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ダルウィーシュの「帰還」とUNRWAへの資金拠出停止
野球のダルビッシュ投手の名前にもあるが、ダルウィーシュとはイスラム神秘主義(スーフィズム)の修道僧のことを言う。現代パレスチナを代表する詩人マフムード・ダルウィーシュ(1941~2008年)は、「迫り来る大地」でパレスチナの故地への想いと平和への願いを次のように表している。
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「地の果ての次は、私達はどこへ行けばよいのだろう?
空の果ての次は、鳥達はどこへ飛べばよいのだろう?
私達はここで死ぬ、最後に残されたこの道で。
ここで、ここでこそ、私達の血はオリーブの木を根付かせるだろう」
(小林和香子訳)
マフムード・ダルウィーシュは、イスラエル建国により、彼が住んでいた村はイスラエルの領土となり、彼は故郷に帰還することができなかった。
1948年のイスラエル建国で現在のイスラエル南部のベエルシェバなどに居住していたパレスチナ人たちはガザに避難し、現在のガザ住民の70%は建国の時に難民となった家族たちだと見積もられている。ガザには230万人の人々が暮らすが、日本政府が資金の拠出の停止を行ったUNRWAの支援がなければ餓死するような状態に置かれる。
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パレスチナにユダヤ人の故国を建設しようとするシオニズムの考えはドイツやイタリアのナショナリズムをモデルにしたもので、クリスチャンが多数のヨーロッパの諸国家から排除されたユダヤ人たちによって推進された。パレスチナのイスラム支配はおよそ1300年にわたったが、紀元後パレスチナのユダヤ人たちはキリスト教やイスラムに改宗していき、1799年にナポレオンがパレスチナに侵攻した時にはパレスチナのユダヤ人の数は3000人程度と少数であった。
1920年代から東欧のユダヤ人たちがシオニズムの考えに基づいてパレスチナに移住するようになったが、彼らは欧米のユダヤ人コミュニティーから資金援助を受け、土地を購入し、非ユダヤ人への転売を禁じた。イスラエル建国によって故地を追われたパレスチナ人の数は72万人と見積もられて、現在、イスラエル軍はヨルダン川西岸を軍事的にコントロールし、またガザを経済封鎖し、ガザには空港も港湾もない。
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書きとめてくれ、
おれは アラブ人。
あんたがたは じいさん以来のブドウ畑と
おれが耕していた区割の土地を ふんだくった、
おれと子供たちみんなで耕していた土地だ。
あんたがたは おれと子供たちに また孫たちみんなに
この岩山のほか 何ものこしはしなかった。
……そうだ、あんたがたの政府は
うわさできくように その岩山までとりあげるつもりなのか?
それなら それでけっこう。
書きとめてくれ、最初のページの真先に。
おれは 民衆を憎まない。
おれは だれからも盗まない。
けれどもだ、
もしも おれが怒ったなら
おれは わが略奪者の肉を食ってやる。
気をつけろ、おれの空きっ腹に、
気をつけろ、おれのむかっ腹に。
(マフムード・ダルウィーシュ、土井大助訳「身分証明書」より抜粋)
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マフムード・ダルウィーシュはパレスチナ国家独立宣言も起草した。彼はイスラエルに抑圧されるパレスチナ人の苦悩や不安を表現し、「抵抗詩人」とも形容されている。
廃墟の中に きみを見た
いばらの山に きみを見た
──追われるきみを
太陽の下で きみを見た
キャンプの入り口で きみを見た
──思いに沈むきみを
干し紐にみなしご達の服を干す きみを見た
街路で悩みぬく者たちと 歌をうたう きみを
きみを見た
きみを見た
マフムード・ダルウィーシュ「パレスチナの恋人」
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