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「許せる理由」がある!

先日、近くの公園にて。日曜日ということもあって、公園では家族連れや僕と同じくウォーキングに取り組む人たちをまばらに見かける。隅の方のトイレの前に腰掛ける60歳くらいの男性の姿。見れば、タバコを吸っている様子。その辺には喫煙所の表示はないし、灰皿もない。ここでの僕の脳のつぶやきは、

「あらら、今どき公園でタバコ吸うなんてなぁ。子供も多いのに。『公園内は禁煙』とかあたりまえじゃないんかね~。」

といった、軽く「嫌だな~」的な感情。ちょうど近くに看板があるので覗いてみると「公園内の喫煙は離れた場所でマナー良く」といった内容。この公園は喫煙OK。それを見ると「ああ、吸っていいんだ」と、さっきまで嫌だと思っていた感情がサーっと晴れる。

ということがあって、しばらくとぼとぼとウォーキングしながら考える。「はて、自分は何に『嫌だなぁ』と思ったのだろうか」と。公園でタバコを吸うということにか、ルールを守っていないのではないかということにか、正義感の代表者としてか、なんなんだろう。そして、ルール上問題ないと分かったらなぜ別に気にもならなくなったのだろうか。おじさんはその後もしばらくその場でタバコを楽しんでいる。それを見てももう何も思わない。もし、看板に「公園内は禁煙」と書いてあったり、まあ、何も書いていなくてもその姿を見るとモヤモヤし続けただろうに。

脳の機能としては、まず「直感」→そのあとに「理由づけ」であることが多いと聞いたことがある。とすれば、まずはその姿に嫌悪感を抱いて、そのあとに「今どき公園で吸うなんてなぁ」とか「小さい子もいるのになぁ」と嫌な理由を強化していったということだろう。しかしルールが悪くないと分かると理由は変わらないのに、直感である嫌悪感が無くなる。こういうことはいろんな場面であるような気がする。

ここ最近は何かと、ネットやテレビでも、浅い正論を盾にちょっとしたことを集団で責めたり、ルール厳守のヒーローシンドロームといったような自己顕示欲が強い場面を見かけることがある。いかにも世の中はイライラであふれているようにも見えるが、一枚剥がすとそんなものは無かったりする。

直接自分に実害がないのに「なんかいや」という感情。

これは理由があれば無くなるのであれば、なんでも理由があることにしてしまおう。具体的でなくても、本当のことでもなくても理由があることにしてしまう。「だってあなた、この前イライラが無くなったじゃない!」と思いだす。そうやってなるべく穏やかに過ごしたい。「許せる理由作りの名人」になりたいもんだ。

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