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ICHI-Love is there, even when it's invisible-

鉄路の先に雪雲が重く垂れ込む、冬の夕暮れ。
 片田舎にある寂れた駅のホームは、冷たい風に揺られる枯れ草のように、ひっそりと静寂に包まれていた。
私は古びた待合室の窓際に立ち、外の景色を眺めるくらいしかやることがない。
吐く息が、微かに白く浮かび上がっては消える。
 毎年、この季節だけは特別に感じる。先輩が、都会から帰ってくる。もう何年目だろうか。
「また今年も忘れられなかった」
 と毎年ボソッと呟いている。
 遠くに電車の音が聞こえ始めるのと同時に、心臓が密かに高鳴る。
「落ち着け、落ち着け」
 そう唱えれば唱えるほどに心音は音を増す。今年は暖冬だとニュースで毎日言っているくせに、
まるで先輩の到着を祝福するかのように、銀色の結晶が静かに降り始める。

「ただいま。背伸びた?」
「もう伸びる歳じゃないですよ。おかえりなさい」
 イチジクの香水。その香りを嗅げば、いとも簡単に高校時代の思い出が色を持ってよみがえる。
夕暮れ時、先輩が数学の解き方を丁寧に説明してくれた日々。どうしても解けないフリをして、わざとあの時間を引き延ばしていたことは、実はバレていたのだろうか。背が高く、いつも落ち着いた物腰で、後輩みんなから慕われていた先輩。
私は黙って先輩を見つめ、心の中で想いを積み重ねていた。
 告白することはなかった。
言葉にすれば、簡単に壊れてしまうだろう脆く儚い想いだった。
代わりに、遠くから先輩を想う日々を誰よりも長く紡いできたつもりだ。

 昨日洗車したばかりの軽自動車の助手席に先輩は乗り込む。
 座った先輩から漂う、懐かしいイチジクの香り。
都会での暮らしの話をつらつらと業務報告のように述べるその唇のほくろに「ああ、あの人だ」と安心してしまう。
「こっちのつまらない話はどうでもいいんだよ。最近はどう? いい人はできたりした?」
 毎年恒例のこの会話。私にだっていろいろある。先輩の思い出の中だけで生きているわけではない。
誰かに思いを寄せられたり、つまらない誰かと体を重ねたり、そのせいで誰かに恨まれたり、人の少ない田舎ながら何かと話題はある。それをすべてひっくるめて、こう返す。
「できませんよ。そういうの、ずっとないです」

「そっか。今年こそ違う答えが返ってくるのかなって、電車の中で考えたりしたんだよ」
 その言葉が何を意味するのか、考え込んでも無駄な気がして、「へへ」とだけ苦笑いを浮かべる。
  赤信号になり、ゆっくりとブレーキを踏む。
「来年結婚するから、もうお迎えお願いできないかもな」
 先輩にとっては何気ない一言だっただろう。けれど、その言葉は私の胸に小さな痛みを走らせた。
 車を走らせながら、フロントミラーに映る自分の眉間を確認する。ゆっくりとその皺を伸ばし、平然を装ってから
 横顔をちらりと見る。先輩は外の雪景色を眺めながら、穏やかに微笑んでいた。
「どんな人なんですか」
 私にしては大胆な問い方だと思った。どこにそんな勇気を隠し持っていたのか。
自分の喉元にナイフを突きつけているような気分だった。
「いい人だよ。ちょっとだけ似てるよ」
「私にですか?」
「うん」
「じゃあ、今からでも考え直したらどうですか。ろくなやつじゃない」
「騙されてんのかな。勝手に優しい人だと思ってたよ」
 そう言って先輩は笑った。

 毎年、律儀に届く先輩からの年賀状。高校生の頃からだから、もう十年弱になる。
風習を重んじて、毎年律儀に地元に帰ってくる先輩のことだから、今年もきっと……。
 来年には結婚相手との写真が添えられるのだろうか。そのまた翌年には……
想像したら鼻の奥がツンと傷んだので強がりを丸めて投げつける。
「先輩。年賀状、もう送らなくていいですよ」
「そう? もうそんな時代でもないのか」
「たまに連絡ください。春にでも、夏にでも」
「かき氷の写真とか送りつけようかな」
「校舎裏のたこ焼き屋さんのかき氷、よく食べてましたよね」
「あの頃最先端だったよね。ふわふわのかき氷」
 聞きたいことはいくらでもあるのに、なにから尋ねていいか分からず、チラチラと先輩の唇を横目で眺める。
「私に会うことって、結婚相手にはどう伝えてるんですか?」
 こういうじれったい質問をされるのは苦手な人だと知っている。でももういいと思えた。
今更嫌われようが、もう何もどうにもなりはしない。
「後輩に駅まで迎えにきてもらうって伝えてるよ」
「やっぱり後輩ですか、私」
「君がずっと後輩でいてくれるから、胸を張って後輩だって伝えられる」
「いてくれるって……」
「ありがとうね。ずっと、長い間。うん……ありがとう、が正しいな。正しい方の言葉」
 息を飲み、ひとつ間を置き、なるべく声の震えを押さえつけながら口をひらく。
「正しくない方の言葉は?」

「気付いてたのに気付かないフリしてた。好きだったよ。言わなかったけどね」
 言葉はないまま、いつも先輩が降りるスーパーマーケットに辿り着く。

「またいつかの冬にね」
 手を振って去っていく先輩の後ろ姿を、降る雪がキラキラと彩っていた。
助手席に残る香りは、未完の物語のようにそっと私の心を撫でる。

 実りある恋だった。私には十分すぎるほどの思い出。

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