ダウ平均
新入社員の頃を思い出すと、日経新聞に強い劣等感を抱いていた記憶がある。
社会人になれば日経を読むものだ、読みなさいと言われ、読んでみるんだけれども、読んでもさっぱり意味がわからなかったからだ。
ダウ平均。
何のことかわからない。試しにダウと発音してみると、アゴが突き出てかっこ悪い感じだった。でもって平均とくる、わけのわからなさ。
わからないなら勉強せよという意味での日経新聞読みなさいだったわけだが、ちっとも頭に入ってこない。政治や経済にまるで興味が持てず、いくら読んでも上の空だった。
では何に興味を持っていたかといえば、旅行だのアウトドアスポーツだの文学だの主に余暇的なことで、休日出勤は断るし、有給はなるべく取る方向で、社会生活を組み立てていた。会社側もこんな奴を採用して後悔したことだろう。
そんな私でありながら、その頃漠然と抱いていた恐怖は、自分はこのままろくに仕事も覚えず、何一つスキルを見つけられないまま歳をとっていくのかということだった。
これが自分の仕事だと胸を張って何かに取り組んでいる、そういう将来の姿が想像できない。
もちろん会社員だから、やらなければならない最低限の仕事はしていた。だが、それだけだった。
ダウ平均ではなくて、もっと自分にぴったりの何かがある気がする。だが、それが何かわからない。
与えられた仕事を前向きにこなし成長していく同期の仲間たちを見ながら、悶々とする日々が続いた。とにかくここでやれるだけやってみろ、と自分に言い聞かせるが、だめなのである。
自分に必要なのはチャレンジか、もしくはこの場で覚悟を決めることのどっちかだということはわかっていた。
本当に自分のやりたい方向へ一方踏み出すチャレンジ。けれどそのやりたいこと自体も漠然としていれば、チャレンジするだけの下地もなかった。
かといって、このまま噛み合わない仕事を続けていくイメージも持てなかった。
八方塞りのなか、キャンプに行ったり、合コンしたり、かっこいい自転車を買ったりして、一見20代を謳歌しているかのような暮らしを続けたものの、その間も、ずっと頭の中にはダウ平均がこびりついていた。
どうするんだ、勉強するのかしないのか。頭の中のダウ平均が詰め寄ってくる。
ダウ、ダウ、ダウ……。
それから四半世紀。とくにダウ平均は勉強しなかったが、最終的に自分はどうやら収まるところに収まったらしい。
ダウ平均に悩んでから約10年後に、ようやくひとつのチャレンジをして舵を切った。ずいぶん時間がかかったものであり、未だ社会的に成功したとは言いがたいが、今はもう日経新聞もおどおどせずに読むことができる。
今思えば、ダウ平均への違和感を持ち続けたことが私にチャレンジを促してくれた気がする。
ダウと口にしたときの違和感。これは絶対自分の世界ではないという確信。
結局今も、ダウ平均をよく知らない。
日本経済新聞プロムナード2015.8.6
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