15042326-アジアの女性の涙目

8/7 私と責任感と祈りについて

頑張らないでほしいです

「健康で文化的な最低限度の生活」という火曜9時からのドラマより、七条竜一(山田裕貴)の言葉である。

責任感の強いシングルマザーの人にかけた言葉。私はこれで涙があふれた。

よく「責任感が強い」というが、本当に責任感は人を追い詰める時がある。私もよくわかる。この仕事をしなければ、ちゃんとしなきゃ、と自分自身で呪いを一つずつかけていく。最終的には鋭い棘となり、鎖となり、身体にまとわりつく。逃れられないのだ。

わからない人には一生わからない。それくらいで、という人もいる。でもその人たちは知らない。「助けて」と言えない人たちを。「困っているの」と言えない。棘の鎖に痛めつけられるため、手をのばせないのだ。誰かに助けを求めることは、手を伸ばすことである。今のままじゃ苦しい、けれどだれにも頼れない。

笑顔と言うのは恐ろしいもので、笑顔でいればみんな「この人は大丈夫だ」と判断する。笑顔でいる人の前で「この人は辛そうだ」と思うケースは少ない。むしろ「幸せそうだ」と判断する人が多いのではないだろうか。

今回のドラマは、そんな責任感のお母さんが追い詰められていくシーンが印象的で、かつ見ていて苦しかった。

頑張っているお母さんを見るのが好きだと思います。
負けてほしくないです。

この言葉を聞いたとき「それはダメ」と声に出してしまった。責任感のある人にかけては余計に追い込むだけの言葉だ。

既に頑張っている。やれることは十分している。なのに追いつかない。
負けたくない気持ちもある。それだけの努力もしている。なのにできない。
そんな自分が、嫌で、認めたくなくて、本当に嫌になる。
「なんでこんな簡単なことができないの。みんなできているのに」一つの鎖。
「どうしてもっと努力できないの。みんなもっとやってる」一つの鎖。
「このままいけばどうなるかわかってる?」一つの鎖。
そうやってどんどん自分に責任と言う名の鎖をかけていく。

『鎖なんてすぐ外せるだろ』と思ったそこのあなた。私もあなたみたいな人になりたかった。自分に課したものを臨機応変に取り外すことができる、素敵な人に。
私にはできない。その鎖を外すことは、自分自身を裏切ることであり、有言実行できない自分を受け入れることでもあるからだ。それができない私は、その鎖をそのままにしてしまう。弱い自分を認めたくない。そうやってさらに自分を追い詰めていく。

それに七条は、悩んだ末に答えた。「頑張らないでほしい」と。

願いや祈りは、時に絶大な威力を発揮する。
「頑張らないでいいんだよ」「無理しないで」ではない。「頑張らないでほしい」という願望。私も、これを言われたら心が動くと思う。
確かに、「頑張らないでいいよ」も「無理しないで」もいい言葉ではある。でも責任感ある人には届かない可能性が高い。「頑張らないでいいよ」というのは、私はまだ頑張れる、と思ってしまうし、「無理しないで」も、全然無理してないよ、とかわせてしまう。無理してない、と当の本人は思っている(もしくは思い込んでいる)可能性が高いからだ。「大丈夫?」という言葉もなるべく言わないでほしい。あなたには私は救えないでしょ、と反抗してしまう(完全に私のケースだけれど)。

でも「頑張らないでほしい」は違う。責任感のある人は、人の目が気になる人であり、人から評価されることを気にしすぎる性格を持つことがある。それに対して「頑張らないでほしい」というのは、相手への評価である。それが頑張らないことを願うのなら、望まれたものは仕方ないと思いセーブする。

「頑張らないでいいよ」「無理しないで」「大丈夫?」は最終的な判断の責任は自分である。頑張らないという判断を下す、無理をしていると判断する、大丈夫か大丈夫じゃないか決める、それはすべて自分の責任になる。

けれど責任感が強い人は、その責任を負うのがもう辛くなっている状態だ。これ以上責任を負わせないでほしいと無意識的に思っている。

だから、「頑張らないでほしい」という言葉が響くのだ。その言葉によって相手が負う責任はない。

しかし言葉は本物じゃなきゃ伝わらない。本当に、本心からその願いや祈りがあるなら、その気持ちから伝えてほしいなと。

様々な人がいるので一概には言えませんが、責任感が強い人たちの一人として、そのことを少しだけでも頭の片隅に入れていただければ嬉しいです。