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社会で開かれていく

今日も充実した一日でした…が、声の日記のように続けているスタエフの配信ならず…。残念無念。。。(笑)

今日は、「パーソナルな部分が社会で開かれていく」というおしゃべりをしたかったのです。

この「パーソナルな部分が社会で開かれていく」って、最初は「パーソナルな部分を社会で開いていく」ってメモしていたんです。
でも、個人の深い部分をどこぞの誰それがいるかわからない社会の中で、開いていくなんて…、そんなの怖くて出来ませんよね。そんな訳で、書き直して収録に臨んだんですけどね。ちょっとまとまらなくなっちゃいました。

昨日から神回と思った若新さんのYouTubeの動画を見ています。

このお話の中で、学校の中の「居場所カフェ」という場の紹介がされています。体調が悪かったり、怪我したりしなければ行けない保健室と違って<名目がなくても>行ける場所。そんな場所っていいよねっていうお話でした。

昨日は、@マークの話を書きましたが<名目のない>って大切なのかも?って思っています。

校内の居場所カフェでもそうですが、ただそこにいるだけでもいいっていう場所。役割・存在意義を見出せなくてもいい場所。
そんな場所が必要。

そして、そんな場所は誰にでも必要なんじゃないかなぁ~って思ったりします。

まだ、ちょっとまとまっていないのですが、まさに「パーソナルな部分が社会で開かれていく」。

役割とか存在意義とか関係なく、社会にいられる場所。
今は、ちょっと役割とか存在意義がないと社会にいられないでしょ。
だから、社会が役割とか存在意義とか関係なくて、その人がその人としていられる場所で個人が安心して過ごしていく事で、その人が開かれていく。たぶん、その人が何もしなくても、きっと開かれていくような気がするのです。

でね、そんな場所って、結構自分の五感をフル活用したら出来ると思うんですよね…なんて事を妄想したりしています。


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