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「薫風荘」始末記 

 「もしもし、岡山からですが、この大雨でお宅にも水が入っているようですが…」今は空き家になっている夫の実家のご近所の方の声であった。平成最後の夏である。そういえば倉敷の真備町では小田川が氾濫して洪水で多くの家が被災し助けを求めている様子がテレビに写っていた。

 岡山市は倉敷から二十キロ位離れているのにと思ったがお礼をいって大阪にいる弟に見てほしいと連絡した。その間にも真備町の様子が刻々とテレビに写る。独り住まいの高齢者はいかほど心細いかと他人事には思えない。

 翌日、様子を見に行った弟が写真をパソコンに送ってきた。水は引いていたが玄関にも廊下の壁にも和室や洋間やダイニングルームにも三十センチくらいの水跡線が残り、まるで「怖かったよ、寂しかったよ、冷たかったよ。」といっているようであった。不幸中の幸いというか床上浸水の水は汚水ではなく近くの水路からの水のようで匂いも無く、土も瀬戸内海地方の白いものでほっとした声で弟が連絡をくれた。その間にも真備町の水害の報道が続いていた。

 被災の後始末をどうするか。高齢の親類には頼めない。結局、父母が親しくしていた棟梁の縁者の工務店さんにお願いの電話をした。東京にいる末弟と大阪の弟と一緒に夫が新幹線で西下したのは被災後十日めであった。三人で工務店に挨拶に行き、その足で父の家に入り、折れた枝や草を踏みながら昔風の錠前で玄関を入ると白い土、歩くと靴跡が残ったという。呆然としたことだろう。とりあえず土足のまま入り雨戸をあけ各室を回り、電気製品の通電を確保し、残す物と捨てる物の分別チェックに追われ、昼食抜きで夕方迄頑張ったという。大阪に帰る弟を見送った後、末弟と夫は重文の備中国分寺の美しい三重の塔近くの温泉宿で寛ぎ、初回の片付けを終えた。

  原爆が広島に落とされる五週間前、昭和二十年六月二十九日未明に岡山市はB-29による大空襲を受けた。空襲警報は無く不意打ちだという。一万二千戸も焼け、死者は千七百人に及んだという。父の家もその中の一戸であり死者は出なかったがとても辛い日々であった。

 それ故に父の悲願は借家住いを終えて自分の家を建て母親や妻、子供達と安心して生活することであった。しかし戦後で国中が貧しく、ローン制度も未整備の時代であった。老親を見送り、四人の子供を育てあげた五十歳過ぎにやっと気に入った土地を求め、自分で設計した家を建て「男一生の仕事じゃ。」と誇り、私達も本当に嬉しく思った。

 東京に住んでいた私達も生まれた長女を連れて翌春帰岡すると、初孫の誕生を大喜びし、新築の家を案内してくれた。
 
 岡山市郊外、古いお寺があり近くをJR津山線が2両でのんびり走っている。家は二階建てで上に三部屋、階下は応接間、床の間付き船底天井の和室、キチン付き食堂、母の部屋には仏壇と洋裁用動力ミシンが置かれていた。物干し場には二階にあり広くて物干しが3本かけられて赤ちゃんの衣類も十分に干せた。見晴らしもよく裏山の緑多い坂から心地良い風がふいた。趣味人の父はその家に「薫風荘」と名付けて自筆で札をかけていた。夫が卒業した大学の寮の名前である。

 その後、少しずつ庭に石や石灯篭を置き砂利を敷いて作庭を楽しんだ。椿・金木犀・楓・百日紅・木蓮・銀杏・雪柳・連ぎょう・つつじ等を植え、裏庭には柿の木や沈丁花が入っていた。孫の誕生記念にと笑っていた。

 愛犬チコを連れて母と清流旭川辺りを散歩したり、俳句や書に親しみ、烏城彫りの製作も習うなど楽しんでいた。育てた四人の息子達も岡山を離れたけれど、各々家庭を持ち、父母は順に訪ねて一緒にその土地を案内され喜んだ。反対に盆・暮れには子供家庭が帰省するので母は布団干しに追われた。父の喜寿には末弟が編集して句集を発行し、父の希望で好きな緑の表紙には父の字で「薫風」とあった。その家で三十年過ごし、病に倒れ八十二才で他界した。

 「吾子四人まず健やかに育ちいて
      楽しみあれば生きておりたし」
思いのこもる父の辞世の歌である。

 一人になった母も少しずつ弱って一年後には埼玉の私共の家に移ってもらった。年に一・二度は帰るので水道、ガス、電気はそのままにして大きな車に換え、夫は長距離運転手になり、東海道や中央道を往復し旅を楽しんだ。そんな生活が十二年続き、母が老衰で逝去した後も十年岡山に通った。庭の手入れはシルバー事業団に頼み、ライフライン、税、火災保険も継続したままでの今回の被災である。修繕も考えたが、現代の異常気象続きでは再度の被災の可能性が高く、一年後の結論は家屋の取り壊しであった。

 今では四十代以上になった子供達に片付けの相談をすると面白いことにスマホのラインで「岡山の家片付け隊」のグループを作り、新幹線やホテル予約・レンタカー手配等の情報を共有した。小中学生二人の男孫 ー父母の曽孫 ーも加わり、弟二人と計九人で八月初旬二泊三日の片付け旅行となった。たくさんのものが残っている。自分たちの家のスペースを考え一人が宅急便箱一ケずつ持って帰り、残りは庭の木や置物も一緒に工務店におまかせと決め、各々記念となる品を選んだ。写真や書、備前焼や烏城彫り、食器や置物など迷いながら詰め宅急便を出した。蝉の鳴き声が励ましてくれ、家中の戸を開け放つと風がぬけていく。
 
 この世では出会っていないひいおじいちゃんのカウボーイハットや、水牛の角飾り、龍形の文鎮やマイケル・ジャクソンのレコード等を選んだ曽孫たちも真剣だった。後は工務店にー。こうして令和元年の夏「薫風荘」は消えた。でも戦後懸命に生きた世代が遺した「ひこばえ」の曽孫たちの心には「岡山」と聞けば心地よい風が薫ることだろう。

                                     (市民文芸 「さやま」  第24号 2020/3  掲載)


 


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