それでおしまいにならない (『エスパー魔美』「くたばれ評論家」によせて)

※昔Tmblrに投稿した文章の再掲です

『エスパー魔美』のお父さんが芸術と批評の行儀いいノーサイドな落着を、

「あいつはけなした!
ぼくはおこった!
それでこの一件はおしまい!」

と説く場面がよく知られている。

ただ、これをあまり過度に「あるべき」モデルとしてもてはやすのはむしろ逆に暴力的だろう。たとえば己の愛情の過不足に苦しむ父母に良親であれという道徳圧で追い込むのと同じくらいには。

芸術史に名を残した偉大な音楽家、画家、作家や詩人などが批評家との間で、また同業者同士でも繰り広げた、おとなげなく下品で終生解けることのない怨恨や禍根や軽蔑や差別や偏見狭量にまみれたリアクションは、少なくとも『無遠慮な文化誌』という大著にまとめられるくらいには大量に例がある。

古今東西のdisや批判を集めた『無遠慮な文化史』について - Togetterまとめ

それらは、行儀の良い批評関係を築くべしという良識のトゲにちくちく刺されて「自分はなんと創作者/評者にふさわしからぬ、器の小さくみすぼらしい精神のものか」と無闇にたましいを傷つけられてしまっている向きへの、救いになるのではないか。

私は、創作者の心情とそれに対する批評者の心情において、ぬぐいさりようのない嫌悪がこの世にあることを信じる。
けっして解消されることのない怒りがあることを信じる。
相手の自由な発言は封じて自分だけが好き放題に攻撃したい自己中心性があることを信じる。
だれにも昇華されえない怨みがあることを信じる。
他人が喜んでいるところに冷や水を浴びせかけたくなる意地悪心があることを信じる。
格下な相手をいじめることで自分に箔がついたような気分になる侮蔑があることを信じる。
格上な相手への引け目から生じるねたみがあることを信じる。
なにごともなしていないのに大層な言葉を投げてなにものかになったように思い込む傲慢があることを信じる。
ただなんとなく気に食わないというだけのさもしい反感があることを信じる。
過ちに気づいてもなおつまらない自尊心のため後に引く気にならない固執があることを信じる。
自他のこころもちを貧しくして悦に入らんがためだけの皮肉があることを信じる。
ただひたすら乱暴で雑ないちゃもんがあることを信じる。
悪臭をはなつ淫らで卑しい言葉を吐かずにはおれない衝動があることを信じる。

そうした泥地を慈しんだうえで、そのあとに、魔美の父が言うようなモデルを“有り難い”星として頭上に頂ける範囲で頂いておけばよいのではないかと考える次第である。

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