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Beepの思い出

 かれこれ30年近く前の昔話でごめんなさい。まだパソコンは高嶺の花で、
ファミコンがちょっとしたブームで、ゲームセンターが華やかな感じに
なって
きたころ、月刊Beepっていうゲーム雑誌があったんだよね。
パソコンとゲームを扱う雑誌で、けっこう色々な意味で今のゲーム雑誌の
はしりだったと思う。

 ひょんなことから僕は高校の先輩に誘われてこの雑誌でライターとして
お手伝いをすることになり、それが後にマスコミに興味をもつきっかけにも
なった…。
採用された理由だけど、もともとゲームが好きで映画や音楽などにも明るいってことと、何よりも当時はゲームのことをわかって文章を書ける大人がいなかっ
たことと、単純に人手不足だったことがきっかけだったような気がする。

 なんかライターって聞くとすごそうだけど、僕にとってはもう一つの部活みたいなものだったし、 最新ゲームをプレイして文章書いてお金もらえるってことがいちばん僕にとって単純に“ラッキー”なことだった。まあ、そんなこんなで僕の高校生活と“ゲームライター”としての2つの生活が始まった。
 ゲームをプレイして初めて取材して原稿書いたのは15才のとき。最近のライターさんって平均年齢どれくらいなんだろ?わからないけど、今にして思えば
ずいぶん若いよね。それで初めて取材したゲームはデータイーストのLDゲーム“ロードブラスター”っていうゲームだった。

でもゲーム内容よりも今もって鮮明に覚えているのは初取材のときのこと。
高校の制服きたまま荻窪にあったデータイーストの本社に一人でいき、
メーカーの広報の人に一生懸命説明しても自分が取材に来たことを信じてもらえず、最終的にBeep編集部に連絡を入れてもらってようやく取材できたことは忘
れられない。

例えていうならはじめてのおつかいに出た子供みたいに不安で、自信がなくて、泣きたくて帰りたい感じだったなあ。
それが初陣だったから、その後は制服でも
ヘーキでメーカーいって取材できる根性がついたかもしれない…。


 そういやライター活動するのに本名はやばいと思ったから(高校がバイト禁止だった。そんなのカンケーなかったけど)ペンネーム考えなきゃならなかったんで
すわ。
最初のペンネームは“大滝龍仙”。のちに“大滝みやび”と改名しなんかそのままゲーム関連の友人にはそのまま通用するようになってしまったのですが、
そもそもなんでそんな名前にしたのか、今はもうわからないです…。ただ、高校の教室で授業中に辞書引きながらあれこれ考えてたようなことは覚えてます。
なんか漢字がよいなあと思ってたんだな。きっと。
それで、雅(みやび)つうのもいま思うと笑っちゃうんだけどな。
あと、高校生ライター時代には裏話的なこともけっこうありまして(^^;

今はもう時効だからいいかなぁ?取材のある日とAMショーの日はよく掃除当番バックレて制服着たまま取材に出たり、あと原稿の締め切りギリギリまで引っ張った
挙げ句、授業中に原稿書いてたこともしばしばでしたな。
しかもリライト食らって仕方なく編集部で終わるまで書いて、ようやく帰ってきたときはもう12時くらいで
けっこう親に怒られたり…。

あと、夏休みや冬休みになると普段と違って大阪のメーカーに取材に行けるのがうれしかったなあ…。そういえば初めて飛行機というものに乗ったのも、大阪取材が
初めてだったんですよ。実は。

初めての大阪取材はどこだったかなぁ…?確か日物とSNKとカプコンだったかなあ…。ちょっとうろ覚え。でも3社くらいいっぺんに回ったのは覚えてますよ、確か。
夏の大阪って暑いんだ、東京に比べると。(<関西方面の方、ごめんなさい)
 
 あと大阪って言えば、すごく心に残ってる取材があったなあ。今でも忘れないSNK本社で夜中に決行された“バミューダトライアングル”っていうシューティング
ゲームの取材。
広報担当の人が取材の了解取り忘れてて、しょうがないから夜中に社長とか帰ったの見計らって画面 撮影とゲームプレイをしたんですよ。
見つかったら 広報の人もクビが危ないのでドキドキ、
ハラハラ!ワシらも見つかったら大目玉 (だったらしい)なので、ドキドキ、ハラハラ!しかも今みたいにビデオプリンターなんてないから、カメラをセッティングして画面を止めながら撮影してたんだよね。昔は。
で、そのときのハプニングで画面止めるスイッチが壊れちゃって、しょうがないからゲームしっぱなしで撮影したんですよ。まともに使える写真があるかどうかは神のみぞ知るっていう状態で、
そっちのほうがドキドキだったかも…。

まあ、そんなこんなで取材を終えたのが朝5時くらい。ビジネスホテルに帰って、ボーっとしながらなんとなく徹夜明け独特のアンニュイな感じの中で朝焼けを見た時、
やったぜ!っていう達成感となぜかちょっと大人な自分を感じて爆睡に入ったんだったなあ…。

 ふ~。他にも色々あったけど、巨大迷路で遊ぶ取材のときに今でいう“コスプレ”したんだよね。
ドルアーガの塔のギルのカッコ。それがどうっていうことではなく、
その取材の翌日が大学の入学式だったってことが我ながらスゲーなって思ったよ。
なんで大学の入学式の前日までこんなことやってるんだろうって。かなり私的なこと
かもしれない
けど、大学の入学式はちゃんとスーツ着て式に臨んでいるのに、前日はギルのコスプレしてたっていうギャップがなんかオレ的にすごく印象に残っている取材
になったんですよ。
しかも取材の日は君津まで車で行くので朝5時起きだったしね。
それからバンドやったこともあるし、国立競技場を貸し切ってバカな特集ページのためだけに収集されたり。あ、このときもコスプレしたか。そういえばアーミー系の
カッコが多かったね。
メタルギアのソリッド・スネークになりきって皇居の城壁をよじ登ったこともあれば、どこぞの編集部対抗ゲーム合戦に参加したこともあったなあ。
しかもアーミー系…。トホホ。
 なんだかあっという間に高校生活とBeepライターの日々が過ぎていったけど、すごく遊んでたっていうか、もらったギャラってほとんどレコードか、ライブ代か、演劇見に行くのでチャラになったような記憶がある。今思うとどうやって時間作ってたのかわからないけど、色々やってましたね。楽しかったよ~!ホントに。
 色々な人々とも出会えたしね。ゲームメーカーの人もそうだけど、なによりも仲間のライターさんたちや編集さんたちとの出会いが自分にとって大きな収穫だったと思う。やっぱり多感な時期なので、色々な影響を受けたね。
みんな元気かなあ。芋吉さん、YAS、エイリアン、たけおん、Dr KILL…ほかにも色々。
多分、ゲームを作る側に回った人もいれば、もう関係ないことをやってる人もいるだろうし、

編集さんは今では編集長になって今でもゲーム雑誌を作り続けている人もいるでしょうしねぇ…。
また、みんなに会ってみたいなあ…。(SNS上ではちょくちょく見るけどね。)
 今思えば普通の高校生みたいなことってあんまりしてなかったけど、これはこれで普通では味わえない体験をたくさんしたからよかったし、
何よりも生き生きしてたよね毎日。ホントに。


大学生になってから2年くらいしてBeepの中で色々内部的なテコ入れがあって、Beepそのものは事実上廃刊し、新たにBEEP!メガドライブと
して再出発したわけですが、それまでBeepで活躍していたライターはというと…みんな散り散りになったんだよね。中には残った人もいたけど。
今思えば新しい編集方針で古いカラーを払拭したいという意向があったんだと思う。
でも当時の僕はそれが理解できなくて自分の中では???だった。

思わずそのときの編集長の川口さんに直接「仕事ください」なんて自分から嘆願したこともあったけど、そのときに言われたことが


「みやびならどこでもやっていけるよ。もっと視野を広げなよ。」

みたいなことだった。よくとれば、特殊なゲームライターの世界じゃないものをもっと見なよってことと、当時、大学中退して本気でマスコミ(っていっても
ゲームライターだけど)で生きていこうかなと思ってた迷いの時期だったので(多分、大学っていう現実から逃れるための口実を自分に言い聞かせ
ていただけかもしれない。)それは“逃げ”だよってことをいいたかったのかもしれない。それかホントはただ体のいい足きりだったか…。


 ホントのところはもうわからないけど。とにかくBEEP!メガドライブに移行する直前は仕事なくて辛かったなあ…。
その後、僕も数社でライターをやったけど、ある日普通の大学生っぽいことがしたくなって、ある出版社で書いた攻略本を最後にライター家業から足を洗ったのであった…。
21歳の夏のことでしたね。

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