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拳法無頼ジンノー「絶殺の拳士と不死の姫君 の1」

 人類と魔族の大戦争の終結から9年、荒れ果てた大陸の片隅で一人の拳士と一人の少女が出会う。絶殺の宿業を背負うモンクの男、ジンノー。不死の宿痾を患う少女、シャオファ。二人の出会いは大陸の陰に蠢く強力凶悪なる存在『魔人』との戦いの始まりであった!


「ハァハァ……!」

 荒く、大きく肩で息をしながら青年は血走った目で己の拳を見た。緊張で堅く握り込まれ、開くこともできないその拳にはべったりと鮮血がこびりついている。

「ハァハァ……!」

 青年の前には男が一人倒れている。歳深い、禿頭の老爺。粗末な僧服から、その老人は僧侶だとわかる。
 老人はごくわずかに身じろぎするばかりで、起き上がる気配などない。
 死だ。その老人は死を得ようとしている。青年の拳によって、致命の傷を負ったがゆえに。

「お、お師匠さん……」

 喉の奥から絞り出したような青年の声に、師匠と呼ばれたその老人はゆっくりと目をあける。
 心の臓を打ち貫かれた失血のせいで最早乾ききった唇をうごめかせながら、最後の力で老人は呟く。

「——これは『枷』である」

 焦点の定まらぬ瞳ではあるが、その言葉が青年に向けてのものであることははっきりとわかった。

「我が命脈断つことにより、おまえのその『おぞましき力』に枷をかけるものである」

 おぞましき力。それは青年が、師の命を奪うこととなった元凶なりし力だ。

「お師匠さん、わしは、わしは……」

 青年は膝をつき、血に染まったままの拳を震わせる。悔恨の念に食いしばる歯は、ギリと軋んだ。
 それを見てとったわけでもないであろうに、老人はふと笑んだ。

「……すまぬ。私がおまえにしてやれることは、最早このくらいの事しかないのだ」

「!」

 青年は目を見開く。これは望まぬ戦いであったが、それでもなお青年が自ら選んで行った戦いだ。その結果に命を奪われてなお、弟子である青年を思う心がこの老師にあった。
 わかっていた。自分が戦った相手とはそういう人であることを。わかっていたのに……!

「……気にするな。たかが老いぼれの命一つ、投げ捨てるのに惜しいことなど何も無い。そんなことよりも——」

 老人の頬を、つと涙が伝う。

「私にはおまえの行く末のほうが案じるに辛い。おまえの得たその『力』はあまりにも大きく、おまえの運命を変質させ、捻じ曲げるものであろう。おまえはもう——人の世の中では生きられぬ!」

 絞り出したその慟哭の声を最後に、師の身体にわずかに残っていた力は失われていく。

「……許せ、この不甲斐なき師を……すまぬ、おまえの助けにならぬことを……すまぬ……すまぬ……」

 師はただ、命が失われるその瞬間までそう繰り返すのみであった。

   ●

「……っ、急がなければ!」

 木々もまばらな荒れ果てた街道を徒歩で駆ける少女が居た。
 フード付のコートを羽織った簡素な旅装姿。年のころは15、6ほどであろうか。
 目深に被ったフードの下からは美しい金色の髪、そして意思の強さを思わせる深い藍色の瞳が見える。
 その顔立ちは端整であり、長旅を経て薄汚れたであろう姿であってもなお輝く気品があった。
 美しき少女は走る。荒く息を吐きながら、頬を紅潮させ必死の様子だ。
 その訳とは——

「ハァ——ッ! ハァッハァ——ッ!」

 声高く激を飛ばし地響きを立てながら、少女が走り来た方向から迫る影がある。剣を差し、鉄の鎧をまとった重武装の騎兵が5騎。それが彼女を追っていたのだ。
 徒歩と馬。その機動力の差は歴然であり、騎兵たちは瞬く間に彼女へと追いついた。

「きゃあっ!」

 兵士たちは馬を巧みに操り、少女を取り囲む。追い立てられた少女は転倒し、街道の脇にあった樹木——古い林檎の木の陰に倒れこんだ。
 少女の動きが止まったことを確認すると兵士たちは下馬し、その手に剣を携えて彼女へと迫る。

「——もう逃げ場はありませぬぞ」

 兵士たちのうち、隊長格と思しき中年の男が声をあげる。顔に古傷のあるいかにも歴戦の兵士といった風貌の男だ。
 少女はにじり寄る男たちから後ずさりながら、気丈にも彼らを睨みつける。

「あなた方は! 何ゆえこの『呪い』を欲するというのですか! これがいかに邪悪なるものによる産物であるか、それを知っての狼藉ですか!」

「さて……我らは『領主様』によりあなたの捕縛を命じられただけでありますれば、命を果たすだけのこと」

「愚かな……! 仮に無知なる走狗であれど、越えてはならぬ一線というものがあることを弁えなさい!」

「口を慎まれよ姫君。あなたの捕縛の条件に、五体満足でなければならぬなどということは無いのですぞ……!」

 不快げに眉を寄せた隊長格の男が手で合図をすれば、兵士の一人が進み出る。いかなる邪な意図のもとか、野卑た笑みを浮かべた男が歩み寄る。
 伸ばされる手からせめてもと身を守ろうと、己の身体を抱いて少女は叫ぶ。

「神がこのような破廉恥な振る舞いを許すはずもありません! 必ずや天の裁きが……」

 気を振り絞り発した気丈なる警句も虚しく響くのみ、兵士の男には通じない。
 大陸全土を巻き込んだ恐ろしき『大戦』の終結からおよそ9年の月日が流れた。しかしいまだこの大陸の大地も、自然も、そして人心も安らぎを取り戻してはいない。荒廃した人の心はたやすく悪道への道を拓いてしまう……。
 もはやこの地に正しきものなど何一つ残っていないのだろうか? 少女が諦めかけたその時——

「——五月蝿ェなぁ」

 声が響いた。

「!?」

 驚いたのは少女と兵士たちだ。声はまったくのいきなりに、そして彼女らのすぐ傍から聞こえた。

「人がいいユメ見て昼寝してりゃ耳元でゴチャゴチャとよぉー……。他所でやれってんだ」

 深く、低い男の声。若者でもなく、かといって年老いてもいない。ぞんざいで尊大な話し口。
 その声が発せられた先、それは——

(木の後ろ!?)

 少女がすがり伏す街道脇の林檎の木。その真後ろ、背中合わせ。そう気づいた時にはもう、

「ぐあっ!」

 少女に近づいていた兵士の腕を何者かが掴んでいた!

「ぐっ、があああ……!」

 木を挟んで背中越しに、後ろ手で伸びた手は兵士の腕を万力のごとき強力で握り締め、そして——

「ぎゃあああっ!」

 叫びとともにボキリ、と不快な音が少女の耳元で鳴れば。腕を押さえて兵士が後ずさる。兵士の腕はあらぬ方向に捻じ曲がり、脂汗を流しながら蒼白となった顔面は苦痛に歪んだ。
 兵士の腕は完全に折られていた。後ろ手という不自然な体勢であるにもかかわらず大の男の腕を枯れ枝めいて無惨に折り砕いたのは、その力もさることながら人体構造を熟知した卓越した技量の持ち主であるからか……。

「ああ、うるせェうるせェ。いい大人がぎゃあぎゃあ喚くんじゃねえよ」

 言いながら木の陰から立ち上がり、姿を現したのは一人の男。
 ——まず目に付いたのは漆黒の色だ。
 それは飾りげのないややゆったりとした、男の羽織った上着の色。そのような衣服を身に付ける者を心に浮かべ、少女は思わず口に出した。

「僧侶、様……?」

 事実それは僧服であった。正教会の一部の宗派のものが好んで纏う、丈の長いゆったりとした、しかしそれでいて動きやすさのある装束。男はそれを着込んでいた。

「『僧侶様』ときたか」 

 少女の呟きを聞いて、僧服の男はクツクツと皮肉げに笑う。まだ若さの残る痩せた顔つき、やや目尻の下がった三白眼の上の、太い眉が笑みで曲がった。
 立ち上がった男の背丈はさほど高くはない。取り囲んだ兵士たちの中には男より頭一つ高いものもいるほどだ。体格にも恵まれているとは言えず、筋骨隆々……などとはとても言えない。僧侶特有の粗食の習慣が影響しているのか、どちらかといえば平均よりも痩せているほうであろう。

 ——しかし。

「ぬ、ぬうっ……」

 兵士たちは呻き、わずかに後ずさる。僧服の男の放つ独特の気配……威圧感のせいだ。
 動きそのものは気だるげであるのに、その立ち居姿には一切の歪みも澱みも無い。
 例えるならばそれは『深々と大地に穿たれた鍛鉄の鉄柱』であろうか。どんなに短くても、どんなに細くても、鍛え抜かれた鉄柱が地に根を下ろしていれば誰であろうともその堅固さを想像せずにはいられないだろう。男にはそのようなアトモスフィアがあった。

「ふぅ……わぁーあ……っと」

 当の男は意に介した様子も無く、のん気に欠伸をしてみせる(当然、その動きにも隙は無い)。そして右手でボリボリとボサボサの頭を掻かいた時、隊長格の兵士はその右手にある物を見つけた。

「二枚羽の聖刻印(サイン)だと……!」

 頭に上げた僧服の男の右手の袖がめくれ、手の甲が露出すれば、そこには刺青のように刻まれた紋章が一つ。寄り添うように並び、広げられた2枚の鷲の羽の図案。その紋章が意味するものは——

「貴様……拳僧士(モンク)か!」

 荒れる乱の世の中にあっては、神に仕える僧侶であれど暴力沙汰とは無関係ではいられない。僧士とは戦闘訓練を積んだ僧侶のことであり、武器を持ちて神の敵——すなわち悪魔——と戦う者である。
 もっとも今の世にあってはその敵は悪魔などではなく同じ人間であることがほとんどであり、一般的に僧士と言えば僧侶くずれのゴロツキ程度の認識である。
 そして拳僧士とは、僧士の中でも特に素手での格闘術を修めた者のことを指すことが一般的だ。鷲の翼の意匠は拳僧士のものたちが好んで刻むものであり、元はといえばそれは人々を守護する天使の翼であったはずなのだが、荒事に向き合う拳僧士たちはそれを攻撃的な猛禽である鷲のものと書き換えて刻んでいったのだ。それはある種の諧謔か、あるいは彼らの覚悟によるものか……。
 いずれにせよ、二枚羽の聖刻印を刻んだこの男は拳僧士であることに違いはなかった。

「いかにも儂は拳僧士。——礼を言うぞ? よくぞ看破してくれたものよ、とな。なにしろこちとら聖句なんぞ一つも覚えておらんでな。そこな小娘のように、誉れ高い僧侶様なんぞと思いもされたら如何いかんとしたものかと思ったぞ!」

 僧侶——否、拳僧士の男はげらげらと大笑した。

 それに対する隊長兵士は苛立ちを露にする。

「ぬかせ! 邪魔立てするのが生臭坊主とは、始末するのに障りが無くて願ったりよ!」

 そう言って隊長兵士が再び手振りをすれば、今度は二人の兵士が剣を手に男を囲むように進み出る。その動きは捕獲の動きではなく殲滅の動き……つまりこの男を殺すつもりだ。

「ハッ! 遠慮無しときたか! なんともそいつは……お互い様よなッ!」

 男はその表情を大笑から——獰猛なる凶相の笑みに変えた。
 例えるならばそれは餓虎。目前にある獲物を喰らい尽くさねばけして満足しない、恐るべき獣の顔だ。
 そして、まさにその餓虎の如く男は地を疾駆した!

「なっ——」
「——遅いぞ」

 空を切る音すらなく、男は兵士に密着するかのような最接近距離へと踏み込んでいた。その速度は尋常ではない。瞬き一つする間も無く、鍛え抜かれた鉄拳は兵士の胸甲の隙間を縫うようにして鳩尾に突き刺さる。
 槍か、剣か、はたまた弓矢かとも思わせる鋭い打突は人体の急所(簡単には鍛えられない場所だ)を正確に打ち貫いた。

「ぐ、ぐぅげええええっ!」

 勢いで腹が裂けなかったのは幸いか、あるいは苦しみがただ伸びただけか。いずれにしたところ喰らった兵士からすればまさに地獄の苦痛であろう。肺腑の息も吐ききって、悶絶して剣を取り落とす。しばらくは立つ事も難しいだろう。
 これで先の腕を折った兵士と合わせて二人。三人目は——

「お、おのれえッ!」

 瞬く間にうちのめされた仲間の姿に恐慌しながらも、しかしそこは訓練を受けた兵士。迷うことなく手にした剣で斬りかかってくる。
 フッ! と短く吐いた息とともに即座にこれに対応する。
 閃く剣の光は鋭いがしょせんはただの兵士が振るう剣、名のある剣というわけでもないだろう。しかし刃が触れれば名剣であろうがそうでなかろうが、肌を裂き肉を切り骨を断つことは必至。侮ることなく斬撃は回避せねばならない。
 だが、拳僧士は振るわれた剣の軌道を見切らなかった。なんとなれば見切りでは遅すぎるのだ。
 見切るよりも先に拳僧士の身体は動く。振るわれた剣が通る線から一髪に位置取り、すり抜けるようにして剣の間合いを外す。

「!?」

 兵士からすれば自分の動きを予知でもされたかのように感じただろう。だが拳僧士は神ならぬ人の身、未来を予知することなどできもしない。単に最初から、兵士の動きを知っていたからにすぎない。
 兵士が剣を振るうよりも前、先の兵士を拳で倒す前から拳僧士はその動きを『聴いて』いた。呼吸、足音、わずかな身の軋み……攻撃の予兆となりうる微細な動きを肌で感じ取り、無意識レベルに脳内でその攻撃動作を正確に読み切っていた。その攻撃がどう振るわれるのか知ってさえいれば回避などは容易いものである。

「舌を噛むなよ」

 言葉と共に刃が描く斬撃の軌道の内側。つまり兵士の剣を握る手よりもさらに内側に踏み込み、ほぼ背面を向くようにして肩口を密着させ、爆発的瞬間衝撃による体当たりで兵士を弾き飛ばす!
 兵士は衝撃に完全にとらえられ、抵抗などできるはずもなく十数歩分の距離を軽々と宙を舞った。受身すら取れずに落ちたならばダメージは相当なものだろう。大怪我こそしないだろうが、しばらくの戦線復帰は不可能だ。
 腕を折った兵士。拳で昏倒させた兵士。そして体当たりで弾き飛ばした兵士。これで三人の兵士を無力化させたこととなる。次なる相手は——

「おおおおッ!」

 雄たけびを上げながら猛烈な勢いで突進してくる男が一人。今度は聴くまでもない、ドスンドスンと足音を、ガシャンガシャンと鎧を鳴らせば誰でも気づく。
 その気の配びははっきり言って胡乱かつ乱雑。隙だらけと言ってもいい。しかしやはりこれも侮ることはできない。次なる相手、四人目の兵士は単純に——巨きかった。
 拳僧士とてさほど上背は無いといえ大の男であるには変わりない。けして小兵というわけではないはずだが、しかし相手は拳僧士よりもさらに頭1つ分は優に大きかった。背格好から推測できる体重に至っては2倍、いや、3倍はあるだろうか。それほど相手は巨きい。それに加えて、

「俺の鎧は三枚重ねの特注品だ! くわえて全身鎧に隙間無し! 貴様のヤワな拳なんぞ徹らんぞ!」 

 ガシャンガシャンという鉄の音の正体はそれだ。他の兵士が鉄の胸当や肩当、ヘルメットなどといった急所を守るだけの装備であったのに対し、この兵士は頭部からつま先まで全身を隙間無く覆う全身鎧を纏っていた。大男といえどさすがに堪こたえる重さであるのか、その動きこそ鈍重だが——なかなかどうして、その巨体と硬度は一つの武器として十分に成り立っている。
 単純に突進してくるだけでもそれが生半な威力でないことは伝わってくる。ぶちかましを喰らえばただでは済むまい。今までの兵士たちとは格段にレベルは違うだろう。

「はぁ……」

 だがそれに相対した拳僧士は脅威を覚えるどころか逆に、溜息混じりに気のない顔つきでそれを見るばかりだ。まるでそれが最も与しやすき相手であるとでも言わんばかりだ。

「まるで牛かイノシシかという風情よな。よかろう、相手してやるから好きなように突っ込むがいい。ホレ、来い来い」

 肩をすくめ、チョイチョイと手招きしてみせる余裕すらあった。
 当然大男はその挑発に激高する。

「貴様! ひき潰されてもそんなことが言えるものか!?」

 大男は突進のスピードを上げる。武器は持たず、無手のままだ。やはりそのパワーと質量そのものを武器とするつもりか。
 対する拳僧士は軽く手を開いて前に突き出した。それだけだ。構えもしなければ回避する様子も見えない。

「僧士様……」

 戦いを見守る少女は固唾を飲んだ。拳僧士の男の力量が卓絶した物であることは今までの戦いで十分知れている。大男の兵士の突撃も何らかの手段で迎え撃つつもりなのだろうか? 
 少女の心配はほんの一瞬のことだ。瞬く間に距離を詰めた兵士と拳僧士はついに激突する。

「ヒッ……」

 少女は身をすくませた。兵士が勝つか拳僧士が勝つか、いずれにせよ何らかの大きな動きがあるはず。その衝撃はいかほどのものだろう……荒事に慣れぬ少女ではおよそ直視できるものではないはずだ。
 だが——

「えっ……!」

 その予想は外れた。激突の結果は……何も起きなかった。兵士の突進で拳僧士の男が叩き潰されることも、拳僧士の激拳が兵士を打ちすえることも、何も起きなかった。
 ペタリ。そんな気の抜けた音だけが響いたのだ。おそるおそると見やれば、何のこともない。拳僧士の男はただ兵士の胸元、分厚い鉄鎧に手をつけているだけだ。先ほどのペタリという音はこれだ。
 拳僧士は兵士の突進の衝撃を完全に殺していた。より大きな力で弾き飛ばすのではなく、正対した状態で相手から受けた衝撃を全て受け止めその力をまったくの過不足無く受け流したのだ。
 強力でもなく、俊敏でもない、柔軟の技だ。いかな研鑽を積めばこれほどの正確無比なモーメントの制御が可能なものか……。
 そして突進を受け止められた兵士はといえば、

「…………」

 無言のまま立ち尽くすのみ。引きもしなければ押しもしない、ただ受け止められた突進途中のポーズのまま固まっている。

「阿呆が。鉄で着膨れただけの木偶なんぞ、いくらでも始末する方法はあるわい」

 言って拳僧士が手を離せば、ズシンと音を立てて大男は膝を折り、地に倒れこむ。その意識は失われていたようだ。
 自らの突進の衝撃を返されたか? いや違う。拳僧士は完全に衝撃を相殺していた。その時点では拳僧士にも兵士にもさほどダメージはないはずだ。
 事が起こったのはその後だ。兵士から拳僧士へと伝わった衝撃エネルギーがゼロになったその瞬間。今度は逆に拳僧士が兵士へと衝撃を送り込んだのだ。
 ……元来、鉄の鎧というものは受けた衝撃を吸収し分散させることで着用者の身を守るためのものである。もし鉄の鎧をまとったものを正面から殴りつけたとて、生半な力では痛打を与えることなどできやしない。いわんやその意識を瞬時に刈り取ることなどはできようはずもない。
 だが拳僧士はそれを成し遂げた。いかにしてか? それは単純な話だ。拳僧士が送り込んだ衝撃はただの衝撃ではなかったというだけのこと。拳僧士は敵の鎧に密着させた手を離すことなく、全身から発生させた運動エネルギーを鎧の外ではなく内側に浸透させ叩き込んだのだ。
 こうなれば逆に全身鎧を身に付けているほうが不味かった。打ち込まれた衝撃は鎧に阻まれ逃げることなく大男の体内を蹂躙し、最終的には昏倒せしめるに至ったわけだ。

「と、まあこんなものか」
「……」

 これで4人。驚くほど呆気なく完全武装の兵士を仕留めた拳僧士は、一人戦闘には参加せず『見』に徹していた隊長を見やる。

「拳僧士……貴様、大戦帰りか?」

「あ? そういう手前もだろう。手下のモンだけ突っ込ませてオノレは様子見たぁイイ根性してるぜ。そういうこすっからいマネしやがるのは……ふん、まあ御同類か」

 不快げに認め、鼻を鳴らす。その言葉には自嘲のニュアンスが幾分か混じる。
 まだ歳若き少女は知る由もないが、ある世代の戦士たちにとって大戦帰りとはけして軽くない意味を持つ。
 恐ろしき魔族との種族の存亡をかけた地獄のごとき殲滅戦。誰も彼も、そこで生き残るには潔癖とはいかぬ生き汚さを持たねばならなかった。
 ——もしも。清廉さを保ったまま戦い抜くことが出来た者がいるとすれば、それはおそらく『勇者』と呼ばれる——

「で、どうするよ? 儂とやりあうか?」

 不快さを打ち払うがごとく、拳僧士は再び構えを取る。油断無し死角無し。打ち合わば即座に敵を撃滅するがごとき気迫だ。

「作戦の練り直しだな」

 隊長はそれに取り合うことなく、指をパチリと鳴らした。

「ヌウ?」

 拳僧士は怪訝に目を細めた。見やれば、隊長と地に倒れ伏した兵士たちの姿がまるで空に溶けるかのように薄れ消えかかっていく。
 それを見て拳僧士は即座の判断を下した。

「——!」

 ドン! と激しい踏み込みの音と共に拳僧士は隊長に拳を突き出す。……が、それは虚しく空を裂いたのみだった。
 空を切る手ごたえにチッと舌打ちする。

「転移の魔術か……げに狡すからいヤツよ」

 クククと隊長の姿がかき消えた宙空からは、含み笑いの声のみが聞こえる。

『危うい危うい……恐ろしきはその拳の冴え、とてもではないがまともにやりあう気にはなれないな。此度は退かせてもらうとしよう。——そして姫君、貴女の身柄は必ずや確保させていただく。ゆめゆめ逃げられるなどとは思わないことだ』

 その言葉を最後に兵士たちの気配は完全に消え去った。転移の魔術とはあらかじめ設定してある地点(この場合はおそらくは兵士たちの根拠地)に瞬時に移動する魔術だ。秘術というほどのものでもないが、複数人を短時間で同時に移動させるのはそれなりの術者でなければ不可能だ。
 あの隊長はおそらく戦闘技能を身に付けた魔術師である『戦技魔術師』と呼ばれる兵であろう。その練度はかなり高く、大戦帰りかという推測を裏付けさせるものだ。

「ご丁寧に馬まで連れて行きやがった。なんだアイツ几帳面か」

 毒づいて、拳僧士はついに拳を収めた。周囲にはもはや争いの形跡は残っていない。隊長も、兵士も、彼らの乗ってきた馬も存在していなかった。
 残されていたのは——一人の少女のみだ。
 ここでようやく、拳僧士と少女は視線を交わすこととなった。男は憚ることなき不躾な眼差しで少女を睨めつけ、少女はその視線に臆することなくじっと光ある眼でそれに応えた。
 少女はすっと居住まいを正し、地に膝をついて深々と頭を下げる。

「この度は……悪漢共よりこの身をお救いいただき、誠にありがとうございます」

「悪漢共、な……」

 拳僧士はそう言ってふぅ、と煩わしげに息を吐いた。兵士たちの直に相対したその時に、拳僧士は敵の装備を見ていた。規格外のものをつけていた大男もいたが、それ以外の者の装備は揃えの規格品であった。これが意味するところは一つ。

(ありゃ正規兵だな)

 おそらくはこの辺りの領主の直轄軍の一部隊であろう。

 首都から離れた遠隔地の部隊だ、世辞にしてもガラがいいとは言えないであろうが、それでも正規軍であることには違いない。それに追われていたというのであればこれはただ事ではないだろう。
 ジンノーの視線に少女ははたと気づいたように頭を下げた。

「ああ、これは申し遅れました。私、名をシャオファ・リュランと申します。——僧士様、御名をお伺いしても?」

「……ジンノーだ、姓は無え。見てのとおり、根無し草の拳骨屋よ」

 答え、ジンノーはあらためて少女を値踏みする。

(姫とか言われてやがったが、たしかに顔立ちや振る舞いに卑しさはない。ならばこの小娘は何者だ? リュラン、たしか西のほうにそんな名の領主が居たと思ったが……)

 考えるジンノーに少女はまた頭を下げ、訴えかけるかのように口を開く。

「ジンノー様、私は——」

「聞く気は無え」

 何かを言いかけた少女——シャオファを、ピシャリと言い止めた。

「勘違いをするなよ。儂はおまえを助けようとしたつもりなんぞ無い。彼奴きゃつらの振る舞いがあまりに勘に触ったから伸のしてやっただけのことよ」

 ジンノーはシャオファに背を向ける。そして『だから』と言い置き、

「面倒事は御免こうむる。助けを求めるのならば他を当たれ」

 切って捨てる。少女の顔は見ない。おそらく助けを求めるであろう言葉を拒絶され、泣いているか、怒っているか……。それを見るつもりは無い。
 そうして背を向けたまま拳僧士が歩き去ろうとした時、

「助けはいりません」

 今度は娘の側がピシャリと言い止める番であった。
 思わず振り返る。シャオファは泣きも怒りもしていなかった。それどころか——

「……!」

 その顔を見て思わず息を呑んだ。少女の表情は『虚』そのもの、何の感情も無く、何の感慨も無く。それは何かを手放した者の顔だった。
 先ほどまでは強い意思をたたえていた藍色の瞳は空洞めいて深く、魅入るものを底無しの淵へと誘わんとするかのようだ。

「いいえむしろ真逆のこと。私が貴方様に求めるのは助けではなく——」

 かぶりを振り、少女はまっすぐにこちらを見据えて言った。

「私を殺していただきたいのです」

>続く

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ミヤモト・クマゾー
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