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あなたの「最初の上司」は誰ですか?

 最近インタビューしたある起業家の方が「最初にどんな会社に入るかよりも、どんな上司に恵まれるかでその後のキャリア観は大きく変わる」とおっしゃっていた。私もまったく同感だ。
 そして、その点で私はとても恵まれたと思っている。

 私が大学を卒業して就職した年は2001年。今年の春でちょうど20年が過ぎたことになる。

 月日が流れる早さに自分でも驚くけれど、2009年に独立してから12年経った今でもこんなに楽しく仕事ができているのは、新人時代の私を育ててくださった上司や諸先輩方のおかげ。先輩だけでなく、一緒に肩を並べて毎月雑誌をつくっていた同期や後輩の皆さんのおかげであると、心から思っている。

 日経ホーム出版社(現・日経BP)に採用してもらった時のとんでもエピソードについては、すでに書いたことがある。今日はここから先の話をしたい。


 配属されたのは、働く女性に向けた月刊誌『日経WOMAN』編集部。当時の編集長は、木田昌廣(キダマサヒロ)さん。副編集長は、野村浩子さんと行武知子さんだった。ちなみに、同じ年に同じく『日経WOMAN』に配属された同期が、現waris代表の田中美和ちゃんだったというのは、私の自慢だ。

 木田さんはいつもニコニコ穏やかで、新人歓迎会でトトロ柄のネクタイをつけてきてくれたり、「僕の星座、何かわかる? 天秤座だってわかるでしょう? バランス型だもん」と和むトークをしてくれたりと、ちょっと天然なところがあって親しみやすい上司だった。当時、編集部員は全員女性で、木田さんは紅一点ならぬ黒一点。たしかに、調整力を問われる日常だったのだと思う。
 PARCOの情報誌『アクロス』の創刊メンバーとして実績を積まれ、1998年に『日経WOMAN』編集長に就任した木田さんは、平均部数3万部から7万部、10万部台へと押し上げた方。私が入社した2001年、編集部はとても活気に満ちていた。

 木田さんの凄さは今になって分かる。
 なんと入社して1年ほどしか経っていないピヨピヨの私たちに、「巻頭特集キャップ」を任せてくれたのだ。巻頭特集といえば、雑誌の売れ行きを左右する超重要コンテンツである。そのキャップを務めるのは、副編集長やベテランのデスク陣というのがジョーシキ。
 もちろん、副編集長やベテラン記者がガッチリと脇を固めるチーム体制ではあったのだけれど、特集誌面のクレジットのトップにまさか自分の名前が載るなんてと、ワクワクした。

 月1回の編集会議では、ベテランも新人も、同等にアイディアを提案する出番を割り振ってくれて、ちょっと変わった提案をすると会議後のデスク会議に呼んでくれたりした。「ワークライフバランス」という言葉はなかった時代に、「仕事とプライベートの優先順位を考える特集をやってみたい」とほぼ思いつきに近い企画案を出すと、じっくり話を聴いてくれた。

 ある連絡の不行き届きから、取材先を怒らせてしまった時は、一緒に電車を乗り継いで謝りに行ってくれた。その後だったか、たまたま通勤中の銀座線で一緒になった朝、吊り革越しに競合誌の中吊り広告を見ながら、「雑誌が売れた時は君たちのおかげ。売れなかったら編集長の責任だよ」と笑っていた。実際、結果が思ったように出なかった時の責任について追及してされた記憶は一度もない。

 そんな育て方をしてくださったおかげで、私は大いに“勘違い”することができた。
 自分は面白い企画を立てて、実現する力があるんじゃないかと。今思えば恥ずかしいほどに堂々と振る舞っていたと思う。
 でも、この勘違いのおかげで、大物と呼ばれる人たちにも臆せずインタビューのアポ入れをして、撃沈してもめげずにアタックできるようになった。
 自分のアイディアを誰かが面白がってくれるはずで、それを口にしてもいいのだと思うことができた。
 
 木田さんの後を継いで編集長に就任した野村浩子さんも、同じようにのびのびと「信じて任せる」姿勢で接してくれた。
 観光局とのタイアップで私が初めての海外出張、それもずっと行ってみたかったオランダ・ユトレヒト行きが決まったとき、野村さんは「せっかくだから少し日にちを伸ばして、自由に見聞を広げてきたら」と言ってくれた。「現地の通訳さんに頼んでもいいよ」と添えて。
 お言葉に甘えて、私は1日だけ日程を伸ばして首都アムステルダムに宿を取り、現地の女性誌編集長のもとを訪ねてインタビューをした(今はないかもしれない、『SIS』という雑誌だった)。
 もう15年ほど前のことだったが、さすが同一労働同一賃金に基づく柔軟な働き方が進んでいたオランダ。月刊誌の編集長が「私は週3日勤務。他のメンバーもほとんどがパートタイムワーカーですよ」と語ったことに衝撃を受けた(彼女は30代半ばくらい。障がいのあるお子さんを育てながら、好きな仕事を継続できているということだった)。この時に受けたカルチャーショックが、今の私の関心にもつながっている。

 2002年の春、女性のキャリアチェンジをテーマにした特集を野村さんと一緒につくっていたとき、「年表の縦軸を“年収”の数値ではなく、“満足度”という主観スコアにしてみたらどうか」と提案した時、すぐに採用してくれた(実はそれまで、「キャリアアップ=年収アップ」という価値観がスタンダードで、誌面のグラフの縦軸は年収だった)。以来、読者アンケートで聞く項目にも必ず「仕事満足度」が入るようになった。「一人ひとりにとってのハッピーキャリアの多様性を伝えたい」という野村さんの思いを、一緒に表現できたようで嬉しかった。

 オープンにチャンスをいただけたのは私だけでなく、同期の美和ちゃんも、翌年入ってきた後輩たちもとても伸び伸びと育つことを許されていたと思う。媒体のターゲットがたまたま若い女性だったということもあるかもしれないけれど、とにかく私たちは恵まれていた。結果、“キャリアにおける自己肯定感”のようなものが育まれたのではないかと思う。
 この環境が特別だったと気づくのは、入社して6年後に日経BPと合併したとき。私は完全に知識ゼロの専門媒体『日経ヘルス』に配属されたのだが、いつものように自分が感じたことを率直に編集長に伝えるものだから、ちょっと驚かれてしまった。「なんでそんなに提案しようと思えるの?」と真面目に聞かれたこともある。「いいぞいいぞ」と温かく背中を押してくれた当時編集長の西沢邦浩さんにも感謝している。その後もご縁に恵まれて、今、私は同じ業界でフリーランスと生きている。

 大いに勘違いすることを許された新人時代がなければ、私は今の仕事を「天職」と思えただろうか。独立なんて、大それた決断ができただろうか。きっと違ったと思う。

 だから、何も知らない新人を最初に勘違いさせてくれた木田さんには特に感謝したい。けれど、その感謝を今伝えることは叶わない。

 木田さんは、2006年の夏、闘病の末、54歳という若さで逝去された。
 ご家族のお話によると、入院先のベッドで最期までイキイキと、企画の話をされていたらしい。
 私はその頃、何をしていたのか。きっと今と変わらず調子に乗って、取材や入稿に明け暮れていたに違いない。お世話になった上司が入院されていると知りながら、なぜお見舞いに行って、直接感謝を伝えられなかったのか。大きな後悔が残っている。
 ご縁をいただいてから20年の節目に、感謝の記録をここに残しておきたいと思う。

 木田さん、本当にありがとうございました。

 

 
 

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