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チャーチルの中東イスラム世界における功罪

 3日放送の「映像の世紀 バタフライエフェクト チャーチルVSヒトラー」では、チャーチルとヒトラーという宿命のライバルの衝突が描かれ、第二次世界大戦でヒトラーは「イギリス政策(Englandpolitik)」を構想し、イギリスとの良好な関係の維持を考えていた。その方針に従って、ドイツが英国に対してその安全保障を約束する代わりに、英国もドイツの領土拡張政策に反対しないことを期待し、イギリス中東政策を妨害しない方針をとっていた。しかし、番組でも描かれていた通りチャーチルはヒトラーの宥和政策を拒絶し、ドイツへの徹底抗戦を唱え、「イギリスの戦い(Battle of Britain)」でイギリス空軍はドイツ空軍を圧倒し、ドイツの上陸作戦を阻み、戦局は一転していく。

映画「空軍大戦略」 Battle of Britainを描く https://blog.goo.ne.jp/shortwood/e/db51d41d42ad024050ff91b3b82d176d?fbclid=IwAR30obEfKmH5IsIKQqtS3AjOKvA0bv8FurgMVUDoPkkSKN9zHuucQ_gk5-Q


 イギリスの首相だったウィストン・チャーチル(1874~1965)は、1921年に植民地大臣に就任し、サイクス・ピコ協定に基づくイギリスによる中東の秩序づくりに係わり、チャーチルが植民地大臣の時にイギリスはパレスチナ、ヨルダンやイラク支配を確実なものにした。1922年に彼の下で出された「白書」がユダヤ人のパレスチナへの移住を促進し、現在のパレスチナ問題の重大な要因となった。第二次世界大戦が始まると北アフリカの支配を目指したナチス・ドイツに対抗するために、すでに影響下にあったファルーク国王のエジプトに対する統制を強化し、1942年にカイロに駐留するイギリス軍はファルーク王の宮殿に乗り込み、エジプト内政に介入し、より親英的な政府をつくった。

イギリスの「三枚舌外交」にチャーチルも関わった https://solver-story.com/?p=1776


 イギリスの植民地主義政策を強力に推進したチャーチルだったが、彼がイスラムを含めたオリエント文化の愛好者だったことはあまり知られていない。2015年に出版されたイギリス・エクセター大学のワレン・ドクター研究員の著書、Churchill and the Islamic World: Orientalism, Empire and Diplomacy in the Middle East (International Library of Twentieth Century History) ではチャーチルには、軍人としてインド帝国北西部やスーダンで戦った経験があり、イスラム文化に通じており、キリスト教がイスラムに優越するものとして考えていなかったとされている。また、彼は拡張期のオスマン帝国の軍事的勇猛ぶりを称賛してもいた。

ワレン・ドクター氏の著書


 チャーチルは1940年10月にはロンドン中央部でのモスクの建設を認可し、10万ポンドの予算をつけた。このリージェンツ・パークの「ロンドン中央モスク」建立は、ナチス・ドイツに対抗するためにイスラム世界からの支持を期待したものであった。1941年12月には議会で演説し、ムスリムの友人たちがこのモスクに感謝を表明していることを強調した。

 ドクター研究員は、チャーチルのイスラムに対する姿勢は帝国主義や、あるいは中東イスラム世界をさげすむ「オリエンタリズム」とは異なっていたと語っている。彼のイスラム文明への愛好は、第一次世界大戦のキリスト教、ユダヤ教、イスラムの対立が始まる時代的背景とは対照的なものであり、現在の欧米の政治指導者たちに求められる感覚でもあったとドクター研究員は書いている。

 1951年4月、イランの首都テヘランの街は「モサッデク!モサッデク!」を連呼する人々で溢れ、多くの人々はイランがイギリスの半植民地化から脱することに歓喜の声を上げていた。イランで採掘される石油が何でイギリスのものになっているんだという長年の不満や鬱憤がイラン社会を覆っていた。イギリスがイランにもっていた石油産業を国有化したモハンマド・モサッデク首相を国民的ヒーローとして敬愛するようになっていた。

民衆に支持されるモサッデグ首相 モサッデグ政権転覆に関するイギリスの主導的役割という記事からです https://www.aljazeera.com/news/2020/8/18/uks-lead-role-in-1953-iran-coup-detat-exposed?fbclid=IwAR1Zi8zcPdFqFy7W8zcjWreP706zd8uK2Ke5dKiKbhlVHj7ZOVpg0KWZzTI


 しかし、これにイギリスはこの措置に怒り、モサッデクに「狂人」のレッテルを貼り、報復を決意するようになった。

 イギリスは、エジプトに戦略的水路のスエズ運河を抱えており、イランの石油国有化がエジプトに波及することを恐れていた。1951年に成立したイギリスのチャーチル政権は、モサッデク政権の打倒をより鮮明に志向するようになる。1952年に大統領となったアイゼンハワーはイラン国内で共産党(トゥーデ党)が台頭していたこと、また西側諸国へのイラン石油の供給が途絶えていたこと、さらにソ連に対抗するためにNATOの結束が必要で、イギリスとの協力関係の推進を重視していた。結局イギリスのMI6は、アメリカのCIAと結託し、英米の計画した国王、軍隊と警察によるクーデターで、モサッデク政権はあっけなく崩壊した。

1953年、イラン・モサッデグ政権転覆のクーデター https://en.wikipedia.org/wiki/1953_Iranian_coup_d%27%C3%A9tat?fbclid=IwAR11uoIF_hff8Bw-f_JytOkVVNQJqWwLe8F2a6E9ok4iomQ8sm8gVw2m534


 このクーデターは、イランをはじめイギリスの植民地主義支配の歴史とともに、中東・イスラム世界に反欧米意識を植え付け、1979年のイラン革命は反欧米的(特にアメリカだが)で、またイスラムに訴える過激派は反欧米のテロを追求するようになった。


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