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プランBがある幸せ

※ 今年の11月にTwitterで呟いた内容を膨らませたものです

選択肢の数と幸福度に関しては、様々な議論がありますが、今日は僕の体験から「少なくともプランBはあったほうが幸せだよな」と思うようになったことを書きます。

《plan B》これまで続けてきた計画が頓挫したときに発動される次善の策。代替プラン。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3B/

中学生のころ、学校に行くのが嫌で、なんだかんだ理由をつけて学校を休み、両親に心配をかけたことがあります。学校に行きたくなかった理由は、書き始めると長い&暗い内容になるので、ここでは省略します。

僕の両親はどちらも教師をしており大変忙しく、平日の僕の話し相手は主に祖母でした。学校を休んだときは特にすることがないので(仮病で休んでいるのでめちゃくちゃ元気)、祖母と色々な話をしました。

(思い起こせば、祖母が経験した戦時中の話を聞いたのはこの時だったような気がします。我々の世代は戦争体験者の話を直接聞ける最後の世代と言われることがありますが、今となって考えれば貴重な話を聞かせてもらっていました)

ちょくちょく学校を休む僕を祖母がどう思っていたのか分かりませんが、彼女は僕に対して「学校に行きなさい」「それじゃあかんやろ」的なことを明示的に言うことはありませんでした。間違いなく心配はかけていたのだと思いますが。

ある日、祖母の部屋で「しるこサンド」をボリボリ食べていると、祖母が言いました。
「学校嫌やったら、私と二人で別のところに引っ越して、アパート借りて住んでもいいんやで、そしたら転校できるやろ」
僕はびっくりしてしばらく祖母を見ていました。あまりにびっくりしたので、その時どんな反応を返したのかよく覚えていません。

実際のところ、祖母と二人で別のところに引っ越してアパート暮らし、というのは、そんなに簡単なことではありません。当時彼女は年金受給者で、かなりの歳でしたし、そんなことを両親が簡単に認めるとは思えませんでした。でも僕は救われました。「最悪、そういう手もあるんだな」と思うようになりました。

中学2年生の間は、確か合計すると1ヶ月分くらい学校を休んだ気がします。でもなんだかんだで学校には行き、授業に出ていない分は自主学習でカバーし、それなりの成績で中学3年生になりました。3年生は実は更に嫌なことがあったのですが、以前のように休むことはなくなり、希望する高校に進むことができました。

ありきたりな言い回しになりますが、人生、楽しいことばかりではなく、辛い時期もあります。その目の前の事象から「絶対に逃げられない」「これに立ち向かう以外選択肢はない」という追い込まれた状況になると、心が折れてしまいます。ひょっとするとあの時僕は、祖母に提示された「プランB」のお陰で「最悪転校するという手もある、もう少し頑張ってみるか」と思えるようになったのかもしれません。

プランBを持てるようになるために必要なのは、視野の広さ、これに尽きます。追い込まれた人の視野は狭くなります。自分でそれに気がつくのは難しいので、周囲の人間からの助言が必要です。
僕自身、思い込みが激しく、視野が狭くなりがちな人間でした。有り難いことに、僕の人生の節目では常に「XXXという考え方もあるぞ」「XXXもアリでは」と言ってくれる家族・友人・同僚がいました。言ってくれるランキング1位は妻ですが、最近は子どもたちにもハッとさせられることが多いです。

今年も終わりが近づいてきました。来年から40代も後半に差し掛かります。これからは、僕も周囲の皆様の視野を広げる手助けをし、祖母にもらった恩を繋いでいきたいと思います。