子供たちは気づいている

“敏感”という言葉は様々なものに当てはめることができる。例えば、天敵の視線を察知できる小動物も敏感であるし、大きい音が苦手な人々も敏感であるだろう。
もっとも私に身近なことを挙げるとすれば、小学校や中学、高校に入りたての新入生の子供たちにその言葉が当てはまる
彼らは非常に好奇心が豊富でどんなものにも興味が沸き、知ろうとする。幼い子供たちが一点を見続けることなくキョロキョロとあたりを見渡すのもそのせいだろう。
 新しい世界に入った子供たちは、窓の埃一つ見逃さぬよう周りを観察する。
その視線が向かう先は、初めてみる担任が話す言葉かもしれないし教師が怒鳴っている場面かもしれない。彼らは自分にとって良い人、悪い人を無意識のうちに区別し始める。
 子どもというのは敵味方という存在に非常に敏感である。大人と比べ自身を守る術を知らない子供たちにとって危険な存在を察知するのは本能的なものだろう。
しかし、年齢が上がるにつれ様々な柵や義務などで敏感さというものは徐々に薄れていく。「体育会系の教師は理不尽に怒っている様にみえ、実は子供たちのことをよく考えている」こう言った考えも漫画やドラマなどで植え付けられたものだろう。無論すべての体育会系の教師が子供たちのことを考えていないというわけでない。体育会系に限らず本当に子供たちのことを考えている教師が大多数であると私は信じたい。
私が伝えたかった事というのは先ほどのような考えが増えれば増えるほど他人の善悪というものは見分けずらくなるということだ。
そういった柵がない子供たちというのは、簡単に人の心のうちを無意識に感じ取ってしまう。どれだけ良い人のように見せようと純粋な眼はごまかせないだろう。
大人たちは今すぐに色眼鏡を外さなくてはならない。そして子供と同じ立場で物事を観察する必要がある。
 今を生きる子供と大人の間に求められていることではないだろうか。

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