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【小説】35才、雨に片想い。

 雨が好きだ。すべてを洗い流してくれるから。

 35才。バツイチ子持ち。と言っても、子どもは元パートナーが引き取ったため、ただの独り身。

 何度めかの転職ののち、今の職場に納まった。これまでのスキルを評価され、ある程度の自由を許される環境には感謝しかない。と言っても、感謝の矛先は大学の同級生で、社長である寺前なのだが。

 離婚で心身ともにやられていたのを見兼ねて拾ってくれたのだ。

 寺前は早くに独立し、小さなデザイン事務所を立ち上げた。人を雇うことなく、営業から制作、事務に至るまで一人でこなして、少しずつではあるが規模を広げていた。“ちょうど”人手が欲しくなったときに私が目に留まった、というわけだ。

 以来、営業を中心に、彼の手が離せないときには制作まで任されている。

「傘ってのは雨が降らなきゃ邪魔なだけだろ?おれは不要なものは置いとかない主義なんだ」

 事実、寺前のオフィスは異様に物が少ない。一度、デスクに書類を散らかしていたときには、こっぴどく叱られたものだ。

 そんな彼が私を置いている、ということは少しは必要とされているのだろう。

 進学校から有名私立に進学し、それなりの大手企業に就職した。会社の同僚と交際し、職場結婚。数年してから子どもを授かった。仕事も順調で、企画を任されるなど、端から見ても順風満帆に見えた私の人生。もちろん、私も何の不満もなく生きてきた。

 それが。一度の過ちですべてを失った。

 それから、私の人生は曇りがかって、晴れ間を覗かせることはなくなった。

 かろうじて、月に一度、子どもには会わせてもらっているのは救いかもしれない。最近ではようやく、少しは笑えるようになってきた気がする。


「…さん」

 ふと我に返り、私を呼ぶ声に顔を向ける。

「大丈夫ですか?」

 申し訳ありません、と笑顔をつくり、会話に戻る。

 今日は寺前から引き継いだ仕事の打ち合わせでクライアントの元へ訪れている。喫茶店が代替わりで父から娘へ引き継がれ、それに伴ってリニューアルする。そのブランドデザインを寺前が引き受けたのだ。

 しかし、寺前は別件で手一杯だとこちらに回してきた。自分で受けた仕事なのによいのかと尋ねると、知人だから問題ない、と返してきた。

 私は知人こそ、自分でやるべきだと思うのだが。

 なにはともあれ、今日はその顔合わせ。

「雨、降りそうですね」

 彼女は嬉々とした表情を浮かべ、窓の外を見た。

「お好きなんですか?」
「え?」
「雨」
「あ、やだ、顔にでてました?」

 ケラケラと笑いながら彼女は仕事の話に戻す。特に詮索することもなく、その後は彼女の希望を聞いた。

 若い女性だし、てっきりオシャレなカフェにリニューアルするのだと思っていたら、純喫茶の趣を残して、看板やメニューだけ若者にも響くようにしたいのだそうだ。

「私にとっては、喫茶店ってこのイメージが強くって。古くさいかもしれませんが、居心地がよくって、ムリしてない感じが好きなんです」


 帰り道、ポツリポツリと雨が降りだしてきた。

 用意周到な人が傘を差し始め、足早に軒下へ急ぐ人が通り過ぎていく中、雨にうたれながらオフィスへと足を進める。

 どうせ新しくするのならば、いっその事すべて変えてしまえばよいのに。先ほどの打ち合わせを思い出してそんなことを思う。

 変えられる機会などなかなかないのだ。それは望んだからといってやってくるわけではない。ならば、変えることは、その機会を得た者の責任なのではないか。

 そう、すべてを変えられたらどれだけよいか。

 変えられない者の愚かな妬みなのだろう。わかってはいるが、そんな感情が湧いてくる。つくづく、嫌味な人間になったものだ。

 そんなことを考えながらオフィスに戻ると、寺前がPC越しに声を掛けてくる。

「入ってくるな。オフィスが汚れるだろ。今日はそのまま帰れ」
「ああ」
「そこの傘、使えよ」

 傘立てには傘が2本差してある。

「黒はおれのだからな」
「お前、なんで傘は置いてるんだ?」
「決まってるだろ、必要だからだ」

 もう一本の傘を取り、オフィスを出る。


 帰ってからの記憶はない。おぼろげな視界から、雨を浴びてびしょ濡れになったスーツは無様にハンガーにか けられているのが見える。

 身体を起こそうとするが、全身にだるさが蔓延している。頭も重い。

 時計を見ると、針はまだ真下を通り過ぎていない。

 はいつくばりながら、薬を探しだすと、なんとか口に放り込む。

 週末は月に一度の面会だというのに、熱をだしてしまった。またくどくどと文句を言われるに違いない。まあ、 自業自得なのだが。


 高校生の頃からだ。なにかあれば雨に濡れるようになったのは。

 最初は、2年付き合った彼女に別れを告げられたとき。川べりに放心状態で座り込む僕に、雨は容赦 なく降り注いだ。

 しかし、それがなぜか心地よく、いつの間にか、地に打ちつける雨音に夢中になっていた。

 雨は私を救うために降るのだ。

 雨の降る中で、一人傘も差さずに立ち尽くし、傘の陰で顔のわからない人が私を避けるように交差している。

 知った顔も、知らぬふりして、通り過ぎていく。

 それでも、私はここに立ち続けるのだ。


 目を覚ますと、時計の短針は七と八のあいだに収まっている。

 身体を起こす。

 今度は言うことを聞いてくれた。

 身支度を整える。

 カーテン越しに外を覗く。

 空は薄暗く濁っている。

 いっぱいの水を飲みほすと、玄関の取っ手に手をかける。

 視界に傘が入る。

 手を伸ばしかけるが、それが傘まで届くことはなかった。

 そして、今日も同じ過ちを繰り返す。

 私は雨が好きだ。すべてを洗い流してくれるから。

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