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行為の境界線

最近、モバイルSuicaアプリちゃんの調子がすぐれない。

いつの間にか、改札でただ携帯をかざすだけでは反応してくれなくなり、何度改札で「ピンポーン!」と鳴らし、真後ろの方にドン!とぶつかられたか分からない。
(そもそもみんな前の人が思わぬアクシデントで改札手前で立ち止まるなんて予想して歩いていない。オートチャージの浸透のおかげ?か、チャージ金額不足で改札にNOを突きつけられる人が以前よりぐっと減ったように思う)

そんな困った状態になってしまったSuicaを直すべく、ネットにある情報を頼りにいろいろと試行錯誤したのだけど、まるで上手くいかなかった。最近、これに限らずネットワーク関係が、からきし上手くいかない。

所属先の研究室のプリンターには嫌われ(印刷設定を手順通りに試してるのに一生印刷できない)、勤務先の某国立大学の学内Wi-Fiネットワークも弾かれ続けている。(なんで仕事してるのにテザリングしてんねんって話)

きっといま、おみくじの欄に「ネットワーク・通信」みたいな項目があったら間違いなく総合運含めて「凶」であり、「自身の行いと機器を清め改よ」と書かれていること必至である。

***

さて、私のモバイルSuicaがささやかな反抗(?)をはじめて2週間ほどにある本日、ふと気づいた。

わたしの改札前後の動きはこうだ。

(電車の乗降時どちらも)
★改札が見えてくると、おもむろに携帯でモバイルSuicaを立ち上げ、顔認証を済ませて「かざすだけの状態」をセット

何食わぬ顔で、携帯をかざして改札を通過

何事もなかったかのように、人々に紛れて電車に乗り込むor駅の外に出て行く

私のかわいそうな最近の行動

 ★の部分だけ、明らかに余計な手間であり、本来のアプリの設計(改札で携帯をかざせば自動でモバイルSuicaが立ち上がり精算する)からすると、どう考えても余計なプロセスであるのは明確である。

このnoteを書こうと思ったのも、まさに今朝、人でごった返す渋谷駅の忙しめな改札で、(なぜかうまく反応してくれなかったSuica様のせいで)こともあろうか改札通過を失敗し、後ろの方に怪訝な顔をされるという不本意な体験をしたから。。

「これはわたしの不手際なのか、、?」と、行き場のない寂しい気持ちのなか、考えた。増えてしまったプロセスをなぜ手間だと感じるのか。

いちいち改札前で携帯を取り出して、顔認証して改札通過準備をするのが面倒だから?

通過に失敗し、後ろを歩いていた人に嫌な顔をされるのが辛いから?
(これはもちろんそうなのだけど)

でも、考えてみればモバイルSuicaでタッチするだけで改札を通過できるようになる前って、毎回必ずカバンから物理的なSuicaを出してタッチしてたし、高校生の時にいたっては、改札に切符を通すとかの概念もなくて、通学定期を改札にいる駅員さんに見せて通過してた…(私の地元には、Suicaで通れる改札のない駅が複数存在している)

つまり、改札にただ携帯をかざすだけで通過できるようになったのって、最近なのでは?…ほんと?

気になって調べてみたら、案の定玉砕した。

モバイルSuicaの始まり
2006年1月28日にNTTドコモとau(KDDI、沖縄セルラー電話)の対応機種を初めにサービスを開始した。

Wikipedia「モバイルSuica」より

めっちゃ前(18年前!)やん、まじか。衝撃。

もちろん、私の人生への導入が遅かっただけなのだが、こんなにも前から搭載されていたとは…

***

こんな風にモバイルSuicaの歴史をたどったところで私のアプリが正常化するわけでもないので、せっかくだからこの状況だからこそ実感できる何か別のことを考えよう。(この発想の転換は、芸人の小島よしお氏の講演をグラレコをさせてもらったときにスッと身につけた、ありがとうオッパッピー)

改札前でスムーズに携帯を取り出し、顔認証まで済ませて改札を通過せざるを得ない、この不自由(?)な行動を強いられて2週間、じわじわと実感しているのは、ものすごく改札という空間的な境目を意識するようになったことではないだろうか。

これまでの私、そしてコンクリートジャングルにお住まいの多くの皆さんがやりがちなこと、それは改札付近での歩きスマホ。

特に電車を降りてホームから改札に向かうまでのほんの数十秒、数分の間だとしても、ついつい電車に乗っていたままの感覚で携帯を開き、画面をぼんやりと眺めてしまう。

そしてそのまま、ながらで携帯をほんの一瞬改札にかざして、何事もなかったかのようにそれぞれの目的地へと歩みを進めていく−−−

こんな経験や感覚、私だけではないはずだ。
(いや、普通に歩きスマホごめんなさいであり、全くドヤれる場面ではないのだが)

こういう瞬間、わたしたちからは「移動している感覚」というか、「移動、あるいは行為の境界線」みたいなものが、ものすごく希薄になっている気がする。

なんとなく電車を降りて、なんとなく人の流れに従ってホームを歩き、エスカレーターに乗って、流れるように改札に導かれて、そして無意識的に改札を抜ける。

疲れている日など、気づいたら家路についていた、なんてことがよくあった。

もちろん通過してからのルートが習慣化されている自宅の最寄駅や、行き慣れている駅に限った話だと思うけれど。

スマホの登場で、何かしらに常時接続していることが当たり前になりつついま、昔は行為そのものに没頭せざるを得なかった状態がなくなり、本当に行為と行為の境界線が融解し、あいまいになり、わたしたちはいろんなことを「ながら」で行えるようになってしまった。

これは、良いことなのか良くないことなのか。

一言ではなかなか片付けられない側面があるように思うけれど、私自身が「ながら」の権化だったと思える瞬間は数多く思い当たり、今回のモバイルSuicaの乱で痛烈に思い知らされたことがいくつもあったことは事実だ。

私が愛読している「スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険」という本で、思い当たることがたくさん書かれていたので、自戒の念を込めて書き添えておく。

無数の感覚刺激やコミュニケーションに浸るあまり、私たちは刺激の渦から切り離された途端、「暇やわ、最悪」「退屈やねんけど」と思ってしまうのです。

・・・

絶えず環境や関係性が変化し、自己成長することをどこまでも求められる不安定さからくるストレスを処理する方法はもう一つあります。

それは、断片的な感覚や刺激で自分を取り巻き、その細切れの経験に集中することで「快楽的なダルさ(hedonic lassitude)」に浸るというやり方です。 これは、自分の注意をばらばらに分散させるという、スマホ時代に選ばれやすいストレス・コーピング(ストレスの対処法)です。

スマホなどのデジタルデバイスが可能にするマルチタスキング(活動の並行処理)は、私たちの注意を分散させ、それに応じて感覚をばらばらに分解するところがあり、それによるボーッとした感じに一種の癒やしがあるわけです。

スマートフォンと無料の娯楽、写真と言葉のやりとり、ジャンクな飲み物や食べ物、ちょっとした情報のインプット、対面の会話など、本来なら同時に処理することが難しいことを並行的に処理しながら私たちは暮らしています。こうして感覚を断片化して、自分の注意をほどいていくことに不思議な落ち着きを感じているのです。

「スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険」より

私は決して、ストレスから逃れようとして「ながら」活動に勤しんでいるわけではないと思う。少なくとも、そんな自覚はない。

けれど電車に乗っている時、つい手が寂しくなって無意識的にスマホを触り、そのままの連続する行為の延長であり、一部として改札を越えていたことが幾度となくあるのは事実だ。やはり、マルチタスク行為は自分の感覚を断片的なものにし、日々のストレスから自分を解き放とうとする無自覚的行為な側面があるのも、今ならある程度は理解できるような気がする。

本も読まず、何もしないで電車に揺られて目的地に向かうことって、私にとっていつからこんなに大変で、意識しないとできない行為になってしまったんだろう。

***

・・・なんだかややこしい話になってしまった。

改札は、人々にここからが「駅ですよー、電車に乗る行為をするんですよー」なんて知らせるために存在しているのではなく、単純に駅という物理空間の境界線としてたたずんでいるだけだ。

その改札を幾度となく抜けるという単純行為を繰り返し、スマホという相棒(?)と過ごす日々の中で、次第に私の中の「行為の境界線」があいまいになっていた。

皮肉にも、その事実に気づかせてくれたのはモバイルSuicaの不調という不都合な状況である。

何かをお知らせしようとしてくれているのかな。持ち主は十分に「日々のながら行為」に気づけたから、そろそろ機嫌を直してもらえませんか。

とはいえ、あえて歩きながら思いついたテーマだっただけに、今回のnoteを細切れの「ながら時間」だけで書いてみるチャレンジをしてしまった自分は
まだまだモバイルSuicaさまに許してもらえそうもない。

エスカレーターに乗り、改札が近づいてきた。

携帯画面をモバイルSuicaに変えて、顔認証でreadyの状況にしておかないといけないので、そろそろ終わりにしようかな。

以後、ながらスマホは気をつけたい(こんな事情なので、改札周辺だけは何卒お許しを。。。涙)


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