見出し画像

満州事変から92年 ―「時代は繰り返す」に警鐘を鳴らした人々

 9月18日は満州事変(柳条湖事件)が起きた日だが、元官房長官の後藤田正晴氏は次のように著書に書いている。

 「私は昭和5、6年の日本を知っています。満州事変へ突入するときの軍の動き、迎合するマスコミ、それに付和雷同した国民の動きなど、当時の状況と今は何か似ています。日本人の欠点はみんなに流される。『ちょっと待て』『ちょっとおかしいぞ』とはいわないのです。私の世代はもうすぐ滅びます。この5、6年は変革期です。冷静に道を過たず、日本が進むべき道を探っていただきたいと思います。」「このままじゃ日本は地獄に落ちるよ。おちたところで目を覚ますのかもしれないが、それではあまりに寂しい。」(『後藤田正晴 語り遺したいこと』岩波書店、2005年)と語っている。


 高知市城西公園では満州事変92年を前にして17日、「日中不再戦碑」に日中友好協会高知支部の会員など30人が集まって歴史を教訓に平和のために貢献しようと誓い合った。(高知新聞)

17日、日中不再戦碑の前で太極拳を披露し、平和を願う元残留孤児ら(高知市桜馬場) https://www.kochinews.co.jp/article/detail/681651


 毎日新聞16日朝刊に「試される常識と政党政治 満州事変はなぜ起きた?」という学習院大学の井上寿一氏による記事が掲載された。記事では満州事変が発生する2か月前、小磯国昭・陸軍軍務局長は、ソ連が5か年計画に900億ルーブルの予算を計上して軍拡を進めていると述べた。井上準之助蔵相がソ連はどこからそのような巨額の資金を調達できるのかと尋ねると、小磯はそれはわかりませんと答える。さらに小磯はソ連の5カ年計画による防衛費を13億円に対して、日本のそれは1億円と説明したが、幣原喜重郎外相がソ連の軍事費をどのように円に換算したのかと尋ねると、小磯はこの問いにも答えられなかった。緊縮財政を進める井上蔵相と協調外交を主張する幣原外相は前年の昭和5年にロンドン海軍軍縮条約の締結に尽力していた。満州事変はこのようなデモクラシーと協調外交の壁を突破するには非合法手段を用いるしかなかったという軍の判断によって起こされたというのが井上氏の説明だ。ちなみに海軍軍縮を進めた井上準之助蔵相は昭和7年2月血盟団の小沼正によって暗殺された(=血盟団事件)。

血盟団事件 https://bunshun.jp/articles/-/14359?page=5



 日本と中国の「二つの祖国」をもつ山口淑子さんは、北京の女学生だった時、抗日集会にも参加したことがあり、日本軍が攻めてきたら北京の城壁の上に立ちますとも話したことがあった。「日本の軍人は当時本当に威張っていました」「私が仮に中国人だったとして、同じことをされれば、日本を嫌いになっていたでしょう」と語っていた。(「李香蘭が語るアジア」より)

 山口さんは1973年夏にイスラエルのエル・アル航空のハイジャックに失敗してイギリスで身柄を拘束されていたパレスチナ人コマンドのライラ・カリドにインタビューした。ライラが「私たちはユダヤ人を憎んでいるわけではない。力ずくで私たちの国を奪おうとする行為に反対しているのです」語ると、ハイジャックは非道な行為であるとは思いつつ、ライラの「イスラエルに奪われた故郷の上を飛びたかった」という言葉が、山口さんには日本人が中国東北部に「満州国」を建国した過去にダブって響いたという。

https://blog.goo.ne.jp/.../0fccad43f640b723a68195386bea5999


 岸田政権は中国を仮想敵国として防衛費増額や敵基地攻撃能力などを決定したが、現在の中国脅威は、小磯軍務局長が強調したソ連の脅威の脅威にダブり、岸田政権の防衛に関する姿勢に後藤田氏が表現したような「ちょっと待て、おかしいぞ」の声が聞かれてこない。百田尚樹氏の「日本保守党」を支持する動きは、昭和初期の付和雷同した国民たちに似て、後藤田正晴氏が見た昭和5、6年の日本、つまり満州事変が起きた時代と現在は重なる。後藤田氏が『語り遺したいこと』を書いた小泉政権の時期より今の日本はいっそう危険な状態に陥っているように思えるのだが・・・。

憲法見直しを云々する前に、昭和の歩みをよく知ろう。戦争とは何かを身に染みて実感した筆者が、自らの生活史と重ねあわせ、日中全面戦争に突入するまでの時代背景を描く。満州事変、国際連盟脱退、二・二六事件……そして昭和12年12月13日、日本軍は南京大虐殺事件を起こす。どこまで続くぬかるみぞ。 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000161920

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?