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ガザからの難民を受け入れたヨーロッパ・イベリア半島の国ポルトガルは日本にパンや天ぷらをもたらした

 ヨーロッパ・イベリア半島にあるポルトガルは、昨年10月にガザで戦闘が始まると、ポルトガルと何らかの関係をもったガザの人々をいち早く難民として受け入れた。日本も、日本と関連のあるガザの人々や家族に同様な措置がとれないものかと思う。一昨年、ロシアがウクライナに侵攻すると、岸田首相は素早くウクライナからの避難民の受入れを表明したが、これではウクライナとガザとでは二重基準があると思われても仕方ない。また、ポルトガル議会は圧倒的多数で今月あらためてパレスチナ国家を承認することを政府に促した。日本の国会にそのような関心があるとは残念ながら見受けられない。

ポルトガルのパレスチナ支持の集会でパレスチナ旗を振る女性 https://www.portugalresident.com/parliament-urges-government-to-recognise-palestine/


 グテーレス国連事務総長はポルトガルの元首相だが、ポルトガルはグテーレス事務総長のガザ問題に関する立場を強く支持している。たとえば、昨年10月25日に、ポルトガルのクラヴィーニョ外相は、イスラエルがグテーレス事務総長の辞任要求を行ったことを強く非難する発言を行った。グテーレス氏はその前日の24日の国連安全保障理事会で、ハマスによるイスラエル襲撃を明確に非難しつつも、「何もない状況から急に起こったわけではない。パレスチナの人々は56年間、息のつまる占領下に置かれてきた」と述べていた。まったくの正論だ。

こういう人の家族を日本が受け入れられないものか 「祖父母と連絡がとれない。心配している」日本に住むパレスチナ人大学生が悲痛な訴え https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/790184?display=1


 ポルトガルは、15世紀末から地理上の発見から東方貿易に力を注ぎ、膨大な海外領土を獲得したが、スペイン、イギリスの台頭とともに一大海洋国家としての繁栄は長く続かなかった。1543年ポルトガル商人が種子島に漂着したことで日本に鉄砲が伝来し、1549年、フランシスコ・ザビエルは日本に最初にキリスト教と伝えたが、彼はポルトガル王ジョアン3世の依頼でイエズス会の教えの宣教活動に乗り出していった。

 日本語にはポルトガル語起源の言葉があり、ボタン、金平糖、コップ、シャボン、ビードロ、雨合羽の「カッパ」、たばこ、パン、カステラ、天ぷらなどはポルトガルが日本にもたらした物品や食べ物が日本語の単語の起源になっているようだ。

長崎のカステラ 2015年4月21日


 ザビエルなどの活動もあって日本人にはポルトガルはキリスト教国のイメージが強いが、ポルトガルもまた4世紀半の間、イスラム支配に置かれ、その支配の下でユダヤ人たちは宗教の自由を保障されていた。711年にイスラム勢力が進出し、756年にアブドゥル・ラフマーン1世がコルドバを首都に後ウマイヤ朝の支配を、ポルトガルを含めたイベリア半島に確立した。

 アラブ人たちは絨毯づくり、ギター、またモスクのミナレットの形状をした煙突、さらにオリーブやアーモンドの生産に必要な灌漑システムなど現在でもポルトガルに残る文化をもたらした。

 一大海洋国家となったポルトガルの進出も13世紀に中国からイスラム世界にもたらされた羅針盤、またイスラム世界で発達した地理学、天文学、各種天測器具、三角帆による航法などを総合的に受容することによって可能となった。

リスボンのケーブルカー https://world-train.info/lisbon-portugal


 ペルシアやアラブの商人たちは陸路での通商を発達させるとともに、海路ではペルシア湾、アラビア海などで、遠洋航海に必要な知識と造船技術を発達させた。航海に必要な知識は詩(「ウルジューザ」という)によっても受け継がれ、また水平線と天体との高度差を測定する「カマール」と呼ばれる天測器(六分儀の一種)も考案された。

 現在、ポルトガルに住むムスリムは人口1、100万人のうち4万程度で、その多くが、モザンビークがポルトガルから独立した1975年以後に移住してきたインド出身者たちだ。ポルトガル社会の中でムスリムたちはよく融合し、彼らは疎外感を感ずることなく、またポルトガルはNATOのシリアやイラクへの空爆にも参加することもないので、「テロ」などの心配はないと以前駐日大使も話していた。

パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの作戦拡大に抗議するでデモが駐日イスラエル大使館前が行われた。停戦と平和を訴える集会参加者たち=2023年11月4日午後、東京都千代田区 写真提供:産経新聞社

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