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欧米とは異なる姿勢でイスラム世界の評価を受けた明治期の日本

 明治期の日本は植民地主義の欧米とは異なる、独立した姿を見せ、ヨーロッパ支配の下に置かれていたアジア、中東イスラム世界の人々に勇気を与えていた。

 イランのメフディ・ゴリー・ヘダーヤト(1863~1955年)はパフラヴィ―朝時代の1927年から33年まで首相であった人物で、政治回想録やイランの音楽、教育などに関する著作を残している。その紀行文の『メッカへの旅』の中で、1903年末から04年初頭にかけて首相在任以前に来日した際の印象を書き記している。

メフディ・ゴリー・ヘダーヤト https://www.wikidata.org/wiki/Q957495


 ヘダーヤト(1863~1955年)は日本人について「清潔さ、高潔さ、謙虚さ、友愛、父子愛、敬老、正義感、自然美の活用、祖国愛、死を恐れぬ心」という印象をもった。

 以下、岡崎正孝編「中東世界―国際関係と民族問題 (SEKAISHISO SEMINAR)」より だが、当時の日本の役人たちの優秀さを称賛している。

 「長崎の検疫所での役人の対応、神戸の税官吏と市の役人の応接に感激し、その優秀さはロシア、中国の役人の比ではない、という。さらに彼らを感激させたのは、日本人の清廉潔白さであった。彼らの知る世界では何処でも心づけを必要とした。しかし、日本では誰もチップを受け取らず、誠実に職務を遂行していた。京都を離れる日、政府が付けた通訳に何か記念になるものを買うようにと百円渡そうとするが、彼は上司の許可がないからと言って受け取らない。アターバクは上司の許可を自分が必ず取るからとりあえず受け取ってくれ、もし許可されないなら東京に送ってくれたらいい、と言い百円を押し付けて別れる。何日かして東京のホテルに上司の許可が下りたので有難く頂戴したとの丁重な礼状が届いた。」

 彼の印象に残ったのは、日本人の質素な生活ぶりだった。それは京都の御所や東京の皇居も例外ではなく、イランの宮殿の豪華絢爛ぶりとは対照的で、木材や白壁で造営された日本の質実とした建造物は強く心をとらえるものだった。金箔などを施した絢爛豪華な宮殿を見慣れているヘダーヤトには皇族といえども簡素な建築物に居住することは新鮮にも思えた。

 東京では女学校を見学し、生徒たちの真摯な勉学ぶりに感銘し、また日本の学校の多さや日本人の教育熱心なところも驚きだった。ヘダーヤトの一行は、伊藤博文とも面談し、日本の発展は何から始めたのかと尋ねると、伊藤は人材養成からだと答えた。日本の街中に国産品があふれていることを目の当たりにして、日本の産業化の背景には教育の充実があったことを知る。彼は、旅行記に「日本はアジアの国であるが、我々のように眠っていない」と書いた。

京都の花(真希乃さん) https://www.flickr.com/photos/nobuflickr/7326164370


 明治期の日本人については、イスラム世界から人々はほぼ肯定的な評価を下している。当時、多くのイスラム地域がヨーロッパの植民地支配を受けていたが、イランやエジプトの民族主義者たちは日本を改革や民主主義、植民地主義諸国への抵抗で日本を手本として称賛していた。実際、ヘダーヤトが訪問した直後に日本は、アジアのイスラム世界を苦しめていたロシアに勝利し、イラン人は日本の憲法が体制の強化に役立ったと考え、自らも憲法をもとうという運動(=立憲革命)を起こしていく。

 今の日本はどうか。ヘダーヤトの国イランはイスラエルと軍事的に緊張しているが、日本の岸田首相にはヘダーヤトが評価した日本人の高潔さ、正義感、あるいは死を恐れぬ心で、勇気をもって和平の調停を行う姿勢が希薄で、ガザ問題でも対米関係が良好ならそれでよい、それ以上のことは行わなぬという印象を受ける。岸田政権はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金拠出まで停止してしまった。過去は現在を映し出す鏡、また将来への道標となるが、少なくとも日本と中東イスラム世界との関係がこれまでどういう経過をたどってきたのか、また中東イスラム世界でなぜ欧米への反発が起こるのか、その基本的知識ぐらいはもっていてほしい。明治期の日本のように、欧米とは異なる姿勢で敬意を受けるようになってほしいものだ。


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