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<心の深呼吸 #2>気持ちを処理できない人へ、古今亭志ん朝師匠のススメ

みなさんこんにちは。
そして読んでくださってありがとうございます。




もういなくて本当に残念だと思う有名人のダントツ1位、
わたしにとっては永遠に古今亭志ん朝師匠だ。

同じ時代に生きていたのに、
テレビで見て知ってもいたのに、
志ん朝師匠の落語を聞いたのは亡くなった8年ほども後だった。


それまでも落語は聞いていたが、
時間があって面白そうだと思えば独演会に行ったり、
チケットが取れない噺家のDVDボックスを買ってみたり、
でも昔の大御所たちの落語を聞き比べるような熱心さはなく、
好きだけどハマるほどではない、というふうな位置づけだった。


あるとき談春師匠の『赤めだか』を読んで、
休みの日に志ん朝師匠の落語を聞いてみたらすごかった。

これはヤバい。

こんなのすごすぎる。

わたしが落語を聞くと知ってるんだから、
誰か教えてくれてもよかったじゃないか、とあべこべに憤った。

冷静になると、自分のリサーチが甘すぎて落ち込むほど悔やんだ。
亡くなっているとはいえ、その道の名人は押さえておくべきだった。
顔も職業も知っていたくせに思い出しもしなかった。
あの血統の、あんな名人の落語を聞いたこともなくて、
いろんな人に「面白いから」と落語をすすめていたことが恥ずかしい。

DVDの志ん朝全集と、シリーズ化されたCDを別に何枚も買って、
それからは朝も晩も志ん朝師匠を聞いていた。
通勤時はイヤホンで、車ではCDを、
家では見ていなくてもDVDを流しておいた。
食事をしながら、買い物をしながら、
とにかく四六時中、馬鹿みたいにそれしか聞かなかった。
もうほかの誰の落語も聞かなくていいや、と思うほどだった。


熱中していたあの時期から十数年たって、
飽きるほど聞いたはずの話でも、
やっぱり寝る前には志ん朝師匠の声を聞きたくなる。

師匠の落語を聞いていると、
あの声のトーンと語り口があまりに気持ちが良くて、
まるで自分が感情を持て余して吐露したら、
相手が的確な合いの手と丁度よい分量の同調を与えてくれたような、
「気が済んだ」感じがして激しく心地よい。


『赤めだか』の中で談志師匠が言った言葉のひとつ。

「落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ」

これが落語ブームに乗って流布されたように感じるが、
落語じゃなくても人が声に出す言葉の伝わり具合は、
あらかたリズムとメロディにかかっていると思う。

だって、ロボットが言う
「ワカルヨ、スゴク」
では、とうてい気が済むとは思えない。
短くてもそこに抑揚があるから、
その抑揚に表れた気持ちを感じ取って、気が済むんじゃないか。


気を済ますために人にうっかり悩み事なんか話してしまって、
「言わなきゃよかった」と後悔することは少なくない。

それなりに人生経験を積んで成長すれば、
原則自分の問題は自分しか解決できないとわかっている。
わかっちゃいるけど人間だから文句のひとつも言ってみたいし、
会話の中から別なアプローチを見いだせるかもしれないし、
ただこの不合理さをひととき共感してもらえれば、
心が軽くなるから、
だから人に聞いて欲しいのだ。

なのにやたらとポジティブ思考をレクチャーしてきたり、
聞いていると思えば途中から自分の話にすり替えてきたり、
知っている話とわずかでも似た部分があると一方的に決めつけてきたり、
そうでなければ過剰に心配したり同情したりして、
どんどん問題を大きいものに感じさせるような結果を引き起こす。
悪意なんてなくても、本当に「言わなきゃよかった」人になる。


人の言って欲しいことを言い、
褒めて欲しいであろうところを褒める。
たまに反論するとみせかけ、解説させてより納得してみせる。
昔の幇間はまさにその道のプロだったろうが、
人の気分を良くしてやろうと思ったらこういうことが必要だ。

自分の能力や存在の顕示欲をひととき捨てて、
ただ目の前の相手の気分だけに注力する。
甘く見たり軽んじてそうするのではなく、人を立てるという意味で。
さりげなくそうすることができるようになりたいし、
そういう気遣いで話を聞いてもらいたい。


でもたまたま身近にそういう人がいなかったら。

理不尽なことを言われても言い返さず、
グッと飲み込んで粛々とやることを済ませたような日、
もしそのまま暗い気持ちで布団に入ったなら、
ぜひ志ん朝師匠の「大工調べ」でも聞いてほしい。

大家に向かって切る棟梁の啖呵は、
「言わなきゃよかった」人に話したときよりはずっと、
爽快感を与えてくれるはずだ。


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