閑話休題④

私の血筋というのは、父方が統合失調症の家系なのだ。
家系というときに、具体的にどういう事が起きたのかというと、霊能占いをする人がいたり。入院する人、通院する人がいたり。
親戚の、幻覚などの症状を使った商売は、一時期大当たりしたようだった。家が一件建った。何でそんな商売が成立したのかといえば、霊などを信じる人が周囲に沢山いたからなんだろうな。

私の場合は、三歳ごろに発症したために、母親が病院に連れて行く事をしなかったのだった。
なぜかといえば、1980年代の精神疾患に対する意識だとか治療法は、不治の病、業病、隔離、投薬による廃人化といった、ネガティブな情報しか無かったのだ。母にしてみたら、子供を精神疾患の患者として受診させるのが、忍びなかったのだと思う。

結果、宗教に頼ることになった。初めは母が宗教に頼ったのだけど、だんだん私の方が、宗教に依存する事になった。
その根本的な動機は、恐怖だったと思う。
仏や先祖が見えるのが精神疾患の症状だとしたら、私はいとこのように、鉄の扉がある病院に入ったまま出られない。窓には鉄格子があって、いつも薬をのんでいるので何だかぼんやりしている。たまに正気になると、自分の境遇を嘆いて泣いている。そんな、いとこのようにはなりたくなかったのだった。だから霊的存在を認めている、宗教の世界に身を隠すように生きていたのだった。

だけど、そんな世界に実際入ってみたら、愛や平和、幸福とは程遠い世界だった。結果、うつ状態になった。そして、宗教の世界から離れたのだった。
世の中の人は言うだろうか。そんなのは当たり前だろうと。

私が今どこからこの文章を書いているのかといえば、それは、世間から隠れて生きてきた人間の目線で話している。

福祉の歴史というのを、授業で何度も聞いた。
精神障害者に対する施策というのは、偏見の歴史でもあったのだ。
私にとってその授業内容は、他人の話では無いのだった。
自分もまた偏見を持っていて、その偏見に恐怖し、「病気の症状を神の技として解釈する」宗教世界に逃げ込んで身を隠していた、ただの人間なのだ。

こういう事を自ら言えるためにはまず、安全なところにいなければ言う事はできない。「私は病気です」と安心して言えるのは、安全が保障されて初めて言う事ができるのだ。

そんな事を、連載の方で語ろうかと思ったんだけど、なんだろな。
タイトルのある文章が「スピーチ」ならば、閑話休題は「庭先の立ち話」。
スピーチだと、そう思う根拠を提示するなりして、体裁を整えないといかんでしょう。など考えているうちに、こうなりました。

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