいろいろだ」
「ということは、〝永遠の命〟を得たということではないんですね。さっき死神に襲われるとおっしゃっいましたが」
「永遠ともいえるし、永遠ではないともいえる」
「どいういうことですか?」
「ガルーダは常に期限に追われている。力を失う期限だな」
「力を失う期限とは?」
「ガルーダも一つの生命体だ。動き回っている以上、力を消費する。力が消費されるにしたがって体の色が薄くなっていくだろう。最後には中空に溶け込んでしまい、姿かたちをすべて失ってしまう。それがガルーダの死だ。死がある以上、永遠ではない」
「エネルギー補給しないといけないんですね」
「そうだ。そのエネルギー補給というのが、〝呪術師を狩る〟ということ。呪術師の力を奪うんだ」
「だから呪術師時代、我われはガルーダに執拗に襲われたんですね」
「だが、ガルーダは人間と違い、〝老い〟というものがない。呪術師を狩りつづけ、力を定期的に確保できれば永遠に生きていられる。そういう意味では永遠の命ともいえる」
「永遠に狩りつづけるというわけですか」
「そういうことだな。だが、力を確保しつづけたとしても、ほかにも死はある」
「大魔神ですか?」
「そう、大魔神はガルーダにとって一番の天敵だ。大魔神の領土はガルーダにとって最高の猟場。大魔神は呪術師を大量に飼育しているからな。だが奴は領土に入るガルーダをすかさず襲ってくる。大魔神は、ガルーダが常に動き回っていなければならず、動きが止まれば死ぬという弱点を知っている。もし、力が弱わければ大魔神に捕まって命を失うだろう」
「そういえば呪術師時代、大魔神の領土で大魔神とガルーダの戦いを見ました。両者は戦うんですね。――他に死はありますか?」
「死に導かれる最後の理由――、さっきも言ったが、人間の中に入ると死神が狙ってくる。死神に襲われたらガルーダはもちろん命を失う。いまも少しずつ死神が近づいてきているのを感じないか?」
「そうですか?」
 弦太郎が耳をすますと、ケタケタと奇妙な笑い声がどこからか聞こえてきた。
「不気味な笑い声が聞こえますが」
「近くまできたようだ」
「これは死神の笑い声ですか・・・・」
「ああ、そうだ」
 弦太郎はゴクリと唾を飲み込み体を緊張させた。
「死神は危険な存在だが、悪いことばかりではない。メリットもある」
「メリット?」
「呪術師のとき、死神の世界から脱出して、力が強くなったことがあっただろ? 同じようにガルーダも、死神の世界からこの世に無事帰還できれば強大な力が得られる。だから死神の世界へ行くということは、ひとつのチャンスともいえるし、死の間際ともいえる」
「あの世界にまた行くのは、どうも気がすすみませんが・・・・」
「ガルーダが死に導かれる理由は以上の三つだ。あと天敵といえば、ウペウ呪術師だな」
「ウペウ呪術師? そういえば呪術師時代、師匠のところにも、デーン先生のところにも、風の精霊は全然近寄ってこなかったですね」
「話したこともあるが、ウペウ呪術師はガルーダを寄せつけない呪術を身につけている。熱を発してガルーダを寄せつけないんだ」
「今こうして師匠に近づけたのは?」
「ワシはお前とわかったからこそ呪術を使っていないが、普段はガルーダを寄せつけたりはしない。それとさっきも言ったが、しばらくすればお前はワシのことを忘れていくだろうし、ワシもお前のことがわからなくなる。お前であろうと、他のガルーダであろうと見分けがつかなくなるんだ。もうワシの元には来れないだろう」
「いや、師匠、それは困ります。ぼくは師匠にまだまだ教えを受けなければなりません」
 弦太郎は懇願するように言った。
「今日はお前の完全な独り立ちの日だ。必要なことは今ここですべて聞くんだ」
「独り立ちも何もこんな短時間の会話で何がわかるというんですか。それに、ぼくは師匠のことを忘れたりしませんよ」
「そんな義理や愛着はガルーダにとって必要ない。呪術師であったってな。我らが必要なのは〝永遠〟だけだ。お前は永遠に向かって坦々と歩んでいけばいいんだ」
「いや、まだまだぼくは師匠から学ばなければならないことがたくさんあります。いろんなことがわからなくなって混乱するに違いありません」
「だから、いまこの時間にすべてを聞けと言ってるだろ」
「この時間って――」弦太郎は周りから殺気を感じた。話を止めて様子をうかがうと、「ヒヒヒヒ」という甲高い笑い声が間近から聞こえてきた。
「すぐ近くにいる・・・・」
「そのようだな。――さあ、急いで話を続けるんだ」
「はい。ガルーダの生き方・・・・、ガルーダが狩りをして生きてゆくといっても、そんなに簡単に狩りに成功するとは思えません。呪術師は密閉された屋内に逃げ込めばいいだけのことですし」
「ガルーダが力を消耗しない方法はひとつだけある」
「力を消耗しない方法?」
「霊石に入るんだ」
「霊石といえば、〝霊石メディテーション〟のあの霊石のことですか?」
「いや、呪術師のとき力を吸収した霊石とは違う。ガルーダにとっての霊石とは〝スペースのある石〟のことだ」
「スペースのある石とは?」
「人間と同様、石にもスペースのあるものとないものがある。スペースのある石は非常に希少だが、それに入り込めば力を消耗することはないし、大魔神も襲ってこないし、死神もやってこない。そこはこの世から完全に隔絶された安全で安楽な場所だ」
「ということは霊石にいる限り、永遠ということですか?」
「永遠とはいえない。長い時間だ」
「石が磨耗して塵になるまでの時間という意味ですか?」
「そこまでも居られない。何万年、何十万年と長い時間霊石にいると、ある日、石と体が同化する時がくる。石に体が溶け込んでしまうんだ。そのガルーダが溶け込んでしまった石、それがレラ呪術師のいうところの〝霊石〟だ。霊石にはガルーダの力が宿っているから、相性の合うレラ呪術師は力を得ることができるんだ」
「霊石メディテーションの〝霊石〟とはそういうことだったんですか」
「そうだ。――お前に教えなければならない最後のこと。次の教えが一番大切なことだ」
「一番大切なことというと?」
「お前の最後の目標、最終目的地のことだ」
「最終目的地?」
「最終目的地、それは〝永遠のガルーダ〟だ」
「永遠のガルーダ?」
「永遠のガルーダとは、その名のとおり永遠の生命を持ち、安らかに世界を飛び回っているガルーダのこと」
「いまのぼくのことではないんですね」
「違う、まったく別ものだ。永遠のガルーダとは、別の言い方をすれば〝守護神のガルーダ〟。お前が呪術師に成る前、卵を産みつけてくれたガルーダであり、正式な呪術師になったとき、祝福を与えてくれたガルーダだ。覚えているだろ?」
「あれが永遠のガルーダなんですか。あの崇高な存在は忘れられません」
「永遠のガルーダは、もう完全に力を満たしており、力を失うことはない。大魔神に襲われることもなければ死神が寄ってくることもない。完全に永遠の存在だ。その永遠のガルーダがお前の到達点だ」
「どうしたら、その永遠のガルーダに成れるんですか?」
「端的にいえば、狩をして力を増やしていく。そして力が最大限に満ちたとき、永遠のガルーダと成れる」
「最大限に満ちるといっても、呪術師をたくさん狩らなければいけないんでしょ。しかも集中的に」
「そうだ。だが、何十万匹狩っても最大限には到らないだろう」
「じゃあ、どうしたら?」
「唯一、そこにたどりつく方法は〝大魔神の卵〟を狩ることだ」
「大魔神の卵・・・・、アディー爺が卵になった、大魔神が生まれる直前の〝あの卵〟のことですか」
「そう、あれだ」
「あの卵・・・・。だから風の精霊は執拗に卵から離れなかったんですね」
「大魔神の卵に遭遇することなど滅多にないからな。ガルーダにとって一世一代のチャンスだ」
「大魔神の卵を狩れば、永遠に到達できるというわけですね」
「そうだ、そこがお前の最終目標だ」
「卵を狩れば、永遠・・・・」
「もう時間がない。ワシの教えはこれでお終いだ」
「これでお終い? まだまだ訊きたいことがありますが」
「なんだ? 時間がないから手短に話すんだ」
 弦太郎はじっとサボテンを見つめながらしばらく沈黙し、真剣な表情で語りかけた。
「師匠のことを・・・・」
「ワシのこと?」
「師匠はウペウ呪術師、ウペウ呪術師は呪術師を生み育てる。弟子の一人はガルーダに成長し、そのガルーダがほかの弟子を喰い散らしていく。師匠にとって〝弟子のガルーダ〟とはどういった存在なんですか?」
「それがワシのワークだ。弟子であろうが何であろうが関係性は変化してゆく。ただそれだけだ」
「関係性の変化、ただそれだけですか・・・・。そもそも師匠は呪術師なのに、どうしてそんなに知識を持っているんですか。ガルーダのことや大魔神のことまでも。師匠は一体何者なんですか?」
 そのとき頭上から木の葉が、紙吹雪が舞うようにヒラヒラと大量に落ちてきた。
「時間がきたようだな」
 タムは静かに言った。
「ん?」
「木の葉をよく見るんだ」
 弦太郎はヒラヒラ落ちてくる木の葉の一枚を手の平に乗せた。木の葉には〝一つ眼〟があり、弦太郎をじっと見つめていた。
「死神が!」
 すばやく手を引っ込めるようにして木の葉を払い落とした。足元に目をやると、地面に落ちている葉の一枚一枚すべてに〝一つ眼〟があった。
「ぎゃっ!」
 地面は一つ眼で溢れていた。そのとき、足元に敷き詰められている落ち葉がまるでベルトコンベアのように動き出し、弦太郎の体をズルズルと後方に移動させていった。弦太郎はバランスを崩し尻餅をついた。
「地面が動く!」
 振り返ると後方に崖が迫っていた。このままでは深い谷底へ落とされてしまう。
「もう時間切れだ。弦太郎、飛び立つんだ」
 タムが指示した。
「はい、師匠、ひとまず脱出します!」
 弦太郎は人間の体をパッと脱ぎ捨て、ガルーダとなって飛び立った。弦太郎ガルーダはタムの光を見据えながらまっすぐ上昇した。その光を基点として宙をしばらく旋回し、死神が離れた頃を見計らってまた人間の体に入ってタムと話そうと考えた。しかしその瞬間、稲妻がピカッと空を裂き、白いうねりのような巨大な光が猛スピードで弦太郎ガルーダに迫ってきた。その光を一瞥しただけで、それが恐ろしい存在であることがわかった。
「大魔神だ!」
 弦太郎は相手の正体にすぐ気づいた。
「そういえば、ここは大魔神の領土なんだ」
 大魔神緒縄張りから逃げ出そうとしたが、大魔神の動きは速く、弦太郎ガルーダは大魔神に捕まり押さえつけられた。それはすごい力だった。
「動きが止まったら死んでしまうんだ。やられる・・・・」
 弦太郎ガルーダはフェイントをかけるようにスピードに緩急をつけた。大魔神の手が一瞬体から離れた。
「チャンス!」
 その隙をついて急加速すると大魔神の領土を抜けられた。大魔神はそれ以上追ってこなかった。領土の外が近かったことが幸いした。


   八
 アイに腹を蹴られて意識を失っていたキックが目を覚ました。
「痛タタタ――」キックは腹を押さえながら上体を起こした。「アイがいきなり蹴ってくるなんて・・・・」
 地べたに座りながらアイのことを考えた。
「〝大魔神の領土〟とか〝師匠のサボテン〟とか、わけのわからないことを言ってたな。どういうことだ・・・・」
 キックは周囲の深い森を眺めながら物思いにふけった。鬱蒼とした森がカサカサと音をたて、森全体が大きな生き物のように見えてきた。
――森は生きている・・・・・。このまま森に吸収されてしまうんじゃないだろうか。
 恐怖を感じ、我に返った。
「アイだ!」
 アイが一人でどこかへ行ってしまったことをハッと思い出した。
「アイ、アイ――」キックは声を出し、周囲をキョロキョロと見回した。「いない・・・・。アイのやつ、一人でどこへ行ってしまったんだ? こんな山の中で迷子になったら大変だぞ」
 キックは彼女の名前を大声で叫びながら周辺を歩き回った。
「アイ、どこだ! 聞こえるか、アイ! 聞こえたら返事をしてくれ。アイ――」
 どちらの方向に歩いていったのか見当がつかない。
「こいつは大変なことになったぞ。こんな広い森でどうやって探せばいいんだ・・・・。そういえば、アイはこの森の雰囲気を気味悪がっていた。霊感の強い彼女のことだから、森に住み着く精霊に憑かれたのかも・・・・。俺はアイの真剣な声に耳を傾けず、フィールドワークという大義名分のため、やみくもに前へ前へ進むことばかり考えていた。これは俺の判断ミスだ。どうしてもアイを探さなければ。――アイ、どこだ! アイ、頼むから返事をしてくれ!」
 キックは大声で叫びながら森を歩き回った。
     *
 アイが朦朧と目を覚ました。上体を起こし周りを見回したが、いま自分がどこにいるのかさっぱりわからなかった。後方には崖があり、もう少しで崖下に落ちてしまう危険な場所である。崖下を見下ろすとあまりの高さに頭がクラクラした。
「こ、怖い・・・・」
 アイは怯えた声を出した。
「そうだ――」
 キックのことを思い出した。いつも一緒にいる彼の姿がない。しかもカバンなどの持ち物が何もなかった。
「ここはどこなの? あたしはどうしてここにいるの? どうしてキックがいないの? どうして、どうして――」
 アイはパニックになりかけた。ここに一人でいる経緯を必死で思い出そうとしても何も思い出せない。深閑と静まった森は目に見えない圧迫感があり、不安な気持ちにを昂進させた。立ち上がって大声で叫んだ。
「キック、キック! どこにいるの!」
 木の枝に止まっていた小鳥の群れがアイの叫んだ声に反応し、バサバサと音をたてていっせいに飛び立った。その音にアイも敏感に反応して怯えた。
「ワッ・・・・。キック、キック、助けて!」
 どちらの方向に向かって歩いていけばいいかまったくわからなかった。もしも彼がいる位置からどんどん遠く離れる方向に歩いていったら大変である。アイは足を止め、ひたすら声を出すことに努めた。
「キック、キック――」
 アイは半泣きになりながら叫んだ。
     *
 キックは混乱していた。焦りと恐怖が入り混じった気持ちだった。
――どうして俺は彼女をこんな危険な山奥に連れてきたんだ。この調査はチームを組んでくるべきだったんじゃないのか。
 後悔の念ばかりが頭によぎった。
「――キック、キック」
 そのときアイの声が小さく聞こえた。
「アイの声がする!」
 キックは耳を澄まし、アイの声のする方向を探った。
「こっちか!」
 音の方向を見定め、そちらへ向かって駆け出した。
「アイ!」
 彼女の姿を見つけた。
「アイ、大丈夫か」
 キックはアイのもとに走り寄り、彼女を抱擁した。
「どうなるかと思ったわ」
 アイは恐怖で小刻みに震え、目に涙を溜めていた。
「アイ、どうして一人でこんなところにきたんだ?」
「それがぜんぜん思い出せないの。どういうこと? あたしが教えて欲しい。どうして一人でこんなところに?」
「ビックリしたよ。アイは突然人格が変わって男のような言葉使いになって、俺の腹を蹴り飛ばしたんだ。俺はそこで意識を失ってしまって・・・・」
「あたしがキックの腹を蹴ったって?」
「そう。鍛えている俺が、そんな女の蹴りぐらいで参っちゃいけないんだけど、なんせ不意だったものだから気を失ってしまって。気がついたときにはアイはいなかった」
「そんなことがあったの・・・・。本当にごめんなさい」
「悪かったのは俺の方だ。アイに怖い思いをさせてしまって。もうアイを絶対一人になんかしないからな」
 キックはアイの体を強く抱きしめた。
「多分、あたしの中に霊が入り込んだんだわ」
「俺もそう思った。この森はとにかく霊的な雰囲気がする。やっぱりここは山岳民族の神聖な宗教儀礼のための場所なのかもしれない。だから、アイは目に見えない精霊に反応したんだじゃないだろうか」
「あたしもそうだと思うわ。この森に入ってからから頭痛はするし寒気はするし、今も恐怖を感じる。すごい殺気というか霊気を」
「アイの霊感を信じないといけない。ここは文明人が足を踏み入れてはいけない禁断の場所だったんだ。今回の調査のために時間と金を使って何の収穫もなく帰るのは残念だが、命を守るのは一番大切なこと。今日はこの辺りに泊まって明日から下山しよう」
 キックはアイの霊感を尊重し下山することを提案した。
「えっ、明日下山。ここに一泊なんてあたしは怖くてできないわ。まだ暗くなるまでに時間があるんでしょ。だったら少しでも戻りましょう」
「えっ、いまから戻るのか?」
「ええ、とにかくここにいたら危険よ。また変な霊が憑依したら大変でしょ」
「確かにそれはそうだが・・・・」
「戻りましょう、すぐに。急いで」
「ああ、そうするか――」
 二人は荷物のところへ戻り、解いた荷物を詰め直して来た道を歩き出した。
「とにかく、暗くなるまでにこの森を抜けたいわ。ああ・・・・、何だか誰かの目線を感じる。恐ろしい殺気よ」
 アイは後ろを振り返った。
「殺気・・・・、なんだろう、それは?」
 二人は足早に歩いた。
 数分後、アイはキーンと強い霊気を身体に感じ、思わず足を止めた。
「頭が痛い。突き刺すような霊気。何なの・・・・」
「アイ、大丈夫か?」
「いままで感じたことのない強い霊気よ。ほら見て鳥肌が立ってるでしょ」
 アイは鳥肌の立った腕をキックに見せた。
「何だろうね。なんの霊気が漂っているんだろう。ここで感じたのか?」
「ええ――」アイは恐々と周囲を見回した。「あっ!」
 異様なものを目にして思わず甲高い声を出した。巨木の根元の草の茂みに、服、ズボン、靴の一式が落ちていていた。
「どうしてあそこに服が落ちているの?」
 アイは震えながら指を差した。
「どこだ?」キックはアイの指差す方向を見つめた。「あっ、あった。あれはなんだ?」
 キックはそこに駆け寄り、興味津々に観察した。それらは町で売られている一般的な物で未開の少数民族のものではなさそうだった。アイは脚が硬直して動くことができず、遠目からキックの様子を眺めた。
「これは大変だぞ!」
 キックが大声を出した。
「なんなの?」
 アイはそれを直視したくなかったので目を背けながら訊き返した。
「ミイラだぞ!」
「えっ、ミイラ!」
 キックはしゃがみこんでじっくり観察した。半そでのポロシャツから出ている腕と頭は干からびてカサカサになっており、指で触れた瞬間細かい粉となってパラパラと崩れた。色は灰褐色で燃やした後の灰のように見える。
「どういうことだろう――」キックが呟いた。「服装は現代人のもので、しかも決して古いものではない。いや、それどころか明らかに最近のものだ。朽ち加減からいって、つい最近のものなんじゃないだろうか。それなのに、なぜ肉体だけがミイラになっているんだ? かりに燃やしているなら服も一緒に燃えてしまうはずだし・・・・。わからん・・・・」
「自殺者?」
 アイは恐々キックの近づいて背後から問いかけた。
「自殺者かなあ・・・・。でも、どうしてこの人は一人でこんな山奥まで来たんだろう? 持ち物は何もないようだし」
「遭難した登山者?」
「着てる服はどう見ても普段着だ。登山の格好じゃない」
「登山の途中、持ち物だけ奪われて、殺されたとか・・・・」
「殺されたとか、自殺だとか、遭難だとか、そんなことよりも、どうして肉体だけだが乾燥して炭素化してるんだ? 燃やされたにしても、服もズボンも靴もぜんぜん燃えた形跡がないし。かといって、行方不明でここで餓えて死んだとするだろ、こんな湿気のあるところで死んだら、普通、肉体が腐敗するはずだが、この死体は腐った形跡がまったくない。どういうことか想像がつかないんだ」
「その人、男性よね?」
「ああ、服装からして男だな。歳はわからない。老人でも、子供でもないことはわかるが」
「本当に一人できたの?」
「他に仲間らしき人は――」キックはキョロキョロと周りを見回した。「見当たらないだろ、アイ。ほかに何か霊気を感じるか?」
「このミイラからは強烈に感じるけど、他には何も・・・・」
「どうやってミイラになったっんだろう。わからないなあ。なんらかの人工的な加工をしないとこう短時間でミイラになんかならないはずだぜ」
「早く行きましょう。気味が悪いから」
「ちょっと待ってくれ。これは大切な研究材料だ。すごい収穫だぞ」
 キックはカメラを取り出し、入念にいろんな角度から写真を撮った。
「そんな罰当たりなことしちゃダメ。またとり憑かれるわ」
「大丈夫、大丈夫。―――去年だったか、アイが霊に憑かれたことがあっただろ。その後で霊力のある僧侶にお祓いを受けたよな。また、あの僧侶のところへお祓いに行けばいいじゃないか」
「お祓いすればそれで済むという問題じゃないわ。いやよ、もう憑かれるのは」
「そんな神経質なこと言わないでくれ。これは学者として大切な仕事なんだから」
 キックは写真を撮り終わるとジップロックのポリ袋を取り出し、ミイラの体の一部をそれに詰め出した。
「えっ、持ち帰るつもり? やめて、そんなこと」
「ちょっとだけだ。化学的な分析をして、もう少し具体的なデータが欲しい。どうせなら全部持って帰りたいぐらいなんだぜ。――あっ、ちょっと触れただけで、パラパラと崩れてしまう。何だろう」
「やめてったら、キック。恐ろしいわ」
「大丈夫、大丈夫」
「早く行きましょう。もうすぐ暗くなるから」
「もうちょっと――」
 キックは服を持ち上げ、持ち物が何か出てこないか揺すってみたが、乾燥した肉体の粉がサラサラと地面に落ちるだけで何も出てこなかった。ズボンも揺すってみた。すると、コロリと石のようなものが地面に落ちた。
「ん? なんだ?」
 キックはそれをつまみあげて眺めた。それは透明に透き通った水晶のような石だった。円形の平べったい形で真ん中に丸い穴が開いていた。
「なんか変わったものが出てきたぞ! この人の持ち物かな? いや、もしかして、ミイラを作るときに儀式で使うものなのか?」
 キックは透明の石をアイの方にかざした。アイはそれを一瞥すると、
「キャーッ」と裂けるような甲高い声をあげた。
「なんだよ、アイ、ビックリするじゃないか。大声を出して」
「その石からすごい霊気を感じるわ。怖い! 絶対に持ち帰っちゃダメ。そこに置いて帰って」
「霊気・・・・。でも、これはスゴイものだぜ。絶好の研究材料だ。アイには悪いが、最後に一つだけ我がままを言わせてくれ。これは持ち帰る」
 キックは大事そうにジップロックのポリ袋に詰めた。アイはそれを見て後ずさりした。
「まったく恐ろしいことだわ・・・・」
 言葉を詰まらせた。
「これ以外、もう何も持ち帰らないって。そんなに怯えるなよ。帰ったらすぐにお祓いに行くからさ。何にも心配ないよ。――いやあ、最高にいいお土産ができたぞ、フフフ」
 キックは一人含み笑いをした。
「そんなものを持ち帰るなんて信じられない・・・・。さっき、あたしの霊感を頼りにするって言ったクセに・・・・・」
「そんな意地悪なこと言わないでくれよ。俺自身のためじゃないんだ、研究のためなんだ。研究の結果によっては、学界にとっても、社会にとっても、大きな利益が得られるんだぞ。これはたんなる趣味とは違うんだ。わかってくれ」
 アイはキックの罰当たりと思われる行動に呆然としていた。
 キックは手についた埃をパンパンと音をたてて払い、最後にペットボトルの水をかけて汚れを流した。
「さあ、行こうか」
 そのとき、そばの茂みでガサガサと音がした。
「なんだ?」
 キックが何気にそちらに目を向けると、半裸の男たちが三人ヌッと現れた。キックとアイは突然の事態に言葉を失い、互いに目を合わせた。アイの背後の樹の裏からも二人の男がヌッ現れた。
「あっ・・・・」
 全員で五人の男たちがアイとキックを囲っていた。みな小柄で痩せているが筋肉質の鍛えられた体である。山刀を腰にぶら下げ、大きな鋭い目をじっと見つめている。キックはアイを守ろうと彼女の体に寄り添った。
――どうしよう・・・・。どうやって切り抜けよう・・・・。
 キックは冷や汗が流れるほど動揺していた。
――ピストルで抵抗しても無事で済みそうにない。二、三人は撃退できるだろうが、この至近距離では他の奴に襲われるだろう。彼らは非文明人なんだ。何をしてくるかわからないぞ。もしかして・・・・。
 キックの脳裏にあるイメージが浮かび上がった。
――もしかして、ミイラを作ったのはこの男たちか? この森にやってきた部外者を生贄にする儀式か何かで・・・・。
 キックは恐怖で口がからからに渇いた。
――とにかく友好的に振舞おう。闘って勝てそうな相手ではない。まず自分たちが敵でないことを相手に伝えるんだ。それしかない。
「こ、こ、こんにちわ――」キックは声を震わせながら合唱して丁寧に挨拶した。「皆さんはどこの民族なんですか。私は民俗学者で、山岳民族の調査のためこの山にきました。皆さんの穿いているその黒いズボン、それから察するにモン族系統の人たちかな? 私はモン族にも友達が多いんですよ、ヒヒヒヒ」
 顔をこわばらせながら作り笑いを浮かべ、ボディーランゲージを加えながら話した。男たちはある一定の距離を保ち、終始無言で表情を変えず、じっと二人の様子を眺めている。
「あっ、そうだ、皆さんにお土産があるんです」
 キックはいそいそとカバンを開け、持ってきた色ボールペンを取り出して男たちに差し出した。未開の民族にとってボールペンは貴重なもので贈与品として非常に喜ばれると何かの冒険記で読んだことがある。しかし、男たちはボールペンにまったく興味を示さず、近づいてこようともしない。キンマの葉っぱをクチャクチャと噛み、ときおり赤い唾液をペッと地面に吐き出す。馬鹿にでもしているような横柄な態度で二人の様子をうかがっている。キックはこのままでは殺されると生命の危機を感じた。
「あ、そうだ。タバコもあるんです。タバコ、タバコ――。アメリカ製の高級品ですよ。マルボロって言うんです」
 キックは手を震わせながらカバンの奥に手を突っ込みタバコを探した。そのとき一人の男が、
「酒はないのか?」
 と言った。
「酒――」あいにく酒はなかった。「ありません・・・・」
――クソッ、彼らは酒が欲しかったのか・・・・。
 キックは絶望的な気持ちになった。
「ねえ、キック――」アイが声を震わせながらキックに耳打ちした。「お酒が欲しいんだったら、食べ物なら受け取ってくれるかもしれないわ。皆さん、お腹が空いているのかも」
「そうかな」
 キックはまたカバンの奥に手を入れた。
「あ、あのう、皆さん、酒はないんですけど、食べ物はありますよ」
 カバンから食料を取り出そうとしたとき、アイに内緒でかばんに詰めていた〝水着グラビアの掲載された雑誌〟がパラッと地面に落ち、グラビアモデルの写真のページが開いた。その瞬間、男たちの目の色が変わった。一定の距離を保っていた男たちがゆっくり近づいてきて、興味深げに雑誌を見つめている。
「こ、こ、これ、み、見ますか・・・・」
 キックが一人の男にその雑誌を差し出した。男は雑誌を受け取ると目を大きく見開き雑誌を凝視した。他の男たちもみな集まってきて雑誌を見入った。キックはこれはチャンスだと思った。
「こういうのもありますよ、ヒヒヒヒ」
 水着グラビアの載った雑誌だけでなくポルノ雑誌も差し出した。ポルノ雑誌は友達に「御守りだ」と冗談で渡されたもので、荷物になると思ったが何気にカバンに詰めていたものだった。男たちはそれを受け取りページをめくると、「おおお」と低い声を出した。彼らは雑誌を眺めるのに夢中になった。
「ここに食料も置いておきますね、ヒヒヒヒ」
 引きつった笑みを浮かべながら、ソーセージなどの加工食品も足物に置いた。彼らはそれに見向きもせず雑誌に夢中だった。キックはアイと無言で目を見合わせコンタクトを取った。
「お、おじゃましました」
 囁くように挨拶をし、二人はゆっくりと後ずさりした。男たちは二人の様子をまったく気にしていなかった。
「チャンスだ」
 キックとアイはある距離まで後ずさりしながら離れると、さっと振り返って歩き出した。走ると追いかけられそうな気がしたのでごく自然に早足に歩いた。体中から汗が噴出した。
「とにかく遠くに逃げるんだ――」
 無我夢中で歩いた。しだいに辺りは暗くなってきた。二人は暗くなっていることにも気がつかず歩いた。何時間歩いただろうか、ふと我に返り後ろを振り返ると、男たちが尾行してくる様子はなく、夜の闇が拡がっていた。


   九   
 診療所が開院し、大勢の患者がつめかけてきた。受付の二人ナッツとファンは昼の休息をとっていた。
「まだ開院して三日目だっていうのにすごい患者さんね。もう一箇月先の予約が埋まっちゃったわ」
「飛び込みの患者さんもまだきそうよ」
「デーン先生、ずっと働きっぱなしでちゃんと寝られてるのかしら。仕事している姿しか見ない」
「ウペウ呪術師は特別な呪術師だから、私たちとはまったく体の造りが違うんじゃない」
 二人が話しているところへジョンが笑いながらヒョッコリやってきた。
「どうだいお二人さん、忙しいかい、イヒヒヒ。ちゃんと休憩しないとダメだぜ。体を壊しちまうからな」
「休んでますよ」ナッツが答えた。
「さあナッツ、健康と美容にはヨーグルトがいいぜ。買ってきたから食べな」
 ジョンは、見かけないパッケージのヨーグルトを差し出した。
「ありがとう。――どうしたのこれ?」
「イヒヒヒ、コンビニで売ってる安物とは違うぜ。特別なところで仕入れた高級品だ」
「あたしの分は?」ファンが訊ねた。
「残念だが一個しかない。ナッツの分だけだ。ファンは自分で買いな」
「何それ?」ファンが不満げに言った。
「イヒヒヒ、世の中というやつはそんなものだ。平等じゃない。――用はそれだけだ。じゃあ、オレは仕事があるから」
 ジョンが待合室から出て行った。それと入れ違うようにハムが食事を持ってやってきた。
「はい、昼ごはんよ」
 ハムはナッツの前に置かれたヨーグルトを見つめた。
「これ、どうしたの?」
「いま、ジョンさんが持ってきてくれました」
「ジョンが? これだけを?」
 ナッツが話し出すのを遮るようにファンが答えた。
「そう、最近ちょくちょくお菓子を持ってきたり、果物を持ってきたりして顔出しますよ。ナッツの分だけ持ってね」
「あの男、まったく単純でわかりやすわね」
 ハムとファンは顔を見合わせて笑った。
「笑わなくてもいいじゃないですか――」ナッツはちょっと恥ずかしげに言った。「ジョンさんなりの気づかいですよ・・・・」
「気づかいって、もしかしてナッツもジョンに気があるの?」
「そんなことはないですけど・・・・、でも、誠意は感じますよ」
「誠意・・・・」ハムは呆れたように言った。「ジョンなんて、単純で軽薄、欲望の塊みたいな男よ。下心があるからそうしているだけじゃない」
「そうかもしれませんが・・・・。でも、欲望の塊って、それはちょっと言いすぎじゃないですか」
「ナッツ、ジョンはそういう男なの。ちゃんと見抜きなさい。あんなオジさんに関わっちゃロクなことがないんだからね」
「でも向こうが勝手にくるから・・・・・」
「そんなの無視していればいいのよ。本当にくだらない男なんだから」
「ナッツはオジさん好きなのよね。好みのタイプについて話すと、いつも年上の人がいいって言うじゃない」ファンが笑いながら言った。
「オジさん好きってわけじゃないけど・・・・。でも、同じ歳ぐらいの男の子は子供っぽく感じることがあるかなあ」
「えっ、とういうことは、本当にナッツはジョンに興味があるっていうの?」
 ハムが驚いたように言った。
「興味があるわけじゃないけど・・・・。まあ、憎めないというか」
「憎めないねえ・・・・。あんな男、すぐに馬鹿だってこと気づくと思うけど、ハハハハ」
 ハムは大きな口を開けて笑った。
「じゃあナッツ、ジョンさんに『私はお金持ちの男にしか興味がありません』って言ってみたら? 変な期待を抱かせないためにね」
 ファンが笑いながら言った。
「お金持ちの男にしか興味がないなんて・・・・、あたしは守銭奴じゃありませんから」
「例えばよ、例えば」
「例えばって、呪術師として生きている以上、お金に縁なんかあるわけないじゃない」
「フフフ、ナッツは真面目ね。いい娘だわ――」ハムが言った。「でも、冗談でもジョンにお金を要求するようなこと言わないでね。あの男のことだから、銀行強盗でもするかもしれないから」
「そんなことはないと思いますが・・・・」
 談笑中、ファンがふと中庭に目を向けた。
「あら、まだあの小坊主さんがいる」
 オレンジの袈裟をまとった小坊主が木漏れ日の下のテーブルの席にポツンと座っていた。まだ幼く五歳か六歳ぐらいにしか見えない。
「そうねえ、あの子、朝からずっといるわね」
 ナッツも小坊主の存在に気づいていた。
「誰に連れられてきたのかしら――」ハムが二人に訊ねた。「お坊さんの患者さんいた?」
「いいえ、お坊さんの患者さんは誰もいませんでした」
「じゃあ、どうしてここにいるのかしら」
「さあ、どうしてなんでしょう」
「朝からずっとここにいるんだったら、お腹空いていないかしら。食事をお給仕しようかしら」
「でも、十二時を回っていますよ」
 ナッツが言った。上座部仏教の僧侶は戒律の則った生活をしなければならなく、午後十二時を過ぎたら翌日の朝まで固形物を口にしてはいけない。僧侶の食事は早朝と昼の十二時までの二回、お布施で得たものを食べる。
「じゃあ、ダメだ」
「誰かを待ってるのかもしれませんよ」
「待ってるって、こんなところでねえ・・・・。もうしばらくしたら、どこかへ行くかしら」
     *
 この日の診療は終了した。日は暮れ、外は暗くなっている。最後の患者が診療所から出て行くと、ファンはゲートを閉めようと中庭に出た。まだテーブルにポツンと小坊主が座っていた。ファンは小坊主に近づいた。
「どうしてここにいるのかな? 誰か待ってるの?」
 しゃがみ込んで小坊主と目線を同じ高さにし、やさしく声をかけた。小坊主はチラッとファンと目を合わせたがすぐに目を逸らし素知らぬ顔をした。
「どこのお寺のお坊さんかな?」
 ファンがいくら話しかけても小坊主はまったく反応しない。黒く大きな瞳を中空に向けたままじっとしている。
「困ったわ。――あっ、ナッツ、ナッツ」
 ファンは、診療所から出てきたナッツを呼んだ。
「あら、まだお坊さんいるの?」ナッツがやってきた。
「そう、話しかけてもぜんぜん返事してくれない」
「本当――」今度はナッツが声をかけた。「どこのお寺に住んでるんですか?」
 小坊主は、まるでナッツの声が聞こえていないかのようにまったく反応しなかった。
「どうしましょう――」二人は顔を見合わせた。「きっとお寺の人も心配しているわ。この子、何にも荷物を持っていないようだし」
 そのときジョンが中庭に出てきた。
「あっ、ジョンさん」
 ジョンはナッツの姿を見つけると、嬉々として飛ぶように寄ってきた。
「イヒヒヒ、どうしたんだい、ナッツ」
「この小坊主さんね、朝からずっとここに座ってるの。誰かが迎えにくると思ってたんだけど、結局誰もこないし、話しかけても黙ってる」
 小坊主は大人たちを気にする素振りを見せず、ただじっと座っていた。
「変な坊主だな。――おい、小坊主。どうしてここにいるんだい?」
 今度はジョンが声をかけた。しかし小坊主はジョンに一切目を合わせない。
「おい、小坊主、聞こえているのか。おじさんはお前を心配して話しているんだぞ。なんか答えろよ」
 ジョンが小坊主の背中をポンと手を当てた。すると小坊主は触れられることが不快らしく、目じりが少し険しくなったが声は出さなかった。
「何だい、小坊主。答えろったら」
「ジョンさん、そんな無理強いさせたらダメよ」
 ファンが、強引なジョンを制止させた。
「腹が減ってるんだろうか。なんか喰わせたらどうだ?」
「午後の食事は仏教の戒律で禁止されてるでしょ」
「ああ、そうだ。気の毒だが飯は出せない」
「どうしたの?」
 デーンが診療所から出てきた。
「あっ、デーン先生――」
 ナッツが事情を説明した。
「それは困ったわね――」デーンが小坊主に声をかけた。「どうしたの? お坊さん」
 デーンが声をかけると、今まで無反応だった小坊主はデーンに何かを訴えかけるようにじっと目を見つめた。
「あっ、なんだコイツ、デーン先生にだけ反応した。どういう魂胆だ」ジョンが言った。
「魂胆って、子供になんてこというの、ジョン」
「ワタシの言うことはまったく聞かなかったものですから、イヒヒヒ」
「確かにこの子、どこかちょっと変わったところがあるわねえ」
 デーンはしゃがみ込んで小坊主と目を合わせた。目が合うとなぜだか懐かしい気持ちになり、初めて会ったという気がしなかった。じっと小坊主を観察した。
「あっ、この子、音が聞こえていないわね」
 小坊主の障害に気づいた。
「オシかい。ワタシもそう思いました」ジョンが同調した。
「声も出せないかもしれないわ。声を聞いた?」
「いいえ、全然声を出しません」
「やっぱりね」
「だからずっと何も話さなかったんですね。どうしましょう?」ファンが言った。
「今日は家に泊めてあげましょう。きっと誰かと一緒にこの近辺に来て、はぐれたんだと思うわ。こんな小さな子が一人で寺から出てくることはないでしょうから。しばらく家に預かっていれば誰かが迎えにくるでしょう」
「それもそうですね」
「ほら見て御覧なさい――」デーンが言った。「この子、きれいな眼をしているわ。言葉は発せないけどきっと聡明な子よ。それにすごく崇高な〝気〟を持ってる。きっといい指導僧について修行しているに違いないわ」
「そうですね。普通の子と全然違う気がします」ナッツはデーンの言葉に同意した。「大人に囲まれても動じないで平然としているし、ずっと何も食べていないはずなのに、まったく物欲しそうな顔もしないですし」
「イヒヒヒ、ガキのくせに立派だな」
「お坊さんにガキなんていっちゃだめよ」
「おっと、失礼」
「ジョン、母屋に連れて行ってあげて。僧侶は女性に触れたらいけないという戒律があるでしょ」
「ヘイ、わかりやした。――さあ、小坊主君、こっちだ」
 ジョンが背中に手を当て促すと小坊主はすっと立ち上がった。ジョンには目を合わそうとせず、デーンの表情を見ながら意思を読み取っているようである。
「このガキ、この家のボスがデーン先生であることを知っているようだ。なかなか世慣れている」
「世慣れているのとは違うわ。感受性が鋭いのよ――」デーンは小坊主に声をかけた。「どうぞ、遠慮しなくていいからね」
 小坊主はデーンの声が聞こえているかのようにコクリとうなずき、落ち着いた様子でジョンについて母屋に入った。
「こっちだ、こっちだ――」
 ジョンがリビングに連れて行こうとしたが、小坊主はキッチンに入って腰を下ろした。
「おい、こっちだって言ってるだろ」
 小坊主はジョンがいくら呼んでもキッチンの片隅から動こうとしない。
「この子こんなところで寝るつもり?」キッチンで家事をしていたハムは小坊主の態度に驚いた。「ボク、こんなところよりもベッドで寝たほうがラクよ」
 ハムが何を言っても小坊主は動こうとしなかった。
「ハム、彼の好きなようにさせてあげて」
 デーンが言った。
「この子は寺でよく教育されているんでしょうね――」小坊主の様子を見ていたトンが関心したように言った。「私も少年時代の五年間、出家していたことがありましたから、彼が普段戒律に則った生活をしていることはすぐにわかりますよ。寝室に行かないのは、『やわらかい寝具では寝てはいけない』という戒律を守りたいからでしょう」
「生真面目な子ね」ハムが言った。
「この調子だと、明日は暗いうちに起きそうだ。朝食は早めに出してあげたら喜ぶだろう」
 トンがハムに言った。
「早めって何時ごろ?」
「五時ごろかな」
「五時・・・・、それはあたしの起きる時間よ。それまでに起きて支度しないといけないっていうの。あら大変」
「ハム、そうしてあげて」デーンが言った。
「はい、わかりました。じゃあ、この子の昼ごはんは何時ごろに?」
「寺の戒律では十二時までに食事を終えていないといけないから、遅くとも十一時には食べ始めた方がいい」トンが言った。
「あたしの毎日の生活が変わっちゃうわ」
「それと、いま彼は地べたに寝転んでるけど、床に何か敷きたいはずだから、一枚布を貸してあげたらいい」
 ハムはトンの言葉に従い布を一枚小坊主に渡すと、小坊主はそれを素直に受け取り、床に敷いて横になった。
「あら、もう寝るのかしら」
「僧侶は起きるのも早いが、寝るのも早い」
「じゃあ、キッチンを明るくできないわね」
 ハムは困惑しながら言った。
     *
 翌朝、ハムが朝食の支度をしようと四時過ぎに起きると、小坊主の姿はもうキッチンにはなかった。
「あら、どこに行ったのかしら」
 玄関のドアの鍵がかかっていなかったので外に出ると、小坊主は真っ暗闇の樹の下で結跏趺坐で足を組み瞑想していた。
「トンの言ったとおり、僧侶の規律どおり生活するのね」
 ハムは小坊主の姿を見て感心した。
 五時前に食事を作り終え、小坊主を呼びに外に出た。まだ夜が明けきっておらず辺りは薄暗い。小坊主は瞑想に集中しているようでじっとしていた。話しかけるのが憚られたので何も告げずにただ待つことにした。しばらくすると小坊主は自分から瞑想をやめ、母屋に入ってきた。
 ハムが食事を給仕すると、小坊主は勢いよく食事を始めた。昨晩、何も食べようとしなかったのできっと食が細い子だと思っていたが、予想外に食欲はすさまじかった。山盛りご飯を五杯もお代わりしてまだモノ欲しそうな顔をしている。
「これ以上食べたら他の人の分がなくなるから、もう終わりにしましょうね」
 ハムは身振り手振りを交えて小坊主に説明した。
「ウー」
 小坊主は不満であるらしく、小さく唸り声を上げた。
「あら不機嫌になったわ。このへんはやっぱり子供ね」
 仕方がないのでハムはバナナを渡した。一、二本食べるだけだと思って一房丸ごと渡すと、小坊主はすべてのバナナを手を休めることなく食べてしまった。それでも小坊主は物欲しそうな顔をしている。今度はパンを一斤渡すと、それも瞬く間に全部食べてしまった。
「信じられない食欲・・・・」
 ハムは冷蔵庫を開けて、小坊主にチラリとプリンを見せた。
「デザートにこれ食べる? もう食べれないでしょ?」
 小坊主は席を立ち、冷蔵庫にあった十個のプリンを全部テーブルに運び、瞬くスピードで飲み込むように食べてしまった。
「アラララ・・・・」
 ハムはその獣のような食べ方に呆気にとられた。そこにデーンが起きてきた。
「もう小坊主さんの食事は終わった?」
「デーン先生、ビックリしました――」ハムが目を丸くして言った。「この小坊主さんすごい食欲。みんなの分に買っておいたプリン、すすり込むように一人で全部食べちゃいました」
「よっぽど甘いものが食べたかったのね」
「プリンだけじゃなく、ご飯も山盛り五杯食べたし、バナナも一房でしょ、それにパンも一斤食べて・・・・」
「よっぽどお腹が空いていたのね」
「まだ物欲しそうな顔しています」
「もうそれだけ食べれば十分よ」
 そんな話をしていると、小坊主はデーンに合掌し、外へ出て行った。早朝と同じように樹の下に腰を下ろし瞑想を始めた。
「小坊主さん、本当によく教育されているわね」
 デーンが感心したように言った。
「そうですねえ――」
 ハムはデーンの言葉に相槌を打ちながら小坊主を見つめた。先ほどの野獣のような大喰いぶりと、聖者のように瞑想するギャップに思わずクスクス笑ってしまった。
「何が可笑しいの? ハム」
「よく教育された小坊主さんなんだけど何かユーモラスで――。それよりも、小坊主さんって呼びにくいから何か名前ありませんか?」
「そうねえ・・・・」デーンはしばらく沈黙し、「プリンを十個も食べたんだから〝プリンちゃん〟でいいんじゃないの」
「それはおもしろいですね。プリンみたいに可愛いし、そう呼びましょう」
 デーンとハムは瞑想する小坊主の姿を微笑ましく見つめた。


   十
 キックとアイは山から無事逃げ帰った。以前通り、二人はモダンなコンドミニアムで同棲し、キックは民族学の准教授として教壇に立ち、アイは大学院生として研究を続ける生活である。しかし、アイは山から帰ってきてから大きな問題を抱え込んだ。毎晩金縛りに遭い、幽霊を見る。それは山で遭遇したミイラの幽霊だった。幽霊はアイが寝ている枕元に立ち、虚ろな表情で何やらボソボソと訴えかけてきた。
――とにかく、キックの持ち帰った水晶を処分させないと、あたし、どうかなってしまうわ。
 アイは、幽霊が出る原因は水晶に拠るものだと確信していた。今だに水晶から異常に強い霊気を感じる。山から帰ってきてから、霊力のあることで有名な僧侶にお祓いを受けたがまったく効果がなかった。お祓い以後、キックはアイの相談に正面から向かい合おうせず、ただ言葉を濁すばかりだった。
 キックはこの日も仕事から帰ると、すぐ書斎に閉じこもり、机の引き出しからフィールドワークの戦勝品である水晶を大事そうに取り出して眺めた。美しい輝きだった。非文明的な山岳民族がどうやって水晶を円盤状に加工したのか。真ん中に開いた穴に何の意味があるのか。そもそもこの水晶にはどのような意味があり用途があるのか。そんなことを一人考えていると時が経つのも忘れた。
 キックは水晶の観察に飽きるとパソコンのスイッチを入れ、今度は山で撮影した男性のミイラの画像を眺めた。
――この男はなぜミイラになったのだろう。どのような方法でこんな姿に。なぜ水晶だけをなぜ持っていたのか。ミイラにさせたのは本当にあの半裸の男たちなのだろうか。彼らはいったいどういう系統に属する民族なのか。
 疑問は尽きなかった。キックはできる限り山岳少数民族に関する資料を集め、それを丹念に読み込んだ。しかし、あの男たちと同一と思われる民族は見つからなかった。
――やはり、彼らはまだ公になっていない未開の民族なのかもしれない。しかし、「酒は持ってないのか?」とタイ語で訊ねてきたわけだからタイ語は通じるようだし、都市の酒の味も知っているようだ。文明とまったく未接触というわけではない。次回のフィールドワークで彼らに遭遇したら、どう接しよう。対応を誤ればこの男のようにミイラにさせられるかもしれない。なんと恐ろしいことだ・・・・。フィールドワークの問題はそれだけじゃない。森に精霊が漂っているという問題もある。アイが異常行動を起こしたのには驚かされた。これに対してどのように応じよう。野人の男たちには酒とポルノ雑誌を渡せばいいとして、精霊に対してはどのように・・・・・。
 キックは資料を眺めながら、次回のフィールドワークについても思考を巡らしていた。
 トン、トン、トン――
 書斎のドアがノックされた。
「アイが入ってくる」
 キックはパソコンの画面をすばやくミイラの画像から他の画面に切り換え、水晶を机の中に隠した。
「入るわよ」
 アイがドアを開けた。彼女はしばらくドア口で突っ立ったまま沈黙しキックをじっと見つめた。
「また、水晶を眺めていたのね――」アイは強い口調で言った。「隠しても無駄なの。この部屋に漂う霊気を感じればすぐにわかるんだから」
「突然部屋に入ってきて何を言い出すんだ・・・・。水晶、水晶っていつまでもしつこいなあ。俺は論文を読んでいただけだぜ。で、なんだ? 何か用か?」
「昨晩もよ・・・・。キックは熟睡していてまったく気づいていないだろうけど、幽霊が出たの。金縛りにも遭って本当に怖かった・・・・。全然寝られない」
 アイの目の下にはうっすら隈ができており、寝不足であることは明らかだった。
「なんだろうね。お祓いもしたのにね」
 キックは無感情な口調で言った。どうしても水晶を手放したくなかったので、水晶について話したくなかった。
「どうして真剣に聞いてくれないの」
「聞いてるよ」
「水晶の霊気は異常に強いの。お祓いしただけで浄化なんかするもんじゃない。お願いだから手放して!」
 アイはいまにも泣き出しそうな表情で訴えた。
「水晶が霊気を持つか知らないけど、アイの見る幽霊と水晶に本当に関連性があるかわからないじゃないか。幽霊とは無関係かもしれないぜ」
「無関係じゃないわ、絶対! ミイラの服装そのまま、目の前に現れるんだから。お願い、水晶を手放して!」
 アイは懇願するように声を張って言った。興奮して思わず涙がこぼれた。
「アイ、落ち着け、泣くなよ。だからいつも言ってるだろ。幽霊が出たらすぐに俺を起こしてくれって。俺がそんな幽霊追っ払ってやるからさ」
「そんな簡単に幽霊を追い払えるんだったらそうしているわ。ミイラの霊力はキックが追い払えるほど生やさしいものじゃないの。彼はこの世に心残りがあって強く訴えたいことがあるのよ」
「ミイラは具体的に何を言ってるんだっけ?」
「断片的にしか聞き取れないから、よくわからないわ」
「じゃあ、断片的に何を言ってるんだ?」
「『ダイマジン』とか『ゲンタロウ』とか『シンリョウジョ』とか、大体そんなこと。全然意味がわからない」
「ダイマジン、ゲンタロウ、シンリョウジョ――、何だろうね、それらの単語は。どう解釈したらいいんだろう」
 キックは研究データーの一つとして、それらの単語をメモに書き記した。
「これだけでは何もわからないなあ・・・・。一つ感じることは、ミイラになった男性が山に入った理由は、単なる山登りとか、自殺とか、そんなことではなさそうだ。深い理由がありそうだね」
 キックは幽霊にも興味が湧いてきた。
――幽霊と対話できれば、呪術の秘密を聞き出せるかもしれない。是非会ってみたい。
「アイ、何時ごろ幽霊が出るんだ。俺も立ち会いたい」
「えっ、立ち会うって何を言い出すの。やめて、罰当たりなことを考えるのは」
「じゃあ、アイはどうしたいんだ?」
「この前お祓いを受けた僧侶じゃなく、もっと霊力の強い霊媒師――、そういう人を探して、霊を鎮めて欲しい。そういう人がどこかにいるはずだから」
「どこにいるんだ、そんな人?」
「あたしもそんなことわからないわよ。それができないんだったら、水晶をすぐに手放して。もうあたしは気が狂いそう、ああっ――」
 アイは狂ったように長い髪をかきむしりながら言った。
「アイ、落ち着け――」キックはアイを背中をさすってなだめた。「もしかしたら、アイ、お前はミイラの幽霊が原因で心が乱れているんじゃないかもしれないぞ」
「どういうこと?」
「山でも霊に憑かれただろ。俺を蹴り飛ばして一人で走り出して」
「ええ」
「あれが遠因となって神経症にかかったのかもしれない。一度、精神科できちんと脳を検査してもらったらどうだろう?」
「えっ、脳の検査? あたしを精神病扱いするの? ひどい、そんなふうに考えていたの」
「いや、アイの人格を否定するわけじゃないんだ。客観的に考察して、一番いい治療を考えているんだ」
「もうイヤ! キックは自分の研究のことばかり優先させて、あたしのことを全然大切に考えてくれない。貴方はあたしに本当に愛があるの! ウウウッ」
 アイは顔を両手で押さえて泣きじゃくった。
「おい、アイ、ヒステリックにならないでくれよ。だから言ってるだろ。お前は尋常な精神状態じゃないんだって。薬を飲めば楽になるかもしれない。大人しく近代的な医療を受けようぜ」
 キックはアイの体を抱き寄せて言った。
「貴方となんか話したくない!」
 アイはキックをドンと突き放し、部屋から出て行った。
「女ってやつはどうしていつも感情的なんだ。参ったな・・・・」
 キックは部屋に一人ポツンと棒立ちになり、フーッと深く息をついた。
     *
 その日の晩、
「ケーッ、カーッ、キーッ――」
 キックはアイの金切り声で突然起こされた。アイは白目をむき出しにして大声で喚いていた。
「アイ、どうしたんだ? アイ?」
 アイはキックに目を向けようとせず寝室をうろつき回っている。
「アイ、アイ」
 アイは走り出し、壁に思い切り体をぶつけて床に転倒した。
「アイ! 大丈夫か」
 キックはアイを介抱しようとしたが、アイはキックを手で払いのけた。キックの存在をまったく気にとめようとせず、スクっと一人で立ち上がり、また部屋を歩き回って壁に頭をぶつけた。
「アイ、怪我するだろ。アイ」
 今晩のアイは異常行動は度を逸していた。
――ミイラの幽霊の仕業だ。
 キックは、手に負えない大変な事態になったと思った。
――これは参ったぞ。このままにしておくとアイは本当に気が狂ってしまう。やっぱりアイの忠告どおり、大人しく水晶を処分しておくべきだったか・・・・。
 キックはお寺からもらったお札やら仏像を手当たり次第アイにかざした。しかし、なんの効果もなかくアイは喚きつづけた。キックは混乱した。どうすればいいのか、しかもこんな夜中に・・・・。
 キックは冷静になることに努め、アイに憑いた霊に真摯に話しかけた。
「あなたは山の中でミイラになっていた男性ですね」
 アイはそんなキックの問いかけに何ら反応することなく、爪を立て壁をかきむしっている。キックはアイの細い両腕を強く握り締め、暴力を受けないよう防御しながら必死で訴えた。
「そんなに暴れてもらったら困るんです。どうか私の質問に答えてください」
「あ、あ、あ、ダ、ダ、イ、マジンに、や、られた」
「ん? ダイマジン?」
 キックは幽霊の言葉を聞き取れた気がした。
――そういえば、アイが言っていたぞ。『ダイマジン』と。『大魔神に、やられた』ということか」
 質問をつづけた。
「大魔神とは何者なんでしょうか?」
 アイは髪をかきむしりながら苦しそうに体をねじった。
「あ、あ、あ、にげ、きれ、なかった」
「えっ、何ですって? 意味がわかりません」
 キックは必死で幽霊の言葉に耳を傾けた。言葉がはっきりせず、しかも話が支離滅裂である。それでもキックは根気よく霊に話しかけた。
「あなたはどうしたいんですか?」
「ファミリーにあ、あ、いたい。シンリョウジョ・・・・」
 的を得た答えが帰ってきたように思えた。
「ファミリーに会いたい? シンリョウジョってなんですか? 人の名前ですか? どうすればいいんですか?」
「デントウ、イガク、シンリョウジョ。ファミリーに、シショウに・・・」
「テントウ、イガク、診療所? 天道医学診療所? ですか」
「デントウイガク・・・・」
 そこまで話すと、アイは力尽きるように意識を失った。
「何ですか? 何ですって?」
 キックがいくらアイの体を揺すっても、彼女は意識を取り戻さなかった。
「アイ、しっかりするんだ。アイ――」
 アイを介抱しているうちに、いつしか東の空は白々と明るくなりかけていた。何を言ってもアイから返事が返ってこない。
「霊が離れない、困ったぞ。早く追い祓わないと、アイがどうかなってしまう。どうすればいいんだ・・・・。さっき、幽霊が言っていたのは、デントウイガクシンリョウジョ、ん!? もしかして『伝統医学診療所』なのか? そこへ行けばいいのか? ――いや、まず、病院に行って、脳の状態の精密検査をさせたほうがいい。胡散臭いところへ行ってコジらせたら大変だ。まずは科学的な検査が必要だ」
 キックは意識を失ったアイを肩に担ぎ上げ、精神病院の緊急治療センターに車を走らせた。
「脳に損傷がなければいいのだが」
 その日、アイは検査を受けたが、なんら異常は発見されなかった。しかし正常な意識が戻らず、そのまま精神病棟で入院することになった。


   十一
「デーン先生、氷を持ってきました」
 ナッツはデーンの寝室に袋いっぱいの氷を持って入った。
「ありがとう、お手数かけるわね。しばらくしたらまたお願いね」
 デーンは袋の氷を受け取ると、それを胸に当ててベッドに苦しそうに横になった。
「体はまだ冷めそうにないですか?」
 ナッツはベッドの傍らに立ち、心配そうに訊ねた。
「簡単には冷めそうにないわね。とにかく体が熱いわ。――でも、心配しないで。決して病気じゃないの。どういったらいいのか・・・・、呪力が活性化してるって感じ」
「呪力が活性化ですか・・・・。何も召し上がらなくて大丈夫ですか?」
「何も食べたくないわね」
「朝から何も口に入れてらっしゃらないでしょ。少しでも何か食べたほうがいいと思いますが」
「大丈夫。食べればいいかどうかぐらい自分でわかるから。わたしは呪医よ」
「それならいいんですが・・・・」
「二、三日静かにしていれば回復すると思うわ」
「そうですか。それならいいんですが。――それじゃあ、失礼します」
 ナッツはデーンの部屋から出た。
 診療所が再開院して半月、デーンの体の突然の不調で再び診療所は休業となった。あらゆる病気を治すウペウ呪術師のデーンがが不調になることは初めてのことだった。
 ジョンはナッツが階段を下りてくるところを待っていた。
「イヒヒヒ、どうだった、ナッツ? デーン先生の調子は?」
「先生は大丈夫だっておっしゃっているけど何だか辛そうだわ。二、三日休業するってことだけど長引きそうな気がする」
「デーン先生が病気になるなんておかしなことだよなあ」
「あんなに元気だったデーン先生が、どうして突然調子が崩してしまったんだろう。デーン先生が元気じゃないと、あたしも元気が出ないわ」
 ナッツがしょんぼりした調子で言った。
「イヒヒヒ、ナッツ、そんなに心配するなよ。デーン先生は大丈夫って自分で言ってるんだろ。だったら大丈夫さ。デーン先生はエラいんだからそんな症状自分で治せるさ。なんてったって先生は治療のプロだぜ、イヒヒヒ」
「それりゃ、そうだけど」
「だったら、そんなに不安そうな顔するなよ。お前のかわいさが半減するだろ、イヒヒヒ」
 ジョンは至近距離にナッツに近づき、彼女の両肩に手をおいた。
「近い、近い、ジョンさん・・・・」
 ナッツはジョンの胸を押して、二、三歩後ろに退いた。
「呪術師ってやつは不滅なんだ――」ジョンは急に真剣な表情をつくろった。「オレはタム師匠から頻繁にそう聞いてきた」
「呪術師は不滅・・・・、タム師匠から?」
「オレはタム師匠にとくに可愛がられていたんだ。だから師匠から特別いろんな〝呪術師の秘密〟を教わっていた。なんでもオレには優れた呪術師の才能があるらしく、ずいぶん期待をかけてくださっていたみたいだから、イヒヒヒ」
「で、不滅ってどういうこと?」
「呪術師は人間と違って崇高な生命体なんだ。正しく生きている呪術師はそう簡単にくたばったりはしない。なんでも根っこが永遠とつながっているようだから。ナッツはなんにも心配することなんかないぜ」
「はい」
「それと一つだけ忠告させてくれ。先輩の呪術師としてな。いくら不安であっても、それを表に出すことはあまりよろしくない。他の者に不安を伝染させてしまうからな。それがどんなに深い悲しみであったとしてもだ。『成るように成る。成るようにしか成らない』。呪術師は己の運命を受け入れて生きるんだ。いかなる危機的状況でも笑って立ち向かうんだ。それが呪術師ってもんだ、イヒヒヒ」
「ジョンさんはいいことを言うわ。頼もしい」
 ナッツは目を潤わせてジョンの話を聞き入った。彼女の表情を見て興奮を覚えたジョンは、思わずナッツの手をギュッと握り締めた。
「困ったことや悩みごとがあったら何でもオレに言ってくれ。オレができることなら何でもする。遠慮はするな。オレはナッツのためなら命をかけても守る自信がある」
 ナッツはジョンの言葉に含羞んでうつむいた。
「――ナッツ、ナッツ、どこにいるの」
 ハムの呼ぶ声がした。
「はい」
 ナッツはジョンの手をパッと振りほどいた。
「ハムさんが呼んでるから行くね」
「オレも行く」
 ジョンはナッツに寛容な笑みを見せたが、心の中でハムを呪っていた。
――ハムの奴め。せっかく二人の感情が熱く燃え上がったっていうのに無神経に水をさしやがる。
 ナッツとジョンはハムのいるキッチンへ行った。
「デーン先生、どうだった?」ハムはナッツに訊ねた。
「辛そうにしてました」
「熱いって?」
「氷を抱いていてもすぐに溶けてしまうみたいです」
「よっぽど熱いのね」
 トンとファンもキッチンにやってきた。
「しかし、体が熱いって、どいういうことだろう」トンが言った。
「呪力が活性化しているともおっしゃってました」
「呪力が活性化か・・・・。俺たちには理解できないなあ」
「しかし、いつまで診療所は休業するんだろう。先生が働かいてくれないと、オレたちは喰いっぱぐれちまうぜ」ジョンが言った。
「ジョンはデーン先生に対する慈しみの気持ちがないの? 自分の食い扶ちのことばかり気にして」
 ハムはあきれたように言った。
「慈しみ? オレにだって慈しみの気持ちはあるさ。お前よりも大きなやつがな。オレが言いたいことはだな、現実問題として先生が働かなかったら、オレたちの役目は何もないってことを言ってるんだ」
「そうだとしてもよ、みんなは先生の体のことを心配しているの。ジョンの言葉になにか不遜なものを感じる」
「ケッ、何を言ってやがる」
 彼らが話しているところへ、小坊主のプリンがスッとキッチンに無言で入ってきた。
「あら、もう十一時――」ハムが時計を見た。「プリンちゃんのご飯の時間だ」
 ハムがすぐに食事を用意すると、プリンはひとり床に座ってご飯をモリモリと食べ始めた。それをジョンは横目で眺めて言った。
「このガキ、オレたちが深刻な話しをしてるっていうのにまったく悠長なものだ」
「ジョンさん、プリンちゃんをイジめないでください。プリンちゃんはファミリーじゃなく部外者なんだから」
 ファンがプリンを擁護した。
「いいんだよ、何を言ったって聞こえていないんだし」
「聞こえていないって、何でも言えばいいってものでもないでしょ。ジョンは性格が悪い。――あら、もうお代わり? 食べるのが早いわ」 
 ハムがプリンから空になった皿を受け取った。
「でも、プリンちゃん、食べすぎよ――」ナッツがプリンの食欲を心配するように言った。「少し制限したほうがいいんじゃないかしら」
「まだまだ食べるわよ。我われ大人全員の分より、この子一人分の方が多いからね。山盛りご飯を十杯は食べる」
 ハムが言った。トンはプリンの傍らにしゃがみこみ、身振りを交えて注意した。
「腹いっぱい食べたらダメだぞ。腹八分目に食べるんだ。僧侶が欲張ったらいけないだろ」
 プリンはそんなトンの注意を気にかけるそぶりも見せず、かきこむように食べつづけている。
「いくら食べてもお腹を壊すわけじゃないからいいんじゃないの。育ち盛りなんだし」ハムが言った。
「ハムはガキを甘やかす。育ち盛りかなんか知らないが、こいつは朝起きてからすることっていったら、飯喰うか、樹の下で座っているかだろ。何にも手伝いをしないで、それで大人の十倍食べる。やっぱり頭がおかしいぜ――」ジョンはプリンにヌッと顔を近づけて言った。「おい、小坊主、そんなに食べたらバカになるぜ」
 プリンはジョンに目を合わせようとしないで平然と食べつづけている。
「たいしたタマだ」
 ジョンが呆れたように言った。
「プリンちゃん、お寺でもこの調子なのかしら――」ナッツが言った。「少しは勉強もしないといけないと思って、この前、算数の参考書を買ってあげたんだけど、ぜんぜん見る様子がないし」
「でも、こいつ、身なりは小奇麗にしてるな」
「袈裟が一着しかないから、もう一着買ってあげたの。自分で洗いながら交互に着ているわ。袈裟以外の服には見向きもしない」ファンが言った。
「僧侶としては立派だな」トンが笑いながら言った。
「おいおい、お前さん――」ジョンはまたプリンに顔を近づけて言った。「瞑想することは坊さんの世界では立派なことかもしれないが、娑婆では立派なことでもなんでもないんだぞ。そんな時間があるんならゴミ拾いでもして小銭を稼いだほうが立派なことなんだ。娑婆ってやつはな、金がないと生きていけないんだ。だから、ちっとは机に向かって算数でも勉強するんだ。計算ができないと、金儲けもギャンブルもできないからな、イヒヒヒ」
 プリンは相変わらずジョンの話を聞こうという態度を一切見せない。
「このガキは可愛げがないなあ」
「そんなこと言うジョンさんはどうなの? 娑婆では金がないと生きていけないって言うけど、ジョンさん自身は愛する人を養っていく貯えはあるの?」
 ファンがジョンを試すように言った。
「う、う・・・・」
 ジョンは一瞬口ごっもった。
「大の男が無一文なんだから、女性を幸せになんかできないわね」
 ハムもたたみかけるように言葉を被せた。ジョンはちらっとナッツを見た。
「オレにだって当然、ある程度の貯えはあるさ。呪術師になる前、ビジネスで成功して結構稼いでいたからな、ヒヒヒヒ」
「ジョン、無理しなくたっていいのよ。あなたに貯金があるなんて誰も信じてないから」
「呪術師は見かけによらないんだ。オレも呪術師に成ってからは、師匠の教えに従って金にガツガツしなくなったけど、人間のときは忙しかったものだ。だから今も金がないわけではない、イヒヒヒ」
「あら、そんなこと聞くの初耳だわ」
「オレの金のことなんかどうでもいいんだ、プリンのことだ。オレは呪術師だから金に無頓着でいいけど、プリンはそういうわけにはいかないだろ。坊さんとはいえ人間だ。足し算と引き算ぐらいできないと娑婆では生きにくいぜ。――プリン、だからお前は食べてばかりいないで、ナッツお姉ちゃんが買ってきてくれた本を読んで大人しく勉強するんだ」
 ジョンは、プリンがハムに差し出したお代わりの皿を取り上げた。
「さあ、昼飯は終わりだ。もう十分栄養は取っただろ。坊主は欲望に打ち勝って、強い意志を修養しなければいけない、イヒヒヒ」
「ウー」
 プリンは呻き声をあげた。
「イヒヒヒ、なんだい、小坊主怒ってるぜ。飯のことになると冷静でいられないようだな。――プリン君、世間って奴はな、何でも君の思い通りはいかないものだよ、フハハハ」
「ジョン、意地悪はやめなさいよ」ハムが言った。
「オレ流の教育だ」
 ジョンがハムの方へ目を向けた瞬間、プリンはジョンの皿を持っている毛むくじゃらの腕に咬みついた。
「痛テテテ」
 プリンはジョンの手から皿を奪い取ると、それをハムに差し出した。
「このガキ、大人がやさしい顔をしていると思ってナメたことしやがる」
 ジョンはプリンを捕まえて殴りつけてやろうと思った。襟首をつかもうとすると、プリンは忍者のような敏捷な動きで身をかわした。
「なんだコイツ、普段座っているだけのくせに身のこなしが軽ろやかだぞ。イヒヒヒ、だか相手が悪い、こっちは韋駄天ジョンさんだ。ナメんなよ」
 ジョンはプリンをつかまえようと追いかけた。
「やめなさいよ、大人気ない」
 ハムがジョンを制止させた。
「ハム、止めるな。こいつは咬みついたんだぜ。悪いことをしたら罰を与えるのが教育だ。そうしないとガキはどこまでもつけあがる」
「何が教育よ。教育されないといけないのは、あなたの方でしょ」
 そのときデーンがゆっくり二階から降りてきてキッチンに入ってきた。
「――バタバタしてどうしたの」
「あっ、デーン先生、お騒がせしました、イヒヒヒ」
 ジョンはデーンの姿を見ると、苛立った感情を抑えて落ち着いた素振りをつくろった。
「アウウ・・・・」
 プリンはデーンの脚にしがみつき、うめき声を出して何かを訴えかけた。
「どうしたのプリンちゃん。あら、この子怯えているじゃない。なんかあったの?」
「ジョンがイジめたんです」ハムが言った。
「そんな言い方はないだろ」
「決してジョンさんだけが悪いわけじゃないんです。プリンちゃんも大人のいうことを聞かなかったものですから」
 ナッツがジョンをフォローした。
「プリンちゃんの好きなようにさせてあげて。この子に悪気はないんだから――」デーンはプリンを擁護し、すぐに話を変えた。「氷ある? もう全部溶けきってしまって熱くて苦しいわ」
「すみません、遅れました」
 ナッツがテキパキと氷を用意した。 
「はい、プリンちゃん――」ハムはプリンのお代わりの皿にご飯を盛って渡した。「たくさん食べなさいね」
 プリンはそれを受け取ると、周りを気にかける様子もなく黙々と食べ出した。ジョンはプリンを横目で睨みつけた。
「このガキ、ひねくれているくせに、デーン先生の前だけはうまく媚びてかわいがられようとしやがる。まったく小賢しいやつだ」
 ジョンはプリンに咬まれた腕を押さえながらブツブツと愚痴をこぼした。


   十二
 アイが精神科に入院して一週間が経った。ミイラの幽霊に憑かれたアイはまだ正常な意識が戻っていない。
 キックは幽霊の語った『伝統医学診療所』についてさまざまな方面から情報を集めていた。そういった診療所は全国各地に数多く存在しており、幽霊の語っていたのものがどれなのか見当がつかなかった。一つ気になったのは、チェンマイ市内にある『伝統医学診療所』だった。この診療所は難病奇病を治すことで有名で、多くの人から高評価を受けている。なにぶんインターネット情報なのでどれほど信用できるものかわからないが、チェンマイ市内ということで近場でもあるし、幽霊に関する情報が得られなくともアイの治療に何か一役買ってもらえそうである。
 ある日の朝、キックは入院部屋からアイを連れ出し、診療所へ車を走らせた。
――診療所でどのように説明すべきだろう?
 キックは運転しながら考えた。
――山奥で男性のミイラを見つけたという旨を唐突に切り出しても、何のことだかさっぱりわかってもらえないだろう。相手が〝霊〟について何らかの理解があることを予め確かめてから話すべきだな。やはり最初は、悪霊に憑かれた彼女を治療して欲しいと説明しよう。アイの治療ができるような人ならミイラの霊についても何か知っている可能性が高い。
 そんことを考えながら運転していると、車はチェンマイ市内に入り診療所に到着した。車を路上に停車させ、アイを肩に抱え上げ、診療所のゲートに手をかけた。
「あっ・・・・」
 ゲートには鍵が掛けられ、張り紙が張られていた。
『主治医の体調不良のため、しばらく休業します』
「なんと間が悪い・・・・」
 キックは諦めきれず、ゲートのインターフォンのボタンを鳴らした。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン――
「なんだよ、うるせェーな」
 母屋でひとり留守番をしていたジョンが呟いた。今日診療所はデーンとジョンを残し、ファミリーは全員買出しに出かけていた。デーンは療養中なので、ジョンが来客者の応対をしなければならない。
「はい、何ですかァ」
 ジョンは家の扉を半開きに開け、顔だけ出して返事をした。キックはゲート越しに用件を告げた。
「すみません、重病の患者なんです。お願いです。どうか少しだけでも診ていただけないでしょうか」
「そこに張り紙が張ってあるでしょ。あんた文字が読めないの? 先生ね、いま病気なんだよ。治療はできないよ。さっさと帰ってくれ」
 ジョンはにべもなく断った。
「いや、そうおっしゃらずに少し診ていただけませんか。私の大切な彼女が悪霊に憑かれて一週間も正常な意識が戻らないんです」
「悪霊? ヘェー、そいつは珍しいね」
 普段診療所に訪れる人は”〝肉体的な病気〟の患者で、〝悪霊に憑かれた〟と申し出る者はなかなかいない。ジョンは珍客に興味を持ち、玄関から出てゲートの前まで歩み寄った。ゲートの前に立っている男性は、グッタリとした美しい女性を肩に抱え、切羽詰った表情をしていた。
「イヒヒヒ、おお、大変そうだ。でもなあ、こっちの先生も体調が悪くて大変なんだよ」
「そうなんですか・・・・。この診療所は奇病を治すということで有名だと聞いたので飛んできたんですが・・・・」
「確かにそのとおり。ここは、重病でも奇病でも風邪でも下痢でも擦り傷でもなんでも治すよ。先生はスゴイんだから、治せない病気はないといってもいい、イヒヒヒ」
「そんなスゴイ先生なんですか」
「ああ、身近に先生と接しているから、余計に先生のスゴさがわかるよ」
「いやあ、それは残念です・・・・」
「でも、彼女が悪霊に憑かれたってどういうことだ? そのことをもう少し詳しく教えてくれよ」
「信じていただけないと思いますが・・・・」キックは悪霊に憑かれた経緯をたどたどしく説明した。「山奥を散策していたときのことなんです。そこでミイラを見つけて・・・・」
「ミイラ?」
「それ日以来、彼女は毎晩そのミイラの幽霊を見るようになりまして・・・・」
 唐突な話の展開にジョンは思わず笑ってしまった。
「イヒヒヒ、ミイラの幽霊ね」
「彼女はある晩、その幽霊にとり憑かれて発狂したようになって意識を失いました。意識を失ってから一週間が経ちます」
「イヒヒヒ、オレにはよく理解できないが、まあ、とにかく珍しいケースだ。そいつは面白い。ちょっと待っててくれ。診療所のトップの先生に相談してみよう」
「ありがとうございます」
 ジョンはデーンの様子を見に行った。
「イヒヒヒ、失礼します・・・・」
 デーンの部屋を小さくノックし、部屋のドアを静かに開けると、部屋にはムッとする熱気が充満し、デーンは苦しそうにベッドに伏していた。一瞥しただけで診断できる状態でないことがわかった。
――こりゃ、ダメだ。
 ジョンはそっとドアを閉め、中庭に戻ってゲートの前のキックに告げた。
「兄ちゃん、残念だがダメだ。先生はいま診察できるような状態じゃない。お経を唱えるなり、塩をまくなり、ニンニクをすりつけるなりして、自分でお祓いしてくれ。じゃあな、イヒヒヒ」
 ジョンはクルリと踵を返し背を向けた。
「いやあ、そんなことおっしゃらずに、一目だけでも診ていただけませんか」
「ダメなものはダメだ。諦めてくれ、イヒヒヒ」
 ジョンが母屋に入ろうとしたとき、キックは叫ぶように言った。
「待ってください。診ていただけたなら謝礼はいくらでもお支払いします。どうかお願いします」
「謝礼をいくらでも・・・・」
 ジョンはその言葉にビクリと反応し、キックの方を振り返った。
――この男の懐具合はどんなもんなんだ?
 道路の向かい側に停車されていた車が目に入った。ドイツ製の高級車だった。
――ムッ、こやつ、金持ちの坊ちゃんだな。
「イヒヒヒ、困りましたなあ。いくらでもって言われてましてもねえ・・・・」ジョンの言葉遣いは丁寧になった。「ええっと、まあ、お金なんて問題じゃないんです。ワタクシどもはお金なんてものはどうだっていいんです。いま問題なのは、治療する先生があいにく重病だということで・・・・」
「やっぱりダメなんですね・・・・。じゃあ、諦めます」
 キックは車に戻ろうとした。
「まだ、話の途中だ――」ジョンはキックを呼び止めた「でね、病気を治療するのは、この診療所のトップである治療家の先生なんですが――、ずっと黙っていましたが、霊病の患者さんは、実はナンバーツーである霊媒師のワタシが治療するんです、イヒヒヒ」
「えっ、あなたは霊媒師なんですか?」
 キックは、突然自ら〝霊媒師〟と名のったジョンを疑心暗鬼な目で見つめた。
「イヒヒヒ、あんまり言いたくなかったんですよ。ワタシは有名になるのがイヤだから、実際に治療する患者さん以外には、自分が霊媒師ということを一切隠しているんです」
「そうなんですか。でも・・・・」
「ワタシが霊媒師であることを疑っているんですか」
「そういうわけではありませんが・・・・」
「ワタシは長年山に篭り、厳しい修行を積みました。強力な神霊がワタシに舞い降りて霊力が宿ってからというもの、ワタシの目には、この世もあの世も霊もヘチマも同じくらいはっきり見えるんですよ、イヒヒヒ」
 ジョンは目を細め、おどろおどろしくゆっくりした語調で言った。
「は、はい・・・・」
 キックはジョンの態度に胡散臭さを感じたが、今はどうしようもない困った状況だけに彼の話に耳を傾けた。
「診療所を閉めているのはね、何度も言うように、トップの治療家の先生が病気だからなんです。この診療所はその方のものですしね。でも、霊病の患者さんの相談ならワタシが診てあげられます」
「そのことを最初からどうして言ってくださらなかったんですか」
「この診療所の方針でいま患者さんを入れてはいけないことになっている。絶対にね。でも、それはあくまでも方針ってことでね、例外がないわけではない」
「じゃあ、お願いできますでしょうか・・・・」
「絶対、絶対にだよ、ワタシが診たということを誰にも口にしないって約束できますか? あなただけ、本当に特別なんだから」
「はい、もちろん約束します」
「仕方がない。診てあげましょう」
「本当ですか?」
「困っている人を見ると、つい情が湧いてしまうのがワタシの悪いところ。彼女に憑いている霊は性質の悪い強烈な奴だしね」
「見えるんですか?」
「ああ、もちろんはっきり見えるよ。このまま放っておいたら命が危ないね。病院に行っても全然よくならないだろ?」
「ええ」
「立ち話もなんだから、さあ、中に入って。ゆっくり話を聞こうじゃないか。さあ」
「はい、どうも――」
 ジョンはキックを診療所に招き入れ、診察室に通した。誰もいない診療室はシンと静まっていた。
「彼女をベッドに寝かして、――そうそう。あなたは椅子に座って」
 ジョンは仰向けに寝そべるアイを見つめた。
「強力な悪霊だね。いやあ、霊のやつ、まったく根性が座ってるよ、イヒヒヒ」
「と、言いますと?」
「すごいのが憑いているんだ。よくぞ、ここに連れてきた。君は運がいい。ヒマラヤの聖者のところへ行こうが、チベットの僧侶のところへ行こうが、ナサの宇宙基地へ行こうが、ワタシ以外のどこへ行っても彼女は治らなかっただろう。君がここに来たことはなんと幸運なことなのか、イヒヒヒ」
「実はインターネットで調べたんです。この診療所で難病が治ったという書き込みをたくさん見つけまして」
「ほほお、最近はそんなところで噂が広がっているんだね」
「それで、彼女にどういった治療をしていただけるんでしょうか」
「治療の前に、幽霊のことをもう少し聞きたい。君の話だと、山奥でミイラに会って、それから毎晩幽霊を見るようになったとのことだが、そのことをもう少し詳しく教えてくれないかな」
「ええ。でも、信じてもらえるかどうか・・・・」
「ワタシはあらゆる不思議なことは何でも経験済みだ。何にも驚かないよ。正直に話してくれ、イヒヒヒ」
「実は私、宗教学と民族学の学者なんです」
「学者さんね。で?」
「山奥へ行ったのは、未開民族の研究のためだったんです。世間と隔絶された僻地に不思議な村があるのを衛星地図で見つけたのでそれの調査のために。彼女と山をキャンプしながらその未開の村へ向かって歩いていると、原始林の広がるジャングルに入りました。多分そこは未開民族の聖地だったのでしょう」
「聖地ねえ」
「実は彼女は非常に強い霊感を持っていまして、その地に足を踏み入れて間もなく、精神が混乱し出しました。彼女の症状はひどく、調査は断念することにしました」
「そこから引き返したのか?」
「ええ、そこから引き返し森の中を歩いていると、彼女は強い霊気を感じました。霊気の出どころを調べてみると、樹の下にミイラが転がっていたのです。私は学者という仕事柄、そのミイラを徹底調査しました」
「奇特な人だな、イヒヒヒ」
「ミイラは男性のミイラでした。所有品は何もありませんでしたが、ズボンの中から水晶が出てきました」
「ミイラの水晶なのかね、イヒヒヒ」
「その水晶を持ち帰ってからというもの、彼女が毎晩幽霊を見るようになりました。彼女が言うにはその水晶から強い霊気が漂っているようなのです。彼女は水晶を処分してくれと何度も訴えてきましたが、私は研究のため水晶を手放しませんでした」
「その水晶に宿っていた霊が彼女に入り込んだというわけだね」
「はい、そうなんです」
「霊が入ってから意識がなくなったんだね」
「最初、霊は彼女の体を借りていろいろ話してきました。いかんせん、話が支離滅裂でよくわかりませんでしたが・・・・」
「幽霊と対話したのか?」
「ええ、対話というほど詳しく話はできませんでしたが・・・・」
「その幽霊がなんと言ってきたんだね」
「幽霊は断片的に、『伝統医学診療所に行きたい』と言ったんです」
「おお、ここのことだね」
「先ほどはネットで調べたといいましたが、幽霊が『伝統医学診療所』とキーワードを出したので、それを検索してここにたどり着きました」
「イヒヒヒ、そいつは奇遇だ。で、ほかに幽霊殿はどんなことを言ったんだね?」
「意味がわかりませんが、『ダイマジン』とか『ゲンタロウ』とか、そんなことを言っていました。なんのことやら・・・・。なにかお心あたりは?」
「『ダイマジン』『ゲンタロウ』ねえ、何の戯言だろう、イヒヒヒ・・・・。ん?! 『大魔神』『弦太郎』。ゲッ! なんだお前! そいつは大変だ!」
 ジョンは、椅子からひっくり返りそうになった。
「先生、どうしたんですか。何かお心当たりでも?」
「お心当たりも何も・・・・。いやあ!」ジョンは声を大きくして椅子から立ち上がった。「で、他には何を言ってたんだ?」
「ダイマジンにやられた、と」
「ダイマジンにやられた? 『大魔神にやられた』。やっぱり、あの大魔神だ――」ジョンはいっそう声が大きくなった。「そいつは大変だ! 一体、君はどこでミイラを見たんだ?」
「僻地の山奥です」
「だから僻地の山奥ってどこだ?」
「ここです――」
 キックはスマートフォンの地図を出して場所を示した。ジョンはそれを見て絶句した。
――これは、まさに大魔神の領土辺りだ! こいつ、あんなところへ行ったのか・・・・。
「さっきミイラと言ってただろ? どんなミイラだったんだ?」
 ジョンは目を血走らして追求した。
――もしかして親分のミイラなのか・・・・。
「ミイラの画像があります。これです――」
 キックは山で撮ったミイラの画像を見せた。
「この黒くなっているのがミイラってわけか。ウヒャ、気持ち悪い」
 ジョンはゴクリと唾を飲み込み凝視した。
「あっ!」
 思わず声が出た。
――この服はサム兄さんのものだぞ。親分のじゃない。診療所を出発するときに着ていた服だ。そうか、サム兄さんは大魔神に殺されてしまったんだ・・・・。おい、おい、大変なことが判明したぞ。
 ジョンはスマートフォンを持つ手がプルプルと震えた。
「先ほどから興奮されていますが、どういったことが判ったんですか?」
「確かに幽霊は『大魔神』と言ったんだな」
「はい。それともう一つの証拠品である――」サムは水晶をポケットから出した。「水晶はこれです」
「これか・・・・。きれいな水晶だ」
 ジョンは水晶を手に取り、いつになく真剣な目で見つめた。
――こいつはビッグニュースだ。すぐにデーン先生に報告しないといけないぞ。大魔神がサム兄さんをこんな姿にしたんだ。この水晶の美しい透明感、いかにもレラ呪術師らしい。穴があるというのも、すべてを通り抜けられるというレラ呪術師の呪術を象徴している。いやあ、すごいことになった。ということは、サム兄さんの霊はこの女性に憑いて診療所に帰ってきたってわけだな。幽霊になっても、どうしても訴えたいことがあったんだ。これを解決できるのはデーン先生しかいないぞ。でも、いまデーン先生にこんなニュースを報告したら、もっと体を悪くしてしまうかもしれない。だが、隠しておくべきことではないし・・・・。
「ちょっと、学者さん――、あっ、名前を聞いてなかった」
「キックと申します。先生のお名前は?」
「ワタシはジョンだ。いやいや、いま悠長に自己紹介なんかしている場合ではない。とにかくキックさん、ちょっと待っていてくれ。この水晶をちょっとその筋の専門家にいま見せてくるから。すぐ戻る。これはもしかしたら、今世紀最大の霊がこもっているかもしれないぜ」
「水晶の専門家が今いらっしゃるんですか」
「ああ、とにかく待っててくれ――」
 ジョンは水晶を握り締めたまま飛び出すように診療室から出て、ドアをバタンと閉めた。
「大変なこった」
 デーンのところへ駈け出そうとしたとき、ドア口にプリンが立っていた。大きな目でジョンをじっと見つめている。
「おっ、なんだい、小坊主、そんなところにいたのか。ビックリするじゃねえか」
 ジョンがプリンの前を通り過ぎようすると、プリンはジョンのズボンを握り締めてきた。
「なんだ、坊主――」
 いつもプリンは一切ジョンに目も合わそうとしないのに今日は珍しい。
「いま大事なお客さんと接客中なんだ。ヒマなお前さんと遊んでいられない。じゃあな」
 ジョンはプリンの手を振りほどこうとしたが、プリンは強くズボンを握り締めて離さなかった。
「なんだよ、このガキ。――あっ、そうか。飯の時間なんだな。クソ、この餓鬼め。食べることばっかり考えやがって。おっと、興奮して声が大きくなってしまった――」ジョンは声を潜めた。「そこにお客さんがいるんだ。お客さんが帰ったら、ウマイ飯をたんまりと食べさせてやるから、ちょっと待ってろ」
 しかし、プリンはジョンのズボンを離さない。プリンはジョンの手に握り締められている水晶を見たがっているそぶりを見せた。
「なんだ坊主、手の中のものか? こいつは大切なもだけは敏感に嗅ぎつけるようだ。これは子供が見るものじゃない。サム兄さんがここに宿っているかもしれないんだ。いや、サム兄さんっていったってお前は知らないだろうがな、イヒヒヒ」
 ジョンは身振り手振りを交えて、「見せない」という旨を伝えた。しかしプリンは執拗にジョンにまとわりついて離れない。プリンがこんな素振りを見せたのは初めてのことだった。
「なんだよ、しつこいな、こんな大切なときに。――わかったよ、わかった、見せてやるよ。ちょっとだけだぞ」
 ジョンが水晶を渡すと、プリンはそれを数秒間神妙に見つめ、次の瞬間、水晶をパッと口の中に入れてバリバリと咀嚼した。
「おおおお、お前、何食べてるんだ!」
 ジョンはひっくり返りそうなぐらい驚いた。食べ物ではなく石を食べているのだ。それもあんなに硬そうな水晶を。
「お前・・・・、それはお客さんから一時預かった大切なものだぞ。しかもサム兄さんが宿っている水晶だぞ。おお、なんてことを・・・・」
 ジョンは凍りついたように固まった。プリンは水晶をゴクリと嚥下すると、今まで見せたことがない小さい笑みを見せ、何事もなかったようにスッとその場から離れていった。ジョンはヘタヘタと床に座り込んだ。
――あのガキ、いくら腹が減っているからって、大切な水晶を食べちまいやがった。お客さんになんて説明すればいいんだ・・・・・。こうなった以上、ウマく帰ってもらうしかないか・・・・。
 ジョンは呼吸を整えて気持ちを落ち着け、何事もなかったような顔をして診察室に戻った。
「どうですか。水晶からなにかわかりましたか?」
 キックはジョンの顔を見て訊ねた。
「恐ろしいことだ。本当に恐ろしいことだ――」ジョンは眉をしかめて深刻な表情をとりつくろった。「あの水晶の霊気は尋常じゃない。さっきも言ったが、史上最強の霊気だ。あれを一般人が持っているというのはあまりに危険すぎる。もし、このまま水晶を持ち続けたら、彼女の意識が戻らないだけではなく、あなた自身にも恐ろしい災厄が襲いかかってくるだろう。修行を積んだワタシでさえちょっと持っただけで、気持ちが悪くなって発狂しそうになった」
「そんなに危険なものなんですか?」
「霊がまとわり憑いてくるんだ。だが、もう大丈夫。まとわり憑く霊を鎮めるために今しがた、水晶を霊力のある壺に閉じ込めてきたから。しばらくしたら壺ごと焼却処分するつもりだ」
「えっ、なにをおっしゃってるんですか。さっき専門家に見せるって言っただけでしょ? あれは大切な研究材料です。返してください」
「ダメだ。返せない。言ってるだろ、危険なものだって」
「危険も何も、私のものですよ」
「馬鹿野郎! いい加減に目を覚ませ! あんたは研究と命とどっちが大切なんだ。それもあなたの命だけじゃない。彼女の命も関係するんだぜ!」
 ジョンが怒声をあげると、キックは威圧されて黙った。
「とにかくこっちで預かるから今日のところは引き取ってくれ。あんたが調査に行った場所は、心霊業界では有名な霊地なんだ。これ以後、あんなところへ二度と足を踏み入れてはいけない。わかったな」
「それはわかります・・・・。でも水晶は・・・・」
 キックは水晶に未練があった。どうしても手放したくない。そのとき、アイがモゾモゾと体を動かした。
「あ、アイが動いている!」
 キックはアイの異変に気づいた。
「アイ、わかるか、アイ、俺だ、キックだ」
 アイはゆっくりと目を開けた。
「アイ、わかるか」
「キック・・・・」
 アイは虚ろに声を出した。
「意識が戻った! アイ!」
 キックはアイを強く抱きしめた。
 ジョンは意識を回復したアイの姿を見て驚いた。
――あれ、治っちまったぞ。どういうことだ?
「ジョン先生、これはどういうことなんでしょうか・・・・」
 キックが目を大きく見開き、感動した目をウルウルさせて言った。
「ほら――」ジョンはいかにも自分の手柄のような態度をとった。「彼女は水晶の強大な霊力で呪われていたんだ。壺に水晶を封印することによって霊力が弱まり、彼女は解放された。あの水晶は霊媒師以外の生身の人間が持つものじゃない」
 キックは黙り込んだ。
「キックさん、あれは、さっきも言ったように焼却処分する。とにかく、よかった。彼女が回復して。あと一日でも遅れていたら、彼女は悪霊に廃人にさせられていただろう。おめでとう――」
 ジョンはキックに手を伸ばした。
「こちらこそ、本当にお世話になりました」
 キックは水晶のことを諦め、ジョンとがっちり握手をした。
「ここはどこ? この方は?」
 ボンヤリとジョンの様子を眺めていたアイが小さな声で言った。
「アイ、わかるか? すごいぞ、ハハハハ」
 キックは興奮しながら言った。アイはゆっくりと上体を起こしてジョンを見つめた。
「こちらは霊媒師の方さ。アイから霊を追い出すため、今日、この診療所に飛び込んだんだ。幽霊が話した『伝統医学診療所』の言葉を手がかりに、ネットで探し回ってここにたどり着いたんだ。そういえば、アイは霊力の強い霊媒師を探して欲しいって言ってたよな。幽霊の言葉を手がかりに、すごい霊媒師の方に導かれたんだぞ。診療所自体は休業中だったが、運よく霊媒師の先生はいてくださって。本当に運がいい。先生は『ジョン先生』というんだ。先生になんとお礼を言ったらいいものか」
 アイはキックから説明を聞き、ジョンをじっと見つめて頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「あの水晶は危険すぎた。扱えるのは世界中でワタシ一人だけだ。まったく危険なシロモノだったよ、イヒヒヒ」
「やっぱり・・・・」
 自分を悪霊から救ってくれたアイの目には、ジョンの姿はキラキラとしたオーラに包まれた崇高な人に見えた。
「本当にあなたはすばらしい霊媒師です。私にはわかります。あなたにお会いできて本当によかった」
 アイはポロポロと涙をこぼした。
「私の仕事はこうして悪霊に憑かれた人を助けることだから、なんのことはない。だがな、日常生活に戻っても、ここで霊媒師から治療を受けたことは誰にも言っちゃいけないぜ。ワタシは有名になりたくないんだ。有名になると身辺が騒がしくなるからな。それに、そんなことを普通の人に話したら、あなたは頭のおかしい人と思われてしまう。霊治療のことは三人だけの秘密だ」
 ジョンはそう言って、片目をつぶって微笑んだ。
「わかりました」
 三人は再度がっちりと握手をした。
「イヒヒヒ――」
 ジョンは意味ありげに二人に微笑んだ。早く謝礼の話をして解散したい。ファミリーが帰ってきたら困る。
「じゃ、そろそろ」
 ジョンが呟くように切り出したが、アイは興味深げに話をつづけた。
「私は大学院生なのですが、霊能力があり、霊媒師という方に興味があります。時間がありましたら、ゆっくり先生のお話を聞かせていただけませんか」
「えっ? イヒヒヒ――」意外なことを言われジョンは戸惑った。すぐに断らなければいけない場面だったが、アイがいままで見たこともない美人だったのではっきり断れなかった。
「ワタシはね、仕事と修行で忙しいから、どうだろうねエ。ムズかしいだろうねェ、イヒヒヒ」
「そんなことをおっしゃらず、どうか霊媒師の秘儀を教えていただけませんか」
 真顔で言うアイに、ジョンは驚きを禁じ得なかった。
――この姉ちゃん、何を言い出すんだ。オレが秘儀なんて知るわけないだろ。
「君は確かに霊能力があり才能がありそうだ。しかし、霊媒師の道は危険だ。君は一般人同様、大学でしっかり勉強して普通の仕事に就きなさい。私は通常、弟子なんかとらないから、イヒヒヒ」
「私は真剣です。じゃあ、弟子にならなくてもいいので、ボランティアをさせてください」
「アイ、先生に迷惑だろ――」キックはアイを落ち着かせた。アイはひとつ何か言い出すと、どこまでも猛進する悪い癖がある。「アイ、お暇するぞ。先生はお忙しい身なんだ。――ジョン先生、今日は本当にありがとうございました。本当に信じられません。近代医療でどうにもならなかった彼女がこんな短時間ですっきり治ってしまうなんて。やはり世の中には科学では解明できない不思議なことがあるものなんですね。私も学者の端くれなので、こういったオカルト的な治療には懐疑的な気持ちがありましたが、実際に経験してしまうと信じざるを得ません。こうした経験が今後の研究に大いに役に立つと思います。本当にお忙しいところありがとうございました」
 キックは何度も頭を下げた。
「なあに、たいしたことないさ、イヒヒヒ」
「それじゃあ、いくら謝礼をお支払いすればよろしいですか」
――謝礼だ!
 やっと謝礼の話が出てきてジョンはホッとした。
「値段なんて決まってないよ。君の心次第だ、イヒヒヒ」
「心次第なんて・・・・、そんな言い方をされると逆に難しい」
 キックは考えた。たくさん謝礼を払うのはもったいないが、アイの手前ケチなところも見せたくない。とにかく命を救ってくださったんだ。
「どうでしょうか、縁起のいい数字の九。いま手元に現金がそんなにないのでお支払いできませんが、病院の口座に九万九千九百九十九バーツ振り込むということでどうでしょうか」
「金額なんてどうだっていいよ」ジョンは金銭に関心がないようにふるまった。
――一回の治療で約十万バーツだって! 美味し過ぎるじゃないか、イヒヒヒ。
 アイがキックの横から言った。
「先生は私の命の恩人です。私からも同じ額、九万九千九百九十九バーツ振り込みます」
――エッ! さらに十万バーツだって! 
 ジョンは驚いて椅子から落ちそうなった。落ち着いた態度をとるのに苦労した。
「ハハハハ、好きにしたらいい」
「絶対振り込みます。私たちは、自分で言うのも何なんですが裕福な家柄なんです」
「裕福とは結構なことだね、イヒヒヒ」
「では、口座番号を教えていただけませんかへ」
「口座番号ね――」
 ジョンは診療所の口座ではなく、自分の口座番号を教えた。
「ここに振り込んでくれたまえ、イヒヒヒ」
「わかりました。すぐに振込みします。今日は本当にお世話になりました」
「この治療のことはあくまでも内密に」
「はい、もちろん」
 ジョンは二人を診療所のゲートまで見送った。若く美男美女の彼らは何度も深々とお辞儀をして帰っていった。
「よし、二十万バーツが手に入った。これをナッツに見せればどんな顔をするか、イヒヒヒ。この臨時収入のことはファミリーには絶対教えられまい。みんなが出かけていて幸運だった」
 ジョンはゲートの前で飛び跳ねて喜んだ。そのとき、庭で一人瞑想するプリンの姿が目に入り、動きを止めた。
「あの小坊主、水晶を食べちまいやがって。どういう歯と胃袋をしてるんだ。一時はどうなるかと思ったぜ。――あっ、そういや、サム兄さんの霊のことだ。彼女に憑いたサム兄さんの霊はどこへ行っちまったんだ? もしかして、あの坊主が何かしたのか? 怪しい奴だ・・・・」
 ジョンはプリンの姿を疑い深い目でじっと見つめた。


   十三
 プリンはこの日も庭の樹の下で一人瞑想をしていた。プリンの毎日の生活は、食事の時間以外は瞑想ばかりで、それは診療所に来て以来まったく変わらなかった。ファミリーは昼ごはんを食べながら、そんなプリンのことを話題にしていた。
「プリンちゃん、見るたびに太っていくわね」ナッツが言った。
「毎日あんなに食べていたらそりゃ太るわよ」ファンが笑いながらこたえた。
「ファン、そんな笑いごとじゃいわよ。あの子、顔も体もまん丸よ。ずっと気ままに食べさせておいていいのかしら」
「デーン先生があの子の好きにさせるようにって言ったんだから気にしなくていいわよ」
 ハムが言った。それを聞いていたトンは、
「そうは言ってもあいつはまだ子供だ。規則正しく真面目な生活をしていることは認めるが、大人の言うことを何も聞かないというのは考えものだ。ちょっと教育してやらないと」
「お寺でどんな教育を受けてきたのかしら? 真面目に修行はするけど、大人の言うことは何も聞かないなんて。いつになったら引き取り手がくることやら」ナッツが言った。
「我われは全然仕事がないっていうのに、毎日一人で十人分も食べるんだから、こっちとしても気持ちがいいものではないしな」
 トンが呟くように言った。
「そんなケチ臭いこと言うなよ。どうにかなるさ、食わしてやれ、イヒヒヒ」
 ジョンが笑いながら言った。
「どうにかなるって、どうなるのよ」ハムが言った。
「いいんだ。デーン先生がよくなれば、またたくさんお客さん、いや患者さんが列をなしてくるじゃないか」
「プリンちゃんの体はどうなるのよ」
「あの坊主は頑丈にできてる。まさに鉄人だ。放っておいたってピンピンしてる、イヒヒヒ」
 ジョンの脳裏にはプリンがバリバリ水晶を食べた記憶があった。サムの霊のことも含め、そのことをみんなに話したくて仕方がなかったが、それを口にするとキックから謝礼を受け取ったことも話さなくてはならなくなるので、どうしても黙っていなければならなかった。
――アイツはただの人間じゃない。もしかしたら、怪物の末裔かもしれない。やつの行動を迂闊に否定すると何をされるかわからないぞ。
 ジョンはプリンのことを警戒していた。
 そのとき、デーンが階段からゆっくりとした足取りで下りてきた。
「デーン先生」
 ジョンはデーンの姿を見ると、飛ぶように彼女のもとへ駆けつけ肩を貸した。
「ありがとう、ジョン」
 明るい場所で彼女の姿を久しぶりに目の当たりにしたファミリーは、デーンのやせ細った姿にギョッとして言葉も出なかった。
「先生、具合のほうはどうですか?」
 ナッツが恐る恐る訊ねた。
「体は熱くなるばかり。もう耐えられないわ」
「耐えられないと言われても・・・・」
「だから新たな試みに移ろうと思って」
「と、言いますと?」
「土の中に入るわ。体を冷やすために」
「土の中に?」
 ファミリーは皆ポカンとした。
「ウペウ呪術師は大地から滋養を吸収し、体を癒すことができるの。だから土の中に入ってしばらく静養するわ」
「土の中って、一体どこに?」
「庭の真ん中に空間があるでしょ。樹が植えられていないところ。そこに深さ二メートルぐらいの穴を掘ってくれる?」
 デーンはジョンとトンの目を見た。
「穴ですか・・・・。そんなことはお安い御用ですが」
 ジョンとトンは顔を見合わせて言った。
「掘った穴に私が入ったら、その上から土をかぶせてくれる?」
「先生、息ができなくなりますぜ」
「私は人間じゃなく呪術師よ、普通に考えないで。土をかぶせたらディナカラの苗を真上に植えて欲しいの。そうすれば私は呼吸もできるし、水も太陽のエネルギーも吸収できるから」
「そのディナカラってやつは何ですか?」
「ディナカラは植物の中で一番霊気の強い木。苗木は私の部屋にあるわ。赤い植木鉢に植えてある苗木よ。部屋に行けばわかるから、それを植えて欲しいの」
「ヘイ、ガッテンです」
「それで、デーン先生はどれくらいの間、土の中に入っているおつもりですか?」トンが訊ねた。
「時間的には・・・・、見当がつかないわね。体が冷えるまでというか、力が安定するまでというか」
 その話を聞いてファミリーは、直感的に長引きそうな気がして息を飲んだ。
「ジョン、トン、急いで穴を掘って頂戴」
「今ですか?」
「ええ、今すぐに」
「ヘイ、わかりやした」
 ジョンとトンは内心戸惑っていたが飛び出すように庭に出た。二人は先の尖ったスコップで猛烈な勢いで穴を掘り出した。まったく予想だにしていなかった唐突な展開に、女たちはどう理解していいかわからず、呆然となりながら二人の仕事を眺めた。体力のあるセタ呪術師の二人が穴を掘り出すと、三十分もしないうちに深い穴が掘られた。
「――デーン先生、掘り終わりました」
 ジョンとトンがデーンに声をかけた。
「じゃあ行くわ」
 デーンは、ナッツとファンに肩を抱え上げられながら穴に近づいた。
「十分な穴だわ」
「デーン先生、本当にこの穴にお入りになるつもりですか」
 ナッツが怯えるように訊ねた。
「ええ、もちろんよ――」デーンは、怯えるナッツを慰めるように小さく微笑んだ。「死ぬために入るんじゃないのよ、生き延びるために入るんだからね」
「は、はい・・・・」
 ナッツはデーンの瞳の奥を覗き込むように見つめ返事をした。
「それじゃあ、みんな――」デーンは穴の前で振り返って言った。「私はしばらくいなくなるけど、みんなは呪術師の掟を守り、正しく静かに生活するのよ。わかった?」
「はい――」
 突然のことで皆は複雑な気持ちで返事をした。
「穴に入るわ」
「デーン先生、お連れします」
 デーンはジョンとトンに抱えられながら穴に入った。男二人が穴から這い出すと、デーンは、
「じゃあ、土をかぶせて頂戴」と声をかけた。
「は、はい。それじゃあ、行きますよ」
 ジョンとトンは上から土をかぶせた。土に埋もれていくデーンの姿をじっくり観察するのは何だか悪い気がし、誰も覗き見ようとはしなかった。ものの数分で穴はふさがりデーンの姿は見えなくなった。埋められた土の上に、デーンに言われたとおりディナカラの苗木が植えられた。小さな苗木はいかにも頼りなげに見え、誰も口に出さなかったがその苗木はデーンの墓標に見えた。
 プリンは、そんな彼らの様子を庭の片隅でじっと見つめていた。
     * 
 その日の晩の食事は、皆言葉少なく静かな食事となった。ファミリーの一人ひとりは、デーンが土の中に埋められたという恐ろしくもあり、不思議でもある事実を心の中で消化しきれなかった。食後、おのおの自分の部屋に早々と戻った。
 ジョンとナッツだけは夜の庭に出てテーブルについた。
「デーン先生がこんな姿になってしまうなんて」
 ナッツは小さな苗木を見つめながら言った。今日見たデーンの最後の姿を思い出し、思わず涙が流れた。
「そんなに悲しむなよ――」ジョンが言った。「ウペウ呪術師は不死身だぜ。元気な姿になってムックリ現れるさ、イヒヒヒ」
「あたしもそうだと信じているけど、今日のデーン先生の痩せた姿を思い出したら何だか悲しくなっちゃって」
「ま、何週間も全然食べていないんだから当然だ」
「どうして先生に限ってこんなことになってしまったのかしら」
「オレの憶測だがな――」ジョンは声を潜めてナッツに顔を寄せた。「ナッツ、絶対に誰にも言うんじゃないぞ」
 ナッツは、態度が変わったジョンの目を覗き込んだ。
「何?」
「オレの憶測ではな、デーン先生が痩せた原因は小坊主にあると思うんだ」
「えっ、プリンちゃんに?」
「プリンのあの太った姿、まるでデーン先生の力を吸い取っているようだろ」
「ジョンさん、何を言い出すの。確かにプリンちゃんはどんどん太っているけど、デーン先生の病気をあの子にせいにするのは乱暴よ」
「イヒヒヒ、理由があるんだな」
 ジョンは上目遣いでナッツを見つめ、彼女に顔を寄せた。
「どういうこと?」
「あいつの正体はな・・・・。いや、言うべきか、言わざるべきか」
「何?」
「誰にも絶対言うなよ」
「ええ・・・・」
「小坊主の正体は、実は・・・・」
「実は?」
「実は・・・・、怪物なんだ」
 それを聞いたナッツは拍子抜けしたように肩の力が抜けた。
「もうジョンさん、何言い出すのよ」
「冗談じゃないんだ。本当なんだ、ナッツ、信じてくれ。オレは見たんだ」
「もういいわよ」
「奴の正体は本当に怪物なんだ。オレは小坊主の恐ろしい姿の一片を目撃したんだから」
「恐ろしい姿って?」
「トップシークレット情報だぞ」
「ええ」
 ジョンの表情は真剣だった。
「オレが一人で留守番していたときのこと。話が長くなるから詳しい説明はしょっ引くが、あの坊主、な、な、なんと、水晶をバリバリと食べてしまった、イヒヒヒ」
「えっ、水晶を? そんな水晶、どこにあったの?」
「いや、いや、水晶がどこにあったかなんてことは、今はどうだっていいんだ。そこは話の核心じゃない。大切なことは、固い水晶をまるでアラレでも食べるかのように食べたということ」
「どうせ水晶みたいな飴なんでしょ」
「飴じゃない。本当の水晶なんだって」
 ジョンは目を血走らせながら訴えた。
「水晶をねえ――」ナッツは半信半疑の表情を浮かべながら訊ねた。「それはいつのこと?」
「最近のことだ。それを目撃してオレは直感した。あいつは呪術師組織に近づきエネルギーを吸い取る怪物かもしれないって」
 ジョンは大魔神に殺されミイラになったサムのことも話したかったが、それに触れるとなると学者のキックのことも話さなければならなくなる。もどかしく感じたがそのことには触れなかった。
「確かに水晶を食べるなんて普通じゃないけど、でも、それだけで怪物って決めつけるのもねえ・・・・」
「でも、よく考えてみろ。おかしいだろ。あいつがここにやってきたことも。あんな子供が誰にも付き添われずにヒョイと現れたことからして」
「引き取り手もこないし・・・・」
「それに一日中、飽きずに瞑想に没頭する子供なんか見たことがあるか。おかしいだろ」
「確かに普通じゃないわよねえ」
「デーン先生は絶対あの坊主に英気を吸われたんだ」
「それは考えすぎのような気がするけど」
「考えすぎでもなんでもない。とにかく、小坊主には気をつけるんだ。ナッツだけには言っておきたい」
「もし彼が怪物だったら?」
「オレたちも近い将来、デーン先生みたいになるだろうな」
「・・・・・・」
 ナッツはジョンの目を見つめた。ジョンは一切笑わず、真剣な表情を崩さない。
「そうなる前にだ、ここから逃げる準備を考えておいたほうがいい」
「本気で言ってるの」
「本気だ」
 ジョンはナッツの細い手をとって握りしめ、緊迫した調子で言った。
「オレたち呪術師とって〝生き延びる〟ということは一番大切なことだ。どんな恐ろしい状況からも最善を尽くしてな」
「でも、ファミリーの助け合いなくして、私たちだけ生きていくことなんかできないわ」
「できる。いや、できるって信じるんだ。意地でも生き延びるんだ。生き延びることが呪術師の第一義だと、タム師匠から直に教わったっている。デーン先生もそのようなこと言ってただろ」
 ジョンの熱い感情が伝わり、ナッツは心が揺れた。
「でも、経済面の心配もあるし」
「それだ。そのことだ。だが、心配ご無用、これを見ろ、ナッツ――」
 ジョンは「ニヤ」っ口元を緩ませ、ポケットから札束をチラリと見せた。そのお金はキックから振り込まれた謝礼だった。
「何? その大金?」
「前も言っただろ。オレは呪術師になる前はビジネスで小金を稼いでいたんだ。もちろん、こんなのオレの蓄えのほんの一部だぜ。だから金の心配なんかするな、イヒヒヒ」
 ジョンはそう言うと、片手でナッツの手を握り締めたまま、片腕を彼女の肩に回して体を抱き寄せた。ナッツはジョンの力に抗えず、彼の胸に顔をうずめた。
「オレもデーン先生がそんなに簡単にやられるとは思っていない。復活を信じている。もしも、もしものとき、なにか危険が起こったら、オレは命を賭けてもナッツを守るからな。どんなことをしてでもな、イヒヒヒ」
「うん」
 ジョンの強引な誘いに、ナッツは小さく頷いた。
「ファミリーには絶対秘密だぞ。二人の今後のことも、金のことも、プリンの正体のことも――、絶対、誰にも言っちゃいけないぞ」
 二人は夜の涼しい風を体に受けながら肩を寄せ合い、いつまでも夜空の星を眺めた。


   十四
 デーンが地下に身を潜めた翌朝から、プリンはディナカラの苗木に水遣りを始めた。ホースから直接水を撒かず、呪文を唱えながら如雨露で水遣りをする。水遣りをするプリンの口元には小さな笑みがこぼれていた。
 朝、ファンはプリンのいつもと違った行動に気づき、プリンに近づいて話しかけた。
「プリンちゃん、エライわね。水遣りするんだ」
 もちろんプリンはファンに話しかけられても何の応答もしない。自分の世界に入り込み淡々と水を遣りをつづけている。
「プリンちゃん、そんなにこの苗木が気に入ったの。この下にはね、デーン先生が眠っているの。枯らさないようにやさしく見守ってね」
 プリンはファンが何を話しかけてもまったく反応せず、素知らぬ顔で空になった如雨露を持って水道の蛇口へ歩いていった。ファンはプリンの様子を静かに見守った。プリンは水道から如雨露に水を浸し、小さい体に重たいであろう水を溜めた如雨露を苗木に運ぶ。いつもは無表情な彼がさも楽しげな表情になっているのを見て、ファンはプリンの子供らしい一面を見たようでちょっと嬉しくなった。
     *
 弦太郎ガルーダは空を舞っていた。タムから教えを受けることができ、もう気持ちにブレはなかった。人間の体に入り込み、改めて人体を経験したことでよけいにガルーダの心地よさを認識できた。心身ともに伸びやかで、澄み渡り、安らいでいた。このまま永遠に飛び回っていられそうな気がする。
――しかし、ガルーダといえど、死はあるんだよなあ。
 タムから教わったことを思った。こうして飛び回っている分には気持よく安らいでいるが、必ず時間的限界がある。定期的に獲物を捕獲して力を補給しないと、いつしかこの空間に四散し消えていってしまう。人間の頃感じた〝空腹感〟といった苦痛や欲求は特別感じなかったが、〝口寂しさ〟というような感覚は微かに感じた。それはガルーダという生命体の小さな綻びかもしれなかった。しかし、それを満たそうと狩りに集中したところで、簡単に獲物が見つかるものでもないし、かりに獲物を見つけたとしても、獲物はガルーダの近づけない場所へすばやく逃げてしまう。
――いったい、どこへ行ったら大量の獲物に出くわすんだ? 狩りなんて、本当にオレにできるのか?
 弦太郎ガルーダは呪術師時代のことを思い出そうと頭をひねった。呪術師の頃を思い出せば狩りのヒントがたくさんあるはずだが、記憶は靄に包まれその姿は茫洋としていた。タムが言っていたように過去は消え去ってしまうものなのか。
「――ん!? あれは?」
 そのとき、獲物の光が小さく目に入った。遠くにいる獲物だが、それは確かに獲物の光だった。しかし、珍しく獲物を発見したのに嬉しい気持ちが何もしない。それに近づくことを身体が拒んでいる。獲物の周辺にじっと眼を向けた。
「なんだ?」
 獲物の光の間近にもう一つ、〝不気味な光〟がいるのが見えた。観察するとそれは〝不気味な光〟というより、黒く渦巻いて力を吸収している〝陰〟のような存在だった。その〝陰〟は強力な力を潜在させているような奇妙な存在感があった。
――ガルーダを脅かす力がこの世にあるのか? それとも獲物が自分の身を守るため、特殊な形に擬態をしているのか? もっともオレはこんな薄気味悪い陰に用はないんだ。横にいる獲物を狩りたいだけなんだ。襲うべきか、諦めるべきか・・・・。
 弦太郎ガルーダはなかなか決断できず、中空を大きな円を描きながら旋回した。
――行動しないことにはいつまで経っても成長しない。行動してどんどん新たな扉を開いていきたい。
「挑戦だ!」
 弦太郎ガルーダは力いっぱい加速して、一直線に獲物に向かっていった。
     *
 ファンが庭でプリンの様子を見守っていると、母屋からハムが出てきた。
「ファン、どうしたの?」
「プリンちゃんが楽しそうに水遣りしているものだから物珍しくって」
「あら、あたしが朝一番で表に出たときも水遣りしていたわよ。あの子、一日中つづけるつもりかしら?」
「この調子だと、多分そうみたいですよ。やめる気配がないですから。でも、安心しました」
「なにが?」
「いつも瞑想ばかりしていたプリンちゃんがこうして楽しそうに水遊びする姿を見て、やっぱり子供なんだなあって」
「ウフフ、そうね。やっぱり子供は子供よ」
「で、みんなは何してるの?」
「家でゴロゴロしてるわよ。デーン先生がいないと何もできないからね」
「そうですねえ。あたしも今日何をしようかなあ」
「あっ!」
 そのときハムが動きを止め、耳をそばだてた。
 ピー――
「どうしたんですか?」
「大変! 風の精霊が近づいてきてる!」
「えっ、ホント!」
 二人は飛ぶように駈けて母屋に入り、ドアを強くバタンと閉めて鍵を閉めた。
「風の精霊がくるわよ」
 ハムは大声で叫びながら母屋にいるファミリーに知らせ、密閉されている地下室へ走った。その声を聞いたジョン、ナッツ、トンも急いで地下室へ避難した。
 プリンは、母屋に逃げ込んだハムとファンの後姿をチラリと見て、鋭い目をきっと空に向けた。ガルーダの臭いを嗅ぎ取り、鼻を鳴らすように「フッ」と笑った。
     *
 弦太郎ガルーダが獲物に向かって突進していくと、さらにもう一つ、獲物の光が現れた。
「獲物が増えた、チャンスだ」
 しかし、そんな喜びも虚しく、二つの光はサッと姿を消してしまった。獲物の位置に到着したときには姿もなければ臭いも音もなかった。
「逃げられたか・・・・」
 狩りに成功するだろうという期待もなかったので、悔しい気持ちはあまりなかった。獲物のいた上空から通り過ぎようとしたとき、ふと不気味に感じた〝黒い陰〟の方へ眼をやった。
「あいつは何だったんだ」
 黒い陰が眼に入った瞬間、それは突如白く長いうねりに変化し、逆に襲いかかってきた。
「大魔神だ!」
 弦太郎ガルーダは敵の正体に気がついた。
「ここは人間が密集する街の中だろ。なんでこんなところに大魔神がいるんだ」
 猛スピードで逃げようとしたが、龍の長い体でらせん状に巻かれた。
「動きを止められたら死んでしまう」
 弦太郎ガルーダは最大限の力をふり搾り、大魔神を振り払おうとした。しかし、白い龍はガルーダに執拗に絡みついて離れない。ガルーダと龍は上空で激しく暴れ回った。診療所の上空では大地を揺るがすような雷が鳴り響き、屋根が吹き飛ぶような強風が吹き荒れた。
「大魔神は縄張りを持っている。縄張りの外へさえ出ればいいんだ。とにかく遠くへ逃げるんだ。遠くへ、遠くへ・・・・」
 大魔神の習性を知ってはいたが、相手の力は格段に強く、簡単には逃がしてくれなかった。飛ぶ方向を先回りされるかのようにブロックされ、高く高く宙へ押しやられた。弦太郎ガルーダは少しずつ意識が薄れゆくのを感じた。
「大魔神やつ、しつこいぞ。このままでは・・・・」
 そのとき、進行方向の上空に黒い穴が口を開けているのが見えた。
「なんだあの穴は、危ない!」
 弦太郎ガルーダは本能的に穴に入ってはいけないと感じた。進行方向を変えようとしたとき、大魔神はその方向を予測したかのように先回りし強烈な体当たりを喰らわしてきた。
「ギャアー!」
 弦太郎ガルーダは黒い穴に吸収されていった――。
     *
「イヒヒヒ、もうそろそろ収まったころかな。オレはちょっくら外の状況を見てくるぜ」
 ジョンが地下室の重い扉を開けた。その瞬間、強烈な雷の音が聞こえた。
「ウヒッ、ひどい天気だ」
「まだ危ないわ」ハムが言った。
「でも、風の精霊の音は聞こえないぜ。雷の音だけだ、イヒヒヒ」
 ファミリーは地下室から出てリビングへ移った。庭の見える窓辺に立ち、外の状況を眺めると、ひっきりなしに空がピカピカと光り、地響きするような雷鳴がいつまでも響いていた。
「すごい嵐ね。こんなの見たことないわ」
 ナッツが言った。
「そういえば、プリンちゃん、どうしたかしら? ずっと庭で水遣りしていたけど。中に入れてあげないと」
 ファンがプリンのことを思い出した。
「規則正しいあいつのことだから、嵐の中でも水遣りをつづけているだろうよ、イヒヒヒ」
 皆は窓から庭を見渡したがプリンの姿はなかった。
「玄関の軒下にいるのかしら?」
 ファンは玄関に行き、ドアを開けて軒先を見たがプリンの姿はなかった。皆も表に出てきた。
「あの子の姿が見えなくなるなんて初めてね。どこに行ったのかしら・・・・」
 ハムが心配そうに言った。
「大丈夫だ――」トンが断定するように言った。「あいつもバカじゃないんだから、雷の危険を感じたら安全なところへ避難しているさ」
「それならいいんだけど」
「食い意地の張った奴のことだから、飯の時間になればきっかりと姿を見せるぜ。賭けてもいい、イヒヒヒ――」ジョンが笑いながら応じた。「まあ、別に戻ってこなくてもいいんだけどな、あんな居候。奴は呪術師でも何でもないんだから」
「そういうわけにはいかないわよ。大人としての責任ていうものがあるでしょ」
 ハムはジョンを咎めた。
「だから必ず戻ってくるって言ってるじゃねえか」
 そんなことを話しているうちに雷が止み、雲の隙間から青空が見えた。
「嵐は去ったようね」
「あっ、虹――」
 ナッツが指差した方向に大きな虹が架かっていた。皆は虹を眺めた。
「平和が訪れたようだ、イヒヒヒ」
 しばらくすると虹はスッと消えた。後方を振り返り母屋に入ろうとすると、デーンの苗木の前にプリンがしゃがみこんでいた。
「あっ、プリンちゃん、いつの間に・・・・」
 皆は意表を突かれ、目を丸くしてプリンの後姿を見つめた。プリンの袈裟は雨にまったく濡れておらず、いつもとまったく変わらない姿だった。
「どこに行ってたのかしら?」
 プリンはファミリーの戸惑いを気にする素振りも見せず、如雨露を持ってデーンの苗木にまた水遣りを始めた。


   十五
 弦太郎はハッと目を覚まし、ゆっくりと上体を起こした。朦朧とした頭を覚醒させるため、両手の平で頬をパンパンと叩き、目を大きく見開いて周りを見渡した。
「砂漠だ・・・・」
 三六十度荒涼と広がる砂漠だった。炎天下の砂漠にはまったく人影がなく、人影がないどころか生物の気配がまったく感じられない。強い日差しが体を炙るようにじりじりと照りつけてくる。
――どうしてこんなところで横たわっていたんだろう? ここはどこなんだ? どういう経緯でここにやってきたんだ? そもそもオレは何者なんだ?
 弦太郎は自分の手の平をまじまじと見つめ、自分の着ている服にも目を向けた。
――何だ、このボロボロの服は? こんなものどこで着させられたんだ? あっ、そうだ。オレはガルーダだったんだ。それなのにいつの間にかまた人間に戻っている。この重い体、そしてこのチマチマした世界・・・・。
 弦太郎は記憶をたどった。
――大魔神に追われて中空に開いた黒い穴に押し入れられたんだ・・・・。それから、どうして人間の体になったんだ? 
 じっくり考えたかったが、あまりの暑さに集中することができず思索を放棄した。
――ボヤボヤしていられない。早くこの砂漠から脱出しないと。
 砂上から立ち上がり歩き始めた。砂漠は目印になるものが何もなく方角もわからない。ただあるのは地平線ばかりである。
――歩いていればどこかにたどり着くだろう。
 弦太郎はさまよい歩いた。
「どこに行き着くんだろう」
 長時間歩いて呟いた。歩けども歩けども風景は変わらない。単調な砂漠がどこまでもつづく。暑さ、餓え、渇き、疲労、孤独はいよいよ深く、それらを解消させてくれる木陰も、食べ物も、水も、植物も何もない。もちろん人にもまったく出会わない。おまけにいつまで経っても日が暮れず、昼がつづく。時間感覚が麻痺し、何時間歩いたのか、何日歩いたのか見当がつかなかった。
 歩いていることが無意味に思え、弦太郎は不貞腐れたように砂の上に座り込んだ。太陽の光は容赦なく照りつけてくる。ゴロリと横になって目をつむった。眠ろうにも、暑さと飢えと渇きに襲われて眠れそうにない。頭の中には虚無感、不安感、悲壮感、徒労感、絶望――、ネガティブな感情が渦巻いた。
――このままじっとしていると死んでしまうかもしれない・・・・。いや、もう死んでしまってもかまわない。
 弦太郎は意地になって眠ろうとした。
「痛っ・・・・」
 そのとき肩口に鋭い痛みを感じ、ハッと上体を起こした。砂上に大きなサソリが素早く走り去っていくのが見えた。
「サソリに刺された。ああ、痛い。なんという痛みだ・・・・。こんなところで寝ていたらまた刺されそうだ。とにかく動かないと・・・・」
 刺された痛みの箇所を押さえながら弦太郎は立ち上がり、また歩き出した。
 三百六十度つづく砂漠、歩いても歩いても砂漠だった。歩いていけば必ず砂漠を抜けられるはずだと自分に言い聞かせて歩いた。がむしゃらに歩きつづけた。不眠不休で歩きつづけた。途方もない距離を歩いた。もう何箇月経ったのか、何年経ったのか、わけがわからなかった。
「このまま永遠に歩きつづけるのか・・・・」
 絶望的な気持ちになった。
「そんなことはない。歩きつづければ必ず終わりはくるんだ・・・・。でも、どこにもたどり着かないし、何の手がかりも得られない。永遠にさまようかもしれない・・・・」
 何かを想い、何かを考えると〝絶望〟に帰着した。考えることを避け、機械的に歩いた。 
「あれは・・・・」
 前方に人影らしいものが小さく見えた。
「人だ!」
 弦太郎は救われたような気持ちになった。
 その人影に向かって足早に歩いてゆくと、人影の輪郭がはっきり現れてきた。人と言葉を交わせるだけでも嬉しかった。誰でもいい、早く会いたい、言葉を交わしたい。
「オーイ」
 手を振りながら駆け寄り、相手の表情がはっきり見える距離に近づいた。その人物と目を合わせた瞬間足を止めた。一瞥しただけで正常とは思えない男だった。ボロを纏い、乾いた髪が逆立ち、狂気を感じさせる異様な目をしていた。
「なんだ、コイツは・・・・」
 弦太郎は身の危険を感じた。
「ウヴァ――」
 男は突然、奇声をあげて弦太郎に向かって走り寄ってきた。
「おい、どういうつもりだ!」
 弦太郎は男に毅然として言い放った。
「水をよこせ、喰いものをよこせ」
 男は弦太郎の胸倉を掴んできて押し倒した。
「この格好を見ればわかるだろ。オレは何も持っていない。やめろ、やめるんだ」
 弦太郎は男を制止させたが、男は弦太郎の身ぐるみを剥がそうとした。いくら抵抗しても、男は執拗に止めようとしない。
「このキチガイめ!」
 弦太郎は思い切り男を殴りつけた。男は数秒間力を緩めたがすぐに反撃してきた。
「食い物がないならお前を喰ってやる」
 男は組みつき、咬みついてきた。
「キチガイめ!」
 弦太郎は殴ったり蹴飛ばしたりして抵抗した。格闘は長時間つづき、お互い殴り殴られ、怪我を負った。しかし、それでも男は執拗に止めようとしない。弦太郎は、永遠にこの男と殴りつづけていなくてはならないのか、という虚しさを感じ始めた。
「もう止めよう。無益だ。不毛だ。こんなことをしていても何にもならない」
 弦太郎がどう説得しても、男は攻撃を止めようとしなかった。
「畜生、どっかへ行け!」
 弦太郎は掌底で思い切り男を突き飛ばし、身体が離れたわずかな隙をついて駆け出した。男は狂ったように追ってきた。弦太郎は息を切らして走った。
「離れろ、ついてくるな」
 怒鳴っても叫んでも男はついてきた。長時間走りつづけ、ようやく見えなくなった。逃げ切れたようである。
「あのクソ野郎め、消耗させやがって」
 足を止めて、一人で叫んだ。
「ん?!」
 そのとき、また間近なところで何かの気配を感じた。
「まだくるのか?」
 気配のする方向へ目を向けると、野犬のような動物の群れが弦太郎に向かってきた。
「今度は犬か。あれに襲われたらたまったものじゃない」
 弦太郎は駆け出したが、野犬は走るのが速かった。弦太郎はいつしか野犬に追いつかれ足を咬みつかれた。強い痛みを感じたが、蹴飛ばして振り払った。しかし野犬は群れをなしているので、代わる代わる咬みついてくる。体中、咬まれて怪我を負った。
「犬畜生、この野郎」
 弦太郎は野犬を殴りつけ、蹴り飛ばし、振り払い、そして走った。それでも野犬はいつまでも追いかけてきて咬みついてくる。逃げても逃げても追いかけてくる。弦太郎は野犬と格闘しながら走りつづけた。
 長い時間が経過した。ようやく野犬が見えなくなった。
「難は去ったか・・・・」
 ホッと一息つき、空を見上げた。太陽がギラギラ照りつけている。
「砂漠か・・・・」
 砂漠から逃れらていれない現在の状況を目の当たりにし愕然とした。砂漠から永遠に出られないような気がした。殴られようが、咬まれようが、怪我しようが、餓えようが、渇こうが、この世界では死ぬことはないようだが終わりもなかった。
――あの黒い穴に落とされたばかりにこんなところに・・・・。
 弦太郎は大魔神を思い出し呪った。しかし、呪ったかといって救われるわけではない。
――とにかくこの砂漠から抜け出さないと。
 弦太郎は歩きつづけた。地平線に向かって歩きつづけた。地平線の向こうは地平線であり、地平線は何も変化しなかった。地平線はどこまでもつづいた。
「あれは・・・・」
 そんな地平線の遠く前方に緑が見えた。
「幻か・・・・」
 それを目印にして歩み寄っていくと、次第にその緑ははっきりしたものなってきた。それは幻ではなく現実の緑地だった。砂漠を見つづけた弦太郎の眼には原色の緑はあまりにまぶしく、あまりに美しかった。
「オアシスだ!」
 歩を速め、間近にやってきた。オアシスには果樹が植えられ、果樹には様々な果実がたわわに実っていた。
「なんて豊穣な森なんだ」
 森のところどころに、木を組んで作られたお瀟洒な民家が見えた。善良な人たちが住んでいるらしく、風に乗って美麗な音楽が聞こえてきた。
「天国なのか・・・・」
 弦太郎は砂漠とのあまりの違いにクラクラと目まいがした。
「でも・・・・」
 弦太郎のいる砂漠地帯とあちらの緑地帯の間には線を引くように小川が流れていた。小川の幅は七、八メートルで、そのままジャブジャブと向こう岸へ歩いていけそうだったが、いざ足を浸してみると川は意外に深くて渡れない。渡るとなると橋を使わなければならないようだった。弦太郎は川に沿って歩き橋を探した。必ずこちらとあちらを繋ぐ橋があるはずだ。
 天国は真横に見えるのに、なかなか橋が見つからなかった。時おり向こう岸から涼しい風が吹いてくる。こちら側とあちら側では気候もまったく違うようだった。
「橋だ」
 ようやく、前方に橋が見えた。その橋は木製で、楕円状の形をした頑丈そうな橋だった。
「あそこから渡れるぞ」
 弦太郎は長く苦しい旅の終わりを感じた。
 橋に近づき、改めて砂漠地帯を振り返って眺めた。平坦な砂漠が殺伐と広がり、緑地帯の平和で豊穣な光景とは対照的だった。砂漠をじっくりと見回すと、平坦な砂漠がどこまでもつづいているだけと思っていたが、遠く向こうに小高い丘が見えた。その丘は黒ずんだ色をしており、そこからうすっらと異様な白い煙が上がっている。遠くから見ただけでも薄気味悪さと嫌悪感を覚えた。
――あんなところには行っちゃいけない。とにかく橋を渡ってしまおう。
 橋を近くでじっと観察すると、緻密な設計によって作られた実に立派な橋だった。
「とうとう砂漠から脱出できるんだ」
 歓び勇んで橋を渡ろうとしたとき、向こう岸に幼女が二人、橋の袂で遊んでいることに気づいた。姉妹らしい幼女は弦太郎の姿を見つけると愛くるしい笑顔を向けてきた。長い旅をつづけてきた弦太郎は薄汚れ、ヒゲ面で、怪我を負い、ボロを纏っていたが、そんな男に幼女は天使のような笑顔で迎え近づいていきた。弦太郎は彼女たちを抱きしめて頬ずりしたくなった。
「君たち、何をしてるんだい?」
「おじさんを待ってたんだよ」
「おじさんをかい? 本当かい?」
「そうよ」
 幼女はケラケラと無邪気に笑い弦太郎の手を引っ張った。弦太郎の頬には自然に笑みがこぼれた。橋を渡ろうとしたとき橋の欄干に何気に目がいった。その欄干の柱に何かの紋章のレリーフがあった。
「なんだ?」
 ふと眼を向けた。そこには〝一つ眼〟のレリーフがあった。弦太郎はハッと気がついた。
「一つ眼・・・・。そうか・・・・」
 死神のことを思い出し、すべてを了解した。
「オレは死神の世界をさ迷っていたわけか。ということは、オレが目指さなくてはならないのは・・・・、あっちか・・・・」
 弦太郎は白い煙の上がった不気味な丘を見つめた。
「フウー」
 深く息をついた。
「おじさん、こっちだよ」
 子供たちは手を引っ張って橋を渡らせようとした。弦太郎はしゃがんで目線を低くし、やさしく微笑んで女の子を見つめた。
「お嬢ちゃん」
 彼女たちの着ている衣服の柄に目がいくと、橋の欄干と同じ〝一つ眼〟の刺繍があしらわれていた。
「こんなところにも・・・・」
 弦太郎の決意は百パーセント固まった。
「この先には行ってはいけないんだな・・・・」
 踵を返し、丘へ向かって歩き出した。
「おじさん、こっちだってば」
「いや、おじさんが行くのは、あっちなんだよ」
 弦太郎が幼女に声をかけると、彼女たちは頬を膨らませて不服そうな顔した。彼女たちの愛くるしい表情を見たら、自分が間違った判断をしたような気持ちにさせられたが、「あっちなんだ」と心に強く言い聞かせて幼女から目を背け、振り返ることなく砂漠地帯に入っていった。オアシスから離れれば離れるほど暑さが強くなり、さらに異様な悪臭まで漂ってくる。悪臭はどうやらあの黒い丘から漂ってくるらしかった。
 さらに丘に近づいていくと、乾いた砂漠地帯の空気に湿気が帯び、地面も砂漠からぬかるみに変わってきた。そのぬかるみはただの泥ではなく、強烈な悪臭のするヘドロのような泥だった。歩いているうちに頭がクラクラしてきた。
「オレは何をやっているんだろう。あのオアシスはゴールだったんじゃなかったのか。あそこは天国で、永遠の幸せが約束された場所だったんじゃないのか」
 ここにきて迷いが生じた。
「いや、違う。これが正解なんだ。これらはすべてが死神が作り出した幻なんだ。オレは過去に二度も死神の世界をさ迷い、そこから脱出してきたじゃないか。美しいもの、心地よいもの、清らかなもの、そこには〝死〟しかないって学んだじゃないか。汚いもの、危険なもの、恐ろしいもの、そここそ出口なんじゃないか」
 弦太郎は歩きながら自分に言い聞かせた。
 地面のぬかるみは少しづつ深くなり、くるぶしぐらいの深さになった。煙を上げている丘は眼前に迫ってくる。ぬかるみは深さを増し、膝ぐらいの深さにまで達した。
――あの丘にたどり着く頃には、どのぐらいの深さになるだろう。
 弦太郎は前進した。
「あ!?」 
 そのとき着地した足の感触に異変を感じた。グニャリとした柔らかい感触で足がヅブヅブと沈んでいく。腰の深さまできたがそれでも止まらず、さらに沈んでいく。弦太郎は焦りを覚えた。
「抜け出さないと」
 這い出そうにも、つかまるものが何もない。じりじりと体が沈んでいく。汚泥は肩の深さまできて、さらには首まできた。バタバタと必死でもがいたが、体は浮き上がろうとしなかった。
「ああ、ああ、溺れる、溺れる」
 顔が沈み、意識がなくなっていった。


   十六
 休日の朝のひと時、キックはダイニングのテーブルでノートパソコンと向かい合っていた。アイはリビングのソファーに横たわり、スマートファンを眺めながらくつろいでいた。
――霊気の強いこの森で一体、何が行われているのだろう。
 キックはこの日も、ミイラと遭遇した原生林の画像を眺めていた。この画像を眺めることは相変わらず毎日の日課であった。
――あのミイラはやっぱり、なんらかの宗教儀式の生贄だったのだろうか? あの半裸の男たちが持つ伝統文化なのか。彼らはいったいどういう民族に属するのだろう? いかなる民族も必ず系統があるはずだが、同じような民族が見つからない。やっぱり世に知られていない特殊な民族なのだろうか。やっぱりあの森のさらに奥にある不可思議な村が彼らの本拠地なのだろう。調査を進めるには、彼らとどうしても仲良くなる必要がある。頻繁に通い、少しずつ顔見知りにならなければいけないか。
 キックはカレンダーを眺めた。
――あと一か月で雨期明けの休暇だ。この二週間の休暇に、どうしてもまたあの森に潜入したい。だがアイが何と言うか・・・・。
 キックがアイの方にチラリと目を向けると、ソファーに横たわっているアイの後頭部が見えた。ミイラの幽霊に憑かれて精神病院に入院したときにはどうなることかと思ったが、診療所で除霊してもらってからは通常通り元気に生活している。
――あの森へ行くのは危険が多すぎる。俺一人ではとてもいけそうにない。チームを組もうにも、誰がついてきてくれるだろう。やはりアイだけはどうしてもついてきて欲しい。彼女の機嫌のよさそうなときに頼んでみよう・・・・。いや、そんな悠長なことはいってられない。出発までに時間がないんだ。今日には話をつけないと・・・・。
 キックはフウーとひとつ深く呼吸をして心を落ち着けた。
「なあ、アイ」
 何気ない調子で声をかけた。
「何?」
 アイは振り返ってキックを見つめた。キックはアイと目を合わせると次に出す言葉を見失い、しばらく笑いながらアイの顔を眺めた。
「何なのよ、キック」
「幸せかい?」
「どうしたのよ。急にそんなこと訊いてきて」
 アイは怪訝そうにキックを見つめた。
「いいじゃないか訊いてみても。なんとなく気になったから」
「変なの・・・・」
 アイはキックの心理を読み取ろうと、キックの目を覗きこむように見つめた。
「いやあね、アイが幽霊に憑かれたことをちょっと思い出してさ。あのときは大変だったから、ハハハハ」
 キックはアイの機嫌を損ねないように笑いながら言った。
「もうあのときのことは考えたくないわ」
「ハハハハ、そりゃそうだ、怖かったものな。まあ、とにかく、アイが元気になってよかったよ。元気になったアイの姿を見るたびに感謝の気持ちが湧いてくる」
「そう――」
 アイはキックから目を逸らし、またスマートフォンに目を向けた。アイはそのことについて話したくなさそうな素振りを見せていたが、キックは話をつづけた。
「アイに憑いたあの幽霊は何者だったんだろうねえ」
「わからないわ。ただ一つ言えることは、もうあんな怖いところには絶対行きたくないってこと」
 キックは、アイが先回りするようにフィールドワークを拒絶したので戸惑った。
「アイはそう言うけどさ、あの調査は大きな収穫を得たんだぜ。まだ世に知られていない民族と邂逅したんだからさ。近代生活に触れていない民族が二十一世紀になって発見されるなんて、世界的に見てスゴイことだぜ」
 アイはキックの言葉を聞き、無反応な様子でしばらく沈黙した。間をおいてから振り返り、キックの目を見つめて言った。
「相変わらず執着してるのね」
「何がさ」
「パソコンでいつもあのときの写真を眺めているんでしょ」
 アイは軽蔑するように言った。キックは、いつも自分が何をしているかアイには知られていないと思っていたが、気づかれていたことに動揺した。
「そりゃあ、あんな稀有な事件に巻き込まれたら、考えられることはそれなりに考えるさ。どうしてあの男はミイラになったのか? 未開民族はどういう目的で男をミイラにしたのか? その方法は? いろんなことをな」
「野蛮だわ」
 アイは露骨に嫌悪感を顔に出した。
「そんな否定的な態度でいちゃ、立派な学者になれないぜ。あの調査は民族学的にも、宗教学的にも非常に大切なことなのに」
「もういいわ。そんなこと」
 アイはキックから目を逸らし、再びスマートフォンに目をやった。
「アイ――」
 キックが声をかけたが、アイはそれを無視した。キックはアイの機嫌をよくすることはできそうもないと諦め、言いたかったことを正面から切り出した。
「アイ、今度の休みね、雨期明けの休みだよ、あの森にまた行くつもりなんだ」
 その言葉を聞いたアイは表情をこわばらせサッと振り返った。
「冗談でしょ?」
「冗談でそんなこと言うものか。もちろんアイも一緒だよ」
「・・・・・・」
 アイは呆然としてキックの見つめた。
「あの民族の発見は俺にとって金の鉱脈を掘り当てたようなものなんだ。これから一度や二度でなく、何度も足を運ぶことになるだろう」
「本気で言ってるの・・・・」
「本気だ。学者としての生命がかかっている」
「キック、あなたは自分の生命をどう思っているの? 学者としての生命なんか取るに足らないものよ。この前は野人みたいな人たちから運よく逃げられたけど、今度捕まったら命の保証なんかまったくないのよ」
「手なずけてみせるさ。対策はいろいろ考えている」
「野人だけじゃないのよ。あそこには精霊がウヨウヨしてるのよ。正気を保つ保障なんかないわ。あなたは霊に憑かれる恐ろしさをまったくわかっていない。あたしは行かないわ。キック一人で行ったらいいじゃない」
「そういうわけにも行かないさ。あんな森の中で一人で調査なんかできやしない。誰かパートナーが必要なことぐらいアイにもわかるだろ」
「じゃあ、あたし以外の他の人と行けばいいじゃない。霊に憑かれにくい人と」
「どうしてそんなツレないことを言うんだ。俺にはアイが必要なんだよ。アイしかダメなんだよ。この前もいろいろあったけど、結果的に俺はアイを守ったじゃないか」
「運よくね。じゃあ、二人が同時に霊に憑かれたらどうなるの? そうなったらもうお仕舞いよ」
「ハハハハ、それについても勿論考えているよ――」キックは余裕の笑みをとりつくろった。「その鍵は診療所の霊媒師が握っている」
「ジョンさんのこと?」
「そう、霊媒師のジョンさんだ。彼を今度の調査に同行してもらおうと思っているんだ」
 アイはジョンの名前を出されて一瞬目の色が変わった。
「ジョンさんを・・・・、どういうこと? あの人はまったく畑違いの人よ。来てくれるわけないじゃない」
「ちょうど診療所も休みのようだし、頼めば来てくれるように思う。そんな予感がする。もちろん、ありたけの謝礼を払うつもりだ。彼が一緒なら霊対策は大丈夫だろ?」
 アイは口を閉ざし、しばらく考えた。
「ジョンさんは霊媒師として最高の人だと思う。同じ霊媒質の人間としてそれはわかる。あの人に会って以来、強い霊力を受けたせいか、彼のことが頭によく浮かぶわ。また是非会ってみたいけど、一緒にフィールドワークなんて・・・・、現実的じゃないわ」
「アイが意識を取り戻す前、彼といろいろ話したんだけど、あの民族の秘密を何か知っているような口ぶりなんだ。そしてミイラのことも。理由はわからないけどそのことについて一切明かしてくれなかった。もしかしたら彼はすべての鍵を握っているかもしれない」
「そうなんだ・・・・」
 アイは興味深げに目を見開き、キックの話を聞き入った。キックは、これはアイを説得させる最高のチャンスだと感じ、さらにジョンの話をつづけた。
「ジョンさんが言うには、あの森は心霊業界では有名な霊地らしい。二度と入っては行けないとも言われた」
「やっぱり・・・・」
「俺が思うに、だからこそフィールドワークする価値がある。そのとき俺は余計そう感じた。彼を連れて行ってでも調査をつづけるべきだと。彼からいろいろ教えてもらいたいこともあるわけだし」
「それはいいアイディアだけど・・・・、調査は長くなるんでしょ?」
「いや、そんな大冒険をするつもりはない。なんせ危険な場所だし、調査は焦らず少しずつ進めたい。だから二週間の休みの間だけだ。――どうだいアイ、ついてきてくれるかい?」
「もし、ジョンさんがついてきてくれるって言うんだったら行ってもいいわ。彼がいれば霊の問題に関しては大きな力になってくれる気がする。でも、彼が行かないというんだったら、あたしも百パーセント行かないから」
「わかった、アイ――」キックはアイに近づき、手を握り締めた。「ジョンさんに同行してもらえるよう全力で説得するよ、ハハハハ」
 キックはフィールドワークが決まったかのように喜んだ。
「よっしゃ、具体的な計画を立てるぞ」
 キックはモチベーションが上がり、調査についての具体案が頭の中を駆巡った。


   十七
 誰もいない診療所の待合室のソファーでジョンとナッツは二人っきりソファーに並んで座っていた。ハム、トン、ファンは母屋の建物にいる。
「デーン先生と仕事をしていたとき、毎日が大忙しだったから休みが欲しいって思ったこともあったけど、こうして毎日が日曜日になってみるとヒマもヒマで辛いものね」
 ナッツはジョンの肩に寄りかかりながら言った。
「イヒヒヒ、休みはいいものさ。こうしてのんびりしているのが人生の喜びってやつよ」
「そうかなあ。でも、いつになったらデーン先生、復活されるのかしら」
 ナッツは立ち上がって窓から庭を眺めた。プリンがデーンの木にせっせと水遣りをしている姿が見えた。
「プリンちゃん、毎日毎日一日中飽きもしないで水遣りしているわね。すごい忍耐力」
「あのブタ坊主、まったく何を考えているのか」
「ブタ坊主なんて言葉が悪いわよ、ジョンさん」
「じゃあ、メタボ坊主だな、イヒヒヒ」
「プリンちゃんが水遣りしている効果なのかしら。木の成長がすごいわ。植えたときは植木鉢の小さな苗木だったのに、日に日に目に見えて大きくなっている。もうあたしの背を越して見上げなくっちゃならない高さよ」
「なんだろうな、小坊主の奴、何かの霊力を吹き込んでいるのかもしれないぞ。やはりただのメタボ坊主じゃないようだ。あいつは本当に油断ならないぞ」
「ずいぶんジョンさん、プリンちゃんを警戒するのね」
「あの食欲と、あの急激な太り方、それに毎日の生活パターン、何から何まで異常だ。あいつは呪術師から力を吸い取る寄生虫みたいな妖怪かもしれないぜ」
「木の成長が早いのはデーン先生の呪力が影響していると思うわ」
「それもあるだろうがそれだけじゃない。小坊主の力を甘く見るな。前も言っただろ、あいつは水晶をアラレみたいに食べるぐらいだから」
「そう言ってたね」
「カチカチの水晶を美味しそうに食べるなんて人間技じゃないぜ。坊主は新種の呪術師なのかなあ」
「でも、どうしてジョンさんは水晶を持っていたんだっけ?」
「ナッツはいつもそっちの方向に興味を向けるんだな。そんなことよりも水晶をバリバリ食べた事実のほうがスゴイって言ったじゃないか」
「水晶の背景がわからないと現実味がないもの」
「水晶か? 水晶はだな・・・・。実はある知り合いの人から預かったものだったんだ。謝るのに一苦労したぜ」
「フーン、そうなんだ」
「だから、ああいう化け物から身を守るためにも、ファミリーから独立する準備をしておかないといけない。他の奴らはバカだからボーっとしていて気づかないけどな」
「独立っていっても、不安だな・・・・。あたしたち呪術師は風の精霊に追われる存在でしょ。人間みたいに自由に働けないわけだし」
「イヒヒヒ、不安なことなんかないさ。俺たちは自由だ。どうにでも生きていける」
「どうやって?」
「オレが考えているのは・・・・、例えば一台車を買って、個人タクシーでも始めってのはどうだ」
「タクシー屋さんになるつもり?」
「生きていくためにはいろんなことをしなくっちゃいけない。でも、二人で力を合わせれば大丈夫さ、イヒヒヒ」
 ジョンは衝動的にナッツに抱きついた。
「や、ジョンさん、ちょっと・・・・」
「イヒヒヒ――」
 そのときナッツは門の前に立っている人に気づいた。
「あっ、誰かきてるわ」
「本当か?」
 ジョンは立ち上がり窓から覗いた。門の前にキックとアイが立ち、インターフォンを押そうとしていた。
「あっ、オレの大切なお客さんだ。いや、お客さんじゃない、友人だ。ちょっと会ってくるぜ」
 ジョンは飛び出すように診療所から出て、キックとナッツに声をかけた。
「やあ、どうしたんだい?」
「あっ、ジョンさん、いまお呼びしようとしたところです。出てきてくださって、ちょうどよかった。この前はお世話になりました」
 キックが礼を述べた。
「なあに、オレは何もしていないさ。どう、おネーちゃん、体調はどうだい?」
「あれ以来、すっかりよくなりました。もうまったく幽霊も出なくなりました」
 アイは目を伏せて恥ずかしそうに笑った。
「イヒヒヒ、そりゃよかった」
 ジョンはアイの姿に目が留まった。彼女はミニスカート姿で長い足がすらりと伸び、化粧した表情からは溢れんばかりの色気があった。治療したときの彼女も確かに美人だったが、正装した彼女はイメージをはるかに上回る美しさだった。ジョンは、助平心が見透かされないように意識的に彼女から目を逸らした。
「まだ診療所はお休みですか?」キックが訊ねた。
「ああ、まだ休みだ。先生が不調なんだ」
「そうですか――」
 キックの頬が緩んだ。
「で、何か、用か?」
「ええ、用というか、相談したいことがありまして」
「相談? あっ、そう。話があるのなら、ちょっとここではまずいんだ。外へ出よう」
「はい、わかりました」
 ジョンは近くの喫茶店に彼らを連れて行った。
「――なあ、キックさんよ、ひとつ守ってもらいたいことがある」
「なんでしょうか?」
「用事があるときはまず一本、オレに電話を入れてくれ。突然きてもらっちゃ困るんだ」
「ジョンさんの電話番号がわからなかったものですから。――でも、どうして?」
「理由なんか聞かなくてもいい。ダメなものはダメなんだ」
「は、はい」
「オレの電話番号はだな――」
 電話番号の交換をした。
「で、用とは何だ?」
「ええ、どこから話せばいいのか。まずはもう一度お礼を言わせてください。ジョンさんの霊媒師としての高い能力によってアイを助けていただき、本当にありがとうございました」
「イヒヒヒ、あの程度のこと簡単なことさ。それで?」
「実はその稀有な能力を使って、是非手伝って欲しいことがありまして。そのことの相談を」
「と、言うと?」
「この前も説明したと思いますが、私は民俗学と宗教学の学者でして、――それでアイ、彼女はそれを専攻する学生でして。前回の調査の際、精霊の森へ調査に行ったことをお話しました。そこでミイラを見つけ、そのミイラの持っていた水晶を持ち帰って以来、アイが霊に憑かれて面倒なことが起きました」
「ああ、そうだな。君たちは、とんでもない恐ろしいところへ行ったんだ」
「ジョンさんはその場所をご存知なんですか?」
 アイが訪ねた。
「ああ、あそこは霊媒師の間では、最強の霊地として有名だ。一般の者が足を踏み入れる場所では絶対ない。世間一般にはまったく知られていないがな」
「そうなんですか――」キックとアイは目を見合わせた。「実はですね、あそこにですね、また来月、学術的な調査のために入ろうと思っているんです」
「な、なんと・・・・。君たちはそんな恐ろしいことを考えているのか」
「調査のためにどうしても入らなければならないんです。もちろん、霊的に恐ろしい場所であることは経験的に知らされましたし、未開の民族から身を守る大変さも知っています。それでも我われはあそこへ行かなければならないんです」
「ヘエー、そいつはご苦労さんだな」
「未開の民族から、宗教的な儀式や、習慣、文化、言語、いろいろなことを調査するつもりです。――それで、ジョンさんに頼みがあるんですが」
「なんだ?」
「あそこへ、一緒についてきていただけませんか?」
「なに! あの霊地へ!」
 ジョンは目を見開き、声が大きくなった。
「今日来たのは、そのお願いをするためなんです。ジョンさんは、霊世界のことにも非常にお詳しく、それに体力的にも強靭であるとお見受けします。どうしても同行していただきたくて」
「あんなところ、行けるわけないだろ。断る!」
 ジョンは斬り捨てるように言った。キックはそれでも一歩も引き下がろうとせず、必死の形相でジョンに訴えた。
「そうおっしゃらずにお願いします。それにジョンさんは水晶に憑いていた幽霊のこと、ミイラの男性のことも何かご存知だったようです。そういったこと、小さな情報でもいいですから、ご存知のことを何でも我々に情報提供していただけませんか」
「いや、オレは何にも知らない。かりにそれを知っていたとしても、それは霊世界のことで、一般庶民は知る必要がないことだ」
「わたくし個人のためではなく、大切な学問のためなんです。呪術の情報提供も含め、一緒にどうかご同行をお願いします」
 キックは額をテーブルにつけて懇願した。ジョンは軽蔑した目線でキックを見つめた。
――こいつ、真顔で言ってるぞ。あそこは大魔神の土地なんだぞ。サム兄さんも、弦太郎親分も、あの偉大なタム師匠まで消えてしまった恐ろしい土地なんだぞ。そんなところ、オレが行けるわけねえじゃないか。何が大切な学問のためだ。馬鹿野馬めが。
「できないネ、イヒヒヒ。じゃあね――」
 ジョンは冷たく言い放って席を立ち、そのままスタスタと店のドアの方へ歩いていった。キックはジョンの背中に向けて声をかけた。
「ジョンさん、待ってください。謝礼はたっぷりお支払いしますので、どうかお願いします」
「ん!?」
 ジョンは〝謝礼〟という言葉に反応して足を止めた。
「これは危険な調査ですし、二週間ほど時間がかかるかと思います。貴重なお時間を割いて頂く分、十分な謝礼はいたしますので、どうかお願いします」
 その言葉を聞き、ジョンはくるりと踵を返して席に座った。
「金の問題じゃないんだよ。命がかかってるんだよ。君は精霊を甘く見ているね」
「甘くなんて見ていません。危険な認識があるからこそ、その道のスペシャリストであるジョンさんにどうかご同行をお願いしたいんです」
「わたしの方からも、どうかお願いします」
 アイも一緒に頭を下げた。ジョンはアイと目を合わせた。
「ネーちゃんもくるのか?」
「はい、もちろん同行します」
「そうか――」ジョンは彼女の大きな瞳と、隆起している胸元を交互に見つめた。「いや、いや――」ブルブルと頭を振った。「できない、できない、あんな恐ろしいところ、命がいくつあっても足りない。オレは遠慮しとくぜ」
「学者生命を賭けて調査に行くつもりなんです。お願いします。ガイド料として一日一万バーツお渡ししますので」
「一日に一万バーツ?」
 ジョンは頭の中ですばやくそろばんを弾いた。
――ということは十日で十万バーツ、二十日で二十万バーツ! 美味しいじゃないか。いや、その額に甘んじないでもう少しツリ上げてやれ。
「金の問題じゃないって言ってるだろ。あそこは世界で一番危険な場所なんだ。一日一万五千バーツでも引き受けるかどうか・・・・」
「じゃあ、一日二万バーツお支払いします」
 すぐに二倍に上がった。 
「二万バーツねえ」
 ジョンは腕を組んで目を閉じた。
――な、な、なんと一回の調査で車が買えそうだぞ。美味し過ぎる、イヒヒヒ。大魔神の領土に入る手前で上手くごまかして回避すれば丸儲けじゃないか。大魔神の土地の近くまで行くだけでも、こいつらの足では往復十日ぐらいかかるはずだから、それでひと仕事終了だ・・・・。
「どうでしょうか、ジョンさん」
「そうだなあ・・・・」
 ジョンは気持ちが固まっていたが、彼らを焦らすように安易に首を縦に振らなかった。
「やっぱりダメでしょ――」アイがキックに声をかけた。「あの森は恐ろしい霊地よ。我われは絶対入っちゃいけないんだわ。ジョンさんですら、怖がっていらっしゃるのよ。諦めましょう。この前も言ったけど、ジョンさんが行かないのならあたしは絶対同行しませんから」
「おい、アイまでそんなことを・・・・」
 話が決裂しそうな気配になった。
「わかった、わかった、キックさん。あんたの情熱に負けた。そんなに研究がしたいのか。本当だったら、いくら金を積まれようが絶対行かない場所だけれど、そこまで言うんだったら案内しようじゃないか。もしも、君たちだけで行ったら九十九パーセント命はないだろうからな」
「同行してくださるんですか」
「ああ、行こう。絶対、生きて帰ろうな」
 ジョンは、キックとアイの手を引き寄せて重ね、両手で握り締めた。
「ありがとうございます」
「だが、これだけは守ってくれ。引くときには引く。オレが危険を感じたら必ず引き返すんだ。世界で一番危険な場所に行くんだから慎重な行動が大切だ。この約束は絶対守ってくれ」
「はい、わかりました。約束します」
「それと、金のことなんだが・・・・。これはオレが個人的に引き受ける仕事だ。診療所の誰にもこのことは言わないように」
「はい、わかりました」
「それともう一つ、金は前払いを要求する」
「前払いですか?」
 キックは訝しげにジョンを見つめた。
「オレは金のことでコジれるのが嫌なんだ。――できないのか?」
「できないわけじゃないですが・・・・」
「キック、前払いぐらいいじゃないの」
 アイはキックの耳元で囁いた。
「じゃあ、すぐに銀行の口座に振り込みます」
「うむ、頼んだよ」
「こちらこそよろしくお願いします」
 キックとアイは頭を下げた。
「それじゃあ、詳しい日程が決まったら、メールか電話で連絡してくれ」
「はい、わかりました」
 契約が取り交わされ、ジョンは二人と別れて療所へ戻った。
――ビックな仕事が入ったぞ、イヒヒヒ。早速ナッツに報告だ。
 診療所に戻ると、まだナッツは一人でいた。
「仕事だ、仕事だ、イヒヒヒ」
「仕事って?」
「ボディーガードの仕事をすることになった、イヒヒヒ」 
「ボディーガードの仕事? 急にどうしたの?」
「これは割りのいい仕事なんだ。近々一週間ぐらい留守にする。ナッツ、ファミリーには実家に帰るということで口裏を合わせてくれ」
「どうして隠すの?」
「副業するっていったら、彼らは嫉妬するだろ。オレたちは近々独立するんだから、そのためにも金を貯めておかないといけない。すべてお前のためだ、イヒヒヒ」
「ジョンさん、本気で言ってるの?」
 ナッツはジョンを上目遣いで見つめた。
「イヒヒヒ、もちろんだ。この仕事が終わったら一緒に暮らそうな」
「えっ、そんなに急に」
「もちろんだ。善は急げって言うだろ」
「何が善なのか、よくわからないけど・・・・、フフフ」
 ナッツはジョンの的の外れた言葉に思わず吹き出した。
「おかしかったか、イヒヒヒ。じゃあ『思い立ったが吉日』って言うのか。いや、『時は金なり』だったっけ。まあ何でもいい、とにかく近々二人きりで幸せに暮らすんだ」
「本当に?」
「本当だって。でも、この仕事は大変なんだ。電話が通じない辺境地に行く。仕事の間は連絡が取れない。心配しないでくれよ。帰ってきたらずっと一緒にいられるんだから、イヒヒヒ」
 二人は将来のことを話し合った。


   十八
 弦太郎ガルーダは空を飛びながらハッと意識を回復させた。視界には光の粒が輝き、身体には重さがなく、精神は安らぎに満ちている。ガルーダの世界に戻ってきた。
「死神の世界から脱出できたようだ。ああ、苦しかった・・・・。」
 ガルーダに戻った今の現実からは、死神の世界は夢の中の出来事のように思えた。
――ずいぶんと長い旅だったなあ。こちらとあちらでは時間の感覚がまったく違う。オレは砂漠を何十年、何百年さまよっていたんだろう。もし、あの時、幼女の勧める橋を渡りあの美しいオアシスへ行っていたら、オレはもうここへは戻ってこれなかっただろう。オアシスとは正反対の不気味な丘、あそこを目指して正解だったんだ。あの臭い沼に嵌まり・・・・、あの沼が死神の世界の抜け穴だったってわけだ。
 弦太郎ガルーダは空を飛び回りながら現在の自分の体を点検した。以前に比べて五感がより鋭敏になり、スピードが速くなっている。心もより安らぎに満ち、頭脳も明晰である。
――死神の世界から抜けた効果だな。呪術師時代、死神の世界から抜けた後、一段と力が増して驚いたが、ガルーダでも同じことが起こっている。あのとき、死神の世界で選択を誤っていたらどうなっていたことか? 砂漠を永遠にさまよっていたかもしれないし、完全に死んでしまったかもしれない。そういえば、呪術時代、死神の世界をさまよっていたとき、過去の経緯はほとんど思い出せなかったが、今回は少し思い出せていた。ガルーダになって力が増したから、死神のトリックを見破りやすくなったのかもしれない。だけどトリックを見破れたからといってあんなに苦しめられたんだから、二度と行かないように注意しなければ。とにかく大魔神には要注意だ。
 そんなことを考えながら、改めてガルーダの眼から見える光の世界を堪能した。人間の視覚世界と比べると、より微細で、奥深く、リアリティーが高い。この世界と人間の世界を比べれば、人間の世界は平坦で実に単調である。つくづくとガルーダの身が幸福であることを感じた。
――この臭いは?
 弦太郎ガルーダは〝獲物〟の微かな臭いを感じた。
――どっちの方向だ?
 感覚を研ぎ澄まし、獲物の方向へ向かって飛んでいくと、数多くの獲物の光が群がる場所を見つけた。
――この獲物たちは共同で生活しているのだろうか。共同生活をしているとしたら、もしかしたらこれはサロ呪術師の村かもしれないぞ。ということは、大魔神が支配しているのか?
 眼を凝らして周辺を観察すると、案の定、黒く渦巻いた不気味な陰を見つけた。
――大魔神だ・・・・。この前見た奴と類似している。地味な色で擬態しているが、近づいたら姿を豹変させて襲ってくるだろう。
 獲物を諦めてそこから離れようとしたとき、ふとタムのことを思い出した。
――ここが大魔神の領土ということは、師匠のサボテンが近くにあるかもしれないぞ。いや、別の大魔神の領土なのだろうか?
 地理を観察するため周辺を旋回した。以前来た記憶を思い起こして照らし合わせると、ここは確かにタムのいる大魔神の領土である。しかし、タムの光を見つけることはできなかった。
――師匠、どこへ行ったんだろう。サボテンの身では移動できないはずなのに、おかしいなあ。
 無防備なサロ呪術師たちの姿がちらちら眼についた。彼らは大魔神に守られているという安心感からなのか、あまりにも無防備だった。
――本気で狩りに挑めば成功するんじゃないか。なんてったってオレは死神の世界から脱出してパワーアップしているんだ。スピードが格段と速くなっている。かりに、大魔神との戦いに勝てないにしても、逃げ切ることは簡単なんじゃないか。所詮、大魔神の領土なんて狭いものだ。いや、いや、慢心するのは危険だ。大魔神は恐るべき相手だ。安易な行動は危険だ。もう少し様子を窺おう・・・・。
 弦太郎ガルーダは大魔神の領土周辺を大きな円を描いて旋回した。


   十九
 ジョンとキックとアイの三人はフィールドワークに出発した。飛行機でチェンマイからビルマとの国境の町に飛び、そこからレンターカーを借りて山へ入っていった。山奥で車が走行不能となり、三人は車から降り、荷物を背負って大魔神の領土へつづく山道を歩き出した。
 ジョンは彼らの足取りの遅さを喜んだ。
――イヒヒヒ、やっぱりこいつらは所詮人間だな。なんとモタモタ歩くんだ。このペースじゃ大魔神の領土へたどり着くまでに一週間はかかりそうだ。往復の道のりだけで雇用期間の二週間か。さらに道に迷って時間がかかればありがたい。そうなったら怖い目に遭わずして仕事料金はオレのもの。
 キックは当初、小太りの中年男のジョンが長距離の山歩きについてこられるか心配だったが、息も切らさずついてくるのに驚いた。それどころかいつもニヤニヤと笑みを浮かべている。
「ジョンさんは体を鍛えているんですか?」
 キックが歩きながら訊ねた。
「いや、とりたてて何もしていないぜ。オレのような真実の霊媒師ってやつは、鍛えなくても地力が強いんだ、イヒヒヒ」
「何もしていないのにというのはすごいですね。ぼくは毎日のようにジムで徹底的に鍛えていますが、それでも山歩きはシンドイです。ジョンさんもいまは元気でも、疲労すると免疫力が下がって病気になりますから、たびたび休憩は入れましょう」
「そりゃ、ありがたいね、イヒヒヒ――」ジョンは笑って応えた。心の中では、
――オレは休まなくったって全然平気なのに。ま、時間をかけてもらうのは大いに結構だがな。
 キックが説明をつづけた。  
「山歩きの初心者は始めに無理をして体調を崩すものなんです。だから最初は楽勝だと思っていても、計画的に休むことは非常に重要なんです」
「ジョンさん、本当に無理はしないでくださいね」アイもジョンを労わるように言った。
「お嬢ちゃんよ、アンタこそ、こんな山歩きは大変だろ。なんだったらアンタの荷物も持ってやろうか、イヒヒヒ」
「あたしは大丈夫です。前回の調査でも同じ重さの荷物を背負って歩きましたから」
「なあに、遠慮するな。オレは力持ちなんだから」
 ジョンはアイの荷物を取り上げて体の前方に抱えた。
「ジョンさん、無理はやめてください――」キックが言った。「アイも僕と一緒にたびたびジムに通って鍛えてますから、みかけは細いですけれど意外と体力があるんです」
「無理なんかしていないぜ。オレは力が有り余っているんだ。全部の荷物を持ったって大丈夫なぐらいだから、イヒヒヒ」
「歳をとると、疲れがあとになって出てくるっていいますよ」
「大丈夫だ。オレはまだまだヤングなんだから」
 ジョンは語気を強めて言った。
――こいつら、オレを年寄り扱いしやがって。オレを誰だと思ってるんだ。オレ様は天下のセタ呪術師だぜ。本気になって歩けば、大魔神の領土なんか一日で着いちまうだろう。今は亡き親分の足だったら半日もかからないだろう。
「ジョンさん、そんなに強がらないでください」
 キックはジョンの態度に呆れたように言った。
「強がってなんかいないぜ」
――フン、いまにオレ様のスゴさに気づくだろうよ。体力なんてことよりオレが恐れていることは風の精霊だってのに。
 ジョンは白く曇っている空を不安げに見上げた。もちろん、臆病者のジョンはマガラの香水を予めたっぷり塗りたくっている。しかし、歩いているうちに汗で臭いが流れ、効きが悪くなってしまう恐れがある。
――ああ、怖いよなあ。こんな屋外で風の精霊がやってきたらどうしよう。さらに、目的地は大魔神の領土だろ。何を好き好んでそんなところへ行かなくっちゃいけないんだ。餓えたライオンの檻にネズミが入るようなものだ。普通に入ったら確実に殺されてしまう。うまく立ち回らないとなあ・・・・。〝金を稼ぐ〟ってのは簡単なことじゃないよなあ。
 ジョンはフーっと息を吐き、前方を歩くアイの臀部をじっと見つめた。
――イヒヒヒ、いいケツしてるぜ。こんな美人のケツを二十四時間眺められるのはいい慰めになる。
 ジョンがそんな妄想をしていると、キックが振り返りジョンに訊ねた。
「道々ジョンさんにいろいろな話を聞かせてもらいたいんです」
「ん? 何の話をだ?」
「ジョンさんは〝少数民族の呪術〟についても詳しそうなので、そのことについて」
「呪術・・・・」
 ジョンはその言葉を聞き口ごもった。
――人間に呪術の真実なんか話せるかって。〝呪術師の掟〟で堅く禁じられているんだ。馬鹿野郎めが。
 ジョンは素っ気無く言った。
「いや、オレは霊媒が本職だから、呪術のことは何もわからないし、興味もないね」
「それじゃあ、少数民族について興味はありますか?」
「少数民族? どんな民族だ?」
「ミイラの写真、ジョンさんに以前見せたじゃないですか。実はあの場所で、未開と思われる少数民族と遭遇したんです。話したかな? その民族は文明にほとんど触れたことがないらしく、半裸で鋭い目をした小柄な男たちでした。想像するにあのミイラは、その民族の儀礼と何か関係があると思われます」
「少数民族・・・・」
 ジョンは考えた。
――多分、こいつはサロ呪術師のことを言ってるんだな。あいつらに遭遇してよく生きて帰ってこれたものだ。
「なにかご存知のことでも?」
 キックはジョンの考え込む表情が目に入り訊ねた。
「ヘェー、そんな山奥に住む民族がいるとはなあ。山奥にはサルしかいないと思っていたぜ。君もそんな野蛮人に遭ってよく無事でいられたものだ」
「もちろん、危なかったんです。彼らに取り囲まれたときは、さすがに殺されるかと思いました。たまたま水着グラビアの写真が掲載された雑誌を持っていて」
「水着グラビア? どういうことだ?」
「カバンに偶然入っていたアダルト雑誌を見せたら彼らは夢中になって、その隙に逃げることができました。その経験を踏まえ、今回もその手のものはしっかりと用意してきました」
「なかなか巧妙なやり方だな。野人にヌードとは、イヒヒヒ」
「それともう一つ恐れるべきこと――、この前も話しましたが、森に漂う〝精霊〟の存在。前回アイは森の中で精霊に憑かれて人格が豹変しました」
「あの土地は伝説的な精霊の聖地だからな、イヒヒヒ」
「ジョンさんに〝霊の聖地〟と聞いてビックリしました。本当に脅威の森です」
「まあ、そのことに関してはオレの得意分野だから、そんな霊が出てきたらチョチョンのチョンって片付けてやるよ、イヒヒヒ」
「ありがとうございます。ジョンさんがいてくれて心強いです」
「ジョンさんが今回一緒にきてくださらなかったら――」アイが言った。「わたしも絶対きませんでした。あんな恐ろしいところへ二度と足を踏み入れたくありません。ジョンさんがついてきてくださるということで今回渋々やってきたんです」
「オレがいれば幽霊なんてどうってことないさ、お嬢ちゃん」
 ジョンはそう言い、アイの肩にポンと手を乗せた。
「それと他にお聞きしたいこと――」キックが言った。「ミイラの幽霊のことですが、彼が言っていた〝ダイマジン〟とか〝ゲンタロウ〟とか、それらはどういった意味があったんでしょうか? ジョンさんに以前話したとき、顔色を変えて驚かれたじゃないですか」
「イヒヒヒ、あれはだな――」
 ジョンはキックの質問にどう答えようか頭を悩ました。
――呪術師ファミリーのことなんかお前に言えるわけがないだろ。なんでそんなことに頭を突っ込んでくるんだ。
「ええっと、ダイマジンンというのはだな・・・・、〝精霊の親分的存在〟ということを聞いたことがある。だから驚いたんだ。そんな存在がが本当にいたんだって」
「ダイマジンは〝精霊の親分的存在〟ですか。なるほど――」
 キックはポケットからメモを取り出し、さらさらと書き記した。
「メモするようなことじゃないぜ。そんなこと幽霊の妄言だ。真に受けなくてもいい」
「いや、僕はそうとは思えません。なぜなら、幽霊はジョンさんがいる診療所のことを知っていたんですから。幽霊が診療所のことを教えてくれなかったらジョンさんとも出会えなかっただろうし、ジョンさんとの出会いがなかったならアイは廃人になっていたかもしれない。ジョンさんは、幽霊が診療所のことをどうして知っていたと思いますか?」
「ううん・・・・、何だろうなあ。幽霊は自分の魂を鎮めてくれる霊媒師を探していたのかなあ」
「そうかなあ。霊媒師なら誰でもいいというより、ジョンさんを個人的に探していたと思うんですが。ミイラの男性と直接的な関わりを過去に何か持っていっらっしゃるのでは?」
「イヒヒヒ、オレはそんな奴とまったく関わりはないぜ」
――コイツなかなかしつこいぞ。お前なんぞが知る必要もないのにベラベラ訊ねてきやがって。
 キックはたたみかけるようにジョンに訊ねた。
「でも、ジョンさんは画像のミイラを見たとき、旧知の親友にでも邂逅したかのように驚いていたじゃないですか。あれはどうしてですか? 何か少しでもお心当たりのことがあったら正直に何でも教えてくださいませんか。ぼくは学者ですから様々なデーターが必要なんです」
「親友に邂逅したようにじゃなく、単に気味が悪くて驚いただけだ。あんな気味の悪いミイラを見たら誰でも驚くぜ。――なあ、お嬢ちゃん」
 ジョンは、キックの話がしつこいのでアイに話を振った。
「ええ、あたしもあんなもの絶対見たくありません。キックはあれを見るのが毎日の日課になっているんですよ」
 アイは小言を漏らすように言った。
「アイ、それはあくまでも研究のためなんだって言ってるだろ。あのミイラを解析するため、俺は日々考えつづけているんだ。大切な研究だと思うからこそ、こうして霊媒師のジョンさんにまでご迷惑をかけてフィールドワークにきたんじゃないか」
 キックはムッとしながら言った。
「まあ二人とも、そうトゲトゲするなよ。オレたちは運命共同体だ。楽しくやろうぜ」
「すみませんジョンさん、変なところ見せちゃって」
 アイはジョンに申し訳なさそうな表情をした。
「男と女の間にいさかいはあるものだ、イヒヒヒ」
 ジョンはそう言いながらアイの背中を馴れ馴れしくさすった。アイはいきなりジョンに背中を触れられて一瞬戸惑ったが、表情を変えずに平静をとりつくろった。キックもジョンのその行為を見逃さなかった。
――なんだ、このオッサン。アイを触りやがって。
 ジョンとの関係性を壊さないように、キックは目を逸らしてそれを見なかったフリをして黙々と歩いた。
     *
 山を歩きつづけ、三日が経過した。
 キックはジョンにいろんなことを訊ねたが、芳しい回答を何も得られず面白くなかった。もう訊ねることもなくなり、沈黙して歩く時間が長くなった。ジョンは相変わらず疲れをまったく見せず、アイと陽気に話しながら歩いている。しかもアイの荷物だけではなく、キックの持っていた重い荷物も持ってくれている。キックはジョンの体力に脱帽するより仕方なかった。キックは真剣に霊力の高さというのは体力に比例するものかを考えた。
 アイはジョンと完全に打ち解け、話が弾んだ。
「ジョンさんの霊能力は生まれつきのものなんですか?」
「そうだなあ、オレは昔から〝神童〟として村では有名な存在だったが、本格的に開花したのは大人になってからだな」
「どうやって開花したんですか?」
「神秘的なことが起こったんだ。暗闇の夜に突然スポットライトに照らされたようにまぶしい光が降り注ぎ、空から花びらが降ってきた。それから開花したんだな、イヒヒヒ」
「そんなことがあるんですか」アイは目を丸くして驚いた。
「これはオレの秘密だぜ。誰にも話すなよ。信頼に足るお嬢ちゃんだからこそ、こうして秘密を話すんだ」
「ええ、もちろん誰にも話しません。――それじゃあ、霊力が開花してからは、どんな修行をしているんですか?」
「修行のやり方はいろいろあるぜ。太陽のメディテーションとか、霊石のメディテーションとか、詳しいやり方は秘密だが、一般人には知られていないろんな修行をしている。だから、一般人なんかと全然違うだろ? こうして重い荷物を背負って歩いてもへっちゃらだし、イヒヒヒ」
「すごいですねえ。ジョンさんの歳でこんなに体力があるなんてちょっと考えられない。――この前、霊力が強くなれば自然と体力もつくと言ってましたよね」
「そんなこと言ったかな、イヒヒヒ。霊媒師の秘密というのはいろいろあって、基本、一般人に私生活をベラベラ話さないものだが、ついついそんなことも話してしまったか、イヒヒヒ」
「どうしてジョンさんは隠しごとが多いんですか。ジョンさんの能力を知らない人から見れば、隠し事が多すぎて少し怪しく見えますよ」
「霊力は秘めることによって増すものなんだぜ」
「ヘエー、そうなんだ」
 アイは感心したように言った。
「ヒヒヒヒ」
 ジョンは普段、人に感心されることがないのでアイと話していると気分がよかった。
「お嬢ちゃん、足元に気をつけろよ」
 ジョンは勾配の急な坂を前にすると、アイの背中や尻を押したりして彼女の歩行を助けた。
「もう、〝お嬢ちゃん〟っていうのはやめてください。〝アイ〟って呼んでください」
「イヒヒヒ、オレから見たら〝可愛いお嬢ちゃん〟にしか見えないんでな。じゃあ、恥ずかしながらアイって呼ばせてもらうぜ」
「――おい、さっさとついて来い」
 一人前方を歩いていたキックは後ろを振り返って叫んだ。後ろを振り向くたびに、二人がイチャイチャしているように見え、非常に気になっていた。
「すぐに追いつくわよ――」アイはキックに大きな声で返事をし、
「ジョンさん、少し急ぎましょうか」
 微笑みながら敬意を払って言った。
 アイは霊について自分よりも卓越した人物に会うのは人生で初めてのことだった。普段彼女は自分の強い霊能力のことを誰にも言えず、それを隠して生活していた。そうしないと変人に見られるという懼れがあり、隠すことでストレスを感じていた。キックはアイの全てを受け入れてくれる貴重な理解者の一人だったが、キック自身は霊能力がまったくないので本質的な理解は得られない。その点、ジョンとはオープンに何でも話すことができ、心が昂揚した。
「ジョンさん、あたしね、ジョンさんほどじゃないけど霊能力が強いでしょ。この能力を社会に対し、もしく人生において、どう使っていけばいいか悩むことが多いんです。ジョンさんみたいに、徹底的に霊力を強くしたほうがいいものか、それとも、そういう力をまったく失ったほうがいいのか、今後の人生、どっちを選択したらいいでしょうか?」
「イヒヒヒ、そうだなあ、中途半端はなんにしてもよくない。オレが鍛えてやれば一人前にしてやれるが、生憎オレは弟子をとっていない。そういう力を放棄して、大人しく世間に従って生きていった方が無難だな」
「放棄するのはもったいない気がするんです。せっかくの才能なのに・・・・。どうしてジョンさんは弟子をとらないんですか?」
「弟子をとらないわけではないんだ。よほど素質がある者を見つけたら別だ、イヒヒヒ」
「じゃあ、あたしはどんな感じですか?」
「なかなかいいものを持っているな、イヒヒヒ。でも、そんなに簡単に見極められない。現在審査中だ」
「弟子にして欲しいなあ」
「師弟関係は無理かもしれないが、困ったことがあったらオレのところにきたらいい。何でも相談にのるぜ。それに霊力のシェアもできる。このようにな――」
 ジョンはアイの手を握り締めた。
「ジョンさん、これでどうなるの」
「気づかないか? いま霊気を送っているんだぜ。こうしているだけで相手の霊気が高まる、イヒヒヒ」
「本当に? 単に手を握られているだけに感じるけど・・・・。いや、ちょっと恥ずかしいわ」
 アイは頬を赤らめ、ジョンの手をゆっくりと振り解いた。手が振り解かれると、ジョンはアイの腰に手を回した。
「これでも霊気を送れる、イヒヒヒ」
 二人はそのまま肩を並べて歩いた。
「昨日から気になっていたんだけど、ジョンさんから〝変な臭い〟がするんだけど。――あっ、ごめんなさい、変な臭いって〝くさい〟っていうことじゃく、嗅いだことがない特殊な臭いがするんです。何か塗っているんですか? 霊力の出る薬?」
「さすがに敏感だな、イヒヒヒ。これは特殊な香水さ。これをつけていると悪霊に憑かれにくくなる」
「えっ、本当、あたしにもつけて欲しい」
「いやいや、これは〝人間〟には必要ないんだ」
「人間には必要ないってどういうこと?」
「ああ・・・・、〝一人前の霊媒師なっていない者〟には必要ないってことだ。まだアイには必要がないな」
「そうなの。残念ですね」
「イヒヒヒ」
――いくら可愛いからって、マガラの香水を分けるわけにはいかない。そもそも人間には必要ないんだ。
 キックが後ろを振り向くと、二人が身体に触れ合い、仲睦まじく歩いているのを目にした。
――あの、デブ親父め。
 キックは叫んだ。
「アイ、早く行くぞ。日が暮れちまうだろ」
 ジョンには目も向けず、アイを睨みつけて言った。
「キック、何をイライラしているの?」
「イライラなんかしていない。速く歩くんだ」
 キックはジョンと言葉を交わしたくなかった。キックの中のジョンの評価は〝高等な霊媒師〟から〝胡乱な霊媒師〟に格下げされていた。しかし、ジョンに対する信頼がまったくなくなったわけではなかった。実際にジョンには驚嘆すべき体力があり、ある種の薄気味悪さも漂わせている。年齢的な差もあり、直截的に逆らうことはできなかった。
     *
 山に入って四日目、森の雰囲気が変わってきた。森は古代にタイムスリップしたかのような様相を漂わしている。ジョンの予想では大魔神の領土まで最低一週間はかかる思っていたが、近々着きそうな気配である。
――マズイぞ。今日あたり着いてしまうかも・・・・。
 そんな心配をしながら歩いていると、昼過ぎ、三人の目の前に、鬱蒼とした原生林の森が現れた。それを見た瞬間、ジョンは震え上がった。
――ゲッ、着いてしまったのか。
 そこに何らかの〝線〟があるわけではなかったが、そのただならぬ雰囲気からいって今までの土地とは明らかに違っていた。
――大魔神の領土はどうやらこの辺りからだぞ。ここからしばらく歩いたところに親分の霊石があったはずだ。ここに入ったらサロ呪術師が出てくるぞ。困ったぞ、次の手を打たねば・・・・。
 ジョンは表情をキリっと引き締め、ピタリと足を止めた。
 キックとアイはしばらくして、ジョンが傍らにいないことに気づいた。アイが後ろを振り返ると、遠くでポツンと突っ立ているジョンの姿があった。
「どうしたんですか? ジョンさん」
 アイが叫んだが、ジョンから返事は返ってこなかった。
「どうしたのかしら?」
 アイとキックは顔を見合わせ、ジョンのところへ引き返した。
「ジョンさん、どうしたんですか?」
「ダ、ダメだ・・・・」
 ジョンは今までの元気がどこへいったのか、細い声で不安げに言った。
「何がダメなんですか?」
「ここからは霊気が強すぎて入れない」
「もうすぐですよ。すぐそこだと思います。ミイラを見つけた位置までは」
 キックはタブレット端末の地図を広げながら言った。
「ウウー・・・・・」
 ジョンは口ごもって動こうとしない。
「ジョンさん、これからが本当の仕事ですよ」
 キックは強めの口調で言った。しかし、ジョンはいままでの傲慢な態度とは打って変わり、親から逸れた幼子のような弱気な様子である。顔が青ざめて怯えていた。
「君らだけで行ってくれないか。オレはここで待っているから」
「何を言ってるんですか。もうすぐそこですって。ミイラの場所までここから二十分か三十分だと思いますよ
「いや、ここからは歩けない」
 ジョンは荷物を地べたに下ろした。
「ジョンさんを雇ったのは、今から行う調査のためじゃないですか。早く来てください」
 キックは呆れたように言った。しかし、ジョンは何も聞き入れたくないらしく、地面に座り込んだまま腕を組んで目を固く閉じた。その態度を見たキックは、アイとイチャついていた恨みもあり、声を張り上げて言った。
「ジョンさん、金を払っているんだから、働いてくれないと困ります」
「ここまでついてきてやったじゃないか」
 ジョンは子供のように口を尖らして言った。
「これからが本当の仕事なんですよ」
「いや、オレは事前に説明したはずだ。霊の危険地帯になったら警告すると。これ以上進むと命が危ないんだ」
「霊の危険地帯って、そんな奇妙な言いわけしないでください。すぐそこなんですって」
「ここから先に進むと、一気に頭がおかしくなるだろう。絶対にな。これ以上は足を踏み入れるべきではない」
 キックはジョンの臆病な態度にとうとう堪忍袋の緒がプツンと切れた。
「オレはアンタに金を払ってるんだ! 俺の言うことを聞け!」
 アイはそんなキックの乱暴な言葉を聞き声を張り上げた。
「キック、年上のジョンさんに向かってそんな失礼な言い方するのはやめて頂戴」
「お前は黙っていろ! 俺はこのオッサンと話してるんだ」
 キックとアイは対峙し睨み合った。ジョンは感情的になっている二人の様子を観察しながら、心の中で毒づいていた。
――ケッ、このガキめ、ナメた口をききやがって。
 キックはアイを押しのけ、ジョンの前に仁王立ちになった。
「さあ、行こう。こんなところでモタモタしている時間はないんだ」
「これ以上は危険だって言ってるだろ」
「いい加減にしてくれ。何が目的なんだ。休憩をしたいのか? それとも・・・・。ああ、わかったぞ、さらに金を要求する魂胆だな」
「そんなつもりはない――」ジョンは冷淡な調子で言った。「この霊気は尋常じゃないんだ。こんな強い霊気に触れたのは生まれて初めてといっていい。この以上先に進むと、我われは絶対命を失うぞ」
「何を子供みたいなこと言ってるんだ。――ああ、わかった、わかった。じゃあ、俺たちだけで先に進む。それでいいんだろ」
 キックはジョンが持ってくれていた荷物を肩に抱え上げた。
「キック、ジョンさんの言うことを聞いたほうがいいわ。そのためにジョンさんに同行してもらったんじゃない。あたしも嫌な気配を感じるわ。この霊気はジョンさんが言うとおり恐ろしいものよ」
「お前まで何を言い出すんだ」
 大魔神の領土の手前で三人は口論となった。


   二十
 サロ呪術師の村にある小高い丘の上方に大魔神の御殿が燦めいていた。御殿内部の宝石と金箔で彩られた豪奢な広間の中央で、長老は子猿の毛づくろいをしていた。子猿は長老の膝の上でべったりとうつ伏せに寝転び、ときおり小さな鼾をかいている。白いひげをたくわえた高齢の長老は、目を凝らしながらゆっくりとした所作で子猿の毛を整えていく。御殿は頑丈な扉と壁に覆われているので外の気配がまったく感じとれないほど静寂である。サロ呪術師の村は規律が厳格に保たれているので騒動は滅多に起こることがない。この静寂はサロ呪術師村の平穏な日常を象徴しているかのようだった。
「ん?――」長老は子猿の毛並みの小さな変化に気づいた。「大魔神様、毛が逆立っておられますが、どうかされましたか?」
 その問いかけに子猿はしばらく沈黙し、一呼吸おいて甲高い幼児声で逆に訊き返した。
「聞こえないのか?」
「聞こえない、と言いますと」
 長老がゆっくりとした口調で言った。
「領土の周りを風の精霊がウロウロしている」
「本当ですか。私は鈍感なので気づきませんが」
「領土を念入りにうかがっている。馬鹿な野郎だ。よほど腹を空かしているのか、奴は我輩の存在に気づいているはずだろうに。ウキキキ」
 子猿は嬉しそうに笑った。
「村に避難警告を出しましょうか」
「そんなことする必要はない。我輩はサロ呪術師たちに指一本触れさせたりはしない。入れるものなら入ってきたらいい」
「さすが大魔神様、心強い。――でも大魔神様、手ごわい風の精霊もいますから、ご油断なさらぬように」
「我輩を手こずらせるぐらいの骨のある奴に逆に会ってみたいものだ、ウキキキ――」
     *
「あんなところにも散らばっている」
 弦太郎ガルーダが宙を旋回しながら大魔神の領土を観察していると、集団から外れたところにも獲物の光があった。呪術師時代の経験を照らして考えると、それは村から離れ山の中で生活しているサロ呪術師だと推測できる。
――いくら大魔神が強力だからといってもこれだけ離れているんだ。一匹ぐらいかっさらえるんじゃないか。
 大魔神から一番離れているところにいる一匹の獲物に目をつけた。
――あいつを狙うとすれば・・・・。
 領土の外から最短距離で獲物に向かい、獲物を狩ったら最短距離で領土の外へ逃げるルートをイメージした。心の準備も整った。
――大丈夫そうだぞ。やってみるか。
「やーっ!」
弦太郎ガルーダは気合を入れて、超高速で獲物に向かっていった。
     *
「――きた!」
 子猿は、ガルーダが領土に侵入した瞬間、白い龍にパッと姿を変え、猛スピードでガルーダに向かって飛んでいった。長老の目には子猿が白い龍に変化したことすら認識できず、ただ目の前から子猿の姿が忽然と消えた。長老は狐につままれたように一人呆然としていた。
     *
 弦太郎ガルーダの目の前に獲物が迫ってきた。
 ドン――!
 獲物に口先が触れる数センチ手前、何かの強い衝撃が身体に走り、そのまま地面に叩きつけられ、一瞬、方向がわからなくなった。
     *    
「――さあ、アイ、早く行くぞ」
 キックはアイの手を引っ張った。
「キャア、何するの! あたしも行きたくないわ!」
 アイは悲鳴をあげて拒んだ。 
「じゃあ、このおっさんと一緒にここにいるつもりか? どうなんだ?」
 キックはアイを大声で怒鳴りつけた。大人しくしていたジョンだったが、威勢を張るキックの態度に苛立ち始めた。
――この野郎、こっちが大人しくしていればズにのりやがって。
 ジョンはヌッと立ち上がり、キックを鋭い眼光で睨みつけて恫喝した。
「おい、兄ちゃん、あんまり怒らせんなよ、オイ!」
 キックは、突然怒り出したジョンの迫力に数歩後ずさりした。
 ピー――
 そのとき、ジョンの耳に風の精霊の音が聞こえた。
「ヘッ!?」
 ジョンは目を丸くして飛び上がった。
――こんなところで風の精霊に・・・・。
 ジョンの視界からアイもキックも消え、自己保身のことで頭がいっぱいになった。あたふたと周りを見渡したが、山の中に密閉された安全な場所などあるはずがなかった。
「ウヒェ! どうすればいいんだ・・・・」
 ジョンはパニックになって頭を抱えてクルクルと辺りを走り回り、手近にあった木の幹にしがみついて身を小さくした。キックとアイは、突然豹変したジョンの挙動を理解できず、呆然として彼の様子を眺めた。
「この人、どうなっちゃったんだ・・・・」
 ドカン――
 突然、巨大物質が落下したような大きな衝撃音が近辺から響いた。
「キャッー!」
 キックとアイは咄嗟に地べたに伏せった。何が起きたのか理解できない。次の瞬間、稲妻が天を真っ二つ裂き、体を震わすほどの雷鳴が轟いた。空を見上げると夜のように暗くなっている。
「何が起こったんだ?」
 キックとアイは体験したことのない自然現象の脅威におののき、互いに抱き合い体を硬直させた。
 ビュー――
 体ごと吹き飛ばされるような強風が吹き抜け、大粒の雨がどっと降り出した。中空には頻繁にフラッシュがたかれ、同時に「ドカン、ドカン」と鼓膜が破けんばかりの雷が落ちてきた。それはまるで紛争の激戦地で集中砲火を浴びているようだった。まったく生きた心地がしなかった。
「死ぬゥ・・・・」
 ジョンは風の精霊と落雷の恐怖で失神しそうになっていたが、朧な意識の中でハッと気づいた。
――雨に濡れたらマガラの香水が完全に落ちてしまうじゃないか。この状態で風の精霊が襲ってきたら確実に殺される。金に目が眩んでこんなところにきたばかりに、ウヘー・・・・・。
 木に抱きついたまま男泣きした。
 さらに三人は恐ろしい現象を目の当たりにした。凄まじい衝突音とともに、原生林の巨木が次々と根元からへし折られて飛ばされ、大地がえぐられて土埃が舞った。目には見えないが強大な力が大気中を暴れているようである。そこに巻き込まれたら人間の小さな命なんて簡単に吹き消されてしまうだろう。三人はただひたすら地面にひれ伏した。
     *
 弦太郎ガルーダは獲物を口にしたとばかり思っていた。それがハッと気がついたときには大魔神龍に体を押さえつけられ、動きを止められようとしている。力ずくで飛び回り振り払おうとするが、大魔神の力は異常に強くて自由になれない。死神の世界を経過しパワーアップしたと感じていたが、大魔神との力の差は歴然としていた。
 領土の外へ逃げようとするがその方向には飛ばせてくれず、逆に領土の中へどんどん引きづり込まれていく。大魔神の力に抗うために高く高く上空へ昇っていくと、今度は中空に黒い穴がポッカリ現れた。
「あっ、死神の世界の入り口だ!」
 一つ避けると、また同じように前方に黒い穴が現れた。避けても避けても次々と黒い穴が現れてくる。龍はガルーダを押しやるようにして黒い穴へ落とそうとした。その攻撃を身をよじりながらかわすが、かわしてもかわしても黒い穴が出現してくる。
「ああ、このままではまた死神の世界へ追いやられる。あの世界に入ったら半永久的にさまよいつづけなければならないだろう。いや、半永久的どころか、完全に死んでしまうかもしれない」
 弦太郎ガルーダは上昇するのをやめ、方向を百八十度変えて急降下した。それは苦肉の策だった。
「クソ、どうにでもなれ!」
 地面が近づいてきた。このままでは地面に衝突するだけである。すると、下方にスペースのある物体が目に入った。
「何だあれは?――」目を見開いてその物体を凝視し、ハッと気づいた。「そうだ、あれは師匠が言っていた〝霊石〟かもしれない。あの中に逃げ込めるのでは」
 弦太郎ガルーダはイチかバチかそのスペースに衝突した。
「――消えた」
 大魔神はガルーダを突如見失った。
「どういうことだ? 追い詰めたと思ったのに・・・・」
 大魔神はしばらく宙ににとどまって、ガルーダを探したがその姿はどこにもなかった。
「死んでしまったのか・・・・」
 身を翻して御殿へ戻った。
     *
 嵐がやみ、空がスーッと明るくなった。抱き合って身を震わせていたキックとアイは互いに目を見合わせた。
「嵐が去った・・・・」
「そうみたいね」
 ゆっくりと体を起こした
「怪我はないか? アイ」
「うん・・・・」
 二人は手を握り合った。
「怖かったわ・・・・」
 アイは半ば放心状態で目に涙を浮かべながら小さく呟いた。
「ジョンさんは?」
 ふとジョンの存在を思い出した。周りを見渡すと、ジョンは樹の根元に伏せったまま失神していた。
「ジョンさん、大丈夫――」
 アイはジョンの元に駆け寄り、太った体を揺すって介抱した。ジョンは白目をむき出しにし、半開きの口から涎を垂らしていた。
「ジョンさん、ジョンさん――」
 しばらく体を揺すりつづけると、「うう」と呻き声をあげ、ゆっくりと黒目が戻って目の焦点が合った。
「ジョンさん、気がついた?」
 ジョンは上体を起こして目をパチクリし、うわ言のような声を出した。
「ここは天国かな?」
「天国じゃないわ、私たちは死んでないよ」
「死んでない・・・・」
 ジョンは両手で顔をゴシゴシとこすった。
「あたしももう駄目だと思った。だけど三人とも無事だったわ」
「生きていた・・・・」
 ジョンはポカンと空を眺めた。
「山は天候が変わりやすいようだ――」キックが恐怖心を押し隠し、余裕の笑みをつくろって言った。「過ぎ去ってよかった。これで嵐はしばらくこないだろう。数年に一度の大嵐に偶然遭遇したのかもしれないね」
 ジョンはボンヤリとキックの顔に目を向けた。キックはジョンの視線に気づき二人の目が合った。キックはジョンに告げた。
「さあ、行きましょうか?」
「どこに?」
「調査に決まっているでしょ」
 ジョンはその言葉を聞き、ゴクリと唾を飲み込みしばらく沈黙した。
「お前、いま何て言った?」
「何って? 調査ですよ。何回も言わせないでください。当然じゃないですか、ハハハハ」
 キックは口角をゆがめて笑った。
「おい、今すごいのを経験したばかりだろ。あれはこの聖域に入ってはいけないという山の精霊の警告だぞ。それをお前は何と思っているんだ!」
 ジョンは目を剥いて言った。
「精霊の警告? そんな勝手な解釈しないでくださいよ。偶然起きた自然現象にそんなデタラメなストーリーをこじつけて」
「デタラメも何もあるものか。あれは山の精霊だ。絶対にな。お前は信じられないかもしれないが、霊媒師のオレには明確に見えたんだ。もうオレは帰るからな――」ジョンはアイの目を見た。「さあ、アイ、一緒に帰るぞ。この先に進んだら命がない。アイも感じるだろ、この強烈な霊気を。あいつはそれを感じられないんだ。もうあんな命知らずの男は知らない。言っても聞かないんだから。罰当たり野郎だ。さあ、行こう」
「何を言ってるんだ、オッサン。誰のオンナに言ってるんだ。いい加減にしろ」
 キックはジョンに詰め寄った。
「二人ともやめてよ――」アイは叫ぶように言った。「せっかくこうして無事でいられたのに、また喧嘩を始めるつもり。キック、ジョンさんの言うことを聞くべきよ。何度も言うけど、こうしてジョンさんに来てもらったのは、精霊から身を守ってもらうためじゃなかったの。それに耳を傾けようとしないで自分の考えをゴリ押しにして。冷静になってよ」
「アイ、お前、オッサンの味方なのか」
「味方も何も当然よ。ジョンさんの言うことを聞かなかったら前回の苦しみを繰り返すだけじゃない。いや、前回の苦しみを繰り返すどころか、もっと悪い結果になると思うわ。さっきの嵐、あんな恐ろしいことがこの森では現実に起こり得るのよ。大木がなぎ倒れるような恐ろしいことが・・・・。自分の研究のことばかり考えてないで、冷静に現場の状況を分析したらどうなの」
「アイ、誰にものを言ってるんだ。お前を教育したのはこの俺だぞ」キックは逆上した。
「何をエラそうに。あなただけに教育を受けた覚えはないわ」
「この野郎・・・・。ああ、わかった。もうお前らのことなんか知らない。じゃあ、帰るなり、ここで野宿するなり好きにしろ。まったく好きにしろってんだ。俺は一人ででも調査するからな。偉大な論文を書き上げて有名になってやるからな」
「ヒッ、勝手に有名になれってんだ。アイ、あいつは命よりも有名になることが大切なようだ。幽霊になって論文とやらを書くらしいぜ。あんなバカを相手にしてないでさっさと帰ろう。こんなところにいたら危険だ」
 ジョンはアイの手を引っ張って歩き出した。アイは数十メートルジョンと一緒に歩くと、キックの様子が気になって後ろを振り返った。キックはこちらを見ていた。キックはアイと目が合うと、憎しみを込めて睨みつけ悪態を吐いた。
「裏切り者! ちょっと待つんだ!」
 その声を聞き、ジョンとアイは足を止めた。
「最後に一つだけ命令をする。お前たちの持っているそれらの荷物、俺の所有物は全部置いていくんだ」
「イヒヒヒ、この野郎、この場に及んで何を言い出しやがる」
「その食料、全部だ。それは俺のものだからな」
「ああ、わかった、お前の望みどおり置いていってやるよ。オレは食べなくったって平気だ」
 ジョンは食料の詰まった荷物を地面に下ろした。アイをそれを見て言った。
「キック、どうしてそんな大人気ないこと言い出すの。こんな山奥にいるのよ。全部置いていったら、あたしたちはどうなると思ってるの。生きて帰れるわけないじゃない」
「だから俺に逆らうなって言うんだ、ヒヒヒヒ」
「酷い男・・・・」アイは絶句した。
「アイ、あんな男に関わるな。オレがどうにでもしてやるから。オレが本気で駈けたら、こんな山すぐに下りられるぜ、イヒヒヒ」
「ジョンさん、いくら体力があるからって、ここまでくるのに私たち四日もかかってるのよ。飲まず食べずで歩きつづけなんてできるわけないじゃない」
「大丈夫だって。本物の霊媒師のパワーをアイだけに見せてやるから、イヒヒヒ」
「えっ・・・・」
 アイは眉をしかめながらジョンの顔をまじまじと見つめた。
「それと――」キックはさらに条件を出した。「車の鍵も置いていくんだ」
 町で借りたレンターカーが山の入り口に停めてあった。
「あなた本気で私たちを殺すつもり!」
 アイは金切り声を上げた。
「当然だろ。俺の名前と俺の金で借りたんだから」
 キックが手を伸ばし鍵を催促した。
「アイ、そんなものくれてやれ」ジョンが言った。
「でも、ジョンさん、ここから町まで歩き通すなんて不可能よ。すごい距離よ。食料もテントも何もないのよ」
「できる。絶対できる。オレを信じろ――」ジョンが力強く断言するように言った。「この先の聖域には恐ろしくて近づけないが、山歩きはオレにとってチョロイもんだ、イヒヒヒ」
「山歩きはチョロイもの? そりゃすごいや、フハハハ」
 キックはジョンの言葉を聞き取り、口をゆがめて笑った。
「陰湿な男。もうあなたの顔なんか一生見たくない」
 アイは憎悪を込めて言った。
「アイ、行くぞ。日が暮れる」
 ジョンはキックの荷物を地面に置き、自分の着替えの入った小さな荷物とアイの荷物を同時に二つ肩に抱え、アイの手を引っ張って歩き出した。
「遭難するなよ」
 キックは、地図のアプリが入力されたタブレット端末を振りながら声をかけた。
「お互い様な、イヒヒヒ」ジョンは振り返って手を振った。
 しばらく歩いてキックの姿が見えなくなったとき、ジョンはアイの顔をヒョイと覗き込んだ。アイは悔しさと不安で涙を流していた。
「アイ、泣いているのか」
「いいえ・・・・」
 アイは顔を伏せて涙を隠した。
「イヒヒヒ、アイ、お前にだけに本当の霊媒師にパワーを見せてやるよ」
「どういうこと?」
「オレの背中にのるんだ」
「えっ、あたしを負ぶって山を下りるつもり」
「当然だ。そうしないと、アイの足では何日もかかるだろ。さあ――」
 ジョンはアイを負ぶった。
「韋駄天ジョンさんをとくと見せてやろう、イヒヒヒ」
 ジョンは猛スピードで駈け出した。
「え、え、え?」
 アイはジョンの人並みはずれた体力に呆気に取られた。
「オレは並みの霊媒師じゃないんだ、すごいだろ?」
「スゴイわ。夢みたい・・・・」
 アイは涙も吹き飛び、興奮して言った。
「イヒヒヒ、夢じゃないぜ。これは霊媒師の力の一片だ」
「信じられないわ」
「しっかり掴まってろよ、イヒヒヒ」
 ジョンは、興奮するアイの感情が伝染して気持ちが高ぶり、力以上の力を出して走った。
「なあ、アイ」
「なに?」
「オレはな、実は、初めてアイに会ったときから運命を感じていたんだ」
「運命・・・・」
「本当だ。――で、どうだい?」
「どうだいって?」
「イヒヒヒ、アイは霊媒師として素質がある。こんな素質のある人に会ったのは初めてだ。もしアイが望むなら、一緒にどうだい? 一緒に住まないか?」
「住むって、同棲ってこと?」
 アイはオズオズと問い返した。
「そうだ。オレと運命共同体にならないか」
 アイはその言葉を聞き、ジョンの背中で顔を赤らめた。
「信じられないわ。本当に信じられない・・・・。実はあたしもジョンさんに初めて会ったときから、運命を感じていたの。ジョンさんとの出会いは遠い遠い昔から約束されていたみたい」
「きっとそうだろうよ。アイとオレは切っても切れない強い絆で結ばれていたようだ。オレにはそうはっきり感じるぜ」
 アイは沈黙し、ジョンの背中に顔をうずめた。
「アイにはオレが必要だし、オレにもアイは必要だ」
「ありがとう・・・・。そう言っていただいて本当に嬉しいです――」アイはジョンの耳元で囁くように言った。「あたしなんかでよかったら、一緒にいさせてください」
「イヒヒヒ、よし決まりだ。今後のことは山を無事下りてから考えよう。さあ、思いっきり走るぞ! ウホホーイ」
 ジョンはアイを背負ったまま跳ねるように山を駈け下りた。
 

   二十一
「頼む、霊石であってくれ」
 大魔神に追われた弦太郎ガルーダは、スペースがある物体に向かって垂直に落下し衝突した。
「・・・・・・」
 その瞬間、静寂に包み込まれた。弦太郎ガルーダは身の安全を感じフウーと息をついた。
――やっぱり、これは師匠の言っていた霊石だったんだ。
 霊石の中は真暗闇の空間で、肉体的な感覚が何にも感じられなかった。音もなければ色もない世界。動くこともできないが動こうという気も起きない。何かに触れているという感覚さえもなかった。
――師匠は、霊石にいれば力を消耗することもなく、大魔神にも死神にも襲われないって言ってったっけ。確かにそんな感じだなあ。
 弦太郎ガルーダは霊石の居心地を慎重に味わった。空間感覚や時間感覚が虚ろで、宇宙空間ににポッカリ浮いているように感じる。 
「すごいところにきたもんだ」
 弦太郎ガルーダは小さく呟いた。すると声が返ってきた。
「そうさ、ここはすごいところさ。最高のところだよ」
 ビクリとした。その声は間近というより自分の内部から出てきたように感じた。幻聴かもしれないし、無意識から出た自分の声かもしれない。
「えっ?! 何?」
 確かめる上でもう一度声を出した。
「久しぶりのお客さんだ。同士に会えると嬉しいよ」
 また声が返ってきた。その言葉は自分の言葉ではなく、他者の言葉のようだ。その声音はどこか淋しさが漂う優しい響きだった。
「お客さん? 同士? どういうこと?」
 弦太郎ガルーダは戸惑って訊ねた。
「あっ、驚かせてしまったようだね。この霊石はスペースが広いもので、ガルーダが二頭同時に入れるんだ。君から私は見えないだろうし、私も君が見えないが、私もこの霊石にいる」
「ということは、あなたもガルーダですか?」
「ええ、私もガルーダだよ」
「そうですか・・・・」弦太郎も同士に会えて嬉しくなった「いやあ、こんなところで同士にお会いできるなんて想像もしていませんでした。実は、ぼくはガルーダになって同士に会うのは初めてなんです。それに霊石に入るのも初めてのことで・・・・」
「なにも怯えることはないさ。ここは我々にとって最高のくつろぎの空間なんだから」
「そうなんですか」
 会話が途切れた。会話が途切れると無音が支配し、たった一人広大な宇宙空間に放り出されたような気持ちになる。そばに相手がいるという感覚がまったくない。弦太郎は同士がいることを確かめたくなりまた話しかけた。
「霊石というのは何人でも入れるものなんですか?」
「いや、霊石はすべてこんなに広いわけじゃないよ。ここは特別さ。普通は一頭が入れる広さのものばかりだね」
「この世に霊石というものはたくさんあるものなんですか?」
「いや、なかなか見つからないね。本当に稀なことだよ」
「やっぱり、そうなんですか」
「君はガルーダになってまだ間がないようだね」
「ええ、長いか短いか、ガルーダの時間感覚はよくわかりませんが、まだまだ新米です。あなたはここにきて長いんですか」
「霊石の中は空を飛んでいる時以上に時間感覚がないから、何十年、何百年ここにいるのかさっぱりわからないね」
「長そうですねえ」
 弦太郎は同じガルーダということもあって非常に親近感を覚えた。
「で、どうして君はここにきたんだい? やっぱり大魔神に追われて?」
「そう、大魔神に追われているとき、偶然この霊石を見つけて」
「ハハハハ、それは命拾いしたね」
「じゃあ、あなたはどうして霊石に入ったんですか」
「私は狩りに疲れて休憩で入ったんだよ。私がこの霊石に入った時代、ここは大魔神の領土じゃなかったんだ」
「ヘエー、そうなんですか。――どうしてぼくが大魔神から追われてきたってわかりましたか」
「君がくる前、逃げ込んできた同士もそう言っていた。ずいぶん危険な場所のようだね」
「とても危険な場所です」
「でも、霊石にいる限り安心さ。ここにいれば腹が減ることもなければ、大魔神に襲われることもない。安らぎに満ちた気持ちでずっといられるよ」
「そうみたいですね――」
 言葉が途切れると、すぐまた宇宙空間にポッカリ浮かんだ。しばらく沈黙して宇宙遊泳を愉しみながら頭の中の知識を整理した。
「師匠に聞いたんですが――」弦太郎はまた同士に囁いた。「霊石に長くいると、体と霊石が一体化してしまうって。そのことは知ってますか?」
「もちろん知ってるよ。でも、私はこの生き方が気に入ってる。仮に霊石と一体になろうと、ずっとここにいるつもりだよ」
「えっ、もうここから出て行くつもりはないんですか?」
「出て行かないね。なぜ、出て行かなくてはならないんだい」
「だって、それだと我々の目標である〝永遠〟を放棄することになるじゃないですか」
「ハハハハ――」同士はゆったりと笑った。「獲物を追ったり、大魔神から逃げ回ったり、もうそんな茶番は経験したくないんだよ」
「〝大魔神の卵〟は狙わないんですか?」
「君は本当に若いようだね、ハハハハ。私だって以前は永遠にたどり着こうと必死で何百年も狩りをつづけてきたんだよ。いまの生活はその経験を踏んだ上での結論なんだ。〝大魔神の卵〟って間単にいうけれど、それを見つけるだけでも人間の時間にして千年に一度あるか。さらにそれを狩るなんて、奇跡というか、もっと言えば不可能なことさ」
「でも最終目標がそこにある以上、そうしないと・・・・」
「目標を持つこと自体、馬鹿げていると思うんだ。我われ生きとし生けるものは、人生どこにもゴールなんてあったりしない。人間であろうと、呪術師であろうと、ガルーダであろうと、何者であろうとね。今こうして存在しているこの世界、この瞬間、こここそが到達点であり、目標地点と考えるべきなんだ。目標を持ったその瞬間から、我われは苦しみを背負うことになるから」
 ふっと会話が止み、二人はしばらく沈黙した。静寂になると、この霊石の空間は確かに究極の安らぎのように思える。
「でもね――」弦太郎が口を開いた。「このまま石になると考えるとなんだか虚しいですよ」
「虚しい? 何者であろうと終わりを迎えるときは虚しいものさ。万物はすべて終わりを迎える。その法則性からは誰もが逃れられないよ」
「そんなものですか・・・・」
「君は若いから野心的な気持ちが起こるんだ。何百年も何千年も飛び回って獲物を狩り、一喜一憂していれば次第に気がつくと思うよ。少しでも知性があればね」
 霊石の空間、そこは限りなく無に近い世界。すべてが充足しているように思える。他に何も足す必要がない。ずっとこのままでいいのかもしれない。でも、師匠に教えを受けた〝大魔神の卵〟のことが気になる。そのことを聞いてしまった以上、最後の階段を上りたい。
「どうですか――」弦太郎が問いかけた。「我われが共同して狩りをすれば、大魔神の卵を獲る可能性が高まるんじゃないですか。いくら大魔神であったって、ガルーダ二頭が同時にかかれば対応しきれないのでは」
「ハハハハ、まだ君はそんなことを考えるのかい。私にはそんな野心はもうないって。こうして霊石にいることだけで満足なんだから」
「そうは言っても・・・・」
 弦太郎は同士の言葉に心の底から納得できなかった。
――確かにここでもいいけど、ヒリヒリとした刺激も欲しい。ここでは生きているという実感がない。さらにここで死を思うと虚しさを感じる。
「ぼくは狩りに出かけます。あなたが正しいかもしれないけれど、ぼくは師匠から永遠に到達するよう教えを受けていますから」
「私は君を否定しないよ。我われは自由な存在なんだから。ここにいることもできるし、狩りに出ることもできる。ガルーダにもいろんな生き方がある」
 弦太郎は霊石から出ようとしたが、いざ出ようとすると霊石から離れがたい気持ちが起こった。この安らぎを放棄するのは名残惜しくもある。それに出ればすぐに大魔神が襲いかかってきて、苦難が待ち受けている。
――大魔神からどうやって逃げればいいだろう。地面すれすれに飛んでみようか。
 外界の苦難を具体的に思い浮かべるとずっと霊石にいたくなった。しかし、ここから出ないことには永遠にたどり着けない。
「ウオオー」
 弦太郎は自分自身に気合を入れるため雄叫びをあげ霊石から飛び出した。領土の外まで一瞬で移動できるはずだが、すぐ後ろに大魔神が迫っていた。
「どうして奴は待ち受けたようにすぐやってくるんだ? とにかく一直線に飛ぶのんだ」
 地面すれすれを猛スピードで飛んだが、領土の外を目の前にしたところで大魔神に胴体を掴まれた。
「放せ!」
 体をよじって振り払うと大魔神の手が一瞬離れ、その隙を突いて領土の外へ逃げられた。


   二十二
 早朝、ジョンは診療所の門の前に立った。出発してから一週間ほどしか経っていなかったが、診療所を見ると感慨深い気持ちになった。
「無事帰ってくることができたか・・・・」
 門を開けると、大木がドンと目の前に飛び込んできた。デーンの木はいちじるしく成長し、もう立派な大木になっていた。
「デカくなったなあ。こりゃ、町で一番の大木じゃないか?」
 ジョンはポカンと口を空けたまま大木を見上げた。庭はこの大木が存在することによって狭くなったように感じる。
「ん?!」
 そのときジョンの眼前をオレンジ色の袈裟をまとった僧がスッと通り過ぎた。
「小坊主!」
 ジョンはプリンの姿を見て思わず声を出した。旅に出る前、確かに彼は太った小坊主だったが、いまはそれどころではない。身長は小さな子供のままなのにまん丸に太って力士のようである。
 プリンの容姿は大きく変化していたが、行動パターンは出発前となんら変わることなくデーンの木に水遣りをしていた。
「ウヘ、何十年も時が過ぎたかのようだ」
 ジョンはしばらくプリンの行動を眺めた。プリンはジョンに一切目を向けようとせず黙々と水遣りをつづけている。
「ケッ、このお相撲さん、オレ様を完全に無視してやがる。ご主人様が無事帰ってきたというのに」
 ジョンはプリンから目を逸らし母屋に向かった。玄関のドアを開けたとき、ちょうどナッツが二階から下りてきてバッタリ顔を合わせた。
「ジョンさん――」ナッツは大きく目を見開き甲高い声で言った。「帰ってくるって何にも連絡くれなかったじゃない」
「イヒヒヒ、山の中だったから電波が全然通じなかったんだ。――ナッツ、会いたかったぜ。山を下りたら真っ直ぐ飛んで帰ってきた」
「疲れたでしょ。ゆっくりして」
 ナッツはジョンの手を引っ張ってダイニングのテーブルに着いた。
「仕事はうまくいった?」
「いろいろ大変だったけど、うまくいったぜ、イヒヒヒ。死ぬかと思う危険なことがたびたびあったがな」
「危険なことって、どんなことがあったの?」
「そうだなあ・・・・、何から話そう。いろいろあって・・・・」ジョンは落ち着かない目でキョロキョロと周囲を見回した。「ナッツ、いま起きたばかりか?」
「うん、そうだけど」
「何か食べるものはあるかい? オレは腹ペコだ」
「じゃあ、すぐに朝ごはん作るわね。何が食べたい?」
「なんでもいいから作ってくれ」
「うん、わかった」
 ピピピピピ――
 ジョンのケータイが鳴った。画面を覗き見るとアイからだった。ジョンはチラリとナッツの目線を窺い、ナッツがキッチンに向かっているのを確認すると、彼女に背を向けて電話を受信した。
「はい、はい、おはようございます」
 ジョンは声を落として、他人行儀な話し方をした。
「ジョンさん、もう着いた?」
 電話口からアイの元気な声が響いた。
「はい、着いきました。はい、無事ですよ」
「あれ、どうしたの、ジョンさん? 口調がおかしいわ」
「はい、はい、いまちょっと込み入っていまして。また電話かけなおしますね、イヒヒヒ。はい、失礼します」
 ジョンはすぐに電話を切った。
「誰から?」
 ナッツが振り返って訊ねた。
「えっ、あっ、まあ、仕事の仲間だ、イヒヒヒ」
「で、仕事ってどんな仕事だったの?」
「山の案内さ。トレッキングのツアーガイドみたいなものだ、イヒヒヒ」
「あれっ、この前ボディーガードって言ってなかったっけ?」
「ボディーガード? あっ、そうだ、そうそうボディーガードだよ。ツアーガイドを兼ねたボディーガイドだ。山の中には武装ゲリラがいて危険だからな、イヒヒヒ」
「そんな危険なことをしていたの・・・・。行く前にどうしてそのことを話してくれなかったの?」
「ナッツに心配かけてはいけないと思ってな」
「そうだったの・・・・。とにかく、無事で帰ってきてくれてよかったわ」
 ナッツはジョンの目を愛おしそうに見つめやさしく微笑した。
「ナッツも元気そうでオレも安心したぜ、イヒヒヒ」
 会話が途切れて沈黙の空気が流れた。
「この前言ってたことなんだけど」
 ナッツが声を潜めて言った。
「この前言っていたこと?」
「一緒に住もうってこと」
 ナッツは上目遣いでジョンを見つめた。
「ああ、そうだ、そうだ。そうしようと思っている。無事、帰ってきたんだからな、イヒヒヒ」
 ジョンは頭をフル回転させた。
――そんなこと約束したんだっけな。でも、状況が変わっちゃったんだよなあ・・・・。
「あっ、ジョン――」そのときハムがダイニングにやってきた。「あなたどこへ行ってたのよ?」
「ハム――」ジョンはギクリとして背筋を伸ばした「何だよ、朝から大きな声を出して」
「どこで何をしていたの。何も言わないで出て行って。――何、その汚い垢じみた顔。どこに行って何をしていたのよ?」
「実家だよ、実家。ナッツから聞いていただろ」
「ホントかしら。実家に帰っただけなのに、どうしてそんな汚い顔してるのよ」
「実家に帰るといろいろ頼まれ事が多いんだ。オレはみんなに信頼されているからな、イヒヒヒ」
「じゃあ、実家で具体的に何をしてたのよ」
 そのときトンとファンもダイニングにやってきた。
「ジョン、お前、どこに行ってったんだ」
 トンも開口一番、ジョンに質問を投げかけた。
「何だよ、トン。その前に〝お帰りなさい〟だろ? なんだい、ハムにしても、トンにしても、オレを疑うような邪険な言い方をして」
「何も言わずに出かけるから怪しまれるのよ」
「それよりもだ、ビックリしたぜ、帰ってきて――」ジョンは話題の矛先を変えた「なんだい、あれは」
「あれって、何よ」
「あれだよ、デーン先生の木と小坊主だよ。どっちもすごいことになってるじゃないか」
「そうなんだ――」トンが言った。「デーン先生の木は、毎日倍ずつ大きくなっているようだ。毎朝見るたびに驚かされるよ」
「それよりも小坊主だ。あれはヒドイぜ。どうしてあんなに太ったんだ。もう子供に見えないぜ。貫禄充分じゃないか」
「毎日、たくさん食べるからね」ハムが言った。
「プリンちゃん、大きくなって――」ファンが言った。「あたしもナッツも最近、近づくのが何だか怖くなってきた」
「小坊主はナッツとファン、二人の体重合わせても、それ以上の体重がありそうだぜ。小坊主はデーン先生の木から滋養を吸い取ってるのかもしれない。怪しい奴だ」
「滋養を吸うってどういうことよ」
「ハムは鈍いなあ。要するにデーン先生の呪力を吸ってるってことだ」
「呪力を吸うとどうして木が大きくなるのよ。木の成長はデーン先生が回復に向かってるっていう証に決まってるじゃない」
「イヒヒヒ、果たしてそうかな」
「プリンちゃんのことはいいわ――」ハムは話を戻した。「ジョン、どこで何をやってたのか正直に言いなさい」
「なんだよ、教師みたいな口調で。だから何度も言ってるだろ――」
 ピピピピピ――
 ジョンのポケットのケータイが鳴った。ジョンはテーブルの下からそっと画面を見ると、またアイからだった。
「イヒヒヒ、オレはまずシャワーを浴びることにする。洗濯物も溜まっているしな」
 ジョンは席から立ち上がった。
「朝ごはんは食べないの? もうすぐできそうなのに」ナッツが言った。
「すぐに戻る、イヒヒヒ」
 ジョンはダイニングを出て、いそいそと洗面所へ向かった。その様子を見送りながらハムとトンは目を見合わせた。
「ジョン、相変わらず怪しいわ」
「そうだな」
 ジョンは洗面所で電話を繋げた。
「アイ、なんだい?」
「ジョンさん、ご飯食べた?」
「イヒヒヒ、まだだ。いまからシャワーを浴びて、洗濯して、ちょっと飯を喰ってからひと休みするつもりだ。アイは?」
「ジョンさんはゆっくりできていいなあ。あたしはすぐに引越しの準備にとりかからなくちゃ。ホントに忙しくなりそう。キックが戻ってくる前に引っ越し済ませたいから」
「引っ越先は?」
「しばらくはサービスアパートに移って、そこでゆっくり次の物件について考えるわ。いい物件が見つかったらパパに買ってもらおうと思って」
「パパに買ってもらうか、イヒヒヒ、そうか、そりゃいいや」
「ジョンさんはどうするの? いつ合流する?」
「オレか、オレは・・・・」ジョンはナッツを思い浮かべた。「できるだけ早くアイと合流したいんだが、いろいろ仕事を抱えていてな。仕事を一区切りさせてから合流するよ、イヒヒヒ」
「あたしは三日以内には引っ越しを終わらせるつもり。ジョンさんは具体的にはいつぐらいになる?」
「オレは・・・・、多分一週間はかかるだろうな」
「一週間・・・・。けっこう時間がかかるのね。じゃあ、絶対一週間以内に合流しましょう」
「わかった、わかった」
「じゃあ、絶対約束ね。――ああ、ジョンさんにすぐに会いたいわ」
「オレもアイに会いたいぜ。じゃあな」
 ジョンは満面の笑みを浮かべながら電話を切った。
――イヒヒヒ、モテル男はつらいなあ。一週間後にお嬢様と同棲か。いやあ、何だかすごいことになってきたぞ、イヒヒヒ。でもなあ、ナッツをどうしよう。彼女は彼女で可愛いんだがなあ。どうにか二人を同時に抱え込む方法はないだろうか・・・・。
 ジョンは鼻唄を歌いながらゆっくりシャワーを浴び、さっぱりした顔でダイニングに戻った。ダイニングのテーブルにはナッツが一人ポツンと座っていた。
「なんだい、ナッツ、待っていてくれたのかい、イヒヒヒ」
「うん」
 ナッツは静かに微笑んだ。
「大きなオムレツだな。ウヒョ、こりゃウマそうだ、イヒヒヒ」
 ジョンは勢い良く食べだした。
「ウヒヒヒ、ウマイ。――で、みんなは?」
「買い物に出かけたわ」
「そうか、じゃあ、ナッツと二人きりだな、イヒヒヒ」
 ナッツはジョンが食事する様子を眺め、間をはかって言った。
「さっき話していたことなんだけど」
「さっき?」
「うん、さっき」
「なんだっけな?」
「ファミリーから独立して一緒に暮らすってこと」
「ああ・・・・、そうか、そうだよ、そうだよな、イヒヒヒ――」ジョンは軽々しい口調で言った。「一緒に住もうな、ウヒ」
「うん・・・・」
 ナッツはジョンの熱のこもらない表面的な態度に気づき、不安感を覚え目線を下に向けた。
「なんだよナッツ、もっと元気だそうぜ。世の中はおもしろいことでいっぱいだぜ、イヒヒヒ」
 ナッツはジョンの額を覗きこむようにじっと見つめ、囁くような声で言った。
「この前ね、ジョンさんがいないとき、夢を見たの」
「夢? あ、そう――」ジョンはそんな話にまったく興味がなかったが、取りあえず訊ねた。「で、どんな?」
「ジョンさんがね、あたしの知らない女の人と手を繋いでどこかへ去っていく夢。二人を追いかけていくと突然目の前の地面がひび割れて、あたしは深い底へ落ちていく・・・・」
「えっ――」ジョンは飲み込もうとした食物を喉に詰まらし咳をした。「ゲホ、ゲホ、ゲホ――、お、おい、ナッツ、お前何を言い出すんだ」
「大丈夫、ジョンさん」
 ナッツは咳き込むジョンの背中をさすった。
「ナッツ、そんなつまらない夢の内容を気にしていたのか。夢なんて所詮は夢だぜ。気にするなよ」
「はっきりした夢だったから頭から離れなくて」
「そんなことあるわけないだろ」
 ジョンはナッツの肩を抱き寄せながら考えた。
――もしかして予知夢か? ナッツはチカプ呪術師だから不可思議な夢を見ることがあるのか。こいつは困ったぞ。うまく切り抜けなくては・・・・。そもそもナッツは思い込みが激しいところがあるし、若いからいろんなタイプの人間と接したことがないから世間が狭いんだ。世間の実情をうまく教育をしてやらないと・・・・。
「なあ、ナッツ」
「何?」
「何かおもしろい話をしようぜ、イヒヒヒ」
「おもしろい話?」
「オレが言う中から好印象の男を選んでくれ。一番、ギャンブル好きな男。こいつはギャンブルにのめり込んで財産まで喰い潰してしまうような男だ。二番、酒好きで暴力を振るう男。三番が浮気症の男。さあ、どいつだ、イヒヒヒ」
「どれも嫌よ」
「そうだ、どれも最低の男だ。しかしだ、三番の男に注目して欲しい。三番の男は浮気症の反面、やさしくて頼りがいのある誠実な男だ。だが、いかんせん、力が有り余っていて一人の女じゃ満足できない。だから数人の妻を持ち家庭を築くタイプだ。こういう男は悪くないと思うぜ、イヒヒヒ」
「何が言いたいの? もしかして、ジョンさん自身のことを言ってるの?」
 ナッツの声音が変わり、表情が険しくなった。
――ま、まずい。
「いや、いや、そういうわけじゃなく、こいつらは全員オレの知り合いの男のことだよ。三人とも。こんな馬鹿な奴らが世の中にいるって話だ。世の中は広いだろ。こんな馬鹿でも立派に生きている。ナッツが不安げな顔をしていたんで愉しませてやろうと思って話しただけだ、イヒヒヒ」
「何が言いたいのかよくわからない」
 ナッツは露骨に不機嫌になった。
――ナッツは頑固なところがあるから、一夫多妻制を受け入れるのはムズかしそうだ。
 ジョンはナッツの手を両手で握りしめ、別の話題に切り替えた。
「イヒヒヒ、ま、そんなことよりも、独立する上で、どこに住み、どんな仕事をするか、そのことをナッツとよく話し合いたい。重要なことだろ? じっくり考えていこうぜ。金はあるんだからさ」
「うん・・・・」
 二人は互いの目を見つめ合った。ジョンはナッツを見つめながらアイのことを考えていた。
――二人同時はやっぱりできそうにないなあ・・・・。
     *
 一週間後、ジョンは家出を決行した。ファミリーが寝静まった夜中の三時、自分の荷物をまとめ、ソッと階段を下りた。
「ああ、この家ともお別れか。それとファミリーからも。今日から新たな旅立ちだな、イヒヒヒ。なんとオレの人生は波乱に満ちて、夢があるんだろう。まったく愉快だ愉快だ、イヒヒヒ」
 玄関の外灯をつけて、ドアを開けようとしたとき、何やら人の視線を感じ振り返った。すると背後にプリンが立ち、じっとジョンの動向を観察していた。ジョンはひっくり返りそうになるほど驚いた。「ヒッ――」
 思わず大声を出しそうになった。
「馬鹿野郎、このガキ、驚かせやがって。何をジロジロ見てやがるんだ」
 プリンは表情を変えずにジョンを見つめている。
「おい、今は夜中だ。騒ぐなよ――」ジョンはプリンの目を睨みつけた。「イヒヒヒ、そうか、お前は音が聞こえないし、しゃべれないから騒げないか。大人しくってよかったぜ。今日でオレとお前さんはお別れだ。もう永遠に会うことはないだろう。オレはお金持ちの美女と同棲する。羨ましいか、イヒヒヒ。まあ、人生はいろんなことが起こるものだ。偏屈なお前さんには、オレのような幸運な人生が待ち受けているかかわからないがな。じゃあ、食べ過ぎには注意しろよ。ガキが成人病や糖尿病になったら病院で笑われるだろうからな、イヒヒヒ。じゃあな」
 ジョンがソッとドアを開けて立ち去ろうとしたとき、背中にゾクゾクと奇妙な寒気を感じた。
――なんだろう?
 振り返るとプリンと目が合った。その瞬間プリンの眼は緑色に光り、人間を超越した強大なオーラを放った。
「バ、バ、化け物・・・・、やっぱり・・・・」
 腰が抜けそうになった。
「ヒエーッ!」
 ジョンは大きな荷物を抱えたまま一目散に駈け出した。


   二十三
 弦太郎ガルーダは同士の言葉を思い出しながら空を飛んでいた。
――大魔神の卵は千年に一度のチャンスか・・・・。卵どころか、オレは呪術師を狩ることさえ一度も成功していない。こうして飛んでいる間にも少しずつ力が消耗しているんだよなあ。やはり同士が言うように、〝無〟に近い状態でいられる霊石の中、あの絶対的に安全な場所で、永遠に到達する目標を持たず、安らいでいた方が正しいんだろうか。
 弦太郎ガルーダの意志はゆらいでいた。
――師匠はどこにいるだろう。師匠からもう一度教えを受けて気持ちを整理したい。でも、師匠のサボテンは大魔神の領土だから容易に入れそうにないし・・・・。そもそもこの前、大魔神の領土に入ったとき、師匠の光を見つけられなかった。まったく気配を感じなかったがどういうことだろう。
 いろんな迷いを抱きながら飛び回っていた。
     *
 ナッツはいつもより早い時間にふと目を覚ました。寝室から出ようとしたとき、ドアの隙間に封筒が挟まっていることに気づいた。その封筒を手に取り開けてみると、雑に書きなぐられた一枚の紙が入っていた。それはジョンからの手紙だった。

 愛するナッツへ
突然だが、オレは遠くへ旅立つ。
ナッツ、今までありがとう。
オレ自身、こんな日がやってくるなんて想像もしていなかった。
数日前のこと、驚くことが起きたんだ。
まばゆい光が差し込み、神の啓示が舞い降りた。
「修行に励みなさい。正しい呪術師の道を歩みなさい」と。
その神秘的な体験にオレは感激し、有頂天になった。
進むべき道がはっきりした。
しかし、しばらくして興奮のほとぼりも冷め、オレはうろたえた。
今の生活を放棄しなくちゃいけない。
どうすればいいんだ?
しかし、両立しないことは明白だった。修行とは厳しく孤独なもの。
天から啓示を受けるとは、なんと幸運なことであり、なんと不幸なことなのだ。
呪術師とはなんと悲しい生き物。
わかってくれ、ナッツ。
オレはナッツといたい、ナッツと離れたくない。
だが、すべてを捨て去って新たな道を歩まねばならない。
ナッツに何も告げずに出て行くことに罪悪感がある。
しかし、お前の悲しむ顔を見たら前に進めなくなる。
だからオレはだまって涙を飲んで出て行く。
呪術師の道のために。
いつか、いつか、オレが立派な呪術師になった日に、きっとナッツを迎えに行く。
きっとな。
その日まで。
じゃあな。         
    ジョン

 ナッツの手紙を持つ手が震えた。昨日まで一緒に住もうと話していたのに、なぜ逃げるように出て行くのだ。
――神の啓示? 呪術師の道? どうして急にそんなこと言い出すの? 
 時計を見ると早朝六時前だった。
「まだ、遠くへ行ってないはず」
 ナッツは衝動的に母屋を飛び出した。診療所の門から出ようとしたとき、木に水遣りをしていたプリンとフッと目が合った。普段プリンは自分の行動に没頭していて他人の行動にまったく関心を示さないが、このときはナッツをじっと見つめていた。ナッツはプリンの視線に一瞬ギクリとしたが、すぐにジョンのことが脳裏を支配し、プリンから目を逸らした。
――彼がよく行くのは市場だけど、こんな手紙を置いて市場へ行くわけはないし・・・・。そうだ、遠くへ行くつもりなら、長距離バスアーケードに行ったんじゃ・・・・。アーケードは二十四時間バスが発着しているから早朝でも開いているし。
 ナッツはソンテオを拾ってバスアーケードへ向かった。
     *
 ハムがキッチンに入ると、ダイニングのテーブルにジョンからの置き手紙を見つけた。
「何?」
 ハムは手にとって走り読みした。
「――この男、なに考えてるのかしら、まったく」
 腹立たしいというより呆れた気持ちになった。ファンが階下に下りてきたので、冷淡に伝えた。
「ジョンが家出したわ」
「家出? どういうこと?」
「置き手紙あった。これ」
「なんて?」
「読むわよ。――オレは甘ったれた生活から脱却する。修行に出る。本当だ。次に会うことがあれば崇高な呪術師になっているだろうな。オレのことは心配しないでくれ。――だってさ」
「これだけ?」
「ええ、これだけ」
「どうして、今、突然?」
「知らないわよ。あの男のことだから変な企みがあるのよ。どこかオンナでもできたんじゃない? 最近、頻繁に電話がかかってきてたでしょ」
「オンナ? でも、ジョンさんはナッツと付き合っているのに」
「付き合ってた? まさか」
「本当ですよ。いつも二人きりでいたじゃないですか」
「友達としてでしょ」
「ナッツは、二人で暮らすかもしれないってあたしに打ち明けたことがありますよ」
「ええっ、ナッツどうかしているわ。よりによってあんな胡散臭いオッサンと。――じゃあ、ナッツも一緒に出て行ったってこと?」
「ちょっと、ナッツの部屋見に行ってきます」
 ファンは部屋の様子を見に二階へ駆け上がった。
「大変――」
 すぐにナッツが戻ってきた。
「ハムさん。ナッツもいません。ジョンさんの部屋はガランとしていますが、ナッツの部屋は荷物がまとめられた形跡が全然ありません。もしかして、朝、ジョンさんがいないことに気づいて、後を追いかけたんじゃ・・・・」
「何か置き手紙は?」
「何にもなかった」
「一緒に家出したわけじゃないならまだよかったわ。あんな男に付いていったら碌な目にしか遭わないから。じゃあ、ナッツは着の身着のままで出たのかしら」
「そうみたい。ああ、ナッツが心配だわ。衝動的に行動するような性格じゃないのに」
「ナッツは大丈夫よ。すぐ戻ってくるわ。それよりもジョンよ。きっとナッツにも何も知らせずに出て行ったんでしょうね。まったく酷い男」
「どうしますか?」
「ジョンのことはどうだっていいわ。お金がなくなったら泣きついてくるにきまってるんだから」
     *
 弦太郎ガルーダが空を飛び回っていると一匹の獲物の光を発見した。それは小粒な光だった。
「群れからはぐれた呪術師だろうか? もしかしたら、近くに大魔神がいるのかも?」
 中空を旋回しながら周囲の状況を観察したが大魔神はいなかった。
「これはチャンスだ。獲物にこちらの気配を気づかれて逃げられないようにしないと」
 空高く高くへ舞い上がり、上空から急降下する戦闘体勢を作った。獲物を凝視し、隙をうかがった――。
     *
 ナッツはバスアーケードでジョンを探した。早朝にも関わらず人が多く混雑していた。人をかき分けながら探したがジョンの姿を見つけることはできなかった。
「いない・・・・」
 警備人に尋ねても有益な情報は何も得られなかった。
――バスアーケードに来ていないとしたら、じゃあ、どこへ・・・・・。
 ナッツは途方にくれた。ターミナルの建物から屋外に出て空を眺めた。
「フー・・・・」
 深く息をついた。
 出かけるときはまだ薄暗かった空がいつしか明るくなっていた。
 ピー――
 笛を吹くような音を耳にした。
「あっ!」
 ハッとして周りを見渡したがどこにも逃げ込めそうな密閉した空間はなかった。恐怖で体が固まった。その瞬間、ナッツの体は風に舞う落ち葉のようにフワリと飛ばされ、アスファルトにバタリと倒れこんだ。顔は鉛色に変色し、それから少しも動かなかった。


   二十四
「ウッハハハ――」
 弦太郎ガルーダは笑いがこみ上げてきた。狩りに成功した達成感。久しぶりに感じるヒリヒリした興奮。
「とうとう獲物を捕獲したぞ。これが〝狩る〟ということなのか。力が吸収され、頭が幾分すっきりしている。こうして獲物をたびたび捕獲していけば、ガルーダとしていつまでも生きてゆけるというわけだな。獲物の奴、すばしっこく逃げ去るのかと思っていたが、まったく動こうとしなかった。中にはノロマな奴もいるものだ。――オレは一体どこで獲物を捕らえたのだろう?」
 人間の認識として場所確認がしたくなった。獲物を捕らえた周辺を旋回していると、偶然スペースを持つ人間の光を見つけた。
「ちょうどいい。あれに入って周辺状況を観察しよう」
 弦太郎ガルーダは人間の光にぶつかっていった。
 ドン――
「お、お・・・・」
 弦太郎は小さく呻き声をもらし、芝生の上に横たわっている身体を起こした。
「久しぶりの人間の体だ」
 自分の体を客観的に観察した。手足が長く、肌の色が白い。後ろにくくられた長い髪を顔の前に持ってくるとブロンドの髪だった。どうやら西洋人女性の体のようである。周辺状況を観察すると、芝生があり、池があり、木陰があり、ベンチがあり、人々が集っている――、どうやら公園にいるようだ。横にクッションのあるヨガマットが敷かれており、服装は黒のタンクトップ、黒のスパッツ姿。想像するに体の主人は公園でヨガの修練をしていたものと思われる。
「この公園は・・・・」
 公園の情景をつくづくと観察すると、そこは見覚えがあった。診療所からさほど離れていない場所にある馴染みの公園だった。
「ヒマラヤでもなく、アマゾンでもなく、カラハリ砂漠でもなく、獲物を狩ったのはこんな身近なところだったのか。ということは、もしかして――」弦太郎ガルーダは不安がよぎった。「この辺りで生活している呪術師といったら、ファミリーじゃないのか・・・・」
 嫌な予感がした。
――いや、獲物がファミリーだと決まったわけじゃない。
 ファミリーである可能性を打ち消そうとしたが、胸の内にある嫌な後味を消すことはできなかった。
――かりにファミリーを襲ったとしたら、一体誰を襲ったのだろう。
 具体的に考えていくと、やるせない気持ちになった。
――しょうがない、しょうがないんだ。〝ガルーダ〟というものはこういうものなんだ。そういえば、『時がたてば人間だったことも、呪術師だったこともすべて忘れてしまう』と師匠も言っていた。ガルーダは人間とは寿命のスケールも違えば、生活の仕方も世界の認識もまったく違う。そんなガルーダとして長く生きていればいろんなことが起きるものだ。
 西洋人女性の弦太郎は落ち着かないソワソワした気持ちで立ち上がった。あれこれ考えながら素足のまま公園を歩き回り、池の前にあったベンチに腰を下ろした。
「フー」
 深く息をついた。ベンチの横では若い母親がヨチヨチ歩きの幼児をあやしている。ベンチの背後には、麦藁帽子をかぶった惣菜売りの商人が天秤棒に吊るされた籠を地べたに下ろしてしゃがみこんでいる。
 若い母親は幼児にやさしく声をかけながら、褐色で粒状の鳩の餌を芝生の上に撒き始めた。ハトはそこかしこから数十羽集まってきた。幼児も母親にうながされ、小さい手でぎこちなく餌を撒いた。おびただしい鳩が集まりだし、母子の周りは鳩だらけになった。弦太郎の座っているベンチの周りも鳩が歩き回った。
 一羽の白い鳩が西洋人女性の弦太郎の足元にやってきて、足の指をツンとつついた。足をサッと引くと、鳩は数十センチ横に移動した。また性懲りもなく首を上下に振りながら頓狂な調子で足元に近づいてきた。
「馴れ馴れしい鳩だ」
 その鳩をじっと凝視した。
「あれっ?」
 鳩の横顔に〝目〟がなかった。あるべき位置に目がない。鳩はクルリと体勢を変え正面を向いた。
「あっ!」
 額の正面に大きな〝一つ眼〟が鎮座していた。ベンチの周りに集まって餌をついばむ何十羽という鳩にさっと目を移すと、一羽一羽すべての鳩は〝一つ眼〟の鳩だった。
「やっ! 一つ眼に囲まれている」
 背中に悪寒が走り勢いよく立ち上がった。背後に気配を感じたのでハッとして後ろを振り向くと、麦藁帽子を目深にかぶった商人が真後ろに迫っていた。商人はニッと口元に微笑を浮かべ、麦藁帽子の鍔をスッと持ち上げると、顔には両目がなく顔の真ん中に〝一つ眼〟があった。
「あっ・・・・」
 言葉が喉に詰まった。商人は突然、弦太郎の体を両手でドンと強く押した。弦太郎は体のバランスを崩して池の方へよろめいた。
「落ちる・・・・」
 その瞬間迫ってきた池全体がパッと変化し、真っ暗の深淵が口を開けた。
「死神の世界への通路だ!」
 芝生を足の指でつかむようにして、ギリギリの線で踏ん張ろうとしたがブレーキが利かなかった。
「いかん! 人間の体から脱出だ!」
 人間の体を捨て去り飛び立とうとした瞬間、ベンチの周りのおびただしい一つ眼の鳩の群れがいっせいに飛び立った。その鳩の群れの勢いに動揺し、人間の体を捨て去るタイミングが遅れた。
「アーッ!」
 弦太郎は黒い穴に吸いまれるように真っ逆さまに落ちていった。


   二十五
 弦太郎は氷の上にドスンと尻餅をついた。
「イタッ――」
 周りを見渡すとそこは氷河の世界だった。激しい吹雪が吹き荒れている。
「また来てしまったか」
 すぐに死神の世界にいることに気づいた。
「クソ、迂闊だった。もっと早く死神に囲まれていることに気づくべきだった。人間の体に入ると、あっという間に死神が忍び寄ってくる。――ウウゥ、寒い」
 ここは氷河の上の極寒の世界、弦太郎は寒さに震え上がり両手をこすり合わせた。過去を悔いている余裕はなかった。
「なんと寒いんだ」
 弦太郎は薄い生地のボロ布をまとっただけの服装で足元は素足だった。
――とんでもないところに放り込まれたぞ。早く脱出しないと・・・・。
 見渡す限り三百六十度氷河、どちらへ行けばいいかまったく見当がつかない。しかし留まっているわけにもいかないのでとにかく歩き出した。
 氷河の世界は夜のない世界だった。いつまで経っても日が暮れず暗くならない。弦太郎は白昼の氷河の中をひたすら歩きつづけた。
 寒さ、疲労、やり切れなさ、虚しさ、孤独――、苦しみは途切れることがない。歩いても歩いても情景が変わらず空の色も変わらない。それでも必死で前へ前へ歩きつづけた。
「ああっ!」
 弦太郎はとうとう苦しみに耐え切れず発狂したように大声を上げ、氷の上に座り込んで闇雲に叫んだ。
「クソーッ、畜生、馬鹿野郎!」
 叫んでも何の反応も返ってこなかった。座った状態で体を動かさないと寒さが身に沁みたが、意地になって氷河の上に寝転んだ。とにかく自己意識を滅却したかった。少しの間だけでも眠りたい。冷たい氷河の上で眠ることはできそうになかったが、それでも横たわりつづけた。
 キキキキ、カカカカ――
 そのとき氷のきしむ音が聞こえた。その瞬間、地表の氷河が真っ二つに割れ、弦太郎は数メートル下の冷たい海の中に放り出された。
「うわ、溺れる!」
 弦太郎は海水で両手慮足をバタつかせた。氷河に掴まって必死に這い上がろうとしたが、滑ってうまく這い上がれない。こんな状態のまま長時間溺れつづけた。
 ようやく氷河の上に這い上った。
「こんな世界に長くいられない。早く脱出しないと・・・・」
 弦太郎は歩き出した。黙々と歩きつづけた。疲れて歩みが少しでも遅れると、まるで誰かに監視され懲罰でも喰らわされるように、拳大の雹が降りつけてきて体中打たれた。
「助けてくれえ」
 前へ前へ歩みつづけるしかなかった。
 どこまでいっても変わらない情景の中、ある日、突然、前方から大きな猛獣が現れた。それは巨大な白熊だった。
「ウワッ!」
 突然の展開に弦太郎は体が硬まった。弦太郎は、俊敏に襲いかかってきた白熊に捕まり咬みつかれた。
「ギャーッ!」
 激痛で叫んだが、白熊は容赦なく咬みついてきた。逃げたいが逃げられない。弦太郎は何時間も何十時間も白熊に痛めつけられた。
「この世界では誰も助けてくれないんだ。このままでは永遠に痛めつけられる。とにかく地力で逃げ出さなければ・・・・」
 一瞬の隙を見て逃げ出した。白熊は追いかけてきた。息を切らして必死で走り逃げたが、どこまでも執拗に追いかけてきた。何週間も何か月も追いかけてきた。
「いつまでついてくるんだ・・・・」
 白熊に捕まらないよう走りつづけた――。
 いつしか吹雪が止み、地面が氷河から陸地となった。白熊は見えなくなったが、白熊と入れ替わるように今度は蚊の大群が襲ってきた。払っても払っても四六時中、まとわりついて体中刺された。刺された箇所は赤くなって腫れ上がり猛烈な痒みを催した。全身を掻きむしりながら前へ前へ進んだ。こんな日々を送るうち弦太郎は無感情になり、無思考になった。時間感覚は喪失し、何十年、何百年、それどころか永遠の時間をさまよっているような気持ちになった。苦難はつづいた――。
 ある日、前方遠く遠くにうっすら緑の山が見えた。
「あそこは・・・・」
 弦太郎は一瞥しただけで、その緑の山から清浄な空気を感じた。緑の山に向かって駆け出した。
――苦しい世界が終わるぞ。
 緑の山の目前にして足を止めた。緑の山は、弦太郎が立つ陸地から海を挟んで数十メートル離れたところにある島だった。島を眺望すると色とりどりの花が咲き乱れ、野鳥の美しいさえずりが響き渡っていた。こちら側の陸地は殺伐として空が曇っているのに、あちら側の島は緑に覆われて青空が広がっている。弦太郎は島の風景を恍惚と眺めた。まるで天上の極楽のようである。
「どうやって向こうの島へ行こう」
 弦太郎は落ちつかない気持ちになった。島へ渡るためには何か道具が必要である。道具を探すため岸辺に沿って歩いた。数百メートル歩くと一艘の無人のボートが岸辺に繋がれているのを見つけた。
「ボートだ。あのボートに乗れば向こう岸に渡れるぞ」
 弦太郎は喜び勇んでボートに走り寄った。ボートは一人乗りの小さなものだったが、座り心地のよさそうな丸型のシートが取り付けられた最新式のボードだった。
――これでもう寒さに凍えることも、餓えることも、白熊に襲われることもない。苦しみから解放されるぞ、ハッハッハッハ。
 腹の底から狂気的な笑いがこみ上げてきた。ボートに縛りつけられていた縄に手をかけると、あまりの嬉しさに手が小刻みに震えた。はやる気持ちを抑えて縄を解いた。
「ん!?」
 ふと手を止めた。
「まさか・・・・」
 〝一つ眼〟のことがふと脳裏に浮かんだ。
「美しい世界と苦しみの世界、極端な対称性。もしかして死神のしかけるトリックでは・・・・」
 嫌な予感がした。ボートを下り、冷静な目でじっとボートを観察した。ボートの後方にメーカーの標章のようなエンブレムがあったので、そちらへ目を向けた。
「やっぱり・・・・」
 そのエンブレムには〝一つ眼〟が記されていた。ボートから離れ、ボート全体をよくよく眺めてみたら、ボートそのものが〝一つ眼〟の形状をしていた。
「いつもの展開だ。向こうへ行けば〝死〟なんだろうな」
 後方を振り返った。陸地の向こう側に、剣のように険しくそそり立つ白い氷河の峰が見えた。
「あそこだな。オレが行かねばならないところは・・・・」
 尖った氷河の峰に向かうべき因縁を感じた。
 ドン――
 そのとき、地面が揺れるほどの爆発音が響き、氷河の峰が噴火して真っ赤に熱せられたマグマが噴き上がった。白い氷河の山は怒り狂ったように爆発をつづけ、空も山も地表も茜色に染まった。遠目から見ても危険極まりない山だった。
――あっちだ。オレが行くべきところは確実にあっちだ・・・・。
 弦太郎の確信は深まった。火山へ向かって歩き出した。
 緑の島から離れていくとどんどん寒さが強くなり、陸地がいつしか氷河になった。吹雪が吹き荒れ、雹が降ってきた。山が噴火するたびに地盤が激しく揺れた。
「行きたくない、行きたくない・・・・」
 弦太郎はブツブツ呟きながら歩いた。それでも足を進めなければならない。
 ドカン――
 最大級の大噴火が起きた。弦太郎は強い震動で体勢を崩しひっくり返った。
「凄まじい大爆発だ・・・・」
 上体を起こし前方に目を向けると、氷河の地盤がパックリと真っ二つに裂けていた。向こう岸との幅は数十メートルあり、割れ目の長さは何キロとも何十キロともつかず、どこまでも裂けていた。
 弦太郎は氷河の裂け目に近づき恐る恐る底を見下ろした。氷河は数十メートルの深さがあり、奈落の底は黒い海流が激しく渦を巻いていた。今までこんな激しい海流の渦を見たことがない。じっと渦巻きを凝視すると、そこから地獄の笑い声とも思える低く不気味な音が聞こえてきた。弦太郎はその恐ろしい笑い声を聞き、背筋が凍るほどの恐怖とともに直感が走った。
「ここか。ここに違いない」
 小さく呟いた。
「しかし・・・・」
 激しい渦巻きに足がすくんだ。後ろを振り返ると緑の島が小さく見えた。遠くからでも緑の島が放射する平和な温もりが伝わってきた。
――あそこにも行けるんだけどなあ。
 恨めしく思った。また激しい渦巻きを見下ろした。
「ここなんだ。ここしかないんだ。ここが死神の世界から脱出する出口なんだ。オレはガルーダに戻らなければならないんだ」
 睨みつけるように渦を見つめた。恐怖で膝頭が震え、血の気が引いて顔面蒼白になった。
「飛び込んでやる! 飛び込んでやるぞ! 今だ、今しかないんだ! 十、九、八、七――」
 後戻りできないように大声でカウントをした。
「五、四、三、二、一。ヤアッ!」
 乾坤一擲の大声を張り上げ、氷河の裂け目へ飛び込んだ。


   二十六
 生まれたての赤い太陽にが照らされた大魔神の御殿は、まばゆく色彩を変化させ妖しく燦めいていた。子猿は大広間の豪華な椅子に仰向けに寝転がり、長老が朝の毛づくろいにくるのを退屈そうに待っていた。
「遅いのう・・・・」
 長老は定刻の時間に遅れたことはなかったが、この日はいつまで経っても現れなかった。子猿は待ちきれなくなり長老を呼んだ。
「爺や、爺や」
 返事が返ってこなかった。
「何をしてるのだ、爺や。排便中なのか、爺や」
 いくら呼んでもやはり何の反応もなかった。
「もしや――」
 子猿はピョンと椅子を飛び下り、長老の寝室に入った。
「爺や」
 長老は天蓋つきのベッドに体を丸くして横になり、身動きひとつしなかった。
「爺や――」
 子猿はベッドに飛び乗り、長老の白いあごひげを引っ張った。それでも一切反応をせず、じっとしたまま動かなかった。
 子猿は「おっ」と呟いた。
「これはめでたい。まさにおめでただ、ウキキキ」
 長老が新たな変態段階に入ったことに気づいた。
「今日から生活が変えねばならない。よし、キキキキキ――」
 子猿は特殊な高音波を出してサロ呪術師のリーダーのナラワットを呼んだ。この高音波は緊急事態でしか出さない非常時の呼び出し音だった。
「あっ――」
 ナラワットは下界の屋敷でその高音波を聞きつけた。
「一体何が?」
 大きな体を揺すって、飛ぶように丘の上の御殿に駆け上がった。
「どうされましたか?」
 ナラワットは広間の床にひれ伏し、息を荒げながら言った。いつもはそこに長老がいるはずだが、今日は子猿の姿しかない。ナラワットはいつもと違う状況に違和感を覚えうろたえた。宝石がちりばめられた椅子に座った子猿はナラワットを見下ろして言った。
「今日、爺は新たな展開に入った。もう爺はいないと思え」
「えっ? どういうことでしょうか?」
「爺が任務を終えたのだ」
「任務を終えたといいますと?」
「ものわかりの悪い奴だ。要するに爺は〝卵〟になったんだ」
「卵?」
「キッ、もういい。馬鹿と話していると疲れる。しばらくしたらお前にもわかるだろう。――今日からお前は、今まで爺がやってきた我輩の世話を継承するんだ」
「えっ、突然そんな大きな任務を、私がですか・・・・。長老様は一体どうされたのでしょうか?」
「だから卵になったと言ってるだろ。何度も言わせるな、馬鹿者。――以上だ」
「は、はい、わかりました」
 ナラワットは床に額をつけてひれ伏した。
「だ、大魔神さま――」頭をチラリと上げ、子猿の顔色をうかがった。「もう少しお話いただけないでしょうか?」
「なんだ?」
「私がいま行っている仕事――、〝村の統率〟はどうすればよろしいでしょうか?」
「そんなもの、お前のワイフにやらせたらいいだろ。我輩の世話と村の統率と、どちらが重要だと思っているんだ?」
「もちろん、大魔神様に決まっております」
 ナラワットはピタリと床に額をつけて触れ伏して言った。
「わかっているなら聞くな」
「と、いうことはですね――」またナラワットは顔を少し起こし、恐る恐る言った。「私はサロ呪術師の〝リーダー〟という地位から、〝長老〟という地位に格が上がるということでしょうか」
「ウキキキ、何を調子のいいことを言ってるんだ。そんなことは絶対にない」
 子猿はナラワットを一蹴した。
「はい、もちろんでございます。私もそのような思い上がったことは考えておりません。一応の確認でございまして・・・・」
「お前は所詮サロ呪術師、長老の地位につけるのはエチンケ呪術師だけなのだ」
「エチンケ呪術師? どこにそのエチンケ呪術師という方がいらっしゃるんでしょうか」
「そんなこと、お前が知る必要はない。お前は長老がいない間、我輩の世話をしていればいいだけのこと。後継者がきたらお前は元の仕事に戻るんだ」
「はい、よくわかりました」
「すぐに荷物をまとめ、御殿に引っ越してくるのだ」
「了解しました――」
     *
 それから二日後、長老は口から糸を出し体に巻きつけ始めた。この珍しい様子を子猿とナラワットは顔を並べて見物した。
「ウキキキ、いやあ、めでたい、めでたいことだ」
 子猿は嬉々として鑑賞した。ナラワットは長老の様子に驚きを超越して恐怖すら感じた。
「長老様は何をなさっているのでしょうか?」
「この前も言っただろ。こうして体に糸を巻きつけて、もうすぐ卵になるんだ」
「これが〝卵〟ということですか・・・・」
「この現象は珍しく、今後二度と見られないと言ってもいい。村の者たちにはもちろん、お前のワイフにさえ内緒だぞ、ウキキキ」
 長老は半日ほどで細長い形の大きな卵になった。
「大魔神様、これから長老様は何にお生まれになるのでしょうか?」
「サロのお前には知る必要がない。知ったところで何ができるわけでもないからな、ウキキキ」
 子猿は卵に抱きつくようにして表面を撫で回した。
「無事元気に生まれてくるんだぞ」
「そうですねえ。元気に生まれてきてくれればいいですねえ」
 ナラワットは子猿の機嫌を損ねないよう、話を合わせることに努めた。


   二十七
 診療所の庭のテーブルに、トンとハムとファンの三人が向かい合って座っていた。帰宅ラッシュの時間帯で通りは騒々しかったが、この庭だけは世間と切り離されたかのように深閑としていた。トンはデーンの巨木を物憂げに見上げた。日に二倍三倍と急成長していく巨木の枝葉は、すでに庭全体を覆い、幹の太さも、ちょっとした一軒家の敷地面積以上になっていた。
 三人はしばらく無言だったが、ハムが呟くように口を開いた。
「ナッツ、帰ってこないわね・・・・」
 二人は何も応えず目を伏せて沈黙した。
 そんな気まずい雰囲気の彼らとは関係なく、顔も体もボールのようにまん丸なったプリンは、一人巨木の水遣りを嬉々として繰り返していた。三人はそんなプリンを横目に眺めていた。
「もうナッツのことは忘れよう――」トンが言った。「何の言付けもなく出ていって、あれこれ二週間、連絡を何もよこさないなんて普通はありえない。もういないと思ったほうがいい」
「そんなことわからないわ――」ハムが言った。「どこかで生きてるかもしれないじゃない。どうしてトンはそんな薄情な言い方するの」
「現実を受け止めているからさ。呪術師の命なんて儚いものだ」
 トンは淡々とした口調で返した。
「儚いことは知ってるけどさ・・・・」
 ファンは二人の会話を聞き、無言で涙を流した。長く一緒に暮らしていたナッツはファンにとって姉のような存在だった。それが突然消えてしまったのだ。
「ジョンの野郎、好き勝手なことしやがって」
 トンは苛立ちを含んだ口調で言った。
「ジョンはどこかで生きているはずよ――」ハムも憎しみを滲ませながら言った。「あの男、どこでどうやって生活しているか知らないけど、戻ってきても絶対家に入れてやらないからね」
「多分、ナッツはジョンさんを追っていって――」ファンが口を開いた。「その途中、風の精霊に襲われたのかもしれない。そんな気がします」
「そうだとしたら、ジョンはなんて罪深い男なの。それに家出したとき、大切なマガラの香水を全部持ち出してしまったのよ」
「ジョンのことなんかよりも――」トンが言った。「いま考えなければならないことは我われ自身のこと、――生活の問題だ。このまま無収入のまま暮らしてはいけない。デーン先生が近々戻ってきてくださればいいが、そんなに都合よく、ことはいかないだろう。日々の糧をどうやって稼ぐか、そろそろ具体的に考えなければな」
「どうやって生きてゆけばいいんだろう・・・・。あたしたち、商売なんてしたことがないから、うまくやっていく自信がないわ」
「ハムは料理がうまいんだから、惣菜屋でもやったどうだろう。俺たちはこうして住まいがあるんだから、この条件を活かせるような何かをしたい」
「お惣菜屋ねえ・・・・」
「とにかくあらゆる最悪の状況を想定して、それに備えていこう。こうして呪術師が三人集まっているんだから、力を合わせれば何かできるはずだ」
「そうね・・・・」
 ハムとファンははっきりしない様子でうなづいた。
 そんな悲壮感漂う三人をよそに、プリンは一人如雨露で水遣りをつづけていた。トンはプリンの姿が目に入り気に障った。
「しかし、こいつはずっとここに居つづける気なのか?」
「仕方がないじゃない。引き取り手がこないわけだし」ハムが言った。
「飯は毎回十人前食べるし、大人の言うことはまったく聞かないし。まったく困った奴だ」
「デーン先生も、プリンちゃんのことは大切にするようにっておっしゃてたじゃない。家族だと思って大切にしましょう」
「そうは言っても、この太り方はないだろ」
「この前も言ったけど――」ファンは声を潜めて言った。「太ったからだけかもしれないけど、プリンちゃんのことが怖くって。普通の人間ではなさそうな空気を感じます・・・・」
「それは気にしすぎだ。あいつは呪術師じゃないんだから普通の人間さ。だけど人間の中でも特殊の部類に属する〝変わり者〟であることは確実だ」
「じゃあ、木の急速な成長とプリンちゃんの水遣りは、何も関係がないと思いますか?」
「木の成長はデーン先生の呪力に決まってるわ――」ハムが言った。「普通の木に水をいくら撒いたって、こんなに大きくなったりしないから」
「じゃあプリンが太るのも、デーン先生の呪力と何か関係があるんだろうか?」トンが言った。
「それはなんとも言えないけど・・・・」
「こんな短期間でこれだけ太るなんて、世間一般、ありますか? ちょっとおかしくないですか」
 ファンが言った。
「確かに見たことがないわね」
「よし――」トンが結論を出したように言った。「しばらくコイツに水遣りをやめさせてみよう。そうすれば、木の成長と水遣りの関係、木の成長とプリンの肥満の関係について、何かわかるかもしれない」
「そんなの無理よ。プリンちゃんはこの水遣りを毎日朝から晩までつづけてるのよ。簡単にはやめせられないわ」
「無理やりやめさせればいいじゃないか」
「無理やり? そんなことしない方がいいわ」
「ここにタダで住まわせてやってるんだ。大人の命令に従わなくてどうする」
「水遣りをやめたら、頭がおかしくなったりしないかしら」
「変な心配するなよ。また瞑想でも始めるだけだろ」
 そんな話をしているところに、プリンが平然とした様子で如雨露を持ってトンの前を通り過ぎて行った。
「なあ、プリン」
 トンが大きな声をかけたが、プリンはまったく反応しなかった。その様子を見ていたハムとファンは失笑した。
「なあ、プリン――」トンは椅子から立ち上がり、如雨露に水を入れているプリンに近づき、彼の真横にしゃがみこんで目の高さを等しくし、やさしい口調でもう一度言った。
「プリン」
 プリンはトンの方に目を向けようとしない。
「プリン、もう水遣りはいい。もう水遣りはいいんだ」
「トン、プリンちゃんは耳が聞こえないのよ。言ってもムダよ」
「そんなことはないさ。真剣に伝えればわかるものさ。――な、プリン、俺の言うことがわかるな。この木は十分水は足りているんだ。もう水遣りをしなくてもいい。わかったな」
 トンはゼスチャーを交えて説明した。プリンはトンをまったく無視し、水を溜めた如雨露を持って巨木に向かおうとした。
「おい、プリン! 俺は真剣に言ってるんだ。やめるんだ――」トンは声を張って言い、プリンから如雨露を取り上げた。「水遣りをやめるんだ。わかったな」
「ウー・・・・」
 プリンは唸り声をあげてトンを睨みつけた。
「ほら、プリンちゃん怒り出したじゃない。トン、もうやめなさいよ。大人気ない。プリンちゃんの好きなようにやらせてあげたらいいじゃないの」
「そうやってハムが甘やかすからいけないんだ。甘やかした結果がこの肥満だ」
「そうかもしれないけど・・・・」
「プリン、大人の言うことを聞かないと、もう飯を食べさせないからな。それどころか、この家から出て行ってもらうからな」
「ウー」
 プリンはトンに従う様子をまったく見せなかった。それどころか唸り声が大きくなり、目がつり上がって異常な迫力を帯びてきた。それを見たファンは恐怖を感じ、ハムの後ろに体を隠した。ハムも恐怖を感じ、椅子から立ち上がって後ずさりした。
「トン、プリンちゃんのこんな顔見るの初めてよ。本当にもうやめときましょう」
「俺は甘やかさない。この家に同居している以上、家のルールは守らせないと」
 プリンはトンの手から如雨露を取り返そうと如雨露に飛びかかってきた。トンはサッと如雨露をプリンの届かない高さへ持ち上げた。
「渡さない。絶対渡さないからな」
 プリンはトンが高く持ち上げた如雨露に何度も飛びかかった。トンは如雨露を振ってプリンの動きをかわした。
「渡さないと言ったら渡さない。大人の言うことを聞くんだ。大人しくしないと本当に殴るからな」
 トンは拳を握り締め威圧的に言った。しかし、プリンは執拗に如雨露に飛びかかってきた。
「こいつナメてやがる・・・・」
「トン、やめなさいったら」
 ハムはトンを制止したが、トンは意地になって如雨露を渡さなかった。
「言うことを聞け! 馬鹿野郎!」
 トンは、如雨露に飛びかかるプリンを怒鳴りつけ、プリンの丸い頭を手の平でパシンと叩いた。
「あっ・・・・」
 ハムとファンは絶句して身を固くした。
 プリンはトンに背を向けてピタリと動きを止めた。
「言うことを聞かないと何度でも叩くからな」
 トンはプリンの背中に言った。四人の間に気まずい空気が流れた。
「・・・・・・」
 プリンが無言でゆっくりと振り返った。振り返ると、憤怒が凝縮したような恐ろしい形相をしていた。
「大人に喧嘩を売ってくる気か・・・・」
 トンは、プリンの人間とは思えない迫力に心中恐怖を感じていたが、恐怖が顔に出ないよう平静をとりつくろって言った。
 そのとき、診療所にやってきて今まで言葉を一切出さなかったプリンが言葉を発した。
「大人しくしていりゃあ、調子に乗りやがって。生かしてはおかねえ」
 その声は子供の声ではなく、地の底から湧きあがるような恐ろしい声だった。トンは体が凍りついたように固まった。
 その瞬間――、プリンの体が数百匹の白いウジのような生物にパッと変化し、トンの体に飛びかかって張りついた。
「ぎゃあ!」
 トンは両手をバタつかせ振り払ったが、白いウジはトンの体を敏捷に這い回り、鼻の穴、耳の穴、口の中、目の中――、肉体のすべての穴から侵入して姿を消した。
「・・・・・・」
 トンはピタリと動きを止めた。ハムとファンは驚きと恐怖で声を出すこともできず、目を大きく見開いてその様子を見つめた。トンの顔色はみるみるうちに褐色に変化し、十秒後にはカラカラに干からびたミイラになってバタリと地面に倒れた。
「あ、あ、あ・・・・」
 ハムとファンはあまりの衝撃で腰が抜け、地面に尻餅をついた。
 ミイラになったトンの口から長い一匹のウジ虫がニョロニョロと出てき、それがパッとまた太った小坊主姿のプリンに変わった。
 プリンは鋭い目線でハムとファンを見つめながら言った。
「俺に盾つくとこうなる」
 ハムとファンは地面にひれ伏した。
「お前たちは今まで通り、今まで通りに、ここで生活をつづけるんだ。余計なことはするな。わかったな」
「は、は、はい・・・・」
 プリンは如雨露を持ち、何事もなかったかのようにデーンの巨木に水遣りをつづけた。


   二十八
 ジョンは白のバスローブ姿で、街が一望できる高層マンションのベランダに立っていた。高層マンションはピン川沿いに建てられており、トロトロとした生暖かい風が絶間なく吹いてきた。
「いやあ、オレも随分と出世したものだ、イヒヒヒ」
 ジョンは独り呟き、ベランダの手すりに背中を当て、マンションの室内をうっとりと眺めた。新築のマンションはモダンにデザインされており、まるで虚構の未来空間のようだった。
――最高だ、最高の生活にたどり着いた。美女との甘い生活。もうオレは労働から解放され、金の心配もない。これもひとえにセタ呪術師として精進し、呪力が高まった功徳だろう、イヒヒヒ。
 ジョンは自然と頬がゆるんだ。
「――ただいま」
 アイが帰ってきた。ジョンは室内に入り、ベランダのサッシをきっちり閉めて厳重に鍵をかけた。呪術師はいかなるときも風の精霊に注意しなければならない。ジョンは満面の笑みをたたえて玄関に出迎えた。
「なんだいアイ、今日は早かったじゃないか、イヒヒヒ」
 アイは籐で編まれたバスケットを手にぶら下げていた。
「買ってきたわ」
「何を?」
 アイはバスケットを床に下ろして蓋を開けた。バスケットを横に傾けると、中から二匹のチワワがチョコチョコと出てきた。
「ワンちゃんじゃないか! おお、なんと可愛いんだ。ヨチヨチ」
 ジョンは二匹の犬を腕に抱えて頬ずりした。
「ジョンさん、本当に犬好きなのね」
「三度の飯より犬が好きだ。いや、三度の飯も酒も好きだが、犬も同等に好きだ、イヒヒヒ」
「でも、このサイズが精一杯。ジョンさんは大きな犬が欲しいって言うけど、やっぱりこの賃貸マンションじゃ犬飼うのはダメなんだって」
「小っちゃいワンコしかダメなのか・・・・」
「小っちゃいワンコって言うけど、本当は小さい犬ですらマンションのルール違反なのよ。このマンションのオーナーがあたしの叔父さんだから、どうにか小型犬だけは許してもらえたんだけど」
「どうして小さいのはよくって、大きいのはダメなんだ。同じじゃねェか。変なことを言いやがる」
「吠え声がうるさいとかいろいろあるみたいよ。賃貸は自由にできないけど、持ち家だったら好きにできるわ。庭のあるいい物件が見つかったら引っ越しましょう」
「イヒヒヒ、それがいい。早くパパにいい家を買ってもらってくれ。それまでの間はこんな小さいワンコをたくさん飼おう」
「たくさん? まだ欲しいの? そんなに飼ったら世話がたいへんよ」
「犬は霊媒師にとって大切な存在なんだ。あまり知られていないが犬は霊力を高める。だから早く家中犬だらけにしたい」
「ヘェー、そうなんだ。じゃあ、また、いい犬が見つかったら買ってくるわ。あたしもジョンさんみたいに霊力を高めたいから」
「アイの霊力は今後スゴイことになるぜ、オレが保障する、イヒヒヒ」
「あたし、これからどうなっちゃうのかしら。想像できないわ」
 ジョンとアイはリビングのソファーに犬を抱えて肩を並べるように腰を下ろした。
「で、あいつ、もう帰ってきたのか?」
 ジョンはアイの肩を抱き寄せて言った。
「あいつって?」
 アイは犬の頭を撫でながら早口で応じた。
「イヒヒヒ、しらばっくれるなよ。〝あいつ〟っていったら、〝あいつ〟しかいないじゃないか。おエライ学者さん、キックだよ、キック」
「全然知らないわ」
 アイは素っ気なく言った。
「そうイライラするなよ。あいつのおかげでオレ達は巡り会えたんだからさ」
「イライラなんかしてないわ。ただ考えたくないだけ。あの人、家に帰ってきたら驚いたでしょうね。あたしが何にも告げずに引っ越しちゃったから」
「イヒヒヒ、どうしてるんだろうな、ヤッさん。あの精霊の森から一人でどうやって帰ったんだろう」
「どうしたんでしょうね。――もういいわ、キックのことなんか。どうしてあんな人と長い間一緒にいたんだろう。いま思うと、まったくわからない。全然価値観の違う人だったのに。会わなくなって清々するわ」
「学校でも会わないのか?」
「学校には全然行ってないから知らないわ」
「イヒヒヒ、そいつは徹底してるな」
「でも来年、大学に入り直して、医学を学ぼうと思ってるの」
「医学ねえ」
「何か新しいことに挑戦したいの。今までまったく足を踏み入れなかったこと。そのことはパパにもきちんと話して納得してもらったし」
「勉強がたいへんだな、イヒヒヒ。今まで勉強してきたのは宗教学だったけな」
「ええ。勉強してみてわかったけど、宗教学ってとっても観念的。ずっと前からもっと実用的な、人に直接役に立つ学問がしたかったの。よかったわ、宗教学なんてものから抜け出せて」
「天からの導きだな、イヒヒヒ」
「ここにいれば、ジョンさんに霊媒師の指導も受けれるしね」
 アイは微笑みながらジョンの肩にぐったりともたれかかった。
「まあ、とにかく自分が好きなように生きた方がいいんだ。人生なんて短いものだ。ボヤッとしたらすぐに棺桶だ、イヒヒヒ」
 そのときアイは、後方のベランダのサッシが閉められていることに気づいた。
「今日は曇っていて涼しいから開けておきましょう」
 アイが立ち上がろうとしたとき、ジョンはアイの腕をぎゅっと握り締め制止させた。
「アイ!」
「ビックリした。どうしたの、急に大きな声を出して」
「ダメだ。窓を開けたら絶対ダメだ。この前も言っただろ。外部には目に見えない悪霊がたくさん漂っているって。霊媒師はとにかく憑かれやすいから危険だ。オレが許可するとき意外、窓を開けたら絶対ダメだからな」
「は、はい・・・・」
 アイはジョンの必死の形相に驚いた。
「霊媒師の心得まず一つ、室内の窓を開けないこと。そしてもう一つ、オレが霊媒師であることは誰にも言わないこと。世間の目に晒されると霊力を失ってしまうから」
「それだけで・・・・、大丈夫ですか?」
「ああ、これだけでいいかな、イヒヒヒ。これ以外のことは何でも許される。しかし、この二つは厳重に守ってくれ」
 アイは切迫したジョンの態度を見て、フィールドワークで森にいたとき、ジョンが嵐がくる直前、突然人格が豹変し、アタフタと狼狽して樹の幹にしがみついて泣きじゃくったことを思い出した。
「イヒヒヒ、なんだいアイ、ボンヤリして」
「やっぱり霊媒師って特殊なのね」
 アイはそう言い、ジョンを見つめてやさしく微笑んだ。
「そう。霊媒師というのは世間から見れば特殊な存在だ。アイはそんな霊媒師の世界に飛び込んできたんだ。それもこれもすべて神様のお導きだぞ。感謝しないといけない」
「そうねえ、生まれてこのかたずっと霊媒師に興味があって、ようやくジョンさんに巡り会った。本当に運命的ね。あの精霊の森からジョンさんにおぶられて下山したとき、本当にビックリしたわ。こんなすごいスピードで走り続ける人間がこの世にいたなんて」
「アイが霊媒師としての素質があるからあれを見せてやったんだぜ。他の誰にもあんなもの見せやしない、イヒヒヒ」
 ジョンは毛むくじゃらの太い腕でアイを抱きしめた。
「オレたちは運命的な関係だ。そしてオレはアイのことを誰よりも愛している」
「ジョンさん、ありがとう。あたしもよ」
「ずっと一緒にいような、イヒヒヒ」
 小犬を床に下ろすと、二匹はじゃれ合うように床を駆け回った。


   二十九
 弦太郎ガルーダは空を飛びながらフッと目を覚ました。
「ガルーダに戻ったか・・・・」
 ホッとすると同時に、死神の世界の苦しかった記憶が脳裏に蘇ってきた。
――あの世界で一体どれだけの時間を過ごしたんだろう。
 苦しかった記憶を洗い流そうと思い切り翼を広げ空を舞った。
「しかし、すごいもんだなあ」
 弦太郎ガルーダは溢れんばかりの力を体感した。死神の世界から脱出した効果で以前の状態よりも格段とパワーアップしていた。猛スピードという形容を超え、爆発的な勢いで飛行することができる。思わず笑いがこみ上げてきた。
「ハッハッハ――。ん?!」
 今まで見たことのない虹色にまばゆく輝く光の粒が遠く下界にあるのを目にした。その光を一瞥しただけですぐに正体がわかった。
「力の卵だ!」
 光のあまりの美しさに体が震えた。
「そうか、ガルーダから見ると力の卵はこのように見えるのか・・・・」
 まさに至上の獲物だった。すぐさま突進していきたい衝動に駆られたが、その力の卵のすぐ真横に〝黒い陰〟が佇んでいた。
「また大魔神がいる・・・・」
 恐怖で体が硬直し、突進したい衝動が一気に萎えた。
「あの野郎、いつも邪魔しやがる。どうして力の卵の真横に居るんだ」
 上空を飛び回って周辺の土地の状態を念入りに偵察すると、土地の光の様子から、何度も大魔神に襲われたサロ呪術師の領土であることがわかった。
「また、ここか・・・・」
 気が重くなった。この場所は弦太郎にとって鬼門の場所だった。飛び回りながらどのような対策をとるべきか思案した。
――死神の世界を抜けて力が強くなったとはいえ、大魔神と勝負して大丈夫だろうか。前回は霊石に逃げ込めて奇跡的に難を逃れたが、もし霊石がなかったら確実にやられていただろう。今回はどうしよう。やっぱり諦めるべきか。いや、力の卵が現れるのは千年に一度のチャンス。こんなことは滅多に起こらない。ここで勝負しなかったらいつ勝負するというんだ。勝つかもしれないじゃないか・・・・。
 弦太郎ガルーダは空を旋回しながら力の卵を羨望の眼差しで眺めた。
――勝負するといっても、力の卵が屋外の空気にさらされなかったらどうしようもない。そんな隙があるかどうか・・・・。
「あっ!」
 そのとき、力の卵が屋外の空気に開放された。
「こんなことがあるのか! チャンスだ! いま行くしかない!」
 弦太郎は衝動的に力の卵に向かって一直線に飛んでいった――。
     *
 子猿は大事そうに大きな力の卵を抱きしめ、背中をサロ呪術師のリーダー・ナラワットに毛づくろいさせていた。ナラワットは緊張しながら子猿の毛を数本ずつ慎重に引っ張った。御殿の広間は深閑とした空間で物音ひとつしない。無言で毛づくろいをする緊張感に耐えかね、子猿におどおどと話しかけた。
「大魔神様、力の卵はいつ頃孵化するのでしょうか?」
 子猿はしばらく沈黙した後、面倒臭そうに口を開いた。
「詳しいことはわからん。我輩にとっても力の卵を孵化させるのは初めてのことだ。まあ、それほど遠いことでもないだろうな」
「ということは、私も孵化を目にできるというわけですね」
「断言はできないがな・・・・。ん?!」
「長老様はどのようなお姿でお生まれになるのか、孵化するのが楽しみです」
「うるさいぞ――」子猿がナラワットのおしゃべりを制止させた。「静かにするんだ」
 子猿に怒られたナラワットはビクッと背筋を伸ばして口を噤んだ。子猿は耳をそばだてて外界で起きている様子を窺った。
「懲りもせず頻々とやってくるなあ」
「は、はあ・・・・」
 ナラワットは子猿が何のことを言っているかさっぱり見当がつかなかったが、囁くような小さな声であいまいに相槌を打った。
「ちょっと運動がてらジャレ合ってやるか」
「ど、どういうことでしょうか?」
「風の精霊だ」
「風の精霊? あの恐ろしい風の精霊が今いるんですか」
「近くでウロウロしている」
「な、な、なんと・・・・」
「見たいか?」
「見たい? そんなことおっしゃられても・・・・」
「面白いことになるぞ。目を見開いてよく見るんだ。御殿の扉を開けろ、ウキキキ」
 子猿はさも楽しげに笑いながらナラワットに命令した。
「外に風の精霊がいるんですよね・・・・」
「早く扉を開けるんだ。モタモタするな」
「は、はい」
 ナラワットは子猿の指示に従いサッと立ち上がってドアに向かい、子猿もピョンと跳ねるようにして立ち上がった。ナラワットは何も考えず無造作にドアを開けた。その瞬間だった。
 ドカン――
 強烈な衝突音が響き、ナラワットは風圧で数メートル飛ばされて床に転がった。
「痛タタタタ」
 何が起きたのかまったく理解できず、床に座り込んだまま目をパチクリさせた。何か恐ろしいことが間近なところで起こったことだけはわかった。
「一体、何が? あれ? 大魔神様が・・・・」
 周囲をキョロキョロ見回したが、子猿の姿はなかった。
     *
 弦太郎ガルーダは猛スピードで力の卵に襲いかかった。
「もう少しだ――」
 力の卵に手が届きそうに思った瞬間、大魔神は子猿から龍に姿を変えて弦太郎ガルーダに立ちはだかった。弦太郎ガルーダは思い切り体当たりしたが大魔神の屈強な力に及ばず、遠くへ弾き飛ばされた。跳ね飛ばされてもなお百八十度方向転換し、力の卵に再度向かっていった。大魔神はガルーダの背後かららせん状に巻きつき、体を抑えつけた。
「そうはさせるか」
 弦太郎ガルーダは体をよじりながらジグザグに飛行し大魔神龍を払いのけ、再び力の卵に向かって飛んでいった。しかし、すぐに大魔神龍に体を巻きつかれた。それでも強引に力ずくで力の卵に向かって飛んでいった。
「何だ、このガルーダは。やけに力が強いぞ――」 大魔神はガルーダの力に驚いた。相手の動きを簡単にコントロールできない。「おのれ、ガルーダめ」
 大魔神が本気モードになり、力いっぱいガルーダを絞めつけた。
「ヌオ、何という力だ」
 弦太郎ガルーダは大魔神の強烈な力に意識を失いそうになった。その瞬間、進行方向前方に黒い穴が現れた。
「出た! まずい」
 黒い穴を身をよじって避けた。
「あっ、まただ」
 それも避けた。
「あそこにも・・・・」
 四方八方いくつも黒い穴が出現してきた。それらをジグザグにかわしながら飛び回った。
「ダメだ、このままでは殺されてしまう。一時撤退だ」
 弦太郎ガルーダは大魔神の領土から逃げようと方向転換しようとしたが、大魔神は簡単に逃がしてくれなかった。ガルーダは大魔神に巻きつかれて進行方向をコントロールされた。
「自由に飛べない」
 そのとき、下方にスペースを持つ霊石を見つけた。
「あれは以前入った霊石だ! あそこに避難できる!」
 進行方向を急転換して下方へ向けると、意表をつかれた大魔神は体から離れた。
「チャンスだ」
 地表にぶつかるように霊石へダイビングした。
 ポンッ――
 間一髪のタイミングで霊石に入り込んだ。
「助かった・・・・」
 霊石の中は無音、無色の世界だった。意識だけがポッカリと宇宙空間を浮かんでいる。入った瞬間安らぎに満たされ、時間感覚が喪失した。そこには愉悦も歓喜も興奮もないが、恐怖も不安も絶望もなかった。
――ああ、気持ちが良い。やっぱりここが正解だったんだ。もうずっとここにいよう。オレの居場所はここなんだ。力の卵なんて無理な話だったんだ。アレ? レ、レ、レ・・・・。
 安心したも束の間、体がズレるような感覚がした。少しずつスペースが狭くなっているような気がする。このままでは体がスペースからはみ出してしまいそうだ。弦太郎は霊石にいるはずの同士に呼びかけた。
「同士、聞こえますか。もう少しスペースを空けてください。窮屈なんです」
 声が返ってこなかった。
「同士、居るんでしょ! 聞こえているんでしょ! 狭くて苦しいんです! もう少し空けてください! お願いします」
 そのとき、小さく消え入るような声が帰ってきた。
「若き同士よ・・・・」
「どうしたんですか? 早くスペースを空けてください! 体が出そうなんで」
「もうダメだ・・・・」
「ダメってどういうことですか」
「私はこの世界から消え去る時がきた」
「消え去る?」
「霊石と一体になる日が来たようだ。長く長く霊石にお暇させてもらったが来るときが来たようだ・・・・」
「霊石と一体になる? 霊石に溶けてしまうってこと? それも今?」
「この私の最後のとき、同士に別れが言えて嬉しいよ」
 じわじわとスペースが狭くなってきた。
「おい、おい、どういうこと?! 霊石に溶けるって、スペースがなくなるってことなの?」
「さようなら・・・・」
「なぜ、今! 困る、今は困る! 外には大魔神がいるんです! もう少し、もう少し猶予を!」
 ポン――
 弦太郎ガルーダの体が霊石から投げ出された。突然の事態に方向感覚を失い前後不覚に陥った。その瞬間、大魔神が強烈な勢いで上から押しつぶしてきた。
「グエ・・・・」
 真下で口を開けていた黒い穴に突き落とされた。


   三十
「痛て――」
 弦太郎はドスンと地面に尻餅をついた。
「ワッ、また人間の体に戻ったぞ・・・・」
 重たく窮屈な肉体感覚――、手の平をまじまじと見つめ、視覚で自分の体を観察した。それは旧知の体であり、知りえた肉体感覚であった。体には質素なボロ服をまとっていた。
「で、ここはどこだ?」
 周囲をキョロキョロと見回した。夜空に星がきらめき、なんとか視界が利く程度の薄暗さだった。荒野のような大地が三百六十度のっぺりと広がり、草木の一本も生えていない。暑くもなく寒くもなく、そして風もない。生命の気配がなく、ただただ静寂。ここは地球以外の惑星であることがわかった。
「今度は星に連れてこられたか。さあ、どうするか・・・・」
 弦太郎はブラブラと辺りを歩き、状況を観察した。
「死神の野郎、今回は何を仕掛けてくるんだ」
 この惑星はいままで経験した死神の世界とまったく様相が異なっていた。寂しげな世界であったが厳しさがない。もちろん楽しくもないが苦しくもない。辛くもないが面白くもない。
「なんだろうここは?」
 ボンヤリとしていると遠くない前方で、地表に黒い円形の穴がゆっくりと開いた。
「何が起きるんだ?」
 じっと見つめていると、開いた円形の穴から緑色の液体が円柱の形のままゆっくりと音もなく噴き上がり、ある高さに達するとその緑色の液体はゆっくりと低下して穴に収まった。地表の円形の穴も何事もなかったかのようにスッと閉じた。
「どういうことなんだ?」
 初めて見る自然現象だった。つづけて起こることを期待して同じ位置でずっと見守ったが、その現象は起こらなかった。
「さあ、行くか。どこへ向かって行けばいいんだろう・・・・」
 弦太郎は歩き出そうと前方を見つめた。
「ん?! 何かいる!」
 何らかの生命体の姿が薄っすらと前方に見えた。そちらにじっと目を凝らしゆっくり近づいていくと、それは岩石に腰をかけている人間のような生命体だった。
「異星人か?」
 さらに近づいていくと、はっきりと相手を確認できた。
「一つ眼・・・・」
 弦太郎は思わず低く呟いて足を止めた。異星人は顔の正面に大きな一つ眼があり、こちらを見つめていた。
「異星人の死神か・・・・」
 一定距離を保ち、異星人の姿を観察した。大きな一つ眼の下には小さな口があり、身体は小枝のように細くヒョロヒョロしている。相手はこちらに敵意も興味もない様子で岩に腰を下ろしじっとしていた。
「あ、そういえば、死神がそこにいるのに・・・・」
 弦太郎は自分自身の心理の変化に気づいた。前回までは一つ眼を見た瞬間、恐怖と嫌悪を感じたが、今回はどういうわけか、そういった否定的な感情がまったく起きない。否定的どころか友愛的なものを感じる。
 弦太郎は今一度自分の置かれている状況を確認するため周りを見渡した。すると、同じぐらいの高さの岩石一つひとつに、同じような容姿の一つ眼の異星人たちが身動きせず腰を下ろしていることに気づいた。
「大勢の異星人たちに囲まれている・・・・」
 弦太郎は意味不明の彼ら生態をじっと観察した。
――いったい彼らは何をしてるのだろう?
 そのとき前方にいた異星人が岩石をポンポンと叩き、「こっちに座れ」という合図を送ってきた。弦太郎は警戒し、しばらく相手の様子を窺ったが、異星人は強制してくるわけでなく、攻撃的な空気を醸し出すわけでなく、それどころか、彼らの態度と雰囲気には慈愛と安らぎが溢れているように感じた。
 弦太郎は一歩一歩ゆっくりと歩み寄り、異星人の真横に腰を下ろした。最初は異星人が急に豹変して襲ってくるかもしれないとビクビクして落ち着かなかったが、しばらく座っているうちに相手はまったく安心な存在であることがわかってきた。
「――君は十分成長した」
 弦太郎の頭の中に異星人の声が響いた。その声は〝音〟ではなかったが、脳に直接相手の意思が伝わってきた。そしてその声は非常にやさしかった。
「この世界を存分に味わったらいい」
 異星人はそれだけ言い沈黙した。弦太郎は「味わう」という意味が理解できず、岩の上でキョトンとしていると、次第に心の深い領域に入り込んでいった。美しいメロディーがどこからともなく聞こえ出し、安らぎと喜びが体を包み込んできた。それは今まで経験したことがない不思議な感覚だった。異星人たちがじっとして動かない意味がわかった。彼らも同じように安らぎに包まれているに違いない。
――彼らは心の底でつながっている仲間だ、いや兄弟だ。彼らは平和な気持ちを持つ高等生物なんだ。
 弦太郎は一切の孤独感が消え失せ、至高の喜びでいっぱいになった。歩き回って何かを探索しようという気持ちがまったく失くなり、この岩にずっと座りつづけようと思った。
――この星でこうして岩に座っていれば、永遠にこうした至福の気持ちでいられるのだろう。
 そう思った瞬間、それに同意するかのように、
「ああ、ここにいる限り永遠さ」
 異星人の声が聞こえた。
――ということは、オレはとうとう究極にたどり着いたってわけなのか、フフフフ。
 弦太郎が笑うと、異星人たちもそのことを祝福するように「フフフフ」といっせいに笑いだした。
――天国とはこのような形で存在していたんだ。美女が裸でハーブを弾いているんじゃなかったんだ。まったく想像もしていなかった。いや、こんなこと想像なんてできやしなかった。じゃあ、今までのオレの人生は何だったんだ? 人間として生まれ、呪術師となり、ガルーダとなった。それらはここに導かれる伏線だったのか。
 弦太郎がそんなことを考えると異星人たちはそれに同意するようにまたいっせいに笑い出した。
「フフフフ」
 その笑い声を聞くと、何ともいえない愉快な気持ちになり心が躍った。究極の笑いとはこういうものだったのか。そのとき、また前方の地面にゆっくり大きな穴が開き、緑色の液体が音もなく噴出した。それを見た瞬間、心の隅にあったガルーダの世界の名残が頭をもたげた。
――力の卵はどうなってしまうんだろう? ここでモタモタしていたら大魔神が孵化してしまうぞ。いや、オレはもう結論にたどりついたんだ。もう大魔神も力の卵も関係ない。でもなあ、本当にここが究極なのか。師匠が指し示した目標と違うんだが・・・・。
「無駄なことを考えるなよ――」異星人の声が聞こえた。「これで完成したのだよ、フフフフ」
――ああ、そうなのか。
 異星人の言葉を聞いて納得した。
「フフフフ――」
 一人の異星人が笑うとそれに共鳴するかのように周囲の異星人がいっせいに笑い出し、弦太郎も体中をくすぐられたかのような全身感覚で愉快な気持ちになった。
 そのとき、また前方で大地がスーッと丸く開き、緑色の液体が円柱形に吹き上がった。それを目にした弦太郎はまた力の卵のことを考えた。
――卵が出現するのは千年に一度のチャンスなんだよなあ。あの卵から放たれる虹の光、溢れんばかりの力、あれを狩るとどんなことが起き、どんな気持ちになるのだろう。あそここそが、師匠が指し示した道のはずだが・・・・。
「行きたければ行けばいい――」異星人が言葉をかけてきた。「誰も止めやしないよ、フフフフ」
「そうなのか、君たちはオレを止めないのか」
「自由さ。すべて自由さ。好きにしな」
「オレもずっとここにいたい。もう刺激は要らない。争いたくなんかない。でも、かりにこの星から出るとしたなら、どこから出ればいいんだい?」
「簡単さ、あそこの穴が出口だよ」
「あそこの穴?」
 また前方の地面に穴がゆっくり開き出した。
「緑の液体に触ってみればわかるさ」
 弦太郎は異星人の言葉に従い、岩から立ち上がって穴に近づいた。穴の手前に来ると、緑色の液体がゆっくり噴出してきた。弦太郎は無造作に緑色の液体にそっと手を触れた。その瞬間、不安、恐怖、悲壮、絶望、虚しさ――、濃厚でネガティブな感情が体にまとわりついてきた。それは今まで経験したことのない苦しみで、全身が痺れたようになった。
「あ、あ、あ・・・・」
 弦太郎は地べたにひっくり返って呻き声をあげ、のた打ち回った。
――そうだ、これこそが真実の世界で、進みべき道だ。
 苦しみの中でそんなことを思った。
 ネガティブな感情はわさびの辛さが鼻腔から消えてゆくように、しばらくすると何事もなかったかのようにスーッと消えていった。
「ああ、苦しかった――」
 弦太郎は小さく呟きながら上体を起こし、溢れ出た涙と鼻水と汗を拭い取ってしばらく呆然としていた。心の落ち着きを取り戻し、異星人たちに目をやると、彼らはじっとして身動きせず、現状に真から満足しているようだった。
 異星人がまた岩石の隣の席をポンポンと叩いて座るよう合図してきた。
――とりあえず、あの席に戻ろう。
 立ち上がって異星人の方へ歩み出した。
――待てよ。
 ピタリと足を止めた。
――またあそこに行ったら、もう立ち上がる気力がなくなってしまうんじゃないだろうか。オレが行くべきところはあそこなのか。いや、あそこは真実じゃないんだ。
 弦太郎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「好きにすればいいんだよ」
 異星人はやさしく声をかけてきた。決して引きとめようともしないし、かといって追い出そうともしない。彼らは弦太郎の自由を尊重する真摯な態度で接してきた。
――ずっとあそこに座っていたい。あそこにいれば何も問題は起きないんだ。ずっと安らいでいられる。でも、あそこにいるべきじゃないんだ。行くべきは、あの苦悩の世界なんだ。穴に入る前にもう一度だけ岩に座って喜びを味わおうか、ほんの少しだけ。いや、いや、いや、モタモタしてたら力の卵が孵化してしまう。急がないと。
 そのとき、辺りからいっせいに異星人の笑い声が聞こえてきた。
「フフフフ――」
 その愉快な声を聞くと仲間に入りたくてたまらない気持ちになった。
――ダメだ、ダメだ。もう行こう。死神の世界の脱出口が見つかった以上すぐに行かないと。
 そのとき、また前方の地面にゆっくりと穴が開いて広がってきた。
――きたか・・・・・。
 心が重かった。もう一度だけ異星人の隣に座って至高のメロディーを聞きたい。
――どうしよう。
 弦太郎はトボトボと穴に向かって歩いた。振り返ると一つ眼の異星人たちが安らいでいる姿が目に入った。
――羨ましいなあ。でも、もう一度あそこにいったら二度と立ち上がれなくなる・・・・。
 異星人たちはまたいっせいに笑い出した。
「フフフフ――」
 身体が笑いに包まれる。
――仲間に入りたい、どうしても仲間に入りたい。
 穴から緑色の液体が噴出してきた。
「サラバだ、友よ、異星人よ!」
 弦太郎は気が変わることを懼れ勢いよく走り出した。
「フフフフ――」
 笑い声が聞こえた。
「イヤッア!」
 叫び声をあげながら緑の液体の中に大の字になって飛び込んだ――。


   三十一
 診療所のデーンの木はあまりに巨大に生長し、地元の人々の間で〝神の木〟と噂が拡がった。そんな大木を見ようと、ゲートの外には大勢の人が集まり、ときにはゲートを乗り越えて中に侵入する者まで現れた。ハムとファンはそんな人たちの対応に追われた。
「――テレビ局の者ですが、そちらの診療所にある巨木を取材させていただけないでしょうか?」
 マスコミからの取材の電話が舞い込んできた。
「申し訳ありません。取材はお受けできません」
 電話に出たファンは取材を断った。
「ご迷惑をおかけするつもりはありません。巨木をカメラに映して、少しインタビューするだけです。全然時間を取らせません」
「そういう問題じゃなくて・・・・」
「と、言いますと、どういった問題が?」
「ええと・・・・、神様の木ですから、あまり人目にさらされたくなくて・・・・」
 言葉を濁すように答えた。
「それはご尤です。あまり騒ぎ立てるのはよくありません。そのことはよくわかります。でも少しだけですから」
「すみません・・・・」
「じゃあ、いま電話口で、巨木に関する簡単な質問に答えていただけませんか?」
「質問?」
「ええ、もちろん謝礼は出しますよ。小額ですが」
「そういう問題じゃなく・・・・・」
「失礼な質問じゃありませんから。――ええと、巨木の植物の種類はご存知でしょうか?」
「植物のことはよくわかりませんが・・・・」
「じゃあ、樹齢はどれくらいで」
「それもちょっと・・・・・」
 ファンが曖昧な対応をしていると、マスコミも焦れったくなり回答を諦めた。
「またお電話するかもしれません」
「は、はい」
 電話が切れた。
「ああ、疲れた・・・」
 ファンはどっと疲労感を感じた。
 リリリリ、リリリリ―――
 すぐにまた電話が鳴った。ファンは直感的にまた同じような電話だろうと思った。受話器を取らずじっと電話を眺めていると電話が切れた。そのとき、ハムがやってきた。
「あっ、ハムさん。どうしましょう。電話が頻繁にかかってきます。さっきはテレビ局からの取材の電話でした」
「断った?」
「ええ、もちろん」
「マスコミの取材はすべて断りましょう。これ以上たくさんの人がきたらどうしていいかわからないから・・・・」
「ええ、そうするつもりです。ゲートの外の人たちの様子をどうですか?」
「お昼ご飯の時間になって、やっと少し人が引いたわ。でもまたすぐに集まってくると思うけど」
「日に日に人が増える一方ですね」
「そうねえ・・・・」
 二人は困惑した表情で目を見合わせた。
「ああ、頭が痛いわ」
「こんな騒ぎの中で、私たち呪術師はまっとうな生活が送れるのでしょうか?」
「さあ、どうでしょう・・・・。それに、私たちの問題だけじゃなく、地中で休んでいるデーン先生がどうお感じになっているか」
「そうですねえ・・・・」
 ファンは窓際に寄り添い庭を眺めた。庭の空間を埋め尽くすかのように存在するデーンの巨木に、プリンが相変わらず一人で淡々と水遣りをしている。ファンはプリンの姿が視界に入った瞬間サッと目を逸らしてハムを見つめた。ハムはすぐにファンの心中を察した。
「どう?」
 声を潜めてハムが言った。
「いつもと同じ・・・・」
 ファンも声を潜めて答えた。
 トンの事件以来、二人は「プリン」と名を呼ぶことさえも恐ろしくなっていた。だが、毎日プリンに食事を給するときは顔を合わせなければならなく、彼が近づいてくると体が硬直し膝が震えた。プリンはトンの事件以後も、以前と同じように淡白な態度を変えなかったが、それでもあんな恐ろしいものを見てしまった以上、彼女たちは同じように振舞うことはできなかった。相手は人間ではなく、呪術師でもなく、怪物のようである。その正体はまったくわからない。ひとつ間違えればトンのように命を奪われてしまう。彼女たちはプリンに監禁されているような気持ちになっていた。
     *
 夜空に星が瞬いている夜明け前の時刻、プリンはいつものように一人庭に出て水遣りを始めた。巨木に近づき空を見上げると、枝葉の緑が一晩のうちに真っ赤に変色していることに気づいた。幹に両手を当て、手の平から微細に伝わる生命の脈動に耳をすませた。
――準備が整っている。
 プリンは立膝をついて姿勢を正し、合掌して深々と三回頭を下げた。そして、額を大地につけて地中に静かに語りかけた。
「デーン様、お目覚めください。時がきました」
 しばらくすると巨木の根付く大地から光が放出し始めた。
     *
 ファンは自室のベッドで神秘的な夢を見ていた。天上の神々が巨木に集い、ある神は楽器を奏で、ある神は舞い踊っている――。ハッと目を覚ました。しばらくボンヤリと寝室の天上を眺めながら不思議な余韻に浸った。
「今日何かが起きるのかしら。いや、もしかして、いま何かが起きているんじゃ・・・・」
 寝室に異様な静寂感が漂っていることに気づいた。虫や蛙などの小動物の鳴き声、時計や車などの物音が何も聞こえない。こんな奇妙な静寂感を体験するのは生まれて初めてのことだった。ベッドから立ち上がり寝室から廊下に出た。まだ夜明け前の時刻で屋外は暗いはずなのに、廊下は窓から光が差し込み明るくなっていた。差し込んでくる光の性質が昼間の光と何か違う気がした。
「どういうこと?」
 怖くなりハムの寝室に入って彼女を揺り起こした。
「ハムさん、起きてください」
「どうしたのよ、こんなに早く」
 ハムは夜中に突然起こされ、寝ぼけ眼でファンの顔を見た。ファンはパニック状態になっていた。
「そ、そ、外が明るくなっています」
「何言ってるの?」
「とにかく見てください」
 寝室を出ると廊下が昼のように明るくなっており、窓から光が差し込んでいる。
「えっ、一体何が起こってるの?!」
 ハムも驚いて目を見開いた。二人は恐る恐る窓際に近づき、屋外を覗き込んだ。眩しい光に照らされた巨木は葉の色が赤くなっていた。
「葉の色が変わった・・・・」
 下を見下ろすと、光は地面から放たれており、プリンが跪きながら巨木に頭を下げているのが見えた。
「何かすごいことが起こりそうよ。とんでもないことが・・・・」
 ハムが声を震わせながら言った。大地から放たれる光はさらに光度を増してゆき、巨木の根元の地面がモコモコと動き出した。
「何かが出てくる・・・・」
 二人は顔を見合わせた。大地から輝く光の生き物が這い出してきた。あまりの眩しさに体の輪郭すらも見えない。
「あれはデーン先生なの・・・・・」
 二人は目を細め、手の平で光を遮りながら状況を見守った。
 光り輝くデーンとプリンが対峙した。プリンは合掌して頭を下げた。
「お帰りなさいませ。デーン様。私が天へお連れします」
 プリンは恭しく言うと、光り輝くデーンは小さく頷いた。その瞬間、プリンの体は白い龍に変化してデーンの体を抱え込んだ。
「行きましょう」
 白い竜はデーンを抱えたまま天へ昇っていった。
 ハムとファンはポカンと口を半開きにしたままその光景を眺めていた。言葉が出なかった。


   三十二 
 長老の卵は赤く変色し熱を持ち始めた。卵に手を当てると中で胎動しているかのように動いている。子猿は嬉しくてたまらなくなり、四六時中、卵を両腕で抱きしめていた。
「孵化はもうそろそろでしょうか?」
 ナラワットは、卵を抱きしめている子猿の背後で、毛づくろいしながら話しかけた。
「そうみたいだな。卵の中でうずいている。胎児は出たくてたまらないようだ。今日か明日あたり、孵化の儀式となるようだ」
「孵化の儀式とはどのようなことをされるのでしょうか?」
「湖に浸けるんだ。そうすれば化学反応が起きて、新しい生命が誕生する、ウキキキ」
「それはすばらしい。その歴史的な儀式の瞬間、私もお供させていただいてよろしいでしょうか」
「ダメだ」
 子猿は冷たく言い放った。
「ダメですか・・・・」
「恐ろしいことが起きるからな」
「恐ろしいこと、ですか?」
「危険といったほうがいいか。お前も死にたくないだろ、ウキキキ」
「はい、もちろんそうですが・・・・」
 ナラワットは詳しく訊きたかったが、大魔神の怒りに触れることを恐れ、それ以上踏み込まなかった。
「楽しみだ、楽しみだ、ウキキキ」
 子猿は卵に頬ずりした。
     *
 弦太郎は異星人の惑星で緑の液体が吹き上がる穴に飛び込み、暗い穴の底へゆっくりと落ちていった。落ちていく途中、パッと世界が反転し明るくなり、その瞬間ガルーダとなって空を飛んでいた。
――あっ、戻ってきた。死神の異世界とこの世とは、こんなに近くにあったんだ。いや、近くというよりも同じ空間だったんだ。距離の問題じゃなく、位相が違っていただけだったのか。
 弦太郎はガルーダとなり、すがすがしい気持ちで空を飛んだ。
――ああ、ガルーダはいいものだ。そうだ、死神の世界から抜け出て、どれくらいパワーアップしたんだろう。能力を確かめるか。
 翼を大きく広げて力をこめると、〝高速〟という次元を超え、まるで瞬間移動するかのように空間を移動した。
――とうとうオレもここまできたか。
 感慨深い気持ちになった。
――でも、あの異星人の世界もよかったなあ。
 惑星の居心地のよさに愛着したい気持ちも残っていた。死神の異世界を幾種類も経験してきたが、こんな気持ちになるのは初めてのことだった。それと、今まで一つ眼の死神に対して持っていた否定的な感情――、嫌悪感、恐怖感、苦手意識、そうしたものがまったくなくなり、それどころか友愛の気持ちや慈しみの情を感じていた。こうした自分自身の心情の変化も不思議なものに感じた。
「そんなことよりも――」すぐに力の卵のことを思い出した。「急がないと卵が孵化してしまう。もう手遅れか・・・・」
 目を閉じて感覚を研ぎ澄まし、力の卵の気配を探った。
――あった! あっちだ。
 力の卵を見つけ、その方向へ向かって力を入れた。あっという間にその場所に到達し、力の卵の姿を観察した。
「ああ、美しい。久しぶりだ・・・・」
 卵から放たれる光はさらに輝きを増し、それを眺めているだけで体がカッと熱くなった。心の底に眠っていた狩猟本能と闘争本能が蘇ってきた。
「ウオオオ」
 雄たけびをあげた。
 力の卵の傍らには密着するように〝黒い陰〟が寄り添っていた。前回まではその不吉な陰を見ると、襲おうかどうしようか尻込みする気持ちが芽生えたが、今回はそういった気持ちがまったく起きず、それどころか大魔神の姿にユーモアすら感じて笑いがこみ上げてきた。
「ハッハハハ、卵は屋内に守られているな。扉が開かないと卵は襲えない。じゃあ、大魔神をおびき寄せるためにまず周辺の呪術師たちを狩ってやるか」
 弦太郎ガルーダは即断し、一切のためらいもなくサロ呪術師の村へ飛び込んでいった。
 ゴオオオオ――
 村に突如、暴風が吹いた。サロ呪術師たちはその音を聞き取り、本能的に得も言われぬ恐怖を感じた。
「何か不吉なことが起きそうだ・・・・」
 その瞬間、屋外にいたサロ呪術師たちは砂塵が宙に舞うように次々と吹き飛ばされた。こんな災害は彼らにとって初めてのことだった。どう防御していいかわからない。サロ呪術師たちは無抵抗のまま次々と吹き飛ばされた。
     *
「――ん?!」
 力の卵を抱きしめ、毛づくろいを受けていた子猿は遠くからガルーダの雄たけびを聞き、ピンと耳を立てた。
「ケッ、またガルーダがくるな」
 小さく呟いた。
「またガルーダですか、フハハハ――」ナラワットは朗らかに笑った。「ガルーダの奴、懲りませんなあ。大魔神様をなんと思っているのでしょう。学習能力のない奴だ」
 ナラワットは子猿の顔を覗き込んだ。すると子猿は顔色を変えてうろたえていた。
「あ、あ、あ、こいつはなんと強力なガルーダだ。いままでのとは質がちがう・・・・」
 ナラワットはそんな子猿の表情を見るのは初めてだった。
「どうされましたか、大魔神様・・・・」
「おい、ナラワット、いいか」
「な、な、なんでございましょうか」
「絶対、御殿の扉を開けてはいけないぞ。今度の戦いは簡単にはいかない。危険なものとなる。もちろん我輩が勝者となるだろうが、卵は厳重に守るんだ。わかったな」
「危険とはどういうことでしょうか、大魔神様」
「うわっ! 村が襲われた。大変だ――」
 その瞬間、ナラワットの目の前にいた子猿はパッと部屋から消えた。ナラワットは呆然として二度三度強くまばたきをした。
「何が起こったんだ?」
 ゴロゴロゴロ――
 屋外から雷の恐ろしい音が響いてきた。
 ドドドドドド、ドカン――
 爆撃されるような激しい音に変わり、御殿が揺れた。
「おい、おい、おい、外で何が起きているんだ?」
 ナラワットは御殿に一人で居ることが不安になった。外がどういう状況なのか確認したい。
「大魔神様は扉を開けてはいけないとおっしゃっていたが、少しだけ、ほんの一瞬だけ覗いてみるか」
 大きく重い扉をゆっくりと三十センチ程開けて、恐る恐る顔を出した――。
     *
 龍となった大魔神はガルーダの動きを止めることができなかった。スピードは互角で、追いかけても追いかけても距離が縮まらない。目の前で大切に育てたサロ呪術師たちが次々と餌食となっていく。
「おのれェ、我輩の愛しい弟子たちを」
 力んで追いかけてもガルーダに一撃もあたえられない。犠牲になるのはサロ呪術師たちだけではなく、暴風、暴雨、落雷によって、整然とした美しい村が無残な姿へと変わっていった。
「なんてことだ。我輩の大切な村が崩壊していく。――あっ!」
 御殿の扉が開かれる音がした。大魔神はハッと背後を振り返った。同時にガルーダはパッと向きを変えて、御殿へ向かって猛スピードで飛んだ。
「ガルーダめ、そうはさせるか」
 大魔神はガルーダに一瞬遅れて御殿へ向かって飛んだ。
「ナラワットめ、なぜ扉を開けるんだ! バカ猿が! 扉を閉めろ!」
 御殿の扉の一歩手前で、大魔神はガルーダの胴体に手がかかった。
「掴まえたぞ」
 大魔神はガルーダの動きを止めようとした。しかしガルーダの力は強く、勢いが止まらない。そのまま二頭同時に御殿へ突っ込んでいった――。
     *
 ナラワットが顔を出した瞬間、轟音とともに暴風が吹きつけてきた。
「ウワッ!」
 彼の巨体は御殿の広間の端まで飛ばされて壁に叩きつけられた。御殿の室内にあったあらゆる装飾品も吹き飛ばされて室内を舞い、壁や天井に叩きつけられた。
「卵よ!」
 大魔神は卵を目の前にして叫んだ。
「獲ったぞ!」
 ガルーダは力の卵を通過し卵を吹き飛ばした。卵は壁にぶつかり「グシャ」っと音をたて、殻が木っ端微塵に砕け散った。ガルーダは瞬く間に屋外へ去っていった。
「嗚呼・・・・」
 大魔神は龍から子猿へ姿を変えた。轟音は消え、御殿の広間は静寂となった。
「おお、我輩の可愛い卵が・・・・、孵化する直前の可愛い卵が・・・・。な、なんということだ」
 子猿は散らばった殻を両手に集めて嘆いた。広間を見渡すと室内は無残に荒れ果てた姿になっていた。ナラワットも床にひっくり返ってピクリとも身動きしない。呪力を奪われて死んでしまったのだろう。
「ガルーダに敗北した・・・・。世の中にこんな化け物級のガルーダが存在したとは・・・・」
 子猿が耳をすますと、ガルーダは縄張りの上空を凱旋するかのように悠々と飛んでいる音が聞こえた。
「おのれェ、耳障りな。大魔神様を小馬鹿にしやがって、ガルーダの分際で。畜生、復讐だ! 返り討ちにしてやる!」
 大魔神は子猿から龍へと姿を変え、宙を旋回するガルーダに向かっていった。
     *
 弦太郎ガルーダは夢心地だった。とうとう力の卵を仕留めたのだ。千年に一度しかないチャンスをものにしたのだ。まさに奇跡的だった。卵に手が届く直前で大魔神に掴まったが、振り切ることができた。間一髪だった。
――力が体中に溢れている。
 卵の持つ力は格別だった。宙を舞いながらウットリとした。
――もうこれ以上はない。これが最上で、これが最高の状態だ。すばらしい。こういうことだったのか・・・・。
 心の曇りがすっきりと晴れ渡り、すべての存在に祝福されている心持だった。もう世の中に怖いものは何もなかった。恐怖も不安も虚しさも何もなく、ただただ満たされていた。
――ああ、すばらしい。この世はすばらしい。世界はすばらしい。
 そのとき、大魔神が体当たりしてきた。
「お、なんだ、こやつは、ハハハハ」
 弦太郎ガルーダは大魔神の体当たりを正面から受け止め、さらに大魔神を掴んで抱きかかえたまま悠々と空を舞った。もう大魔神など戦うべき相手ではなかった。愛玩用のペットのように思えた。
「フハハハ、可愛いやつだ」
 弦太郎ガルーダは龍を両手で抱えながら嘴でつついたり、くわえたりして玩んだ。
「うわあ、やめろ、このやろう」
 大魔神がいくら撥ね退けても暴れても、ガルーダの手から逃げられなかった。
「この化け物には手がつけられない。復讐なんてとんでもない。とにかく逃げよう。遠くへ逃げるんだ。ご主人様のところへ避難だ」
 大魔神はガルーダが手を放した瞬間、天に向かって飛んでいった。
「なんだい、大魔神のやつ、どこへ行くんだ?」
 ガルーダも龍を追っていった。
 二頭は高く高く天へ昇ってゆき、白く輝く太陽に吸収されていった。


   三十三
 弦太郎ガルーダの目の前に太陽が迫ってきた。眩しさで視界を失ったが、そのまま太陽に突進していった。
 失われていた視界がパッと開くと、そこは広大な森だった。濃い緑の上空を飛んでいた。
「あっ、世界が変わった。どこにやってきたんだ?」
 弦太郎ガルーダは目を瞬いた。ガルーダの視界は光の粒が瞬く世界だったが、人間のような視界に変わり緑地帯を俯瞰していた。まるで鳥になった気分だった。どこまで飛んでも広がる広大な森は妖しい生命力に満ち、様々な生き物のうごめいている気配があった。景色をうっとり眺めながら空を飛び回った。
「あっ、そういえば大魔神はどこに行ったんだろう?」
 景色に夢中になり、大魔神のことを忘れていた。大魔神を追いかけて入り込んだこの世界だが、もう大魔神のことなどどうでもいいように感じた。目的も目的地もないまま、ただ気持ちよく空を飛行しつづけた。
「あ、あれは?」
 遠く前方にひときわ高く聳え立つ四角い岩山が小さく見えた。それに向かって飛んでいくと、次第に岩山の形、大きさ、質感が明瞭になり、それが巨大な一枚岩であることがわかった。
 羽を休めようと岩の上に降り立った。降り立った瞬間、鳥の体が人間の弦太郎に戻った。人間に変わっても、驚きも、戸惑いも、悲しみも、感動も、懐かしさも何も起きず、ただ「人間に戻ったぞ」と思った。
 岩を踏みしめるように一歩一歩自分の足音を聞きながら歩き、崖っぷちで立ち止まった。高い岩山から視野いっぱいに広がる森と空を見渡した。どこかで見たことがある風景だと思った。
「どこだっただろう?」
 考えてもそれがどこで見た風景だったか思い出せなかった。崖っぷちに立っていると、爽やかな風が身体を吹き抜け、万物と一体になったような気持ちになった。弦太郎は大地と空と風に溶け込み、何も言葉を発さず、何も考えず、何も想わず、ただ静かに佇んでいた。
 そのとき背後に何者かの気配を感じた。振り向くと遠くに人影があった。その姿ははっきりと捉えられなかったが、身体に懐かしさを感じた。人影に向かって歩んでいった。ある距離まで近づいたとき、対象が明瞭に姿を現した。弦太郎は小さく呟いた。
「師匠――」
 タムの脇にはデーン、子猿、太った小坊主がいた。皆は和やかに微笑んでいた。弦太郎は淡々と彼らに歩み寄り、至近距離で足を止めた。言葉を交わさずともお互い心が通じ合っていると直感し、無言で相手を見つめた。
「とうとう辿り着いたな」
 タムが沈黙を破った。
「辿り着きました」
 弦太郎は笑って応じた。
「ここはどこだかわかるか?」
「いや――」
 弦太郎はゆっくりと首を振った。
「ここは〝世界の果て〟だ」
「〝世界の果て〟ですか・・・・」
「正確に言えば、ここは〝世界の果て〟の一歩手前だ。別の言い方をすれば〝永遠の入り口〟だな」
「永遠の入り口ですか・・・・」
 タムの横にいたデーンが「おめでとう」と祝福し微笑んだ。子猿と小坊主も微笑みながら敬礼した。弦太郎は何も言葉を発さず、ただ彼らを見つめて微笑んだ。
「デーンはお前の一歩先にここに辿り着いた。彼女はウペウ呪術師として力が満ちたんだ」
 タムが言った。
「ご無沙汰でしたね」
 デーンは弦太郎に手を差し出した。弦太郎もゆっくりと手を伸ばし、互いにぎゅっと握手をした。
「ここにいる子猿、覚えているな?」
 タムが子猿の肩にポンと手をのせて言った。
「ええ、もちろん――」弦太郎は笑いながら言った。「サロ呪術師を仕切る大魔神の化身。彼にはずいぶんとイジめられました。呪術師のときも、そしてガルーダになってからも」
「何か因縁を感じないか?」
「因縁? 最終的に彼の持つ力の卵を奪い力を満たすことができましたから、何か因縁があるのかもしれませんね。――そういえば、ぼくは彼を追ってここにやってきたんです。師匠とは、一体どういう関係で?」
「こいつはワシのペットだ、ハハハハ」
 タムはそう言い、陽気に笑った。
「ペット? 師匠は確か、大魔神との戦いでサボテンになったはずでしたが?」
「そういうも演出もしたな」
「あれは演出だったんですか?」
「そういうことだ、ハハハハ」
 弦太郎はいろいろと訊きたいことが溢れてきたが、その一方、なぜかすべての真相はすでに知っていて何も聞く必要がないという気持ちも持っていた。タムからの告白を聞いても冷淡だった。
「こいつのことはわかるか?」
 タムは太った小坊主を紹介した。
「いや、会ったことがないと思いますが」
「世話にもなっているぞ」
「確かに懐かしい雰囲気を感じます」
 小坊主は恥ずかしそうに一歩足を踏み出した。
「私はアディーです。エチンケ呪術師だった・・・・」
「ああ、アディ爺でしたか。卵から孵化して大魔神となり、そんな姿に変わっていたとは」
「お前と戦ったこともあるぞ」タムが言った。
「戦った・・・・? もしかして、サロ呪術師の領土以外の場所で大魔神に襲われたことがありましたが、あれですか?」
「そうだ。お前は戦いに敗北し、死神の世界に送られている」
「助け合ったり、戦ったり、なんという複雑な関係・・・・」
 弦太郎と小坊主は目を見合わせて笑った。
「いろんなことが起こって面白いだろ?」
「今となったら面白いですが――」弦太郎はタムの眼をじっと見つめながら一旦沈黙した。「どうやらぼくは師匠の手の平の上で転がされていたようですね。師匠はぼくを、いや弟子たちすべてをコントロールしていたんですか?」
「いいや、ワシは弟子たちをコントロールなんかしたことがないし、そもそもコントロールなんかできない」
「本当ですか」
「自由意思を持つ個体性をコントロールなんかできない。かりにコントロールできたとしても、それでは世界に流れは生まれない。ワシが今までやってきたことといったら、弟子を流れに導くことだけだ。弟子は流れの前で考え、決断し、行動し、そしてまた新たな流れを作り出す。そんな弟子たちの流れが絡み合って大きな流れとなり、新しい世界が現れる」
「流れですか・・・・。でも、弟子を流れに導くといってもとても複雑です。師匠はただの呪術師じゃないようです。しかも大魔神をペットにして・・・・。師匠、教えてください。師匠の真の正体は何なんですか?」
「ワシの正体? ハッハハハ――」タムは弦太郎の眼を見つめながら笑った。「ワシは何者でもないし、何者でもある。ワシが何者かであるかは、ワシのワークそのものにある。かりに名づけるとしたら〝太陽神〟とでも言うんだな」
「太陽神? じゃあ、ウペウ呪術師というのは何だったんですか?」
「ウペウ呪術師というのは弟子を作るための仮の姿。太陽神はウペウ呪術師という仮の姿をとり、憐れな生命たち、道に迷った生命たち、生死の輪廻に縛られた生命たちを〝永遠〟へ導くワークをしている」
「永遠へ導くワークですか・・・・」
「ワークといっても、それは仕事でも義務でもない。ワシにとっては遊戯だ。愉しみ以外の何ものでもない、ハハハハ」
「ワークであり遊戯ですか・・・・。ぼくはそんな師匠のワークによって、ここまでやって来れたんですね」
「ああ、そうだ。ここまでやって来て、今、何か知りたいことはあるか?」
「知りたいことですか・・・・。最初のこと、ぼくが弟子として選ばれたときのこと、あれは偶然だったんですか、それとも師匠の意思だったんですか?」
「必然性が向こうからやってきて、ワシとお前は出会ったんだ」
「運命ということですか?」
「運命に委ねるということでもない。ワシの意思もあるし、お前の意思もある。流れに乗るためにも、力に押し潰されないためにも、歩き続けるためにも、ワシは準備の整った者を選ぶ必要があるからな」
「準備の整った者のみが弟子になっていたわけですか。じゃあ、弟子の呪術師にはいろいろな種類がいましたが、あれはどういうことだったのでしょうか?」
「人間の気質や性格、知性に応じて呪術師の原型が決まる。それぞれの呪術師によって育て方も違えば、成長の仕方も違うし、到達地点も違う。レラ呪術師はガルーダになり、永遠に辿り着く。エチンケ呪術師は大魔神となる。ウペウ呪術師はそのまま永遠となる。他の呪術師たちはレラ呪術師、エチンケ呪術師、ウペウ呪術師、この三種をサポートするための存在だ」
「呪術師と一口に言っても、そのような裏があったんですね・・・・。何も知らずに、ぼくもよくここまで来られたものだ」
 弦太郎は自嘲するように笑った。
「何も知らなかったからこそ、ここまで来れたんだ。知っていたら途中で放り出していただろうよ」
「私もここにくるまで――」デーンが言った。「ウペウ呪術師がどう変化を遂げるかなんて、まったく知らなかったのよ。もちろん、他の呪術師たちのことも、大魔神のことも、何にもね」
「そうなんです――」子猿が言った。「我々も本能的にガルーダと戦っただけで、それがどう影響するかなんて何も知りませんでした。大魔神となって〝主人〟の存在は知らされていましたが、何にか使命を背負わされていたわけでなく、ただ大魔神として好きなように生きていたら、結果としてこのようなワークに参加していて・・・・」
 それを聞いて弦太郎は呆れたように言った。
「師匠はぼくたちが永遠に辿り着くために、様々なトリックを仕掛けていたんですね」
「個体性をコントロールできるものでもないし、〝永遠〟をそのままプレゼントできるものでもない。だからこそ、あらゆるトリックを仕掛けなくてはならないんだ」
「かりに、“永遠”をそのままプレゼントしたら?」
「爆発するかもしれないな、ハハハハ」
「爆発――」
 弦太郎はタムの笑いにつられて笑った。
「だが、トリックといってもそんなに複雑なわけではない。ワークの要点はレラ呪術師とウペウ呪術師だけだから。そこさえ押さていればうまく流れていく」
「大魔神は?」
「大魔神は永遠の存在だが、まだ個体性を持つ存在だ。いわば扉の中の住民だ。永遠の意味が違う。お前とデーンは今から扉を開き、完全に永遠となる存在だ。あそこを見たらいい――」
 タムの指差す方向――、空の一点に星粒大の小さな強い光が輝いていた。それはまるで生きているかのように幽かに揺らぎ、こちらへゆっくりと迫ってきているようだった。
「あそこが永遠の入り口だ」
「永遠の入り口・・・・」
 弦太郎とデーンはその光をじっと見つめた。
「さっきも言ったが、お前たちは永遠の一歩手前にいる。あそこに入れば完全に永遠となり、生まれることも死ぬこともなくなる。個体性は消え失せ、全体性となる。もう何者でもなく、何者でもあるのだ」
「あそこが終局なんですね」
「そうだ、一切の終局であり、一切の故郷だ」
「師匠もあそこへ入ったんですか」
「もちろんな」
 そのとき、爽やかな風が吹き抜けた。弦太郎は沈黙し、瞼を閉じて風を感じた。風がやむと、おもむろに瞼を開けて話をつづけた。
「こうしていま存在する師匠の個体性は何なんですか?」
「憐れな生命たちを永遠に導こうと欲求したんだ。欲求することにより〝仮の個体性〟が生まれ、ワークが始まった。お前たちも欲求すれば〝仮の個体性〟が生まれるだろう」
「〝仮の個体性〟ですか・・・・」
「ワシは〝太陽神〟というワークを持った。デーンもワシと同じ〝太陽神〟というワークを持つだろう。ワシと同じウペウ呪術師として成長してきたからな」
「ええ――」デーンはタムを見つめながらコックリとうなずいた。
「だが、弦太郎は違う。もう一つの大切なワークを受け持つ」
「もう一つの大切なワーク? 他に大切なワークがあるんですか」
「〝生命を永遠に導く〟ワークという意味においては同じだが、太陽神にはできない役目がある」
「その役目とは?」
「お前は破壊する役目だ」
「破壊する役目?」
「何度も会って知ってるだろ。お前の同士を」
「何度も会ってる同士? 何のことを言ってるんですか?」
「死神として生まれ変わるんだ」
「死神に・・・・」
 弦太郎はポカンと口を半開きに開けた。
「今となったら何となくわかるだろ?」
「わからないわけではありませんが・・・・。でも自分があの死神になるとは・・・・・」
「さんざんお世話になってきただろ。死神のワークは、準備ができた人間にガルーダの卵を産みつけ、成長していく呪術師やガルーダを異世界に導き試練を与える。このワークは太陽神にはできない。太陽神と死神はワークのためのパートナーなんだ。両者は一対となって共同作業する。だから、デーンと弦太郎を同時にここに導いた。二人が同時に永遠に吸収されればワークを欲しやすいし、出会いやすいからな」
「欲しやすいし、出会いやすい・・・・」
「太陽神がワークを望めば死神もワークを望み、死神がワークを望めば太陽神もワークを望む。そうして両者は出会うんだ」
「ということは、ぼくが今まで出会った死神は師匠のパートナーだったんですか?」
「そういうことだ。――あそこにいるだろ?」
 タムの指差した空の上空に〝一つ眼〟がユラユラ漂っていた。
「あんなところに・・・・」
「ワシはパートナーと常に一心同体だ」
「太陽神と死神・・・・・。じゃあ、あの死神は死神になる以前、何者だったんですか?」
「そんなこと知らないし、知りたくもない。名前や性別、職業や家柄、趣味や経歴、そんなもの一時的に与えられた衣装、もしくは変化していく一時的な現象に過ぎない。それを知ったところでどうなる? さっきも言ったが、ワシのこのウペウ呪術師という姿はワークをしやすいからこの姿なんだ。永遠の存在は自分がワークしやすい仮の姿に何でも変化することができる」
「死神も〝仮の姿〟を持っているんですか?」
「お前は何度も死神の異世界に入ったんだからわかるだろ」
「もしかして、あの世界そのものが〝仮の姿〟だったんですか」
「ああ、そうだ」
 弦太郎は眼を伏せて一旦口を噤んだ。会話がやむと、時が止まったかのような静寂の空気が流れた。
「そういえば、師匠は以前、ガルーダには『永遠のガルーダ』と『狩人のガルーダ』の二種類がいるとおっしゃいました。永遠のガルーダとは一体どういうことだったのでしょうか?」
「〝死神〟と〝永遠のガルーダ〟は同一だ。言い方が違うだけだ」
「同一ですか? じゃあ、ぼくが呪術師に成る前、祝福してくれたり、卵を産みつけたりした、あの永遠のガルーダは死神だったということですか。一つ眼の姿はしていませんでしたが」
「人間に死神の姿は見えない。そのときのお前の目には、死神を〝鳥〟として認識し、いまのお前にはそれが〝一つ眼〟として見える。ただそれだけだ」
「そういうことですか・・・・」
「ワークといっても、お前たちが〝欲したら〟に過ぎない。そういう自由もあるというだけだ。何もムツかしいことはない。〝永遠〟に謎はない。個体性を持っているからこそ謎が生まれるんだ。永遠は永遠、ただそれだけだ。――お前たちが永遠に入る時間は迫ってきたようだ」
 タムが空を見上げたので、弦太郎とデーンもタムと同じ方向を見上げた。先ほどは星粒ほどだった小さな光がいまは満月ほどの大きさになっていた。まるで世界に穴が開いたかのようだった。
「最後に何か知っておきたいことは?」
 タムが言った。弦太郎とデーンは何も知りたいと思わず、静かに首を横に振った。
「すべての準備は整ったようだな」
 タムは慈悲深い眼差しで弦太郎とデーンを見つめて沈黙した。師弟間の沈黙は波紋を広げて周囲に影響を及ぼし、辺りはシンと静まった厳かな空気が流れた。永遠の光は音もなく大きさを拡大し迫ってきた。
「別れの時がきた。永遠の別れであり、永遠の完結であり、永遠の統合だ」
 弦太郎とデーンの目の前には、光が巨大なトンネルほどの大きさとなって拡がってきた。タムは「さあ――」と、二人へ光に入ることを小さく目線で伝えた。弦太郎とデーンはタムに小さく会釈し、光の中へ足を踏み入れた。もう後ろを振り返ることはなかった。光の中を前へ前へ歩んで行った。光は二人を吸収し溶解させ、姿形を消失させた――。
 子猿と小坊主もその様子を見ていたが、彼らの目に光は見えず、ただ弦太郎とデーンがスッと消えていくのだけを見ていた。
 光は拡大から縮小に転じ、その姿を消した。辺りは何事もなかったかのような元の世界に戻った。 
 タムは子猿と小坊主に告げた。
「一つの幕が閉じた。これからまた新たなワークが始まる。お前たちは一からまた好きなように生きたらいい。自由に生きるんだ。――さあ、行け」
 二人はコクリとうなずき、龍の姿となって太陽の世界から猛スピードで飛び去っていった。


   三十四 
 診療所の巨木は一夜にして姿を変えた。葉はすべて枯れ落ち、幹は乾燥し、もはや屍のようになっていた。
 巨木のことはその日のうちにニュースになった。
『突如として現れた巨木が、突如として枯れる』
 枯れた巨木に人々が集まり、ハムとファンはその対応に追われた。
「この騒ぎはいつ収まるかしら」
 ハムがファンに囁くように言った。
「そうですねえ――」
 ファンは上の空でハムに呟いた。二人は騒ぎの渦中にいたが、内心は空々しい気持ちがしていた。
「ハアー」
 二人は互いに目を合わせ、同時に深い溜息をついた。二人の脳裏には早朝に見た光景――、プリンが龍となってデーンと一緒に天へ昇っていった光景が浮かんでいた。
――デーン先生はいつ戻ってくるんだろう? プリンちゃんは神だったのかしら? 
 デーンとプリンのことを考えると世間の騒ぎがチッポケなことに感じた。
 ゴロゴロゴロ――
 突如、雷の呻き声が遠くから聞こえてきた。空模様が怪しくなり、湿った強い風が吹いてきた。数分後、大粒の激しい雨が降り出した。バケツをひっくり返したようなすさまじい雨だった。巨木に集まった人々はどこかへ散っていった。ハムとファンも母屋に入った。
「ひどい雨」
 濡れた体を拭いながらリビングに入ると、そこにプリンの姿があった。
「あっ――」
 二人は奇声をあげ、腰が抜けたように床に座り込んだ。プリンは無言でじっと二人を見つめた。
「ヒエッ! お助けください」
 床にひれ伏し、震えあがった。
「怯えなくてもいい」
 プリンが子供とは思えない、かすれた声で言った。それでも二人は顔を上げられなかった。しばらく沈黙がつづき、二人は恐る恐る顔を上げた。するとそこにアディー爺が立っていた。その変化に二人はまたもひっくり返りそうなほど驚いた。アディーはゆっくりした口調で言った。
「幕は閉じた」
「・・・・・・」
 二人は何のことを言われているのかまったく理解ができなかった。
「もうお前たちは呪術師でいる必要がなくなった。人間として生きていく方がいいだろう」
「えっ・・・・」
 アディーは二人の頭に手を当てた。
「ヒエーッ!」
 二人は身体を硬直させて縮こまった。アディーの手から何かが吸われていくのを感じた。
「お前たちを人間に戻した。もう風の精霊に怯えなくてもいい」
「・・・・・・」
 あまりの恐怖でアディーの言葉の意味をすぐに理解できなかった。
「もうデーン先生が戻ってくることはない。ここに住み着きたかったら住めばよいし、ほかへ移りたかったら移ったらいい。好きに生きたらいい。自由に生きたらいい」
「は、はい・・・・」
 突然のことに二人はあまりに動揺して口から何も言葉が出てこなかった。
「では――」
 次の瞬間、目の前からパッとアディーの姿が消えた。しばらく二人は床に座り込んだまま呆然としていた。何が起きたのか正常に理解するのに時間がかかった。
     *
 ジョンは高層階のコンドミニアムで犬に囲まれて生活していた。以前二匹だった犬は数が増え、今は十匹になっていた。エアコンをキンキンに効かしたリビングのソファーに寝そべり、昼間から冷たいビールを飲んでいた。ここに引っ越してきてから体重は十キロ以上太った。アイもジョンの肩に寄り添うようにソファーに座ってテレビを見ていた。
 ゴロゴロゴロ――
 雷の音が響き、大粒の雨が降り出した。
「イヒヒヒ、降ってきたぞ」
 ジョンは上体を起こし、ベランダのサッシ越しから、外の景色に目をやった。
「あっ!」
 思わず声を出した。ベランダに太ったプリンが立っていた。
「どうしたの?」
 アイはジョンの声に反応し、同じようにベランダに振り返った。
「あっ!」
 アイも甲高い声をあげた。ここは高層階である。なぜベランダに人が立っているのか理解できない。しかも大人だか子供だかわからない丸々と太った坊主である。
 プリンはサッシをスーと通り抜け部屋に入ってきた。
「あっ!」
 ジョンとアイは同時に声をあげた。
「ジョン、久しぶりだな」
 プリンはジョンの前に立ち、低い声で言った。
「あっ、あっ、あっ・・・・、な、な、何だこの化け物。な、何しにここに来やがった。ヒエー!」
 ジョンはソファーからなだれ落ちるように床に座り込み、ソファーに置かれていたクッションを盾にしながら叫んだ。アイも床に座り込み、目を見開いたまま声が出ない。
「お前はずいぶん犬が好きなようだな」
 プリンはソファーの周りでキャンキャン吠えたてている犬を見ながら言った。ジョンは自分の悪行がプリンにすべて見抜かれたと直感した。
「いや、いや、いや・・・・、ど、ど、どういうことなんでしょうか、小坊主様。ワタクシはこうして世のため、人のために、つつましやかに暮らしておりますが、どういったご用件でここにいらっしゃったのでしょうか」
「随分といい身分だな」
「何をおっしゃいますやら、この程度、政財界の人たちと比べたら非常に質素なものです。も、もちろんのこと、もうしばらくしましたら、ファミリーのところへ戻りまして、身を粉にして働くつもりですよ、イヒヒヒ」
「もうファミリーはいない」
「ファミリーはいない? ど、どういうことでしょうか? ファミリーといって血縁の家族のことではなく、呪術師のファミリーのこと・・・・、いや、いや、そのことは組織の掟があり、詳しく話せませんが。なんせワタクシはフツーの人間ではないので、イヒヒヒ」
「もう呪術師のファミリーはいないんだ」
「な、なんと、小坊主様は我われが呪術師であることを知っておられたんですか?」
「お前は呪術師をずいぶん悪用したようだ」
「ご、ご冗談がきつい。ワタクシは世のため、ファミリーのため以外に、呪術を使ったことはありませんぜ」
「もう呪術師でいる必要はない」
「そんなわけのわからんことおっしゃらずに、早く出て行ってください。しっ、しっ」
「相変わらず業の深い奴だ」
 プリンはゆっくりとジョンの方へ歩み寄った。
「こっちに来るな! お前なんかと関わりたくないんだ! 早く、出て行け!」
 ジョンは後ろに後ずさりしながら叫んだ。プリンはその瞬間、パッとアディーに姿を変えた。
「ゲッ、アディー爺!」
 ジョンは大きく目を見開いた。アイも小坊主の変容を目の当たりにし、驚きのあまり声が出なかった。
「ど、ど、どういうことなんだ? 貴方はアディー爺なのか、それとも化け物が爺に化けたのか?」
「人間に戻ってもつまらないだろ。お前の好きな犬にしてやろう」
「何を言ってるんだ、ジジー。――ギャッ」
 その瞬間、ジョンは一匹の斑犬に姿を変えた。
「キャーッ!」
 ジョンの姿を見たアイは悲鳴をあげて卒倒した。
「ワン、ワン、ワン――」
 ジョンは声を出そうとしたが犬の鳴き声しか出なかった。
「では――」
 アディーはパッと姿を消した。
――アディー爺! おい、おい、どういうことだ。戻ってきてくれ!
 ジョンは狼狽して部屋の中を走り回った。
――犬になっちまったぞ。どういうことだ? 夢なのか? 夢だったら覚めてくれ。あっ、アイが気を失ってる。アイ、アイ、どういうことだ。オレは本当に犬になっちまったのか。おい、おい。
 アイの首筋や顔を必死で舐めたが、彼女の意識は戻らなかった。
――どうしたらいいんだ? 困ったぞ、おい。
 そのとき一匹の犬がジョンにジャレついてきた。
――なんだい犬公、いまそれどころじゃないんだ。お前と遊んでいる場合じゃないんだ。
 犬に目をやると、一瞥しただけでそれがメス犬であることがわかった。
「ん!?」
 周りを見回すと、他の犬も瞬時にオスメスの区別がついた。
――そうか、犬の目にはこういうふうに見えてるんだ。生き物によっていろいろと世界の見え方が違うんだな。いや、待てよ・・・・。こうして考えていられるということは人間の知性は失っていないわけか。人間の知性を犬になっても持ちつづけているってことは・・・・・。
 じゃれてくるメス犬をじっと見つめると艶かしい姿に見えた。こんな目で犬を見たのは初めてだった。振り向いてもう一度アイの姿を見た。
――ウッ、なんと野暮ったい姿なんだ。犬が色気いっぱいに見えるのに、人間が滑稽に見える。あんなに美人だったアイは実はこんなにマヌケな姿をしていたとは。しかもひどい悪臭、品のない臭いだ。それに比べてメス犬たちはなんと愛らしく芳しい、イヒヒヒ。
 ジョンはメスの数を数えた。
――四匹か。全部で犬が十匹もいるのに、メスが四匹しかいない。しまった。こんなことなら全部メスを揃えておくんだった。
 ジョンは溢れる性欲を抑えきれず、一匹のメス犬の背後から襲いかかった。メス犬はジョンを振り払って逃げた。
――おお、なんと色気のある振る舞いをするんだ。まったくウイなやつだ、イヒヒヒ。こいつは面白くなってきたぞ。犬も犬でなかなか楽しそうじゃないか。犬は服も着ていないし、実にシンプルでいい。これはこれで楽しめそうだぞ。
 ジョンは犬世界の面白さを発見して歓喜した。
――呪術師であろうが、人間であろうが、犬であろうが、生きている限り、こうして命ある限り、面白いことでいっぱいだ。生きてさえいれば楽しめるんだ。生をたっぷり謳歌するぞ、イヒヒヒ。
 ジョンは失神しているアイをピョンとまたぎ越し、尻尾を振ってメス犬を追い回した――。
 突然降り出した雨はカラッとやみ、空は雲のない爽快な青空になっていた。ベランダに置かれた広葉樹の植木鉢の葉っぱに一個の丸い雨の雫が鎮座し、陽の光を反射して無言で輝いていた。風が吹いて葉が揺れると、雨の雫は色を変化させながらコロリと転がり、床にぶつかり無限に拡散した。
                                                     (完)2013年作


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