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「与えられるだけ」ではなく「与えることもできる」存在でありたい
こんばんは、みやこびとです。
・・・こんな時間になってしまった汗
今日はずっと最近気になっている政治ネタを、できる限りライトに書きたい。
都知事選がいよいよ今週日曜、七夕の日に行われる。
みやこびとは都民なので、ここ1ヶ月ほど誰に投票するかをずっと悩んでいるのだが、
\うーん、決まらない!どうしよう!/
![](https://assets.st-note.com/img/1720186300241-G7oR1KQ3H4.png)
他の選挙では、選挙公報をわりと真面目に読み、いつもなんとなく直感で「うん、この人を選びたい!」って決断できてるんだけど、
今回は本当になんていうか、みんな決め手に欠けるというか・・・
(そもそも母数多すぎるし、一種のパフォーマンス立候補も多すぎて、そういうのは本当に話にならないし、レベルが低すぎるんだけども)
そんな時に友人の美咲ちゃんがおすすめしてくれたこの本、すがるように読んでおります。
![](https://assets.st-note.com/img/1720186495769-lFBWD6kkqS.jpg?width=1200)
聖武天皇(!)から、ガンジー、空海、教皇フランシスコなど、歴史上の様々な政治に関わった方々の半生を描きつつ、中島岳志さんと若松英輔さんが対話する形で、本当に民を信じ、民に支持された歴史上の偉人たちの政治論や政治に対する姿勢を分かりやすく解説してくださっている。
コロナ禍で執筆された経緯もあって、本当に日本の政治リーダーたちへの警鐘を訴えているし、危機感がすごくよく伝わってきた。
もう明後日に迫った都知事選だけど、もし政治について興味がある方がいればぜひ遅すぎることはないのでご一読いただきたい。
***
「与えられるだけ」の存在と「与えることもできる」存在
この本に書かれたことは本当にブッ刺さる内容が多すぎて、今後もきっと度々noteのお供として参照・引用させていただくことになると思いつつ、今日は本の序盤で紹介されている、聖武天皇の政(まつりごと)に対する姿勢について引用しておきたい。
日本史で誰もが聞いたことがあるであろう「大仏建立の詔(みことのり)」には、実は大事な一節が書かれている。
原文は難しいので、中島さんが分かりやすく噛み砕いて説明してくださっている内容がこちら。
中島さん:
大仏建立にあたって、民に「これをやれ」と苦役を強いることがあってはならない。あくまでも「知識」、自律性によってこそなされるべきであるといっているわけです。
そして、一枝の草や一握りの土でもいい、問題は量ではない、どんな少しの物でも捧げてくれるのであれば一緒にやろう、といっている。
・・・
若松さん:
あらゆる人が、自分のもっている何かを差し出し得る世界ということですよね。差し出すのは「何ものか」でよい。金銭や労働でなくてもよいわけです。祈りでも、心からの善意でもよい。とても大事な感覚だと思います。
たとえば、ホームレスの人たちなどは、常に「もらう」側、ケアされる側の人だという意識が、私たちの社会にはあると思います。そうではない、どんな人も何かを差し出して参与し得る場をつくるというのが、聖武天皇が行ったことではないでしょうか。
今の危機状態(コロナ禍)にあって、補償金などのお金を求めることはもちろん必要です。ただ、そこだけで終わってしまうと、私たちの中にある主体性が開花しなくなってしまう。
私たちは「与えられる」だけの存在ではなくて、何かに主体的に参加し、「何ものか」を与えることもできる存在なのだということは、常に意識していたいと思っています。
めっちゃ大事な感覚ではないかなと思う。
少し話はそれるけど、自分が初めて訪れた海外はガーナで、難民問題に興味があった自分は現地に1ヶ月住み込みで孤児院ボランティアとして活動をしたのだけど、
やっぱりボランティア先には「与える側」(=欧米中心のお金と時間にゆとりがある側の人々、悲しいけれどきっと当時は私もこう認識されてた)と「与えられる側」(=ガーナはアフリカの中では進んでいる国だと思うけど、やっぱり当時はまだ受け身というか支援される側、の姿勢が根強く残っていたように思う)の2軸がはっきりと存在していた。
「なんか違うな」と直感的に思った。
ボランティアを終えた1ヶ月後の自分には、達成感よりもずっと大きな違和感と課題感が残っていたことを鮮明に覚えている。
私がボランティアベースの国際協力の道を早々に諦めて、対等な関係で国際的にわたりあえる別のフィールドに視野を移したのは、この経験があったから。
***
主体性を持って何かに関わろうとすることは、人が人であるために非常に重要なことだと思う。自尊心は色々な育み方があるけれど、「自主的に何かをやろうとする」ことは大きな入り口になると思っている。
今回、全然良いきっかけじゃないけど、都知事選のレベルが低すぎることで、「このままで首都東京は大丈夫なのか」「そもそも日本だいじょうぶ?」ってハッとした人は多いんじゃないかな。(特に若者世代)
選挙は必ず行くし、自分自身は割と政治的な関心は強い方だと思っているけど、結局選挙の時しか国政も都政も関心を大きく寄せてこなかったなと反省したい。(区政はわりとちゃんと区のLINE通知と区民報を通じて、意識して接している気がするけれど)
あくまで選挙ってのは、この数年間を中心で動かすリーダーを決める場であり、いわばスタート地点でしかない。
大事なのは、選ばれた人が選挙後に本当にどのように政治に向き合ってくれるか、自分たちの声を代表して動くリーダーとして行動してくれるか、の中身の方なのである。
現状、私たちの関わり方の9割が「選ぶ」だけになってしまっているけれど、本当に見るべきなのは「ぶっちゃけこの4年間どうだったんか」のプロセスと結果なんじゃないのか。
選挙とか関係なく、日々の都政・国政にもっと関心を寄せなければならない。
結局、都民が見て見ぬ振りしている限りは、きっと誰がトップに立ってもどうせ大きな変化は起こらないんだと思う。
私たちは、選挙権を「与えられる」だけの存在にとどまっていてはいけない。どんな形でもよいから何かしらで主体的に参与し、自分のもっている何かを差し出して「与えていく」側にならなければいけないと思う。
と、大真面目に書いたものの、「じゃあどうやってかかわりしろを見つけるねん」って話になるんだよなあ。
答えは全然出ないままだけど、こうやって主体的な参与のかかわりしろを作ってくれそうな人にきっと明日、期日前投票で清き一票(自分で言う)を投じてきます。
![](https://assets.st-note.com/img/1720188655959-82Cg4DXVW1.png)
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