夜空のざわめき【中編ホラー小説】
一
朝の空気がうっすらと残る琵琶湖を眺めた。湖面に朝日が眩しく反射し、俗界の音を吸収したかのようにひっそりと静まっている。秋の冷気がやさしく吹き抜けて純之介の前髪を小さく揺らした。
――今、自分は存在している・・・・。
何だか不思議な気持ちである。日常の環境から離れたとき、普段と違った脳の回路が開くのだろうか。深く呼吸しながら大地のエネルギーを足裏から感じ取り、ここに立ち寄ってよかったとしみじみ思った。
伊島純之介は今朝、沖縄からの車載客船で大阪の港に到着し、そこから自家用車のトールワゴンに乗り換え、大津の湖岸公園にやってきた。本来ならば、引越し先の“高山”へ直接向かうはずだったが、休憩も兼ねてフラリと琵琶湖に立ち寄ったのだ。
琵琶湖は純之介にとって懐かしい土地だった。学生時代の数年間この近辺で生活していたことがある。しかし、彼はそんな過去の出来事に対しまったく無頓着な性格だった。彼の精神は常に”今”に向かい、”未来”に開かれていた。これから始まる新たな挑戦が彼の心を支配していた。
――生きるとはどういうことなんだろう。
純之介はわからなくなることがある。いや、わかったような気持ちになることはあってもわかったことがない。新たな挑戦とは、生きる意味を探し歩き回る旅なのかもしれない。
純之助は六十歳の今日まで沖縄でピザ屋を営んでいた。引っ越しは、妻が「山暮らしを始めましょう」と囁いた小さな一言からだった。つい二週間前のことだった。
「えっ・・・・」
純之介は妻の言葉を聞いて意味がわからなかった。今の平穏な生活に何の不満もないのに、どうして山暮らしを始めなければならないのか。妻に理由を詳しく訊ねようと思ったが、自分自身の心中を冷静に鑑みてハッと気づいた。
――ピザ屋の仕事ってそんなにおもしろいか?
好きで始めたはずのピザ屋だが、おもしろいとも、やり甲斐があるとも、充実感があるとも思えなくなっていた。人間は変わり続けていく。昨日の自分は今日の自分とは違う。昔の自分が好きだったことが、今も好きとは限らない。自分の人生にとって、もっと優先的にやらなければならない大事なことが他にあるのではないか。人生の時間は有限である。還暦となって残り少ない。目が覚めるような感動も、心からの感謝もない現在の生活を惰性的につづけていていいものだろうか。
妻が言うには、近隣部落から離れた山の中に恰好の物件があるとのこと。それを聞いた瞬間、ソレだと思った。自然と共に生きる生活、水も食料もエネルギーも自給自足する生活、理想的なイメージが脳裏に浮かんだ。
「――引っ越しましょう」
即断した。翌日には、ピザ屋のアルバイト店員の孝司に告げた。彼は沖縄を自転車で旅行中、純之介の店に飛び込みでやってきて働き出した二十歳そこそこの若者である。歳は若いが誠実さとひたむきさがあって一番信頼していた。彼は働き始めてまだ一年ほどだが、店を任せられるほどに成長していた。
「山暮らしを始めることに決めたんだ」
「ヘエー、山暮らしですか・・・・」
「それでこの店を君に譲ろうと思って」
孝司は突然のことに理解できない様子だった。
「譲るってどういうことですか」
「君が経営者になるという意味だが」
「えっ、ぼくが?」
「ああ、君がだ。君は、将来自分の店を持ちたいって言ってたじゃないか」
「確かにそんなことを言いましたけど・・・・。だけど、ぼくが?」
孝司は目を見開いて同じことを繰り返した。
「君が適任だと思ったんだよ」
「で、でも、それは、もっと将来のこととして考えていたのであって・・・・」
「将来も今も同ンなじさ。頑張って経営してくれよ」
純之介はポンと彼の肩を叩いた。
「でも、店長はいつから山暮らしを考えているんですか」
「妻は今日、引越し先に行ったよ。先乗りして準備を整えてくれるんだ。おれもこっちの片付けが終わり次第、すぐに出発したいんだ」
「ずいぶん性急ですね・・・・。この店はどうするんですか?」
「だから君に譲るって言ってるじゃないか。山暮らしとピザ屋の両立なんかできないだろ」
「山暮らしって、どこへ行かれるんですか?」
「岐阜県の高山らしいけど、おれも詳しいことは知らないんだ。住まいのことは妻にすべて任せてあるから」
「岐阜県へ行ってしまうんですか?」
「そうみたいだな」
「本気ですか?」
「もちろん本気さ」
「いやあ――」孝司は戸惑った表情で頭を抱えた。「ぼくなんかに経営なんてできるかどうか・・・・」
「やりたくないの? だったら他の人に譲るが――」
「いや、やりたいです。やらせてください」
孝司は深々と頭を下げた。
そんなやり取りがあって、引き継ぎに十日余りかかり沖縄を出発したのだった。
「――それにしても琵琶湖もずいぶん変わったなあ・・・・」
純之介は湖岸公園を見回して呟いた。開発が進み、純之介が住んでいた四十年前の面影はまったくなくなっていた。湖沿いはモダンなタイル張りの遊歩道が遠くまで延び、花壇には色とりどりの花が咲いている。きれいといえばきれいだが、こうした人工的な演出に窮屈感を覚える。昔の鬱蒼とした湿地帯はどこへ行ってしまったのか。泥の中に住んでいた小魚や虫たちはどうなってしまったのか。自分自身が、消えてしまった生物の側にいる種のように思え、薄気味悪さと居心地の悪さを感じた。
「そろそろ行こうか」
長時間の運転に備え、身体を曲げたり反らせたり捻ったりして入念にほぐした。高山まではこれから三時間以上かかるだろう。駐車場へ向かって歩き出すと、
「ん?」
遊歩道の真ん中に黒猫の死体が横たわっているのを見つけた。車に轢かれたのか口から血を吐いている。猫の死体を抱き上げて花壇の隅の見えにくい所に移動させた。人目のつかない暗い場所の方が死んだ猫も落ち着けるだろう。しゃがみ込んで黒猫の死体に話しかけた。
「お前はなんで死んだんだ?」
純之介は動植物に話しかける癖がある。黒猫は無言だった。
「お前は人生で何を学んだんだ?」
続けて問うたがやはり黒猫は無言だった。
「そうか・・・・」
無言こそが答えだと思った。黒猫の死体をつくづくと眺めた。
――突如やってくる死に対し、いつ死んでも本望であるような状態を作っとかなくちゃいけないんだな。
純之介は黒猫の死体に手を合わせしばらく黙祷した。
二
歳を取ると長く寝ていられない。孝臣は、まだ夜が明け切らない時間に目が覚めてしまった。ハムエッグとトーストの簡単な朝食を作り、新聞を読みながら濃いコーヒーと一緒にそれを喉に通し、それから洗濯と掃除をした。長年の一人暮らしなので家事は手慣れている。本棚の埃を拭き取っていると、”宮沢賢治”の名前が目に入った。高校時代に買った文庫本である。
「どんぐりと山猫か・・・・」
手に取ってパラパラとページをめくったが、内容がまったく思い出せない。
「――お兄ちゃんの死をどんぐりに閉じ込めておいたよ」
幼少期の妹の声が蘇ってきた。
――あのとき妹は何が言いたかったのだろう・・・・。
四つ歳下だった妹、彼女は二十三歳のとき、事故で夭逝してしまった。子供の頃、夏休みになると、兄妹は山の中の別荘で過ごした。その頃は兄妹仲がよく、いつも一緒にいた。林の中で虫捕りやどんぐり拾いに夢中になった。
人間の記憶とは不可解なもの、ふとしたとき、何かのきっかけで眠っていた記憶が蘇ってくることがある。
「もしかしたら妹がおれを呼んでいるのかな・・・・」
久しぶりに仏壇の扉を開け、線香をあげて妹の位牌に手を合わせた――。
孝臣は大津でクリニックを営む精神科医である。父も医者で、孝臣は少年時代から医者になるべく強制的に医学の道を歩まされ、ひたすら勉強させられた。父は医師が少なかった時代、病院経営は順調で、ずいぶん羽振りのいい生活を送っていた。しかし市内に大きな病院ができたことにより、孝臣が医大生の頃にはそれほど贅沢もできなくなっていた。孝臣が医師になって間もなく、父は妹の後を追うように逝ってしまった。
孝臣にとって父は目の上のタンコブ的な存在だった。思春期以降、父の振る舞いのいちいちが鬱陶しかった。その理由はさまざまあるが、孝臣が小学一年生のとき、母と離婚したことが不信の根を深めたようだ。離婚後、母は行方不明となり、それからずっと会えていない。父はすぐに若い女性と再婚したが、孝臣とその継母との関係も決していいものではなかった。父が亡くなった後、彼女は遺産として二つ別荘を相続し、孝臣の前から去っていった。
「――散歩に出るか」
孝臣は宮沢賢治の文庫本をポケットに入れ、自宅兼診療所の”さいとうクリニック”を出た。いつもの散歩コースである湖岸公園へ向かって早足に歩いていく。医者の不養生とはよくいったもので、孝臣のお腹はポッコリと膨れ、太ももの筋肉は衰え気味、歩くとすぐに疲れてしまう。どこかに気の利いたベンチがあれば腰を下ろして本を読もうかと思っていると、遊歩道の広場に黒猫の死体が横たわっているのを見つけた。
――片付けてやりたいが、触るのはちょっと汚そうだな・・・・。ま、これは行政の仕事だから、おれが手出しする必要もないだろう。迂闊なことをすると、法に触れて面倒くさいことになるかもしれないし・・・・。
孝臣は猫の死体から目を逸らし、そこから通り過ぎていった。
しばらくベンチで本を読み、帰宅しようかと歩きだすと、一人の男性が先程の猫の死体を花壇の隅に移している姿が見えた。その男性は花壇にしゃがみこんで猫の死体に手を合わせている。小さなことだがこうしたことはなかなかできない。その男性の顔を眺めたとき、「あっ」と小さく声を漏らした。
――もしかして・・・・。
孝臣は男性に背後から近づき声をかけた。
「すみません・・・・」
「は、はい、何でしょうか」
男性は少し驚いた様子で振り返った。
「あのう、もしかして、伊島さんじゃないでしょうか。伊島純之介君では・・・・」
「え・・・・」純之介は孝臣の目をじっと見つめた。自分の名前を告げているが、相手が何者だかまったくわからない。
「え、え、え、そうですが、どちらさまでしょうか・・・・」
あたふたとなって応えると、
「ハハハ、やっぱりジュンちゃんだ」
孝臣は、昔と同じようにトボけたような態度を見せる純之介を見て、自然と笑いがこみ上げてきた。
「どちらさまはひどいなあ。おれのことを忘れたのかい?」
「いやあ、すみません・・・・」
「斎藤孝臣ですよ。滋賀医科大で勉強していた」
「あっ、タカヤン? ほんと? いやあ、気がつかなかった。久しぶりだなあ、ハハハ」
二人は笑い合いながら握手を交わした。偶然の再会である。
「ついこの前、医科大の同窓会があったんだよ。還暦祝の。懐かしい顔に会ったけど、本当は君に一番会いたかったんだ。君はおれにとって一番印象深い男だったから。なんで出席しなかったんだい」
「なんで出席しなかったも何も、おれは早々と中退してしまったからそんなところに出られるわけがないじゃないか」
「あ、そうだ、そうだった、ハハハ」
「そうだった、じゃないよ。辞めた後もさんざん手紙のやり取りして、君ン家もよく遊びに行ったから覚えているだろ。意地悪だなあ」
「そうだ、そうだ、ハハハ――。いやあ、久しぶり、元気そうじゃないか」
「まあ、おかげさまで。タカヤンはまだお医者さんやってるの」
「ああ、しぶとく続けてるよ。大切な金蔓だからね、ハハハ」
「あ、そうだ、開業医には定年がないんだ」
「そう、そう、いい商売なんですよ。――なのに、君はその昔、突然医科大を未練なく辞めてしまった。あれはインパクトが強かったなあ」
「医者に向いていなかったんだよ」
「向いていないなんて、医者になる前に何がわかるんだ。医者になってそれらしく振るまっていれば、いずれ慣れてくるものなのに」
「そうなのかなあ。毎日毎日真面目な顔をつくろって、大人数の患者さんと真剣に向かい合うなんて、到底できそうになかったけどなあ。おれみたいなフザけた野郎が医者なんかになったら、患者さんにも病院にも迷惑をかけてしまう」
「皆んな適当に息抜きながら、ごまかしごまかしやってるんだよ」
「ごまかしごまかしとはいえ、それが持続的にできるというのは一種の才能だと思うけどな。タカヤンは才能があったんだよ」
「才能なんて大袈裟な。才能じゃなくて、社会はそういうもんだっていう“諦め”だ」
「“諦め”か。この歳になると響く言葉だな」
「でも君は、昔からどこか、何事も諦めていたような不思議なところがあったぜ。気まぐれにフラフラしてさ。どこか妖怪じみていた」
「妖怪?」
「そういえば、昔、君は水木しげるにハマっていなかったか」
「水木しげる・・・・」純之介は間をとって考えた。「おれに水木しげる先生を教えてくれたのはタカヤンじゃなかったっけ? 妖怪界から人間界を見る視座は大切だって言って」
「そうだったっけ? ハハハ」
孝臣は快活そうに笑った。
「無垢なおれに『試験もなんにもない、朝は寝床でグーグーグー』の生活を教えておいて、自分はお医者さんとして大成する。タカヤンこそ妖怪じゃないか」
「ハハハ、確かにこんなに汚らしくブクブク太ってしまって、外見は立派な妖怪だ。だけど君は変わらんなあ。昔のまんまだ。なんだその若々しさは?」
孝臣は純之介のスラリとした体型と皺のない顔を羨ましげに眺めた。容姿も声音も透明感があり、まっとうに生きてきたことが話を聞かなくともわかる。
「で、ジュンちゃん、今仕事、何してるの?」
「ついこの前まで妻と沖縄でピザ屋をやっていたんだよ。それを弟子に譲って、今日から山暮らしを始めるつもりなんだ。今は引っ越しの途中、そんな特別な日に君に再会した。まったくゲゲゲだよ」
「まさにゲゲゲだな――」孝臣は笑った。「しかし、いきなり山暮らしとは、なんか君らしい。いつも突然新しいことを始める。昔の君、そのままだ」
「昔と同じ? そうかなあ。おれはアメーバみたいに変わり続けているつもりだが」
「アメーバか・・・・、おもしろい喩えだけど、どっちかというと、君は粘菌類に見える。形は変わっていくし、急に遠くへ行ってしまう。でも、変わり続けている君みたいな男が、外見は変わらないって何だろう。おれなんか、同じような毎日を頑なに続けているのに、外見は爺むさく変わっていく」
「おれかって老化は進んでいるさ。老眼が進行して本は裸眼で読めないし、夜何度もトイレに行かなくちゃいけない」
「君も老化していたか、それはよかった」
「何もよかないさ」
二人は笑い合いながら、昔のように互いの胸を拳骨で突ついてじゃれ合った。孝臣は感慨深そうに純之介を見つめて言った。
「そうか・・・・、ジュンちゃんはピザ屋をしてたのかあ。――あ、そうだ、思い出した。昔、君の結婚式に出席したときのこと。あれは医大卒業の時期で、テストやらなんやらで忙しかったけど、親友のジュンちゃんの結婚式だからって無理して参加したんだ。軽井沢の君の働いていたピザ屋さんでの手作りの結婚式、業者の型にはまった結婚式と違って、あれは素朴でよかったなあ。今まで出席した結婚式で一番印象深い結婚式だ。奥さんの名前、”時雨さん”だっけ、名前が印象的だったから覚えているよ。それからずっと還暦になる今まで、地道にピザ屋をやっていたとは。君は次から次へと新しいことやりたがるから、てっきり他のことをやってるかと思ったよ」
「えっ・・・・」純之介の顔色が変わった。「今、何て言った?」
「何てって、何?」
「人の名前・・・・」
「人の名前? 時雨さんか?」
「時雨・・・・」
純之介は愉しい気持ちから、冷水を浴びせられたような気持ちになった。
「どうしたの?」
孝臣は純之介の表情を医者の目で覗き込んだ。
「いやいや、何でもない――」純之介は咄嗟に笑みを取りつくろった。「実は“時雨”は前の妻なんだよ。今の妻は別の人なんだ・・・・」
「あ、そうか・・・・、スマン、離婚してたのか。ピザ屋って言ったから、ついてっきり・・・・。まあ、そういうおれも、あの結婚式以来君にずっと会っていなかったけど、三十五のとき結婚して、四十二で離婚してるんだ。おれの親父がお袋と離婚したから、あんな親父みたいになってたまるか、おれは良い家庭を作ってやるんだって、ずっと思ってたけど、結局同じように離婚してしまった。血は争えんよ・・・・」
孝臣は自分の暗い過去も開示して、純之介の気持ちに寄り添った。
「そうか、タカヤンも離婚したのか・・・・。で、今は?」
「再婚か? 再婚はしてない。一人者だ。息子は一人いるけど連絡を全然とっていないから今何をしているのかまったく知らない」
「そうか・・・・」
お互い目を合わせ微笑した。
「あ、そうだ。こんなところで立ち話もなんだ、家に来てくれよ。親父の時代と違って医院は小さくショボくなったけど、男一人暮らしで気を使わんでいいから」
「あ、でも・・・・」純之介はスマホで時間を確かめた。「おれ、これから車で高山まで行かないといけないんだ。妻が引越し先に先乗りしていて待ってるから」
「ちょっとぐらい、一時間ぐらいならいいだろ? 休憩も兼ねてちょっとだけでも」
「送った荷物の後片付けがまだ終わってないだろうし、今も荷物が車にめいっぱい詰み込まれているんだよ。だから・・・・」
「そうか、じゃ、駄目か」
「生活が落ち着いたらゆっくり会いましょうよ。偉大な斎藤先生にメンタルの相談もしたいですし」
「偉大だなんて、そんなムズ痒い言い方はやめてくれ。――じゃあ、忘れないうちに連絡先を交換しようか」
互いにスマホを取り出した。
「でも、タカヤンは毎日忙しいんじゃない?」
「おれは立派なヤブ医者だ。患者なんか毎日片手で数える程度しか診ないし、おでこに赤チン塗るような治療しかできない。医者は誰でも忙しいと思ったら大間違いですわ」
「ほんとかね」
「気が向いたらいつでも連絡してきてよ」
「うん、わかった」
孝臣は純之介を車まで見送った。
「ジュンちゃん、エンガチョしてやろうか」
純之介が車に乗り込もうとしたとき、孝臣はニヤッと笑って言った。
「エンガチョ?」
「そ、エンガチョ。さっき猫の死体触ってただろ?」
「ん?」
「見ていたよ。君が猫を埋葬しているところ。両手の人差し指と親指を合わせて輪っかを作りな」
純之介が言われたようにすると、孝臣は「エンガチョ」と言って、純之介の輪っかを手刀で切ってきた。しかし純之介は輪っかをさっと横にずらして孝臣の手刀を避けた。
「おいおい、なんだよ、逃げるなよ」
孝臣が笑って言った。
「なんだよ、それは」
「せっかく猫の死霊の縁を切ってやろうってのに。相変わらずヒネくれてるなあ」
「死霊の縁を切る? おれの田舎にはそんなオマジナイなかったけどなあ」
「オマジナイじゃない、最新の医学だ。“エンガチョ療法”っていう」
「現代医学はおれが知らないうちにエンガチョにまで進化していたか。斎藤先生が立派なお医者さんだってことがよくわかったよ」
純之介は笑いながら車に乗り込んだ。
「また近いうちに」
「ああ、運転気をつけてな」
孝臣は純之介の車が見えなくなるまでボンヤリと見送った。
――あ、そう言えば・・・・。
孝臣は沖縄の別荘のことをふと思い出した。純之介が沖縄から引っ越してきたと聞いたからだろう。
――継母が親父の遺産相続で持っていったはずだが、今どうなっているんだろう。もし、所有者が親父のままだったらいいのに・・・・。そんなことはないか・・・・。でも法務局で調べてみてもよさそうだ。もし使えるようなら沖縄に引っ越してやろうか。人間はもっと自由になれるんだ。ジュンちゃんみたいに。一度きりの人生、好きなことをして、もっと楽しまなくちゃな。
孝臣は一人になり、そんなことを考えた。
三
「時雨・・・・」
純之介は車を運転しながら何度も呟いた。自分の妻だった女性の大切な名前なのに、どうしてずっと忘れていたのだろう。孝臣との三十六年ぶりの再会はインパクトが強かったが、それ以上に、“時雨”という名前が衝撃的だった。頭を棍棒で叩かれたような気分だ。孝臣の前では明るく振る舞っていたが、不快な余韻が胸の中にいつまでも絡みついて消えなかった。
「ダメだ、ちょっと運転を休もう」
サービスエリアで車を停めて、洗面所で顔を洗った。
――おれは夢を見ているんじゃないだろうか。
鏡に顔を映し大きく目を見開いた。寝不足なのか目が若干充血している。
――タカヤンが言っていたように、おれは軽井沢のピザ屋で時雨と出会い、結婚した。なのに、なぜおれは今まで沖縄にいたんだ? タカヤンには「時雨とは離婚した」って咄嗟にデマカセ言ったけど、離婚なんていつしたんだろう? 離婚届を出したことなんかまったく覚えていないし、そもそも喧嘩を一度でもしたことがあっただろうか。どういう経緯で時雨と離れ離れになったんだろう・・・・。
考えても何も思い出せなかった。狐につままれたような気持ちとはこんなことをいうのだろうか。精神が混乱しているためか喉が異常に乾く。純之介はトイレの洗面所の蛇口から水をガブガブと飲んだ。顔を上げて鏡を見つめると、隣の洗面台を使っている男がこっちを怪訝そうに眺めていた。トイレの洗面台から直接水を飲む奴は近頃では珍しいのだろうか。純之介はサービスエリアの隅の人目のつかない林の中へ移動して一人になった。
――時雨のこともそうだが、紗夜子さまとはいつ結婚したんだっけ? 婚姻届を役所に出した記憶がない。いや、紗夜子さまはしっかりしておられるから、役所の手続きを全部やってくださったに違いない。よく考えたら、おれは婚姻届どころか、社会上のあらゆる手続きを何もした覚えがない。何もしないで六十までのうのうとよく生きてこられたものだ。一体おれはどういう経緯で、何歳のとき沖縄へ行ったんだろう。もしかして、おれはうっかり二重結婚しているのか? いや、そもそも、おれはボケているのかもしれないぞ。ボケてしまっていて何も思い出せないとしたら・・・・。こんなことならさっき精神科医のタカヤンに正直に話して、病状を診てもらえばよかった・・・・。
純之介は怖くなってきて、林の中で頭髪を搔きむしりながら「ウオー」と大声で叫んだ。世間から断絶されたここでなら感情を爆発させても誰にも迷惑をかけない。胸の中にただよう嫌な余韻をなかなか打ち消せず、何度も何度も「ウオー」と野獣のように叫んだ。
「ん・・・・」
純之介は背後から人の視線を感じハッと振り返った。頭髪の白い中高年男性が藪の中で一人、しゃがみ込んで純之介を無言で眺めていた。
「あ・・・・」
純之介はゴホンと咳払いし、背筋を伸ばして「あ、どうも」と紳士然として会釈した。その男性も純之介と目が合うと、しゃがんだ状態のままバツが悪そうに会釈を返した。
「どうされましたか?」
男性がおずおずとした調子で訊ねてきた。
「いや、あのう、ボイストレーニングをしておりまして・・・・」
純之介は咄嗟に下手な言いわけをしたが、それ以上話を広げられず、気まずい間が空いたので同じ質問で返した。
「どうされました?」
「へへへ――」男性は意味深に笑い、照れ臭さそうに言った。
「お恥ずかしながら野糞をしております」
「野糞?」
「わたくし、トイレで糞をしない主義でして」
「トイレで糞をしない主義?」
「糞は大地の宝物でしょ。なのに下水道に流されて、燃やされてしまったら勿体ない。糞は細菌類のエサになり、キノコの養分になり、植物のごちそうになり、そして木が成長し、小動物の住処となり、酸素が作り出されて――、万物流転、そのおかげで我々は生きられる。いや、生きさせてもらっている――」
男性はしゃがみ込んだ姿勢で滔々と生態系のしくみを語りだした。
「そうですねえ・・・・」
曖昧に返事をしたが、男性は興に乗ってきたようで、
「拭くときだって、ぼくは紙を使わない。そこら辺にある葉っぱで拭くんです。それで十分、いや葉っぱの方がむしろ気持ちがいい。葉っぱを使うと、紙の原料の木を伐採する必要もなくなり、熱帯の森林を守ることができる。それに紙の製造のための燃料も必要なくなりますでしょ――」
男性の話が終わりそうになかったので、
「あ、じゃあ、そろそろ、へへへ」
ごまかし笑いをして立ち去ろうとしたが、男性はまだ話し足りないようで背後から話し続けた。
「詰まっているものがあったらドンドン出してしまったほうがいいですよ。声だって感情だって。それでもストレスが発散できないのなら、野外で野糞をすることをお勧めします。大地と一体になれてスッとします、ハハハ」
男性の屈託のなさそうな笑い声を聞いて、純之介は拍子抜けしたような気持ちになった。車に乗り込むまで自分が何をしにサービスエリアに立ち寄ったのか忘れてしまうほどだった。
「詰まっているものを出してしまうか・・・・。あ、そうだ――」思い出した。「おれはボケているかもしれないんだった。タカヤンにちょっと電話しよう。いや、やっぱり迷惑か。さっき久しぶりに会ったばかりなのにすぐに電話なんて・・・・。でも言いたいことは出しておいたほうが――」
純之介は逡巡した末、孝臣のところへ電話をかけた。
「あ、タカヤン、さっきはどうも・・・・」
「お、ジュンちゃん、どうしたの? なんか忘れた?」
孝臣はすぐに電話に出てきた。
「いや、ちょっと・・・・」
純之介はどう聞けばいいか言葉を詰まらせた。
「何?」
「タカヤン、正直に言ってくれ。遠慮とか気遣いなんかしなくていいから、昔の君みたいに」
「ハハハ、おれは遠慮と気遣いがでけへん男だ、安心してくれ。で、何?」
「おれ、記憶が随分悪くなってるようなんだ・・・・。実はな、君と話していてハッと気づいたんだけど、おれって、認知症が進行してるように見えた? 要するにボケてなかった?」
「ボケてる?」
孝臣は反射的にフザケて「うん、ボケてるで」と口から出かかったが、純之介の声が深刻そうだったのでそれを言うのを押し留めた。
「いや、まったくそんなふうには見えなかったよ。今も正常に話しているぜ」
「正常か?」
「さっきおれと話した内容を覚えてる?」
「ああ、さっきのことはもちろん覚えてるさ」
「ボケていたらそれが覚えていられない。大丈夫だ。何も心配ない」
「そうか、大丈夫か・・・・。名医の君にそう言ってもらえると安心だ」
「名医ちゃうよ、ヤブ医者やで。ちょっとは心配しといた方がええよ。で、それだけ?」
「うん、それだけ。何となくスッキリした。じゃ、切るよ」
「じゃあ、また」
電話を切った。
――よかった、ボケていなかった。人間の精神なんて微妙なものだから、何かのきっかけで、配管の詰まりが剥がれ落ちてドッと水が流れ出すように、忘れていたことが一気に思い出されるのかもしれない。
純之介は車に乗り込み、エンジンをかけた。すると前方に、先ほど野糞をしていた男性が車に乗り込もうとしている姿が見えた。
「あの人は一体何をしている人なのだろう・・・・」
じっと見つめていると、自分の意識が相手に伝わったのか、男性がこっちへ振り向き、またも目が合ってしまった。男性は人懐っこそうな笑みを浮かべて手を振ってきたので、純之介も愛想笑いを浮かべて手を振り返した。こっちにやってくると面倒くさそうなので、そそくさと車を動かして離れた。純之介は昔から一風変わった人に好かれる特性がある。
孝臣の診断のおかげか、野糞男性のアドバイスのおかげか、時雨のことが頭から消え、運転に集中することができた。
四
純之介の車は高速道路を下り、国道を走り、繁華街を抜けた。田園風景の集落を過ぎて、山の林道を突き進んで行くと未舗装路となった。未舗装道路はだんだんと狭くなり、これ以上奥へ行っても民家がありそうな感じはしない。それでも奥へ奥へと突き進んで行くと、一面草薮に覆われた平地の空間へ出てきて、その草薮に埋もれるようにひっそりと一軒のログハウスが建っていた。
――ここだ。
ログハウスは壁一面、緑のツタの葉が覆っていて、その隙間から黒く変色した丸太の壁が薄っすらと見える。傾斜の急な屋根にも緑の苔がびっしりとむしていて屋根の地の色がわからない。世間一般の人が見れば”お化け屋敷”にしか見えないかもしれないが、純之介はこの屋敷を一瞥しただけで気に入った。
――さすが紗夜子さま、こんなにすばらしいところを見つけられるなんて。
草薮をなぎ倒すようにして車をゆっくりと進め、家の前に停車させた。純之介は車から降りて、草薮をかき分けるようにして歩き、正面からログハウスを見つめた。霊界へ繋がる秘密基地のようで、人を安易に寄せつけない神秘的なオーラが漂っていた。
「ハー」
純之介はこの屋敷を見つめながら、腕をめいっぱい伸ばして大きく息を吸った。山の空気は冷たく透き通っていて、大地の湿った匂いがする。肺に新鮮な酸素が充満し、体の緊張がスッと抜けていった。こんな素敵な環境でこれから生活できるんだ。精神の奥底の干からびていた泉が息を吹き返し、透明な水がコンコンと溢れ出てくるような気持ちになった。
ログハウスの高床の階段を数段上り、正面の玄関のドアの前にきた。金属製のドアノブに手をかけると鍵がかかっておらず、重いドアが音もなくスーと開いた。玄関から、リビングとダイニングが繋がった広い室内の全体が見渡せた。サッシのカーテンは閉められており、昼間でも薄暗い。清潔に保たれていることは一目でわかったが、生活感がまったくなく人の気配が何も感じられない。
「本当にここだろうか・・・・」
一瞬不安になったが、一歩玄関に入ると、
――ああ、この匂いだ。
馴染みある匂いが鼻腔を刺激した。玄関の靴箱の上にお香が焚かれており、煙が無音で一本の線を描いて立ちのぼっているのが目に入った。ここが新しい住居であることが確信に変わった。
「ただいま帰りました」
大きな声で挨拶をすると何秒か静寂の間があり、奥から縹緲たる声が返ってきた。
「おかえり」
キッチンに立っていた影がゆっくりと振り返った。
「あっ・・・・」
純之介は、その影が黒いガウンを羽織った紗夜子であると認識するまで、一呼吸の時間を要した。物静かな彼女は、日常どこにいるかわからないぐらい存在感が消えているが、そこにいるとわかると異様な存在感を放つ。純之介は、長い黒髪をかき分けながら小さく微笑む紗夜子の姿を白黒八ミリフィルムの映像を見るかのように眺めた。
「おじゃましてよろしいですか」
純之介は頭を下げて紗夜子に許可を乞うた。
「あなたの家だからご遠慮なく」
純之介は靴を脱ぎ、玄関口で脱いだ靴を行儀よく揃えて室内に上がった。
「どう? 疲れた?」
「もう歳ですから休み休み来ました。事故に遭ったら大変ですから」
純之介は琵琶湖で孝臣に偶然会ったことを伏せて答えた。話の内容次第で紗夜子の気分を害する虞れがある。
「そうね、もう歳だからね。六十歳のおじいちゃんだよね」
「おじいちゃんって言わないでください。まだまだ長生きしますから。紗夜子さまのためにも」
「あら、長生きするのはわたしのためなの?」
「もちろん」
「フフフ、じゃあ、わたしがいなくなったらあなたはどうされるおつもり?」
「紗夜子さまがいなくなったら・・・・。そんなこと、考えられません・・・・」
夫婦の力関係は明確に言葉遣いに現れていた。純之介が紗夜子より四つ歳上だけれど、純之介は敬語を使って話す。いつから何のきっかけでそうなったのかは思い出せないが、それが二人にとって安定した形であり、いいバランス関係が成立していた。
「あ、野鳥の鳴き声がよく聞こえてきますね――」純之介はカーテンを開けてサッシ越しから戸外を眺めた。「昼間はこんなにきれいな野鳥の声が聞けるんですか。夜はどんな声が聞こえてくるんでしょう。虫の鳴き声でしょうか、蛙の鳴き声でしょうか、楽しみだなあ」
「山姥や山男のうめき声が聞こえてくるわ」
紗夜子は冗談だか本気だかわからないようなことを間髪入れずに返してきた。
「ひゃー」
純之介はそれを冗談と受け止め、大袈裟に目を見開いてお道化けて見せた。チラッと彼女の表情を窺うと、切れ長の目はピクとも動かなかったが、口元が微かに笑っていた。
――笑った。紗夜子さまが笑ってくださった。
体が震えるほど嬉しくなった。自分に生き甲斐があるとしたら、彼女を喜ばすことなんだと改めて思った。
「紗夜子さまに会えない二週間が異常に長く感じました。こうしてお顔を拝見すると生き返った心地がします。――さあ、紗夜子さま、私が家事をしますから、ソファーでお寛ぎください」
純之介は紗夜子の手を包み込むように握り、ソファーにエスコートした。
「紗夜子さま――」純之介は室内を見回して訊ねた「沖縄から送った荷物の整理をさせて頂きたいのですが、荷物はどこに・・・・」
「大方終わったわ」
「ああ・・・・、お力になれず残念です」
「残りの荷物は全部持ってこれた?」
「はい、すべて車に詰め込んできました。もちろん紗夜子さまのコレクションも忘れずに」
「誰かに見られなかった?」
「もちろん見られていません。今すぐ車から運び出しましょう」
純之介は飛び出すように屋外に出て、車から紗夜子のコレクションが入れられた衣装ケースを運び込んで彼女の横に置いた。紗夜子は衣装ケースの蓋を開けて、コレクションの一つ一つを慎重に取り出した。
「どうでしょうか」
紗夜子は純之介の問いに何も応えず、恍惚とした表情でコレクションを眺めている。
「大切なオトモダチ・・・・」
乾いた布で撫でるように一つ一つ丁寧に拭いていく。硬質で白褐色のそれらはツルツルに磨かれて光沢を帯びている。すべて彼女自らが採取したものだ。牙の大きいものもあれば、メロンサイズの霊長類のものもある。純之介にとって、紗夜子がこれらのコレクションを目を細めて愛玩するのは見慣れた光景で、彼自身は今さら何の不可解さも感じないが、それは一般常識から外れていることは認識しており、決して他人には言えない夫婦間だけの秘密だった。
「この山の中なら誰の目も気にすることなく、たくさんコレクションが集められそうですね」
純之介は紗夜子の意に沿うよう言葉をかけた。こうした話し方が日常の習慣になっている。
「そうね、いいオトモダチに出会えるでしょうね」
「紗夜子さまなら、象でも虎でもお友達になれるでしょう」
「インドの森じゃないんだからそんな動物はここにはいないわ、フフフ・・・・」
微笑みから一転し、紗夜子は無言で純之介の目をじっと見つめた。
「何でしょうか、紗夜子さま」
純之介は彼女の感情の変化に一瞬で気づき反応した。
「あなたはここで何かやりたいことがあるの?」
唐突な質問がきた。
「やりたいこと・・・・。ぼくはこうしているだけで・・・・、この当たり前の日常がつづくだけで満足でございます」
純之介ははかばかしい答えを提出することができなかった。
「あなたはこの日常がただつづくだけで満足なの?」
紗夜子の問いかけは止まらなかった。
「ええ、満足だと思います・・・・」
「困窮しても?」
「困窮は・・・・
「病気して苦しんでも?」
「苦しむのは・・・・」
「いつ死んでも大丈夫?」
「それは困ります・・・・」
「どうして?」
「やりたいことがありまして・・・・」
「やりたいことって何?」
「何でしょう・・・・」
純之介は紗夜子と顔を合わせて話すと、彼女のペースに完全に飲み込まれてしまう。用意しておいたセリフはすべて忘却され、思考もまとまらなくなる。それどころか、考えていることがすべて見通されているようであり、目を合わすのさえも怖くなる。純之介はいくら歳を重ねても彼女の前では、巨大な手の平の上で弄ばれる小猿のようであった。
薄暗くなりかけた時刻、二人は戸外に出て屋敷周辺の草むらを歩き回った。
「この辺で畑ができそうですね。明日から草をむしって鍬で土をほぐしますよ」
純之介が快活そうに言った。
「この辺の林はクヌギやコナラよ。炭焼に使えるわ」
「そうだ、冬に備えて炭作りもしておかないといけませんね」
「木を十年周期に伐っていけば、成長するスピードとバランスがとれ、持続的に伐り続けられるわよ」
「ありがたい木ですね」
純之介は、落ちていたどんぐりを一個拾ってまじまじと見つめた。
「丸いどんぐりだ。かわいいですね。食べられるのかな」
お道化てどんぐりを齧って見せた。
「どんぐりに飲み込まれないように注意しなさい」
紗夜子がフッと笑って呟いた。
「どんぐりに飲み込まれる? どんぐりを飲み込むことはあっても、どんぐりに飲み込まれることはありませんよ」
純之介は紗夜子の言葉を訂正しハハハと笑った。
五
孝臣の生活は安定していた。医者としてそれなりの収入と貯蓄、そして社会的なステータスがあり、郷土の土地も歳を取るごとに愛着が深くなっている。しかし、どういうわけか、埋めようにも埋められない心の穴が、――いわば“空虚感”があった。それはどこから生じるものか、――離婚して家族を失ったことか、精神科医として力量に物足りなさを感じているためか、それとも自分のやりたいことを無意識的に抑圧しているためか。いや、そもそも人間という存在は、何をやっても、どうあがいても、不満足なものなのか。
継母が相続したものと思われていた二つの別荘、法務局に問い合わせてみたところ、父の名義のままだった。どうして継母は名義変更をしなかったのだろう。別荘があの当時のまま保全されていたらいいのだが・・・・。いや、そのままであるはずがない。自分が行っていない四十年、まったく手入れされずほったらかしにされていたら・・・・、考えただけで怖ろしい。まさしくお化け屋敷のようになっているはずだ。――そうだ、ジュンちゃんに沖縄へ連れて行ってもらおうか。なんてったって彼は沖縄のエキスパートだからな。しかしあれから何も連絡がないが、どうしてるだろう。近いうちにまた会おうって言ってたのに・・・・。
日曜日の昼頃、孝臣の方から純之介に電話をかけた。
「その後、どうしてます?」
「あ、斎藤院長」
「今、電話大丈夫ですか」
「今畑仕事していて丁度休憩していたところです。普段誰からも電話なんかかかってこないから、電話が鳴って少しびっくりしたよ」
「電話するのは愛妻さんだけなの?」
「いや、妻は携帯を持ってないよ。電話はおれが世間と繋がりたいときだけ使う道具だよ」
「悠長な生活してますねえ。羨ましいかぎり。で、生活は落ち着きました? 山暮らしするって言ってたけど」
「ええ、いい感じです。空気もいいし最高ですよ」
「そうですか。あれから精神は落ち着きました? 認知症じゃないかって、あたふた言うてましたけど」
「認知症・・・・?」
純之介はそのことをまったく忘れていた。タカヤンとそんなことを話したっけ? 孝臣と会った日のことを回顧した。
――時雨
彼女の顔がフッと脳裏に蘇ってきた。その瞬間、周囲の緑の木々の鮮やかな色彩が一気にくすんだように感じた。
「忘れていた・・・・。あのときタカヤンに会って、忘れていた大事なことを思い出したんだけど、またそれを忘れていた・・・・」
「奇妙な忘れ方やね」
「な、タカヤン。近いうち一度会いません? 君に会わないと、昔のことが頭の中で整理できそうにないんだ。今おれ高山にいるでしょ、君は大津だから、大体の中間地点とすれば・・・・、岐阜市あたりでランチでもどうですか?」
「ええ、いいですね。おれもジュンちゃんに話したいことがあるんですよ」
約束の日にちを決めて電話を切った。
※
一週間後、岐阜市内の老舗のそば屋で落ち合った。中庭の見える個室の座敷に通され、二人は向かい合って座った。
「落ち着いたいい店だね」
孝臣が部屋を見回しながら言った
「外食なんてどれだけぶりだろう。五年ぶり・・・・、十年ぶり・・・・、いや、思い出せない」
純之介が意外なことを言った。
「どういうこと? 家でしか飯を食べてないってこと?」
「うん、妻以外の人間と飯はまず食べないね」
「いつも奥さんが作ってくれるの?」
「妻が作ってくれることもあれば、手が空いていたら自分が作るし」
「愛妻家だねえ」
「ま、まあね・・・・」
純之介は“愛妻家”という言葉を聞き、孝臣に家庭事情を深入りされたくないという警戒の気持ちが動いた。意識的に話の方向性を逸した。
「昔、よくタカヤンに飯をごちそうになったなあ」
「そうだな。おれは学生時代、皆からようタカられた。開業医の息子だから金持ってるって思われてたから。実はそのころ病院経営も芳しくなくて、親父がヒーヒー苦心していた時期だったから、それなりの葛藤があったんだよ。じゃあ今日は、あのときの分を返してもらうということで、ジュンちゃんに甘えるか」
「おれは現在無職、夫婦ともども自給自足生活だ。そこは大津の名医・斎藤院長の出番ということでお願いしますよ」
「ハハハ、学生時代からそこは変わらないなあ。見上げた根性だ。でも、無収入のままで大丈夫か? 年金をもらえるまで、まだ時間があるだろ?」
「家の経済のことはまったく知らないんだよ。妻にすべて任せてあるから。妻が大丈夫っていうんだから大丈夫じゃないだろうか」
「奥さんのことを信頼しているんだねえ。じゃあ、君んとこは小遣い制か?」
「いや、小遣いなんてもらってない」
「じゃあ、欲しい物があるときどうしてる?」
「普段買い物したときのお釣りが財布にあるから、それを使っているんだと思う」
「そんなんで生きていけるのか?」
「さあ・・・・、自分でもよくわからない。今までそれで何とかなってきた」
「呑気なもんだ。さっきから聞いていると、よほどできた奥さんなんだね。是非会ってみたいよ」
「いやいや・・・・」
純之介は家に遊びに来いよとは言えず、そこは曖昧な返事をした。
「昔、君は自由人だったじゃないか。自転車で日本中周ったり、アジアの貧困国を放浪したり。だから今も寅さんみたいな生き方をしているのかと思ったら、ピザだけ焼いて、小遣いもなく、沖縄という僻地でずっと静かに生きていたなんて。そして今度は閉鎖的な山暮らしだろ・・・・。放浪癖があった昔の君からは考えられないよ」
「♪あんな時代もあったよねと、後で笑える、日が来るわ・・・・」
純之介はズレた音程で中島みゆきの歌を口ずさんだ。
「後で笑えるんじゃなくて、今笑ってるんだよ。おれたちジジイには後なんかあらへんで」
孝臣が的確な突っ込みをしてきたので、純之介は思わずプッと笑ってしまった。
「でも“後がない”って、精神科医がずいぶん乱暴な言い方するんだなあ。正確に言うなら、“後が少ない”だろ」
「そうだ、後が少なくなった貴重な時間をどう有意義に過ごすかだな」
「どう、タカヤン――」純之介は急に改まって言った。「いい人生を送れているかい?」
「何だよ、急に・・・・。いい人生か・・・、そうだなあ・・・・、仕事仕事でここまでやってきて、ふっと気づいたら”還暦”って感じだ。ま、おれなんか所謂“お医者さん”ということで世間から一目置かれてるわけだけど、自分の魂に正直に生きてきたかと問われると、なんだか心もとないんだよなあ。この歳になっても、自分の魂が何を求めているのかよくわからない。”有意義に過ごす”と言葉では言っても、具体的に何をすればいいものか・・・・・。何か新しいことを始めようなんて挑戦的な気持ちにはまったくなれないし、かといって、このまま日々の惰性で生きていくのはちょっと違うと思うし・・・・。いい人生って何だろうなあ」
「でも人って、何かしらやりたいってことがあるもんじゃないの? やりたいことに心が自然と向かっていくというか」
「やりたいことっていったってなあ・・・・、旨い酒呑んで、いい映画見て、行きつけのスナックに顔出して、そんなもんか」
「要するにタカヤンは仕事が大切なんだろうな。社会のために、苦しんでいる人たちのために、医者として立ち振るまうってことが生き甲斐なんだろうね」
「そうなんだろうけど・・・・、それはわかっているんだけど、そもそもだよ、もし社会が腐っていたら、おれがしていることに意味があるのかって考えることがよくあるんだ。心のバランスを崩す人って、ある意味マトモな人が多いだろ。そんなマトモな人に薬を飲ましたり、部屋から引きずり出したりして、腐った社会に適応させるって何なのかって」
「狂っていたのは患者ではなく、――おれだったんだ・・・・って、映画みたいに価値がひっくり返るってわけか」
「そんな大袈裟なことはないけど、ムズムズしたものが心の中にあるってことさ。でも、まあ、今の生活にそこそこ満足はしているんだよ。けっこうな身分にいさせてもらっているわけだしさ」
「じゃあ、もういつ死んでもいいって感じか?」
「そんなわけないだろ。もっともっと長生きするつもりだ。死ぬことなんか考えたくもない。じゃあ、ジュンちゃんはどうなんだ? 悠長な顔をしているが」
「そりゃあ死ぬのは怖いさ。怖いけどおれはタカヤンと違って、社会性を身につけられず、社会の枠の外で、自分の感覚を頼りにしてこの歳まで生きてきただろ。だから君みたいに社会的な人格と本音の自分とのズレみたいなものはないから、貧乏であっても心は案外スッキリしていると思う。死は怖いけど、どこかに憧れみたいなものもあって、来るなら来たで、ああしょうがないって受け入れるつもりではいるがね」
「本当かね。そんな奴に限ってジタバタするもんだぞ」
「確かにな・・・・」
「でも、君の場合は特別かもしれない。社会から離れて生きてきたなんて、ある意味奇跡的だし、君の雰囲気もちょっと変わっているし・・・・」
「限られた人間関係の中で閉鎖的に生きてきたためか知らないが、昔のことを振り返ることなく、ただスーッと時間が過ぎていったように思う。今だけに集中して、ただスーッと。十年前二十年前、いや三十年前のことであっても、何だか昨日のことのようにしか感じられない。これは何だろう・・・・・」
「三十年前のことが昨日のことのようか・・・・」
孝臣は言葉を小さく反芻しビールに口をつけた。
――三十年前。
純之介はこの過去に関する具体的な言葉を自分で言っておきながら、何とも言えない薄気味悪さを感じた。その薄気味悪さの正体は何なのか? 過ぎ去ってしまった過去になんぞ一切触れたくない気持ちだが、この薄気味悪さの正体を暴くためにはどうしても過去に触れなければならない。
――あっ、時雨のことだ。
再び彼女の顔が脳裏に浮かんだ。
「でな、タカヤン、君に真剣に話したいことがあるんだ・・・・」
「何?」
「実はな・・・・」
純之介が真剣な面持ちで話し出そうとすると、給仕がそばを持って部屋に入ってきた。話を一旦止め、二人は無言でそばをすすった。
「腰があっていいそばだ」
孝臣は気楽そうにそばを音をたててすすり、そばについてのうんちくを傾けた。純之介は、気が緩むとまた時雨のことを忘れてしまいそうなので、孝臣の話を「うん、うん」と空返事をしながらそばをすすり、食べ終わるまで時雨のイメージを保ち続けた。
「――実はな、タカヤン。大切な話をしたいんだ」
純之介はそばを食べ終えるとすぐ身を乗り出して話しだした。
「うん」
孝臣はまだ食べ終わっておらず、ビールを自分でグラスに注ぎ、面倒くさそうに返事をした。
「専門家としての意見を是非聞きたいんだ」
「うん、わかった。で、何?」
「この前話したことだけど・・・・。前回、おれは嘘をついていたんだ」
「嘘?」
「前回、おれは”時雨と離婚した”って言ったじゃないか」
「うん、そんなこと言ってたな」
「実は、おれ・・・・、信じてもらえるかわからないけど、時雨と離婚したことを思い出せないんだ・・・・」
「どいうこと?」
「いつ、どういう理由で彼女と離れ離れになったのかまったく思い出せない・・・・。だから自分が狂ってしまったんじゃないかって怖くなって、君に電話したんだよ・・・・」
「ああ、あのときの電話はそういうことだったのか」
孝臣は純之介の深刻そうな目を慎重に覗き込みながら言った。
「でも、君は今、奥さんがいるよな。よくできた奥さん。彼女といつ出会ったんだ?」
「実はそれも思い出せない・・・・」
「思い出せない?」
「まったく思い出せないんだ・・・・」
「どういうことだろう・・・・。今こうして話していて、君の認知能力が衰えているようには思えないんだけど」
精神科医の孝臣にとっても初めてのケースだった。
「タカヤン、君の方から質問してくれないか? 段階を踏んで昔のことをおれが思い出せるように。君に何か言われると不思議と昔のことが思い出せるようなんだ」
「自分一人で考えても思考のループに入り込むだけだから、それは質問者がいた方がいいだろう。――うん、わかった、やってみよう。じゃあ、どこから話せばいいか・・・・」
孝臣は戸惑いながらも、純之介と共有する過去を手がかりに質問した。
「じゃあ、この前も話したことだけど、君が大学を中退した理由から聞こうか」
「ああ・・・・、勉強するのが煩わしくなったというのもあるし、医者が向いていないと自覚したのもあった。あの当時、離島を旅したり、山に登ったりするのが楽しくて、机の上の勉強どころじゃなかったから。だから辞めたんだと思う」
「それから、辞めて何をした?」
「季節野菜の住み込みバイトや山小屋の荷物運びのバイトをしながら金を貯めて、世界放浪するようになった。インドやネパール、中国の奥地なんかによく行った」
「そうそう、そのころ、おれのところに変わった土産物を持って泊まりにきたよな。閉鎖的な生活をしているおれにとって、君の冒険譚は面白かった。当時、君の自由な生き方が羨ましかったよ。――それで、ピザ屋のバイトを始めたのはいつだ?」
「あれは・・・・、あれはママチャリで日本一周してるとき、軽井沢の山の中にあるピザ屋をたまたま見つけた。自然に囲まれた辺鄙なところにあったんだ。味がとびきり旨かったから、勢いでオーナーさんに弟子入りを志願したら、心が広い方で受け入れてくださった。それでピザ屋の屋根裏部屋の物置に寝泊まりしながらピザ作りの修行を始めた」
「そこで君は時雨さんに出会ったんだな」
「彼女も住み込みで働いていた。おれより何か月か前に来たらしい。イラストが得意な芸術家肌の子で、自分が独立して店を持った際の具体的なイメージを何枚も画に描いていた。そこで仲良くなったんだ」
「君たちは結婚した。前にも言ったようにおれも結婚式に呼ばれた。あのとき、おれたちは確か二十代半ば、それからまったく会わなくなったよな。おれは国家試験に受かってからも研修医としてコキ使われていたからね。君はあれからどうなったんだ?」
「おれは・・・・」純之介は自分の空白になっている記憶の部分に近づいてくると、なんだか恐怖を感じできた。
「ちょ、ちょ、ちょっと・・・・」
あたふたとお茶を飲んで喉を潤した。
「大丈夫か?」
孝臣が心配げに声をかけた。
「大丈夫、大丈夫。――そうそう、それから軽井沢から時雨の実家の”三浦家”に引っ越したんだ。ピザ屋の具体的なプランが出来上がり、資金も彼女のご両親が援助してくださるっていうことで・・・・」
「彼女の家はどこだ?」
「富士山が見えるところだった・・・・。どこだっけ・・・・」
「富士山なら、山梨か静岡かだろ?」
「静岡の富士宮市だ。彼女の実家は造園業だった。植樹のための土地を譲っていただき、店を建て始めた。自分たちも業者さんに混じって建設の手伝いをした・・・・」
「店はオープンしたのか?」
「オープンはどうだったか・・・・。あ、その年、おれの実家の両親が次々に亡くなって・・・・。それでおれの中の計画が頓挫したんだ。心の整理がつかないまま両親の持ち物をすべて処分しなければいけなくなり・・・・。おれの実家が貸家だったから放置できなくて。あのときは苦しかった。自分の過去がすべて消えてしまったみたいな気持ちになって・・・・。両親にたいしても、何もしてあげられなかったという悔恨の気持ちもあり・・・・」
「それでどうした?」
「しばらく仕事をしないで引きこもったんだよ。鬱みたいになって。何か月も・・・・」
「それから?」
「そんなふさぎ込んでいるとき、旅先で出会ったイタリア人から手紙が来た。結婚式に来て欲しいって。自分は気が進まなかったし、今お金が必要な時期だったから、そんなところに行ってる場合じゃない。だけど時雨はおれのことを心配してくれて背中を押してくれた。本場の味を勉強するのにいい機会だって理由をつけてね。だけど、それなら二人で新婚旅行を兼ねていくべきだと提案したんだけど、そこまで金がなかった。だからおれだけがイタリアに行くことになった」
「それでイタリアはどうだった?」
「イタリアはどうだったっけなあ・・・・、記憶にないなあ・・・・。頭が痛い・・・・」
純之介は頭髪を搔きむしった。
「旅の記憶がないということは、じゃあ次に思い出せる記憶は何だ?」
「その次はなんだろう・・・・。何も思い出せないなあ・・・・」
「じゃあ、沖縄に移り住んだのはいつだ?」
「いつだろう・・・・」
「沖縄に移り住んだ動機とか経緯とか」
「どういう経緯があったのだろう・・・・」
「じゃあ、今の奥さんとの出会いは?」
「なんだろう・・・・。思い出せない・・・・」
「沖縄でピザ屋をオープンしたときの何か思い出は?」
「なんだろう・・・・。それもまったく思い出せない」
「どうして君自身が行動してきたことなのに何も思い出せないんだろうね」
「毎日ピザを焼いて接客し、休みの日は家でゴロゴロして、そんな平穏なことの繰り返ししか思い出せない」
「じゃあ、君は最近引越しただろ。そのとき昔の持ち物とか出てこなかったか? ノートでも旅先の土産でも何でもいいいから」
「何もなかったなあ・・・・。妻が全部処分してしまったのかもしれない」
「何にもないって不思議だなあ。じゃあ、君のご両親の家を整理したとき、君の持ち物はどうした?」
「大切なものは時雨の実家に持っていったと思う・・・・」
純之介の顔色が青白くなっていた。
「ジュンちゃん、もういい。よく頑張った、そこまで思い出せれば十分だ。わかったことは、君の記憶は二十代半ばぐらいから三十ぐらいまでのある期間、失くなっているようだ。この期間、もしかしたら思い出したくない苦しい記憶があるのかもしれない。人間は何かとんでもなく苦しいことがあると、無意識的に記憶を消してしまうことがある。その記憶の蓋を開けるべきかどうか、それはそうとうな覚悟が要りそうだ」
「苦しい記憶・・・・。両親が亡くなったときは随分ふさぎ込んだが、それ以上に苦し記憶が自分の中にあるのか・・・・」
「別にそれを知らずに生きていくこともできる。思い出さなくても今の生活に特別、問題はないだろ?」
「ああ、思い出さなくてもまったく問題はないが・・・・。だけど、時雨のことが気になるんだ。彼女とはどういう経緯で別れてしまったのか。何か彼女に辛い思いをさせたかもしれないって・・・・」
「そうだなあ・・・・」孝臣はしばらく沈鬱な表情で黙った。「そういうおれも、思い出せないことがいろいろあるんだよ。母のこととかね。おれが子供の時、お袋は家を出て行って、その後どうなったのか・・・・。そんなことも知らないままこの歳まで生きてきた。親父が生きているとき、もっと訊いておかなければいけなかったんだ。お袋はどうしておれを捨てて出て行ってしまったのか・・・・。他にも、これは前にも言ったと思うが、離婚した妻とまったく連絡を取っていないから、一人息子のこともまったく知らない。あいつも成人を過ぎたはずだが、今、どこで何をやっているんだか・・・・。知ろうとするべきか、知らずにそのまま人生を終えるべきか・・・・。過去のことを掘り返したくない気持ちを持っているのは君だけじゃない。おれも同ンなじだ。人はそれぞれ心を濁したまま、その日その日をごまかしごまかし生きているのかもしれない」
「無理をして思い出す必要はないってわけか・・・・」
「そうだね・・・・。あ、もうこんな時間だ――」孝臣が時計を見た。「店に迷惑だからそろそろ出ようか。また会ってゆっくり話そう。こうした過去のことを整理することが今後の人生の宿題になるのかもしれない」
個室を出ると店には客が誰もいなくなっていた。
六
純之介は畑仕事で毎日汗を流した。沖縄にいたときも、小さな畑やプランタで家庭菜園をやっていた経験があり要領は得ている。空気のいい山の中で鳥のさえずりや虫の声を聞きながら作業するのは楽しく、過去の記憶、――時雨のことも、ここにいると消えていった。しかし買い物で自宅を離れ、街の喧騒にまぎれると、ふっと彼女の顔が蘇ってくることがある。
――放っておくわけにはいかないか・・・・。
純之介はこの日、小さなコーヒーショップの窓際の席に座り、孝臣に語ったことをノートに記して記憶の隙間を埋めていった。文字になると周辺の小さなことも思い出される。
――富士宮の住所って、何だっけなあ・・・・。
もしそれがわかれば、時雨の所へ直接行くことができる。今更だが、本人に直接会って、直接話せば、空白の記憶がすべて明らかになる。今、彼女は何をしていらっしゃるのだろう・・・・。自分が突然現れることによって彼女の生活を脅かしてしまう危険性もあるが・・・・。
そこへ行く前にできること、――紗夜子さまに訊ねればいろんなことが知れるはず。だが、それはどうしてもできそうになかった。彼女と過去のことを話す機会をまったく持たぬまま、二人の関係性は強固に築かれている。それに、どういうきっかけで話し出せばいいのか。もし、自分と時雨が結婚していたことを彼女が知らず、そのことで紗夜子さまを不快な気持ちにさせてしまったら・・・・、考えただけでも恐ろしくなる。訊くとしたら、時雨と結婚していたことには一切触れずに、自分たちがどこで知り合い、どういう経緯で沖縄へ行ったのかということだけだ。そもそもだ、そもそもそんな過去の出来事以前に、紗夜子さま自身のことを、自分は一体何を知っているのだろう・・・・。
純之介は愕然とした気持ちになった。彼女の出身地も、旧姓も、ご両親のことも、何も知らない。いや、もしかして、それらもすべて忘れてしまっているのか。自分の頭は本当に大丈夫なのか・・・・。
ノートを閉じてボンヤリと窓に目をやると、一匹の黒揚羽蝶がガラス窓にぶつかりバタバタともがいていた。どこからか店内に入り込んでしまい出られなくなっているようだ。純之介は黒揚羽の羽をそっとつまんで、店の外へ出してやった。宙空に羽ばたいて消えていく蝶を見て、いいことをしたような気持ちになった。自分のわだかまっている気持ちもあの蝶のように解放してやりたい。
純之介は暗くなる前に自宅に戻り、晩御飯の支度を始めた。紗夜子はどこかへ出かけているらしく家にいなかった。どこかへ行くといっても、行くところは山の中しかないはずで・・・・。彼女は一人で山に入り、何をしているのか・・・・。
料理を作るのに夢中になっていると、背後から小さな物音が聞こえたような気がしたので振り返った。紗夜子が巨大な角を持つ鹿の頭を抱きしめてソファーに座っていた。
「帰っておられましたか。びっくりした」
純之介が思わず大きな声を出した。
「ずっといたわよ」
紗夜子が平然とした調子でこたえた。
「そうでしたか、へへへ――」
純之介は、心の底を読まれないよう媚びたような笑いをつくろった。
「何ですか、その鹿は?」
「オスの鹿。体に傷もなんにもないのに倒れて死んでいたの。いろいろお話したくて、頭だけ切って持ち帰ってきたのよ」
紗夜子が死んだ動物を持ち帰ることは日常茶飯事、純之介は驚きもしない。
「餓えて死んだのでしょうか」
「餓えじゃない。細菌性の病気みたいね」
「細菌は人間に伝染らないんでしょうか」
「伝染ることもあるでしょうね。人間が繁栄したい欲求があるのなら、細菌も繁栄したい欲求があって当然。同じ生物なんだから」
「紗夜子さまは鹿に対しても、細菌に対しても、あらゆる生物に対し、深い愛情を持っていらっしゃるんですね」
純之介は紗夜子に対し、称賛とも皮肉ともとれる言葉を洩らした。
「人間にとって自然は必要なものですから」
紗夜子は平然と返した。
「でも、自分が人間である以上、他の生物よりも人間の平和を優先的に考えるべきだと思いますが・・・」
純之介は珍しく踏み込んでいった。
「わたしたちは自然の中で、生まれ、生き、死んでいく。死んでも自然の全体性は増えもしないし減りもしない。万物の質と形は変われど、世界の全体性は一ミリも変わらない。わたしたちは自然そのものなのよ」
「でも・・・・、自然は人を殺すし、人も自然を滅ばすように見えますが・・・・」
「いいえ、人が自然であれば、死ぬことなんかないはずよ」
「じゃあ、ぼくは死なないんですか」
「あなたは死にます」
「どういうことですか・・・・」
この日も紗夜子のペースに飲まれてしまって、過去のことを言い出すタイミングがなかった。時雨のことも彼女と話しているうちに頭から消えてしまった。
翌日、翌々日と平穏な日々が過ぎていった。沖縄にいたときはこうした平穏な日々に対し何の疑念もなく過ごしてきたが、この地に移ってきてからは、過ぎ去る日々に対し、一種の虚しさと罪悪感を感じる。――これでいいんだけど、これではいけない。相反する命題が自分の中で同居し落ち着かない。
この日、純之介は鹿の頭とスコップを持たされ、紗夜子に連れられて裏山を登って行った。鹿の胴体を置き去りにしたところに行くらしい。藪をかき分け、山の斜面を歩き、数十分かけて鹿の胴体がある所にたどり着いた。胴体は数日経過したこともあり大分腐敗していた。
「この子はここに戻りたくなったみたい。埋めてあげましょう」
紗夜子に言われて、純之介は簡単な穴を掘り、頭と胴体をくっつけて土をかぶせた。
「これで鹿くんは成仏できるでしょうか」
「生き物は大地から生まれて大地に戻る」
「墓石は立てなくてもいいですか」
「墓石? 鹿に人間の観念を押し付けたら迷惑よ」
純之介は”墓石”という言葉が出たことで死んだ両親のことを思い出した。彼女に自分の両親のことを話したことがあったかどうか。このタイミングでこの話を持ち出すのは場違いではなさそうだ。紗夜子の背中に声をかけた。
「紗夜子さま、あのう・・・・」
「何?」
下山し始めた紗夜子が足を止めて振り返った。
「紗夜子さまと、今度一緒に行きたいところがあるんですが」
「行きたい所?」
「両親のお墓参りへ。――紗夜子さまにわたしの両親のことを、何か話したことがありましたっけ?」
「いいや、聞いたことがないわ」
気のない返事だったが、純之介は二人の間の壁を突破しようと強引に話し続けた。
「わたしが二十六のとき、両親が亡くなりまして――。よく考えたら、それ以来墓参りって全然していません。どうですか? 今度わたしの田舎へ墓参りに行くというのは・・・・」
紗夜子の目が鋭くなり純之介の眉間を射抜いた。
――マズイ、やはり触れてはいけないことだったか・・・・。
純之介は金縛りになったのように体が固まった。
「あなた、死にたくなってきたの?」
彼女から意外な言葉が返ってきた。
「へ?」
「やっぱり、そうですか・・・・」
「へ? どういうことですか。死にたくなんてなっていませんが・・・・」
「とうとう死に向かって歩き出しましたか・・・・」
「ど、ど、どういうことでしょうか。別にわたしは紗夜子さまとの生活に何の不満もありませんし、無理なことをしようなんてつもりは毛頭ございません。ただ、両親のお墓参りを、と言っただけで・・・・」
「そんなことを言ってるんじゃないの。死はいずれくること。それは自然なことなの」
「いや、いや、紗夜子さま、今話したことがお気に触るようでしたら、すべて撤回いたします。なかったことにいたしましょう・・・・」
「そういうことじゃないの。これはあなたの運命。――だけど一つだけ覚えておいて。あなたが死ぬ前に、必ず私が死ぬってこと。これは起こるべきこと」
「え? え? どういうことですか、紗夜子さま――」
紗夜子はフッと笑ってそれ以上何も答えず、スタスタと山を下りていった。
七
「なんだかえらいことになっちまったぞ」
純之介は言わなくてもいいことを口にしたことを後悔した。紗夜子はその日の晩、何も食べることなく自室に閉じこもってしまった。今まで精妙に動いていた”夫婦の秩序”が崩れだしたようだ。
純之介は一人で簡単に晩ご飯を済まし自室に入った。ベッドにゴロンと仰向けに寝転んで天井を見つめながら考えた。
――両親の墓参りを提案しただけなのに、どうして死ぬことにまで発展してしまったのだろう・・・・。
六畳の寝室は空気がしんと静まり物音が一切しない。純之介に深く思索することを要求してきているかのようである。
――ゴソゴソ
何か生物が動く気配を感じハッとした。黒くて巨大な生命体――、頭の中に”千と千尋のカオナシ”をイメージした。ゆっくりと上体を起こして音の方向に目をやった。
「あっ・・・・」
カブトムシと見間違うほどの大型のゴキブリがゴミ箱に張り付いていた。長く伸びる触覚を敏感に動かしながらこちらの気配を窺っている。
「汚いなあ。どこから入ってきたんだ・・・・」
嫌な気持ちにさせられた。純之介は本能的にゴキブリが苦手だった。ゴキブリは毒があるわけでも、刺してくるわけでもないのに、どうして自分が苦手なのか考えてもわからない。すぐにひっぱ叩いて潰してやろうかと思ったが、体液が飛び散る不潔なイメージが湧き、そうする気持ちが薄れた。
――このまま放っておくか・・・・。
しかし、そんなことしたらゴキブリは繁殖力が強いので、ねずみ算式に、いやゴキブリ算式に大量繁殖しそうである。そんなゴキブリだらけの部屋で口を開けて寝ていたら、口の中にゴキブリが入ってくるかも・・・・。
――やっぱり放っておけない。殺生しよう。
意思が固まった。厚めの紙を棒状に丸めて武器を作り、ゴキブリにゆっくり近づいた。ゴキブリはこちらの殺気に反応し、暗がりにササと身を隠す。暗がりに武器を差し込んで追い出すと、ゴキブリは明るみに飛び出して猛スピードで走った。
――バシッ
一撃で仕留めた。ゴキブリは汚らしい黒い腹を天井に向けて六本脚を力なく動かしている。気持ち悪い姿を見たくなかったので、視点をずらして眺めながらティッシュに包み込んでつまんだ。ティッシュ越しの指先にピクピクとゴキブリの動く感触が伝わってくる。嫌な感触だった。窓から外に投げ捨てた。
「フー」
部屋の平和は回復した。再びベッドに仰向けに寝そべったが、なぜか落ち着かなかった。
――蝶は助けて、ゴキブリは殺す。おれにとって正しさとは何だろう。どうして蝶は善で、ゴキブリは悪なのか。確かにゴキブリは食物をつまみ食いする悪さをするが、蝶が幼虫時代に畑のキャベツを食い荒らすことを考えれば、蝶の方が迷惑な害虫だ。蝶はきれいだから善で、ゴキブリは醜いから悪――、見た目で物事の善し悪しを判断していいものだろうか。ゴキブリの殺生に明確な正当性はない。自分都合の暴力といっていい。「汝の敵を愛せよ」と説く宗教があるが、かりにゴキブリは不衛生だという理由があったとしても、敵を愛せなかったら憎しみと戦いの連鎖は永遠に続くだろう。
ゴキブリの怨恨なのか、指先にゴキブリのピクピクと動く感触がいつまでも離れなかった。真の平和とは、争いごとの無くなった社会を指すのではなく、個人個人の心の状態をいうのかもしれない。少なからず自分の心は平和ではない。嫌なものはすぐに叩き潰して見えなくする。そんな凶暴な人間にどれほどの知性が宿り、どれほどの世界が意識のビジョンに投影されるいうのだろう――。
そのとき孝臣の顔が思い浮かんだ。この混乱した精神を、己の愚かさを、精神科医のタカヤンに分析し慰めてもらいたい。スマホを手にとった。しかしこんな些細なことで電話するのも、と手が止まる。そのときスマホがブーブー震えだした。
「誰?」
見ると、孝臣からだった。速攻で着信ボタンを押した。
「タカヤン、ちょうど君のことを考えていたところだったんだ」
「あ、そう。ユング的にいえばシンクロニシティってやつか、ハハハ。で、何?」
しかし、「何?」とあらためて問われると、ゴキブリのことなど話すようなことではないように思えた。純之介はついさっきまで考えていたことが恥ずかしくなってきた。
「いや、いや、まず、君の方から言ってくれ」
孝臣の話を聞く側に回り込んだ。
「実はな、昔の手紙を整理していたら、君からの手紙を見つけたんだ。宛名が富士宮からの手紙」
「本当か? ということは、富士宮の住所わかったの?」
「おお、きちんと書いてあったよ。読みやすい字で」
「そうか・・・・」
純之介は一瞬だけ嬉しい気持ちになったが、同時に自分の力量以上の任務を背負わされたような重圧も感じ、嬉しさはすぐに消えた。
「何だ、残念そうだな」
孝臣は純之介の声音の変化を敏感に嗅ぎ取った。
「全然残念じゃないよ。嬉しいよ。で、手紙の内容は?」
純之介は努めて明るい声音をつくろって言った。
「手紙の内容は――、両親を失って心が塞いでいるって内容だな」
「当時のおれは君にそれを話して、少しでも心を軽くさせたかったんだろうな」
純之介はそう言いながら、現在の自分の精神が三十年前の自分とあまり変わっていないことに気づき、幼稚な自分に情けない気持ちになった。
「どうする? 会いに行くか」
「うん、そうだなあ・・・・」はっきりとした返事ができなかった。「でも、何を言われるだろうなあ・・・・。おれの非道な行為が明らかになって、ぶん殴られるのかもしれない・・・・」
「どうだろう」
「な、タカヤン、一つお願いがある」
「何?」
「おれ、一人で行ける気がしないんだ。君も富士宮についてきてくれないか」
「ハハハ、世界中を一人で歩き回っていた男がなんだよ。弱気になって」
「こればっかりは、さすがに・・・・。途中心臓発作でぶっ倒れるかも知れないから、君がいてくれたほうが安心だ・・・・」
「滅相もないこと考えるなよ」
「君の都合のいいときでいい、すべて君の予定に合わせるから、どうか一緒に、頼む」
「もちろん力になるさ。けどな、ひとつ条件がある」
「条件?」
「亡き親父の残した別荘が沖縄にあるんだ。数十年まったく放ったらかしなんだけど、向こうの別荘が今どういう状態なのか一度実際に見ておきたくて。そのとき一緒についてきてくれないか。沖縄は君の庭だろ。誰か案内役がいると楽だから」
「お安い御用だ。もちろん、案内するよ」
孝臣は少し改まって言った。
「実は・・・・、おれも頑張って一歩前に進んだんだ。君に息子のことを話したことがあるだろ? 妻と別れて以来一度も連絡を取っていなかった息子のこと」
「ああ」
「弁護士を通じて離婚した妻に連絡したら返事が返ってきて――」孝臣はそこでフフフと笑った。「息子はなんと沖縄にいるらしんだ。詳しいことはメールに書いてなかったけど、沖縄でレストランの経営のようなことをしているということだった」
「沖縄に行けば、息子さんにも会えるかもしれないということか」
「そういう可能性もある」
「ちょうどいいじゃないか。沖縄のことはおれが力になるから、富士宮のことは力になってくれ。相互扶助ということで」
「うん、わかった。まずは君の件からだな」
富士宮に行く日程を決めた。
八
純之介は早朝の暗いうちに起きて旅の身支度を整えた。出かける前から緊張感が高まる。こんなに緊張を感じるのはいつしかぶりだろう。前日紗夜子に遠出する旨を伝えようかどうか迷ったが、理由を訊ねられたら困るので結局言い出せなかった。「前妻に会いに行く」なんて口が裂けても言えない。しかし、このまま何も言わずに遠出するのもどうかと思い、ダイニングのテーブルに虚偽のメッセージの紙片を置いた。
『――友人が急病とのこと、見舞いに行ってきます。今晩中には戻ってくると思います』
孝臣との待ち合わせの名古屋まで車で行き、名古屋から新幹線に乗って富士市へ行く。ずいぶんハードな旅になりそうである。真っ暗の玄関を出て車に乗り込んだ。
「ん・・・・」
車の助手席に人の気配を感じた。
「ぎゃ!」
思わず大声を上げた。確かに黒い影が助手席に座っている。
「誰!?」
後退りしながら声を震わせて言うと、黒い影が振り向き白い顔を向けた。心臓が止まりそうになった。
「どこに行くつもり?」
紗夜子だった。
「さ、さ、紗夜子さま・・・・」別の意味で怖くなった。「いや、いや、あのう・・・・、急遽友人の墓参りに行くことになりまして・・・・」
動揺しすぎて、メッセージの内容とまったく違う考えてもいなかったことを口走ってしまった。
「あら、そう、じゃお気をつけて」
紗夜子はそれ以上何も問うことなく、車から出て家に入っていった。
――何だったんだ・・・・。
動揺が収まらなかったが取り敢えず車を発車させ、運転をしながら気持ちを落ち着かせた。
――でもなぜ紗夜子さまは車の中に? いつも車の中で寝ておられるのか?
紗夜子の行動は動機や意図が理解できないことが多々ある。純之介は今日の予定や時雨のこと、そして紗夜子のことなどをあれこれ考えながら長時間の運転をした。
「――やあ、おまたせ」
孝臣と名古屋駅で落ち合い、新幹線に乗り込んだ。
「なんか新鮮な気持ちだね」
孝臣が愉快そうに言った。
「新鮮って?」
「こういう旅がよ。なかなかないじゃないか。失われた記憶を探す旅なんて」
「君は他人事でおもしろいかもしれないが、おれにしてみれば結構勇気がいることなんだぜ」
「おお、それはスマンスマン、精神科医が付き添うということで許してくれ」
孝臣は新幹線が発車すると弁当を広げ、缶ビールの栓をシュッと開けた。彼はまるで観光気分のようだが、純之介はそういう気楽な気持ちには到底なれなかった。とにかく時雨に会って言葉を交わすまでは気を緩めるわけにはいかない。
「奥さんにはなんか話した?」
孝臣が嫌なところを突いてきた。
「いや、言い出しづらかったから・・・・」
純之介は口ごもって言った。
「何にも聞いてないのか?」
「関係性が崩れてしまう気がして・・・・」
「そうか・・・・。ま、夫婦関係はいろいろあるからな」
孝臣は精神科医らしく相手のプライバシーを尊重し、それ以上は入ってこなかった。
数時間後、新幹線は富士宮に着き、小さな駅から外に出た。快晴の空だった。雪をかぶった富士の雄大な姿を眺めると畏敬の念を覚えた。旅の無事を祈ろうと思ったが、孝臣が慌ただしく先へ先へと足早に歩くものだから、手も合わせていられなかった。孝臣に任せておけばオートマチックに事が進んでいくが、悠長にボンヤリとしている時間は与えられない。駅前でレンターカーを借り、時雨の実家”三浦家”へ車を走らせた。
「昔のこと、何か思い出したか?」
運転中、孝臣が訊ねてきた。
「いいや、まったく」
純之介は見知らぬ土地を走っている気分だった。カーナビに忠実に従って運転しているだけである。しかし、しばらく走っていると、昔の匂いが蘇ってきたような気がしてきた。「なんか覚えているぞ」
さらに進むと近所の散歩コースだった馴染みの神社が目に入った。
「あ、懐かしいなあ・・・・」
ここからはカーナビに頼る必要はないと思った。気持ちを高ぶらせながら、ゆっくりと徐行運転して三浦家に向かっていった――。だが、近辺の同じルートをぐるぐると周るだけで、どうしても三浦家にたどり着けなかった。三浦家は平垣に囲まれた昔風の大きな一軒家だから見逃すはずはないと思うのだが・・・・。
「おかしいなあ・・・・」
「ここら辺なのか」
孝臣は、困惑する純之介の顔を覗き込んだ。
「そうなんだけど、家々が改装されて町が変わってるようなんだ・・・・」
「三十年以上も前のことだからなあ」
庭の手入れをしていた年配の男性がいたので、車から降りてその人に声をかけた。
「すみません。ちょっと知り合いの家を探しているんですけど、教えていただけませんか」
「はい、はい。どちらのお宅をお探しで?」
気安く応じてくれた。
「三浦さんってご存知でしょうか。造園業をされている」
「三浦さん?」
「ええ」
「そこの空き地――」男性が斜向いを指差した。「三浦さんのところは、しばらく空き家になっていたんだけど、数か月前に解体したんですよ」
「解体したんですか・・・・」
考えてみれば、時雨のご両親が生きておられたら九十代か八十代、もう亡くなっていても不思議ではない。聞きたいことは時雨のことだったが、どう訊ねればいいものか、言い出しづらかった。すると孝臣が訊いてくれた。
「三浦時雨さんってご存知ですか?」
「ええ、知ってますよ。私より何歳も歳下の方ですが・・・・」
「時雨さんってどうされてます?」
「あの人はどこでどうされてたっけなあ・・・・」
男性は腕を組んで沈黙した。時雨の居所がわからなかったら、この旅はすべて白紙になってしまう。そのとき純之介は義理の兄のことを思い出した。
「時雨さんのお兄さん、勝さんがおられたと思いますが、あの方はどこに住んでいらっしゃるのでしょうか」
「勝さん・・・・。勝さんはどこに行ったっけなあ・・・・。ちょっと待ってくださいね。――おーい」
男性は家に入って家族に聞きに行った。孝臣は純之介に目配せして言った。
「そうそう、お兄さんがいらっしゃた。君の結婚式でおれも見たよ。よく思い出せたな」
「偶然思い出した。ここに来なかったらとても思い出せなかったよ」
しばらくして男性とその奥様が一枚のハガキを持って出てきた。
「お待たせしました。年賀状がきていました。今年のやつ、捨ててなくてよかった。ここです――」
純之介は年賀状を手にし、そこに書かれている住所を素早くメモしようとすると、「それを持っていってください」と言われた。
「ありがとうございます」
「この近くですよ。車で十分もかかりません」
後ろに立っていた奥様が興味深げに話しかけてきた。
「三浦さんと、どういったご関係で?」
「あ、あのう・・・・」言葉に詰まった。「昔、彼女と仕事仲間だったことがありまして・・・・。ふと今どうされているのかと思い出しまして・・・・」
純之介はさすがに昔の妻だとは言えずごまかして話した。彼女はまだ話したそうな表情をしていたが、それ以上深堀りされることを恐れ、忙しそうなふりをしてその場を去った。
「今の君の事情を手短には話せないよなあ」
孝臣は笑いながら言った。
「お兄さん、おれが三浦家にお世話になっていたとき、まだ独身だったんだ。三つ歳上だった。学生時代に柔道をやっていて、体が大きくて怖かった。家の中で顔を合わせると何だか気まずかったのを覚えている」
「長い歳月が流れて、また怖いお兄さんにお会いすることになるとはね」
「自分の業を感じるよ」
そんなことを話していると、すぐに勝の家に着いた。門に『三浦』の表札がかかっていたのですぐにわかった。
「ここか・・・・」
純之介は車から降りて、改めて家の全体像を眺めた。まだ新しそうな現代的な家屋だ。肚に気合を入れて、門のインターホンを押すと、年配の太い声が返ってきた。
「はい、はい、どちらさん?」
純之介はすぐにその声が勝の声だとわかった。
「あ、あ、あ・・・・」
どう返事をしていいものか、頭が混乱してしまい上手く言葉が出なかった。こうなることがわかっていたんだから、言葉を予め用意しておくべきだったと、この場になって思った。
「あ、あ、あのう・・・・、勝さんには、昔、大変にお世話になった者です」
「えっ、誰?」
「あのう、わたくし、どうご挨拶すればいいのか・・・・、時雨さんと結婚していました伊島純之介と申します」
「えっ、えっ、えっ・・・・」
インターホンの声からも、勝の動揺が伝わってきた。
「どこからお話をすればいいものか・・・・、わたくしの記憶がちょっとおかしくなっていまして・・・・」
純之介がそんなことをたどたどしく話していると、玄関の扉がバッと開いて、三十年後の、三十年分歳をとった勝が仁王立ちになって、呆然とした目でこちらを見つめてきた。
「あ、どうも、ご無沙汰しております。突然お邪魔しました」
純之介はバツが悪そうに深々と頭を下げた。
「えっ、何? なんで今さら・・・・」
「彼は、ぼくの友人で精神科医の斎藤君です・・・・」
純之介はすぐに本題に入らず、緩衝材の役目も兼ねて咄嗟に孝臣を紹介した。勝は孝臣の姿にはまったく気にもとめず、ツカツカと純之介に前に歩み寄り、まったく考えてもいなかったことを震える声で言った。
「君はインドで行方不明だったのに、なんで今ここに・・・・」
純之介は意味がわからなかった。
「インドで・・・・」
「き、き、君、幽霊か・・・・」
勝の目は半ばおののいている。
「インドというのはどういうことでしょうか・・・・。もうしわけありませんが、まったく思い出せません・・・・」
「思い出せない?」
二人は互いに動揺した目を見合わせたまま固まった。純之介はこの異様な空気に耐えきれず、とにかく本題に入ろうと時雨のことをドモりながら訊ねた。
「し、し、時雨さんのことをお聞きしたくて、突然やってきたのですが。か、か、彼女は今、ど、どこに住んでいるのか教えていただけないでしょうか・・・・」
勝は言葉を被せるように言った。
「お聞きしたくてって、妹は去年、癌で亡くなりましたよ」
純之介はフーと息を吐き、消え失せるような声で言った。
「時雨さん、亡くなっていましたか・・・・」
「昨年癌が発見されて緊急入院となり、しばらくのうちに帰らぬ者となり・・・・」
勝は一旦話を止め、純之介の目をきっと見つめた。
「病床、ずっと君のことを話していたんだよ」
「ぼくのことを、ですか・・・・」
「昔、君がインドで失踪してから、妹は何度も何度もインドに行って君を探したんだ。だから何歳になっても、最後の最後まで、君のことが頭から離れなかったんだろう。インド政府の調査では、君のビザの期限は半年なのに、君はあれからインドを出国することなかった。なのに、今になって・・・・」
「インドで失踪・・・・。じゃあ、ここにいる私は何なんでしょう・・・・」
「それはこっちのセリフだ。どうやってインドを出国して、いつ日本に帰ってきたんだ。妹に何の連絡もしないで!」
勝の声が急に大きくなった。
「本当にぼくは何も覚えていないんです・・・・」
「覚えていないって! どんな悪巧みをして今までのうのうと生きてきたんだ!」
純之介は腰が抜けるように膝をついて頭を垂れた。横にいる孝臣もなんと声をかけていいかわからない。
「君がここに来たのは偶然か必然か、今日は妹の命日だ。ちょうど一周忌だ。今から墓参りに行こうと思っていたら、君が現れた。一体何なんだ。どういう因縁なんだ・・・・」
そこで孝臣がフォローした。
「彼の記憶には空白がありまして、ある期間のことがまったく思い出せないんです。信じていただけるかどうか、彼はぼくの学生時代の友人でして、先日、三十年以上ぶりに偶然再会して、時雨さんの名前を思い出させたのはわたしなんです。そこのところを御理解頂けたら・・・・」
「ようわからん、ようわからん。どういうことだか、ようわからん。とにかく一緒に来てくれ。今から妹の墓に一緒に行こう」
勝の車で近所の菩提寺の裏にある墓地へ連れて行かれた。墓地は最近新しく増設されたようで、あっけらかんとして静まっている。墓地を歩き、勝は黒い墓石の前で立ち止まった。墓石には『三浦家』と彫られている。
「ここですか・・・・」
純之介は夢を見ているような気持ちになった。墓石の裏には両親の名前とともに、『時雨』と刻まれていた。
「君が失踪して六年後、妹は君の”伊島”から旧姓に戻したんだ。毎年毎年インドへ行って、日本大使館と連絡を取り合って、それでも行方不明だったから・・・・」
「そうでしたか・・・・」
「君のことを、君のことを、妹は死ぬ間際まで話していたんだよ。まだどこかで生きている気がするって。そしたら、本当に・・・・」
「すみません・・・・」
純之介は何も言葉が出なかった。
「君が行方不明になってから、時雨は一人でピザ屋をオープンさせて、君との夢を実現させ、亡くなる一か月前まで店を一人で切り盛りして頑張っていたんだよ。店には、君と仲良く写った写真を額縁に飾って。それなのに・・・・」
勝の声は涙声になっていた。
「再婚はなさらなかったんですか」
孝臣が静かな口調で訊ねた。
「ええ、再婚はしませんでした。どういう気持だったか、そのことを詳しく聞くことはありませんでした・・・・」
「もう少し早く来ればよかったのですが・・・・」
純之介が絞り出すような声で言うと、
「もう少しではなく、三十年前にだよ・・・・」
勝は力ない声で返した。
「――南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・」
純之介は墓石に手を合わせた。墓石に手向けられた線香の煙は音もなく宙空へ真っ直ぐに線を引くように昇り、ある所で分散して消えていく。そんな線香の煙を見つめながら、若き日の時雨の姿を想い目を閉じた。彼女は純之介の顔を、底が抜けたような空虚な目で見つめながら呆然としている。
「君は一人でピザ屋を頑張ってきたんだってね。君の人生を、おれは随分振り回してきたようだ。本当にすまなかった」
心の中でそう言うと、沈黙していた時雨が堰を切ったように返してきた。
「インドからどうやって出国したの? イタリアには行ったの? 旅が終わってどこでどう生きてきたの?」
別のパートナーと沖縄でピザ屋を営んでいたとはとてもこたえられなかった。時雨との対話の妄想に耐えきれず目を開けると、勝の強い視線がこちらに向けられていた。
「君は、旅が終わってどこでどう生きてきたんだ?」
勝が、時雨の霊に憑依されたかのように訊ねてきた。
「ぼ、ぼ、ぼくは半狂人です。今はうまく説明ができません。記憶がすべて繋がりましたら詳しくお伝えします」
純之介はドモりながらそう言い、深々と頭を下げた。
九
富士宮からの帰り、純之介は終始無言だった。新幹線の車中、座席後部の一点を見つめたまま身動き一つしない。孝臣は車内販売の弁当とビールを買って、純之介の座席の簡易テーブルに置いた。
「ま、元気だしましょや」
数十秒の沈黙後、「ああ」と純之介から返事が帰ってきた。孝臣は少しでも言葉が返ってきてホッとした。
「食べたいものがあったら何でも言ってくれ。ご馳走するよ」
「お茶が飲みたい」
意外にもすぐに反応があった。純之介は無表情のままテーブルに置かれていた缶ビールを孝臣のテーブルに置き返した。
「あ、君は下戸だったな」
孝臣は純之介がアルコールをまったく飲まないことを忘れていた。
「買ってくるよ――」
孝臣は座席から立ち上がってお茶を買いに行った。今は理性的に話し合える精神状態ではなさそうなので、なるだけやさしくしてあげたい。
「はい、お茶」
孝臣がペットボトルのお茶をテーブルに置くと、純之介はすぐさま一気に飲み干して、空のペットボトルを孝臣の膝の上にホイと置いてまた動かなくなった。孝臣はゴミを当然のように渡されて困惑したが、苦情を言える空気でもなかったので黙って受け取った。孝臣は、ビールをちびちび飲んで酔いが回ってくると、腫れ物に触るように純之介に声をかけた。
「インドのこと、やっぱり覚えていないのか?」
ワンテンポ遅れて反応があった。
「まったく」
「イタリアへ行って、インドで行方不明ってどういうことなんだろう」
「知らん」
純之介の感情に狂いが生じているのか、ツッケンドンな物言いになっていた。
「じゃあ、君のパスポートはどうなってるんだ? スタンプが押してあるだろ」
「知らん」
「知らんじゃないだろ。それを見れば明らかだぞ」
「パスポートがどこにあるのか知らん」
「そうか、パスポートを失くしたか――」しばらく沈黙の間があり、孝臣はさらに追求した。「じゃあ、役所の手続きって、今までどうしていたんだ? 在住届とか社会保険料の支払いとか健康保険証とか、諸々あるだろ」
「病院に行ったことがないから知らん」
「税金はどうしてる?」
「妻に任せてある」
「そこに行き着くんだよなあ。すべて奥さんに繋がる」
孝臣は一息つき、弁当を広げ食べだした。
「旨いぜ。食べないのか」
「要らん」
純之介は腕を組んで、石仏のように固まったまま食べようとしない。
「何を考えているんだ?」
「・・・・・・」
返事が返ってこなくなった。
「君がインドで行方不明になったというのを聞いて、妹のことを思い出したよ――」
孝臣は弁当を食べ終わり、追加のビールを飲みながら、純之介が隣で話を聞いているのか聞いていないのか気にもとめず、ボソボソと独り言のように話し出した。
「おれに妹がいたことを知ってたか?」
純之介からの返事はない。
「実は妹はインドで死んだんだ。交通事故だった。若くしてな。勝さんの話を聞いたとき、ずっと妹のことを思っていた。時雨さんは君を探しにインドに何度も行ったって話だったな。おれもインドの日本大使館から連絡があり、インドにまで妹の遺品を取りに行ったことがある。遺品といっても、彼女を乗せたバスは谷底に落ちて激しく炎上したらしく、偶然燃えずに残っていた妹のパスポートと、小さなガラス瓶に入れられた遺骨しかなかったんだけどな。生焼けになった死体を、現地の人が習俗通り薪で火葬してくれ、遺骨を残してくれたんだ」
孝臣は今まで知人友人の誰にも話さなかった胸の内にしまっていたことを初めて他者に吐露した。胸にしまっていたことが見えない圧迫なっていたのか、言葉にしたら胸のつかえがスッと取れて楽になったような気がした。他者に話すことで妹の霊魂が供養されたのだろうか。
新幹線が名古屋に着き、駅のホームに立った。別れ際、孝臣は純之介の目をじっと見つめながら言った。
「とにかく奥さんに聞いてみることだ。二人の関係性はわかるけど、社会上の手続きがどうなっているのかぐらい聞いてみたところで、相手が不快になるとは思えないから」
「ああ・・・・」
純之介は平常に戻ったらしく、人間らしい感情のこもった返事をした。
「もし、どうしても聞きづらいなら、おれが付き添ってもやっていいし」
「で、でも・・・、妻は極端な人嫌いなんだ。家庭のことに第三者が入ってくるなんて到底無理だと思う」
そこは頑なに拒否した。
「何か進展があったら連絡してくれ。手伝えることがあったら力になるから」
孝臣はやさしい目を向け、静かな口調で言った。
「タカヤン、本当に感謝している――」純之介は姿勢を正して頭を下げた。「おれなんかのためにそんなことを言ってくれるのは君だけだ。考えてみれば昔からそうだった。君はいつも無償で親切にしてくれた。君には本当に頭が上がらないよ」
「おいおい、頭を上げろよ。何を大袈裟なことを言ってるんだ――」
孝臣は純之介の肩をポンと叩き、数秒間黙って彼の目を見つめた。
「何だろうねえ・・・・・君のことが昔から赤の他人のような気がしないんだ・・・・」
真面目な表情で言ったら急に恥ずかしくなってきた。
「ハハハ、気持ち悪いか」
孝臣は笑ってその場から立ち去った。
十
純之介の車が家に到着したときはもう夜の十時を回っていた。こんな遅くに帰宅するのは沖縄時代も含めて初めてだった。玄関のドアの鍵はかかっていなかった。ドア開けると室内は真っ暗で何も見えない。微かなお香の匂いを感じながら室内に足を踏み入れると、遠くから無事に帰ってこられたという安堵感に包まれ、生き返ったような心地がした。暗闇のリビングの電気のスイッチを点けた。
「あっ!」
ソファーに黒のガウンを羽織った紗夜子が座っていた。早朝と同様びっくりして腰が抜けそうになったが、同時に何ともいえない嬉しくて嬉しくてたまらない気持ちになった。
「おかえりなさい、あなた」
紗夜子の目がまっすぐ意味深に純之介に向けられた。
「ただいま帰りました」
挨拶を返した瞬間、純之介は今朝、車内で告げた言葉とテーブルに置いたメッセージの内容が違っていたことをハッと思い出した。その方向に話を進めてはいけないと自分自身を戒めながら、モゴモゴと言葉を濁すように今日一日のことを話した。
「早朝から出発したので疲れました」
「いい一日だった?」
「ま、ボチボチです・・・・」
紗夜子は普段、純之介の生活にまったく干渉しないのに、この日はなぜか追求してきた。
「お墓参りに行ったんでしょ」
「ええ、妻のお墓をお参りに・・・・。いや、妻じゃなくて・・・・、あのう、えっと・・・・」
タブーの領域に自ら足を踏み入れてしまった。
「あなたの奥様はいつお亡くなりになったのかしら?」
「いや、あのう・・・・、友達のお墓参りに行ってきました」
純之介はそれでも必死でごまかそうと顔を伏せて言った。
「隠さなくていいのよ。あなたに奥様がいたことは知っていますから」
紗夜子は普段どおりの穏やかな態度だった。
「いや、あのう・・・・」
言葉が出てこなかった。
「いつ、お亡くなりになったの?」
「いや、あのう、えっと・・・・」
必死で逃げ道を考えた。
「だから、いつお亡くなりになったの?」
繰り返される問いかけに、純之介は逃げ切れないと観念し正直にこたえた。
「は、はい・・・・。昨年みたいです」
「そう、生前お会いすることがあったら、さぞかし驚いたでしょうね、フフフ」
紗夜子の乾いた笑い声が純之介の耳に強く響いた。会話が途切れ、二人の間に静寂の空気が流れた。
「紗夜子さま・・・・」
純之介の中に、「もうどうにでもなれ」というヤケッパチの気持ちが起きた。
「過去のこと、お聞きしてよろしいですか?」
紗夜子の視線が無言のまま純之介の目に注がれ、時が止まった。
――ゴー
そのとき、戸外で強い風が吹き、山の木々が叫び声をあげたかのように騒然としだした。家が揺れるほどの強い風、純之介は初めての経験だった。
「何でしょうか、この風は・・・・」
その瞬間、室内は真っ暗になった。
「あっ、停電だ・・・・。どこか線が切れたのでしょうか」
風は異界からやってきたように、“ピュー”という女性の泣き声のような不気味な音をたて、家の周りを取り囲むように鳴り響いている。人間なんて虫ケラのように吹き飛ばしてしまうほどの底知れない力と何らかの意思を感じる。純之介は恐ろしくなって紗夜子に震える声で話しかけた。
「さ、さ、紗夜子さま、我々は何者かに狙われているのでしょうか・・・・」
紗夜子は純之介の言葉には取り合おうとはせず、
「明日、すべてお話するわ。今晩はここまで」
と、真っ暗闇のリビングから出て行った。
「さ、さ、紗夜子さま・・・・」
純之介は暗闇の中、ポツンと一人残された。怖くて怖くてたまらず、身動きせずにじっとしてしばらく風音を聞いていると、風はパタと止み雨音に変わった。
「風は去ったか・・・・」
一瞬ホッとしたが、今度はドアをコンコンとノックする小さな音が聞こえた。
「こんな時間に誰かきたのか・・・・。気のせいだ、気のせいだ・・・・」
自分に言い聞かせて耳を澄ませると、今度はサッシをガンガンと強めに叩いてきた。それは単なる自然現象ではなく、明らかに人為的な音である。あの不気味な風が人格化して迫ってきたのだろうか。
「どうしよう、どうしよう・・・・。中に入ってくるかもしれないぞ・・・・」
ソファーに横になって死んだように息を潜めて存在感を消した。それでもガンガンとサッシを叩く音がつづく。
「ガラスが割れたらどうしよう・・・・」
しばらくして雨が止むと、部屋の電気がパッと点き視界が広がった。
「助かったか・・・・」
慎重に耳を澄ましたが、もうサッシを叩く音はしなくなった。
「やれやれ・・・・」
上体を起こしてソファーに座り直した。ホッと息をついて目の前のテーブルに視線を向けると、そこには長い二本のヒゲを持つ黒い客人が一匹、我が物顔で鎮座ましましておられた。
「ゴキ・・か・・・・」
先日部屋に出没したときは嫌悪しか感じなかったが、今は恐怖の後だからか知らないが嫌悪感はあまりなかった。むしろ仲間のような親近感を覚える。こちらに敵対心がないためか、ゴキブリも警戒心が薄まっているようでじっとしたまま動かない。
「何だろう、コイツは・・・・」
至近距離で対峙していると、やはり気持ちが悪くなってきた。
――殺すか。
意思が働いた瞬間、ゴキブリはパッと羽ばたき、純之介の顔面に向かって一直線に翔んできた。
「ワッ!」
驚きの余り意識を失った。
十一
純之介が目覚めると、手の平サイズの小人たちが顔を覗き込んでいた。
「あっ・・・・」
体を動かそうしたが全身が何かで縛られているらしくまったく動けない。小人へ再び目をやると、彼らは黒の軍服を着た軍人だった。
「出動!」
「オーッ」
彼らは一斉に号令をかけ、純之介を下から持ち上げて移動し始めた。
「おい、どこに連れて行くんだ?」
暴れようにも身動きが取れない。小人軍事たちは真っ暗の闇へ向かって歩いていく。次第に生ゴミのような悪臭も漂ってきて、どうしてもそっちの世界へは行きたくない。
「おい、放せ。おい、コラ!」
怒鳴り声を上げて体をよじると、純之介を地面に下ろして叫んできた。
「暴れるな!」
「暴れるなじゃない! 放せ、この野郎!」
大声で叫び返し小人の軍人を睨みつけた。すると小人だと思っていた軍人は、実はゴキブリだった。
「ゴ、ゴ、ゴキブリ・・・・」
おびただしいゴキブリの群れに取り囲まれていた。細く長い触覚をユラユラと動かしながらこちらの気配を窺っている。
「何だよ、おい、やめてくれ・・・・」
ゴキブリは一斉に純之介の服の隙間に入ってきた。
「あ、あ、あ・・・・」
純之介はそこでハッと目覚めた。ソファーで寝ていた。
「夢か・・・・」
気持ちの悪い夢だった。寝覚めが悪くスッキリしない。朦朧としながら時計を見ると正午を過ぎていた。寝間着にも着替えず、シャワーも浴びず、こんなところでずいぶん長く寝ていたものだ。天井を見つめていると、昨日の濃厚な一日の記憶が蘇ってきた。――時雨のお墓、義兄の勝の顔、インドで行方不明と告られたこと、紗夜子との会話、恐怖の風、ゴキブリの攻撃・・・・。夢なのか現実なのか判然としない。フーと深く息を吐き、ゆっくりと半身を起こすと、ソファーの隅に黒服姿の紗夜子が座っていた。
「あっ」
純之介が驚いて声を出すと、紗夜子は目を合わせやさしく微笑んだ。
「おはよう」
「は、はい、おはようございます」
行儀の悪いところを見つかった童子のように狼狽した。
「身支度を整えてすぐに出かけましょう」
「は、はい・・・・」
夢のことや昨日のことが一気に吹き飛んだ。純之介はさっと直立し、急いで部屋に戻って身支度を整えた。
――紗夜子さまと話したことは夢ではなかったようだ。何か特別なことが起きるのだろうか。
外出する準備を整えて階下に降りると、紗夜子の傍らに山登り用の大きなザックがあった。
「なんですか、これは?」
純之介がザックを指差して訊ねた。
「供養するのよ」
「供養?」
「私も含めて」
「はあ・・・・」
「背負って」
純之介は言われるがままザックを背負った。いろいろ訊ねたいことが脳裏をよぎったが、何から訊ねればいいのか思考が混雑し言葉が出てこない。
「どこへ行きますか?」
「山へ」
紗夜子はいつものように簡単にしか答えてくれない。鹿の頭を埋めに行ったときと同じように藪の茂みを登っていった。空は白く曇っていた。昨晩の暴風と雨のせいか、大地がしっとりと湿っている。
「紗夜子さまは山道に詳しいですね」
純之介は黙々とただ歩いているのは気づまりだと思い、当たり障りのない会話で彼女をなごませようとした。
「昔、住んでいたから」
予想だにしていなかった答えが返ってきた。
「住んでいた? この近辺に住んでいたことがあるんですか」
「近辺じゃなくて、ここに」
「ここに?」
「あの別荘に」
「あの別荘?」
「あの家は父の別荘だったところよ」
「あ、そうだったんですか・・・・」
「実は、沖縄に住んでいた家も父の別荘だったところよ」
「そうだったんですか・・・・。そんな貴重な家族の持ち物、バイトの孝司君に譲ってしまいましたが・・・・」
「いずれ彼のものになるんだから」
「彼のものに・・・・」
純之介は紗夜子の言うことが理解できなかったが、理解できなくともしばらく時が過ぎれば次第にわかってくることもあるので、それ以上追求しなかった。紗夜子は、後ろを歩く純之介の存在を忘れたかのように淡々と斜面を登っていく。
――紗夜子さまの口から家族のことを聞いたのは初めてじゃないだろうか。今までそんなことを聞いたことも、聞けるようなタイミングもなかったが・・・・。
今日は何だかいろいろ話せそうに思えた。
「紗夜子さまのお父様はご存命で?」
純之介は普段なら絶対訊ねないであろうことを訊ねてみた。
「存命だったら百歳近くね」
「お母様は?」
「子供のときに亡くなったわ」
「そうでしたか・・・・、そうですよね、紗夜子さまにご家族がいらっしゃったら、わたしがご家族にお会いしていないなんてこと、あり得ませんよね。夫婦生活は長いんですから・・・・」
純之介は自ら”夫婦生活”と口にしたが、その言葉を使った本人がハッとした。
「あのう・・・・、ぼくたちって・・・・、そもそも・・・・、結婚って・・・・、していましたっけ?」
思い切ってタブーの領域に踏み込んだ。いや、タブーというより、そんなこと気にもとめず長年生活してきたといっていい。紗夜子はピタと足を止め、振り返った。
「後で詳しくお話するわ――」やさしい声音で言った。「場所に着いたらね」
「は、はい・・・・」
淡々と歩き出した。
――後で、か・・・・。
朦朧とした不吉を感じた。過去のことを知るべきか、知らずに楽しく生きてゆくべきか。今まで互いの過去を知ろうとせず人生が流れていたが、あるときから流れが変わって知る方向で動き出した。もう後戻りはできそうにない。後戻りができない以上、どんなことが起きようとも真実を受け入れるしかない。
森の中をどれだけ歩いただろうか、大木の多い風通しのいい場所に出てきた。歩いていたところは人の手垢のついていない野生の森の中とばかり思っていたが、朱色の朽ちかけた鳥居がポツンと前方に見えた。長身の男性だったら背を屈めなければならないぐらいの小さな鳥居である。
――あそこへ行くのだろうか。
案の定、紗夜子は鳥居に向かって歩いていった。鳥居のそばに来たとき、前方に動物が丸まって寝ているのを見つけた。
――何の動物だ?
よく見ると、それは黒猫だった。野生化した黒猫だろうか。目が合うと黒猫は異様に鋭い獰猛な目をしていた。
「ウッ・・・・」
一瞬怯んで立ち止まってしまうほどの強い眼光である。紗夜子は黒猫のことを気にも止めず鳥居をくぐり奥へ歩いていったので純之介もその後を追って鳥居をくぐった。前方の黒猫はムクッと起きて、我々を先導するかのように前を歩きだした。
鬱蒼とした林のトンネルをくぐり抜けると、木の生えていない平坦な空間に出てきた。そこには石で積み上げられた塚と小さな祠があった。
「こんなところに人工物があるんだ・・・・」
この空間は今まで歩いてきた“単なる森”とは一線を画す神聖な空気が漂っていた。森のざわめきが周囲から聞こえてくるが、遠くから響いてくる幻想的な音として感じられる。紗夜子さまが一緒でなかったらこんな薄気味悪い所、とても一人ではいられない。
「あれ? 黒猫は?」
純之介は周囲を見回して黒猫の姿を探したが、どこへ行ってしまったのか姿が見えなくなっていた。
「トモダチを出しましょう」
紗夜子は純之介に目を向け、ザックを下ろさせた。中には彼女のコレクションである動物の頭蓋骨が入っていた。丹念に磨かれた頭蓋骨の一つ一つを慎重に取り出して地面に並べた。
「塚の辺りにトモダチを埋めますから、列にして並べられるよう穴を掘って頂戴」
「はい」
純之介は穴を掘ると、紗夜子は一つ一つの頭蓋骨が重ならないよう穴に入れて、上から土をかぶせた。
「大切なコレクションをどうして埋めてしまうんですか?」
純之介は紗夜子の顔を覗き込みながら訊ねた。
「さよならのときだから」
紗夜子がそう言うと、かぶせた土がモゴモゴと動いたような気がした。
「うわっ! 動きましたよ・・・・」
純之介は恐怖を感じて後退りした。
「恐れることはないのよ。彼らは私たちに力を与えてくれた大切なトモダチですから」
「力を与えてくれた・・・・」
紗夜子が合掌し祈りを捧げたので、純之介も真似をして手を合わせた。
「それは、どうします?」
純之介は紗夜子の傍らに一つだけ残された頭蓋骨を見つめて訊ねた。
「これは特別なもの」
紗夜子が意味深に言った。
「特別ですか?」
「これは母親だから塚の上に置いておきましょう」
「そうですか、母親ですか。――ん? 母親?」
「そう、母親」
純之介の背中がすっと冷たくなった。確かにその頭蓋骨だけは動物のものには見えない。猿にしては大きすぎるし、そもそも犬歯がない。
「全体が見渡せる場所がいいわ」
紗夜子は頭蓋骨を手にし塚の中ほどに置いた。
「母親って、どういうことでしょう・・・・」
純之介がこわごわ訊ねると、紗夜子は静かな口調で語りだした。
「母はね、私が幼少の頃、この場所で亡くなったの」
「この場所で・・・・、ですか?」
「ええ、母はここで自死したのよ。私を連れてね」
「えっ? どういうことでしょう・・・・」
「私が幼年期の頃、父と母は離婚した。喧嘩が絶えない夫婦だった。父は社会的な地位を得て責任ある立場にいたけれど、そのストレスと不安で、裏では酒浸りの毎日だった。家庭内で暴力も頻繁に振るうようになり、母はそんな毎日の生活に耐えきれず離婚したの。家業を継ぐであろう兄は父のところにおいて、わたしだけを引き取って家を出た。母とわたしは、慰謝料として受け取った今住んでいる別荘で暮らしだした。最初は毎月養育費が送られてきたけど、それが滞るようになり貧困生活に陥った。母はぜんそく持ちで病弱だったから働きに出ることができない。ある日、とうとう生活費が尽きてしまい、どうしようもなくなって、母は私を連れて山に入った。山の中を歩きに歩き、たどり着いたのがここだった。母は大量の睡眠薬を服用してここで息絶え、私は一人残された――」
――カー、カー、カー
突然カラスの群れが周囲から激しく鳴き始め、木の枝からいっせいにバサバサと飛び立っていった。カラスがいなくなって静寂となり、次の瞬間、昨晩と同じ“ピュー”という不気味な風音が上空を旋回するように吹き始め、地面の落ち葉を吹き飛ばした。純之介は埃が目に入らぬよう目をおさえ、身を小さくしてしゃがみ込んだ。風だけでなく、あらゆる方角から「ウー」といううめき声のような声も聞こえてくる。異様な雰囲気となった。
「さ、さ、紗夜子さま、大丈夫でしょうか・・・・」
紗夜子は風のことも、うめき声のことも、何も気にならないようで、直立したままじっとしている。風が少し収まると紗夜子は話を続けた。
「母の死後、私は一人、ここで幾晩もしゃがみ込んでじっとしていた。どうすることもできなく、どうする気持ちも起きなかったから。ある日、目の前に白い煙のようなものが現れた。たくさんの青い火の玉とともにね」
紗夜子の話にリンクするように、彼女の背後の塚の前に白い煙が立ち上りユラユラと動いた。
「し、し、白い煙が・・・・」
純之介は目を見開いたまま恐怖で体が動かなくなった。
「山の神様よ」
紗夜子は何ら動揺した様子はない。
「山の神・・・・」
「山の神様はわたしのことを憐れんでくださり、助けてくださった」
「そ、そ、そうでしたか・・・・」
純之介は白い煙を直視できず目を伏せた。
「山の神様は私に力も与えてくださった。異界と交信する力や、死霊を蘇らせる力をね」
「だ、だから、今まで・・・・」
「私にとって、この山の木々、動物、鳥、虫、落ち葉の一枚一枚、すべてトモダチなの」
「だからトモダチなんですか・・・・」
「そういうこと」
「この深い山から幼少の紗夜子さまは、その後どうやってお戻りに・・・・」
「覚えていないわ。気がついたら別荘に一人でいた。その後、宅配の人に発見されて、父のもとに帰された。町に住むようになっても、山の神様のこと、母のこと――、私は誰にも話さなかった。だから、母のことは書類上”行方不明”として扱われ、真実は誰も知らない。母のこの頭蓋骨は、わたしが大人になってからここにやってきて持ち帰ったもの。いつまでも成仏できない母の魂が可哀想だったから」
森はすべての音を吸収したかのようにシンと静まった。純之介は腰が抜けたように大地に四つん這いになっている。紗夜子は純之介に目線を合わせられるよう、しゃがみこんで膝を着いた。
「そしてあなたに話しておかなければならなかったこと・・・・、あなたはどこまで思い出すことができたの? あなたの記憶には空白があったはず。正直に話して」
「は、は、はい・・・・」
純之介は、紗夜子には何も隠し事はできないと悟った。過去のことを洗いざらい話すしかない。
「ぼくは二十代のとき、時雨という女性と結婚した後、イタリアの友人から結婚式の招待を受けて外国に旅立ったことまでは思い出せました。だけどそれ以後が・・・・」
「じゃあ、目を閉じて・・・・」
純之介は、紗夜子に両手を包み込むように握られると、体中の緊張が弛緩してゆき、なんともいえない穏やかな気持になった。脳内にそよ風が吹き抜けるような心地になり、閉ざされていた記憶の扉が開かれた――。
十二
おれはイタリアへ日本から直接行くこともできたがバンコク経由で行くことに決めた。タイは以前に何度も足を運んでおり、好きな国だったからだ。物価も安かったし、飯は旨いし、休息するには最適なところだった。バンコクからチェンマイへ寝台列車で行った。チェンマイはお寺の多い町でバンコクよりもさらに物価が安い。
チェンマイ市内を散策中、落ち着いて涼めそうなコーヒーショップがあったので、その店に入ってアイスレモンティーを注文した。窓際のカウンター席に座わり、振り返って店内をぐるりと見回すと、後方の奥の席で日本人らしき長い黒髪の女性が一人、何か書き物をしているのが目に入った。透明感のある美しい女性だった。黒いノースリーブのワンピース姿、肩口から見える白い肌は木目が細かい。くすんだ空間に一人だけ発光しているようだった。
――声をかけようか・・・・。
強い衝動が起きたが、同時に時雨の顔が頭に浮かんだ。おれを元気づけようと海外に送り出してくれた彼女に対し、何だか後ろめたい気がする。おれは声をかけるのを諦めた。
通りを眺めながらゆっくりお茶を飲んで休息した後、店から出ようと立ち上がった。黒髪の日本人らしき女性のことが頭から離れず、最後にもう一度後方に目をやると、彼女は伏せていた顔をおもむろに上げ、偶然視線がぶつかった。
――あっ
視線の衝突はチカっと体感に感じられるほど強烈なものだった。その瞬間、考える間もなく反射的に声をかけた。
「日本の方ですか?」
彼女は無言でじっと見つめ一呼吸の間をおき、一言だけ小さく言った。
「ええ」
素っ気ない返事に「ずいぶん警戒されているんだな」とちょっと残念な気持ちがしたが会話をつづけた。
「お一人ですか?」
「一人に見えます?」
奇妙な切り返され方をした。
「一人にしか見えませんが・・・・。あっ、誰かお連れの方とご一緒でしたか」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味で・・・・」
戸惑っていると、女性はフフフと笑った。今まで人生で見たことがないやさしい笑みだった。素直な人柄がにじみ出てくるような笑みといったいいか。その笑みを見て、彼女に“会話の許し”を得たような気がして二重に嬉しくなった。
「どういうことですか?」
こちらも笑いかけながら再度訊ねると、女性は「どうぞ」と対面の空いた席を勧めてきた。
「あ、どうも」
席に座ると、女性は微笑みながら小声で言った。
「さっきその通りを、楽器を鳴らしながら行列が通り過ぎたの見ていませんでした?」
「ええ、見ていましたよ。あれは何だったんでしょう」
「あれはお葬式の行列じゃなかったかしら」
「あ、そういえば、先頭の人が女性の写真の額縁を持っていました」
「三十代の女性じゃありませんでしたか」
「ええ、写真ではそんな感じでした。――ああ、そういうことか、あの女性がお亡くなりになったのか」
「学校の先生をされていた方だったみたいです。パーティーのとき、心臓発作を起こして急にお亡くなりになったようです」
「どうしてそんなに詳しく知っているんですか? ――あっ、そうか、お知り合いの方で。あなたもお葬式に参加されていたんですか」
女性の黒い服装を見て言った。
「そういうわけじゃなくて・・・・。わたしは単なる旅行者です」
「じゃ、どうして・・・・」
「さっきその席に座っていらっしゃったから」
「この席?」
座っている自分の椅子を見つめた。
「ちょっとお話したの」
「えっ・・・・」
即座に立ち上がって、誰もいない席を見つめた。背中にゾクッとするものを感じた。
「何か・・・・、見えるんですか?」
彼女の目を覗き込みながら訊ねたが、彼女は笑って何もこたえなかった。彼女の視線は自分の肩口に注がれているような気がした。
「もしかして、その亡くなった女性がぼくに憑いているわけじゃないですよね・・・・」
おそるおそる訊ねると、
「ご両親――」
彼女は小さく言って目を伏せ、ティーカップに口をつけた。体全身に電気が走ったような気がした。
「お、お名前をお聞きしていいですか」
「紗夜子です」
「ぼくは純之介といいます」
いろんなことをお喋りした。――チェンマイに来た経緯、今後の旅の予定、カルチャーショック、安宿の情報など。彼女はあと数日チェンマイで過ごし、バンコクへ戻ってインドへ飛ぶと言った。
「ぼくもインドへは何度か行ったことがありますよ」
「どうでしたか」
「なんでもありの混沌とした、清も濁も、生も死も、聖も性も、人も動物も、すべて飲み込んだようなところがありますね」
「例えばどんな感じですか」
「インドは宗教的なお国柄、罪を洗い流すためか、魂を清浄にするためか、ガンジス川で沐浴している人が大勢いるんです。その数十メートル下流で遺体を薪で燃やして火葬していて、その数十メートル下流で衣類を洗濯していて、そのまた下流で髪を洗ったり皿を洗ったりしている。川沿いを歩くと、彼らの人生と生活がすべて見えるんです。それに、町を歩けば牛が道路に寝そべっていて、ゲストハウスの窓を開けると猿が寄ってくる。そんな牛たちが道路に脱糞すると、少女がそれを拾い集めて燃料として使う。都会の街の真ん中で人と動物が共存しているんです」
「おもしろそうですね」
「インドへ行くと、好きになるか嫌いになるか、意見が真っ二つにわかれるようですよ」
「好きになった派ですか」
「ええ、だから何度も行ったわけですが。いや、“呼ばれた”わけですが」
「呼ばれた?」
「インドへは“行く”んじゃなくて、“呼ばれる”ってよく言われますね。他力的な感じと言ったらいいのかなあ。インドのあの灼熱の、あの不条理な、あの混沌とした空間に放り込まれて、揉みくちゃにされ、脳がシャッフルされると、”ああ呼ばれたな”ってそんな気がするんです。紗夜子さんも行けばわかりますよ。ああ、インドに呼ばれたなって」
彼女は目を伏してフフフと小さく笑って言った。
「インドに限ったことじゃなく、人生そのものも“呼ばれた”っていう感覚があります」
「そうなんですか。運命論的なんですね。実はぼくも常日頃、予めに仕組まれた運命のレールの上を歩いているような感覚がどこかにあります。自由になろうとすればするほど運命に従っているような不思議な感覚。そういう人間がインドに呼ばれるんでしょうか――」
彼女が控えめな態度で話を聞いてくれるためか、おれは調子づいて一人で喋り散らした。さっき会ったばかりの、生まれも育ちも年齢も性別もまるっきり違う相手だけど、気のおけない親友と話すかのように何でも話せた。言葉が心の深いところで通じ合っているような気持ちになった。時間を忘れて話し込んだ。
翌日翌々日も一緒に過ごした。市内のお寺を自転車で周ったり、山にある金色の寺院へ乗り合いバスで行ったり、車を借りて郊外のゾウキャンプを見に行ったり――。彼女は宗教的な場所、自然のきれいな場所には興味を示したが、人の多い場所、買い物、グルメには一切興味がなかった。だけどチェンマイの最後の晩だけは、人の多いナイトバザールに連れて行った。
露店を眺めながらぶらぶら歩いていると、
「これ――」
彼女はマスコット人形の露店の前で立ち止まった。毛糸で巻かれて作られた人形だった。見ようによってはミイラのように見えるが、頭の大きな可愛い人形である。様々な色やサイズのものが並べられている。
「興味があるの?」
「そういうわけでもないけど、人形がわたしを見つめてくるの・・・・」
店の売り子は「ブードゥー・ドール」と言って笑いながら祈る仕草をした。
「買いましょうよ」
おれがそう言うと、彼女はフフと鼻を鳴らして苦笑し、躊躇する素振りをした。
「思い出にぼくが買ってあげますから」
それでも彼女は遠慮する。
「色は何にします? ピンクが可愛いんじゃないですか」
ピンクを手に取ると、彼女は、
「黒がいいです」
と言った。おれは白を選んで二つ購入した。早速ブードゥー人形をそれぞれの手持ちのカバンに取り付けた。
その後、夜行バスで一緒にバンコクに戻った。旅行代理店でイタリア行きのチケットのことを訊くと、直接行くものと、インド経由のものが同じ値段だったので、予定を変えてインド行きを決めた。彼女一人でインドへ行かせるのは心配だったし、何よりももう少し彼女と一緒に時間を過ごしたかったから――。翌日に一緒にカルカッタに飛んだ。インドの旅の予定は特に何もなかったので、取りあえずカルカッタから西のバラナシに向かって仏跡を巡った。
その記憶までで途絶えた・・・・。
十三
純之介はゆっくりと目を開けた。懐かしい記憶が蘇り目を潤ませている。
「タイで若き日の紗夜子さまに出会い、インドの仏跡へ行ったところまでは思い出せましたが、そこで記憶がストップしました。そうでした・・・・、紗夜子さまとインドへ行ったんだ・・・・」
純之介の手はまだ紗夜子に柔らかく握られている。
「そこからは知らなくて当然、わたしが説明するわ」
「紗夜子さまとチェンマイで出会ったんでしたね。温かい気持ちになりました、フフフ」
純之介は紗夜子の目を見つめて微笑んだ。あの頃の思い出にもうしばらく浸っていたい気持ちだった。
「ここからは肚に力を入れて聞いて頂戴ね」
紗夜子は、気が緩んでいた純之介に釘を刺すように言った。純之介はそう言われても、どんな思い出が自分の中から出てくるのか楽しみな気持ちだった。
「バラナシからね――」
紗夜子が囁くように話し始めた。
「わたしたちは長距離バスに乗った。お釈迦様がお生まれになった“ルンビニ”というインドとの国境近くにあるネパールの町へ向かって。乗車当初は満席だったけれど、夜が更けていくと一人二人と下車していき、夜明け頃にはわたしたち以外、乗客は誰もいなくなっていた――」
「あ、そうでした。バスに乗った記憶が蘇ってきました。窓のないオンボロバスで、荷物が天井にもいっぱい積まれていて、後部座席の方にはポリ容器に入ったガソリンも積まれていて、車内はガソリン臭かった気がする」
純之介は言葉を挟んだ。
「夜が白白と開けてきた頃、バスの運転が怪しくなってきた。右に左にゆらゆらと蛇行する。運転手が居眠りしているとすぐにわかった。危険だからすぐに降りようとあなたに伝えようと思ったけれど、あなたは隣でぐっすり眠っていた。わたしは座席から立ち上がり、”ストップ、ストップ”と叫んだけれど不安定な運転は変わらない。運転手の間近から声をかけようと通路を歩き出そうとしたとき、バスは山沿いの道に入って行った。山肌を縫うようなカーブで車体が大きく揺れる。そんなとき・・・・」
紗夜子はここで話を一旦止めて純之介の目を見つめた。
「もしかして、事故ですか」
純之介は話の流れから想像できた。
「そう――、バスはガードレールに突っ込んで崖下に転落した。転落した衝撃でバスは炎上し爆発した」
「ぼくたちは・・・・」
「わたしたちはそこで焼け死んだ」
「えっ? 焼け死んだ?」
「ええ」
「死んだ?」
「そう、荷物も含めてすべて燃えてしまった。跡形もなく・・・・」
純之介は意味がわからなかった。
「だけど、ぼくはこうして――」
紗夜子の手をほどき、自分の両手の平を見つめた。手の平はほんのりと赤みがあり、ピンクの生命線がくっきりと見える。なによりも今生きているという実感がある。
「じゃあ、この肉体は?」
「その肉体は・・・・、その肉体に見えるものは幻想」
「幻想・・・・」
「わたしの思念がそう見せているだけ」
「紗夜子さまの思念・・・・」
「バスが崖から転落する瞬間、わたしはあなたの霊魂を人形へ移した。かばんにぶら下がっていた人形が偶然目に入ったから。そしてわたしも人形に入り込んだ。わたし自身は生きることに執着はなく、死んでもいい気持ちだったけど、わたしが死んでしまったらあなたを蘇らせられないから、わたしも生きる道を選んだ」
「どうして、ぼくなんかを生かそうと・・・・」
「あなたのことが気の毒だったから。あの年齢で、あの若さで、あなたは死ぬに死にきれないでしょ。まだやりたいこと、体験したいこと、学びたいことがあったでしょ」
「それはそうですが・・・・」
「あなたは珍しい人だった。お金や社会的な地位にまったく興味がなく、自由に生きている人だった。自由に生きて、自分の中の気づきを大切にする人だった。そんなあなたが短い生涯で亡くなるのは憐れに思えた。だからもう少しあなたに、“生きる”という神秘を味わわせてあげたかった。そしてあなたがどう生きて、どう振る舞い、どう感じるのかを観たかった」
「だからぼくは過去を忘れて今まで生きていたんですか・・・・。死んでいることに気づかずに・・・・」
「死んでいるけど生きている。ある期間の過去とは切り離されて生きている。いや、生きているけど書類上は死んでいる。あなたが自分自身の主観的存在と客観的事実の不整合に気づく日まで、いつまでもつかと思ったけれど、――あれから三十四年、生きてこられた」
「じゃあ、ぼくの本当の死とは、何なんですか・・・・」
紗夜子はザックの中から木の箱を取り出し、その中から人形を二体とどんぐりを出した。――人形はあのときのものだった。チェンマイの露店で買ったブードゥー人形。焼け焦げてボロボロになっていて少しでも手荒に扱うとバラバラに分解してしまいそうである。
「手を広げて頂戴――。この白いのがあなた、この黒いのがわたし、これはあなたの親友のどんぐり――」
純之介の右の手の平に白い人形とどんぐりが、左の手の平に黒い人形がやさしく置かれた。
「これらをどうすれば・・・・」
「あなたがこの世を去りたくなるその日まで、あなた自身で大切にして頂戴」
「世を去りたくなる日まで・・・・」
「死ぬ準備が整ったとき、誰かに人形を握りしめてもらえばすべてが終わるから」
「すべてが終わるんですか・・・・」
「ええ」
森はいつしか、あらゆる生物が沈黙したかのように静まっていた。何も聞こえない。何も動かない。真空状態に放り込まれたような静寂――。
「わたしはお先に――」紗夜子は仰向けに横になり両手を組んだ。「大地に帰ります」
「えっ、今ですか?」
「ええ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください――」純之介はうろたえた。「今、この世を去る必要はないじゃないですか。今日じゃなくてもいいでしょ」
「今日なの。去るのは今なの。さあ、黒い人形を握って頂戴」
紗夜子は覚悟が決まっているようだった。純之介は手の平に乗せられた黒い人形を見つめた。
「どうしてぼくが紗夜子さまの命を絶たなければいけないんですか。ぼくにそんなことできるわけがないじゃないですか」
「その人形はね、自分で自分のは潰せないの。誰かに潰してもらうか、自然に朽ち果てるまで待つかしかないの。そういう摂理なの」
純之介が試しにそっと右手の白い人形を握ろうとしたが、手が固まったようになってまったく動かなかった。
「でも、どうして紗夜子さまが先に逝ってしまうんですか。ぼくは紗夜子さまに生かされている人間ですよ。ぼくが先に逝くべきじゃないですか」
「あなたは死ぬ準備が整っているの?」
「それは・・・・」
「死が怖いんでしょ」
「そうですが・・・・」
「それにもう一つ、あなたには大切な使命があるの――」
紗夜子は上体を起こし、純之介の手の平のどんぐりを指でちょんと突ついた。
「わたしはこの人にはどうしても会えないの。あなたからこの人へ、今わたしが話した呪術の秘密を伝えて頂戴ね」
「どうして会えないんですか?」
「わたしはすでに死んだ人、彼に会うと彼の中の整合性が崩れるから」
「整合性が崩れるって・・・・」
「あくまで、わたしたちは世界の歪みに生きている人間。世間の人たちの常識や世界観を壊しちゃいけないの。それが呪術の掟なの」
そのときまた、”ピュー”という不気味な音の風が吹き、落ち葉や土埃を吹き飛ばした。どこからともなく低い笑い声のような声が響いてくる。
――また声が聞こえてきた。何だよ・・・・、こんなときに・・・・・。
純之介は泣き出したい気持ちだった。落ち着かずキョロキョロと周囲を見回すと、祠の屋根の上に黒猫がいるのを見つけた。黒猫は身を丸め、冷徹な鋭い目線をこちらに向けている。
「あんなところに・・・・」
黒猫の異様な雰囲気、異様な存在感――。さらに周囲にオーロラのような白い霧がかかりユラユラと揺れ出した。
「時が来たわ――」紗夜子は再び大地に仰向けになって両手を組んだ。「さあ、人形を握って頂戴」
「さ、さ、紗夜子さま・・・・。もう少し、もう少し、一緒にいましょう。ぼくは、もう少し、もう少しだけでいい、紗夜子さまと一緒にいたいんです。あなたといる貴重な時間をもう少し・・・・」
紗夜子はゆっくりと両手を差し出し、純之介の手を包み込んだ。
「あなたに出会えてよかったわ。あなたがいなかったら、わたしはこの世界に、この個体として、この身体を持って、こんなに長く生きていられなかった。あなたに出会えたおかげでいろんなことが体験できた。本当によかった。あなたに出会えたことを心から感謝するわ・・・・」
紗夜子の目は深く澄んだ慈悲に溢れた目、湖の底のような目をしていた。純之介は湖に吸い込まれていくような気持ちになり――、
「握りたくない、握りたくない、あ、あ、あ――」
意思に反し左手が徐々に握られいく。紗夜子は目を閉じた。
「嫌だ!」
純之介の手の内で人形がグシャリと潰れていく感触がしたその瞬間、紗夜子の体は白い粉雪がフワッと拡散するかのように消えて失くなった。
「紗夜子さま・・・・」
周囲はただの森となった。湿った薄暗い森――。握りしめた手を広げると、粉々になった人形の黒い燃えカスが残っていた。純之介は大地にひれ伏した。
十四
孝臣はこの日、久しぶりに墓参りに行った。墓場は自然豊かな山際にあり紅葉で色づいている。誰もいない墓場は静かで、枯れ葉を踏む自分の足音がザクッザクッと小気味よく耳に響く。思えば数年墓参りをしていなかった。斎藤家の墓石の敷地は草が繁茂し、墓石自体も異常に汚れていた。黒い粘菌が墓石一面を覆い、グレーの墓石の地が見えなくなっていた。墓石掃除に大分手間取った。きれいになった墓石に花と線香を手向け、手を合わせ黙祷していると、少年時代の記憶が脳裏に蘇ってきた。
――秋休みの雲ひとつない好天の日、高山の別荘で妹と山に入ってどんぐり拾いに夢中になっていた。「もっともっと」と欲を出し、山の奥へどんどん入っていく。クヌギの大木を見つけ、急斜面を這いつくばって登っていたとき、握っていた手元の草が抜けてバランスを崩し、そのまま滑落した。
「あっ――」
ハッと目を開けて妄想から現実に戻った。
――あのとき、おれはどうなったんだろう・・・・。確か小学五年生だったから、妹は小学一年生。そんな小さな子が、怪我した兄を背負って下山できるわけがないし・・・・。その後、病院に行った記憶も、怪我の痛みで苦しんだ記憶もない。どういうことだ? この記憶と思われるものは妄想なのか? それとも夢の話なのか? 過去の記憶が消えてしまったり、書き換えられたりすることは誰にでも起こり得ることだが、そんなことが自分の中にもあったとは・・・・。
純之介の顔が思い浮かんだ。
――そういえばジュンちゃん、どうしているだろう。あれから何も連絡がこないが・・・・。
孝臣は近々沖縄の別荘を見に行こうと予定を立てていたが、そのときふっと高山の別荘へ行こうと気持ちが変わった。高山で純之介に会い、直接顔を合わせて話を聞きたい。どこまで奥さんと話し合い、どこまで記憶が蘇ったのか・・・・。ノーアポで高山へ行って、懐かしの別荘を見学した後、現地で落ち合うとするか。会えなきゃ会えないで別に構わないし。
翌週の日曜日、孝臣は電車で高山へ行った。市内でレンターカーを借り、山の中の別荘へ向かった。
――こうして別荘に行くのはいつしかぶりだろう。高校一年生のときが最後だったっけ、それとも大学時代に行っただろうか・・・・。
懐かしさでワクワクした。こんなことならもっと早く行けばよかった。
村を抜け、山に入り、林道を走って行くと別荘に到着した。
「嗚呼、懐かしの別荘だ――」
外観は全体がツタの葉に覆われていて廃墟のようにも見えるが、建物自体はまだしっかりとしている。孝臣は車から下りて、別荘を正面から観察した。
「あれ・・・・、誰かが住んでいるのか・・・・」
別荘の階段や通路は草も黒カビも生えておらず、きれいに掃除されている。何よりもサッシのガラスがピカピカに磨かれている。別荘の周辺は草薮に覆われているものの、花壇には色とりどりの花が咲いているし、周辺の空き地も開墾されて畑となっている。
――でも、花壇にしても畑にしても雑草にまみれているしなあ。自然に咲いている花なんだろうか、どうなんだろう・・・・。誰か人が住んでいるのか微妙なところだ。あっ、あそこに車がある。
背の高い草薮に埋もれるように乗用車が停車しているのが見えた。
ーーやっぱり、人が住んでいるんだ。この別荘は父の名義のはずなんだが・・・・。そういえば、鍵は一体どうなっているんだろう? 住人と話し合っておきたいところだが、ひと悶着ありそうで面倒臭い・・・・。
そんなことを考えていると、花壇の花に黒の揚羽蝶が頬に触れる距離でヒラヒラと横切り、目の前の花に止まって羽を広げ、優雅に蜜を吸った。写真に収めたくなるような美しい光景だった。孝臣はボンヤリと蝶に見惚れながら考えた。
――人間って何だろうなあ。大地に線を引いて、おれのものだとか、他人のものだとか言って。蝶にはそんな線は存在しない。誰のものでもないこの自然の空間を自由に飛び回っている。人はどうして土地を個人のものとして所有したかったのだろう。法を作って見えない線を引いて、土地を個人で所有するという観念を得たが、法に支配されるという息苦しさも同時に背負ってしまった。使っていない不動産なんか誰のものでもいいはずなんだが・・・・。
孝臣はそんなことを考えながら蝶にゆっくりと近づき、両手を挟み込むようにして捕らえようとしたが、蝶はさっと身を翻し、飛び去っていった。
「あ、逃げちゃった・・・・」
童心に戻ったような気持ちになり一人フフフと笑った。子供の頃はずっとこんなことをして遊んでいたものだ。あの頃は無邪気で楽しかったなあ。もっと他におもしろい虫がいないかキョロキョロと見回した。
――こんな素敵な別荘、やっぱり乗っ取られるのは惜しい。人生とは戦いだ。戦って勝ち取っていくもの。自然は自然、人は人。権利を主張しないと人間社会のピラミッドから蹴落とされてしまう。、ヨシッ、住人がいたら徹底的に話し合おう。
話し合う気力が出てきた。孝臣は気合を入れてドアの前に立った。
「ごめんください・・・・」
最初は遠慮気味に挨拶したが応答がなかったので大きな声になった。
「ごめんください!」
それでも応答がなかったので、試しにドアノブを押してみると鍵がかかっておらず、ドアは音もなくスーッと開いた。
「開いた・・・・」
懐かしい室内――、昔と何一つ変わらない室内が視界に飛び込んできた。ソファーもカーテンも椅子もテーブルもすべて当時のままである。
「懐かしい・・・・。ここに住んでいる人がきっと大切に守っていてくれたんだ・・・・」
孝臣はうっとりした気持ちになって玄関に立った。
――ああ、まるで昔にタムスリップしたようだ・・・・。
「はい、はい――」
奥から声がした。
「誰か来る・・・・」
ハッと我に返り、緊張した気持ちになった。
「はい、はい、どうもお待たせしました」
よく知った男の顔が目の前にやってきた。
「えっ・・・・」
孝臣は絶句した。
「な、な、何で? 何でジュンちゃんがここに・・・・」
孝臣は純之介の顔を呆然と眺めた。何が何だかわからない。
「タカヤン、待ってたよ」
純之介は孝臣が来ることを予期していたかのような落ち着いた態度だった。
「待ってたって・・・・」
「どうぞ、どうぞ――」純之介は静かに微笑んで中に招いた。「ソファーに座って、ちょっと待っててくれないか。すぐ準備するから。案内したいところがあるんだ」
「どういうこと? まったく意味がわからない。何で君がここに・・・・」
純之介は何も応えず、二階に上がった。孝臣はソファーで一人になり、動揺した感情を落ち着かせた。
――ここは懐かしの別荘だ。夢ではなく現実だ。なぜそこにジュンちゃんがいるんだ?
室内は清潔そうだがガランとしていて物が少なく、生活感があまり感じられない。奥さんがいるはずだが、純之介以外に人の気配はない。
「お待たせ――」純之介は黒のネクタイ、黒の礼服姿でやってきた。「さあ、でかけよう」
「でかけようって・・・・。なんだその格好は?」
冗談なのか何なのかわからない。
「最後ぐらいはきちんとした格好をしようと思ってな」
「最後って何だ?」
「取りあえず歩きながら話そう」
「まったく意味がわからない。どういうことなんだ・・・・」
二人は外に出た。
「これらの畑は自然農法だよ。化成肥料、除草剤、農薬を一切使っていない。雑草を生やしたまま作物を育ててるんだ」
純之介は畑や花壇を指差し自慢げに言った。孝臣が聞きたいことはそんなことではなく、どうして君がここにいるのかということである。花を愛おしい表情で見つめている純之介の頭に、黒揚羽蝶がヒラヒラと飛んできてとまった。
「ジュンちゃんの頭に蝶がとまったぜ」
孝臣が純之介の頭を指差すと、
「本当かい?」
純之介はゆっくりと頭に手を持っていくと、黒揚羽蝶は純之介の指先にとまった。それを静かに顔の前に持っていき、蝶を眼前で見つめた。蝶は悠然と黒い羽を動かしている。二人は蝶の姿に釘付けになった。蝶が時を支配しているようだった。
「人懐っこい蝶だな」
純之介が声を出すと、蝶は羽ばたいて飛んでいった。
「ああ、逃げちゃった・・・・」。孝臣は飛んでいく蝶を見つめながら言った。「君がとぼけたようなことを言うから」
二人は目を合わせて笑った。
「じゃあ、行こうか」
純之介はさっさと山の斜面に向かって歩き出した。
「何んだよ、いきなり。どこへ行くんだ?」
「いいから、いいから、ついてきて」
山の斜面の生い茂った藪の中へ入っていき、しばらくの間、二人は無言で歩き続けた。
「山は空気がいいだろ」
純之介の呑気な言葉に孝臣はハッと我に返った。
「空気がいいとかそういう問題じゃなくて、なんで君がここにいるんだ?」
「ハハハ、そう慌てるなよ。人生急いだってどこにたどり着くわけでもなし。順序立てて話したほうがいいだろ」
「なんだよ、順序立ててって」
先日見た純之介の深刻そうな顔――、インドで行方不明になったと聞いて青ざめていたあのときの顔ははどこへ行ったのか、憑き物がとれたかのようにすっきりした顔になっている。
「で、どこへ行くんだ?」
「君にとって大切な場所だ。着けばわかる」
「着けばわかるって何だよ。もったいぶっていないで説明してくれよ」
「そんなことよりも、君に聞きたいことがあるんだ」
純之介が立ち止まって振り返った。孝臣は純之介の深い瞳を見て、何を問われるのか一瞬不安になった。
「何だよ・・・・」
「君の妹さんのことを聞きたい。紗夜子さんのことを」
「妹のこと・・・・」
孝臣は純之介の口から突然妹のことを訊われビクッとした。先日墓参りしたことが何か見えない糸で繋がっているように思えたからだ。
「できるだけ詳しく聞きたいんだ。歩きながら思い出すことを何でも話してくれないか」
「ああ」
孝臣は心して返事をした。
「彼女は幼少の頃、どんな子だった? やっぱり変わった子だったのかい?」
「変わった子だったよ。すこぶる変わった子だった。手がつけられないぐらい」
「手がつけられない?」
「手がつけられないというか、徹底的に手がかからないというか」
「どういうことなの?」
「おれが八歳のとき、両親が離婚したことを話したことあったっけ? 妹は母親が引き取って家から出ていったが、何年かして妹だけがどういう事情か知らないが大津の家に戻ってきた。当時よく一緒に遊んだよ。妹は外で遊ぶのが大好きな子だった。虫や動物を捕まえてきてよく飼育した。動物の死体であっても、どこからか拾ってきて、庭の隅で一人でお葬式ごっこをするのが好きなんだ」
「お葬式ごっこ・・・・。彼女は動物と話していなかったかい?」
「そう、いつも動物の死体と一人でブツブツと話していた。何を話しているのか観察しようと、そっと後ろから近づくと、”見ないで”って言って黙ってしまう」
「彼女に友達はいたかい?」
「とにかく無口で、ほとんど人と話さない性格だった。恥ずかしがり屋だとか、発達障害じゃなく、自分独自の世界があって他者と交われないようなんだ。学校でも友達が誰もいなくて、いつも一人でいた。昼休みでも校庭の隅に一人でいるから、おれは心配して、たびたび妹に話しかけに行ったよ。クラスメートだけでなく、大人たちや先生とも一切話さなかった。それは徹底していたな。唯一おれだけには心を開いてくれていた。親父ともまったく話さないから、親父も困っていたよ。親父は彼女と意思疎通したいときは、おれを通して伝達していた。ずっとだよ、幼少時代から大人になってからもずっと」
「思春期の頃はどうだった?」
「中学の頃から学校を休みがちになって、高校にも一応進学したんだけどすぐに中退してしまった。そして、この高山の別荘と沖縄の別荘に一人で交互に住みだしたんだ。季節ごとに住み分けて。心配だったから、おれも長期休みになるとここに来て、いろいろ説教した。その頃はまだ”ニート”とか”引きこもり”なんて言葉がない時代だ。高校ぐらいは卒業しておいたほうがいいとか、アルバイトでもして社会のことを学んだほうがいいとか、いつまでも親父のスネをかじって甘えていても知らないぞとか。おれがそんな小うるさいことを言うからなのか、彼女はおれに対しても次第に心を閉ざしてしまい、まったく話さなくなった」
「君も辛かったろうが、紗夜子さんはもっと辛かったろうなあ。誰とも心を通わすことができなかったんだろ? いつも一人でいて・・・・」
「そうだなあ、今考えてみると、彼女も大変だったろうと思う。でも当時、おれも自分の生活のことがあったし、親父にはおれが怒られるし、妹の立場を尊重しようなんて余裕がなかったんだ」
「二十歳過ぎても別荘に引きこもっていたのかい?」
「その頃おれは勉強が猛烈に忙しかったから、まったく妹のことを考えていなかった。おれが研修医を終え医者になったぐらいの頃、親父に言われたんだ。紗夜子に専門学校ぐらいは行かせたい。何か生活のためのスキルを身につけさせて自活できるようにさせたいと。親としては当然だな」
「それを彼女に言ったのか」
「ああ、でも紗夜子はおれに目も向けてくれなかった。事前にどう説き伏せてやろうかと考えているときは、妹がどうしても言うことを聞かなかったら怒鳴りつけてやろうなんて思うんだが、なぜか実際彼女の前に行くと気持ちが萎えてしまう。何なんだろう、恐怖を感じるというか。そもそも彼女の性格上、専門学校なんて無理なのもわかる。だから無理なことを言う前に、取りあえず気分転換というか、人生観を少しでも変えてもらおうと、インド旅行を勧めた。――そうだ、君からインドのことを聞いていたからそんなことを思いついたんだと思う。インドってところは日本の常識がまったく通用しないっていうじゃないか。インド旅行のことを告げると、何にも興味を示さなかった妹が、意外にもそのときはちょっと表情が変わった。とにかく引きこもっているよりはいい。外国へ出かけるなんて大いなる進歩だ。親父を説得し旅費を出してもらい、彼女に一人でインドに行かせた。その後のことはこの前も話しただろ。不運にも交通事故に遭ってしまって・・・・」
孝臣は感情が高まり、そこで一旦話を止め、ハンカチで鼻をかんだ。しばらく間をおき、声を震わせながら続けた。
「おれが思いつきでインド行きを勧めたばかりに、妹は逝ってしまった。今でも申しわけない気持ちがするよ。妹は決して意地の悪い子じゃなかった。知能の低い子でもなかった。いや、むしろ素直すぎて、知性が高すぎて、世間と折り合いがつかなかったんじゃないかって思ったりもする。ずっと寂しい思いをさせて、一人でいさせて、おれは何もしてあげられなかった。妹は当時、本当は何を求めていたのか、何をしたかったのか、じっくり話を聞いてあげればよかった・・・・」
「そうだったんだ・・・・」純之介はしんみりしたように呟いた。「紗夜子さんにそんな過去があったんだ・・・・。そうだったんだ・・・・」
孝臣は、妹に哀れみを抱いている純之介の態度を不思議に思った。
「しかし、どうして君は妹のことを?」
「大変お世話になったから。“お世話になった”という言葉では収まりがつかないぐらいお世話になったから・・・・」
「お世話にって・・・・、もしかして、妹に会ったことがあるのか?」
「ああ」
孝臣は純之介のこの返事を聞いた瞬間、あることが脳裏をよぎった。紗夜子がタイから送ってきた絵葉書のことだ。それは最初で最後の紗夜子からの葉書だった。そこには、『心を通わせて話せる男性と知り合いました。素敵な人です。一緒にインドに行く予定です』と端正な文字で書かれていた。その文面に驚いた。まさか妹が人と心を通わせることができたなんて。それも男性と・・・・。幼少時代からずっと誰とも話すことがなかった妹、親父には”先天的な自閉症”と決めつけられ諦められていた妹。そんな妹が異性と心を通わせられたなんて。その男は・・・・。
「じゅ、じゅ、ジュンちゃん――」
前方を歩く純之介の腕を握って歩みをとめた。
「もしかして、もしかしてだよ。いや、そんなことはないだろう。おれの先走りかもしれない・・・・。妹はバスの事故で亡くなったんだから。そんなはずはないと思うが、もしかして、もしかしてだよ、君は、タイで、おれの妹に会ったんじゃないか?」
うろたえる孝臣の目を、純之介はきっと射るような目で見つめ、はっきりした口調で言った。
「そうなんだ。紗夜子さんにタイで出会って、おれは一緒にインドを旅した」
「ど、ど、どういうことだ? 君はインドで行方不明になったらしいが、もしかしてそれと関係があるのか? どういうことなんだ?」
「少し歩こう。目的地に着いたらすべて話すから」
純之介はさっと前を向き、無言で歩き出した。その後は一切口を開かず、山の奥へ奥へと入っていく。孝臣は、純之介と紗夜子の間に何があったのか、そのことで頭がいっぱいになったが、考えてもまったく想像ができなかった。とにかく二人が何か異常な経験をしていることだけは予想できた。
長い時間が経過した。山歩きに慣れていない孝臣は、純之介のペースについていくのが体力的にきつくなってきた。深い森が、異次元の世界に迷い込んだかのような気持ちにさせ、より長い距離を歩いているように錯覚させられる。音も風景も匂いも、すべてが都会の日常空間とまったく違っていて、事象一つ一つの存在が重々しい。それに木々や鳥や虫たち、山に息づく生命たちに、どこからか見られているような奇妙な感覚もある。
圧迫される緑のトンネルを抜け林に入ると、赤い小さな鳥居の前にやってきた。純之介は鳥居の前で一旦足を止め、合掌会釈して鳥居をくぐった。孝臣も、畏敬を持たずにこの領域に入ると何か災いを受けるような気持ちがし、深く会釈して鳥居をくぐった。薄暗い森からようやく開かれた空間に出てきたかと思ったが、そこは今まで以上に、目に見えない圧力を感じさせる場所だった。異世界に放り出されたような感覚、鳥の鳴き声も虫のざわめきも何も聞こえず、空気が止まったかのようにシンとしている不思議な空間。純之介が、石の積まれた塚の前で足を止めたので、孝臣もそこで並んで足を止めた。
「黄泉の国にきたようだね」
談半分で言ったつもりだったが、純之介は「そうだと思う」とまっすぐな目を向けて否定しなかった。
「そんな怖いこと言うなよ、ハハハ」
孝臣は笑って見せると、塚の中ほどに置かれていた頭蓋骨と真正面から目が合った。
「うわっ!」
後方によろけるように数歩退いた。
「人の頭蓋骨だ・・・・」
声を震わせて言った。
「怖がることはないよ。君のお母さんなんだから」
純之介が平然とした表情で言った。
「お母さん? お母さんってどういうことだ。もう冗談はよせよ。何なんだよ・・・・」
孝臣は恐怖で泣き出したい気持ちだった。
「少年時代、行方不明になったお母さん、正真正銘の君のお母さんだよ」
「だから何を言ってるんだ・・・・」
そのときピューと強い風が吹き抜け、二人は埃が目に入らぬよう目蓋を手で押さえた。その風で頭蓋骨が塚から落ち、地面をコロコロと転がって孝臣の足元でピタリと止まった。
「ワッ!」
孝臣は頭蓋骨から数歩距離をおき、足に触れるのを避けた。
「何なんだ、気持ち悪い・・・・」
孝臣は頭蓋骨の眼窩を見つめた。暗い空洞から何かを訴えかけてきているような意思を感じ、心臓がドキドキと高鳴った。
「抱きしめてあげなよ。お母さんもお喜びになるから」
純之介が冷静な口調で言った。
「な、な、何を言ってるんだ・・・・」
「ほら」
純之介は頭蓋骨を拾い上げ孝臣に差し出した。
「冗談はよせ」
孝臣はそう言いながらも頭蓋骨を受け取った。手に取ると不思議と懐かしい気持ちが湧き起こり、思わず抱きかかえるように胸に寄せた。頭蓋骨は腕の中でブルブルと震えだした。
「震えてるよ、頭蓋骨が震えてるよ・・・・」
孝臣の瞼から涙が溢れてきた。
「お袋か、本当にお袋か? 何でここにいるの?」
目を閉じて頭蓋骨に話しかけた。懐かしい母の匂いも感じる。
「孝臣、淋しい思いをさせて本当にごめんね」
母親の悲しげな声が小さく聞こえた。
「母さん!」
「あなたのことを愛していたのよ。本当に。それだけはわかってね」
「母さん・・・・」
その瞬間、頭蓋骨がバラバラと砕け大地に散らばった。孝臣は呆然として動けなくなった。
「お母さんは君をひと目見たかったんだろう」
「・・・・・・」
「これでお母さんは成仏できたと思う」
「母さん、母さん、母さん――」
孝臣は大地に四つん這いになって、砕けた頭蓋骨の破片を拾い集め、涙をボロボロとこぼした。
「どうして、どうして・・・・」
「紗夜子さんが、お母さんの死んだ頭蓋骨をずっと保管して供養していたんだ」
「紗夜子が?」
孝臣はピタと動きを止めた。
「そう――。お母さんは生活困難に陥り、幼年の紗夜子さんとここにきて心中を試みたらしい。お母さんだけが亡くなり、紗夜子さんは生き残った」
孝臣の脳裏にその光景が目の前で見ているかのように想像できた。
「紗夜子からそんな話を聞いたのか? 旅先でそんな話をしたのか? 紗夜子が事故で死ぬ前に?」
「実は、紗夜子さんは・・・・、ぼくの妻だったんだ」
「妻・・・・」
「沖縄でおれと一緒に生活していたんだ」
「一緒に生活・・・・」
純之介はポケットから木箱を出して、白のブードゥー人形とどんぐりを孝臣に見せた。
「こ、これは?」
「タイのナイトバザールで買ったもの。実は――」
今まで冷静だった純之介だったが、そこでウッと言葉を詰まらせた。一旦フーと深呼吸をして落ち着かせ話を続けた。
「大事故が起きたんだ。インドで紗夜子さんと長距離バスに乗っていたとき・・・・」
「そのときも一緒だったのか?」
「バスが崖下に転落し炎上した・・・・」
「君はどうやって生き延びたんだ・・・・」
「紗夜子さんが呪術を使えたことを知っているか?」
「呪術・・・・」
「お母さんがお亡くなり、彼女はここで一人取り残されたとき、山の神様から力を授かったらしい」
「だから・・・・、あいつはいつも動物の死体と・・・・」
「炎上事故が起きた瞬間、紗夜子さんは呪術を用いて、おれの魂を人形に移してくれた。彼女によっておれは生かされたんだ。おれの肉体はバスの爆発とともに燃えて灰になり、お役所の書類上は“死”と刻印されたが――、いや、燃えてしまって本人かどうか証明できなくなり、”インドで行方不明”という扱いになったが、こうしておれは生き延びることとなった。あの旅以降、おれは過去の記憶が封印され、紗夜子さんと沖縄で暮らすこととなった」
「どういうこと? 君は死んでいる・・・・」
「ああ、おれは死んでいる。ここにいるおれは、紗夜子さんの思念だ」
「思念・・・・。じゃあ、紗夜子は今も生きているのか? 紗夜子に、紗夜子に、会わせてくれないか」
「紗夜子さんは先日、ここで人生を終えられた」
「終えた?」
「大地に帰られた・・・・」
そのときピューと不気味な風が吹き始め、周囲がざわつき始めた。
「今日はおれの番なんだ」
純之介は静かな口調で言った。
「おれの番? お前、死ぬつもりか。だから、礼服を・・・・」
純之介の口元に微かな笑みが浮かんでいた。孝臣は純之介の異様な雰囲気に恐怖を感じ数歩後ろに退いた。
「駄目だぞ。そんなこと許されないぞ。お前は生きる義務がある。人として人生をまっとうする責任があるんだぞ」
「おれは充分生きた。人の二倍生きた。もういいんだ・・・・」
「もういいんだじゃない。生きるんだ。生きなければならないんだ。生きること、そのこと自体が生きる意味だろ。逃げ出すのは卑怯だぞ」
「それは生きている奴の言葉だ。他の生命を喰い尽くしても当たり前と思っている残忍な奴の言葉だ。生憎おれは生きていないし、死んでもいない。――紗夜子さまが大地にお帰りになり、おれは気づいたんだ。あ、おれも紗夜子さまも、世界そのものなんだって。生きることでもなく、死ぬことでもなく、そういうものなんだって。そこで準備が整った」
「準備・・・・」
「逝く準備がさ、フフフ」
孝臣は純之介の笑みを見て、それ以上言葉が出なくなった。
「やるべきことがいくつか残っているから、それを終えて――」
純之介は目を閉じながら言った。
「もういいから、本当にもういいから、一旦落ち着こう、ジュンちゃん」
孝臣はこわごわ純之介をなだめた。
「君は子供の頃、死にかけた経験はあるかい? 大怪我したとか、大病を患ったとか」
「いや・・・・」
孝臣は硬直した表情で首を振った。
「いや、あるはずだ。忘れているだけで何かあるはずだよ。このどんぐりは君のものだと思う」
純之介は改めて木箱の中のどんぐりを指差して言った。
「おれのどんぐり・・・・。この人形は・・・・」
「インドで事故が起きた際、おれの魂が封印された人形だ」
純之介は孝臣の手の平に人形を乗せた。
「焼け焦げてボロボロだ・・・・」
「君にギュッと握って欲しいんだ」
「に、に、握るとどうなるんだ?」
「消える」
「何が?」
「おれが、この世から」
孝臣は言葉がすぐに出てこなかった。
「な、な、なんで、おれがそんなことを引き受けなきゃいけないんだ。返す――」
孝臣が突き返そうとするが、純之介は受け取る素振りを見せない。
「おい、受け取れよ。頼むから」
「乱暴に扱うと人形が崩れて、おれは消えるぜ」
「君が受け取らないからだろ」
「自分の魂が宿ったものは、自分では始末ができないらしい。消えるためには誰か第三者に潰してもらわないといけないんだ」
「だからおれはその役を断る。――おい、頼むから受け取ってくれ」
「あっ、そうだ、もう一つ思い出した。沖縄の別荘のこと、あれは孝司君に渡したから」
「孝司・・・・。なぜ息子の名前を・・・・」
「彼はおれの店で修行していたんだ。一番真面目で熱心な男だったよ。昨晩ハッと君の息子さんじゃないかって気づいたんだが、やっぱり・・・・」
「沖縄のレストランって聞いたが、あれは君のところだったのか・・・・」
「君とは深い縁がずっとあったようだね。本当に今までありがとう」
純之介が深々と頭を下げた。
「バカ、君に礼を言われる筋合いはない。おれのほうが土下座したい気分だ。とにかく帰ろう。別荘に帰ろう。あの家は君の家だ。君のものだ。君が好きに使ったらいい。オーナーが直々に認める。君が社会的に死んでいようが、おれはそんなことどうだっていい。おれは君の秘密を絶対に誰にも口にしないし、何だったら金だって毎月送ってやる。な、別荘に戻って、今までのこと、紗夜子とのこと、いろいろあるだろ。それらをゆっくり聞かせてくれよ。そして一緒に楽しく生きようよ。な、な、な」
孝臣は涙を流しながら説得した。
「おれは紗夜子さま抜きで人生を生きていくことはできないんだ。紗夜子さまとおれは一つの生命体なんだ。今日ここで終わりにしたいんだ・・・・」
「な、な、なんで、そんなに死に急ぐんだ。落ち着こうよ。もうちょっと落ち着こう。頼むから・・・・」
「タカヤン、時は今なんだ。物事はタイミングなんだ。握ってくれ」
純之介は塚に向かい合って大地に正座し、目を閉じて合掌した。
「嫌だ。絶対に握らないぞ」
そのとき、目も開けていられないほどの強い風が吹き、落ち葉が舞った。風がやむと、今度はうめき声のような笑い声のような低い声が辺りから鳴り響いた。
「ヒー、何なんだよ・・・・」
孝臣は恐怖のあまり純之介に抱きつこうと近づいた。すると純之介の傍らに、一匹の動物がいることに気づいた。
「黒猫・・・・」
黒猫の異様な威圧感で純之介のそばに近寄ることができなかった。
――逃げよう。
孝臣は咄嗟にひらめいた。後ろを振り返ると、周囲は白いオーロラの揺らぎに包まれていた。
「あ、あ、あ・・・・」
逃げ出せそうもない。再び純之介の背中に目をやると、黒猫が睨みを利かしている。今、自分が夢の中にいるのか、現実の世界にいるのか、もうわけがわからない。そのとき目の前に幼い紗夜子が現れた。
「お兄ちゃんの死をどんぐりに閉じ込めておいたよ」
「紗夜子!」
声を出すと紗夜子は消えた。また純之介の背中が見えた。
「さあ、握ってくれ――」
純之介の声は、純之介からではなく、頭の中から直接聞こえてきた。孝臣は手に持たされた人形を見つめた。
「コイツがいけないんだ。コイツがおれの頭をおかしくしているんだ。クソッ!」
孝臣は半狂乱になって人形を大地に投げつけた。その瞬間――、純之介は消え、黒猫も消え、白いオーロラも消え、不気味なざわめき声も消え・・・・、辺りは薄暗い静寂の森に変わった。目の前にどんぐりが一つ残った。
了 (2020年作)
お布施していただけるとありがたいです。