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叱ってもらえるありがたさ

私の両親はすでに他界している。昭和生まれなので、親から叱られるのは当たり前で小さい頃はよく玄関に立たされていた。

父親は厳しい人で、反抗期には数回手を上げられたことがある。もちろん、顔ではなくお尻か足だった気がするが、両親の喧嘩の最中に灰皿が目の前を飛び驚いたこともあった。

そんな父親だから、私達子供に対する門限なども厳しく、姉達は祖母の部屋から出入りしたり、彼氏と一緒の時は彼氏が謝りに来たりと工夫を凝らしていた。

父親に叱られるのは子供の頃だけではなく、大人になっても何度か怒鳴られたことがあった。
今考えると、私が道から外れそうな時に軌道修正をしてくれてのは紛れもなく父だったのだが、その時は気づきもせず父から離れていった。

父が亡くなる前に私が離婚して、さぞかし心配をかけたのだろうと、後の母の言葉で気がつくのだけど、その時にはすでに父は他界していた。
何度も叱られながら、私は沢山の経験をしていくのだけど、両親が亡くなってからは叱られる事はなくなり、会社に所属していた時に上司から叱られることを除くと、ほぼ叱られることや苦言を呈させることから遠ざかっていた。

人は自分の意見が通り始めると勘違いをする。周りが自分の思い通りになると思うと、まるで自分が大きく強くなったような気になる。

会社を辞めフリーランスになった途端、それは加速していった。
会社を辞めてすぐの頃、決断することが怖かったが慣れてくるとどんどん自分自身が大きくなったと勘違いもひどくなり、感謝の気持ちが薄れてきた。

そして痛い目に合う

叱ってもらえることへの感謝を忘れてはいけない。そのことを最近また経験させてもらった。
会社と言うものに所属したからだ。
一度フリーランスになってからは、どこにも所属せず一人でやってきた。たまに同じようにフリーでやっている人たちとつるむこともあるが、その人達とは叱られたり叱ったりと言う間柄ではない。

お互いが同じ立場ならではの、苦言の呈し方ならあるだろうが、言葉一つでそれは崩壊する。お互いが器の大きさがないと受け入れられないだろうし、コミュニケーションが取れていなければ、言いたいことも伝わらない。

叱る、叱られるはやはり少なからず上下関係の場合なんだと気がついた。
上司と部下、親と子、先輩と後輩

叱ってくれる存在は、いつもあるわけじゃない。そして叱るのはその相手を思うからこそできることで、親から叱られる事は本当にありがたいことだったと今になって思う。

多くの人が先に親が亡くなり、自分が叱る立場に移り変わっていくのだが、いつになっても叱ってくれる存在がある事は、とてもありがたいことだと思う。

仕事上で叱られることが嫌がられるのは、それが便宜上仕方なかったり、相手が勝手に怒った気持ちを向けてきたりするからだ。
だからこそ、本当にその相手のことを思い良くなるために叱ってくれるのは、滅多にないからとてもありがたく、心に響くのだ。

私も、ここに来てまた苦手にしていた会社に属すると言うことをしてみた。
そして、最初から叱られると言うことを経験した。
理由はリーダーの意向に沿わなかったからだったが、立場的に「だめなら辞めればいいか」と、少しずつ距離を置くようにすると相手のことが見えてきた。

そして、話をしていく中で経営者の人間像が見えてきた時に叱ってくれるありがたさを感じたのだ。

人の心は移り変わる。だが、惹きつけられるものがある人は、他の何かが違う。
それが何かを見つける事が自分にとってもプラスになることなら、ついたり離れたりしながらでも自分で気づいていくことが必要なんだと思う。

いつまでも同じことで叱られるのも学習していないと言うことになるが、時には気づかせてもらえるお叱りは大歓迎だ。

もちろん、世間で言われている
お客様からのクレームやお叱りも会社としてはありがたい
と言うことも同じだ。

お叱りを受けた時にどれだけそれを糧に大きく成長できるか。
それはフリーランスでも大企業でも同じことなのだと私は思う。


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