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本格化するニューディール

 ニューディール政策は三つのR(救済 relief 、復興 recovery 、改革 reform)を目標として掲げていた。最初の二つの「救済」と「復興」は100日議会で制定された法律によってある程度達された。これは「第一次ニューディール」と呼ばれる。

 三番目の「改革」は1935年以降の目標になった。大統領再選を見据えて、生活困窮者を対象とした政策を進めるようになり、「左旋回」と言われるようになる。これは「第二次ニューディール」と呼ばれる。

 1935年、これまでのFERAよりもさらに大規模な形での雇用を創出し、景気回復につなげるため、雇用促進局(WPA)を設立した。この初年度には49億ドル、当時のGDPの6.7%を占める巨額の予算が計上された。これはピークの38年11月で333万人余りを雇用した。
 成果としては、1943年までに、
 5900の学校
 2500の病院
 8000の公園
13000の遊び場
148万kmの高速道路
  480の空港
78000の橋を建設した。

 しかし、WPAに参加できたのは一家の稼ぎ手である男性であった。

 WPAは建設・土木以外にも支援の範囲を広げた。連邦美術計画、連邦音楽計画、連邦劇場計画などがあった。芸術家に子どものための教室の講師を依頼したり、公共施設に掲出する作品の製作を注文した。

 WPAでは人種差別を禁止したが、実際のところ、現場では黒人は差別的な扱いを受けた。その一方、黒人文化において、連邦演劇計画や連邦作家計画によって元奴隷の体験が記録された。連邦音楽計画では、ジャズなどで黒人の音楽家が演奏の機会を与えられた。

 1935年に実現した改革の最大の目玉は、社会保障制度の設立であった。8月に社会保障法案は上下院で圧倒的大差で可決された。

 失業保険は経験料率制が採られ、労働者の解雇の少ない企業には拠出料を下げることで企業の責任で雇用を安定化させるシステムが取られた。労使双方が拠出する州は6つ、それ以外は雇用主の単独拠出だった。そのため給付額は平均年収の三割から四割と低く抑えられ、給付期間も短かった。

 老齢年金保険は労使双方が拠出することになったが、基本給付額は平均年収の三割程度で、景気の回復を図るには十分でなかった。

 老齢年金保険や失業保険では、制度の対象となる職種がかなり限定されており、農業労働や家内労働などに従事している者は加入できなかった。そのため対象となったのは男性労働者の39%、女性労働者の14%に過ぎなかった。当時、農業労働者の80%が黒人男性であり、黒人女性の3分の1以上が白人家庭で働く家政婦などの家内労働者であったため、黒人の大半や単身女性に対する給付は手薄だった。

 貧困層に現金を給付する公的扶助も組み込まれた。これは一般財源による「福祉」として、社会保険とは明確に区別された。しかし4人家族の生活費として月100ドル程度必要だったこの時代に、老齢扶助の給付は月19ドル、児童扶助は32ドル、視覚障害者扶助は24ドルに過ぎず、かなり低い水準に設定されていた。

 この社会保障制度には医療保険は含まれていなかった。ルーズベルトはポリオの闘病中に医療費を支払うことができない人を何人も見てきていたが、医師会をはじめとする団体の反対が根強く、医療保険の導入は見送られた。現在でも国民皆保険制度は実現できていない。

 こうした限界がある同法だが、包括的な社会保障制度を一挙にアメリカで成立さえた画期的なものと評された。第二次大戦中にベバリッジが政府に提出した報告書の中で「ゆりかごから墓場まで」という言葉を使っていることを知ると、ルーズベルトは「それは私が最初に使った言葉だよ」と誇らしげに語ったという。

 もう一つ第二次ニューディール政策の柱となったのは、全国労働関係法(ワグナー法)の制定だった。これは労働者の団結権、団体交渉権を規定したものだった。

 さらに1938年に公正労働基準法を制定させ、労働時間を一日8時間、週44時間とし、最低賃金を25セント、超過勤務手当をその1.5倍に定めた。このように画期的な労働法制が整備された結果、多くの労働者がルーズベルトの熱烈な支援者になり、民主党の支持基盤を形成した。

 ルーズベルトは支持基盤に配慮して黒人の人権問題に触れたがらなかった。しかし側近に人間の平等を推進しようとしていた者がいたことが影響し、徐々に取り組みを強化するようになった。こうした中で、黒人問題に関する連邦協議会を作り、黒人の専門家に政策提言を求めた。この協議会は「ブラック・キャビネット」、「ブラック・ブレーントラスト」と呼ばれた。

 青少年を対象にした失業対策を担当した全国青年局の黒人局に、教育者で全国黒人女性協会の会長を務めたベシューンを担当させた。黒人の若者が働きながら学ぶ機会を増やした。協議会の提言に基づき、1930年台半ばには45人の黒人が連邦政府やニューディール関連機関の管理職に登用された。このような取り組みが評価されて、多くの黒人がルーズベルトと民主党を支持するようになった。南北戦争以来、黒人は奴隷解放をした共和党を支持してきたので、これは歴史的な転換だった。

 1936年の大統領選挙はルーズベルトに対する信任投票という性格が強かった。ルーズベルトは政権の最初の4年間で国民所得は50%以上増え、新しい雇用が600万も作り出された。工業生産高も倍増した。株価は1933年の底値から80%以上上昇していた。国民の53%が大恐慌はもはや終わったと見ていたという。

 共和党の大統領候補は共和党の穏健派であるランドンだったが、ニューディールが実業界に敵対的であると批判した。富裕層に対する増税を厳しく非難し、それは国家の社会主義化、自由主義経済の終焉、個人主義の侵害につながると主張した。当時12万5000人の会員を擁した反ルーズベルトの急先鋒、アメリカ自由連盟も「憲法を擁護し、憲法で保障されている権利と自由を守る」ことを掲げてキャンペーンを打った。

 この選挙戦では、ルーズベルト連合と呼ばれる民主党の支持母体が確立された。資本家を指す「彼ら」に対して、「我々」という二分法を用い、大統領は「我々」国民の側にいるというイメージ戦略が進められた。労働組合に所属する労働者の支持率は85%に達したという。

 さらに投票日四日前、格闘技の殿堂、マディソン・スクェア・ガーデンでの演説では、この対立の構図を鮮明に描き出した。ルーズベルトは、労働者や農民、若者、失業者のために行ってきたニューディール政策を継続し、国民に安寧をもたらすことを約束した。その安寧を脅かしているのは、産業や金融業界の独占的な勢力、投機や銀行業で儲けている者など「旧態依然とした敵」であり、我々はそうした敵と戦わなければならないと訴えた。このように「仮想敵」を作り出すことで、ルーズベルトが国民の側にいることを印象づけた。

 その結果、ルーズベルトは1850年代に二大政党制が確立されて以来の歴史的大勝を勝ち取った。

 1937年の春には、アメリカ経済は回復の兆しを見せており、失業率も12%へと下落した。ルーズベルトは景気が好転したとの判断から補助金や公共事業などへの支出を削減し、均衡財政に舵を切ろうとした。見通しでは1939年に均衡財政が達成できた。しかし、1937年半ば以降、工業生産は30%減少し、失業率も再び上昇し始め、1938年には19%に上昇した。1937年10月19日にウォール街は1929年以来最悪の状況になった。これは「ルーズベルト不況」と揶揄された。

 ルーズベルトは1938年4月に、連邦議会で独占的な企業を批判する演説を行った。ヨーロッパでファシズムが台頭していることを引き合いに出しながら、国内では独占的な企業が平等な社会の実現を阻んでおり、民主主義と自由を危うくしていると述べた。1935年の統計によると、全企業の5%未満が全資産の87%を保有しており、この富の集中が著しい所得の格差を生み出し、景気回復を阻んでいるとルーズベルトは見ていた。

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