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葉月と私 人と人との繋がり

メモ記録 8/10

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人と人との繋がり、もしくはなにかとなにかの繋がりというのは、それはそれは脆いものだなぁと思う。それは、私がまだモラトリアム抜けない子供だからだろうか。

ある女の子が、付き合っている男の子と別れようとしていることを知ったとき、おおいに盛り上がった。やっぱりそのテのものは誰しも興味があって、カンペつくって別れる算段を計画した。私は疲れもあって、その様子をはしっこで聞いていただけだけど、そこに脆さと言うものが隠れているような気がした。

LINEの通話一本で、別れ話を持ちかけられる。もう好きじゃないと言われたり、ケンカをしたり、LINEの通話もしくはメッセージで、いとも簡単に人との繋がりはなくなる。その女の子達の結果はどうだったのかわからないけれど、それでもなんかすごい世の中だなぁと思った。

「友達」とか「恋人」とか、名前がただ単になくなっただけなのかもしれない。二人の関係性に名前は必要ないと、そう言えるのはすごいなと思う。これまでは恋人だったけど、友達に戻ろう、なんて、その相手の人の存在をいれる箱が入れ替わっただけなのに、随分人生が変わっているように感じる。やっぱり、恋人の箱は特別で、友達の箱はよくあるもの、なのだろうか。それでもそのなかでまた仕分けて、という複雑さ。脆いのに、複雑なのだなぁ。

人と人だけじゃない。老夫婦が営む飲食店にはいったときのこと。猫がこちらに近づいてきて、私たちがかわいい、と言い合うと、よくくるんですよ、とお店のおばあちゃんが笑顔で話してくれた。可愛い猫だった。ここのお店に来て、野菜などを食べて帰っていくらしい。そんな繋がりかたもあるよなぁ、と個人的にほほえましかった。

猫はいつか来なくなる。もしくは老夫婦のお店がつぶれてしまうかもしれない。そんないまにもなくなりそうな繋ぎ目なのに、猫が来て食べて帰っていくというのが当たり前の生活になっているのが、寂しいような気もするが、素敵だなと思った。猫が来なくなってもお店も続いていくだろう。もしかしたら老夫婦がやめたお店にずっと猫が訪れて餌を待つかもしれない。そんな脆いゆえに強い繋がりを、これから私は目にしていくし、私自身もそうなるんだろう。

私たちの繋がりは脆い。だけど、どこにでもあると私は思う。
私がいま使っているヘッドフォンを、私の知らないどこかで誰か使っている人がいるかもしれない。いまそこにいない誰かの話で盛り上がることもある。私が感じたことが、遠い土地で生まれ全く違う環境で育った子と同じだったり。そんな概念がどっかで、今も繋がっていると考えると、本当に世界というものは広く、狭いなぁなんて感じる。

一期一会、という言葉。今会っている人は、どこかの選択が違えば会えない存在になっていたという可能性。選択を繰り返して、人と人は脆いながらも強い概念で繋がれていく。綺麗事と言われようと、これは事実だと思うのです。