正しくて、健全で、いい関係
2023年3月
大好きだった人を彼氏と呼ぶのをやめたいと思った。強く強く思った。私のせいで彼の元気がなくなっていくのをもう見たくなかった。彼が変わっていってしまうのが嫌だった。
だけど彼のことが大好きだった。ほんとにほんとに大好きだった。なんとなく、漠然と、能天気に、私達は「恋人」なんて大袈裟な名前がなくてもずっと一緒に居れると思った。
京都からの帰り道の新幹線、彼に連絡をした。その足で会いに行って、いっぱい泣きながら話をした。彼氏じゃなくなってもあなたのことが大好きだと、その時の私に思いつく限りの方法で伝えた。
帰り道の足取りは軽く、新たに始まる関係性が楽しみだった。私の彼氏じゃなくなった彼と、どんなふうにこれから関わっていけるのか、私なりに精一杯考えて、試行錯誤してみたいと思った。
2023年4月
まだ彼氏だった頃の彼に連絡するように、3月の話し合い以降も連絡をし続けた。だけど次第に、少しだけ頻度が減った。
それを望んだのは私なのにやっぱり寂しくて、一度だけ話す機会をもらった。だけど彼はもう以前のようには戻れないと言った。じゃあ今、この関係は何なんだろうと、自問自答する日々が続いた。
まず、私はほんの些細なことでも何でもかんでも報告するクセを正そうと思った。
彼からの返事がなかなか来なくても、悲しんだり嘆いたり、彼に訴えかけないようにした。彼はもう、私の彼氏ではないのだから。
「恋人じゃない」ということだけなのに、それは私と彼の間にちゃんと適切な太さの線を引いてくれる。
気持ちが揺れても、それを報告する相手はもう居ない。彼にべったりだった私にも、辛い時に連絡できる友人が数人だけ残っていたが、その人達にもそれぞれの生活があるから何でも話せるわけではないことを察した。
そして彼にも、彼の時間を彼自身のために使うことを願うようになった。
なにか連絡しようと思っても、それを思いとどまって自分の中で消化しようとし続けていたら、彼が当時彼女だった私に多大な時間と心を割いていたことが簡単に想像できた。
そうやって少しずつ、彼氏だった彼に押し付けてしまっていたいろんなことを、彼なしでも大丈夫なようにしていかなくちゃと思った。
私と家族のこと、私と知り合いの間のトラブル、作品制作のこと、他にも色々。これらを自分自身で乗り越えていくことに前向きになれたのは、彼が私のことをずっと大切にしてくれたからだと思う。
2023年7月
そうして少しずつ、私の生活から、「とりあえず彼に相談し、何かアドバイスを貰う」という選択肢が消えていった。
すると私のことをなんでも知っていた彼が、私のことを少しずつ知らなくなっていく。
それは寂しかったけれど、全然寂しくないふりをする日が続いている。そんなことで寂しがらないのが健全だと思う。だから私も、健全なふりをしている。
ご飯に誘って良いのか、気軽に連絡をして良いのか、どんな要件なら連絡して良いのか、どんどんわからなくなる。
丁寧な言葉づかいが良いのか、フランクな言葉づかいがいいのか、どっちが良いのかわからなくなる。
鈍感な私にも、彼との距離がだんだん開いていくのが手に取るようにわかった。業務連絡しかしなくなるのは時間の問題だと思う。
2023年10月
時々連絡して、時々会う。そんな関係にも慣れた。寂しい時間より、自分自身に集中する時間が増えた。
私の中にはシンプルに、「彼が好き」という気持ちだけが残っている。だけど、彼も私を好きであるかどうかは、どうでも良くなってきた。
だから私のことが好きかどうか尋ねたり、他に好きな人ができたかを尋ねたりすることはない。私は彼を思い続ける中で、「誰かを大切に思うこととその方法」を学ぼうとしている。
何かを期待してるだけの関係よりも、相手に見返りを求めない気持ちのほうが正しいような気がする。
ところで、正しいってなんなんだろう。健全さってなんなんだろう。私は、誰かのことを好きでいることがわからなくなってきた。
2023年12月
今年の私の誕生日は、去年と同じように彼と一緒に過ごしたいなと漠然と思っていた。
予定を彼に確認し、その日は会えることになった。
だけど、京都にある大学との合同ゼミと重なってしまい、彼とは会えなくなってしまった。
自分の都合を優先する形で、彼との予定を断ったことはこれまであっただろうか。
予定を開けてもらっていたから申し訳なかったけれど、彼の中だけじゃなくて、私の中の彼も少しだけ小さくなっているような気がする。
大丈夫、ちゃんと歩けている、と一歩一歩確認しながら、まるで一人で生きていく練習をしているような気分だ。
2023年12月22日
誕生日は会えなくなってしまったから、クリスマスはできれば一緒に、と立てていた予定も、私の都合で断ってしまった。
大学のことでトラブルがあり、気を抜いたら泣いてしまう気がするから、そうやって連絡した。
彼から「わかった、明日はやめておこう」と返事が来た。
年末、30日、彼とカニ鍋をすることが決まっている。その時に、予定をキャンセルしたことを謝ろうと思う。
彼が私に会えなくて残念がっているかはわからないけれど、時間を取ってもらっていたことは確かだから。
2024年1月
彼と会って、食事に行った。待ち合わせの時、いつもと変わらない様子の彼に安心した。
ひとしきり話した後、彼が「今言うことじゃないかもしれないけど」と切り出した。そしてその後彼の口から、新しい彼女ができたことを聞いた。直後の会話はよく覚えていない。
そっか、そうだよね、そんな日が来ると思ってた。だけどやっぱりショックだった。
涙は出るけれど、冗談を言う余裕もあった。ような気がする。びっくりしすぎてあんまり覚えていないけど。
言うタイミングを図ってくれること、わざわざ会った時に伝えてくれること、それら全部に私の知っている彼の優しいところが詰まっているのがわかる。
そんな報告を受けても、私にはなにか意見をする資格もなければ権利もない。だって私はとっくの昔に彼の彼女ではなくなっているから。
彼は「あなた自身にはついていけなかったけど、作家としての宮森みどりは好きだし応援したい」と、去年の3月に言ってくれたことと同じことを言った。
この言葉を、どう受け取ったら良いのだろう。
彼のことがずっとずっと好きだったけれど、付き合っていたときより、彼を彼氏と呼ぶのをやめてからの関係のほうがずっと健全で、正しくて、良かった。
そんなこと私が一番よくわかってる。彼の人生を彼が、私の人生を私がハンドリングしていくような、そんな距離感を望んだのも私だ。
彼の時間や心を彼自身のために使ってほしいと願ったけれど、素敵な人だから、恋人ができてその人を大切にしていくのがよく似合うと思った。
対して私には、そういう関係を結ぶのがあんまり似合わないと思った。だって、「正しくて、健全で、いい関係」を結ぼうと思って望んだ距離感は、たまに会う友だちみたいなものになってしまったから。
彼と付き合っていた時間は、最後に見た夢だと思うことにする。
良く見かけるような幸せを、私も同様に疑いなく手に取れると思って見た最後の夢。
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