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思春期の中学生のように、アボカドを選ぶ

アボカドなのか、アボガドなのか。それはひとまずさておき、僕はアボカドが好きです。(ここでアボガドではなく、アボカドと発音するのは、茨城県を「いばらぎ」ではなく「いばらき」と発音する感覚に近いと思います。発音する時に、ちょっと心遣いして気をつける、といったニュアンスがなんだか心地良いのです)

初めてのアボカドとの出会いはおそらく実家にいたとき、サラダにアボカドが入っていたときだと思います。

母方の実家は北海道のメークイン農家、ということもあり、随分の無農薬の野菜がありました。僕の祖母の家はメークイン農家であったとともに、それに伴い様々な野菜を無農薬で育てていました。夏休みになると、僕は広大なその畑の元をサンダルで歩き回り、カンカンの太陽の元、赤いキャップの食卓塩を片手に真っ赤に実ったトマトをもぎ取り、それに塩を掛けてかぶりついたものでした。程よく土臭く、何よりも太陽の味がするトマト。決して冷たくはなく、むしろ生ぬるいトマトでしたが、それは最高に美味しいおやつでした。(31歳になった今なら、食卓塩に加えてサッポロクラシックの500ml缶を片手に畑を練り歩くことでしょう。早く、帰省したいなと思います)

という訳で母方の実家からたくさんの野菜が我が実家には入ってきていました。野菜を随分と沢山たべながら、育ってきたなと思います。

もういつのことだったか忘れたけれど、きっと小学生あたりの頃。母親がなんだかワクワクしたような表情で僕を晩飯の食卓に「ごはんだよ〜」と呼びました。そこには得体の知れない、エメラルドグリーンのちょっとテロテロした、グラデーションがかった角切りにされた野菜(?)がレタスとトマトと共に盛り付けられていたように覚えています。

端的に「アボカドというものを購入して、サラダに入れてみた」という具合の説明を受けた後、僕はそのエメラルドグリーングラデーションの食物を口にしました。

なんだかヌメっとしていて、かつ青臭い。けどなんか油っぽい。当時小学生の僕には初めての感覚だったので、とてもではありませんが美味しいと思える代物ではありませんでした。それがアボカドとの初対面。

けれど、いつの間にか好きになってしまったアボカド。いつからかは曖昧だけれど、きっと宅飲みのおつまみを研究していた時に買った大学生時代のレシピ本の中に、「アボカドわさび醤油」なるレシピを見て、それを実践したときからのような気がします。

レシピはシンプル。"程よく熟した"アボカドの皮を剥き、種を取り、スライスした上で皿に並べ、その上にちりめんじゃこを乗せ、甘口醤油にわさびを溶いたものを掛けて完成、と。

アボカド、じゃこ、わさびと醤油。至ってシンプルな材料ではありますが、そこに盛り付けられたまるでジーニーが出てきてもおかしくないような、アラビアン・ナイト的な皿上の美しさに息を飲み、それを実践してみようと。僕は近くの生協に向かい、アボカドを選ぶこととなります。

しかしながら、スーパーに置かれていたアボカドの色は様々でした。真っ黒なものもあるし、少し緑がかったものもある。手に取ってみてもしっとりくるものもあるし、ガチガチに硬いものもある。バナナは少し黒ずんできたくらいの方が好きなので、その感覚でちょっと柔らかいやつを選んで、レシピ本の中にあった通り作ってみると、あらまぁ美味しいこと。大学祭の景品で当たった、黒霧島の水割りが美味しく感じられた感覚を、なんとなく覚えています。

それからアボカドがとても好きになり、アボカドさんは、ライトに酒を飲みたい時のおつまみベスト5くらいには上位ランクインしてくる奴になりました。上に述べた、わさび醤油はもちろん、ときにはフレッシュトマトとモッツァレラチーズと並べて、バージンオイルと塩、ブラックペッパーでシンプルにカプレーゼも。たまには耐熱皿にチーズと並べてオーブンで加熱したり、茹でた海老と絡めて、マヨネーズと醤油、ブラックペッパーで絡めてそれをアボカドのくり抜いた皮に盛り付けてサラダ仕立てにしたり。

恐るべしアボカド。彼がいてくれるだけで、多くの酒をカバーしてくれます。ビール、ハイボール、焼酎水割り/ソーダ割り、辛口の白ワイン、スパークリングワイン。どうやら程よいオイリーなニュアンスが、酒といい具合にマッチするようです。なので、スキッと、爽やかな酒が合いますね。赤ワインはもってのほか。残念ながら焼酎お湯割りもアボカドには合いません。

そうやって僕はアボカドと出会ってかれこれ(おそらく)20年以上になるかと思われるのですが、どうしてもスーパーでアボカドを選ぶ、という行為には未だ慣れることができません。

買い物に於いて、美味しそうな食材を、持っている知識を元に選択する、という行為は一つの楽しみであります。秋刀魚であれば、口先が黄色くて、目が潤っているもの。キャベツであれば、ずっしりと重みが合って、なるべく外葉がみずみずしいもの。

そういった消費者の「なるべく良いモノを買いたい」と言った気持ちを汲み取ってか、アボカドのコーナーには「食べごろの色」みたいに表示されたポップが置かれていることが多いです。気になるアボカドちゃんの外皮の色と、ポップに表示されている色を比較して、買うべきアボカドを消費者に判断させる仕組みです。

僕はアボカドというものを購入する際に、何度かそれを頼りにしたことがありましたが、だいたい打率は4割5分、といったところでした。

全盛期のイチロー(2000, オリックス, 当時27歳)の年間打率は3割8分5厘でしたから、それよりもずっと好成績かもしれませんが、食卓に並ぶアボカドのうち2回に1回以下が失敗、というのであればそれはとんでもないことです。青臭いアボカドは4打席全て空振り、熟れ過ぎたもはや腐りかけのアボカドは4打席全て内野ゴロ、みたいな感じがあるからです。それもとても良くないことは、アボカドというものは皮を向いてみないとその本質は現れないということです。蓋を空けてみて初めて、その本来の姿と向き合う。けれど、皮を向いてしまったらすぐに真っ黒に変色するから、食べざるを得ない。捨てるのは勿体ないから。けど青臭かったら「あぁ〜」ってなるし、売れすぎてても「はぁ〜」ってなる。

彼ら(=アボカド)はできるだけ人間にバレないように、バレないように…できるだけ最も美味しい自分の時期を知られないように…そっとスーパーにて手に取られることを恐れながら、そして警戒しながら、日々を過ごしているのではないかと思われます。きっと、アボカドは人間が恐ろしいのでしょう。気持ちは分からないでもありません。南米で生まれたときは、まさかこんな東洋の国に運ばれてくるなんて考えてもいなかったのだろうから。

それだけ非常に精神的に追い詰められた上で、ニッポンという国に運ばれてきた彼らに対して、我々はまず、スーパーに於いて敬意を示さなければならないかもしれません。「遠いところからご足労頂きまして、本当にありがとうございます。」と。そして我々とアボカド、マンツーマンのマッチングタイムが始まる。言い方を変えれば、それはスーパーマーケットに於けるアボカドとの合コン。

僕は今日友人と話す機会があったのですが、料理が好きなその人との会話に出てきたのはやはり「アボカドの選ぶことの難しさ」でした。

会話を重ねていくうちに、僕はふと気付いたのです。それは「我々が消費者である」という権力を食材に対して振りかざすような構造ではなく、「アボカド」をひとつの「他者」であると認めた上で、自己が他者に歩み寄ろうという相互理解を伴った構造こそが、本当のその日の晩ご飯の食卓に登場するベスト・アボカドとの出会いに繋がるのではないかということに。

誰もがそうであるとは言えませんが、気になるアボカドというのはどうしても手で「ギュッ」としてしまいたくなります。購入前の商品に対してこの行為は宜しいとは言えません。しかしながら、見知らぬ他者を理解したいという気持ちの上に成り立っている行為ということも認めざるを得ません。そしてそれは「このアボカドは本当に私に適したアボカドなのか」ということを確認するという作業になるわけですが、魅力的な外見をしたアボカドであればあるほど、その確認のプロセスを得る機会は多くなります。つまり、人に「ギュッ」とされる機会が増えてしまう。結果、ルックスは良いけれど、家に帰って皮を向いたら真っ黒な腐る直前、みたいなアボカドが発生してしまう訳です。人生…否、アボ生(アボカドの人生)に於いて、想定以上の人間による握力をスーパーマーケットに於いてそのアボカドは得てしまったのです。あまりにルックスが良すぎたために。

結論。良いアボカドを見つけるためには、アボカドと「向き合う」事が必要です。僕は先日、この手法を取って見事2つの見事なアボカドと出会うことができました。その手法を、ここだけの話、皆さんにお伝えしたいと思います。

気になるアボカドは例えば20個アボカドが入った箱がスーパーに陳列されていたなら、だいたい色の具合からして6個くらいになります。(東京都・中野区におけるデータ)その一つひとつを手に取り、決して握ってはなりませんが、そっと手で包み込み、5秒ずつ待ちます。そして、アボカドに問いかけます。

「アボカドさん、貴方は今日のカプレーゼになってくれますか?シチリアの白に合わせさせて頂きたいのですが、如何ですか?」と。そうすると、6個のアボカドが3つくらいに減ります。何故か。アボカドが答えるからです。

そうして3つの中から2つを選ぶ。その時に最もこのプロセスで大切なのが、「僕は貴方が好きだ、そしてきっと貴方も僕のことを好きでいてくれていると信じている、だから、カプレーゼにならないか」という気持ちです。

ここには、一種の諦めの感情も入ります。「駄目かもしれない。もとい、これはもう無理に等しいかもしれない。けれど、僕は貴方を選びたい。心のそこからそう思っている。それで二人繋がれたなら、一緒にカプレーゼしたい。」

そういった気持ちで、アボカドと最後の最後は対話し、向き合う。本当に好きなアボカドでなければ(たとえばどんなに見渡しても青いアボカドしか無いとか)、もうそれは無理して買う必要は無いのです。諦めましょう。けれど、運命的なアボカドと繋がれることができたなら、貴方の食卓はきっと、本当に素敵なものになるはず。

思い返せば、中学校の時の恋愛ってこんな感じだったな、って思います。誰かが好きで、好きという思いを伝えるためには、付き合って欲しいという一つのゴールの提示が必要である。付き合うって良く分からないし、付き合ってどうなるかも分からない。けれど好きな人と一緒にいたい。その気持ちだけは確実に、ここにある。

そういう気持ちで試しに先日アボカドを、スーパーの買い物カゴという名の、放課後の体育館に呼び出して、「今日の夜は君をオーストラリアの微炭酸のモスカートと一緒に食べさせてほしい、わさび醤油に和えるのと、マヨ醤油に和えてレタスの上に盛り付けてサラダにさせてもらうのと」いう話をしたところ、アボカド2人(2個)ともオーケーをもらうことができて、素敵な夕食を過ごすことができました。

え?アボカド一個一個に対して、みやたけ、一途じゃないよね?二股?いやいや、だってそれは2個のアボカドがディナーで必要だったから仕方がないんです。あくまで食材の買い物ですから…

31歳独身男性、彼女もいないことは、アボカドのせいには、しないでおきましょう。だって、僕はアボカドが好きだから。あと二股もしないし。

けど放課後の体育館の描写は、良くなかったかもな。教員には、ならないでおきます。やれやれ。


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