「わからない」なりに男子のロマンと闘う--いましろたかし『デメキング 完結版』
(初出:旧ブログ2017/09/24)
僕の運転免許証には「平成31年12月まで有効」と書かれている。だがあと2年待ったところで新年号の元年が来るだけで、「平成31年12月」はやって来ない。結果的にそうなっただけとはいえ、身分証明にもなるようなものに「やって来ない時代」が書かれているというのは、なかなかSFチックなものがある。
『デメキング』の舞台は昭和44年、瀬戸内の海沿いの街・安芸ノ浜市。主人公である蜂谷は口数が少なく物憂げな雰囲気ではあるものの、熱心に仕事をこなし友人との時間も大切にする、どこにでいるクールな青年である。「天才」と書かれているヘルメットを被って、海岸沿いの道を昼夜わけ立てなくバイクで爆走する以外は。何故そんな恰好であるかは恐らく蜂谷本人にもわかからない。
蜂谷の憂鬱そうな雰囲気の理由は2年前に遡る。砂浜で拾った瓶の中には巨大な足跡と<デメキング 平成5年8月13日 新宿>と書かれた半紙が入っており、拾うのと同時に巨大な怪物が東京の街を破壊していく幻影を海の向こうに見る。全身を判別することすらできない巨大な怪物がビルというビルを破壊し、多くの子供たちがその下敷きになって落命する。最後には未来の自分らしい人物から「そいつらを助けてやれ お前の生徒や」と言われる。とはいえそんな圧倒的なものを見せられたところで、蜂谷になにができるのかわからない。昭和42年の蜂谷には「平成」がいつやってくるのかさえもわからないのだ。以来地元の少年たちにその足跡の半紙を宝探しゲームの要領で探させたり、上京してからも「闘え友の会」という徒党をなんとなく組んでみたりと、平成という本当に来るのかさえわからない未来を待ちつつ、思いついたことを行動に移していく。
作品全体を見渡すと軸となるデメキングという姿の見えぬ怪獣をはじめ、バイク、少年探検団、観覧車、草野球といった「男」の、というより「男子」がロマンを感じるアイテムで作品が構成されている(加えて言えば「昭和の」男子かもしれない。蜂谷という苗字も87年の大韓航空機事件の犯人の偽名と同名であり、「昭和」を強調している部分のように思う)。だがそれらすべてにロマンという「陽」の部分に対しての「陰」の部分が必ずある。よく考えればなぜ野蛮にすべてを破壊する怪獣に憧憬を持つのかなど、理屈では説明できないし、むしろそうした不可解さがあるからこそ男子はロマンを求めるのだ。
怪獣・デメキングの正体は最後まではっきりと納得のいく説明はなされない。だが「わからない」ことこそ、理屈じゃない男子のロマンと、言葉では説明できないことによる憂鬱さなのではないだろうか。蜂谷は廃船で出会った少年探検団に向かって言う。「闘うんや デメキングと」。男子たるもの闘わねば。どんな年号かわからない未来が来ようとする今、昭和と平成の狭間を描いたこの漫画を再読する意味は大きい。