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自分のことなんて意外と他人は見てはいない

2023年2月15日。

僕は新たな命をいただいた。
その日は造血幹細胞移植の日。

姉がドナーとなってくれたおかげでまた少しだけ生き延びることができた。

姉から採取した骨髄が
自分の体に入っていく瞬間は、

「今、命を繋いでもらっているんだ」
という感覚になった。

いや、感覚ではない。
現実であり真実であった。

1時間にも満たない骨髄注入は気付けば終わっていて、今もどうにかこうにかでnoteが書けそうなので今の感情を残しておこう。

僕が発信していく3つの理由

体に無理ない範囲ではあるが、僕がnoteなどで自分の状況を発信しているにはもちろん理由がある。

それは、

  1. 備忘録のため

  2. 誰かの希望になるため

  3. 病気について少しだけでも認知してもらうため

主にこの3つだ。

1.備忘録のため

これが1番の理由である。

なぜ忘れた時のために記録を残すのかというと、

自分が書いた文章を見返したときに過去の自分が今の自分の背中を押してくれる存在になるからだ。

僕は2017年から毎日7行日記を書いている。
喜怒哀楽をそこに記載・記録しておくことで

「あぁ、あの時はこんな感情で生きていたのか」
なんて思い出すことが僕にとってなぜか心地よい。

移植を乗り越えた後にも生きていく中で多くの逆境が訪れる。
その逆境のたびに、自分の書いた記録が未来の自分の背中を押してくれる存在になると僕は信じて記録を残している。

2.誰かの希望になるため

白血病になってわかった。

それは
「過去に白血病だったけど今は元気にしている人たちはいるのか?」
という明るい未来を必死に探している自分がいたことを。

名前を出すのも恐縮だが、
僕よりも先に水泳の池江璃花子選手が急性リンパ性白血病を患っている。

池江選手は闘病生活を送って、退院後も相当な努力を重ねて、一度は諦めかけた東京オリンピックに出場している。

自分と池江選手を照らし合わせることはもちろんできない。

それでも僕にとっては池江選手が東京オリンピックに出場したことも、
移植から2年経ったある日、プロ野球の試合で明治神宮球場で始球式を務めたのも

僕にとっては明るい未来・希望でしかない!

敢えて、有名な池江選手の名前を挙げているが、
池江選手以外にも白血病を乗り越えて今も元気に暮らしている人たちを見る度に

「まだまだ俺もあきらめちゃあかん」

と自分を奮い立たせることができる。

「もう誰も白血病なんかに苦しんでほしくない!」

というのが本音だが、僕を見て少しでも明るい希望を持てる人を僕は増やしていければと思っている。

割とガチで。

3.病気について少しだけでも認知してもらうため

白血病になってからずっと体感していることがある。

それは、1人では生きていけない・治療ができないということだ。

家族や周りのサポートがあって治療に臨むことができるが、血液疾患の場合には

  • 献血してくれる人が必要

  • ドナーになってくれる人が必要

この2つが今ある自分の命をつなげてくれたと断言してもいい。

どんなに名医がいても、
どんなに白血病根治に高い実績を誇る病院でも、

  • 献血してくれる人

  • ドナーになってくれる人

この方達の協力がなかったら、まず白血病が治ることはないと思っている。


だから発信し続けている僕がやらなければならないことは、

少しでも病気について認知してもらって
献血する・ドナーになってくれる人が増やすこと。

体が許す限り頑張っていきたいと思っている。

そして、前置きがかな〜り長くなってしまったが、ここからが本題に入りたい。

誰も自分の発信を見てないと思っている

「病気について少しだけでも認知してもらう」

って書いた反面、

「自分の書いた文章を読んでいる人はまぁ少ないよね?」
って思っている自分がいる。

決してひねくれているわけじゃない。

なぜなら読んでいる方がロボットでもなく、
生身の人間だからという理由である。

というのも、3つのnotという言葉がある。

  • 読まない(not read)

  • 信じない(not believe)

  • 行動しない(not act)

つまりは、人は
「文章なんて読まない」
「読んでもその文章は信じない」
「信じても行動には移さない」

だから、この3つのnotを乗り越えてもらえるように文を書く側も気を遣わなければならないということ。

もう一度言う。
ひねくれているわけではない。

この考えはマーケティング(コピーライティング)で使われるもので、この3つのnotを解決して商品・サービスを売っていくとして紹介されている。

だから自分の書いた文章が読まれないということはある意味当たり前のことだし、

行動させるための、
「献血してもらう」「ドナー登録してもらう」
なんていうのは正直かなりハードルが高い。

だからといって、こうやってnoteで発信していることが無意味なことだとは思わない。

やらないよりやった方がマシだと思っているし、だからこそ、
「病気について少しだけ認知させる」
くらいの小さなハードルを設けて書き続けている。

「移植が終わって安心した」に対する葛藤と気づき

ところで「移植」って聞くと、これを読んでいるあなたはどういったイメージをするだろうか?


僕の友達を例に挙げれば、


「全身麻酔して…」「メスを入れて…」
みたいな大がかりな「手術」そして「臓器を移植する」というイメージがあるみたいだ。

ただ、実際は輸血のように、点滴の管から骨髄を流すだけの作業である。

僕はこれまで
「移植自体は点滴とほとんど変わらないよ」
って言っているが、多分ほとんどの人が聞いてもいなければその文章を見てもいないと思う。

だから実際に移植を終えたことを報告すると、

「移植成功しておめでとう!!」
「これで一安心だね」
「無事に終わってよかった」

なんてメッセージもいただいた。。苦笑

でも、これはこれで想定内。

このやりとりは移植当日の2月15日に本当にあって、その時の自分の感情って、

「やっぱり自分のことなんて見てはいないんだなぁ」

(僕の伝え方にも問題あると思っている)

と思っていた。

文面だけ見ると、なんだか悲しそうな感じもすると思うが、全くそんなことではない。

というか、
「気にしているのは自分だけだった」
なんてことも今後起こりうることだってある。

例えば、
移植すると身体中に異変が起こる。

わかりやすいところで言えば、
顔のむくみ(ムーンフェイス)

正直、ムーンフェイスになることが
僕は何より嫌だ。

でも、不思議と
「意外と自分のことなんて見てはいない」
という勝手な憶測に基けば、
僕がムーンフェイスになったかどうかなんて
多分誰もなんとも思わないんだろうなぁって。


・自分の気にしているところこそ、他人にとってはどうでもよくて
・自分がどうでもよいところは、逆に他人はよく見ているって

これまでの人生でそうやって言われてきたけど、
意外と自分もその言葉を移植するまでわかってなかったりしていたのかもしれない。

たまたまなのかな?
backnumberの水平線を聞いていたら

「心は誰にも見えないのだから、見えるものよりも大事にするといい」

って歌詞が流れて来て、なんだか心身に沁みてしまったようだ。

あとがき

移植したあとは反動で体がだるかったり、下痢だったり、
一日中吐き気に襲われてご飯が食べれなくなるなんて想像していた。

でも主治医の先生からは、
「まだ白血球は残っているから早くて週末からの1、2週間がかなりきついと思う」
なんて言われた。

今日は2月17日の金曜日。
このnoteを更新した直後に体調が急変したりして。。。

noteの更新が止まっていたら察してほしい。

「あぁあいつ、今闘っているんだな」

って。




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