発掘エッセイ:架空図鑑の困惑と誘惑
前々から気に懸かっている種類の本があって、それはウソの図鑑である。
有名どころでいうと、レオ・レオーニ『平行植物』(ちくま文庫)やハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』(平凡社ライブラリー)など。いかにも図鑑然とした構成と文体で、架空の生物をもっともらしく列挙していく。
面白い。
その発想といい、ユーモア精神といい、実に面白い。
だが一方で、最近、なばたとしたか著『こびとづかん』(長崎出版)がめちゃめちゃ売れていると聞き、複雑な気持ちになったのである。
『こびとづかん』は子供向けのウソ図鑑で、キモかわいいというのだろうか、少々グロテスクでもある架空のこびとたちの、種類や生態などが描かれている。
なぜそれに対して、複雑な気持ちになるのか、少し考えてみる。
そもそも私は『平行植物』も『鼻行類』も、面白いと思って買ったものの、まともに読んでいない。序文あたりをざっと読んだら、後はパラパラめくって、最後に訳者あとがきを読んでそのままである。今後読むこともないような気がする。
もちろん図鑑なのだから、全部読まないのは当然と言えるかもしれない。動物図鑑を隅から隅まで読む人は、そうそういないだろう。私も、この世で一番好きな図鑑、荒俣宏著『世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物』(平凡社)の大部分を読んでいない。ときどき、折に触れてパラパラめくり、適当なページを拾い読んだりする程度だ。
しかし図鑑は、いざとなったら読むものである。いざとなるのがいつかといえば、その動物なり植物なりを実際に目の当たりにして興味を持ったり、調べる必要が生じたときに読む。図鑑は現実の世界を理解する助けになるものだ。
では、架空の生き物の図鑑はいつ読むのだろうか。実際にその生き物を目の当たりにすることはないし、それについて調べる必要が生じることもまずあるまい。
同じ架空の図鑑でも、怪獣図鑑ならわかる。特定のテレビ番組の世界を理解するための副読本となりうるからだ。
ところがテレビ番組や小説といった〈本体〉があるわけでなく、図鑑だけという場合、そこにある欲望は、図鑑そのものが読みたいということになる。そこにある架空世界の体系を楽しむ。世界観や空気感を読む。
そこに、ストーリーはない。ストーリーは勝手に自分で考えるか、あるいは、その世界を味わえればそれでよしとする。
私が複雑な気持ちになるのは、その点だ。
いいのだろうか、本当にストーリーなしで。
かくいう私も『平行植物』と『鼻行類』を買って持っているのだから、ストーリーなしでいいと思っている側なわけだが、衝撃の結末とかいらない、主人公の成長とか面倒、という読者が増えてしまうと、じゃあフィクションて何のために作ってるんだということになりそうである。
さらに言うならば、ストーリーとは忍耐力の別名でもある。それを組み立てることは、作り手にとっては大変な作業だし、読者にとっても、最後まで読むことを暗黙裡に強要し、その圧力によって、本読むの面倒くさいという気持ちを押さえ込んで、先へ先へと読み進ませるのがストーリーの役割である。
それがない『こびとづかん』が大ブレイクしているということは、作り手側も読み手側も、何かを放棄してしまった感じがある。
自分の感じたかすかな違和感を分析してみると、どうやらそのへんが肝らしい。
と、ここまで読んだ読者は、私が『こびとづかん』を批判しているように感じることと思うが、そうではない。私の複雑な気持ちを、ひとことで言うなら、つまりこういうことだ。
だったら私も作りたい!
〈本体〉なしで図鑑作ってもよかったなんて、それを早く言ってくれよ。
私は架空の地図だのウソの民族誌だの、そういうものを考えるのが大好きなのだ。大好きだけれども、自分自身は『平行植物』も『鼻行類』も全部読んでないし、どこか半端な趣味だと思っていたから、そんな気持ちはずっと胸の奥にしまいこんでいた。読んでもらえるのなら私も作りたい。
というわけで、私のおすすめ架空地誌を紹介すると、フランソワ・プラス『蒼穹のアトラス アルファベット二十六国誌』全3巻(BL出版)です。民族誌ふうの絵を眺めているだけで、架空世界を旅している気分になれる、知られざる良品だと思う。
今までは、なんだよ、楽しやがって、と思いながら眺めていたが、それは単なる嫉妬であった。ストーリーなしでオッケーと知った今、実に申し訳ない気持ちでいっぱいである。
「本の雑誌」2015年4月か5月頃から転載