8/31 夏の終わりに思うこと
平成最後の夏の終わり。
それなのに今も空は雨模様。いい加減お顔を出しなよ、太陽さん。かくれてんのも疲れるでしょう?
そんな夏の終わりに、私が思うことは、やっぱりどうでもいいことが多い。課題の量が多くて勉強しなきゃーとか、仕事を進めないといけないのに面倒だなぁとか。好きな人と今日はたくさん話せたし、満足の限りではあるけれど。やっぱり人と対話することは面白い。けれど最近、だるく感じてしまう自分もいる。誰かと関わること、それは自らのシールドやバリアのようなものを壊す行為であり、自分はもうそれを壊し続けて長いからだ。もうそろそろ許されるんだろう。
8/1 レゾンデートルのノートを読んで、
夏は一瞬で終わるから、せめて悔いだけは残さないで
というフレーズがあった。
いったい、この夏、私は悔いを残さずにいれただろうか。
そんな問いを自分にしていて気づく。私、悔いを残したことはあんまりない、と。過去に執着しないというか、基本的に人生リセットできるような感覚が常にあって、それは不登校から立ち直った経験から言えることなのだけれど、やっぱり悔い、と呼べるような生々しいものは私の中に残っていない。
いろいろ今年の夏も悩んだ。
自分のことをはじめて誰かに打ち明けて、呆然とした。
ジェットコースターは怖かったけど、それでも楽しくて、また乗りたいとは言えないかもしれないけど、機会があるなら乗ってみたい。
大きな大学のオープンキャンパスにも足を運んだ。
ディズニーでさんざん遊んだ記憶もいい思い出!!
対話する重要性に気付いたり、それで疲れたり。課題に追われる日々はもうこりごりだ。
やっぱり最終的に想うのは、自分という存在が「自分」である限り、悩みは尽きず幸せを求めるということ。
私は○○な人だ、と随分言えるようになった。心の整理がつくようになった。けれど、それで前に進めるわけじゃないことも知ることができた。「自覚」というものは大切なんだな、と改めて感じる。楽をして幸せをつかみたいし、仕事もそんなに好きじゃない。しかしやりがいは常に求めているし、自分の存在意味を探し続けている。こんな自分を嫌になったり死にたくなったり、とにかくいろいろ考えるけれど、結局解けないままでいる。
私の人生を方程式にするとさぞかし複雑なんだろうな。連立方程式では表せないくらいいまだ読解不能な文字が多すぎる。xやyだけでは足りない。もっともっと多くの文字。その文字を読み取るにはその分だけ式がいる。その式を作る段階に、いや、まだ見つかっていない文字を探す段階に、私はいる。
心の式はやっぱ y=sinθなんだと思う。行ったり来たり。へこんだり明るくなれたり。でも随分変わった。
祖父が死んだ。悲しかった。その時考えていた。私は死んだらどこへ行くのか。あくまでも他人事としてとらえるしかできなかった。自分がいずれあのような姿になること。孤独死したら家族に看取られることもないこと。考えるだけで嫌になってくる。だけれど、私は前より、安らかな最期を考えるようになった。前までは、暗い海の底みたいな、永遠の黒みたいな空間に一人、考える頭もなくなってただただ沈んでいくのかな、と思っていた。今は、白装束を着て、三途の川を渡って、みんなと宴会をしたり、楽しむことができるのかな、とも思った。
かぐや姫の物語の世界観を見て、まさしく私の思い描く死後の理想像が月の住人だった。楽しんでいるというより、考えることすらできずにただ集中している状態。それだけに頭を使っている状態。そんな風になるのかなと思うと、ぞっとするけれど、考える頭がないのなら何しても同じか、と思った。
夏は終わる。夏だけ終わるという感覚が強い。夏の音色、虫の声、バッドの金属音、扇風機の音。それらをすべて閉じ込めて、私は進んでいく。
私の存在理由を私はまだ知らない。だけど、やりたいことが増えた。それでいいじゃないか。
私という存在はあくまで一個人だ。だけどそれを悲観しなくてもいい。私が楽しめればそれでいい。誰かと比較せずとも、それでいいのだ。それがいいのだ。だから私は、その「楽しみ」をこれから見つけていきたい。
平成最後の夏は、一瞬だった。