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コロナが教えてくれたこと【祭ラジオ#4】


大切な祭をずっと続けていくために

「今年も中止、残念だよ。来年こそ!」
一年に一度の何より楽しみな祭の日が近づくたびそんな言葉を聞く日々でした。
祭が大好きな人たちの寂しそうな顔を見るのも心苦しいことです。
長いコロナのトンネルの中、私たちは何を感じ何を学んだのか。
振り返ってみようと思います。

行動できない悔しさ

 祭の日は一年に一度、本当に楽しみな日です。
しかし、地域の文化である祭を継承し未来へ届けていくためにはまだまだ努力していかなければいけません。
地域の方々へ、若い世代へ。
祭の魅力を伝えるための最善の手段はやはり盛大に祭を盛り上げ、多くの感動を作っていくことです。
コロナ禍では、そのことが大きく制限されてしまいました。
地域の祭を未来へ届けていくためにはまだまだやらなければいけないことがあります。
そのためにどうすればいいのか。
何より行動できないこと悔しくもどかしいことでした。

ハレの日からケの日へ目線を向けていく

 ハレの日が迎えられないということは、その日に注ぐエネルギーとは違う方法を考えなければいけません。
そこで僕は立ち止まり「祭とは何か」をもう一度考えてみることにしました。
それまで、祭=ハレの日だと考えていましたが、実は祭文化というのはハレの日とケの日を包み込んだ構造であり、1年に1度のハレの日と残りの364日は互いに呼応しながら時間を交換しているのではないかと仮説を抱くことになったのです。
つまり、
"良いハレの日を迎えるために良いケの日を積み重ね、良いケの日を過ごすために良いハレの日を皆で作っていく"
といったやりとりが機能していくのならば、祭を担う地域は祭文化を軸にしながららせん状に上昇していくことが出来るのではないかと考えたのです。
コロナ禍でハレの日が迎えられなくても、いつか必ずその日を迎えようとケの日を積み重ねていくことで、「何も出来ない」というストレスは回避され、未来へ向かって歩み始めることが出来るのです。

だから、神社清掃

 こういった考えに基づき、僕は神社清掃を続けていきました。
月に一度だけでしたが必ず行うと心に決めて。
そうしていくと、様々なことが起こります。
通りがかった人たちが参加してくれるようになったり、子供たちが楽しそうにホウキを掃いていたり、今まで咲くことがなかった花が咲いたり。
神社はどんどんと気持ちのよい空間に変化していきました。
神社清掃を続けた3年間のうちに、僕たちは新たに太鼓のチームを生み出すことが出来、さらには自分たちでイベントを開催することが出来るようにまでなりました。
長い長いケの日の積み重ねは、いつかくるハレの日のために予想もしなかった現実を引き寄せていったのです。

コロナ禍に出来た「春日一番太鼓」
たくさんの仲間と共に神社清掃
駅前で行った「栄いちばんまつり」は子供達に大盛況

きっと祭はそのためにある

 祭の日、お神輿を担ぎ大きな声で仲間たちと担ぎ上げる爽快感は何にも代え難い経験です。
僕はそのことに病みつきになり、がむしゃらに祭に向き合い、とにかくお神輿を担ぎ続けました。
お神輿を通じてたくさんの方々と出会い、かけがえのない経験をし、様々な活動へと繋がっていきました。
祭の素晴らしさは、そこにあります。
つまり、そこに関わる人の日常や人生に影響し豊かにする力。
そこに確かな力があるから、僕たちはその日を守っていくためにまた力を尽くしていくのです。
僕の地元の神社では秋に例大祭を迎えます。
今年はコロナの3年間、一生懸命に積み重ねてきた全てが花咲くことを信じています。
そして、その日を共に創った仲間たちがまた豊かな明日を迎えていきますように。

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